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第四十二章 〜雷光〜


 イルラカは肢体を失くして芋虫のように地に這いつくばるガガを冷めた目で見下ろしていた。戦場となったこの地に、氷漬けとなったガガの手足がゴミのように転がっている。ガガは恐怖に怯えて顎先を使って逃げようとするのだが、イルラカはそれを許さずに足で背を踏みつける。まるで蝶を標本にするかのように。


「な、何でだああ……。俺は強くなったのにぃい」


 最早呆れる他ない。

 ガガはダラス連邦が敗戦するなりクルード王国へと身を寄せたらしい。持前の鉄魔術を売り込み、兵として雇ってほしいと。強さを求める飽くなきその姿勢と淀んだ野心に目を付けたクルードの宰相はこれを承認し、甘い言葉でガガをとある実験に使ったのだ。その実験とは魔術と人体の融合。担当した研究員はクリムゾンだった。ゼクトを死に至らしめたあの巨大ムカデを作った研究チームである。実験は難なく進み、結果として成功は収めたものの、ガガの人格は見ての通りだ。度重なる薬の投与で思考回路は鈍くなり、まともな会話も出来ない。それでも恐怖というものは感じるらしく、イルラカの狩人の瞳に苦悶の表情を浮かべている。


「お前は強さの意味を履き違えている」


 そこまで言ってから鼻を鳴らし「まあ人それぞれなのだけれど」

 蛇節剣を鞭のようにしならせ、ガガを蹴り上げる。僅かに浮いたガガの身体を、蛇節剣はその名を改めて思い知らせるかのように蛇のように巻き付いた。ひいっと声を上擦らせるガガは液体の鉄になろうとするが、イルラカはそれを氷の魔術で固め、握り締めている柄を軽く引く。


「楽になれ」


 ガガの身体は氷に包まれながら輪切りになり、地に落ちる。イルラカは念の為、切断したその身体を再度氷で固めるとガガの脳天を貫いた。

 以前のガガであればこう簡単にはいかなかっただろう。正直、勝てたかどうか解らない。それほどまでに強かった。しかし今のガガはクルードの研究員のおもちゃであり、捨て駒だ。そんな弱くも愚かしい者に負けるわけがない。ガガの強さには判断力が大きく関わっていたのだ。それがないのなら、恐れる必要もない。


 これ以上、何も思う事はないとイルラカはバイクを起こしてエンジンを掛けたのだが動いてはくれないようだった。イルラカはメカに疎く、どこをどう直せばいいのかも解らない。このままでは赤麗と合流するどころじゃないのだが、どうしようもなかった。


「まいりました……。せめて近くに街があればいいのですが」


 堪らず独白し、ポケットから渋々と地図を出そうとした時、背後から射抜かれるような視線を感じて思わず策も無しに振り返ってしまう。一瞬で視界の全てを把握するように気を配ったのだが、しかしそこにはガガの亡骸しかなく、動いた形跡もない。当然だ。氷漬けにした上輪切りにし、頭を割ったのだ。それで生きていようものならガガは間違いなく化け物と言える。

 イルラカは瞬きもせずに周囲を見渡す。……やはりガガの亡骸しかない。それでも毛穴という毛穴に氷をぶち込まれたかのような寒気が収まる事はなく、吐き気さえも催してくる始末。イルラカは固唾を呑み込むと蛇節剣を構え、ありったけの勇気を振り絞る。


「誰……です?」


 警戒に満ちた弱々しい問いに返ってきたのは、子供のように無邪気な笑い声。戦人でなければその声だけで害のない者であると判断するだろう。しかしイルラカは中でも気配に敏感な方であり、それが仇となっているのか異常なまでの怯えを見せていた。それに応えるかのように、闇の向こうから誰かが歩いてくる。

 その距離が近づく度に、イルラカは無意識のうちに後退りをしていた。


「よくボクの気配に気付いたね」

「だから誰だと訊いているのですっ」


 感じる威圧感は、出会った時の紅葉を遥かに凌ぐほどのものだ。強い口調を心掛けても、それは狼に怯える仔犬が抵抗するような情けないほど脆弱な虚勢にしかなっていなかった。全身で感じるのは、空気が敵意をもって押し潰してくるような感覚。四方八方に散りばめられた殺意。並みの者じゃない。


 気付けば冷や汗が滝のように流れ、息が荒くなっていた。足は震えていて上手に動かせない。それでも闇から流れてくる殺気から目を逸らすわけにもいかず、ただ睨んでいた。しかしその者の眼光が見えた時、イルラカは我を失って逃げ出していた。逃げるな、と自分を駆り立てても本能が命じてくる強迫観念にも似たそれが身体を勝手に動かしてくる。追っているのか追われているのかさえも解らず、本能は必死に手足を動かした。肺が破裂しそうなほど呼吸が乱れても、汗が目に入ろうとも、ただ必死で。


 そうやってゴーストタウンを抜けたところでイルラカは足を止め、肩を大きく上下させる。恐る恐る振り返れば、そこには誰もいない。先程の殺意さえも闇に呑み込まれたのか、微塵にも感じなかった。夜風が寂しく土埃を舞い上げて、その形を僅かに見せているだけで。何もない。……誰もいない。

 イルラカが腹の底から溢れてくる生きた心地を感じると、足に役目を放棄されて、地にへたり込む。呼吸を整えて夜風を感じた。まだ生温いと思っていた風だというのに、今は心地が良い。頬や首筋にへばり付く髪を払い、近くの岩まで四つん這いで向かった。と、その途中、視界の端に何者かの足が見える。


 油断しすぎていたのだろう。

 気配など感じなかった。しかし、改めて気を落ち着かせるとその者が誰か、ハッキリと解る。今の風のように心地良い空気を持つこの人は……間違うわけがない。

 イルラカは視線を上げると、確信して微笑む。


「樹楊さま……」

「どうした、犬っころの真似をして。めっちゃ汗だくだぞ?」

「ふふ……。みっともない姿を見られてしまいましたね」


 首を傾げる樹楊を見てイルラカは力を抜くと地に寝転がる。コンクリートが冷たくて気持ちが良い。傍にある優しい空気が心を落ち着かせる。この人が首領の恋人になれば、どんなに嬉しい事か。そんな事を感じながら目を閉じる。眠るわけじゃないけど、今は安堵を感じさせてほしい。それに気付いてくれたのか、樹楊は傍に腰を下ろすとタオルを掛けてくれた。


