第三十六章 〜幼き頃から〜
休戦状態をあと二日ばかり残す、星が綺麗な夜。
アギと樹楊は一軒の酒場に来ていた。安価な酒と賑わいと、看板娘の笑顔が売りのお気に入りの店であり赤麗の紅葉とアギが初めて顔を合わせた場所でもある。アギは将軍であり樹楊は異例の昇格を遂げた砕羽の隊長補佐官。その二人がこの場に訪れるのは、俸給が安い他の兵達を委縮させる運びとなるのだが、樹楊やアギにとってはこの馴染んだ酒場でなければ落ち着かないのだ。他の将軍らや政治家が通い詰める上品で穏やかな店はどうにも落ち着かない。自分にはこの店が気兼ねなく飲める酒場なんだ、と樹楊は思っているし、きっとアギも同じ思いだろう。
樹楊とアギは一番隅に位置するテーブル席に座ると、いつも通りの酒を注文し、ついでに葡萄酒を一杯頼んでおく。運ばれてきたのは発泡酒一杯と葡萄酒二杯。それと適当なつまみだ。自分は葡萄酒でアギは発泡酒、しかしもう一杯は何だ? 樹楊が首を傾げるよりも早く一人の兵士が同席してきた。アギが頼んだもう一つの葡萄酒はミゼリアの分らしい。
「遅れてすまないなアギ。いや、今は将軍だったか」
「やめてくれよミゼリアさん。俺らはそういう仲じゃないだろ?」
「人の眼もあるが……まあここは酒場だ。どうせなら美味しく飲みたいしな」
やけに親しい仲だな。樹楊は呆け面で見ていると二人がグラスを持ち上げる。そして同じ様な意味を持つ視線を投げ掛けてきた。ああそうか、と樹楊もグラスを持つと最早仕事帰りの酒場ではお約束の乾杯の音が響く。そしてぐいっと一口。
「っくう、胃に沁みるぅ」
「……ふう、やっぱりここは落ち着くな」
何だ何だ何なのだ何なのだろう、この雰囲気は。アギとミゼリアはやけに自然だ。そりゃ同じ兵士だし同じ小隊長同士だった。それなのにこの慣れ合いは何だ。樹楊はまるで織の中の猿を見るような目付きで二人を見ていると、それにアギが気付く。
「どうした、キョウ。気分でも悪いのか?」
「い、いや」
「もし気分が悪いなら日を改めても良いのだぞ?」
ミゼリアも何だか優しい。日を改めると言われても、今日は何かの記念日なのだろうか。それともこの二人、何か良からぬ事を企てていて自分をそれに加担させようとして? いやいや、この馬鹿が付くほどの軍人気質の二人に限ってそれはない。何せ信念という鉄の棒を頭から真っ直ぐに突き刺し、背筋を伸ばしているような奴等だ。曲がりきった信念を持つ猫背の自分とは違う。まるで世界が変わったかのような雰囲気に包まれていると、乾燥豆を口にしたアギが突然顔を綻ばせる。
「しかし久しぶりだな。こうして三人が集まるのは」
え? と声にはせず疑問を浮かべる樹楊を余所に、
「そうだな。私達が兵士になってから……初めてなんじゃないのか?」
何が? と樹楊はミゼリアを見るが、アギが言葉を返す。
「ああ、そうか。俺とミゼリアさんは時々飲んではいたけど、いつもキョウは忙しそうだったしな。旅にも出たし、帰ってくれば何処かに足を運ぶ毎日だ」
もう理解不可能に陥っている樹楊だったが、そこに止めの一言が二人の口から告げられる。
「こうして集まるのは子供の時以来か」
イミガワカリマセン。
与えられたバナナを剥いてみたが何もなかった時の猿のような顔をしていた樹楊は頷くと、乾燥豆を一粒取る。そしてそれを無表情でじっと見つめると、次にミゼリアの顔を見つめた。ミゼリアが「な、何だ?」と尋ねるも、樹楊は答えず、じーっ。そして手にした乾燥豆を、
「っぐは」
ミゼリアの鼻の穴に押し込んでみた。勿論悪意など無く無表情で。少しばかり塩が効いていて美味しかろう。きっとミゼリアも満足――
「何をするっ」
――するわけなどなく、固く握った拳骨を頭に落とされた。ミゼリアは鼻に押し込められた豆を取ろうと、しかし人前で鼻に指を突っ込むわけにもいかず、怒りも忘れて赤面しながらお手拭きで鼻を隠すと、もそもそし始める。しかし結構奥まで突っ込まれた所為か、中々取れないようだ。で、ミゼリアは二人に視線を外すように強く、恥ずかしそうに告げるとお手拭きで鼻をかむ。
「ったく、お前の行動は一々理解に苦しむっ」
取れた豆を使わない受け皿に置き、樹楊をじろっと睨んだ。
しかし理解に苦しむのはこちらの方だとばかりに樹楊はふんぞり返ると葡萄酒をあおる。そしてグラスを置かずに頭を掻いた。
「さっきからよ、久し振りだの子供の頃だの――一体何を言ってんだよ」
「はあ? それこそ何を言ってんだ、キョウ。俺達は子供の頃よく遊んだだろ? お前がこの街に兵士志願者として移住してきて……ホラ、俺とお前が六歳の頃だ。ミゼリアさんはその頃、十三歳だったかな? 南の森でよく遊んだだろ? いつもお前がミゼリアさんに苛められて泣いててさ」
アギがそこまで言うとミゼリアは恥ずかしさを消すように強くグラスを置くと空咳をもする。
「い、苛めてなどいないっ。アレは、その……ただじゃれていただけだっ」
子供の頃、確かに自分は故郷から兵士志願者として移住し、国民権をも得た。汚らしい格好で、それは後ろ指の的となったのをよく覚えている。しかしそんな日々の終わりは南の森だった。木の棒を持っていた幼いアギに出逢う事で淀む日々が終わりを迎えたのだ。。
