第三十四章 〜混血種・クルス〜
「そー言えばあの姉ちゃんは何だったんだろうな」
「記者だら? ペンとノート持ってたし」
「うっそ! 俺変な事言っちまったっ。世界は透明とか。……笑われるだろうなー、ラクーンとかサルギナとか紅葉とか」
相手が記者ならそう言ってほしかった。それなら格好いい事を言ったのに。
過ぎた事は訂正できないと嘆息し、既に昇り終えた太陽を見る。とても鮮やかで言葉を必要としないが、それでも溜め息が出る。
「サルギナとか絶対笑うだら? アイツはそういう奴じゃんね」
「だろーな……ってか、クルス。何時の間にサルギナって呼ぶようになった? 前はロイズって呼んでたろ?」
あー……と頭を掻くクルスは少しばかり恥ずかしそうに目を伏せると空咳をする。
「みんなサルギナって呼ぶからつい。それだけじゃんね。べ、別に仲間意識が出来たとか、そういうのじゃないじゃんねっ」
仲間意識が出来てしまったのだろう。
二人で酒場に居たとの目撃例だってあるほどだ。キャンプの時だって何だかんだ言って気が合ってたし。ニヤニヤする樹楊の視線に気付いたクルスは「くっ、ぬ」と言葉にならないようだ。残虐非道と呼ばれているクルスがこれだ。これを楽しまないわけにはいかない。最も、樹楊にとってクルスは祝賀パーティーの際に不審者として仲が良くなった人物であり、一度も怖いと思った事はない。見た目は悪人だが子供に好かれるし、動物にも懐かれる。根っこはいい奴なのだろう。
「ま、どうでもいいけどよ俺は。それよかそろそろ帰ろうや」
樹楊がクルスにそう促した時だった。
背後に気配を感じると共に柔らかな感触が背中に伝わり、首に何かが巻きついてくる。ふわふわしていて暖かい。目線だけを横に流せば、そこには久しぶりに見る顔があり、思わず顔が綻びる。
「キヨウ、久し振りだなっ」
「ミネニャ……。元気だったか?」
スクライドからサラが逃亡する時、その手助けをしたミネニャ。一緒にダラス連邦にきていたのか、と安堵を覚えた。自由奔放である事は解っていたが、もし何かあったらなどと考えもしただけに胸から不快な圧力が逃げていく。抱き着かれたままその腕を振り払おうとはせずに赤褐色の髪をそっと撫でてやると、猫型の獣人目らしく耳を伏せて目を細めて喉を鳴らしてくる。その光景を見ていたクルスは腕を組んだまま興味深げに顔を覗き込んできた。
「キョークン、そいつは一体……。獣人か?」
「悪いかっ。お前こそ誰だ。言っとくが私は仲良くする気はないからなっ」
クルスの身体に染みついた血の匂いに反応したのか、樹楊の紹介する意志を遮るミネニャ。好戦的に毛を逆立てて唸るミネニャだが、クルスにはその気がないらしい。
ポケットをごそごそと漁り黄色い紙に包装された一粒の飴玉を出すと、ミネニャは過剰なまでに耳を動かす。クルスが悪気もなくにんまりするとミネニャはそっぽを向くが、やはり飴玉が気になるのか左目だけを薄っすらと開いてちらちらを目線を流していた。
「食うか?」
「もふっ。そ、そんなモノで私はっ」
「今ならもう一粒おまけするじゃんね」
「――っく。ま、まぁ。キヨウと友達みたいだし、私と仲良くしたいというその気持ちを無駄にするのも、その、あれだし」
明後日の方向を見ながらそれっぽい事をぺらぺらと並べながらミネニャは手をクルスに伸ばしていく。目標は二個の飴玉。クルスは寸前で避ける事もせず、素直に手に握らせてやった。
飴玉を二個とも口に放り込んだミネニャはご機嫌に耳を動かす。クルスへの警戒心はその飴玉だけで解かれたらしく、既にお友達モード全開だ。それはクルスが木人の血を継いでいるからだ。サラの半分とは言え、その血はミネニャの安心感を買う。クルスが傭兵などやっていなければ、きっと最初から懐きもしただろう。
朝日を浴びながら三人で談笑していると、またしても背後から。
「えーとミネニャ? 私はどうすれば……」
うにゃ? と振り返るミネニャに倣って振り返る樹楊とクルス。
そこには縮こまってもじもじと立っているサラの姿があった。ミネニャは飴玉を一個口からブッと発射させて「わ、忘れてたっ」
やはりと言うべきか、ミネニャはやっぱり半分獣だ。当初の目的をすっかり忘れていたらしく、あたふたとサラの元に行くと頭を下げていた。どうやらミネニャは、サラが樹楊と話すきっかけを作りに来たらしい。しかし思わぬトラップ(飴玉)に気を取られて忘れていたと言い訳をしていた。
樹楊は久しぶりに、本当に久しぶりに会うサラの姿を目の当たりにして言葉を探していた。スクライドには内密で保護してくれ、とバリーに頼み込んだあの日から考えていた。どういう場面で再会し、どんな言葉を掛けようかと。
何で逃げたんだ?
サラの目的は?
久しぶり。
会いたかった。
もう関わるな。
心の中で色んな言葉を生んできた。どんな場面でもスラッと言えるように。
だけど、そんな事など不必要だったと今更ながらに気付く。
何故? そりゃ……。
気持ちってのは考えたり用意してまで吐き出す言葉じゃない。その時の思いを素直に口にする。ただそれだけだ。すっごくシンプルだろ?