「ありがとうございます、樹楊さま」

「ん、まあゆっくり休め。敵が来たら教えるから」

「はい」


 和やかな雰囲気に包まれる二人だが、その端に実はもう一人居た。

 ぽつん、と突っ立っていたミゼリアは自分を指差し、

「私もいるのですが……」


 そんな言葉などイルラカや樹楊には届かず、夜風に流されていった。



 ◆



 小型通信機を使って通話を終えた樹楊は、イルラカとミゼリアが待つ廃墟のビルの中へと戻った。震災にでも見舞われたかのように瓦礫がそこらかしこにあり、埃の匂いが充満している。長年の湿気のお陰でカビ臭さも混じって不快指数は既に最大だ。それでもただ外にぼけっと座っているよりはマシだろうと自分が提案したのだが、やっぱり間違っていたような気もする。

 十階建てのビルの三階、その奥の部屋にミゼリアと、赤麗の長衣を脱いだイルラカが座っていた。明かりと呼べるものは月明かりくらいなもので、少々不気味ではあるが、琥珀の光に照らされるイルラカは幻想的とは言えないが神話に出てきそうなほど見栄えが良い。褐色の肌と長い銀髪がそうさせるのだろうか。


 そんな事を悠長に思っていると、ミゼリアが痺れを切らしたかのように訊いてくる。


「で、どうなんだ今の状況は」

「んと、クルスが今目的地に着いたところみたいですね。どうやらサルギナ軍の劣勢らしいです」


「だ、大丈夫なのか? 万が一負けでもしたら戦局が乱れるぞ」

「万が一、じゃねーっすよミゼリン。想定通りです。サルギナやクルスのような奴は一騎打ちを好みますが、相手はグリムです。性格から考えると勝利を前提とした戦いをするはず。と、なれば兵隊を多く抱えるグリムは総力戦でくるでしょう。これを踏まえた上で七対三ですね。勿論、サルギナ軍が三の方です」


 樹楊の推測にミゼリアは言葉を詰まらせるが、イルラカは首を傾げていた。何を言っているのか理解していないのだろう。このまま蚊帳の外に放っておくのも気が引けた樹楊は簡潔な説明を述べるのだが、イルラカは大して驚きもせずに頷くだけだった。しかしミゼリアは気になっているらしく、腕を組んではそわそわと落ち着かない素振りを見せ始める。


「な、樹楊。私達も応援に行った方がいいのではないのか?」

「何言ってんすか。今から行っても着く頃には終わってますって。それにさっき言ったのはサルギナ軍とグリム軍だけの戦いを想定としたものです。そこにクルスを加えればサルギナ軍の勝率は上がる。クルスは以前サルギナに負けたらしいんすけど、実力は未知数だと俺は読んでます。ま、サルギナが勝てたのは獲物を前にしたクルスがハイになり過ぎた、そんなところでしょう」


 胸を撫で下ろすミゼリアだが、そこに樹楊は付け加える。

「それでも五分五分ですけどね。グリムが一騎打ちに乗ってくれりゃあるいは……。まあ、相手は曲がりなりにも上将軍で猛将と言われた男です。簡単にはいかないでしょうけれど。と、それでイルラカが感じた殺気の事だけど」


 目線を移すとイルラカが水を飲むのを中断し、膝を向けてくる。何もそこまで改めなくても、と思うが、今更言っても聞かないだろう。何せイルラカの中での自分は英雄らしいのだ。そんなに義理堅くて生きづらくないのだろうか。

 イルラカは瞬きをして言葉を待っていた。それに気付いた樹楊は空咳をして適当な瓦礫の上に腰を下ろしてから口を開く。


「イルラカが感じた殺気の持ち主は多分…………オルカだと思う」

「オルカ……。首領を打ちのめした、あの」

「そ、それって樹楊お前の妹ではないのか?」


 秘密事項をあっさりと口から滑らせたミゼリアだが、すぐに気付き口を塞いで首を振る。しかし既にその言葉はイルラカの耳に入っていた。だがイルラカは驚かず「知っていますよ」

 ……情報収集力にも長けているのか、それとも誰かの口から聞いたのかは解らないが、驚くのはミゼリアの方だった。だが知っているのなら話しやすい。イルラカは口が軽いとは思えず、このまま黙っていてくれるだろうと樹楊は判断した。


「すまん、樹楊。つい」

「いいっすけど、これっきりにして下さいね」


「ああ、お前の立場が危うくなるからな」

「違いますって。俺が心配してんのはミゼリンの方です。俺の正体を知っておきながら黙っているのは不味いっしょ。もしそれがバレりゃミゼリンも罰を受ける。俺が嫌なのはそっちの方です」


 やれやれ、と大袈裟に首を振ってやると、呆けていたミゼリアは思い出したかのように袖で目を擦る。そして「馬鹿者っ……」と、何故か嬉しそうだ。意味不明だ、と樹楊は思いながらもイルラカに向き直った。すると、上品に手を添えてくすくすと笑っていたイルラカが優しい瞳を向けてくる。


「変わらないですね、樹楊さまは。あの頃のままです」

「あの頃?」


 反応したのは樹楊ではなくてミゼリア。きょとん、として、しかし前のめりになって積極的に説明を求めてくる。何から話せばいいのやら、と頭を掻く樹楊に代わってイルラカが楽しげに口を開いた。


「もう四年前になりますか。樹楊さまが十三歳の時、私の村に訪れたのですよ」

「ああ、こいつは旅をしていましたからね。それで、何という村なんですか?」

「イリリールです。今は滅びたのですが、それもこれも樹楊さまが村の――」

「だあああああああああああああああっ」


 樹楊は言葉を遮るようにイルラカに抱き着き「それはダメ言っちゃダメ絶対ダメ」と小声で繰り返す。樹楊の胸に顔を埋めているイルラカは身体を縮めると顔を真っ赤にして小さく頷く。握られた拳は胸の前で添えられて少女のようでもあった。