アギは自分の格好など目にもくれず、服と同様汚い手に握手を求めてきたのだ。そして、
「おれ、アラサード・ギギト。アギってよんで」
嬉しかった。この街で誰も知らない中で優しく伸ばされる手は暖かくて、泣き出しそうになっていた自分のこころの大事な所をやんわりと触れてきてくれたのだ。そしてそれから毎日その森で遊び、アギに剣術を教えてもいた。その時はアギよりも強く早く、教える事が出来る立場だった。折れている木の棒を持ち、日が暮れるまで打ち合いやら追い駆けっこやら釣りやら……きっと子供らしい毎日を過ごせていた。
そんな時だった。
自分達の遊び場と化していた森に、一人の少女が現れたのは。
少女は美しい瞳を持ち、天使のよう色素の薄い金色の髪をなびかせて木の陰からこちらを見てきていたのだ。少女はアギの知り合いらしく、確か呼び名は――。
樹楊は前のめりに立ち上がると、頭突きをするような勢いでミゼリアに詰め寄る。
「まさか、ミゼリンがあの『みーちゃん』だって言うのでしょーかっ」
「な、懐かしいあだ名だな。と言うかミゼリンは止めろ、それに唾を飛ばすな」
弱々しく指摘するミゼリアは今年最大の迫力の樹楊に気圧され気味だ。それでも樹楊の尋問は終わらない。
「ほんっとーにみーちゃん!?」
「ほ、本当だ。まさか忘れ」
「ほんっとーにあの! そう、あの肉弾みちゃ!」
「その呼び名は止めろ、ばかっ」
ゴカ! という激しい拳で樹楊を黙らせるミゼリアは頬を赤く染めていた。ミゼリアは口をすぼませると明後日の方向を見て「もう肉弾なんかじゃないっ」と言う。重ねて拳骨をもらった樹楊は痛む頭を擦り、ミゼリアの顔をまじまじと見つめる。すると恥ずかしそうに顔を逸らされるが、回り込んで凝視。これを何度か繰り返すと再び拳骨。
何度怒られようと信じられないのだ。
みーちゃんは確かに美しい瞳と髪の少女だった。しかし着ている服はいつも限界突破を強いられていたのだ、肉で。ほっそりとした子供は綺麗だが少しばかり弱々しそうで心配になる。少しばかりふくよかな方が子供らしくて気兼ねなく遊べる。しかしミゼリアは、みーちゃんは規格外だった。むっちむちの身体で二重顎。大きめの服を着ればいいのに、当時はお嬢様気質だったミゼリアは綺麗な服を好み、ドレスシャツを着ていた。そして会って半刻もしない内に一つのボタンが鉄砲玉のように飛んで逝く。そう、素晴らしいほどに楕円形の身体を持つ少女だった。
樹楊は旅から帰ってきてみーちゃんに会おうとしたのだが、すぐさま兵の配属やら規定やら報告やらで大忙しだったのだ。そうしている内に会おうとしていた気持ちが薄れ、自分なんかと会っているほど暇じゃないだろうと勝手に判断して今日まで生きてきたのだ。そもそもみーちゃんの家なんか知らなかったし。知っているのは何処かのお嬢様だという事。それをアギに訊こうともしたが、何となく訊けずにいた。だってアギは、自分が旅に出る頃のアギは少なくともみーちゃんの事が好きだったから、何となく訊けずにいたのだ。
しかし、そのみーちゃんがまさかミゼリアであり、自分の上官だったとは気付かなかった。そもそも「お帰り」の一言くらい言ってくれれば気付けたのかも知れないのに。重ねられていた記憶を心に映す樹楊の顔は優しかった。そして過去の想いを瞳に映し、それをミゼリアに向けてもいた。
「まさかお前、私の事を忘れていたんじゃないだろうな」
「いやいや。忘れてなんかないっすけどね、気付けなかったと言うか」
「は? じゃあ今まで私を誰だと思ってたんだっ」
「ミゼリンはミゼリンだと。仕方ないじゃないっすか。子供の頃は肉弾みーちゃんだったんすよ、それが今じゃ綺麗になって」
「肉だっ、綺麗……、ばかもの!」
これで何度目だろうか、拳骨。
頭を両手で押さえる樹楊だが嬉しそうで、ミゼリアは少しばかり赤面している。その正面のアギは、細めた眼で懐かしそうに微笑んでいた。
◆
部屋に籠っているのもただ退屈で休戦状態もあと二日しかない事から、どうせなら今の内に羽根を伸ばしておこうと決めた紅葉はイルラカを連れて酒場に訪れた。今日はイルラカとのんびり飲んで夜を更かそう、そう決めていたのに……何なのだろうか。この馬鹿騒ぎをする奴等は。酒場の片隅に五人。大いに盛り上がっている。と言うよりも騒いでいる。どこの馬鹿がハメを外しているのだろうかと横目に通り過ぎようとしたが、その五人組を見た紅葉は顔を引き攣らせた。
騒いでいるのは、模範的な軍人と思っていたミゼリアにアギ。それとやっぱりと言うべきか、樹楊。それに加えてクルスやサルギナもいる。アギとミゼリアを抜かした三人に酒を与えるというのは、火に油を注ぐようなもの。大炎上もいいところだ。
誰から見ても楽しそうな雰囲気ではあるが、その五人の肩書は一般兵士から見れば眩いばかりで賑わう事すら自重してしまうだろう。しかしそんな事は気にもしない、関係ない紅葉としては何時もなら加わりたいと思うのだが、今日は少しばかり気が乗らない。幸いにも向こうはこちらに気付いてはいない様子だ。
紅葉は踵を返しながら、