樹楊は立ち上がる事などせず、片膝を立てて岩に座ったままサラを見上げる。サラの顔は困惑に染められていて、スカートをぎゅっと握り締めていた。目が合えばすぐ逸らす。だけどまた見つめてくる。遂には俯いて足を少しだけ後ろに引き始めた。
そんなサラの元へ樹楊は歩み寄る。すると半歩、後退られる。
「キ、キヨウ。サラはずっと悩んでて、それで、それでっ」
何とかサラを庇おうとするミネニャだが、それを片手を上げて制する樹楊の顔は笑ってなどいない。まるで心情が読めぬ面持ちにミネニャは眉と耳を下げて、サラと同じく俯く。小刻みに震えるサラはまた半歩下がる。足はガクガクと震えていて、支えがなければ今にも倒れそうでもある。樹楊がサラの肩に手を添えれば、過剰なまでに身体をビクつかせた。
「サラ……」
「キ、キオー……私…………わたし」
ずっと下を向いたまま顔を上げないサラ。
手入れを少しばかり怠っていたのか、真っ白な髪に枝毛が出来ている。そして大分細くなった。病的に痩せ、鎖骨がくっきりと浮いて出ていた。そんなサラに思った事は一つだけだった。何も飾らない、今の気持ち。
「ごめんな」
サラはぴくっと反応すると、弾かれたように顔を見上げてきた。
言っている意味が解らないのだろう。美しい緑色の瞳には困惑がはっきりと滲み出て、口が半開きになっている。言いたい事は他にもある。相談もなしに出ていった事を怒りたくもあった。だけど、今は謝りたかった。
ラクーンが話した、木人による世界の破壊と再生。
それを少しでも信じた自分が情けなかった。サラが逃亡したのは仕方ないにしろ、大戦後は何時でも会いに来れたはずだ。そしてサラの本心を聞いてやれば良かったのだ。それをもせずに、ずっとずっと悩んでいたサラの気持ちを考えずにいた自分は何とも無責任な事か。サラの目的が何にしろ、真正面から向かい合わなければならなかった。だから、ごめん。そう思った。そう伝えた。
もう一度その言葉を口にして頬に手を添えてやると、サラは堪えてきただろう涙を一気に流し始めた。ぼろぼろと大粒の涙を流し、口をへの字に曲げる。そして勢い良く抱き着いてきた。少しばかり寒い風に冷やされた肌に伝わってくるサラの暖かさは心地良く、それでも悲しい温もりを持っていた。
「ごめんなさいっ、私……何もっ、キオーに…………私が、わた、しがぁ!」
「俺こそ、ごめんな? ずっと悩ませちまって」
「ううん、いいの。わたしが悪いばばらぁああぶひゅっ」
「サラは悪くないけど、さりげなく俺の服で鼻をかむな」
サラは樹楊の胸に顔を埋めながら力強く首を振り、
「いいの、そんな事っ。わっちゃ嬉くてそんあごど――ぶひゅっ」
「だ、俺の服っ。鼻をかむなっつっとろーが!」
「いいの、いいの! そんな事っ」
もう一度ぶびっと鼻をかむサラに拳骨をお見舞いした樹楊は、ねっちょりと伸びるサラ成分配合の鼻汁を見ると顔面蒼白で引き攣った笑顔を浮かべた。痛む頭を抱えて蹲るサラだが、その顔はやはり喜色に染められている。
◇
「キオー、この部屋でいい?」サラがその部屋の扉を開きながら訊き、
「ああ、どこでもいい」樹楊が部屋に入りながら答え、
「しっかしまー、何もない部屋じゃんね」後に続いてくるクルスは嘆息し、
「この部屋は男くさいっ。イイところはクッキーが出てくるとこくらいだ」ミネニャが不満げに頬を膨らませれば。
「何で俺の部屋にぞろぞろと……」寝起きのバリーが肩を落とす。
サラが樹楊らを案内したのはダラス連邦城内にあるバリーの個室であり、決して出入りの自由を許可されているわけではない。その強面の顔には似合わず淡いブルーのパジャマを着て、ベッドから上半身を起こしたバリーは、
「おっちゃん、コーヒー。甘いのね」笑顔のサラと、
「あ、俺はブラックで」当り前のような態度の樹楊と、
「俺はココアがいいじゃんね」コーヒー路線をへし折るクルスと、
「私はミルクとクッキーがあればいい。ミルクは生温いので」我儘なミネニャに。
「遠慮という言葉を知らんのか、お前らは……」
好き放題言われる。
早朝から早くもお疲れモードになったバリーをそこはかとなく無視し、サラ達はテーブルを囲うソファーにそれぞれ腰を落とした。樹楊とサラは向かい合って座るが、どうやらミネニャはクルスの事が気に入ったらしく、その膝の上に座った。しかしミネニャの身長は樹楊より少しばかり低いくらいであり、長身のクルスとは言え、
「ま、前が見えないじゃんね」
滅茶苦茶邪魔になっていた。
ミネニャは少しばかり不貞腐れるが、クルスの上から降りたくないようで猫に姿を変えて足を揃えて座った。それを見ていたサラは目を丸くし、ぽかんと口を開ける。サラが驚愕するのは仕方のない事。ミネニャは人に懐く事はあまりない。バリーはサラの味方だからそこそこ懐いてはいるものの、初めて出会う人には警戒するのだ。しかし樹楊は解っていて、クルスにサングラスを取るように言った。
クルスは首を斜に、それでも素直にサングラスを外して緑色の瞳を見せる。それは木人である証。白目も虹彩も緑の、木人という亜人種だ。
「えっ、アナタ、嘘っ」
「あー、俺は混血じゃんね。親父が木人なんだ」
クルスの瞳がサラのそれと変わりない事を知らないバリーは、ぶつくさ言いながら注文通りのコーヒーなどをキッチンで淹れていた。しかしミルクはしっかりと生温く。何だかんだ言って面倒見のいいバリーのようだ。
サラはクルスの瞳をまじまじ見つめるが嬉しそうではない。それ以上に驚愕が強いようで身を乗り出してもいる。
「混血って初めて聞く……。木人は他種族と交われないって聞いてたのに」
「んー……でも嘘じゃないじゃんね。お袋は普通の人間だったし」
