第四十一章 〜平和と鳩と夜明け〜
時計を確認した樹楊は合流時間に遅れている事を充分に把握しながらも、周囲を見回して敵の状況を探りつつ森を抜け出る。事前に流したガセ情報のお陰で近辺にはそれらしき気配はない。しかし警戒を怠る気はない。気配を断てるのは自分だけじゃないから。
合流地点はクルードの布陣に入り込んだ場所にある、今では誰もいなくなった村、廃村である。電気というライフラインを得る前に廃れたこの村は粗末な木造建築が多く見られ、こんなんでよく四期の寒さを凌いだものだと樹楊は感心する。当時は店でもあったのだろうが、今はそんな名残りなどない。唯一酒場と解る建物が一画の隅にあり、そこが砕羽の合流地点だ。
樹楊はその戸口に立つ前に周囲を必要以上に見回して、ようやく中に入る。その途端、複数の剣を抜く音がし、次の瞬間には首筋に冷たいモノが当たっていた。
「俺だっての、剣をしまえ」
「お? 何だよ、キョークンか。少しくらいは気配を出してほしいじゃんね。危なく剣を抜くところだった」
そう言って剣を収めるクルス。
言葉、間違ってないか?
しかしクルスは素で首を傾げ、抜剣していた仲間達も謝罪の言葉を並べながら剣を収める。すると奥にいたミゼリアが弾力性のある樹脂製の筒を折り、淡いオレンジの光を点した。ペンよりも一回り太いそれは、軍で流用される代物ではなく、旅人が夜道を照らす時に使う発光灯と呼ばれる物だ。しかしライトが当たり前のように使われる今では使用する者などいない。持続性がなく、頼り無い灯りだから淘汰された品物だ。だが、こういう場所、こういう状況下では役に立つ。控えめの明かりだからこそ勘付かれにくいし、何より持ち運びに便利だからだ。ミゼリアもその発光灯の利用価値に頷き、笑みを溢した。
「樹楊、遅かったな」
「心配でしたか?」
「いや」
ミゼリアはあっさりと否定し「お前が時間に遅れる事など、何時もの事だからな」
確かにそう言われれば否定は出来ない。いかにも皮肉を言ったとばかりのミゼリアだが、優しく細められた瞳には安堵がハッキリと浮かび上がっていた。
樹楊は皆を部屋の奥に招くと、適当に座る。それに倣い、全員輪を作るように腰を落とした。真ん中には発光灯を置き、それぞれの顔を微かに闇に浮かび上がらせている。その様子を何も知らぬ者が目にすれば、今から怪談話をするのかと思うだろう。時期的にも精神的に冷える話が盛り上がる頃合いでもある。
「先ず報告だ。結果から言うと、総大将は討てなかった。あと少し、いや、言い訳は止めとく。まあ、その代わりと言っちゃなんだが、敵の兵糧拠点が解ったし恐らくスイをやれた。ついでに小隊四つかな」
「お前、こんな短時間で小隊四つと……それにスイも。あいつは殲鬼隊だろう?」
驚くのはミゼリアだけではない。クルス以外の他の仲間達も驚愕と感心を顔に浮かべている。しかし樹楊としては総大将を仕留められなかった事が悔しかった。あそこで仕留める事が出来れば被害を出さずに済むからだ。
「トラップと、魔前熊を使いましたからね。あれにはスイも敵わないでしょう。それはそうと、今後の計画を」
樹楊は隊を二つに分ける事にした。
目的の兵糧拠点にはミゼリアと樹楊。勿論、二人で落とせるほど簡単ではない。今回は監視と周囲のチェックをし、後日、スクライド本隊と合流して制圧する予定を立てている。
そしてもう一つの隊には、クルスを筆頭としてサルギナの援護に向かわせる決意をしたのだ。サルギナは自分の隊だけで片付けると言っていたが、もし自分の憶測通りであれば兵力に差があり過ぎる。万が一を想定しておく必要があるのだ。それをクルスに担ってもらう事にした。
「サルギナの援護って、アイツ何かすんのか? すぐに死ぬ奴じゃないじゃんね」
「まあ、そうだけどよ。サルギナは裏切り者を裁くつもりでいる」
裏切り者というフレーズに皆は顔を強張らせて身を乗り出す。樹楊は指を二本立て、
「俺とサルギナの憶測では、裏切り者の候補が二人上がっている。だけど、だれが裏切り者かをアイツは確信していた」そう言うと指を一本折る。
「あと一人候補がいる、と言ったけどサルギナの思う通りで間違いないだろ。俺だってそう思ってる」
「裏切り者。その者の名を言えるか? 候補もだ」
樹楊はミゼリアの言葉に頷く。
「一人は、アギ」
「アギ……樹楊、何でそうなるっ。あいつはお前や私の幼き頃からの友だろう!」
よほど意外で不満だったのか、ミゼリアは声を荒げるが、唇に指を一本添える樹楊の姿に頭を下げて、それでも眉根を寄せている。説明を早く、と言いたいのだろう。
「あくまで候補、疑いの余地があるって事です。それにミゼリン、裏切りに友のへったくれもないんです。あるのは本人の意思だけ。そこを理解してもらえりゃ、幸いっすね。だけどアギは白、裏切り者ではない。アイツは裏切れるだけの環境にいないっすから。ただ今までの不可解な事象から候補に上がっただけっす」
ミゼリアは胸を撫で下ろし、少しだけ目を潤ませていた。悔しさと安心が入り混じっている瞳は男であれば護りたくなるほど弱々しい。それを行動に表す者などここにはいないが。
「けど、キョークン。アギって奴の『裏切れるだけの環境にいない』って何だ?」
「ああ、それは単純だ。アイツはな、護る者や背負うモノが少ないんだ。簡単に言えば足が軽いってやつだ」
「でもそれじゃ逆に裏切り易いのでは?」
思わず口を挟んでくる仲間に樹楊は。
「それは普通の奴らならそうするだろうけど、知っての通りアギは馬鹿が付くほど軍人気質で愛国心溢れる馬鹿だ。今度会ったら馬鹿と呼んでやってもいいぞ」
仲間は必死に首を振るが、その隣のミゼリアは納得したように深く頷いていた。樹楊としてはミゼリアもアギもどっこいどっこいの馬鹿なのだが、それは言わないでおく。きっと本人は自覚していないだろうし。
「足は軽いが愛国心と義だけは人の何倍も持ってるからな、アイツは。そこでもう一人の事だ。そいつは愛国心をアギ以上に持っていて、護る者も多い。しかも立場も上だ。クルードが出す条件によっては、裏切る可能性が高い」
「で、それは誰だ?」
「ミゼリン、まだ解らないっすか? 以前、国境警備兵が不可解な死を遂げた時、クルードが押し寄せてきたでしょう? その時、誰が一番に迎え討ちました? ウォーリスの反乱を誰が収めに行きました? そして、重要な補給地点となるウォーリスの住人全員に死罪を唱えたのは誰ですか? その傍らにはアギが何時もいました。だから俺はアギを候補に上げたんです」
「ま、まさか、そんなっ。いや、信じられん。樹楊、あの方はスクライドを支えてきた方だぞっ。強引なところはあるが、スクライドを愛してる方だっ」
余程受け入れる事が出来ないのだろう。