「イルラカ、場所を変えるわよ。今日は騒ぐ気分じゃない……あれ?」
何時の間にか隣にいたはずのイルラカが忽然と姿を消している。紅葉はその姿を探そうとしたのだが、それよりも早くイルラカの弾んだ声が酒場に響き渡る。
「かんぱーいっ」
いえーい、という追従を受けて葡萄酒を一気飲みするイルラカが既に樹楊達のテーブルに着いていた。ぐいぐいと男勝りに飲み干したイルラカはグラスを逆さにして飲みきったアピールをすると、間を置かずに盛大な拍手が送られる。負けじとクルスも一気飲みをして場を盛り上げると、そこにノリノリの樹楊。
「っしゃー! 次は俺が一気飲み」
「すな」
紅葉は背後から樹楊の頭をぐいっと下げてグラスに叩きつける。何となくだがはしゃぐ樹楊の顔がムカついたのだ。新たな飲み仲間に場は盛り上がり、イルラカも笑顔を送ってくれた。
「イルラカっ、場所を変えるって言ったでしょ?」
「えー、いいじゃないですかここで。面白そうですよー?」
「アンタね」
冷めた紅葉とは逆に、イルラカはテンションが上がり始めている。いつもなら四の五の言わずに従うのに、ここに居たいと駄々をこねる。紅葉は諦めたように長嘆すると、仕方なくソファーに腰を降ろした。すると口の周りにグラスの真っ赤な跡を付けた樹楊が肩を組んでくる。
「よーっ、アゲハちん。ひっさしぶりじゃのぉ」
「誰がアゲハち、くさ! アンタ酒くさっ。飲み過ぎでしょ!」
「あうん? そりゃー酒場だもん、飲むさね。そりゃー酒場だもん」
同じ事を二度も言う樹楊はどうやら酔っ払いのご様子。それだけじゃない。サルギナもクルスも、ミゼリアも顔を真っ赤にしてヘロヘロしているではないか。そして部下のイルラカも相次ぐ一気飲みでとろんとした目をしている。辛うじてアギだけは正気を保っていて、こぼれた酒を拭いたり開いたグラスを端に寄せたりと気を使っていた。そんな律儀なアギの頭をサルギナがばっちんばっちん叩いているではないか。
「あぎー、もっと飲めよこりゃ」
「はいはい、飲んでますって」
今はサルギナよりもアギの方が格上なのだが、それもつい最近からだからなのか、サルギナの上から目線が思う存分発揮されている。しかしクルスは酔っ払っていてもそこに気付いたようだ。
「サルギナはほんとーに態度がでかいじゃんねーっ」とぺちぺちサルギナを叩くと、
「アンタがそれを言うの?」まだ酒を一口も飲んでない紅葉が指摘する。
「アゲハちんがそこに突っ込むのかっ」とべろんべろんの樹楊が言ってやると、ひっく、と酔いどれのミゼリアが「そしてお前がそれを突っ込むのか」
紅葉を抜かして顔を見合わるクルスとサルギナ、樹楊にミゼリアは言葉を失うと、
「あーっはっはっはっは!」
何故か爆笑する。そして乾杯をして一斉に一気飲み。
紅葉はその光景にドン引きしながら来る場所を間違えたと激しく後悔した。しかし一人だけ素面でいる事は許されるわけもなく、樹楊に酒を注文され、一気飲みまで強要される始末。普段なら殴るところだが、ここは酒場であり雰囲気というものを紅葉は解っている。やれやれ、とグラスを持って立つと視線が集まった。グラスに口を付け、ぐいっと傾け――。
「ここーでアゲハちんの男気を見ってみったい、あっそーれ」
「私は女よ!」
すっかりタイミングを崩されたが、この酔っ払い共は気にしていないようだ。リズミカルな拍手と一気コールがしつこいくらいに鳴っている。事もあろうに、信頼していた部下であるイルラカは指笛まで吹いていた。膨れ上がる怒気を堪えつつ、グラスを傾けて三口で飲み干すと歓声が上がった。自慢じゃないが一気飲みで負けた事はない。今まで訪れた街で、酒豪言い張る者達とよく一気飲みを勝負したものだ。こんなグラス一杯の――。
「おねーさん、樽―っ。酒樽持ってきてー」
「飲めるかぁ!」
アホな注文をする樹楊の頭をど突き、普通のカクテルを注文しなおして席に座ると樹楊が頭を撫でてくる。その手を振り払おうとするが、邪気のない樹楊の笑顔に「ま、いっか」と顔が綻んでしまう自分もいた。
そして一時間後。
「んにゃーっはっはっはっは!」
「しゅ、首領。飲み過ぎです」
「んあ? 何よーイルラカぁ。ここは酒場よ? そるぁ飲むわよ。ここは酒場よ?」
紅葉もすっかり酔いどれていた。同じ事を繰り返す樹楊と同じになっているのは、先程酒樽を一気飲みした事も作用しているのだろう。店の酒は樹楊達の馬鹿な飲み方の所為で底をつき、通常よりも倍も早く閉店となってしまった。店主は思わぬ収入にホクホクだったが、今から飲もうと訪れた客は肩を落とす運びとなる。そして樹楊らはと言うと。
帰るにはまだ早いだろう、と夜店で様々な飲食物を大量に買い込むと穏やかに流れる川の畔にまで来ていた。ここまで来るのに千鳥足だった彼らだが、一期の終わりを告げる少しばかり冷えた風に落ち着きを取り戻しつつあった。紅葉は傍にあった流木の残骸に座ると頭を両手で挟む。
「あ、ああ頭……あたまっ」
早くも二日酔いモードになっているのだがそれは自分だけのようで、周りのみんなは二次会を上げ始めている。その中にイルラカもいて、楽しそうにしていた。そんな光景を背に、一人で唸っていると隣にアギが座ってくる。そしてペットボトルに入った水も差し出してきた。特に断る理由もなく、素直に受け取ると気遣うような事を言ってくるアギ。