それでも信じられないといった様子をサラが見せていると、キッチンからバリーが帰ってくる。黒の木製トレイにコーヒーなどを乗せて。するとクルスはまるで隠すかのようにサングラスをすちゃっと掛ける。
「ホラ持って来たぞ。ったく、お前らは俺を何だと…………何かあったのか?」
呆然とするサラを見たバリーは太い首を小鳥のように傾げるが、決して可愛くはなく、どちらかと言えば不気味だ。とは言えバリーも人間だし、化け物じみているわけではない。子供が泣き叫んで軽くトラウマになるだけの、たったそれだけの不気味さだ。
そんなバリーの事など構いやしないミネニャは早速バリーお手製のクッキーをクルスの手から与えてもらい、嬉しそうに尻尾を振っている。それを見てから一同、自分の飲み物に口を付けるが、バリーはきょろきょろと間抜けに辺りを見回した後でがっくりと肩を落とす。
「どうした?」
「……自分のを忘れた」
そ、そうか。とだけ返す樹楊は訊くんじゃなかったとキッチンに向かうバリーの寂しげな背中から目を逸らした。どこまでも哀れな男だ。折角の休日にゆっくり眠っていたところをずかずかと部屋に入られ、モーニングコーヒーを強要され、挙句の果てには自分のコーヒーを忘れる。しかもクルスの瞳の色を知らないのは、この場でバリーだけだ。
そんな可哀想なキャラだったか、と樹楊が香り高いコーヒーを飲みながら思っていると満面の笑みのバリーが返ってきた。凄くニコニコしていてやっぱり可愛くはないが当然不気味ではある。ご機嫌な赤ちゃんがおしゃぶりを噴き出すほどだが。
「おっちゃん、今度はちゃんと淹れてきたの?」
サラが我が子を見るような目で問い掛けるとバリーは口の両端を上げ、
「おう。やっぱ朝はローズヒップティーだろっ」
ビシ! っと石化する三人。と一匹。
空気が一瞬で固まった事にバリーは疑問を抱き、それでもアウェイの雰囲気からたじたじに皆の顔を順に見た。すると全員がオイル切れのような壊れかけのような、ぎこちないカラクリ人形ように顔だけをバリーに向けていく。そして眼には確かな敵意。
「おっちゃん! 何でそんな洒落たモノを!」
サラが口火を切ると出てくる出てくるバリーに対する批判の集中砲火。
「何が朝はローズヒップだ! テメェはドブ水でも飲んでろ!」
「その顔でティーとは何事じゃんねぇっ。爽やかな朝をぶち壊すな、このハゲ!」
「あにゃ!」
「そうよそうよ! 全世界のローズヒッパーに謝りなさい! 今直ぐ、ほら!」
「うにゃにゃー!」
「そうだ、ミネニャの言う通りだ! 返してこい、その紅茶っ。泣きながら返してこい!」
「ふにゃあああああああああああああああ!」
「そうじゃんね! このにゃんこの言う通り、謝れ!」
怒涛の批判にたじろぐバリーだが、どうやら疑問があるらしい。脂汗を掻きながらパジャマのボタンを一つ外してミネニャを指差した。すると一斉に睨まれるが、負けじと疑問を捻り出しす。
「そ、その猫の言葉解るのか? 俺にはただ鳴いてるようにしか……」
「ばっ、おっちゃんサイテー!」
「か! これだから筋肉馬鹿は」
「動物愛が足りないじゃんね」
三人は、いかにも解りますとばかりにそっぽを向くが、
「じ、じゃあ……俺は何を謝れば」
「生まれてきた事だ!」
これまた一斉に怒鳴り返される。
どうやら三人は本当にミネニャの言っている事が解っていたらしい。
後にバリーは紅茶をダージリンティーに変えるが部下に笑われて自分の好みを見直す事となるが、それは詳しく語らなくても良い午後のひと時である。
紅茶一つで存在まで否定されたバリーは酷く肩を落とすが、それは既に過ぎ去った事だとばかりにここへ来た目的を果たす三人。バリーお手製の絶品クッキーを片手間に、樹楊は何故逃亡したのかサラに尋ねる。まあ、大体の憶測は立つが一応だ。
サラはうん、と頷きを挟むと重そうに口を開く。そして述べられた事は、樹楊が思っている通りだった。サラは自分が破壊と再生の使者である事が暴かれ、そして極刑にされると思ったらしい。だから逃げた、と。しかしラクーンはそんな事は言っていない。
「でもね、私はこの世を壊したいとは思っていないの」
「思っていないって……。それじゃ聖緑世徒はどうすんだ? 何で蓮や紅葉、そんで俺にこだわるんだ?」
ぐっと息を呑むサラが小刻みに震え、一生懸命に紡ぎ出した言葉は。
寂しかった。
泣くまいと唇を噛み締めるその姿は痛々しく、とても小さかった。
サラは以前暮らしていた世界・時代から隔離され、独りぼっちでこの時代に目を覚ましたのだ。それが凄く寂しく、樹楊や紅葉、そして蓮やオルカの存在を知っている事が余計に辛かったと言う。何も知らなければ、何も覚えていなければ楽だった、と。
樹楊は自分がサラと同じ境遇になったら、と考えた。
今の時代が滅びるのを孤独な闇の中で、自由もなく生き永らえ。
何百年が経ったかなど、そんな事さえもどうでも良くなり。
だが自分が出逢える人達を知っている。だけど、何処にいるかなんて解らない。
やっとの事で外に出られたかと思えば、周りは自分と違う種族だらけで、知らない文化や思想の元で戦争が起きている。
想像してみると過酷なものがあった。
そんな中で頼れるのは、記憶に捻じ込まれた出逢えるだろう人達だけだ。だがその人達は自分の事を知らない。そして自分は世界を崩壊させる使者である。その事が暴かれれば逃げたくもなる。
「私はキオウ達が居るこの世界を……キオウ達が大切に思っている人達が生きているこの世界を壊したくない。そんな事をしてキオウ達に拒絶されたら、わたし……」
サラは自分の使命なんてどうでも良かった。
ただ笑って暮らしたいだけ、そうとも言った。その言葉が嘘で、流している涙が演技だとすれば世界中を騙せる詐欺師にでもなれだろう。そして勿論樹楊はサラの言葉を信じた。極種だの木人だの、そんな事はどうでもいい。サラはサラで、ただの女の子なだけだ。