 一方、顎を落としそうになるほど驚いていたミゼリアだが、樹楊はそれどころじゃない。イルラカは、ミゼリアも知っているだろうと思った上で喋ろうとしたのだろうけれど、それは大きな勘違いだ。ミゼリアは自分が万霊殺しの銃を所持し、精霊を殺している事など知らないのだ。そんな桁外れの重罪を犯しているなど思ってもいないだろう。キラキ樹海で、もう隠し事はないと断言したのもあり、今更「せーれー殺しちゃってまーっす、てへっ。この銃でばっきゅんばっきゅんっすよ」なんて言えるわけもない。そんな事を言えば、ミゼリアは首を吊るかもしれない。


「き、樹楊。何をしてっ。おま、時と場所をだな」

「ち、違いますって。あの頃を思い出したら胸が一杯で。それでイルラカが言おうとした事なんですが、イリリールが滅びたのは俺が守護者であるイルラカを村の外に連れ出したからなんですよっ。な? イルラカ」


 早口で捲し立てる樹楊にイルラカはぽーっとしながら頷く。樹楊が離れても尚、視点が定まらない瞳を地に向けていて左手で胸を押さえている。しかし深呼吸をするといつも通りの凛々しい顔立ちとなるが、それでも少しは恥じらっているようだった。ミゼリアは疑いの眼差しを向けてくるが、そこは樹楊。何とか口先だけで誤魔化して話を逸らしていく。


「えーと、ホラ。俺達は思い出話よりも今の状況を確認し合う事が大事でしょう?」

「そ、そうですね。それで私が感じたのはオルカという者の殺気だと、間違いはないのですか?」


「ああ、十中八九な。まず、子供のような声で「ボク」と人称する。それでいて紅葉を超える威圧感の持ち主ったら俺はオルカしかいないと思う。つーか、そんな化け物はオルカだけにしてほしいって気持ちが強い」


 その言葉に嘘はない。

 イルラカは狩人であり気配には敏感だ。そのイルラカが威圧感は紅葉よりも上だと言うのだから、オルカ以外の誰かである事は考えたくもなかった。紅葉以上の化け物が二人といて堪るものか。もし居るとすれば、この戦は負けに等しいだろう。元々、勝率が低い戦ではあるが。


 イルラカは打って変わって悔しそうに歯を食い縛ると膝の上で固い拳を作る。

「私は何で逃げたのだっ。敵前逃亡とは……情けないにもほどがある」


 不甲斐なさを感じているのだろうが、イルラカの取った行動は正しいと樹楊は思っている。勝てない相手と戦って死ぬくらいなら、逃げて倒せる敵を多く倒した方がどう考えても正しいのだ。だから、イルラカの頭に手を添えてやった。


「オルカを倒すのは紅葉の役目だ。俺達がどうこう出来る相手じゃないだろ? だから悔やむな。生きてこその戦だ。無駄な死に方をするような考えを持つんじゃねぇよ」


 な? と笑ってやると、イルラカも目を細めて微笑む。そして頷いてくれた。解ってくれたのならいいのだが、イルラカもミゼリアも逃げる事を恥と考える傾向が強い。まあ、それはこの二人に限った事ではないのだが。どうも自分は他の者達と命の懸け方が違うようなのだ。何も最終防衛線にまで迫ってきた相手に背を向けてもいいとは考えているわけではないのだが、それでも押し返せる範囲であれば命を第一と考えて策を再構成すればいいと考えている。それが正しいとも言えないのだけれども。


「樹楊さま、首領は勝てるのでしょうか?」

「私もそれが気になっていたところだ。何も紅葉さんが弱いと言うわけではないのだが、あの時の紅葉さんの怪我を見たからな。どうしても不安が残る」


 えらく弱気な発言に樹楊は驚いた。そりゃもう、十年分くらいの驚きだ。

「何言ってんの。紅葉が同じ相手に二度も負けるかっての。俺は紅葉とやり合ってないから強くは言えねー立場だけど、それでもアイツが負けるなんて思ってねーぞ? つーかイルラカ。お前は側近だろ? 一番近くで紅葉を見てきたお前が信じなくてどうするよ」


 やや強めに頭を叩くと、イルラカはそれに合わせて「あいた、あいたっ」と声を漏らして両手で頭を庇う。だが言ってやった言葉が通じたようでじわじわと笑みを見せてきた。そしてようやく肩の力を抜くと、深紅の長衣を手にして低頭してきた。


「私は首領を追います」

「ああ。っと、これを持ってけ」


 ポケットからキーを取り出してイルラカに渡してやる。

「ここから北東に向かえば一時間もしない所に森の入口があって、その脇に小さな物置がある。見付け辛いかもしんねーけど、そこに俺のバイクがあるから使え。じゃじゃ馬だけど慣れれば最高のバイクだ」


「ですが、樹楊さまは」

「俺は今回の戦にバイクは必要ないからな。もし必要な時はそこら辺からもらっていくさ。現地調達ってやつだ」


 イルラカは悪びれる様子を見せるのだが、追い払うように手を振ると苦笑を浮かべて再度頭を下げてくる。そして足早に去って行った。友情溢れる何とも素晴らしい光景だったのだが、それに相応しくない湿った目線をミゼリアが送ってきていた。


「なあ、お前のバイクって……」

「うん?」

「じゃじゃ馬どころじゃないだろ、あれは。差し詰め、麻薬中毒になっている闘牛だ」

「うーん、そうっすね」


 一度運転した事があるミゼリアの率直な感想に頷く樹楊だった。後輪が駆動するバイクとは違い、樹楊のバイクは前輪も後輪も駆動するようになっている。その型破りな構造を手掛けたのはミリアであり、何でも前輪と後輪が全く同じ速度で駆動するらしい。万が一前輪が遅れを取っても、自動修正及びパワーバランス修復とやらの機能が備わっていて問題ないとの事。そのお陰でパワーも加速も段違いなのだが、ハンドリングなどの扱いにくさは群を抜いているのだ。いくら軍用とは言え、前輪も駆動するバイクに乗っているのは樹楊だけであり、初めて乗る者は決まって暴走の挙句に転倒するのがオチだ。ミゼリアもその内の一人であり、もう二度と乗らないとの固い決意も聞いている。あの時のミゼリアは涙眼で可愛いものがあったのだが、それを言えば拳骨が飛んでくる事が解りきっているので言わない樹楊だが。