でもミゼリアの反応は仕方がないと言えよう。クルス以外の全員も気付いたようで顔を青ざめさせている。ミゼリアは虚ろな瞳で発光灯を見ている。首を細かく振り、樹楊の言葉を否定していた。だが樹楊は確信している。あいつが、裏切り者だと。あいつにはきっと護る者が多過ぎた。だからなのだろう。
◆
戦では重要な補給地点となるウォーリスという街。
その近郊、北側に陣を構えていたサルギナは五本目の煙草を吸いながらその時を待っていた。エンジンを切った軍用バイクに跨りながら、かれこれ一時間は経つ。普段のサルギナの様子とは違う事を部下達は悟っていて、一言も喋ろうとはせずに各々で時間を潰していた。サルギナの眼から溢れ出る殺気は刺々しいものではなく、酷く落ち着いた柔らかいものだった。例えるならナイフのようなものではなく、安楽死を与える薬のよう。慈悲とも言える冷酷な殺意だ。
サルギナが煙草を消して続けざまに六本目に火を点すと、北側から砂塵を巻き上げてやってくる軍隊がいた。群青色に旗には真っ白な鳥が描かれていて、翼を大きく広げている。百人で編成されたその大部隊に対し、サルギナの隊は三十人ほどで圧倒的な戦力差がある。だがサルギナの部下は誰一人として怯えた様子を見せない。今の今までどんな悪状況でも負けを認めた事がない者達なのだ。例え仲間が隣で命を落とそうが、気高く勇んできた。戦力差など、彼らにとってはどうでもいい事。やるかやられるか、それだけでいい。
向かってきた大部隊は先頭に立つサルギナの前で止まると、その姿をバイクのライトで照らす。サルギナは落ち着き払った様子で煙草の煙を吐いた。
「どうしたサルギナ。お前の配置はここではないだろう。早く持ち場に戻れ」
「それはこっちのセリフだよ。グリム上将軍?」
やってきたのはグリム上将軍だった。
サルギナに反論されたグリムはまなじりを尖らせると舌打ちをして部下へ指示を出そうとバイクの上で身を捻った。そして撤退命令を出すのだが、サルギナはそれを止める。
「アンタ、何でここに来たんだ? この先はウォーリスしかねぇぜ?」
「フン、貴様に教える義理などない」
「だろうな。お前は裏切り者だからなァ」
驚きに目を開くグリムだったが、鼻を鳴らすといつも通りの太々しい顔付きに戻して腕を組む。目は笑っておらず、知らぬ存ぜぬを声にした。どうもシラを切り通すつもりらしい。
「嘘はいけねぇな。とっくに調べはついてんだよ。クルードに潜り込ませた間諜からの報告もある。ウォーリスの反乱を陰で煽ったのはアンタだろ。あそこはクルードにとっても厄介な拠点だ。潰しておけば戦も楽になる。それと、随分前にクルードが攻め込んできた時、アンタはアギを連れて迎え討った。だが目的はクルードの撃退じゃなく、頃合いを見計らってアギを連れて向こうに着くつもりだったんだろ? もう全部知ってんだよ、俺ァ」
そう吐き捨てて煙草を捨てるサルギナ。
ただ、告げた事はほとんど憶測の域から出るものではなく、実際の所は間諜からの報告は得ていない。接触出来ないのだ。恐らく、素性がばれて身を隠しているのだろう。捕まって殺されたという考えもあるが、潜り込ませた間諜は樹楊ばりの危機察知能力を持っているとサルギナは思っている。そう簡単には捕まらないだろう。
グリムは的を射られたようだったが焦りを見せずに大口を開けて雄々しい笑い声を上げるとバイクを降りる。そしてサルギナの元まで無言で歩くと、顎を撫でた。部下は剣を抜こうとするが、サルギナはそれを阻止し、バイクを降りる。
「流石、戦の天才と呼ばれただけの事はある。情報戦にも長けているな」
「グリム……。俺がそう呼ばれるようになったのも、アンタのお陰なんだよ」
サルギナの言葉は皮肉なんかじゃない。真実なのだ。
色々な記憶が鮮明に脳裏に蘇るが、今は思いに更けている場合じゃない。
双方無言で対峙していたが、グリムの部下達がバイクのエンジンを切った瞬間、金属がぶつかり合う音が夜空に向って突き抜けていった。
「いい反応だ、サルギナ」長い柄の戦斧を頭上に打ち下ろしたグリム。
「アンタこそ、腕は鈍ってねぇな。歳だってのによォ」
サルギナは重槍ではなく、ハルバードでグリムの攻撃を受け止めていた。
斧槍と呼ばれるハルバードは、鉄製の長い柄の先に小振りの斧があり、柄の延長線上に槍が突き出ている武器だ。半円状の斧刃の反対にはカギ爪があり、それにより引っかける事も可能としている。重量もあるサルギナのハルバードは刺突や斬撃も可能としていて高性能の武器と言えよう。
「懐かしいモノだ。いつもの重槍はどうした?」
「るせえよ。俺が何を選ぼうがアンタには関係ねぇ」
グリムは強気な笑みを浮かべると力任せにサルギナを押し潰していく。サルギナは片膝を地に着く寸前まで押されるが、決して苦しさを顔には出さない。サルギナの部下達はその様子を黙って見守っていた。固く拳を握っていて加勢したい気持ちを押し殺しながら、隊長であるサルギナの意を一片も間違えて捉える事はなく見守り続けている。
サルギナは片手を引いてグリムの力の流れを変えてやると、武器を瞬時に引っ込めて反転し、後方回し蹴りを繰り出す。しかしグリムはそれを片手で防ぐと重い突きをサルギナの鳩尾に突き立てた。まるで岩で殴られたような重い衝撃はサルギナの身体を宙に浮かせるほどだった。そして斜め下から振り上げられた斧の斬撃を辛うじて柄でガードしたサルギナは部下の元まで吹っ飛ぶ。
上将軍、グリム。
彼は他の上将軍らよりも実力が上であり、四十歳を超えた今でもそれは健在である。知こそ平凡ではあるが戦闘能力は群を抜いていて、模擬戦とはいえサルギナが勝った事は一度もない。スクライドが誇る歴戦の勇者こそが彼なのだ。
「頭ァ、ここはやっぱり救援を仰ぐべきじゃねーですかい?」
「……悪い。俺の意地がそれを許さねぇんだ。キョウにもでかい口を叩いちまったからな、退くわけにはいかねぇよ」
サルギナは身を起して口端から漏れた唾液を拭うと、
「俺の我儘を解ってくれ」
部下は嘆息すると抱えているサルギナの背を押して立たせてやる。そして背を叩いて首を斜に吐き捨てた。
「頭の我儘は聞きすぎてイマイチ理解出来ねぇんでさ、俺は。だから結果で示してくれねぇですかい?」
そうだった。
これまで通してきた我儘はいつも結果で示してきた。それが全て良い結果となったわけではないが、この部下達はそれでも着いて来てくれた。何も不満を溢さずに、ただ背中を護り続けて来てくれた。だから負けるわけにはいかない。これからも自分の背中を可愛くないコイツらに見せつけてやる為に、コイツらが迷う事無く突き進んでいけるようにここで負けるわけにはいかない。