樹楊はコーヒーを半分ほど残すと席を立ち、クルスにスクライド王国への帰省を促した。俯いていたサラは拳を固く握って視界を涙で覆う。ミネニャはおろおろとし、バリーもどうしていいか解らない様子だ。しかし、樹楊。
「今はダラスに居ろ。あと一か月もしない内に休戦状態が解かれる。そうなればスクライドはクルードに狙われる日々が続いちまう。その点、敗戦したダラスは向こう一年、休戦国家だから襲われる心配はない」
ぐしぐしと涙を拭うサラは視線だけで次の言葉を樹楊に求めた。すると樹楊は照れ隠しのように鼻の頭を掻いて振り返る。
「戦争が終わったら迎えに来るからよ、それまでそこのおっさんに面倒見てもらえ」
「キオウ……。うん解った、待ってる」
この事はラクーンに話しておこうと決める樹楊。そしてサラが住みやすい世界になればいい、と切に願う。木人だろうが何だろうが、そんなモノは関係なく過ごせる世界になればいい。その為には紅葉と蓮を和解させなければならない。あと、紅葉の天敵であるオルカという輩もだ。聖緑世徒の力は尋常ではない。ぶつかり合えば、どちらかが死んでしまうかもしれない。そうなればサラも酷く傷つくだろう。だからなるべく穏便に済ませたいものだ。
そんな事を考えながら鉄で覆われたダラス城内を歩いていると、同じく靴底を鳴らして歩くクルスが肩を並べてきた。
「キョークン、俺に出来る事があれば何でも言ってくれ」
「ああ。俺は遠慮なんかしないからな」
以前、クルスは蓮に頼まれて自分の用心棒になると言っていた。だが今は少しばかり違う。自分の傍にいるべき存在。そんな気もする樹楊であった。
一方で悔し涙を浮かべそうになっているバリーだが、彼は決しておっちゃんとかおっさんと呼ばれる歳ではない。まだ二十八歳なのだ。ただ容姿が少しばかり風格を持っている所為で、その若さを認知している者が少ない。ただそれだけの事だ。
◆
樹楊とクルスが二日掛けて自国に戻った丁度その頃、クルード王国クルード城内にある自室に軍議から戻ったオルカが必死に押さえていた怒りを爆発させた。部屋の扉を荒っぽく締めるなり中央の木製テーブルを蹴り飛ばし、怒りに染め上げられた身体を震わせながら肩で息をしている。
こんな事で動じる事はないラファエロは用意していた紅茶を差し出し、宥めるようにソファーへと座らせた。ラファエロの対面にいた蓮は、テーブルと一緒に吹っ飛んで行ったケーキを今になってやっと目で追う。しかしケーキはテーブルの下で悲惨な形となっているだろう。
「オルカさま、軍議で何かあったのですか?」
「あったってモンじゃないよ! あの下衆国王っ、スクライドが休戦を解くのと同時に攻め込む気だよ!」
「やはり国王は」
ラファエロが予想をしていたかのように訊くと、オルカは依然と激昂したままだが深く頷く。蓮は握っているケーキ用のフォークをじーっと見つめ、取り敢えず刺す仕草をし始める。が、そこにケーキはなく、またしてもフォークを見つめるとラファエロに無言でケーキの要求をする。しかしラファエロはそれどころではない。少々不味い事となってしまったのだ。
クルード国王は樹楊の、いや、キオウ=フィリスが生きている事に気付いたのだ。それはダラス連邦との大戦、その後。圧倒的な劣勢を覆したその功績を危惧したクルード国王は樹楊の身辺調査を間諜に命じた。するとその樹楊という名が偽名であり、実は自分の息子であると解った国王は早期に樹楊の抹消を決断。元よりスクライド王国などという弱国など何時でも潰せると国王は思っていたのだが、樹楊の存在が世に知れるのは不味いと判断したのだろう。そうなると、樹楊が集中的に狙われるのは間違いない。いくら白鳳と同盟を結んだとは言え、クルード王国の武力には敵わないだろう。結果、樹楊は抹消される。
「……ケーキは?」
「今はそれどころではないのですよ?」
フォークを片手に袖を引っ張ってくる蓮にラファエロは、少し強めの口調で返した。すると蓮は不快を瞳に表わすが、樹楊の命に関わる事だと告げると持っていたフォークを投げて扉に刺す。恐らく、隠された右目にも浮かんでいるのだろうが、残された左目には殺気が宿っている。
「いい手はないのっ?」
「そう、申されましても急には」
「時間がないんだよっ」
オルカは八つ当たり気味にラファエロに策を求めるが、早々出てくるものではない。埃のように簡単に出てくるのであれば、苦労はないのだ。しかしラファエロ。オルカに涙眼で「キミしか頼れる人がいないんだ」と懇願されれば脳は爆発的に活動し始める。そして、勝手に何度か小さく頷いてオルカの方を見た。
「オルカさま、殲鬼隊の隊員は何名ですか? 正確にお願いします」
「え、えーっと。今は四十三人かな。ボクを入れて」
ラファエロはオルカの側近であるが、殲鬼隊には関わってない。裏工作の為の魔術師軍団にだけ関与している。数を述べたオルカは不思議そうに首を傾げて、しかし期待の眼差しをラファエロに送っていた。
「それだけ居れば充分でしょう。ですがその中に蓮さまも含めて下さい」
「いいけど……。何か策でもあるの?」
「ええ。現在、殲鬼隊の部隊数は一つですよね? 正確にはオルカさまを筆頭とした特殊殲滅隊である。間違いはございませんか?」
「うん、その通りだよ」
ラファエロはオルカと蓮の眼差しを受け止めるとテーブルを元の位置に戻す。その際に下敷きになっていたケーキが現れ、その理不尽な暴力を加えられた姿を見た蓮は「んおっ」とショックを受けていた。そんな事はお構いなしに、ラファエロは一枚のフィルムを机の引き出しから取り出すと、その上に適当な地図を書いた。そして白と黒の駒を出し、上下に分けて置ていく。
