第四十章 〜本領発揮〜
雨が控えめに肩で弾む。
見上げれば灰色の雲が波のように流れて、青空を隠している。
まだ日も昇りきらぬ時刻だというのに、辺りは仄暗くて重い。大戦前のプレッシャーもあってか、スクライドの面々は押し黙り、歯を見せて笑う事はなかった。誰かが雰囲気を打破しようと冗談を交えて話すのだが、作りきれない笑顔の前にその口を閉ざしてしまう。始まる前からこんな士気じゃ先が思いやられるな、と樹楊は指揮所という名の仮設テントの中に入る。見張りの兵も、悪評が定着した樹楊の顔を見るなり何も言わずに敬礼して中へと通した。
中にはテーブルがあり、そこで何やらラクーンが溜め息を連発している。どう見ても問題を抱えているようで、関わりたくない樹楊としてはこの場を出ていきたい。しかし大戦が始まってしまえばラクーンと話す機会もなくなり、戦局に大きな揺れが生じてしまう。動かしたくない足を踏み出そうとすると、ラクーンは目だけを動かしてちらっと見てくる。そして重い重い溜め息。その溜め息に重量があれば軽く地面は陥没しているだろう。
よし、出ていこう。
固く決意した樹楊が身を翻すと、だけどラクーンは逃がさない。
「おや、樹楊くんじゃないですか。どうぞこちらに」
「今気付きましたよーっ」と言わんばかりの口調で席を叩いてくる。こうなればもうどうしようもない。樹楊はまた身を翻すと渋々ラクーンの隣に座った。
「いや、私はですね」
何も聞いていないのに語り出しやがった、こいつ。
ラクーンは話す気が満ち溢れているらしく、重々しい口調で続ける。
「軍師としてここにいますが、本来はスクライドの領地の政治を取り締まる役職なんですよ。文官といいますか」
ちらっと見てくる。
「え、ええ、知ってますけど」
「今日は大戦ですし、そちらの仕事は部下に任せてきたのですが、どーにもこーにも上手くいかなくて困ってるんですよ。私は戦に専念したいというのに」
また視線を流してくる。
何を言ってほしいのか解らないが、鬱陶しい。
取り敢えず頷いてみればラクーンは続ける。
「キラキ近郊の森を知ってますか? キラキ樹海ではないところですが」
「ああ、陥没の深緑ですか?」
陥没の深緑と訝しげな名で呼ばれている森だが、ただ単に森が円錐状に凹んでいるだけで他に特色もない森だ。だが一番深い中央から見れば地上は高く、加えて木々が密集している為に地下に潜っているような錯覚さえも感じる場所だ。それでもくっきりと円錐状に凹んでいるわけじゃなく、森は広い。その森に何かあったらしく、ラクーンは頭を抱えているようだ。
「ええ、その森にですね、魔前熊が大量発生しているらしくて」
「魔前熊ってあのバカでかい……。つっても、あれは人を警戒して被害例はないと聞きますが。ま、肉食には変わりないっすけど」
「そうなんですが、あそこは鹿や猪が獲れる数少ない森でしょう? ですが魔前熊は鹿や猪の血の匂いに敏感でして、狩人達も迂闊に狩れないと悩んでいるらしく、何とかしてほしいと苦情が殺到しているんですよ」
うん、知った事じゃない。
それは自分の仕事の範疇ではないし、むしろラクーンにも関係ない事では? とさえ思う。しかし現に悩んでいるからラクーンの所で解決すべき問題なのだろう。思ったより領政官の仕事の範囲は広いらしい。ラクーンはこの後も切々と山積みの問題を口にした。以前に話された橋の件や、他にも色々と。その全てが樹楊には全く関係なく、素晴らしいほど無駄な時間が過ぎていく。
それはそうと。
ラクーンは疲れているのではないだろうか。このまま吐血してぶっ倒れそうな気もするが、その時はその時だ。今考える事ではない。
樹楊は取り敢えず布陣と進軍経路、防衛拠点など大雑把な事をラクーンと話し合ってから砕羽が集うテントに戻った。その途中、木の下で煙草を吸っているサルギナに呼び止められ、同じく肩を並べて雨宿りをしながら用件を聞く。すると、サルギナは遠くの雨雲を見やり、やけに真剣な面持ちで口を開いた。
「お前も気付いてんだろ? 裏切りモンが誰か」
「気付いてるっちゃー気付いてるけど、まだ憶測にしかすぎない。候補は二人だな」
「ああ、俺も同じだ。けど、俺には解ってる。どっちが裏切りモンか。んで、そいつはこの大戦で動くだろうな」
「そこでだ」サルギナは煙草を携帯灰皿に押し込むと、申し訳無さそうに頭を掻いてまた遠くを見る。その眼は、気の所為かもしれないが哀しみを帯びているようにも見える。
「その件に関しては俺に任せてくれねぇか?」
「任せろって言われてもな」
「どうせお前の事だ。そいつを葬る計画は立ててんだろ? その役を俺にやらせてくれ」
確かに自分の作戦内容にはその計画も組み込んである。何せ、反旗を翻されてからでは遅いのだ。裏切り者がこちらに牙を突き立てる前に処理しておかなければならない。それが二人の内どちらかだと思っているが、いや。十中八九解っている。サルギナもそれに対しては自信があるようだった。そして自分の手で片付けたいという意思が伝わってくる。
「まー、俺としても計画の一つが抜けるだけで楽になるし、任せるよ」
「恩に着るよ。つーか、お前。いつの間にタメ口になった?」
「だって同じ階級だし」
手をひらひらさせて今度こそテントに向かうと、サルギナは「生意気な奴」と悪態を吐いていた。しかしどことなく嬉しそうで、聞いていても腹は立たない。そして強くなり始めた雨に嫌気を感じながらテントに避難すると、既に隊員は揃っていた。ツキはまだ高熱が続いていてこの場にいないが。それだけが計算外だ。恐らく、今回の大戦ではツキが必要となってくる。
「ラクーンさまとの打ち合わせは済んだのか?」
ミゼリアが清々しい顔で訊いてきた。何だか今日の表情は柔らかくていつものような厳格さが薄れている。それに対してこそばゆさを感じつつも、
「ま、俺達は本隊とは別行動なんで布陣さえ確認しておけば問題ないっすから。それよか、少しばかり計画に変更がありますね」
樹楊の言葉に不安を見せる、隊員十名。そこにミゼリアやクルスは含まれていない。樹楊は悪い事じゃないとだけ告げて、早速四名に特別な任務を与える。それを聞いた四名は呆気に取られた顔をしていた。
「あの……。本当にそれでいいのですか?」
「ああ。お前達二人はスクライド城下町より南東の方角にある村に行って、木こりに伝えてくれ」
何故、木こり?