「大丈夫よ。少しばかりはしゃぎ過ぎただけ」
「あ、あれを少しで済ますんですか。酒樽を一気ですよ?」
うん、少しではない。
正直あれはきつかったのだが、負けず嫌いな性格が発揮し、その上変なスイッチまで入ってしまったのだ。でもよく酒樽を一気出来たな、と自分でも感心する。そしてあの酒は自分の身体の何処にいったのやら。人間の身体っていうのは神秘で満ち溢れている。
「本当に今日は何かあったの? あの馬鹿も凄いはしゃいでるけど」
アギは紅葉の目線を追い「ああ、キョウの事ですか」
そして暗くてよく見えない対岸を見るように目線を投げたアギは嬉しそうに口を開く。
「何て言うか、アイツにとっては今日が六年ぶりの再会になりますからね」
「六年……? って、誰と?」
「ミゼリアさんですよ」
へ? と間抜けな顔で呆ける紅葉だが、アギは微笑んでいるが真面目な顔だ。しかし紅葉にとっては理解不能。当然、それを解っているアギは水を一口飲むと足を伸ばし、身体を支えるように両手を後ろに着く。
「俺とキョウとミゼリアさんは小さな頃からの友人なんです。子供の頃、よく遊びました」
「へぇ。アンタと樹楊が友達なのは知ってるけど、まさかミゼリアもだったとはねー」
「意外でしたか? まあ、それはさて置き、俺達はそれぞれ兵士を目指していたんです。だけどキョウが十一歳になると何かを求めるように旅に出てしまったんです。俺やミゼリアさんはこのままスクライドに残っていたんですが、アイツは根っからの自由人でして。それでアイツは十四歳になると子供の時の名残りを残して帰ってきたんです。当然、俺やミゼリアさんは迎えたのですがアイツはミゼリアさんを解っていなかったんですよ。何せ子供の頃のミゼリアさんは卵みたいな体系でしたし、アイツは全くの別人と思い込んでいたらしくて。俺も今日、それを知って驚きましたよ。てっきり解っているものだとばかり」
馬鹿馬鹿しそうに、しかし楽しそうにアギは笑うとまた樹楊達を見る。そこにはミゼリアに頭をど突かれている樹楊がいた。その隣では腹を抱えて笑うクルスとサルギナ。本当に楽しそうだ。
「で、キョウはミゼリアさんの事を子供の頃によく遊んだ女の子だと、ついさっき解ったようでして。思うところが色々あるんでしょう。何せ、アイツはミゼリアさんに恋心を持っていましたし」
「へー。子供の頃よく遊んだ女の子が実は上官だった、か。そりゃー楽しくもなるよね。加えて好きだった女の子……、好き、恋……こい、こいごころ」
何じゃそりゃ! とばかりに弾かれたように振り向く紅葉だが、アギは勝手に頷いているだけで何も気にしていない様子だ。紅葉は激しく動揺し、頑張って思考を巡らす。好きだった女の子が実は上官。子供の頃は卵型の女の子が長年の時を経て綺麗になり、加えて戦地を共にしてきている。当然助け合いなどもあったのだろう。そこから導かれる答えは。
「アイツ、ミゼリアさんに惚れ直すんじゃないですかね」
訊いてもいないのに応えるアギに、紅葉は石化。しかし「どう思います?」と尋ねられた紅葉は取り敢えずアギを気絶させておいた。どすっ、と重い衝撃音に続いて崩れるアギを見た樹楊らは首を傾げるが、
「眠いらしいの」
この一言で納得してくれた。これが素面だったら通じないのだろうが、流石は酔いどれども。一欠片も疑わずに談笑を開始してくれた。少し落ち着いたとはいえ、その上機嫌でおおらかな心は健在の様子のようで何よりだ。紅葉は泡を吹いて気絶するアギを流木の上に寝かせると、躊躇いながらも樹楊の元に行く。そこには夜店で買ってきた飲食物が乱雑に広げられている。
「お、アゲハちんじゃーねぇですかっ」
「そのアゲハちんっての止めてよ」
膝を折りながら言ってやると樹楊は頷くが、三秒も経たない内にアゲハちんを連呼してくる。呼び名は首領や紅葉が馴染み深く、名前で呼んでくるのは蓮だけだった。同じ傭兵団だからこそ自然だったが、付き合いの短い、しかも異性に呼ばれるのはくすぐったい。フレンドリーならなおさらだ。しかしそれを今の状態の樹楊に言ったところで意味などないだろうし、と考えると溜め息を吐く事しか出来ない。
「ところでさ、ツキは大丈夫なの?」
勿論、十歳の子供を戦場に放り込んで平気なのかという意味合いだったのだが、樹楊の受け取り方は違ったらしい。うーん、と首を捻ると、
「もうそろそろなんじゃねーの? 今は高熱でぶっ倒れてるけど」
「へ? 高熱――って言うか、もうそろそろって何が?」
「あん? 昇華だよ、昇華。変形とも言うか」
どうやら樹楊はツキの奇形化している肩甲骨の事を言っているようで、もうそろそろ翼に昇華すると断言していた。元々獣人目の血を濃く継いでいて、他のソラクモの人々よりも肩甲骨の奇形化が早く、そのツキに闘いを意識させた事が大きな要因だとも言う。砕羽に入隊させたのが決め手だろう、と酔いもある所為で偉そうに指を立てていた。ひっく、と身体を揺らしてるクセによく言うものだ。樹楊はその時を楽しみにしているようで、紅葉もそれは同じだった。