「な、何だ?」

「いや。ミゼリンは可愛いなって思ったところです」

「は? 何を拾い食いしたんだ、お前は」


 こうやって照れさせる事くらいなら怒られない事も解っている。



 ◆



 その頃、本陣のテントの中に居たラクーンは地図を広げて布陣の再確認や今後の策について頭を悩ませていた。


 赤麗は東のゴーストタウンを抜けたところだろう。西に展開しているアギの軍勢からはまだ連絡がない事から、進軍の遅れが予想される。南にはサルギナ軍。こちらは秘密裏に動いている軍隊だ。下手な指示は出せない。


 ラクーンは北へとペン先を走らせる。すると、赤い線がそれを追う。

 これは本隊だ。中央突破を展開しているが、クルード軍の布陣を考えれば、ここは安易に進軍させるべきではないだろう。ラクーンは途中で何度も丸印を重ねて掻くと、溜め息を落とす。


 それにしても白鳳からの連絡が来ない。

 何もメインで戦ってもらうわけではないが、講じたい策があるのだ。それを早く伝えたいというのに、何をやっているのだろうか。


 すっかり冷めてしまったコーヒーを一口飲み、椅子に深く座るラクーン。もう一度溜め息を吐こうとすると、見張りをしていた兵が困り果てた顔で中を覗いてきた。


「ラクーン様」

「何です? 急用以外でしたら後にして頂けますか?」


 ついでに領政官の仕事ならお断りです、誰があんなもんをやりますか。ときっぱり言ってやると兵は目を丸くする。しかし気を取り直すと、


「いえ、この者がラクーン様に急用との事でして」


 その兵が背中を押して中に入れてきた者を見たラクーンは驚きのあまり、テーブルを両手で叩くようにして立ち上がった。見張りの兵は自分に非があると思ったのか、素早く低頭して謝罪の言葉を並べる。しかしラクーンには聞こえておらず、口を魚のように開閉を繰り返すだけだ。


「ラクーンさま……、僕……」

「ネ、ネルト。どうしてここに……。アナタは城に」


 ラクーンはハッとし、見張りの兵を下がらせるとネルトの手を引いて強引に奥へと連れて行く。そして辺りを確認すると潜めた声でネルトを叱り始めた。


「どうして来たんですかっ。あれほど城に居て下さいと言ったでしょう」

「でも、僕だけ戦わないのは……」


 ふわふわで少しばかりくせのある前髪に隠れた瞳を潤ませて落ち込むネルトに、ラクーンは長嘆せざるをえなかった。ネルトはここに来てはいけない人物なのだ。間違っても戦に出すような事は出来ない。


「アナタは『体調不良で待機』なのです」

「そ、そんなっ。僕は元気です。だから」

「いけません」


 ぴしゃり、と威圧するような声で遮るラクーンの顔にはいつもの笑みはなかった。ネルトはそれでも何とか戦に加わろうと言葉を探しているようなのだが、それを見付ける前にラクーンが言う。


「ネルト、スクライド国王は今……何処にいますか?」

「え、と。その……。もう、この世には…………」


「そうです。前国王――国民が認識している現国王はひと月前に亡くなりました。私や王族の方々がそれを隠しているのは、今戦っている皆さんに動揺を与えたくなかったからなのです。それは解りますね?」


 こくん、とぎこちなく頷くネルトにラクーンも頷き返す。


「では、次期国王は誰なのですか?」

「……………………僕、です」


「そうです。アナタが次期国王なのですよ? 私が今までアナタを戦いの場に出していたのは、アナタの意志を尊重しての事です。そして最も護りが固いアギくんの元にアナタを付ける事で、戦死の確立をなるべく下げてきました。『王子である前に一人の国民だ。僕はスクライドを護りたい。僕だって皆と一緒にスクライドを護りたいんだ』……。その気持ちを、私は尊重してきました。亡き国王の理解を得てまで」


 本当はネルトを戦場に出したくはなかった。

 幼い頃から武芸を習ってきたとはいえ、戦場では何があるか解らない。歴戦の猛者でも流れ矢に当たって呆気なく死ぬ事だってあるのだ。そんな所に唯一の王子であるネルトを送り込むのは辛いものがあった。

 しかし、弱虫とまで烙印を押されたネルトは決してめげる事無く、アギに着いていったのだ。出陣の時には胸が苦しくなり、無事に生還してくれた時には身体全体で喜びもしてきた。あの時、アギの隊がクルードの兵に囲まれて絶体絶命の時には立っているのも辛かった。樹楊が独断で救出に向かってくれなければ今頃どうなっていただろうかと考えると身が震える。


「ラクーンさま、今回が最後です。どうか僕も戦場に……」

「今回ばかりは認めるわけにはいきません。相手はクルードなのですよ? 最初から劣勢も劣勢なのです。それにね、ネルト。アナタが立つ場所は戦場ではないのです」


「でも、樹楊さんだって……。樹楊さんだって王子ですよね? なら、僕も」

「樹楊くんはもう王子などではないのです。言いたくはありませんが、彼とネルトでは持つモノが違い過ぎます。それに、もし我々が勝利したとして、そこにアナタが居なかったらどうします? スクライド王国は直系にしか王権は継承されないのです。アナタがいなければ、誰が王となり、皆を導くのですか。もしアナタに責任という気持ちがあるのでしたら、ここに居てはいけない」


 そこまで言ってやると、ネルトは俯きながらも頷いてくれた。

 気持ちは十二分に解っているつもりだ。


 一般人と隔たりなく付き合っている兵らしからぬ兵である樹楊を見て『樹楊さんは僕の理想の形を既に持っているんだね』と、羨ましそうに呟いていた事も忘れてはいない。ネルトが目指すのは、民主主義の王国であり、国民と近い関係でいたいと常に言っていた。だからこそ、今奮闘している仲間達と一緒にスクライドの未来を懸けて剣を振るいたいのだろう。命を共にする事で見えたモノがあるのかもしれない。それでも、亡き国王からネルトの事を任されたラクーンは首を縦には振れないのだ。