そう言いたげだったのだが、ミゼリアの一言で渋々だが向かってくれた。ミゼリアは本当に自分の事を信頼してくれている。自分の言葉に何の疑いも掛けずに頷いて意見を通してくれる。上官からの信頼とはこんなにも心強いものなんだな。樹楊は改めて噛み締めていた。
ともあれ、木こりに仕事の要求をしに向かった二人と、スクライド城下町に住むとある人物の保護に向かった二人を抜かして、砕羽は九名となった。砕羽は数が問題なのではない。実行力と判断力があれば四人さえいれば充分に足りると樹楊は思っている。だから今更人数が減ったところで何の問題もない。
砕羽は樹楊を中心として大戦中の計画について話し合っていた。樹楊が一方的に作戦を促すだけではあるが、時に意見を交わし合ったりもしている。その会議が順調に進む中、外の騒がしさにそれぞれが気付く。見張りの兵と揉めているようだ。
「俺が見てくるじゃんね」
クルスが率先して立ち上がり外へ出ると、そこに居たのは。
「キョークン、客人だ」
客人?
皆、首を傾げたがその者を見て樹楊は破顔する。ミゼリアも面識があり、片手を上げていた。部外者は立ち入り禁止、つまり砕羽以外は入れないテントに入ってきたのは獣人目であるミネニャだった。バリーに渡されたのか、ローブを被っていはいるがすぐに解った。ミネニャは樹楊の元へと真っ直ぐに駆け寄ると抱き着いてゴロゴロと喉を鳴らす。初めて獣人目を見たであろう、他の隊員はミネニャの耳や尻尾に驚いていたがクルスやミゼリアが知り合いだと解ると何故か納得した顔で頷いている。
「キヨウ、久し振りだっ」
「おお。どうしたんだ、今日は。これから戦だってのに」
例の如く猫耳をぎゅむぎゅむ握ると、ミネニャは口を尖らせて小刻みに震える。どうやら弱点は治らないらしく、ひ弱な抵抗をしてはいるが手を離せずにいた。樹楊がその感触に満足する頃には、ミネニャもすっかり脱力しきっていてぐったりしている。
「で、どうしたんだ?」
「うう……。私はキヨウに御守りを届けに来ただけなんだ」
ミネニャはかくかくと震える手で首に下げていたネックレスを外すと樹楊の首に掛ける。透き通った紫色の天然石がトップのシンプルなネックレスだ。製品化するには荒い削り方で多面積になってはいるが、見栄えはいい。だけどその石がまともではない事は解る。目には見えないが、禍々しい力を宿しているようにも感じた。
「これ、呪われたりしないよな?」
「うん、多分。きっと命を救ってくれると思われる」
自信ねーのかよ。
そうは言えそうにもない。自分の身を案じてここまで来てくれたのだから。これは後でこっそり外すとしよう。クルスを見れば、やっぱり意味深に頷かれて、樹楊は今の空と同じく自分の未来の雲行きが怪しくなってきた事を確信した。
◆
一方、赤麗が集う仮設テントの中。
スクライドに雇われた当時は十人だったのが、今は八人となってしまった。
しかし自分達がやっている事と言えば命の奪い合いだ。最強傭兵団であっても、死者がでないわけではない。
赤麗は八人の隊員を三つの隊に分ける事にした。
勿論、紅葉は単独行動である。スクライド本隊と結束して、とも言われたがそれでは動き辛くて敵わない。赤麗は赤麗だけでニ・ニ・三・一と隊を分ける。
紅葉はメンバーの前に立ち、それぞれの役目を再確認する。それはいつも通りの作戦であり、相手がいくら強国とは言えど変えるつもりなどさらさらない。そもそも戦術を七転八転させたところで器用に動ける者達ではないのだ。不器用でどうにもならない。しかし常人離れした戦闘力は信用できるのだ。それぞれが己の役目を遂行してくれればそれでいい。赤麗はあくまでクルードの兵力を注ぐ事に尽力しればいいだけの事。後の事はそれこそスクライドの問題だ。掴みたいだろう勝利への道を走り易くする為に自分達はここにいる。
紅葉は最後に、おろおろとしている者に声を掛けた。
「クレハ。アンタは何をすればいいか解ってる?」
「え、えーと。多くの兵を倒して、その合間に仲間の治療を」
「今回は治療に専念なさい。赤麗は勿論、スクライドの奴等もね」
え? と意表を突かれたクレハと呼ばれた少女。
元より、クレハは戦闘向きではない。実力こそあるのだが、性格に問題があるのだ。優しいと言うか臆病と言うか、兎に角戦闘向きではない。彼女はゼクトの跡を継ぐ衛兵であり、これまでも仲間達の治療を担当してきた。しかし赤麗の面々は大きな怪我などする事は稀で、彼女の存在意義が薄れていたのである。だからこそ紅葉は敵の殲滅を強要していたが、これまたどうした事か。彼女は率先して敵を倒そうとはしないのだ。
それこそ口をすっぱくして「敵を倒せ」と言われていたクレハだから、今の紅葉の言葉が意外だったのだろう。暗に『戦わなくてもいい』と言われているようなものだ。紅葉は未だに呆けているクレハに一つの圧縮ポーチを投げ渡す。
「あの、首領。これは」
使い込まれた革製のポーチ。それをまじまじと見たクレハは唇を噛み締めると大粒の涙をこぼし始める。鼻の頭を真っ赤にして、情けなくも嗚咽を上げてもいた。
これから戦だというのに、この子は。
紅葉は嘆息するが、それも無理はないかとも思う。何せ、そのポーチはクレハが金魚のフンのように着いて回った、憧れの、大好きだったゼクトの医療ポーチだったからだ。クレハはゼクトの事が大好きだった。いくら面倒臭そうにあしらわれてもすり込みを終えた雛鳥のようにくっついて回っていた。当時、医療をメインとしていたゼクトが呆れて、しかしどこか嬉しそうに持てる知恵を全て叩きこんだ相手こそがクレハなのだ。
「クレハ。ゼクトの医療技術の高さは知ってるよね?」
「は、はい」
「アンタにそのポーチを預けても平気? 重いなら返してもいいわよ」
泣き続けるクレハそのポーチを庇うように抱き締め、首を振る。袖で涙を擦り、鼻をすすり、歯を食い縛るクレハ。赤麗のみんなはクレハの思いを痛いほど知っている。だからこそ慰めはしない。これが彼女の出発点でもあり、巣立ちでもあるから。