どんな姿になるんだろう、馬鹿にしてやろうかなどと考えているとクルスが酒瓶片手に割り込んでくる。そして、どちゃっと前のめりに倒れるが「えっへへへ」と子供っぽく頭を掻くもんだから怒る気もなくなった。そこにサルギナも倒れてくる。これはわざとっぽかったから叩く紅葉だが、サルギナもまたクルスと同じような笑顔を浮かべていた。
「アンタら、ホンットーに」こんな無邪気な光景を目にすれば笑うしかない紅葉は「子供よね」
ふふっと笑みをこぼし、クルスとサルギナの髪をくしゃくしゃしてやる。樹楊もミゼリアも酔いに任せて笑いだし、当初は犬猿だったクルスとサルギナも仲良さげに酒を奪い合ってもいる。そうやって時間だけを楽しく流していると、寝そべったクルスが夜空を見上げて大きく息を吐いた。
「もしもの話だけどよ、俺達が出逢う時代が違っていたらどうなってたんだろーなァ。戦争なんかなくて、普通に学業? なんかを学んでさ。こうしてみんなで騒げていたのかな? キョークンはどう思う?」
尋ねられた樹楊。
きょとんとするが、クルスと同じく寝そべると腕を枕にして夜空を見上げる。次いでサルギナ、ミゼリア。それとイルラカ。そのど真ん中に居た紅葉は隣の樹楊に鼓動を高鳴らせながら一応寝そべってみる。やんわりと夜風が吹き、樹楊の……樹楊とその隣のクルスの酒臭さを運んでくるだけだった。高鳴る少女の想いは酒に砕かれ、寂しい夜空を見上げるはめとなる。
そんな事は知らない樹楊はクルスの問いを考えていたようだ。
「違う時代ねぇ。考えた事もなかったな。俺達が違う時代で…………うん、そうかもな」
「首領はやんちゃなままなんでしょうね。真っ赤な髪で、バイク乗って」
「そう言うイルラカは先生になってるっぽいね。鞭でしばいてそう」
「あ、それ俺も思った。でも色っぽそーだな」
「き、樹楊さまっ。私は先生になってまで鞭を持つ気になりませんっ」
紅葉に便乗した樹楊に身を起して否定するが、この場にいる者達は納得している。サルギナはミゼリアの顔をじーっと眺めると、ニヤッとした。
「ミゼリンも先生っぽいな。シャツのボタンを全部留めて黒ぶちの眼鏡掛けてそう」
「何ですか、そのマニアックな格好は! 私は何時でも軍人ですっ」
「クルスはどんな時代でも砂嵐の旗あげてバイクに乗ってそうだな。そういう点では紅葉と同類だ」
「おう。俺はどんな時代でも狼気取りじゃんねっ。ってなわけでよろしく」
サルギナに、クルスと同類とまで言われて更にその架空時代の同類に握手まで求められる紅葉。この時自分のイメージがハッキリと解った。どう転んでもおしとやかな女の子にはなれないらしい。しかしクルスの差し出す手を握り返せばそれを認めるような雰囲気で、納得出来ない紅葉はぺちっと手を払う。
「そ、そんな事より樹楊はどんな感じになると思う?」
紅葉アゲハやんちゃ説を曲げようとターゲットを変えると、その途端全員が口を閉ざして健やかに寝息を立てる樹楊を見た。どこまでも自由な奴だ。むにゃむにゃと寝言を言っては嬉しそうに微笑んでいる。
「キョークンはどの時代に居ても」
口にする事は全員同じだった。
どの時代であれ、自由でやる気がなくて、それでも人を惹きつける何かを持っていて……。それで自分達の中心となってくれる人だ、と。
この日、自室のベッドで深い眠りに誘われた紅葉は夢を見た。
それは見た事のない時代、風景。
自分は変な制服を着ていて、木の棒をもった男に何か文句を言われている。周りには自分と同じ制服を着ている女子やら、貧弱な男子。自分の事を異物を見るような目で見てきていた。それが凄く寂しくて悲しいと感じていた時、背後から聞こえる。
「アイツ、真性の馬鹿だな」
振り返れば、それは樹楊だった。何故かニコを荷物のように脇に抱えているが、それは間違いなく樹楊だった。発せられた言葉は自分に対してであるが、周りの奴等と違って一人の人間として見てくれていた。しかしその時は樹楊を樹楊だと認識出来てはおらず、目が覚める事であれは樹楊だったと確信した。
自分は真っ赤な髪。
樹楊は相変わらずやる気がない顔。
それでも、それだから。
目覚めた時は少しばかりの幸せが紅葉の胸に雫となって落ちた。
◆
樹楊らが酒場で騒ぎ出し、紅葉がイルラカを酒場に誘った丁度その頃。
クルード城内にある、殲鬼隊の専用の一室で軍議が行われていた。総勢四十五名を収容してもスペースが余るが、黒の革鎧を装備した殲鬼隊それぞれのメンバーが纏う独特の重い空気に窮屈さを感じさせる。隊員で唯一女性のスイもその中の一人だ。
総員集合し、上座にオルカが座っていてその隣にはラファエロが座っている。蓮は部屋の片隅で膝を抱えて小さく丸まって座っていた。取り敢えず着いてきた、とばかりに。
殲鬼隊の多くはラファエロの事をよく思っておらず、それに加えて元赤麗の蓮が居る事に不満を持っているようで空気が棘を持っている。オルカにもその険悪な雰囲気が解っていたが敢えて何も言わない。ただ、いつものような花の笑みは浮かべていなかった。今にも戦地に跳び出ていきそうな面持ちである。オルカは四つに分けたテーブルを囲んで座る隊員全員に視線を走らせると、ふっくらとした薄紅の唇を開く。