 しょんぼりするネルトを座らせてコーヒーを淹れてやり、対面に腰を下ろすと通信機が静かな音で呼び出しを告げてきた。まったく反応がないネルトを横目に通信を開始すると、潜めた声が届いてくる。


「あー、クルスだけど」

「はい、何かありましたか?」


「……グリム上将軍、奇襲を察知しこれを撃退。だけど戦死したじゃんね。最後の姿は勇猛で立派だった。記録には、そう残してくれ」


 恐らく樹楊の指示だろう。

 何処まで人の事を考えているのやら。裏切った者の家族にまで気を配り、遺恨すら残させないやり口。それを間違っても褒める事は出来ないのだが、それでも人として尊敬に値する。それとも戦人とはそういうものなのだろうか。樹楊だからこそ……地獄を見てきた樹楊だからこそそこまで考える事が出来るのだろうか。称賛は出来ないけれど、


「ありがとうございます」

「……それはキョークンに直接言ってくれ。それと、俺達はこのままウォーリスに立ち寄って休息を取る。サルギナの事が心配じゃんね」


 少し前までは命を狙っていたというのに。これも樹楊のお蔭なのだろう。彼の人徳が成せる業だ。そうでなければあのクルスが優しい言葉を口にするわけがない。

 ラクーンは二つ返事で了承すると、通信を終了させる。気付けば、ネルトが心配そうに見てきていた。


「グリム上将軍が戦死しました」

「そう……ですか。それで、あのっ。カラットちゃんは……」

「平気ですよ。グリム上将軍は名誉の死を遂げた、との事ですから」


 ネルトは樹楊の計らいだと気付くと目を潤ませながら胸を撫で下ろしていた。優しさが全て良い方向に転がるわけではない。それでも樹楊は優しさを見せるのだろう。


 あの、やる気のない声、言葉で。



 ◆



 クルスからサルギナ軍の勝利を知らされた樹楊は次なる作戦を行使すべく、とある場所へと向かっていた。大木の枝から枝へ、獣のように駆けて行くその後ろにはミゼリアが送れずに着いている。以前は頼りなかった足運びも、今はすっかり板に付いたものだ。きっと一人で練習でもしたのだろう。スピードもそこそこ出ている。


 樹楊とミゼリア、二人は目元を髑髏をイメージした細工を施した白い仮面を付けていた。これは暗視する為に必要な装備でもあるのだが、デザインは思いっきり樹楊の趣味であり、ミゼリアとしては不服のようだ。こんな死神のようなものではなく、神話に出てくるような戦士を彷彿させるデザインが良かった、などとぼやいていたのは最初だけで、今は何も言わずに装着してくれている。


「樹楊、次のポイントはどこだ?」

「うーん、ハッキリとした場所までは解りませんが、敵の兵糧である事は間違いないかと思います。俺達はそこに着いたら近くの仲間に連絡・合流したら一気に制圧するって段取りです」


 大戦においての兵糧は、士気に大きな影響をもたらすポイントであり、そこを奪えればこちらに有利となる。今回の大戦は特殊条件として、スクライド領内の街や村は中立地点で食料などを得る事は出来るのだが、兵糧は欠かせないものだ。一箇所無くなるだけで士気は大きく下がるだろう。そう思っているものの、なかなか兵糧拠点らしき場所が見当たらない。まさか見落としがあったのかとも思ったが、今ここで引き返すのも気が引ける。しかし突き進むのは依然として深い深い森の中。


「なぁこの先は崖じゃなかったか?」


 ミゼリアの何気ない言葉は樹楊の足を止めるのには抜群の効果だった。急停止した樹楊に驚き、つんのめったミゼリアは木の上から落ちそうになるが、何とか堪えて踏み止まる。危ないじゃないかっ、と怒られるも、樹楊は注意深く辺りを見回すだけで耳を貸そうともしない。


「ミゼリン、それは本当っすか?」

「ああ、以前任務で来た事があるからな。お前が旅から帰ってくる少し前だ。崖、と言っても落ちはせん。そびえ立つ岩壁で、上から見れば崖という場所だ」


「そこ、広いんすか?」

「いや、広くはなかったはずだ。こちらから向かえば完璧に行き止まりで、左右のどちらかに進路を変えるしかない。それよりも、どうしたのだ? そんなに怖い顔をして」


 先導されるがままに着いてきたミゼリアが何も気にしていないのは仕方がなかった。しかし向かう先を決めていた樹楊としては、腑に落ちない事がある。

 そもそも兵糧拠点を岩壁を背にして構えるのはあり得ない。こちらから向かうという事は、スクライド軍がクルード軍へと進軍する方角なのだ。なのに岩壁を背にするという事は、退路の一つを潰すという事になる。クルード軍の考えは解らないが、スクライド軍の兵法では兵糧拠点が移動する事は少ない。敵が攻め込んできた場合のみ、必要最低限の兵糧を抱えて逃げる程度なのだ。そしてその進行速度は遅い。なのに退路の一つを潰すという戦法を選ぶとすれば、余程の馬鹿か攻め込まれないという自信があるという事になる。


 が、ここに来るまでの間に敵兵など見当たらなかった。充分に注意して来たとは言え、一人として見ないのはおかし過ぎる。

 ここに来て、樹楊は自信を持っていた土地勘に誤りがあった事に気付く。


「ミゼリン、近くにいる仲間に連絡を取ってもらえます? 傍受されても構いません。通信出来たら場所を聞いて下さい」


「ああ、解った」ミゼリアは取り敢えず頷くとポーチから通信機を取り出して操作し始めるが、すぐに眉根を寄せ「ここじゃ電波が届かないみたいだ」


 すぐに戻る。ミゼリアはそう言って来た道を引き返す。

 樹楊は下に降りて小範囲の散策を開始し、携帯していた地図を広げるが、持っている地図は一般人が持つような旅行用の地図であり、端には可愛いぞってアピールしている訳の解らないキャラクターが描かれていた。

 こんなんじゃ役に立たない。方角と大体の全体図を見れれば何でもいいや、と思っていたのが間違いだった。地図をしまい、嘆息して木にもたれ掛かる。鬱蒼としたこの森の中には生き物がいないのか、やけに静かだ。それとも居るのだけれど身を潜めているだけなのか。どちらにせよ、静けさだけが耳に衝き、心地がいいものではなかった。