「重いでず……。でも、わたじは、返じまぜんっ」
「そう。ならいいわ」紅葉は全員を見直すように視線を走らせると優しい声音を出した。
「今回の戦は、これまでの意識を一変させる」
「それはどういう意味ですか?」
イルラカが尋ねれば紅葉は深く頷いてまた全員と目を合わせていった。今まで戦いという華々しくもない、泥臭くて血生臭い場所を共に生き抜いてきた仲間達。助け合って勝利の喜びを分かち合って、寝食を共にし、時には喧嘩したりもした。それだけに掛け替えのない仲間。自分にとっては家族のようなものだ。
「私達の戦闘スタイルは己の命など顧みずに剣を振るう事だったし、私がそれを強制してきた。死を怖がる弱者に用はないし、何よりも臆病風に吹かれる事は士気に影響して仲間達が危機に陥ると思っていたから。だけど今回ばかりは違う」
紅葉はふっと微笑み、
「死にそうになる前に退きなさい」
部下達が唖然としても紅葉は続けた。
「何も逃げろって言ってるんじゃないわ。少しでも戦いに不利を感じたら一旦退く事が第一条件よ。その後でクレハに治療を頼むといいわ。今回の大戦が特殊条件下で行われる事は知ってると思う。だから、危なくなったら近くの街に逃げて体力を回復させてから戦いに臨んで。それが可能になったのも、あのバカのお陰だし、使わない手はないわ。――そしてこれは絶対条件」
今までの穏やかな表情から気合いが込められた瞳に一同は背を伸ばす。クレハだけはまだ泣いてるが。
「全員、どうか死なないで」
シン、と静まり返りテントを打つ雨音だけが広がっていく。思いの丈が込められた言葉だけがそれぞれの心を宿り場として染み込んでいくだけ。部下達は方向性を変えた紅葉に何故か、とは問わなかった。紅葉の想いを受け止めてそれぞれが笑みを零して頷く。やっぱりクレハだけは違っているが。優しい事を初めて言う紅葉に対しても感激しているようだった。
紅葉が肩を叩いてやり椅子に座ると、クレハがポーチを抱き締めたままよろよろと一人の隊員に近寄って行く。そして胸に額を埋めると、
「抱きじめてぐださいっ」
直球の慰め希望だった。
どこまで甘ったれなんだか、と紅葉は水で喉を潤すと傍にはイルラカが。姉御肌の隊員に抱き締められ、元上流階級だった隊員には頭を撫でられている光景を微笑ましく見つめている。
「ゼクトも喜んでいるでしょうね」
「どうだか。クレハがあんなんじゃ、また溜め息でも吐いてるんじゃないの?」
イルラカはくすっと笑い「かもしれませんね」
大戦までに残された時間をどうやって過ごそうか、などと考えているとテントの中を不審者のように覗く者と紅葉の視線がびったりと重なる。向こうは驚いて身を引くが、やっぱりこそっと見てきていた。何か用があるのだろう。それにしても、赤麗の誰もが気付けないほどの気配の断ち方は見習いたいものだ。呆れ半分の紅葉だったが無視するわけにもいかない。
「どうしたの? 何か用でも?」
メンバーは突然声を出す紅葉を一度見た後、その視線を追ってテントの出入口を一斉に見た。もう赤麗の中では知らぬ者はいない。スクライドの上将軍を知らずとも彼の事は誰もが知っている。抱いている感想はそれぞれだが。その者とは樹楊であり、こうして赤麗の仮設テントの中に訪れようとする勇者は彼以外いないだろう。最も、暴力を加える気などないのだが、赤麗はやはり敬遠されているのだ。しかし、やっぱりと言うべきか。樹楊は紅葉に声を掛けられると堂に入った姿勢で入ってくる。
「よ、話は終わったか?」
「そりゃね。私達には回りくどい作戦なんて必要としないのよ」
「それは首領が熱くなり過ぎて難しい作戦を忘れるからでしょう」
さらっと真実を暴露するイルラカに紅葉は「う゛」と、カエルを踏み潰したかのような低い声を上げる。樹楊はその事実に馬鹿を見るような憐れむ目で紅葉の頭を撫でた。まるで幼児を慰めるかのように。
「大変だな、お前のぱっぱらぱーな頭の中身も」
「うっさいわね! 用件はなんなのよっ」
部下の手前で恥ずかしさを隠すようにがなり立てるが効力はイマイチのようで、それどころか、さっきまで泣いていたクレハが満面の笑みになってこちらを見てきている。まるで「お花畑を見つけましたっ」と言わんばかりに眩しい笑みだ。クレハはポーチを抱き締めたまま弾む足取りで向かって来ると、
「よしよし」これまた満面の笑みで撫でてくる。
何て失礼な子だろうか。どこかズレている事くらいは解っていたが、仮にも首領である自分の頭を撫でるとは。何か気にいるところがあったのだろう。あははーっと撫で撫で。この子には何を言っても無駄だとこれまでの経験から悟り、大人しくしていると仲間達がどやどやと集まり、クレハと同じく頭を撫でてくる。愛玩動物、それか珍獣のような扱いを部下達から受けている紅葉は目を丸くするが、やがて我を取り戻して部下達を睨む。しかし迫力は激減だ。
「な、何なのよアンタ達までっ」
すると、姉御肌の隊員がにかっと歯を見せて笑う。その悪びれた様子もない態度に何故か押されてしまう自分がいる。今の今までこんな扱いは皆無だった。
「いやぁ、首領って普段から刺々しててさぁ、こうして誰かに頭を撫でられているところを見るのが初めてだったからアタシもついねー。ま、サービスって事で見逃しちくりよ」
紅葉は赤麗の中でも最年少であり、この場にいる者達は年上ばかりだ。威厳は年齢に関係ないと思ってきていて、それを貫き通せていたものだとばかり思っていた紅葉だっただけにこの扱いは屈辱で、だけど新鮮で嬉しい、いや、こそばゆい。何度かイルラカに慰めてもらう時もあったがそれはそれだ。どうしてこうなったのか、などはニコニコしているイルラカに尋ねなくとも明白だ。脇でニヤニヤしているあの男の所為だろう。
「アンタの所為だからね、こんなのっ」
「いいじゃねーか、たまにはよ。なぁ、イルラカ」