サルギナは片手を水平に上げて開いていた拳を握る。それは合図の一つであり、指示を受けた部下達は一斉にエンジンを掛けて唸らせる。対するグリムの部下達もエンジンを掛けるとグリムの指示を待っていた。
一騎打ちでケリを着けたいが、今は大戦中だ。しかも、ダラス戦で戦ったクルスとは違い、相手はかつての仲間であり兵を治めているのは上将軍グリム。高いプライドと一緒に天秤にかけているのは勝利の二文字だ。全力で潰しにくるだろう。
避けられぬ戦いに意を決するグリムとサルギナの視線が一本の線となり、双方の背中を部下達のバイクのライトが照らしていた。それぞれの高ぶる闘志が乗り移ったかのようにエンジンが唸る。早く暴れさせろ、鎖を解け。そう言っているようだった。
二人は息を吸い込むと額に血管を浮かび上がらせるほどの大声で怒鳴る。
「潰せ!!」
◆
赤麗は隊を分けるより先に、とある地点まで纏まって行動する選択を選んだ。本陣から散っても良かったのだが、イルラカの提案の「なるべく安全を期して」という言葉を尊重したのだ。その地点まで一緒に行動しても予定の時間に遅れはないし、それならばという事で紅葉が承諾した。
広くも狭くもない、ゴーストタウンをバイクで抜ければ散り散りになる。そうなれば紅葉は一人、別行動に入る予定だ。その目的は殲鬼隊の頭角であるオルカを討つ事にある。今スクライドが得ている情報ではオルカが最強であり、紅葉以外に太刀打ちできる相手はいない。一度は敗戦した紅葉は、オルカの相手を自分に選んでくれたラクーンに感謝している。あの時は完敗だった。けれど今は違う。今度は何があっても負けてはならない場所に自分は立っているのだ。もし自分が負ければ赤麗の士気に乱れが生じるだろう。それだけは避けたいと思っている。
イルラカを先頭にゴーストタウンを迷う事無く走っていると、それは突然だった。イルラカのバイクが、何の前触れもなく地から突き出てきた円錐状の突起物に串刺しにされる。イルラカは串刺しを免れたものの、あまりの衝撃に吹っ飛び、廃墟となったビルの中へと放り込まれる。バイクは持ち主を失い、回していた車輪を止め始めた。突起物と一言で言っても、その全長は軽く見積もっても人二人分はある。銀色に光り、バイクを易々と貫けるところから硬度も高いのだろう。最初はそれを蓮の仕業とも考えたが、こんな武器は見た事もない。
「イルラカさん!」
部下が慌ててビルの中に入ろうとしたが、そこは紅葉が手で制する。
「まだ動かないで。現状を把握するのが先よ」
吹っ飛んだイルラカの身を案じる部下だが、紅葉の言葉に間違いない事を理解すると苛立ち混じりに目の前に立ちそびえる銀色の突起物を睨む。一種のトラップなのか、と一人が呟くが紅葉はその銀色の突起物に一人に男の顔を思い浮かべる。それはダラス連邦との大戦中に対峙した、あの鉄の魔術を使う男。思い出したくもない顔だが、脳裏に浮かんでくる。紅葉は腰に携えている鞘を握り締めると柄にもう片手を添えて半身になって腰を落とす。
「いつまでそうしてるつもりよ。さっさと顔見せなさい」
すると突起物は微かに揺れ、その中から反響した男の含み笑いが聞こえてきた。その楽しそうな笑い声は次第に割れていき、狂喜に染まっていく。何処かに人格を置き去りにしたかのような笑い声に赤麗の面々は不気味さを感じてそれぞれに武器を構えるが、紅葉だけは眉を跳ね上げて堪えきれない苛立ちを全面に出していた。
「一々苛立つのよ、アンタ。第一何でアンタがクルードに肩入れしてんのよ」
「紅よォう、っくく。久しぶりだなぁあああ、くっははははは」
だらしなく間延びされた声を出し、まるで水面から出てくるように突起物の中から出てきたのは、ダラス連邦の大隊長であるガガだった。曲がりきった背を伸ばす気などないらしく、だがそれでも顔だけは正面を向いている。目の下のクマは一層濃くなっていて、焦点はあっていないようだ。
「しゅ、首領。こいつ、何者なんですかっ」
「ダラスのハゲよ。気に喰わない奴だとは思ってたけど、何だかお薬に頭をやられているみたいね」
戸惑う部下に説明をする紅葉の言葉に、ガガは首を鳴らすと舌舐めずりする。そして、本当に何が可笑しいのかまた下衆な笑いを浮かべ始めた。以前はまともな奴だった。大口を叩く奴だったけど、戦闘能力は評価に値するほどでイルラカが仕留めきれなかったほどの強さを持っていた。それが今はどうだ。禍々しさが溢れていて、人間というよりも昆虫みたいになっている。頬骨が浮き出ていて、動きもぎこちない。あれは生きている、と言えるのだろうか。
紅葉は己のスイッチを完全に戦闘モードへと切り替えて柄を握る。瞳には灼熱の殺気が静かに揺れ、呼吸が胸の奥に沈んでいく。
――そう、この感じ。
この感覚は紅威を手にした時から身体に染みついたものだ。力と経験で満たされていたはずの自分という器が、空のように無限に広がっていく。しかしまだあの時から僅かにしか強くなれていない。それでも自分の限界を際限なく高めてくれている鬼の力がこの上無く心地良い。殺戮を楽しみ、目に映る者を全て地に転がしてきた過去の自分はもういない。今は強者との闘いを楽しむよりも、護れる人を護っていきたい。
そんな紅葉の背中を見つめる部下達は唖然としていた。鬼気迫る殺意を持っていた紅葉がまるで別人のように穏やかで、それでも猛々しく感じているのだろう。以前の紅葉が何もかもを焼き尽くす劫火であれば、今の紅葉は仲間達にとって明日を照らす夕陽なのだ。しかし、紅葉の成長した姿などこの男には関係ないらしい。足を引き摺るように歩を進めては爬虫類のように瞳を動かしている。
「アンタ達は下がってて」
「ですが、こいつはっ」
「大丈夫、一瞬で終わらせるから」
それは方便だ。
今のこの男の戦闘能力が解らないから、敢えて部下達を戦闘から遠ざけておきたいから嘘を吐いた。ガガは正気じゃない。考えも読めない。どう出てくるか解らない。つまり、部下に足を引っ張られたくないのだ。
紅葉はガガが制空権内にまであと一歩、というところで鞘から紅威を引き抜いて、同時に踏み込むとそのまま横に一閃。真紅の刃はガガの首に当たり勝負はついたかのように思えた。
だが、ガガの首から跳ぶ液体は赤いものではなく、銀色の液体だった。
まるで蛇口から出ている水を薙いだような感覚。少しばかり重さを感じたものの、仕留めた手応えが感じられない。身体から離れたガガの顔に埋まる瞳がぎょろり、と紅葉を捉え、次の瞬間には銀色の液体そのものに変わり果てる。その液体は紅葉の足元を素早くすり抜けると背後で形を整え始め、やがてガガの姿になっていく。ガガは背後から骨が浮かび上がる骸骨のような手を、紅葉の服の裾から中へと滑りこませるといやらしく腹を撫で、もう片方の手で頬を撫でる。