「突然の呼び出しだっていうのに全員集まってくれて嬉しいよ。ありがとうね」
棘を持つ蕾がやんわりと咲くような笑顔に全員の肩の力が抜けていく。クルード王国は縦社会であり、この殲鬼隊もまた然り。オルカの言葉は絶対であり、カラスが黒くてもオルカが「カラスは白い」と言えば、全員で世界中のカラスを白く染め上げなければならない。しかしそんな事を言うオルカでもない。隊員はオルカを恐怖の対象と見ていないが、絶対の主君とは思っている。自分が従うべき存在、と。決して反抗心などを持たずに従順でいるのは、オルカが太陽のような存在であるから。世界を照らす、あの光。先代の大将は既に殉職したが、その当時は仲間同士の言い争いが絶える事はなかった。しかし三代目をオルカが担ってからというもの、皆仲が良い。最も、戦中は持前の実力を発揮し、殲鬼隊の在り方を存分に見せつけてはいるが。
空気が柔らかくなったところで、オルカもようやくいつも通りの笑顔を見せた。そのタイミングで自分は寝坊した事を照れながら言うと、隊員は顔を綻ばせて遠慮なく笑いを溢しもする。隊員の中には晩酌をしていた者もいれば、デート中だった者もいた。既に寝支度を整えていた者だっている。それなのに不満を一つも漏らさないのは、オルカの存在がどれだけ大きなものか、誰が見ても解るだろう。
「今回呼び出したのはね、他でもない、スクライドへの侵攻についてなんだ。皆も知っているとは思うけど、スクライド王国の休戦状態が解かれるのはあと二日。続きは」
見上げるように視線を移されたラファエロは頷くと、用意してきた資料を手にする。が、柔らかくなった空気がここにきて裂けていく。それを早くも悟ったラファエロは人に知れず嘆息すると立ち上がる事を止めて頭を掻く。
「私の事を受け入れられないのは承知していますが、そこまで敵意を剥き出しにしないで下さい。今回は私を含め、殲鬼隊総員の信頼と連携が求められるのです」
ラファエロが、困りますといった感じに眉を下げると殲鬼隊の一人が挙手をしてオルカに発言の許可を求めた。それに対し頷くと、空咳を間に挟んでから口を開く。
「俺達はオルカさまに絶対の服従を誓っています。しかし、このラファエンジェロという者はどうにも信用出来ません。クルード兵上がりの者でもなければ、聞くところによると賊だったというではありませんか。いくらオルカさまの側近とは言え、俺達にとっては正体不明な輩です。そのような者と信頼、連携と言われましても」
すると、そこらかしこで賛同の意が唱えられ始める。これはオルカの想定内ではあったが、賊という単語をラファエロに向けて言ってはならないのだ。横を見れば、出会った時のような目を――人食いの虎のように目を尖らせるラファエロがいた。しかしオルカはその殺気が爆発する前にラファエロの裾を引っ張ってやる。すると、我を取り戻したラファエロが誤魔化すような笑顔を浮かべる。もしあのまま放っておけば、発言した者の末路は決まっている。そのくらい、賊という言葉は禁止用語なのだ。普段は穏やかで物腰が柔らかいラファエロだが、一度キレれば少し厄介なのだ。何せ、あのナーザをも配下に置く賊の頭領だったのだから。
「みんなの不満はよく解るよ。もっと早くボクの口から紹介するべきだったね」
いやー、と頭を掻いて謝るオルカ。
それに対しては申し訳無さそうにする部下だが、いま一つラファエロに対する不満は抜けきらないようだった。殲鬼隊は実力重視の部隊であり、いつもニコニコしているラファエロがここに居るのが気に喰わないのだろう。それも充分解っているオルカ。
「この人はね、ボクが認めた人なんだ。普段は馬鹿っぽいけど、信頼をするに値する人間だよ。そしてね、この人の腕はここにいる誰よりも上だよ。勿論、ボクを抜かして……だけどね」
「し、しかし、そう言われましても実際にその実力を見た者はいないんですよ? オルカさまは見た事があるんですか?」
「あるよ。って言うか、実際にやり合った事があるんだ。三回くらいかな? 正直、ボクも危なかったくらいだよ」
オルカの事を窮地に追いやるほどの実力を持つ、そう言われた隊員は言葉を失ってしまった。スイも驚愕をしていたが、やがて悔しそうに歯を食い縛る。この中の誰もがオルカに勝てた事など一度もないのだ。善戦した事なども皆無。しかしそれをラファエロは三度もやり遂げていた。その上、戦闘になれば息の根を必ず止める鬼のようなオルカが止めを刺せずにいた。オルカの口から語られた事実に、二の句を紡げる者はこの場にはいない。ただ、未だに名前を呼んでもらえずにいたラファエロが悲しそうに項垂れているだけだった。
「まー、兎に角。ボクが信頼している人なんだ。だから安心してよ。それでも安心出来ないって言うなら、この人を信頼しているボクを信じて。ね?」
主君にそこまで言われて反抗する隊員ではなく、多少の意義はあるだろうが取り敢えず信用しておこうという運びになると、ラファエロは気を取り直して資料を全員に配る。数枚の半透明のフィルムを右上で留めただけの簡単な資料だが、表紙にはオルカの直筆で『重要なのだ』と書かれている。丸っこい字で、一見ふざけているようにしか見えないが、このサインがある資料は本当に重要であり、一句も見落としてはいけない資料である。隊員はその資料を手にすると背筋を伸ばした。