「はい、そうですね」
何故樹楊の味方をする。
そんな事を言ってもキリがなさそうなので、紅葉は樹楊に用件だけを聞いて追い返そうとした。しかし樹楊は特に用件などないらしく様子を見にきただけと言う。そんな悠長な事をしてる場合なのか、この特殊部隊の軍師サマは。紅葉はそこで樹楊の姿恰好を見て、違和感というか少しばかり頼りに思えている事に少しばかり驚いた。この男は、出逢った頃は三人の兵に囲まれているだけのクセに懸命に逃げ道を探していた。飴玉でもあげたくなるほど哀れに思っていたけど、今は違う。スクライドに勝利をもたらす者がいるとすれば、それは樹楊だと当たり前に思っている。すごく不思議。着ている戦衣が純白に変わった所為だろうか。早速赤麗のメンバーと打ち解けている樹楊が少しだけ遠い。あんなに情けなかった男が、今では特殊部隊の軍師。世の中、思いもよらぬ事が起きるものだ。
樹楊は赤麗の面々と談笑すると満足そうに近寄ってくる。どういった反応をしていいか分からずそっぽを向いていると、樹楊が切り出しにくそうに視線を右往左往させていた。
「どうしたのよ。そわそわして」
「いや、お前に話があんだけど」
「そ。で、何?」
尋ねてやるも、樹楊はやはり言い出しにくそうな素振りを変える事はなかった。傍に立っていたイルラカは何かに勘付くと口に片手を添えてフェードアウトしていく。あとはお若い者達でごゆるりと、とでも言いそうな感じで。周りのメンバーも何やら期待感たっぷりの瞳でわくわくしていた。クレハだけは疑問符を頭上で躍らせていたが、ひそひそと耳打ちされると瞬く星のような瞳で見てくる。
え、まさか。
「ここじゃ言いにくいから、ちっと外まで来い」
ぎこちなく頷くと、メンバーの視線の熱気は更に急上昇。ついでに紅葉の顔の熱もグングン上がっていく。樹楊は外に出ると強くなっていた雨に舌打ちをして、それでも歩いて行く。地はぬかるみ、視界は雨と霧で悪くなりつつある。ここから北東には今頃クルード王国の軍勢が陣を張っている頃だろう。樹楊は少しばかり離れた小屋に入ると、そこに紅葉を手で招く。中には運ぶ飲食物にビニールを掛けている兵がいた。ここ本陣も兵糧となる一つの拠点だ。
準備をしていた兵だったが、ようやく作業を終えたようでラクーンに報告をすべく樹楊に敬礼をすると退室していく。ここは使われていなかったのだろうか。埃臭くて湿気が肌にまとわりついて不快だ。まさか、樹楊はこんなところでまさかな事を言うのだろうか。何も乙女趣味なわけではないが、こんな場所では勘弁してほしいと切に願う。
「あのよ」
「な、何っ」
声が微かに上擦り、緊張もある所為か恥ずかしさが倍増していく。樹楊は頬を掻くと、兵糧に手を乗せた。やっぱここでも言い辛いんだけどよ、と前置きし、
「お前らって、結構食うのか?」
「は?」
ここ十年で一番呆気に取られた瞬間だった。
イマイチ意味が理解出来ない。って言うか、何それ。
想像していた事から随分とかけ離れた言葉に紅葉は激しく混乱して、大事に持っていたどんぐりを崖の底に落としてしまったリスのような顔で呆ける。
「だからよ、兵糧の事だっつーの。割り振りがあんだろ? ホラ、蓮とか滅茶苦茶食うからよ、お前らはどうなのかって事だ。んな事、他のメンバーの前で訊けるわけねーだろ?」
そうだった、そうでした。
この男はそんな恋愛どうこうから程遠い位置にいるクセに色んな女と出逢う、そして告白だのなんだのを考えるような奴ではなかった。それは理解していたけれど、あんな連れ出し方をされれば期待するっていうもの。今更だけどやっぱり腹が立つ。樹楊は早く答えが欲しいらしく、兵糧を叩いてこちらを見ている。紅葉は期待したのは自分が馬鹿だっただからと拳に集約されていく怒りをなんとか堪えていた。
「そんなの、そっちで勝手に決めればっ?」
でも口調には出てしまう。
こういうとこが樹楊を遠ざけているんだとは解っていても。
樹楊はむっとしたらしく、荒い足音を立てて紅葉の前にまで行く。しかし紅葉は背を向けると出口へと向かってしまった。馬鹿らしい、そんな事を口にしながら。その台詞が気に喰わないのか、樹楊は紅葉の肩を掴んで引き留めた。
「大事な事だろうがっ」
紅葉は手を強く払うと、
「足りなきゃ自分達でなんとかするわよ! 今までもそうだったんだからっ」
「お前な、少しくらい気ぃ使えっ」
「何によ!」
何が起こったのか解らなかった。
両肩を挟むように掴まれたかと思った瞬間に身体を引き寄せられ、樹楊の顔がゼロの距離にある。目を閉じていて、まつ毛が長いと初めて知り、それで唇には柔らかな感触が強く触れてきている。それが樹楊の唇だと理解した時には離れていくところだった。
恥ずかしくない。
嬉しいなんて感情も込み上げてこない。
ただ、鼓動だけが存在を主張するように高鳴っている。
言葉なんて出てくるわけがなかった。
「だから……気ぃ使えよ。俺は苦手なんだ、こういうの」
真っ直ぐに目を合わせられ、囁かれた後、また身を引かれて今度は抱き締められる。胸をノックしてくるような樹楊の鼓動が伝わってきて身体に溶け込んでいく。それに応えるように、自分の鼓動も重なり、暖かさが広がっていった。
「自惚れて悪かった……」
優しく響く、樹楊の声音。
紅葉が何も返せず、指一本動かせずにいると樹楊は名残り惜しそうに離れていった。そこでやっと紅葉の感情が動き出した。離れないでほしい。もう少しだけでも身体を合わせていたい。そう願い、顔を上げると。
「――――っ」
微笑む樹楊がいて、声が出なかった。
その顔は知らない顔だったが、よく解る。
樹楊が全てを捨てる覚悟を持っている事を悟れた。