「こうよォうぅぅぅ、やっぱイイオンナだなぁ」
ガガは唾液に塗れた舌を出して、それを紅葉の首筋に近付ける。
「アンタ、そんな――」
「汚い手で首領に触るな」
紅葉のセリフを横取りしたのは、イルラカ。
突進してきた勢いを殺さぬままにガガの側頭部を蹴り上げ、そのまま逆の足でも追撃を加える二段蹴り。ガガの手は紅葉から離れ、蹴られた小石のように吹っ飛ぶ。その先にあった瓦礫の山は崩れ、ガガはその下敷きとなる。紅葉は嫌そうに「ばっちい」と吐き捨て、ガガに触れられた箇所を払うとイルラカに目を向けた。
「イルラカ、大丈夫?」
「ええ、掠り傷です」
イルラカはこめかみから流れている血を袖で拭うと地に転がっているバイクの元へと行き、その収納から蛇節剣を取り出した。
「それよりも早く行って下さい。ここは私が引き受けます」
「引き受けるって……なら、もう一人」
「駄目です」
「何でよっ。アイツの実力、知ってるでしょ?」
イルラカはにこりと微笑むと「だから、なんですよ首領」
そして蛇節剣を薙いで深く息を吸うと早くも狩人の眼付となった。
「首領も解っているでしょう? アイツは多対一でやるには難しい相手です。仲間を庇いながら、庇われながらアイツと戦うのは私には出来ないんです。すぐに追い着くので、行って下さい。そうしないと少なからずとも作戦に影響が出ます」
解っている。
これは強国クルードとの大戦なのだ。
作戦の遅れは致命的なものとなり得る。そして自分は一刻も早くオルカを討たなければならないのだ。あんな化け物、ガガの比ではない。
紅葉は部下に進軍を告げるとバイクに跨り、背中を向けたまま呟く。
「早く来なさいよ。私の武勇を見れない部下はいらないからね」
「……解ってます。アナタの覇を、誰よりも近くで私が見届けるつもりですから」
紅葉は無言を返し、部下を連れてゴーストタウンを突き進んでいった。
イルラカはその背中を眩しそうに目を細めて見届けると、瓦礫の下敷きとなっているガガに視線を移す。足だけ放り出されたようになっていたガガだったが、その足が溶けていく。そして銀色の液体になるとぷるぷる震えながら移動し、人の形へとなり始めた。
「奇怪な身体になったもだな。薬のやり過ぎで脳みそどころか身体まで溶けたのか?」
ガガは首を鳴らし「ああぁ? 紅葉はどぉこだ? てめぇは――ああ、銀髪ねーちゃんかぁああ。まああああああああああああ……お前でもいいかぁ」
ガガは喉を鳴らすと口端から涎を流す。拭う気もないらしく、汚らわしい事この上ない姿だ。事もあろうか、戦闘中だというのに股間まで膨らませていた。イルラカは銀髪を風になびかせると短く溜め息を落とし、剣を構えた。
「樹楊さまと同じ男には思えないな」
ガガは舌をだらしなく出すと手を剣の形に変えていく。液体の能力も兼ね備えた鉄魔術は己の身体を好きに変えられるらしい。イルラカは剣を奥に流し、刀身の関節を外してやり、鞭のようにしならせてガガへと振るった。
◆
イルラカとガガが対峙した頃には、サルギナ軍とグリム軍の激闘が繰り広げられていた。傭兵上りのサルギナ軍の実力は誰もが認めるほどなのだが、グリム軍の兵も負けてはいない。グリム上将軍直々の訓練に耐え、ここまで残ってきた者達なのだ。弱国スクライドの兵とは言え、サルギナ軍も苦戦を強いられている。数は完全に負けている。こういった戦では数がものを言う時があり、今正にそんな状況である。
それでもグリム軍の兵は八割にまで減り、対してサルギナ軍の死者は二名だ。流石、戦を生業としてきた者達だ。攻め方や護り方を熟知している。混戦の中央にはサルギナ武を見せつけるように敵を薙ぎ倒していくのだが、グリムは最後尾に居て隣に側近を控えさせている。バイクに跨ったまま腕を組んでサルギナを見ていた。
「流石はサルギナ軍ですね。闘い方に美があります」
「フン、最後に立っていた者が勝者なのだ。つまらん事を言うな」
側近の感嘆をも一蹴するグリム。
徐々に後退していくサルギナ軍を見やりながら顎を撫でている。
サルギナ軍は押されつつあり、模範的な闘いをしているものの戦局を変える事が出来ないようだ。サルギナは敵兵を斬りつける合間に部下の位置や数を大雑把に確認すると軽く舌を打つ。
死者が五人に増えている。やはりグリム軍はスクライドきって実力派だ。少しばかりナメ過ぎていたのかもしれない。
「頭ァ! 応援はまだですかい!?」
「来るわけねぇだろ! ここはスクライド城よりも南だっ」
苦戦する部下に怒号で返すサルギナ。
部下は舌打ちすると敵の殲滅に専念し始めた。
サルギナの言葉通り、ここはスクライド城よりも南に位置する場所だ。クルードの進軍がこの場所にまで及んでいれば応援も考えられるが、大戦が始まったばかりの今ではそれは願えない。勿論、ここまでクルードが押し寄せていれば敗戦寸前になっているという事だ。つまり、ここをグリムに占拠されるという事は、実質挟み打ちにされると言う事。サルギナ軍が負けてしまえば、戦局は一気に悪化してしまうだろう。
その事を十二分に解っているサルギナは焦りを見せていた。かつては戦の天才とまで言われたサルギナだが、急く気持ちを抑えきれずに挑んだ結果だろう。策も無しに、正面からグリム軍に挑むのは浅はかだったのだ。しかし、サルギナには正面から挑みたいという強い思いがあったのだ。何も樹楊の戦闘スタイルに文句をつけるわけではない。ただ純粋にグリム、いや、グリム軍を正面から力で捻じ伏せたかった。
サルギナは目の前に立ち塞がる敵の胸を突き刺し、倒れてくる身体を押し退けて遠くのグリムを睨む。
「グリム! 勝負しろ、オラ!」
サルギナは思いを爆発させて吠えた。しかしグリムは鼻を鳴らすだけで動こうとはしない。その見下した態度にサルギナは激昂し、一気に駆け抜けようとした。しかし、何故そこまで冷静さを欠くのか。戦に集中出来ていないのか。
サルギナが倒したと思っていた敵が、胸を突いて押しのけた相手がまだ生きていたのだ。腹ばいになりながらもサルギナの足を掴んで倒すと、隙を逃さんとばかりにその仲間達が剣を振り上げた。サルギナは足を掴む敵を馬のように蹴り上げると、迫ってくる斬撃を転がりながら避けて首を狩る。しかし、起き上がる暇などないようだった。地に寝そべりながら次々に集まる敵の攻撃を受けるのは至難の技で、ついに囲まれてしまう。それを少しばかり離れた場所で目にした部下は救援に向かおうとしたのだが、敵に阻まれて叶わない。
「退けぇっ、邪魔なんだよてめぇら! っく――頭ァ!」
サルギナは歯を思いっきり食い縛るが諦めは微塵も見せず、敵の喉を目掛けて刺突を繰り出す。しかし、それは無情にも横から弾かれ、代わりに見えてきたのは長剣の刃だった。
終わるのか?