「この地図は?」
「これは戦場と考えて下さい。黒の駒はクルード、白はスクライドです」
その駒を無言で配置し終えると、仮想の布陣が出来上がる。三個の駒のスクライドに対し、十個の駒のクルード。これは武力を表す。そこで赤い駒を二個ほど左方に置いた。これは白鳳からの援軍と仮定。大きく広がるクルードに対し、スクライドと白鳳はこじんまりとしている。
「恐らく、スクライドは白鳳との連携により攻めてきますが、その絆は強くないでしょう。クルードの軍師はその結び目を切るべく、白鳳とスクライドの中央に数部隊進軍させるはずです」
下に構えるスクライドと右に構える白鳳の間に黒い駒を二個置く。
「しかしスクライドとてそのくらいは想定するハズですから、合流地点を知らせるべく伝令を走らせるはずです。通信機という手もありますが、戦中は盗聴の可能性もある故、確実かつ定石とも言える方法ですね」
「でもさ、それが伝令じゃなくて、部隊で来る事はないかな?」
「ありませんね」
オルカの疑問をきっぱりと否定したラファエロは、こう述べた。
部隊での行動はスピードが遅く、万が一クルードと鉢合わせした場合を想定して伝令一小隊のみを動かしてくる。部隊数が同じだったとしても、クルードとスクライドの武力差は歴然。みすみす隊を減らす事はしないだろう、と。
ふむふむ、と頷くオルカの怒りは消え失せ、続きが気になっている様子だ。ラファエロはそこで灰色の小さな駒を五つ用意する。
「これは殲鬼隊です。今回の戦は五つの部隊に分けて下さい」
「何の為に?」
「キオウさまの捕縛、それを最優先とします。オルカさま率いる殲鬼隊の内、一小隊には白鳳とスクライドの連結を解除するべく向かうクルード王国の部隊の先回りをさせます。これは、伝令役がキオウさまである事を想定としてます。聞くところによると、キオウさまは白鳳の皇帝に気に入られているとの事です。もしかすると、彼が動くかもしれません。ですが、そうと言いきれるわけではありません」
ラファエロは残った四つの灰色の駒を右上、右下、下、左下へと動かす。
「ダラスとの大戦において、キオウさまは個人の考えで動く兵であると私は判断しました。戦場を駆け巡る自由人ですね。しかしこれが厄介なのです」
「厄介?」
「はい。キオウさまの思考はどうにも読みづらいところがあります。今は考えが纏まらないので簡略的に殲鬼隊の駒を動かしましたが、要はキオウさまの捜索をメインと考えて動く、という事です」
簡単かつ単純な策だが、戦場というものは広い。その中を樹楊が鳥の如く自由に駆け巡るのだ。足取りを掴む、読むのは困難を極める。樹楊が上の指揮に従う兵であれば単純にいち早く攻め込めばいいだけだ。しかしそうではないから厄介なのだ。
今は考えが纏まらない。しかし必ず樹楊の捕縛をしてみせると決意するラクーンだった。オルカは込み上げる嬉しさからラファエロに抱き着き、年齢相応の可愛らしい表現をする。
その頃、すっかり蚊帳の外だった蓮は少しばかり高級なケーキを買いに、弾む足取りで城を出ていったところだった。ラファエロの財布を握り締めて。
◆
ダラス連邦から帰省して半月が経つ頃、ミゼリアと樹楊はラクーンの自室へと招かれた。何もお茶をしに、というわけではないのはラクーンのその表情から見てとれるが、悪い話でもなさそうだ。樹楊とミゼリアは時間通りに訪れると、テーブルを挟んでラクーンと対峙して座る。ブラックのホットコーヒーを用意していてくれて、テーブルの中央には砂糖とミルクも準備されている。ラクーンはミルクだけを入れて銀スプーンで適度にかき混ぜると、それを口にする前にミゼリアへと視線を向けた。
「随分と待たせてしまいましたね」
「え……あの、一体何をでしょうか?」
戸惑うミゼリアを横目に、樹楊はブラックのコーヒーを熱に注意しながら口へと流し込む。ラクーンは笑みを含むと、一枚のフィルムをミゼリアへと差し出した。その下部にはスクライド国王の直筆サインがあり、一目で最重要資料である事が解る。その一面にびっしりと書かれている文面に丁寧な視線を走らせるミゼリアだが、どうにも腑に落ちない様子で微かに眉根を上げた。
「これは武昇の儀による私の役職変更のようなのですが」
「はい、その通りです。何か不満でもあるのですか?」
「いえ、不満はありません。私は部下をみすみす失ったばかりか、大した功績も残せていません。しかし、この役職……。さい、は? という部隊が私には解り兼ねるのですが」
軍規には詳しいミゼリアでも歴史に対する知識は少々乏しいようだ。曲げた人差し指を口に添えて首を傾げている。そんな上官に、樹楊は嘆息。
「砕羽っていう部隊は、ガーデル王が世界の頂点に立つべく行った最後の戦の時、その勝利をもたらした部隊名なんすよ。ミゼリンがその隊の長に選ばれたって事です」
「そ、そうなのか。しかし……」
ミゼリアの疑問が直ぐに解った樹楊は勿体付けずに、しかしコーヒーを間に挟んだ後で湿らせた唇を開く。
「ガーデル時代では、砕羽の隊長の階級は将軍と大隊長の中間くらいです。何せ特殊部隊なもんで、ハッキリとした階級はないんっすよ。暗部や、解り易く言えばクルードの殲鬼隊と同じようなもんです」
「そ、そんなっ」ミゼリアは驚愕を前置きするとラクーンにフィルムを返して深々と頭を下げ「私には身に余りますっ。小隊長ですら失格であるはずなのに、そんな名誉な部隊の隊長など」
ミゼリアは、ラクーンが落ち着かせるも頑なに首を振り、頭を上げようとはしない。これには困り果てたラクーンは樹楊に無言で助けを求めるが、ついっと視線を外される。うーん、と頬を掻くラクーン。
「ダラスとの大戦中、アナタは樹楊くんと共に私の指揮を外れましたよね?」