 ぼんやりとミゼリアを待つが、なかなか帰ってこない。通信だけだというのに、気配すら消えている。


「まさか、ミゼリン……」


 嫌な予感が胸をざわつかせ、居ても立ってもいられなくなった樹楊は素早く木を駆け登ると闇に沈んだ先を見据える。闇に阻まれた景色はまるで壁のよう。来る者を拒む、漆黒の壁。樹楊は悪寒を堪えて仮面を手に取った。


「まさか、スイの罠? いや、でも……」


 罠だろうが何だろうが、今はミゼリアを迎えに行く事が先決だ。

 手に取った仮面を被ろうとした樹楊。


 背後。

 闇を挟まずに、それは聞こえた。


「罠じゃねぇよ」


 何も感じなかった。

 誰もいないと思っていた。


 不意に耳元で囁かれた声は樹楊の寒気を身体の奥底から無理矢理引き摺り出し、今も引っ張り続けている。

 それよりも、だ。こいつが何故ここに居る? 何故こちらの居場所が解った?


 振り向く事すら出来ずにいた樹楊は「スイ……。何でお前が」

「さて、何でだろうな。それよりも最高のプレゼントをありがとうよ。お礼にデートしてやっから喜べよな」


 スイは息を切らしていない。と、いう事は怪我をしていないのだろう。大群の魔前熊を使ったというのにも関わらず、スイは生きているどころか怪我一つしていないようだった。そしてもう一つ。スイは待ち伏せていたに違いないだろう。


「気配を殺すの、上手くなったんじゃねぇのか?」

「そうだな。お前のお陰で一つ勉強になったよ」


 何て事だ。スイは戦いながら成長するタイプらしい。

 勝ち誇ったようなスイに樹楊は乾いた笑い声を呆れた調子で漏らす。


 この大戦が始まってからファーストコンタクトで気付けなかったのは、自分の注意が敵の総大将一点に向いていたから仕方がないにしろ、先程までは自分のテリトリー内には満遍なく気を配っていた。その範囲は狭くないと自負している。なのにスイの気配を捉える事が出来なかったのだ。


 背後を取られ、恐らくナイフを背に当てられている。抵抗するのなら痛い目をみる、という無言かつ高圧的な威嚇。しかし樹楊という男は諦めの悪い男であり、最後の最後まで逃げ道を探す強かな面を持っている。スイが手を伸ばしてきても、諦めはしない。樹楊は全神経を背後に集中させてその時を待つ。スイが気を緩める一瞬を。


 鼓動は落ち着いている。身体も強張っていない。

 森の呼吸が聞こえる。風の途切れが背後に見える。

 伸びてくる手を、スイの手を――感じる。


 スイの手が樹楊の肩に触れる、その刹那。

 とくん、樹楊の鼓動が鳴る。


「――――っく!」


 樹楊は掴まれる肩を僅かに下げる事でスイの注意をそこ一点に絞らせ、次の瞬間には木の上から滑り落ちるように下降していた。そしてスイの足元を目掛けてナイフを投げ、下降の途中、地に降りる前に幹を蹴って隣の木に跳び移る。ここまでやればスイから逃げる事も可能に――。


「おいおい。私を置いてくのか?」


 逃げきれ、ない?

 スイは樹楊の行動を先読みしていた。


 隣の木に跳び移る樹楊の前にスイは姿を現して冷笑を浮かべている。そして樹楊を正面から抱き着くように捕まえると一緒に地に落ちるが、そのまま身体を捻る。掴まれてから一瞬で視界が反転した樹楊は地に押し倒されていて、夜空を見上げる格好になっていた。そしてスイは樹楊の胸に跨るように座り、両膝で腕を抑えつけてきている。


「スイは大胆だな。女の子が男の胸に座るモンじゃねーぜ?」

「私はサドっ気があるんだ。気にするな」

「ならスカートくらい履いてくれよ。んで、スカートの端を押さえながら顔を真っ赤にして照れた感じで頼む」


 可笑しそうに喉を鳴らしたスイは樹楊の首筋にナイフの刃を押し当てる。首の皮が儚い抵抗の末に一枚切れると、そこから真っ赤な血が滲み出てきてナイフの刃を伝った。


「ホント、お前は掴み所がない奴だよ。ふざけているのかと思えば巧妙なトラップを仕掛けたり、初っ端から大将の首を狙ってきたり。こっちもマジになればお前は人を食うような態度だ。解んねぇ奴だ」


 そう言いながら腰に巻いていた小型の圧縮ポーチを漁り、一つのマスクを取り出してきた。艶のない薄汚れたマスクは顔の全面を覆う型であり、口元が楕円形状に膨らんでいる。樹楊はそれを一目で防毒マスクだと理解するが、今この状況で取り出す意味が解らない。スイはその思いを呼んでか、マスクを樹楊の顔に押し付けてくると顎先にあったツメを折る。


「こいつはな、お前が思っている通り防毒マスクだが解毒剤なんか入ってねぇんだ。代わりに痺れ薬が入ってるけどな。今酸素と混じり合って気体化してるところだ」


 その言葉が本当なら息を吸えば不味い。スイはこんな時に冗談を言うタイプではないだろうから、本当なのだろう。暴れようとも思ったが、首筋にはナイフが当てられている。手も足も出せない樹楊は、結局のところ息を止める事でしか抵抗する意志を見せる事が出来なかった。それも何時まで続くか解らない。だが一度でも吸えば気体となった痺れ薬が身体を侵して自由を奪うだろう。


 逃げ道はないか。何でもいい、どんなに小さな可能性でもあればそれで構わない。

 懸命に頭を働かせていると、スイが意地が悪そうな笑みを張り付けた。


「私は人の手伝いをするのが負ける事よりも嫌いなんだけどな、今の可愛いお前を見てるとこんな私でも気が変わるってもんだ。だからよォ――手伝ってやるよ」


 スイはナイフをしまうと今度は片手で首を絞めてくる。細くて綺麗な指が首をへし折るかのようにめり込み、親指が気管を潰してきていた。息を止めるのと止められるのでは苦しさが違う。樹楊は目を見開くと閉じていた口を開けて涎を垂らし始める。漏れてくる息などない。言葉さえも出せず、顔が熱くなり始め、情けなくも涙が出てくる。