こんなところで、こんな下っ端の剣で。
まだグリムに声が届いていないというのに。こんなところで惨めに死んでいくのか?
キョウにでかい口を叩いといて、情けないモンだ。結局何も出来ていない。
アイツは今頃、大空を飛びまわる鳥のように、……自由に、戦場を駆けているんだろうな。
サルギナが潔い死刑囚のように静かに目を閉じ。
敵の剣が迫ってきて。
瞳に怒りを滲ませたグリムが口を開こうとした、正にその瞬間だった。
怒声混じる戦場の中で衝突する金属音が響き渡り、目を開けたサルギナの音の世界に静寂が訪れる。その中で唯一の音は、疲れきった老人が漏らすような溜め息。そんな悠長な嘆息をするのは、尖らせた毛束を全て後ろに流し、暗視可能のサングラスをしていて、裂けた口の片端を三個のピアスで留めて、死の象徴である純白の革製長衣を纏っている。
「何諦めてんだ? お前を殺るのは俺じゃんね」
「………………ク、ルス?」
サルギナは寝そべりながら、周囲の敵を一薙ぎで倒すクルスの背を眺めていた。何故クルスがここに居るのかが解らない。確か砕羽は北東に進軍したはず。こんな場所に居るわけがない。だが、手を差し伸べてくるのは明らかにクルスだ。
サルギナは呆けた顔のままクルスの手を取って立ち上がる。背後から迫る敵にも気付かず、それをクルスが一突きで倒す。
「いつまで呆けてんだ?」
「あ、ああ。すまん。それより、何でお前が」
「キョークンの指示じゃんね。『アイツが負ける事はないと思うけど、一応な。負けられたら厄介になる』だと、うちの軍師サマは」
ついでに「死んでも泣かねぇからな、笑顔で拝んではやるけど。つーか、一変あの世を見てこい」と、クルスは樹楊の伝言を伝えてくる。サルギナは徐々に笑顔に戻り始め、内から闘争本能が燃え始めてきたのを実感した。クルスの援軍と樹楊の伝言が嬉しかったのだ。あの生意気な男は最近格が上がった事でいい気になっているようだ。これは跳び蹴りでも喰らわせなけりゃ、気が収まらないというもの。その為にはここを生き抜くしか道はない。
サルギナは横から迫る敵に長さを活かしたハルバードで突くと、首を斜に笑った。そしてクルスを見ると小さく礼を呟いて身を翻す。
「てめぇら! クルスが援軍に来たんだ! これで負けるモンなら恥さらしもいいところだぞオラ! こっから誰一人死ぬ事は許さねぇからなっ。生き抜け、足掻けっ。そんで――――」
サルギナは腹の底から大声を振り絞った。それは戦場に広がり、仲間全員の耳に届く。
「美味い酒で飲むぞ! イイ女はべらせてよォ!」
傭兵時代から変わらぬサルギナの言葉に仲間達は一人残さずに不敵な笑みを浮かべた。クルスの援軍とサルギナの鼓舞に身を燃やし始めた仲間達は悪戦をものともしなくなり、次第に押し返していく。仲間達と背を向け合って助け合う者達や果敢に攻め込む者達。絶対的な不利の局面が少しずつ変わり始めていく。昨日までは仲間同士だった者達の斬り合いは、傍から見れば仲間割れの地獄絵図なのだろう。しかしここに居る者達は全員、己の立場を理解した上での重い意味を持つ戦を繰り広げているのだ。気に喰わない奴もいるだろう。逆に友だった者もいるだろう。それでも手を止める者は皆無だった。それは、戦争の愚かしくて悲しい一面なのだ。血を血で洗い、これまで懸命に生きてきた者を否応なく死に導く。そんな彼らもまた、一人の人間なのだ。ココロを持った人間に変わりはない。何処かで人の為に奉仕活動をする者と何も変わらない、この世でたった一人の人間だ。戦争は愚かしくとも、彼らを愚かしいと口に出来る者などいない。いてはならない。誰よりも命の重さを解っているのだろうから。
戦局が変わりつつある中、傍観を決めていたグリムがバイクのハンドルを握る。驚いて止めに入る側近を一睨みし、己が武器を背に携えた。その眼に動揺は見られず、闘志という炎が燻り始めている。
「戦局は今からでも変える事が出来ます! 何も上将軍自らが出なくてもっ」
「……そうだな。お前の言う通りだ」
珍しく人の意見を聞き入れたグリムの言葉に側近は胸を撫で下ろして傍に居た部下を呼んだ。そして布陣の変更や模索した攻略ポイントなどを述べ始める。ここから押し返し、手早にサルギナを討とうという策を講じようとしたのだ。しかしグリムはバイクのエンジンを切らないどころか、自らを鼓舞するようにアクセルを吹かす。
「な、何をされてるんですかっ」
「確かにお前の言う通り、戦局を変える事は可能なのだろう。だが……」
グリムは、華麗に舞うように闘うサルギナを目に留めて口端を持ち上げる。それは皮肉な笑みなどではなく、戦を好む狂戦士の笑みだ。
「サルギナ……。アイツは俺の手で仕留めねばならんのだ」
「何故です! 勝利はどんな過程を得ても勝利なのですっ。それならば、こちらの被害を少なく、かつ安全に遂行すべきです!」
「ああ、解ってる」
グリムはバイクを走らせる。サルギナ唯一人を目指し、己を野獣に変えて。
慌てて呼び戻す側近の言葉などもう聞こえてはいないようだった。
「サルギナー! ここでお前は終わるんだっ」
野太い怒号に周囲の兵達は敵味方関係なく動きを一瞬だけ制された。長年、スクライド王国のトップでいくつもの武功を手にしてきた猛将グリムはそこにいた。猛々しく、濁りのない強者の姿だ。サルギナは決して臆さない。全てをここで終わらせる為に。そしてグリムを救う為に覚悟を決めた。死ぬ覚悟と殺す覚悟。それは確かに胸の奥で広がった。重くて硬くて、そして悲しい色で。
「グリム! 終わるのはてめぇだ!」
肩を踏み台として貸してくるクルスに遠慮せず、サルギナは大きく跳んだ。そして伸身で一回転すると力任せにハルバードを振り下ろす。対するグリムも戦斧を下から豪快に振り上げてガードを兼ねた攻撃を繰り出した。互いの武器同士が激突すると、そこを中心に闘気が弾ける。バイクの推進力に押されるがままのサルギナだったが咄嗟に手首を返して戦斧の軌道を流してやると、回転する身体の勢いを殺さずに下から蹴りを繰り出してグリムの顎先を弾く。振り子のように円運動から放たれた蹴りは決して軽くはない。しかし、このグリムという歴戦の猛者は生半可な攻撃で倒れるほど甘くはなかった。