「は、はい。全ては私に責任があります。勝利を導く為とはいえ、身勝手な行動を許可したのは私です」
「それはいいんですよ。私が聞きたいのは、その時、アナタは何を思いましたか? 何を……感じましたか?」
ゆっくりと視線を上げたミゼリアは口を開くが言葉を紡ぎ出す事を中断させて否定するように小さく首を振ると、真っ直ぐな瞳でラクーンの笑みを見つめる。軽く握った拳を膝の上に乗せ、背筋を正す。すうっと静かな呼吸をし、ハッキリとした声音で述べ始める。
「私はあの時、戦の深さを見ました。何時もは中隊長ないし大隊長からの指示の元、部下を指揮してきましたが、樹楊と見た戦の世界は広く深く、何より濃い闇に包まれていました。その完全な黒の中を、まるで綱渡りしているかのようで……一歩踏み外せば死に繋がる。そんな恐怖がありました。ですが――いえ、だからこそ一縷の光を見つめ続ける事が出来たのです。その光はとても小さく儚いものでしたが、世界が暗闇だったからこそ見失わずに済んだのだと、今更ながらに思います。不謹慎な事は理解していますが、あの時の私は間違いなく高揚していました。一秒たりとも気が抜けない状況。それなのに私は『嬉しい』と感じたのです。この作戦を成功させる事でスクライドを救う事が出来ると、ダラス連邦に勝てると……そう考えると嬉しくて仕方ありませんでした」
だから自分は小隊長にすら向かない、そう言うミゼリアだが樹楊はそうは思っていない。そして恐らくラクーンもだろう。微笑むミゼリア、しかし悲しそうな瞳を冷めていくコーヒーに向けていた。室内は静まり返り、樹楊がコーヒーをすする音しか聞こえない。すると充分に間を開けたラクーンがソファーの背もたれに身体を預けて腕を組む。
「アナタは義理堅く、真面目で誰よりも軍人らしい面を持っている。しかし小隊長には、いえ、誰かの指揮の下で動く事には向いていないのです」
遠回しにクビと言っているような言葉だが、その真意は違う。
「アナタは右腕に軍師を携え、自分達だけで動く方が活きると私は思いました。だからこその砕羽なのです。砕羽は自分達の考えだけで戦況を優位に変え、遂には勝利をも手にした部隊なのです」
「しかし、それでも私は」
ぐっと息を飲んだミゼリアは捨て猫のような目を樹楊に向けた。
な、何ですか。と樹楊はゆっくりと身を引いて冷や汗を流す。コーヒーを飲んでその視線から逃れたいと思うも、カップの中は既に空だ。そんな樹楊を見ていたラクーンは柏手を叩く。
「そうだ、樹楊くんに砕羽の軍師を担って頂きましょうか。うん、それがいい」
棒読みで感情が皆無な声を聞くと、始めからそれが目的であった事に気付いた樹楊。ラクーンの演技は物凄く下手だ。もしかするとワザと嘘らしくしているのかもしれない。ひくひくと顔の筋肉を引き攣らせていると、ミゼリアは嬉しそうに何度も頷く。
「だけど俺の昇格に異議を唱える奴等だっているじゃないすか。その数も少なくはないし、大体砕羽の軍師っていや大隊長クラスですよ? ただの二等兵がそんな昇格するなんてあり得ないっす」
「いやいや樹楊くん、アナタの昇格はミゼリア小隊長の補佐という名目にするので問題はありません。今や十二小隊は二人のみです。その隊長の補佐官は一番信頼のおける部下であり、ミゼリア小隊長の指名ともあれば納得せざるを得ません。それにアナタ方にはダラス連邦との大戦における功績があります」
「いやいや、俺はただの二等兵で充分な身です」
「いやいや、そんな謙遜なさらずとも」
いやいや、いやいや……と中々結ばれない会話を交わし合う二人を、ミゼリアは視線を右往左往させている。まるでどこぞの上っ面接待だ。一行に距離が縮まらない話にラクーンは溜め息を鼻から逃がす。
「樹楊くん、砕羽が戦場を駆けるに当たって何が重要だと思いますか?」
「的確かつ状況を覆すほどの戦場攻略。何より、スクライド本隊の軍師との連携っすかね。互いを信じ合わなければ功を成せません」
「その通りです。流石は樹楊くん。が、ここで質問をします。アナタはダラス戦の時、私と連携しましたか?」
「いや、全く。俺はラクーン、さまならこう動く、こう動かすだろうと考えて行動しました。予想以上の動きをしてはくれましたけどね」
「私も同じです。アナタならこうする、と考えた上での行動です。私達はお互いの腹を探り、行動しました。私はどうにも連携というモノが苦手でして、それ以前に私達はお互いを信頼い合う仲――ですか?」
優しい笑みに光るラクーンの瞳は不敵だった。私達は信頼などし合ってない。そう言いたいのだろう。樹楊とてそれには納得した。自分はラクーンを信頼しているわけではない。信頼しようなど思えない。人としてではなく、戦を共にする者としてだが。
「私はね、樹楊くん。アナタの突飛な策が好きなんですよ。それを暴いて行動するのも、こちらの行動を見抜かせるのも楽しくて仕様がない。私達は互いの腹を探り合う先に同じ結果を求めています。スクライドの勝利、というね。先程も言いましたが、私は連携というものが苦手でして、しかし私の腹を探らせる相手などこのスクライドにいる兵では役不足です。アナタを除いて、ですがね」
どうやらラクーンの決意はテコでも動きそうにない。この男は物腰が柔らかそうに見えて実は頑固なところがある。自分の思い通りにいかないと楽しくないのだろう。何が一番使えて何がどのように役立つか、それを考えている。この若さで領政官の官長を担うだけの事はある。樹楊は肩の肩の力をどっと抜くとコーヒーのお代りを催促し、ソファーに深く座り直した。
「解りましたよ、やればいいんでしょ。や・れ・ばっ」
嫌々ながらも砕羽の軍師を引き受けた樹楊にミゼリアは花咲く笑顔を満面に浮かべる。役職名は、特殊戦場攻略部隊砕羽・隊長補佐官。実質、ミゼリアの右腕となる。その階級は大隊長と同じであり、スクライド王国史上始まって以来の大昇格となる。俸給も今までとは天と地の差だ。