「苦しいだろ? その内毛穴という毛穴が開く感覚が襲ってくる。そしてホラ……そこから冷たい汗が噴き出してくるだろ? 意識が混沌として『殺してくれ、首を折ってくれ』…………そうは思わないか?」


 ――その通りだった。スイの言葉は何一つ間違っちゃいない。

 苦しい。それさえも解らなくなってきている。ただ、楽になりたい。今見ている感じている世界があるべき姿であれば、真っ直ぐにも歩けないほどねじ曲がっている。高熱に溶けた飴のようにぐんにゃりとしている、そんな世界。

 既に限界を感じていた樹楊は虚ろな眼をスイに向けると、痙攣もせずに突然白目を向いた。力は抜け切り、関節を失くしたように沈黙する。


「え?」間抜けな声音を漏らしたスイは「いきなり落ちる奴がいるかよ!」


 何の前触れもなく意識を失った樹楊を見たスイは流石に慌てて手を放した、その時だった。


 樹楊の目が覚醒したように力強く開き、次の瞬間にはスイの延髄に爪先が深くめり込む。一瞬だけ意識を飛ばされたスイが身体を横に傾けると樹楊はその隙を見逃さず、ブリッジでスイを跳ね退けるとほぼ同時にマスクを剥がし、前方へと逃げるように転げる。


「ごほっ! ごっ、げぇ……かっ、く…………げほっ!」


 締められていた喉に手を当てて舌を前に突き出し、失われた酸素を倍以上取り戻すかのように呼吸するが、上手く入っていかない。吸い込んだ酸素は瞬時に咽として吐き出されるが、それでも樹楊は大きく呼吸を続ける。

 樹楊の演技に騙されたスイは蹴られた延髄を抑えると頭を細かく振って、それから酷く咽ている樹楊を睨む。


「お前はどこまで――、っつつ。ふざけた真似をする奴だ」

「はーっ、はーっはーっ…………ふうっ。…………ど、うだ? なか、なかのモンだった、ろ? これでも演技派なんだよ、俺は」


 青ざめた顔で冷や汗と涎を拭いながら上等な事を得意気に言う樹楊。スイも相手が樹楊以外の誰かであったのなら慌てる事はなかっただろう。スイは樹楊を軽視しているわけではないが、それでも特別に強いと評価していないのだ。力の加減を間違えただけで死んでしまうような奴、そう認識している。この土壇場で知れ渡っている自分の弱さが役に立った樹楊は立とうとしたのだが、足が思うように動かせずに前のめりに倒れてしまった。


「あ、ありゃ?」

「っはは。どうやらちっとは吸ったみてぇだな。下半身が動かねぇんだろ? その痺れ薬は持続時間が長い。これで決まりだな」


「ふん、両手が使える。担いでみろ。その乳揉みまくるぞ」

「そうか。ならその手を切り落とすまでだ。生きてりゃなんでもいいらしいからな」


 ……何てこったい。

「よし、前言撤回だ。服の上からにするから手は切り落さないでくれ」

「直で揉むつもりだったのかよ」


 当然っ、と誇らしげに親指を立てる樹楊にスイは長嘆して頭を押さえた。ウインクをして可愛らしさをアピールするのも忘れてはいない。這いつくばって惨めな姿のクセに、情けなさなど感じてはいない樹楊だった。しかしスイは鉄扇を広げると月の明かりに縁を光らせる。刃となっている縁がよく研がれていて切れ味が良さそうだ。


「ちょ、約束破んのかよ」

「何も約束してねぇだろうが。オラ、さっさと手を出せ。止血剤は持ってるから安心しろ」


 どうやら本気らしい。口元は緩んでいるが、笑っていない目から固い決意が伝わってきている。スイは樹楊の襟首を捕まえると猫を持つように上げた。樹楊は激しく首を振って拒絶するが、時間が経つにつれて目付きが鋭くなっていく。そして素直に応じなければ足から先に切り落とすと強迫してきた。


 冗談じゃない。そんな事されて両腕も失ったら芋虫みたいに生きていかなければならない。それならば素直に腕を差し出した方がいいのか、と冷や汗を流していると、草木を掻き分ける音と共にミゼリアが姿を現す。その姿が救世主に見えてならない樹楊は、ご主人さまを見付けた仔犬のように目を輝かせる。


「私の部下を離してもらおうか」

「お前は確かミゼリアとかいったな」

「ほう、覚えていてもらえたとは。礼を言わねばならんか?」


 臨戦態勢に入ったスイに手放されて地に落ちた樹楊はゴキブリのようにミゼリアの元へと急いだ。ミゼリアは樹楊の頭を撫でてやると、戦士の目付きでスイを睨み上げた。そして立ち上がると凛とした姿勢で剣を抜く。


「樹楊、離れていろ」

「解りました。でも気を付けて下さい。スイは滅茶苦茶強いっすから」

「心配か?」


 自信が溢れている顔で訊かれた樹楊が躊躇いがちに頷くと、ミゼリアは優しく微笑む。以前スイに敗北したからといって固くはなっていないようだ。それでも不安は拭えない。スイは強くなった。そしてその成長は今も続いている。樹楊がそんな思いを残しながら言われた通りこの場を離れていくと、不意にミゼリアが止めてくる。


「心配なら、もう一度言ってはくれないか?」

「何をっすか?」


 ミゼリアは顔だけ向けてくると、目を柔らかく細める。

「私は――弱いか?」


 その言葉は樹楊の記憶を遡らせる。積み重なった思い出の静止画が暴風に吹き飛ばされる絵のように散らばっていくが、あの時の思い出だけが力強く瞳に張り付いていた。それは、ミゼリアがスイに惨敗した後の酒場。