「さて、今お配りした資料ですが。これにはスクライド王国の、とある部隊についてまとめた資料となります。先日、スクライドへ潜伏させている者から送られてきた情報を簡潔にまとめたモノとなりますが、殲鬼隊の今回のターゲットとなる部隊でもあります。では、表紙を捲って下さい」
ハキハキとしたラファエロの声を受けた面々は少なからずとも興味の色を目に浮かべ、それぞれ表紙を捲る。そこに記されているのは、スクライド王国の新部隊・砕羽に関する情報が所狭しと記載されている。ガーデル時代に活躍した部隊だとか、由縁・戦場での役目などなど。それはラクーンが口にした事と全く同じ内容だ。その内容に沿った事をラファエロは自分なりの見解を口にし、説明を続ける。そしてその説明が続くにつれて捲られるページ。ミゼリアの写真や他の隊員の写真が浮かび上がるページにはプロフィールなどもしっかりと記載されている。
殲鬼隊はその隊員を流しながら見て説明を耳にしていたのだが、あるページで手を止める。顔を見合わせる者達や、眉根を寄せる者もいた。全員共通する思いは『信じられない』といったところだろう。ラファエロはそこで口調を重々しいものに変える。
「写真を見ればお解りになると思いますが、誤報ではありません」
「し、しかしっ。こいつは何処にも属さない事で有名じゃないか。クルード国王の真影隊の誘いをもあっさりと断った奴っ。それなのに、何故……」
真影隊とは国王の護衛を務める部隊であり、クルード王国の部隊の中でもその実力は頭一つ抜き出ている。オルカやラファエロを除く、殲鬼隊の隊員の殆どが真影隊の選抜試験から落ちてきた者たちだ。隊員数では負けていないものの、実力差は明白である。しかし真影隊が戦場に出る事は少ない。あくまでも国王の護衛なのだ。
そして今、ページに浮かび上がる写真の人物はその選抜試験をも免除、更に高い俸給という待遇をも蹴った人物である。赤麗と並んで凶悪と恐れられ、紅葉が戦の申し子であれば、写真の彼は『冥界への使者』とも呼ばれた人物。名を――。
「クルス・ラッケン。彼はスクライド王国・特殊戦場攻略部隊砕羽の速突兵となりました。流石にこの流れは予想出来ませんでしたよ。まさか砂嵐のクルスがスクライドへ肩入れするとは……。少々厄介ですね」
クルスの実力は誰もが耳にしている。ダラスとスクライドの大戦中にサルギナに敗れたものの、クルスの実力は未知数とされていた。過去にオルカとも刃を合わせた事もあるのだが、その当時を知る者は冷や汗を流している。彼は……クルスは、当時まだ幼かったとは言え、オルカを破ったのだ。オルカはクルスに一撃しか与えれず、肋骨を三本折るという重傷まで負った。そのクルスがスクライドへ着くとなれば、厄介どころの話じゃなくなる。
そんな重くも苦しい空気の中、ラファエロの隣には蓮が来ていた。テーブルにちょこんと手を乗せてラファエロの資料を覗いている。そのクルスの写真を目にした時、蓮の目が僅かに優しい光を見せた。と、オルカは感じる。あの蓮がそんな目をするのは初めて見る。相変わらずの無表情なのだが、いつもの蓮とは違っていた。最も、そんな微妙な変化に気付けるのはいつも一緒にいるオルカならではなのだが。ラファエロは蓮に微笑みかけると次のページを捲り、それを他の隊員にも促す。蓮は次に現れた写真に釘付けになっている。その次のページを捲らせないようにラファエロの手をしっかりと握りながら、ひたすら凝視。
「クルスの事は頭に留めているだけにしておき、今回のターゲットは彼となります」
「こいつ、確か旧ネルボルグで会った奴だ」
スイは思わず口にしてしまい、周りの視線を買うと口を手で覆う。何も会議中に私語は厳禁、などという規則はないのだが名も知らぬ兵を自分が知っている事に興味を抱かれたのが嫌だったのだろう。ラファエロは疑問符を浮かべる面々に説明をする。
「彼の名は樹楊。砕羽の隊長補佐官であり、ダラス戦の勝利を決めた者でもあります」
「あー、こいつってやたら速くて防御技術が高い奴か」
「サイも知っているのですか?」
「まあね。旧ネルボルグで会ったんだ。けど……隊長補佐官になるほどの腕だったかな? 弱っちいと思ったけど」
スイの双子の弟のサイは首を傾げながら樹楊の写真を見ている。それを聞いた他の隊員はすかさず説明を求める視線をラファエロに向けた。それを受けて口を開こうとするラファエロだが、蓮の瞳に歪んだ殺意が宿り始める。実力派である殲鬼隊の総員はその殺意を感じ取ると一斉に立ち上がり、抜剣。しかし蓮は目もくれず、ただラファエロを睨んでいた。
「きょーくん……殺すの? もしそうなら今ここで皆殺しにする」
「蓮さま、そういうわけじゃ――」