「だけど条件があります」
「解ってます。部隊の選考はアナタに一任させるつもりですよ」
それであれば何も文句はない。
隊員は自分が信頼している者を選びたいのだ。普通の部隊ではない以上、そして戦を攻略していく為にはそれこそ互いの信頼が必要だ。隊員の選考を樹楊がする事にも納得したミゼリアは嬉しそうにフィルムを眺めている。普通の隊と比べると死の確率は格段に上がるというのに、ミゼリアはどこまで軍人なのだろう。それが少しばかり気掛かりな樹楊だった。
その七日後、スクライド全隊員と赤麗が集結した城内の一部屋、式典の間で武昇の儀が盛大に行われた。客人としてダラス軍の総大将であるバリーも出席し、この式典を耳にしていたニーファは五日前には入城の許可を得てこの場にいる。他にも、一般席には大勢の民間人が訪れて満員を既に超している。
その武昇の儀において昇格をしたのは五人の者達であり、その中には兼ねてより昇格を約束されていたアギもいた。アギは小隊長から将軍へと三階級特進を果たし、この場を盛り上げる。そして誰もが式典の終わりを感じ始めた時、ラクーンの声がスピーカーを通して場内に響き渡る。
「まだ終わりではありませんよーっ。今から新部隊結成の通告を致します」
当然、どよめきがあちらこちらで起こり始めた。そんな戸惑いを無視し、ラクーンは新部隊の部隊名『特殊戦場攻略部隊・砕羽』を口にし、その由縁や歴史。役目を口にする。隊長のクラスは大隊長よりも上であり、将軍以下でもあるとも。砕羽の名前を知っている者は驚愕していたが、この場の大半がそれを知らない。勿論ニーファは前者である。
そしてラクーンが砕羽に選ばれた者を呼ぶと、白い革製の長衣を纏った二名が全員の前に立つ。元・十二小隊の隊長ミゼリアと同じく二等兵の樹楊。全小隊の中でも最弱と言われていた小隊が大抜擢された事により、どよめきは大きくなるばかりだった。中でも、サボり魔である樹楊が隊長補佐官という異例な昇格に不満をもらす者は絶えない。
「えーと、皆さん静かにして下さいね。今からこの砕羽の隊員に選考された者の名を呼びます。呼ばれた者は補佐官・樹楊の前に行ってください」
すると水をうったように静まり返る場内。
自分の選考を期待する者が多い中、選ばれないように願う者もいる。
そして完全に音がなくなったのを確認したラクーンが、その者の名を口にする。
「先ずは特殊戦場攻略部隊・砕羽、隊員にはスクライド王国訓練兵、ツキ・モングルーナ」
「……へ?」
訓練兵であるツキは兵列の最後尾で「にーちゃん、すげーな」と感心しながら鼻をほじっていた。しかし突然名を呼ばれて不意を完全に衝かれたという様子だ。ツキは鼻に指を突っこんだまま隣の訓練兵を見る。するとその訓練兵は頷く。
「えーっ、オイラ!? 何でっ、え、は? ちょ、何でっ」
「ツキ! さっさと来いっ」
この場の全ての混乱を背に負うツキに樹楊は声を荒げてその名を呼ぶ。するとツキはあたふたし、ようやく鼻から指を抜いた。
「おわ、でっかいのが取れたっ。ちょ、持ってて」
「え!? お、おいっ、待てよっ」
大きな鼻くそを「持ってて」と手渡された隣の訓練兵は、ぶかぶかの長衣を引き摺りながら走って行くツキの背に手を伸ばす。しかしツキは混乱中でどうにもならず、この場に捨てるわけにもいかない訓練兵は困り果てながらもツキの鼻くそをやんわりと握って悔し涙を浮かべた。
そんな事など知った事じゃないツキは樹楊の前に行くと、冷や汗びっしょりであわあわとし始める。
「にいちゃん、何でオイラがっ」
「俺が選んだ」
「何でだよっ。オイラはまだ訓練兵で、強くなんかないし役にも立てないよ」
ツキはまだ十歳であり、正式なスクライド兵になるにはまだ幼い。しかし樹楊とてそれくらいの事は解っていた。十歳で戦場に立たせるなど無謀である事を。
だがツキという少年は獣人目ララアの血を濃く継ぐものであり、最近ではその頭角を現し始めてもいる。樹楊の見立てでは、肩甲骨が翼に昇華する日も遠くはない。
「いいか、ツキ。お前はまだ幼いが、これから先の遠くない未来に誰よりも強くなると思っている。お前の向上心や反骨精神は誰よりも上だ。だが場数を踏まなければその才能も芽を出せない」
「でも……」
「お前は何の為にここに来た?」
その問い掛けにツキは押し黙って下を向くが、ぐっと歯を食い縛ると頼り甲斐のある笑みを向けてくる。その決意を受け止めた樹楊は、砕羽の証である白の革製長衣をツキに差し出した。が、ツキが受け取る寸前。感情を殺した声音を出す。ツキにだけ告げるように。
「この長衣は名誉の証なんかじゃねぇ」
ピタリ、とツキの手が止まる。
「この白い長衣はな、ここに居る誰よりも死に近い者の証だ。いつも死神に鎌を喉元に当てられている者、つまりこれは死に装束なんだ。それでもお前は受け取るか? 今なら断れる」
嘘などではない。
砕羽の一隊員は小隊長クラスであり、しかし生よりも死を約束されているような者でもある。通常の部隊とは違って安易に応援は呼べず、常に孤立している部隊。軍師である樹楊が選択を一つ間違えれば死に直行するかも知れない部隊。それが特殊戦場攻略部隊・砕羽なのだ。
しかしツキは先程よりも力強い笑みを見せ、
「オイラは誰よりも強くなるんだ」
その小さな手が真っ白な死に装束を手にした時、間違いなくスクライドの歴史に変化が起きた。ツキは今までの訓練兵である証の長衣を脱ぐと、丈を合わせた死に装束に腕を通す。そして真新しい剣を渡され、背に携える。