瞳に光はなく、未来なんてモノをうつしてはいない。恐らく、この戦で命を落とす事を視野に入れているのだろう。どうしてこの男は死に急ぐ事ばかりするのだろうか。そんなに背負わなくても歩いていけるはずなのに。どうして簡単に命を諦められるのだろうか。確かに自分も戦場では命を掛けている。死す事もあるだろうと思っている。だけど樹楊は違う。初めから自分の命を白刃に晒すつもりでいる。砕羽は死に近い部隊だとは聞いているが、そんなにあっさり死を受け入れなくてもいいはずなのに。
「じゃ、紅葉。勝ちにいこうな」
肩から離れていく手を、紅葉は繋ぎ止める、自らの手で。
こんなに自分の命を虚無に思える顔をされれば、何も言えなくなるだろう。しかし紅葉は違う。我儘なのだ。自分の思い通りに行かなければはらわたが煮えくり返るほどの怒りを感じる時もある。そういうのは我慢できないのだ。
「約束しなさいよっ」
「って、イキナリだな。つーか何をだ?」
紅葉は樹楊の胸倉を掴むと引き寄せてやり、爪先で立つ。
そして、今度はこちらから唇を重ねてやった。
それを樹楊は受け止めるかのように腰に腕を回して抱き締め、紅葉も首に腕を回して離れていかないように力を込めた。一度唇を離すが、再度重ねる。これが恋人同士のそれだとは到底思えない。これに幸せなんか感じる事は出来そうにない。だけど離したくはなかった。それでもこのままずっと、というわけにもいかず、二人はお互いの唇を離す。抱き締め合ったままで。
「今度は、夜景が綺麗な場所でして」
「それが約束か?」
「うん、悪い?」
「いや。けど意外と少女趣味なんだな」
「こんな誇り臭い場所でするアンタよりマシよ」
小声で伝え合うと樹楊は鼻で笑い、もう一度唇を求めてきた。
紅葉もそれに応える。
この時、何故か解らないけれど樹楊の感情が流れてきたのが解った。。
それが悲しかった。だけど何も言えない。
これ以上、何も。
紅葉は痛いくらい解ってしまった。
樹楊は約束を守る気などない、と。
◆
同時刻、クルード王国の本陣より南西に位置する場所に殲鬼隊は大戦までの束の間の休息をそれぞれが取っている。こちらはガチガチのスクライドとは違い肩の力も抜けている。流石、百戦錬磨の部隊と言える。今はリラックスしていても、いざ戦の音がなればそれぞれが闘争本能を剥き出しにして敵に牙を突き立てる戦士となるのだ。
ところが、オルカを抜かせばその中での紅一点であるスイは落ち着きがないようにうろちょろしている。その傍では双子の弟であるサイがパックの牛乳をストローで呑気に飲みながら椅子に座っていた。やる事もなく暇なので、姉の挙動不審なる行動を数えながら。右往左往するスイは、ちなみに四十五往復目である。しかも狙ったかのように五往復目に一度、足を止めて腕を組むもんだから少しばかり見ていて楽しいものがある。そして十往復に一度は傍にある岩を蹴って苛立ちをぶちまけている。つくづく気性が荒い姉だなぁ、と生暖かい目で見守るサイ。まだ午前だというのに、生憎の曇天で薄暗く気分も浮かないのだろうか。いや、姉は晴天が似合うような爽やかな女性ではなかったか。スイは通算五十往復目で遂に舌打ちすると、例の如く岩に向って足を振り被った。間違いなく、本日で一番の威力だろう。
しかしタイミング悪く、カエルが「げこっ」とスイの蹴りの目標地点に飛んでくる。いくら人殺しのプロであるスイとはいえ、カエルだけは苦手らしい。目標を失った蹴りだが止めきれずに、それでもカエルだけは潰したくないのか内側へと軌道を変える。力強く素敵で豪快な空振りをしたスイは、地面がぬかるんでいるのもあり、すてーんっ、とコケた。
「おにゃっは!」
猫が命の全てを掛けて砲丸投げしたような声で地に背を打つスイ。
牛乳が鼻から噴き出すのを堪えるのに、サイは一生分の集中力を鼻に注がなければなかった。折角モデルチェンジしたばかりの黒い長衣が泥に塗れ、怒りの頂点にまで達したスイは、馬鹿にするようにげこげこと鳴いているカエルを威嚇するように睨んでいる。だが触れるわけもなく、スイは何かを探すように辺りを見回し始める。そしてサイの武器である鉄の棒を目に留めると、美しい花を見付けた少女のような笑みを向けてきた。
「サイ、その棒を貸してくれっ」
「やだよ。蛙を潰した棒で戦いたくないってば」
「大丈夫だっ。ちょっと潰すだけだ」
潰すのにちょっともくそもないんだが。
首を振って拒否してやるとスイは面白く無さそうに口をへの字に曲げる。丁度そこに、軍議を終えて帰ってきたオルカとラファエロ。オルカはスイの泥塗れの姿を見て、何故か楽しそうにはしゃぎ出す。これから大戦が始まる事を自覚しているのだろうか。
「さて、皆さん。お集り頂けますか?」
ラファエロが声を張って隊員を呼ぶ。誰も文句を呟く事無く集まり、はしゃいでいたオルカも頭角たる姿で皆の前に立った。その隣にいるラファエロは全員の顔を確認すると頷いてから口を開く。
「いよいよ大戦が始まりますが、もう一度我々、殲鬼隊の目的を確認します。我々はスクライド王国の樹楊という者の捕縛を最優先とします。服装は真っ白な長衣で、顔などは以前にお渡しした資料を確認すればお解りでしょう。前回の会議では、彼をなるべく傷つけないようにと申しましたが、変更します」
ラファエロはまた全員の顔を見回し、低い声で告げてくる。
「生きてさえいれば、どう捕縛しても構いません。目を潰そうが、足を斬り落とそうが……生きてさえいれば何でもいいです。そこは個々にお任せ致します。しかし、彼は簡単には捕まらないでしょう。今回の大戦の条件はクルード王国やスクライド王国、どちらが優位に立てるか――などではなく、彼自身が動き易い条件だと私は考えております」
あの日、オルカらが大戦の布告をスクライド王国に叩きつけた時だった。
後から呼ばれた樹楊が突き付けてきた条件。それが国単位というよりも、樹楊個人が優位に立てる条件だろうとラファエロは言う。
今回の大戦は通常の大戦とは違う。