グリムは宙に浮いているサルギナの襟首を荒く掴むと、おもむろにバイクの進路を変える。その先に待っているのは、歪な形をした大きな一枚岩。どうやらそのままサルギナを叩きつけるつもりらしい。
「残念だったな、サルギナよ」
まるで低空を滑空するかのように宙を切るサルギナは武器を振るおうとしたのだが、ハルバードという武器は近距離戦には不向きなほどのリーチを持っている。不安定な体勢のままでは尚更だ。
誰もがサルギナの悲惨な末路を垣間見た瞬間、グリムの眼が虚ろになり、バランスを崩し始める。バイクが酔っ払ったかのようにぐらぐら揺れ、遂にはハンドルをあらぬ方向に切ったグリムはサルギナを掴んだまま転倒し、二人は勢いに乗ったまま地に叩きつけられて転げた。バイクは幹の太い木に衝突して大破。
「っつ、つつ。げほっ!」
「む、むう」
激しく身体を打った二人は混濁した意識のまま地に横たわっており、背中らや頭を撫でていた。が、視線を合わせると思い出したかのように距離を取り合い、それから地に膝を着ける。
「っへへ。脳を縦に揺らしたんだ。いくら鈍いアンタでも効くだろ」
「ふん、調子に乗るなよ小僧が」
ダメージが大きかったのはグリムの方だった。転倒した時、掴まれたままのサルギナの下敷きになってしまい、偶然にも衝かれた膝で肋骨を骨折したのだ。対してサルギナはグリムという強靭な肉体のクッションを得て、無傷とまではいかないが身体を打ったくらいだ。サルギナはハルバードを肩に担ぐように構えると大きく足を開いて腰を深く落とす。前傾姿勢で武器の切っ先はグリムに向いている。
サルギナのその構えはクルスと戦った時に見せた、超攻撃的な構えであり防御など二の次である。グリムはゆっくりと巨体を起こすと戦斧を片手に鼻を鳴らした。
「懐かしい構えだ。だが、その構えを教えたのは俺だ。その俺に通じるとでも思っているのか?」
「通じるさ。アンタが教えてくれた構えだからな」
二人はこれ以上の言葉を必要とはしなかった。
夜風に吹かれ、互いを戦士なる瞳で射抜きあい、同時に前に出ると激しい打ち合いを始める。一合、二合――時に避けてはまた打ち合い、パワーとテクニックの応酬が途切れる事無く続いていく。
サルギナは攻撃に転ずる時、防御に移る時、その節々にグリムとの思い出を蘇らせていた。
十七歳半ば、傭兵としての生活をピリオドを打ち、スクライド王国の正式な兵となった。国に仕える兵というのは楽なもので、命がなければ戦をしなくても生活に困る事はなかった。クルードを退けるのも楽なもので、こんなに簡単でいいのかとも思っていた。金は入る、女は抱ける。正に有頂天だった頃、グリムと出逢ったのだ。
当時のグリムは今よりも増して短気で体格も大きくて熊のようだった。軍人気質で頑固なグリムとはウマが合わず、互いに和解し合おうとは思ってもいなかった。しかし、とある防衛戦の時だった。劣勢で戦局の読み違いで招いた敗戦寸前の事態。仲間は次々と倒れ、初めて戦の恐ろしさと敗戦の悔しさを感じた。そして自分の命の危機も。追い詰められ、退路を断たれ、打つ手がない時。
グリムが来てくれた。
グリムは他の防衛戦を終えたばかりで疲労困憊だというのに、救援に来てくれた。あの時ほど嬉しいと思った事はない。後にも先にもだ。グリムの果敢なる戦いぶりで敗戦は免れ、同時に命も救われた。その時からグリムとは酒を飲む仲となった。話してみれば気さくな男で、酒に弱い事が解り、楽しくて嬉しくて。
一緒に釣りもした。
訓練にも付き合ってもらった。
命のなんたるかを教えてもらい、仲間の大切さが一層解った気がした。
女遊びをして泣かせれば、あの大きな拳を頭に落とされて怒鳴られもした。
そして何より、愛国心溢れる男くさい奴だった。
それなのに、何故……。
サルギナは悔しさと苛立ちが混じり合う感情を腹の底から爆発させ、歯を力強く食い縛る。声にならない問いはグリムに届くわけもなく、遂にサルギナは激昂する。
「何でだ! 何でクルードに寝返った! アンタほどの男が!」
一瞬見せた隙をグリムが見逃すわけもなく、腹に重い拳をめり込ませてくる。まるでハンマーだ。大きな鉄槌を振り被られたかのような衝撃にサルギナは息を詰まらせるが、倒れはしない。上から振り下ろされる斬撃をサイドステップで避けて、再度超低空の構えを取る。
「……答えろよ。答えろよ、グリム!」
吠えるサルギナは地を強く蹴り、距離を詰める。そこに待っていたかのような横薙ぎが来る。やや斜め下に落とされるような、コンパクトに振られた斧は唸りを上げていた。サルギナの構えは横にこそ素早く動けるが縦には動き辛い。グリムの斬撃は円を描くように迫り、しかもタイミングも最高と言えよう。しかしサルギナはこの構えを自分のモノとし、更に磨きを掛けていた。何か月も、何年も。そしてその歳月はサルギナの構えに自由の翼を与えた。左右に飛び回るだけではなく上下にも対応出来る、正に縦横無尽に飛び回る燕。
サルギナは地を蹴り、次いでグリムの斧の腹に足を乗せると跳躍し、自らの身体を軸として回転する。最小限の動きで振られるハルバードはグリムの肩を切り裂き、それでも止まらない。
「う、ぬおおっ」
短い悲鳴を上げたグリムの手から斧が放られ、回転しながら闇に消えていく。サルギナは着地し、振り返ると同時にハルバードを振るった。距離は把握している。グリムの身長も、この眼に焼き付いている。