 ミゼリアは泣いていた。絶望を感じていた。

 中毒とまで言われたくらい訓練に没頭していたというのにも関わらず、手も足も出なかったミゼリアは積み重ねてきた自信を全て砕かれ、涙へと変えていた。


 そんなミゼリアに自分が言った言葉は。

「いえ、ミゼリンは誰よりも強くなれます。誰よりも強いっす」

「ふふっ。私にその言葉があれば、その言葉さえあれば誰にも負けない」


 対峙しているスイは既に二つの鉄扇を広げていた。前はミゼリアを見下していたのに、今はどうだ。まるで獅子のように、全力を尽くす姿勢が嫌でも解る。


「スイとやら、もう私を見下さないのか?」

「ああ。私は人を見下せるだけの力はなかった」


 挑発する余裕を見せるミゼリアも油断をしてはいないのだろうが、それはスイも同じのようだ。空気を張り詰めらせ、それでも落ち着いている。


「私は自分が思っているよりも遥かに弱かった。ゼクトといいところまでやり合えた時は、負けそうだったが嬉しくもあった。ようやくここまで来れたんだってな。けどな、私よりも強いサイが紅葉の相手にもならなかった。そして私は蓮とかいうガキにあっさり負けちまった。赤ん坊だったよ、私は」


 スイは思い出と共に吐き出す言葉に悔しそうに歯を食い縛る。


「私は大海を知らねぇ小魚だ。大空を見上げるだけの蜘蛛だった。弱い奴を嘲笑うだけの、下らねぇ生き物。だから私は訓練に打ち込んだんだ。負ける要素が少しでもあるならそれを徹底的に排除する。だから私は誰かを見下す事を止めたんだよ」


 自分を痛めつける、そんなところまでミゼリアによく似ているスイ。

 荒っぽいか礼儀正しいか、それだけの違いだ。


 苦しくて辛くて、自分自身に苛立ったのだろう。弱さは罪だと、そう思っているのかもしれない。以前のように人を見下すスイであれば隙がある。しかし、今はそれがない。鉄よりも硬い意思がそこにはあった。それをミゼリアも感じ取ったのだろう。剣先を相手に向けるような構えを取ると、軽く腰を落とした。スイも鉄扇を持つ手を僅かに広げている。お互い無言だが既に戦いの火蓋は切って落とされていた。


 静寂が忍び足で近寄ってくるが、それには及ばず、鈍い金属音が森の中に響き渡る。



 ◆


 

 一瞬ですら気を緩める事が出来ない上に、攻撃に転ずる機会が減ってきた。鉄扇とは双剣とはまた違うトリッキーな動きでやり辛いものがあってミゼリアは苦戦していた。しかし息が上がらないのは体力強化をしていたお陰だろう。緊張感はあるが、呼吸はまだ正常だ。そして紅葉と一度手を合わせたのが今になって活きている。スイの右からの攻撃を剣に見立てて左の攻撃を体術と思えば、避けれなくもない。


 ミゼリアはある程度の予測を立てて、受けた攻撃を捌いた。するとスイはバランスを崩し、攻撃の機会を得られるが相手もそう簡単には攻撃を受けてはくれないらしい。振り下ろした剣の腹を蹴飛ばし、距離を取ってくる。


「流石だな。殲鬼隊とは名ばかりではないようだ」

「お前こそ、随分と攻撃がサマになってきたじゃねぇか」


 スイの蹴りやら鉄扇での殴打を喰らっているが、こちらはまだ一度も攻撃を与えていない。予想以上に動きが素早くて対処に追われるのが関の山だ。これでは魔法を使う事は厳しいだろう。あれは集中力を必要とし、尚且つ未完成なのだ。今ここで使うのは愚の骨頂だろう。それでもアレにしか勝機を見出せない。どうにかして使えないものか。


 摺り足で円を描くように移動していると、スイもそれに倣う。しかし、スイはピタリと足を止めると背筋を伸ばした。腰が浮いていては反応に遅れる。何を考えているのか解らないが、今が攻め時か? しかし、何故か足が前に出ない。ここは待つべきだと、経験を得ている本能が告げているようだった。


「私はそこの這いつくばっている男を連れて行かなきゃなんねーんだ。もっとお前とやり合っていてぇが、そうもいかない。悪いが、もう終わらせる」


 自信があるんだな、そう言ってやろうとした時、何かが弾ける音が微かに聞こえてきて開きかけた口を閉じた。音の出処は遠くからではない。やがてそれの音が重なり始め、スイの手元で青白い光が弾けているのが見えた。目を擦ろうとしたが、止めておく。あれは幻ではない。

 スイは静かに、そして深く息を吸うと目を伏せる。それから開かれた目は据わっていて、身体中が悪寒で満たされた。

 

「雷扇」


 ぽつり、と呟かれると、スイの鉄扇が稲妻のような光に包まれた。そしてそれは蛇のように絡んでは消え、また現れる。刺々しく禍々しい音を立て、葉が触れようものなら一瞬で焼かれていた。


「武器に……魔法? 嘘だろ」


 樹楊の驚きの音を上げる。

 それも無理はない。


 魔法を得意とする者が魔術師であり、加えて武芸にも秀でている者が魔剣士という。しかし、その者達でさえも武器に魔法を纏わせる事は出来ないのだ。理論上でも不可とされ、今ではその試みをする者さえもいない。過去にミゼリアのそれを見た紅葉が、天才だと思った事がある。まだ未完成でもだ。しかしスイはそれを完成させていた。彼女もまた、天から才能を奪い取った者なのだ。極限まで自分を痛めつけ、惨めさに怒りを感じ、それでも限界に抵抗し続けたスイ。


「私はこの加減を知らねぇ。死にたくねぇなら上手く避けきれよ?」


 二つの鉄扇に纏う稲妻は弾ける度に眩い輝きを放つ。それに触れたら無事ではいられない。持っている武器は鉄製であり、電気が通り易い。つまり、ガードという選択肢はもうないのだ。劣勢どころか悪戦だ、これは。それでもミゼリアは強く抱き締めた思いを手放そうとはしなかった。


 剣を構える。

 まだ負けたわけではない。大丈夫だ、負けはしない。

 部下が、強いと言ってくれた。誰よりも強いと。

 

 その言葉を聞かせてくれるのなら、誰よりも強くなろう。信じてくれているから、強くなれる。それを妨げる者がいるのであれば、例え戦の神でさえも斬り払おう。






 次章 〜暖かな樹に包まれて〜


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