通常の大戦はある程度の範囲を決めてその中で争うという単純なものだが、今回の範囲はスクライド王国が所持する領地を全土使うという馬鹿みたいに広い中で戦わなければならない。その中にある都市や村は中立地点とし、戦争禁止区域とされる。つまり、その中で敵兵と会おうが争ってはならないという事だ。しかしあくまで休息地点としてしか使用できない為、一日以上の滞在は認められていない。基本は通常の大戦に乗っ取るという事だ。少し考えれば、そこでズルをしてもバレないのだが、そこは個人の自由だとも言う。自分の立場を考えて、国に仕える兵としての誇りをどう扱うかは自由だと。
勿論、クルード王国にそんな面汚しはいない。スクライド王国の兵もそうだろう。だが樹楊はどうなのか。彼は勝つ為ならなんでもやる男だ。ズルをしようが何をしようが、最後に立っていた者が勝者だと考える兵らしからぬ者だ。あいつは要注意だ、とスイはサイに漏らしていた。
確かにねとサイも思う。
スクライド城下町に潜伏していた時、サイはクルード兵による夜襲を遠くから見ていた。その時に見た樹楊の姿は以前の樹楊とはまるで別人で軽く戦慄を覚えたくらいである。冷酷無比、それが今の彼に当てはまる言葉だろう。捕まった兵を義理だって救出する気もなかったサイはその光景をラファエロに報告した。するとラファエロは少しも考えずに「演技でしょう」の一言で片付けたが、サイにはどうにも腑に落ちないモノがしこりとなって胸に残っている。確かにアレは演技かもしれない。だが、樹楊は変わった。何が、と問われれば明確な答えを返せるわけでもないが彼は間違いなく変わった。
ラファエロを中心とした軍議が終わりを迎えると、スイが浮かない顔で考え込み始める。その間にも殲鬼隊の皆はそれぞれの持ち場へと向かい始める。スイはその光景を目に留める事もなく意を決めると、ラファエロの元に向かった。
「なあ、私達の総大将の護衛には向かわなくてもいいのか? うちの総大将は肩書きほどの腕はねーぜ? 実力主義の中だっつーのに、金でモノをいわせてる奴だろ?」
「その必要はないでしょう。我々が出向かずとも、進軍の経路から考えれば三日後には別部隊と合流するはずです。そこから先も、何部隊かと合流する手筈ですので」
「そっか。なら私達は自分達の仕事をすりゃーいいってわけだ」
「その通りです」
スイは納得したようで晴れ晴れとした顔で鉄扇を二つ、腰に携える。サイは棒を担ぐと、霧が出始めた森の中へと駆けていった。
◆
それから二日後の夜。
キラキの町よりも西に位置する草原にクルードの総大将は仲間達と休息を取っていた。敵の進軍状況も得て、ここからはまだ遠いと警戒心も薄れているのだろう。テントを張って焚火をしていた。
「いやぁ、見事な月夜ですなぁ」
部下の一人が焚火に顔を照らされながら間延びした声で空を見上げる。
今宵は三日ぶりの晴天で雨雲こそ夜空に浮かんでいるものの、その数も少なくて雨を危惧する必要はない。しかし、足元をはっきりと確認するには月の明かりだけでは頼りない夜である。総大将は水で喉を潤すと、部下の視線の先にある月を眺めて目を細めた。動く度に黒い鉄鎧の擦れる音が闇に響くが、慣れているからか気にしてはいないようだ。総大将は兜を傍に置いて首を鳴らす。
「うむ。早くケリをつけて勝利酒を飲みたいものだな」
「そうですなぁ。勝ったも同然ですが、こうして戦場に身を置いているとどうも酒が恋しく思えます。わた――」
突然、正面に居た部下が言葉を途中で切る。
夜空から部下に目を映した総大将はまだ顔を綻ばせていたが、その部下が関節をなくしたように横へと倒れると目を見開いた。首に、矢が刺さっている。
「て、敵襲だぁ! 迎え討て!」
総大将が現状をいち早く察知して声を荒げると、傍に腰を下ろしていた部下は焦りながら立ち上がろうとした。しかし、それも闇から放たれる矢に遮られ、命を落としていく。一矢で一殺という驚くべき腕前で。部下は一人減り、また一人と倒れていく。総大将は防御の為に兜を被ろうとしたのだが、部下に奪われてしまった。
「何をするか!」
「なりませんっ、恐らく敵はまだ大将が誰なのか――わかっ」
鎧の上から心臓を射抜く、その矢。
通常の弓ではそこまでの威力は出せない。力の全てを失って地に崩れ落ちる兵に見開いた目を向けられた総大将は後方へと下がると、部下に護りを命じてそこで兜を被る。するとそこに矢が飛んでくるが、偶然にも部下が構えていた剣に当たって難を逃れる事が出来た。総大将は焦りに滲む声を振り絞って吐き出す。
「何故だっ。報告では敵はまだここまで来てないはずだ」
「っくく。そりゃ、俺が流したガセだ、馬鹿が」
実に愉快そうな声音で答えたのは闇を挟んだ向こうに居る、誰かだった。木を継ぎ足していない焚火は火を保てずに燻り、やがて消えていく。部下達は己の身体を盾とせんばかりに総大将の周りを囲んで構えていた。誰かが固唾を呑み込めば、続く、鳴る喉。
足音も皆無。気配など、サバイバル経験に乏しい彼らでは掴めるはずもない。ただ声がした南西の方角を厳重に警戒してはいる。そこからぐるっと囲むように森が広がっていて、闇夜の不気味さを演出していた。
時間だけがゆっくりと過ぎ、緊張を煽るような風がゆるゆると吹く。
そして、ついに動きがあった。
森の中から発光体が頼りない速度で飛んできたのだ。その発光体に目を奪われる兵達。その刹那、発光体は炸裂し、視界の限界まで広がる眼潰しのような輝きを放つ。
「しょ、照明弾っ!? くそっ」
部下の一人が悪態を吐くとそれぞれが腕で目を庇い、総大将への護りも一層固め始めた。誰もがこの瞬間に敵が斬り込んで来ると思ったのだろう。だから、誰も現れない事に対して不審そうな顔を浮かべた。強く瞬きをし、遠くを見たり周囲を見回したりと、まるで悪夢に振り回されているかのように。
この時、誰も気付いていなかった。
上空、高い位置で胡坐をかくように足首を交差させ、大きな鎌を振り被っている者に。汚れとは程遠い純白の長衣は風に靡き、大鎌は月の光を残酷に反射させてる。
それは他の誰でもない、樹楊だった。
――もらった!