全てを計算に入れて振るわれた刃は、こちらを向いていたグリムの胸を深く切り裂く。遅れて血の飛沫が咲き、グリムはよろよろと後退すると横に崩れた。サルギナはグリムの横に立つと、長い柄を握り締めて切っ先を地に向ける。相手はもう動けないだろう。それほどまでに深い傷だ。この握り締めている柄を思いっきり降ろせば、グリムの命は尽きる。そこで終わりだ、何もかも。反逆者を討つ事が出来るのだ。
しかし、サルギナはその牙を突き刺す事が出来ずにいた。ぶるぶると震えて躊躇いを見せている。何度か止めの動作に入るが、やはり手を止めてしまっていた。
「どうした? 敵に情けをかけるものではないぞ?」
グリムは地に左肩を着けたままサルギナを見上げる。その瞳は太々しくて、いつもと変わらない。だからこそ……止めを刺せない。
「止めを刺すのは簡単だ。だけど、その前に何で裏切ったのか教えろ」
グリムは鼻で笑うと、大の字に寝転がる。血が溢れてくる胸を苦しそうに押さえて、夜空を見上げると目を細めた。
「俺はスクライドを愛している。だからだ」
「意味……解んねぇよ」
「サルギナよ、お前が思っているほどクルードは弱くない。三年くらい前だったか。俺はクルードから訪れた間諜に連れられてその国を見てきた。…………言葉にならなかった。俺達が相手をしてきたのは下っ端であり、それを実戦形式の訓練だと教えられた。解るか? 俺達が善戦してきたのは、相手にとって下っ端の訓練でしかなかったのだ」
グリムは咽ると、また語り出す。
クルード王国とは真の武力国家であり、スクライド王国の行く末が見えたと言う。だから間諜が提案してきた話に乗ったとも。
グリムはスクライド王国の重要拠点を潰す事でクルード王国の侵攻をより容易くし、早々に落としたかったようだった。なるべく被害を少なく、かつ迅速に。
「みんなが休暇の時、クルードを招き入れたのは?」
「俺だ。だが、それも赤麗に潰された」
「ウォーリスの住人を煽って反逆させたのは?」
「俺が裏から手を回した。あそこを潰せばスクライドにとって大打撃になるのは間違いないからな」
馬っ鹿野郎、サルギナは小さく吐き捨てる。
グリムはグリムなりにスクライド王国の人々を護りたかったのだろう。戦が長引けば貧困も広がる。より多くの兵が死に絶える。そして足掻き続けた先に待つのは、スクライド王国の敗戦と貧困に苦しむ人々達だけだとグリムは考えたようだった。そうなる前に、スクライド王国をクルード王国に吸収させておきたかった、とグリムは言葉を残す。
「サルギナ、今からでも遅くはない。クルードに付くんだ。お前なら受け入れてもらえるだろう」
「お断りだ。俺達は負けねぇ」
「何故言い切れる?」
「アイツがいるからだ。あの生意気な奴が……きっと」
「樹楊、か。随分と評価しているんだな」
グリムが吐く息は荒く、そして弱くなりつつある。失血量が多いのだろう。顔色も悪く、目にも光がない。そして自分自身でも終わりを感じているのか、弱々しい笑みを見せてきた。
「頼み、が……ある」
「……何だよ」
「娘を……、カラットを護ってくれ。恐らく、クルードの手が」
「その心配は無用じゃんね」
割りこんで答えたのはクルスだった。総大将を討たれたグリム軍の戦意は既に喪失しており、地にへたり込んでいる者もいる。サルギナは煙草を要求してくるクルスに応じ、それから訊く。
「クルス、どういう事だ? グリムの娘を知ってるのか?」
「俺じゃなくて、キョークンがな。キョークンが砕羽の隊員二人を娘さんの保護に向かわせたんだよ。『グリムが負けりゃ人質としての価値は無くなるだろうけど、一応な』ってよ」
煙を気だるそうに吐くクルスに、息を途切れさせているグリムが視線を向けるが、何も訊かずに安堵したような表情を浮かべる。グリムの性格や家族構成を調べておいた樹楊が打った手に何一つ疑問を持たず、ただ心からの安堵を浮かべている。
サルギナは横たわるグリムの傍らに膝を着いて歯を食い縛っていた。眉間には深い溝が刻まれ、しかし悲痛そうな表情を固めている。クルスはその姿を一目見ると踵を返して無言で去っていく。
「サルギナよ……」
「何だよ」
「釣り……してるか?」
サルギナは息を詰まらせた。
反射的に蘇る記憶は鮮やかすぎて忘れられるわけもなく、その一枚の絵には自分とグリムがくったくのない笑顔で魚を釣り上げている姿が、水彩絵の具のような柔らかい色で描かれていた。大口を開けて豪快に笑うグリムと、大物を釣り上げて驚いている自分。忘れられるわけがない。忘れたいと思った事もない。
拳を強く握ったサルギナ。
「してるよ、暇がありゃ」
「酒は控えめにな」
「俺の、勝手……だろ」
「た、ばこ…………吸い過ぎるな、よ?」
「解っ、てるっつーの」
グリムは虚ろな目で薄く笑い、
「女を大、切っに……な」
「解ってる、解ってるよ。んな事」
何度も言われてきた事だ。今更言われなくても、声くらい思い出せる。頭に落とされていた拳骨の痛さだって思い出せる。瞳に弱さが現れ始めたサルギナの髪を、グリムの大きな手が撫でる。優しくなどない。荒っぽい親父が出来の悪い息子にやるそれと同じような、撫で方。下唇を噛み締めるサルギナを見たグリムは何度か咽、血を吐くと自分の軍の象徴である鳥が描かれた旗を見た。
「サ、ルギ……ナ」
「っんだよ、さっきからよォ……」
グリムは目を優しく細めて笑う。
「鳩は好きか?」
目頭が熱くなり、鼻がツンとした。
肩が震えてもうコントロールが効かない。それでも泣くわけにもいかず、奥歯を強く噛み締めてから、笑顔を作る。グリムを安心させられるように、と。
「ああ、大好きだ。アンタが教えてくれた平和の鳥……俺も大好きだ。だから安心して行っちまえよ」
精一杯強がるサルギナの言葉にグリムは鼻を鳴らし、
「バカ息子が……」
全てに満足したのだろう。
グリムは脱力し、サルギナの頭から手を滑らせる。