際限なく膨らんでいく殺気に殲鬼隊の数名が痺れを切らし、抜いた剣で蓮に斬りかかろうとするがその足はぴたりと止まる。全員の首をそれぞれ挟むように、時空から二本剣が飛び出てきたのだ。その刃は喉にぴたりと当てられていて、微動すら許されない。勿論ラファエロやオルカの首も二本の剣に挟まれているのだが動じてはいない。オルカに限っては蓮の成長を嬉しく思ってもいる。少し前の蓮であれば、有無をも言わさずに殺してきただろう。それが今はどうだ。ラファエロの答えを待ってさえもいる。その思いはラファエロも同じなのか、蓮に微笑みかけると全員に剣を収めるように言い渡す。しぶる者もいたが、オルカがその命を重ねると従ってくれた。すると蓮も時空に剣を収納し、それでもラファエロを睨んだままだ。
「今回の殲鬼隊は彼の捕縛に専念します。殺すなど、そんな事しませんよ?」
「……そう」
ラファエロの瞳に嘘がない事を感じ取った蓮は大人しくなり、またも樹楊の写真に目を落とす。余程会いたいのか、愛おしそうな瞳だ。殲鬼隊の総員は着席するが、不満がある様子を浮かべている。
「捕縛とはどういう事だ? 我々の存在意義は敵兵を皆殺しにする事にあるのだぞ? それにその蓮とかいう女……本当に味方なんだろうな」
敵意を持った言葉に反応する蓮ではなく、無視を決め込んでいる。いや、その言葉さえも聞こえているのかどうか。遂にはラファエロの資料から樹楊のページだけを抜き取って眺め始めた。
「心配なさらなくても蓮さまは味方です。しかし、お解りになったでしょうが樹楊という男に危害を加える者を一人として許さないでしょう。その樹楊という男は我々に必要な人物となります。勿論、今回の捕縛任務はオルカさまの了承を得ていますので」
誰もが樹楊がオルカの兄である事は知らず、ラファエロはそれを口にしなかった。説明を求められるも、柔らかく流すばかりで答えようとはしない。しかしスイはその真実を知っていて、オルカを見ていた。そしてオルカに笑顔を返されると徒労を肩に乗せて落とし、嘆息する。煮え切らない思いに不満が募っていく隊員だが、そこでオルカが席を立つ。
「今は言える事が少ないんだ。みんなの事は信用しているけど、口に出来ないんだ。だけど、今回の任務はボクが思い描く未来に繋がっていると言っても過言じゃない。どうか解ってくれないかな?」
オルカの思い描く未来。
それは全員が解っている。
オルカは殲鬼隊の軍議の中で何度も口にしてきた。「ボクはみんなが笑える国を作りたい。今は兵士と一般人の壁があまりにも分厚くて嫌なんだ。ボクは一般人が兵士と一緒になって笑い合える国を作りたい」という言葉。
クルード王国という国はとてつもなく大きくて、軍事国家である。縦社会でもあり、兵士は一般人よりも身分が高い。肩が触れただけで斬り伏せられる一般人もいる。オルカはそんなクルード王国が嫌なのだ。最初は王族であるオルカも一般人から怖がられていたが、今となっては王都ネルボルグのマスコット的な人物にまでなった。それは足しげくネルボルグへ通い、フレンドリーに話し掛けては悪戯したり子供達と遊んだり、買い物をしてはラファエロに持たせたり軍議を抜け出してはラファエロに追いかけ回されたりと、人々の笑みを買う事ばかりしてきたから実ったのだろう。少なくとも、ネルボルグの人々はオルカに対して恐怖など持っておらず「オルカ様が王であれば」と唱える者が大半だ。
オルカは笑顔が絶えない国が作りたいと思っている。自分と一般人のように、他の兵士達も仲良く生きていけたらどんなに楽しいだろうと。そしてそれが夢でもあった。殲鬼隊の隊員はそれを雲を掴むようなものだと口にしていたが、時が経つにつれてその夢をオルカの背中に重ね始めた。殲鬼隊は名こそおどろおどろしいものだが、クルード王国内の部隊の中でも青臭い夢を持つ部隊でもあった。そしてそのオルカの、自分達の夢に必要な人物だと真剣に口にされて反抗する者などいない。疲れたように、しかしにこやかに頷く隊員にオルカは深々と頭を下げた。
「ありがとう、みんな」
そんなオルカの瞳は薄っすらと涙で滲んでいた。
この後、蓮を殲鬼隊に加えるとラファエロが口にするが、誰も不満を持つ事無く受け入れてくれた。オルカは素直に嬉しく思い、仲間に恵まれた事にも心の底から幸せに思った。そして殲鬼隊は防具を革鎧から漆黒の長衣に変え、新しい風となる。
「クルード国王は、スクライド王国が休戦状態が解けると同時に攻め込む考えらしいのです。我々は暗に動き、スクライドの出方を見るとしましょう。スクライドは確かに弱国ですが、侮れません。特にターゲットには充分注意をして下さい。下手を打てはこちらが全滅します」
ラファエロの言葉は、樹楊が変則的な知略を持つ事を意味していた。そして、クルード国王が促す侵攻でスクライドが落とせないという事も、言葉の陰に潜んでいる。固唾を呑み合う中、蓮の腹の虫が呑気な鳴き声を上げる。
「んおぅ……」
きゅるるるるるー……きゅっ。という音に全員が笑いだし、オルカは宴を決意する。ラファエロは殲鬼隊の予算を考えるが、蓮に財布を抜き取られて頷かれていた。ポケットマネーを足せば大丈夫、と言いたいようだ。蓮は戦の殲鬼隊というよりも、財布(ラファエロ限定)の殲鬼隊なのだろう。日を追う度にラファエロの資金が無くなっていた。爆発的に。困り果てるラファエロだが蓮は容赦しない。何せ殲鬼隊なのだ。