この場内を埋め尽くすのは、最早どよめきなどではなく歓声だけであった。一般席からはツキの友達であろう、子供による声援が送られている。ツキは恥ずかしがる事をそこそこに固く握った拳で天を突いた。
そこから、樹楊に選ばれた者達が十名呼ばれた。彼らは樹楊が信頼するに値する兵であり、仲が良いというわけではないが悪いわけでもない。しかし、一緒に酒を飲んだ事もある仲である。そして、最後に選ばれる者の名がラクーンの口から告げられる時がきた。
「最後に……これまでは隊員としてこの者達を呼びました。しかし最後に呼ぶ者には速突兵の称を与えます。知っての通り速突兵とは隊の最前線に立ち、いち早く敵兵と剣を交える者です。しかし砕羽は特殊戦場攻略部隊。その隊の速突兵になるという事は死と同義であると思って下さい。今から名を呼びますが、速突兵の称号を受け取れないと言うのであればそのまま足を止めていて頂きたい。それを咎める気はありません。もう一度言います。特殊戦場攻略部隊・砕羽の速突兵の称号を得るという事は、死の宣告を受け取る事です」
ラクーンはその言葉を充分に理解してもらう為にゆっくりと、それでいてしっかりとした声音で告げた。誰だって死にたくはない、それは解る。だからこそ拒否権も与えるし咎める気もない。それは恥ではない、と誰の心にも沁み渡らせたのだ。
先程までは歓声一色だったというのに、今はまた静寂に包まれている。全員、自分の名が呼ばれない事を祈っているのだろう。
それをしっかりと見たラクーンは、固唾をのみ込むと少しばかり小さな声を出す。
「特殊戦場攻略部隊・砕羽、速突兵――――クルス・ラッケン」
静寂に固まる空気が冷え切り、重力を持ったように重くなる。誰もが思っただろう。何故その名前が呼ばれるのだ、と。クルスは元・傭兵団の頭領であり、スクライドの者ではなくただの放浪者だ。いくらラクーンが許可をしたとは言え、樹楊のボディガードなどというのは国には無関係であり、兵士達にとっても関係のない事。その事以上に、クルスの悪評を耳にしているだけに賛同の歓声は上がらない。
場内の壁に背を預けていたクルスはほぼ全員の注目を集めると一度目を閉じ、腕組みを解いてゆっくりと規則的に靴底を鳴らして前に進んでいく。通行用に開けておいた列の間を歩いているだけなのだが、その両脇の兵士達は皆後退る。まるでクルスが纏う空気にすら触れたがらないように。クルスの眼は真剣そのもので、背筋も伸びている。逆立てられた髪は歩くごとに毛先が揺れ、ピアスで留められた口は固い一文字を結んでいた。そして樹楊の前に立つクルス。
「……キョークン、どういうつもりだ?」
感情の読めぬ淡々とした声音で問うクルスに返す樹楊。
「見て解る通り、このままの砕羽じゃ火力不足だ。これじゃあどうにもなんねぇ。砕羽は戦場の攻略をメインとする部隊だ。その為には行く手を阻む敵兵を必ず討たなければならない。その為にはクルス、お前の力が必要なんだ」
思いの全てを飾る事無く伝え、それから砕羽の証である真っ白な長衣を、死に装束を差し出す。しかしクルスはその長衣に目も付けず、腕を組んだまま太々しく樹楊を見続けていた。当然、樹楊も目を逸らさない。何秒、何十秒と膠着が続いたとしても。しかし場内にはクルスを批判する声が細々と漏れ始めていた。断るなら断れ、と棘がある言葉も。
クルスはそんな批判など一切無視する。そんなクルスに樹楊は微かな笑みを顔に浮かべると、伝えたい思いを躊躇う事無く声にしようと口を開いた。その動きをいち早く察知したニーファはメモ帳にペン先を添え、生唾を飲む。
「クルス、俺と一緒に死んでくれ」
シン、と音が消えた。クルスと樹楊を中心に静寂の波紋が広がったように、そしてそれと同時に動きすらも消え失せる。クルスは驚いたように口を薄く開けるが、次第に肩が震えだし、俯く。
「クッカカカカカカ、何だよそれ。ラブコールにしては色気がないじゃんね」
「んだよ、一緒の墓に入ろう。よりはいいだろうが」
クルスは堪え切れなくなった笑いを惜しみなく吐き出すと、サングラスを外して傍にいたツキに手渡した。緑色の瞳は力強く、クルスなりのルールが込められた強い意志の欠片が顔を出す。そして樹楊も不敵な笑みを返すと、クルスはその死に装束を手に。
「見せてやるじゃんね、砂嵐の頭領だった俺の力」
「錆ついてんならしっかり磨いとけよ?」
上等な文句をくれてやるとクルスは着ていた長衣を脱いでツキに渡し、真っ白な長衣を身に纏った。そして場内にいる全員に身体の正面を向けると、胸を張る。
「俺を疎むならそれでも構わない。けど信じてくれ。俺はスクライドの勝利の為に命をくれてやるじゃんね」
誰もがクルスを見た。視線を奪われるかのように、ひたすらクルスの姿を見ていた。その強者の面持ち今も健在で、しかし威圧をするものではない。クルスのそれは紛れもなく一騎当千たる風格であり、勝利へ導く者の姿だ。ツキはその背中を見ると首元まで鳥肌を立ててぶるっと震え、クルスの真正面にいる兵達も同じように身を震わせる。すると、圧縮していた空気が爆発するかのようにクルスを称える歓声が溢れ出す。礼儀を重んじる式典である事すら忘れ、固く握った拳を突き上げる者もちらほら見えた。足を踏み鳴らし、雄叫びのような歓声は空気をも震わせた。まるで今から戦をするような雰囲気だ。
「テメェら、クルードを喰うぞ!」
オオオオオオオオオッ!!
流石と言うべきか、荒くれ者を纏めていただけはある。
癖は強くないものの、スクライドの兵達を自らに引き込んでしまったクルスを樹楊は頼もしく感じていた。兵達は己の剣を引き抜き、天に向かって突き刺す。足を地に踏みつける音はリズミカルで、まるで打ち合わせをしていたかのよう。
野蛮な終わり方をした式典に宰相のジルフードは少々不満のようだったが、ラクーンはいつものように楽しそうでもあった。