勝利を確信した。
赤麗のカヲルの情報に近い場所に総大将は陣を構えていて、臆病だ。大将の目印となる派手な兜を被っていなかったから弓で仕留める事は出来なかったが、この一手で大戦は終わる。誰も死なずに、護り抜ける。
それは間違いなく、歴史上でも最速で終わる大戦記録となった。
邪魔さえなければ。樹楊の動きを呼んでいる者がいなければ。
樹楊があと僅かでクルードの総大将の首を落とせるという時、北東の森から何者かが飛び出してきて手首を押さえてきた。それは樹楊にとっても想定外で、まさかその者が来るとは思ってもいなかった。
自分の戦衣とは真逆の漆黒の長衣を纏い、後ろで纏められた金髪を扇子のように広げている髪型をする女性。気性が荒く、口も悪いこの女は。
「っく、スイ! てめぇっ」
上空で樹楊の腕を取ったスイは勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。しかし樹楊はスイの腹に足裏をピタリと付けると、身体を反転させる勢いを使ってその足で投げ飛ばす。そして鎌をポーチに収め、クルード兵の肩に着地すると大きく後ろへと跳ぶ。空中で投げ飛ばされたスイも身体を捻ると軽やかに着地して樹楊と対峙した。そこでやっと二人の存在をはっきりと確認した総大将は間近に迫っていた敵兵に驚き、声も出せずに一度だけ身体を震わせる。
両手両足を地に着け、まるで獣のように背を丸めて構える男は真っ白い長衣を着ている。そして顔にも白い陶器のような仮面を着けているが、骸骨のような細工をされた金属が目を覆っている。その奥からは虚ろな目が零下の殺意を宿らせていた。改めて震える総大将はスイに怒鳴られる事で現状を理解し、指示されるがままに撤退を開始し始める。
「やべーやべー。たった二日で負けちまうとこだった」
「てめぇ、何で俺の動きが解った?」
「勘に決まってんだろ? 胸騒ぎがしたからよォ。つーか、何だその仮面は。舞踏会にでも出んのか?」
「フン……。俺はお前に構ってるヒマなんざねぇんだよ」
「私はお前に用があんだけどな。どうだ? 夜のデートにでも行かねぇか? 私としてはお前が足を失くす前に了承を得たいんだけどよ」
ふざけた誘いを文句を吹っ掛けてくるスイだが目は笑っていなかった。樹楊は地から手を離すとゆっくりと上体を起こし、スイは鉄扇を広げずに構える。二人の間を風が通り抜け、それはまるで壊れぬ壁のよう。
誰かが邪魔する可能性を想定しなかったわけではないが、まさかスイが来るとは思わなかった。相手としては最悪の部類に入る。スイの実力は身をもって知らされたし、あの時から大分時が経っている。この負けず嫌いそうな女の事だ。そうとうな修練を積んできただろう。勝てるわけがない。だが、それはここでやり合った場合のみだ。
樹楊は宙を払うように蹴り、ブーツに仕込んでいたナイフをスイに向かって飛ばすと重心をを低くしてクルード兵の屍の間を駆け、森を目指す。それをスイが大人しく見送ってくれるわけもなく、飛んでいくナイフを顔を逸らすだけで避け、当然のように追ってきた。だが、それが間違いだ。夜の森では負ける気がしない。
月の明かりさえも頼れないほど深く闇に落ちた森を樹楊は掛けた。仮面のようなフェイスガードは暗視を可能としていて苦にはならない。颯爽と駆ける事が出来るのだが、スイも着いてきている。殲鬼隊とは名ばかりじゃないな、と樹楊は相手の評を上げながら目的地を目指す。緩やかな斜面に鬱陶しいくらい生えている木々の枝を足場としながら下へ下へと向かい、スイを誘導しながら。
そして、丁度森の中央に位置する場所にまで降りてくると、樹楊は大木の枝の陰に身を潜めた。息を静かにゆっくりと吸い込み、呼吸を森と合わせてやる。存在を殺し、身体から気を抜いて自分の全てを森に捧げる。そうする事で、気配はほぼゼロになり、やっと追い付いたスイは樹楊の気配を探りに入った。しかし、捉える事は出来ないようで、閉じた鉄扇を構えながら周囲を念入りに見回している。見付けれはしないようだが、流石だ。付かず離れずの距離を保っている。しかし、それは樹楊の罠でもあった。スイの頭上を飛ぶように移動し始める樹楊。些細な気配を出してしまうのは仕方ないがそれでも音を消して。縫うように、一本の伸縮鋼線を引きながら飛ぶ。
「オラ、追いかけっこは終わりだ。出てこいよ。今なら危害は加えねぇ」
「誰が出るか、アホ。スイ、お前はここで終わりだ」
樹楊の声を聴覚に頼って探るスイ。しかし樹楊はそれで捕まえられるほど愚者ではない。スイの頭上を飛びながら捉えつつあるだろう気配を撒き散らす。そのスピードはスイも舌打ちするほどだった。そしてようやく足を止めた樹楊だが、姿は見せない。戦闘でのスピードはスイの方が上だろう。しかし、撹乱に限っては違う。深い闇の森でなら尚更だ。
「私がここで終わりだぁ? ふざけろ。周りはクルード兵だらけなんだぜ? 私がデケェ声出せば、ぞろぞろと救援に来る。そうなればお前の方が終わりだ」
「っははははは、スイ。この森な、陥没の深緑つってよ、今領政官サマが頭を悩ませる地域の一つでねぇ」
樹楊はスイが口を開くよりも早く、上空へと救命弾を打ち放つ。その弾は破裂すると真っ赤な火花を撒き散らして仲間へと信号を送る。しかし、その弾は。
「馬鹿かお前はっ。そりゃ、クルードの救命弾だ。自分の首を絞めてどうすんだよ」
スイは愉快そうに笑い、消えていく救命弾を見送った。
「ああ、そうだ。さっき森に入る前に拝借させてもらったんだよ」
樹楊はクルード兵の屍から救命弾を放つ銃を奪い、それから森に入ったのだ。しかしこれも計算の上だ。こうしてクルードの兵をこちらに導く必要がある。しかし、それには少しばかり時間が掛かるだろう。
「スイ、俺は釣りが好きでな。特に撒き餌を使った釣りが大好きだ。そうやって小魚を釣って、大物の餌とする。それが堪らなく好きなんだ」
「この状況で何を……。樹楊、悪い事は言わねぇ。私と来い。出来ればお前を傷つけたくねぇんだよ」
この状況で何を、というのはこっちのセリフだ。