サルギナは慌ててその手を取ろうとするが、それには及ばず、地へと落としてしまった。ゆっくりと視線を流せば、瞳を閉じるグリムの顔がある。眠るように穏やかで、苦悶の表情などは浮かべていない。自分はグリムを救えたのだろうか。そもそも、もっとマシなやり方で更生させられたのではないだろうか。自分のやり方は間違っていないだろうか。自問自答を繰り返していると、クルスが肩に手を置く。見下ろしてくる瞳は同情なんかに染まってはおらず、暖かさだけが浮かび上がっていた。
「撤退するじゃんね」
「ああ、そうだな」
「ラクーンの方には俺から報告しておいた」
「そうか……」
「グリム上将軍は敵軍の奇襲をいち早く察知し、これを撃退した。命を掛けたその姿は勇敢だった……ってな」
驚愕に言葉を失うサルギナに、クルスは樹楊からの指示だとも付け加える。
上将軍である立場で謀反を起こし、それが表に出れば娘のカラットは酷い仕打ちを受け、後ろ指を差されながら生きていかなければならない。まだ幼いのにそれは酷だろう、娘に罪はない。罪はグリムだけで、死ねばそれも清算されるだろ。
「って、キョークンが言ってたじゃんね。俺はそれに従ったまでだ」
再度煙草を要求してくるクルスに嫌がる事無く応じたサルギナは立ち上がると、夜風に吹かれているグリムの姿を見る。
「だとよ。良かったじゃねーか」
……親父。と、サルギナは小さく呟く。
クルスは聞こえぬふりをしてこの場をまとめ、ウォーリスへの一時撤退を促した。
◇
ウォーリスの街に着き、身体を癒し始めたグリム軍とサルギナ軍はこれから先、クルスの提案で手を取り合う事を決めた。今まで些細な因縁もあったのだが、グリムの考えを聞かされたサルギナ軍は少しばかり考えさせられたのだ。元々傭兵気質で細かい事を気にしない性質である為か、晴れ晴れとした顔でグリム軍を迎え入れるサルギナ軍の面々。そんな部下達を見て、サルギナは救われた気がした。ここで頑なに反発してきたらどうすればいいのか、今の自分では解りそうにもなかったから。
そしてみんなが寝静まる頃、サルギナは街の端にある公園で煙草を吸っては夜空を見上げていた。もうじき夜は明け、また戦いの日々が始まる。今も戦争中なのだが、グリムを討ってから気力が抜けているのだ。思い出と空虚だけが胸に広がり、眠る事が出来ない。本当にこれで良かったのだろうか、ただその思いだけが自分の中で繰り返される。
ぼんやりとし、五本目となる煙草に火を点すと、そこにクルスが現れた。煙草を渡そうとすると、手で制される。どうやら買っておいたらしく、同じく火を点す。クルスは隣に座ると、大きく伸びをしてサングラス越しに夜空を眺めた。サルギナは黙っている事が出来ず、ついつい口を開いてしまう。
「俺はよ、戦災孤児で親なんてものは知らねぇ」
「だろうな。傭兵のモンは大体孤児だ」
「そんな俺がスクライドに仕えた頃、グリムに会って『親父ってこんなモンなのかな』って酔狂な事を思ったりもしてよ。一緒に釣りしたり、酒飲んだり。でも女を泣かせれば殴られたり……。よく言う『優しくて厳しい親父』ってグリムみたいな奴の事を言うのかなって……思ったり、よ」
クルスは何も言わなかった。しかしサルギナにとってはそれが一番嬉しい反応だった。何かを言ってほしいわけじゃない。聞いてほしいだけだ。勝手だが、今は誰かに話したい気持ちだったのだ。それを解ってるのか、クルスは何も言わない。それをいい事に思い出話を続けていると、胸が苦しくなってきた。息が詰まって、また目頭が熱くなってくる。声も震え始めた。
「なあクルス」
「うん?」
「グリムのやろーがな、こう言うんだ。『男が泣いていいのは、愛しい人を亡くした時と』――――」
サルギナは困ったように笑い、唇が震えるのを堪えた。それでも涙が滲んでくる。
「『親を亡くした時だけだ』ってよォ……。俺には親なんていねぇ。いねぇけど……、けど、よ。グリムのやろー…………親父だったんだよ。血が繋がってなくても、俺にとっては、おや、じ、でよ。だから、さ」
サルギナは強がりを振り絞って笑顔へと変換させる。
「もう、泣いていいかな? 俺、バカだから……解んなくてさ」
子供みたいに我慢をするサルギナの肩を、クルスは強く抱き寄せて煙を吐く。
「さっさと吐き出せ、ど阿呆」
するとサルギナは弱々しく笑い、徐々に堪えていた感情を嗚咽に乗せ始める。そしてそれはすぐにガキくさい鳴き声と変わっていった。夜は明け始め、オレンジ色の光が街とクルスと、泣きじゃくるサルギナを染めていく。
好きだった。本当に好きだった。
自分には一生解らないだろう親父という荒っぽい暖かさを与えてくれたグリムが大好きだった。女を泣かせて叱られた時だって、腹を立てる事よりも反省する事よりも何よりも先に、親に叱られるという事を嬉しく思ったんだ。悪い事をすれば拳骨が飛んできて、だけど何かを頑張れば褒められて。それが堪らなく嬉しかった。
だから、グリムがある時を境に人が変わったのを寂しく思った。また親がいない孤独な時を迎えるのかと思うと辛かった。親父だとかお袋だとか、そんな事をこだわる歳でもないくせに、怯えていた。だから女遊びをした。たくさんの女を泣かせもした。そうすればまた拳骨が飛んで来ると思って。そうやって日々を過ごすうちにグリムとの距離は遠ざかり、気付けば周囲から犬猿の仲だとも言われ始めた。
その言葉に自分を納得させ、グリムを嫌いなんだと言い聞かせた。
だけど、本当は大好きなままだったんだ。
「クルス、ごめっ……ごめん、な? 俺、お、れ……馬鹿でよ。ひっぐ、いい歳して……おれ、俺っ」
「悲しむのに歳なんか関係ねーじゃんね」
クルスが居てくれて本当に良かった。
こんなにカッコ悪い姿を見せられる相手はいない。クルスがいなければ、どうなっていたんだろうか。素直な感情も吐き出せずに、腐っていくだけだったのだろうか。解らない。そんな事は解らない。だけど今は泣かせてほしい。泣きやんだら胸を張るから。
『サルギナ、鳩は好きか』
……ああ、大好きだ。
アンタから教えてもらった平和だから。