敵を傷つけたくないなど戯言だ。スイはオルカの為を思って言っているのだろうが、生憎こちらは応じる気などない。つまるところ、自分とスイは争わなければならない関係なんだ。どちらかが死ぬまで。だが、樹楊もスイを殺したくはないと考えないわけではない。偽善心ではない。そんな自分らしくない想いが生まれたのは、あの時、スイにクルードへと連れて行かれた時だった。スイの一面を見て、もし同じ国に生まれれば仲良くなれたかもしれない。それか、争いのない時代に生まれれば、きっと……。
「スイ、どうにもなんねぇんだよ。こんな時代じゃ、どうにもな」
「解ってんよ、そんくらい。けど、最善の手がないわけではないだろ」
「お前の最善と俺の最善は違う。立つ場所が違い過ぎるんだ」
「……そうか。残念だ」
スイは目付きを冷たく変えると再度周囲を探りに入った。これ以上、和解を口にする事はないだろう。だから、スイをこの場で殺す。元より道徳心などない。スイの遺体が誰のものか分別つかなくなったとしても、心を痛めるつもりなどない。
樹楊はポーチの中から真っ赤な液体を包んだ袋を取り出し、スイを目掛けて投げつける。スイはそれを武器と勘違いしたのか、斬り付けた。すると、袋は裂けて中の液体がスイに満遍なくかかる。
「っんだァ! くっせぇ!」
「だろ? 俺の特製香水だ」
血生臭い匂いにスイが鼻を摘まむと、そこへクルード兵が近付いてくる足音が響いてきた。鉄の鎧だから距離も解り易い。予定通り、東西南北から近寄ってきている。――お前等はもう、罠という底無しの沼に胸まで沈んでいる。這い上がれやしないんだ。だから中途半端には殺しやしない。心と身体、全てを壊してやる。
「この陥没の深緑にはな、とある獣が大繁殖して困ってんだよ。しかも飢えてるときた」
「はぁ? お前、何が言い――」
その時、遠くから雄叫びが響いてきた。雄々しくて獰猛な雄叫び。それは幾重にも重なり、東西南北から木霊してくる。
「あの雄叫びは魔前熊つってな、鹿や猪を好んで食う獣だ」
「知ってんよ。それがどうしたってんだ。あいつは人間を恐れて、傍に鹿の死体がない限り――」
スイは自分の言葉に答えを見つけたようだった。自分の腕にまとわり付いている血生臭い匂いを嗅ぎ直すと、顔を青ざめさせる。
「当たりだ、スイ。そいつは鹿と猪の血をブレンドしたやつだ。その匂いは強烈で、なかなか取れない。そんでな、そいつの匂いをする奴を獲物と判断するんだよ、魔前熊はよォ」
ここは魔前熊が大繁殖している陥没の深緑。
樹楊は総大将を襲撃する前に、念の為にとキラキの街で鹿や猪の血肉を調達していたのだ。当初にはこんな計画はなかったが、ラクーンのぼやきを聞いて閃いた策だ。どんな事をしても、何を使ってでも勝つ。例え、自然の獣を使ってでも。
スイが逃げ道を探そうにも、樹楊を警戒して動けずにいると不運にも救命弾を見て駆け付けたクルード兵が辺りから姿を現してきた。
「く、来るな! 逃げろっ」
「え、ですが。確かこの辺りから救命弾が」
「それが罠なんだっ。早く逃げろ!」
スイの懸命な訴えにも、クルード兵は要領が得ないとばかりに首を傾げて緩やかに撤退をしようとし始めるが樹楊は逃さない。ありったけの血の袋を投げつけてやり、注意を買うと高笑いして怒りを煽り始めた。スイの命令を素直に聞いておけばいいものを、この状況を一欠片も理解していないクルード兵は抜剣して闇に抱かれる森を見上げた。
「敵かっ! 姿を見せろっ」
「よォ、スイ。もう一度行ってやる。俺は釣りが好きなんだ。特に撒き餌をして釣る、な。でも今回の大物ばかりは釣り上げれねぇからお前らにプレゼントだ」
救命弾が撒き餌で、クルード兵が小魚。その餌に寄ってくるのは勿論、大物の魔前熊。それに気付いたスイは破れかぶれに上へと跳ぶ。樹楊が身を潜めている場所とは全然違う場所だが、同じ目線に立ちたかったのだろう。しかし、スイを待ち受けていたのは樹楊が伸縮鋼線で張った蜘蛛の巣のような網だった。その蜘蛛の巣はスイの衝撃により、トラップを発動させてスローイングナイフが雨のように降る。下に居たクルード兵の何人かその犠牲になり、地に降りたスイは再度跳ぼうとは思えなくなったようだった。
「上にはトラップだ。下に居ても、ホラ。もう終わりだ。……終わりなんだよ、スイ」
餌に飢えていた魔前熊が獲物を喰らおうと、森の斜面を駆け降りてくる。獰猛な唸り声を上げて、地を揺らしながら確実に。周囲を囲まれたクルード兵は得体の知れない雄叫びに足を竦ませて中央へと寄り始めた。ガチガチと震える手で武器を握り締めるが、そんな固くなっては森の支配者である魔前熊には勝てないだろう。仲良く餌になるのが目に見えている。魔前熊はただの獣ではない。その名の通り、魔獣と指定される一歩手前の熊なのだ。体格は普通の熊よりも大きく、気性は荒い。紅葉や蓮なら勝てるかもしれないが、通常の兵士では歯が立たないだろう。いくらスイでも、複数の魔前熊相手じゃ結果は見えている。
「樹楊、てめぇ……」
「ゆっくり楽しめ。それとな、鹿の肉を近くにあるお前達の兵糧拠点に送っといたぜ? 開けりゃ……まあ、今からお前たちが体験する事が起きるだろうよ」
「く、そがぁ」
樹楊は見逃さない。
悔しそうに歯を食い縛るスイが不意に兵糧拠点がある方角を見たのを。それは僅かな首と目線のみの動きだったが、樹楊には見えていた。
樹楊はこの近くの兵糧拠点など把握してなどいない。しかし、今のスイの目線でハッキリと解った。ここから北西を目指せば兵糧拠点がある。そこを叩けば士気を低下させる事が出来るだろう。最早悪態しか吐けないスイとはここでお別れだ。樹楊はその眼に僅かな悲しみを残すと足音も無く闇に消え、北西を目指して疾駆する。スイ達に向かっていく魔前熊とすれ違いながら。
樹楊が陥没の森を抜ける直前で聞いたのは、恐怖に怯える悲鳴だった。その命を請う叫びは次々と消えていく。断末魔も。しかし樹楊は耳を塞がない。これが戦なのだから。敵対する命全てを、その尊厳を踏みにじり得るものが勝利というものだからだ。少なくとも、樹楊はそう定義している。
「スイ……。じゃあな」