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第三十三章 〜紅の牙〜



 サバイバルと称したお遊びキャンプは大成功に終わって早三日が過ぎた。紅葉らが銀髪の男に手も足も出せずに地を舐めたのを機楊は発見し、何があったのか訪ねたのだが三人とも何も言わなかった。


「別に、何も……」と何かがあったとしか思えない状態で吐き捨てる姿は外傷はないものの、身体にダメージを負っている事は確かだった。紅葉に至っては帰ってくるなり城内で検査を受けたほどに体調を崩してもいた。そしてその紅葉が今、樹楊の部屋に訪れて膝を揃えてちょこんと正座をしている。樹楊はベッドに腰を掛けたまま、紅葉と揃えられた膝の前に置かれているホルダーに収まった剣を眺めていた。


「で、これがどうした?」

「折れた」


 はぁ? とホルダーを取り荒っぽく剣を抜くと、確かに刀身が折れていた。これは劣化によるものではなく、明らかに叩き折った痕だ。剣の中心から真っ二つ。一体どうやったらこんなに綺麗に折れるのか。樹楊はその剣をホルダーに収めると、


「俺にどうしろと?」

「何か新しい剣が欲しいの。何かない?」


「俺は武器商人じゃねえ」

「こんなにいっぱいあるんだから一本くらいっ」

「あのな、この部屋にある剣はコレクションで、刃がないんだよ」


 壁に飾っているのもや立て掛けている剣は全てコレクション用に刃を落としていて使い物にならないのは本当だ。研ぐ事が出来ないわけではないが、紅葉が愛用していた剣と同等のものはない。紅葉が使っていた深紅の剣は見る限り大業物だ。そこら辺の剣じゃ役不足だろう。しかし紅葉が牙を失っているのも見過ごす事が出来ない。彼女は大切な戦力だ。何としても代わりの剣を渡したいが。


 いっその事ゼクトの遺品をとも思ったが、それは紅葉が拒否するだろう。しかしそれ以外にはない。


 頭をガシガシ掻いて悩んでいると通信機が鳴り始める。

 誰かと思って取ると相手はスネークだった。どうやらビジネスに関する事らしいのだが、生憎武器の転売は止めた。しかしここである事を思い出す樹楊。


「スネーク、お前今何処にいる?」

「あー……、お前の故郷」


「またかよ……って、そんな事はどうでもいい。今から向かうから店開けといてくれ」

「それはいいけど、俺に何か用な」


 スネークが言い切る前に通信を終了させた樹楊は紅葉の手を取って立ち上がらせる。何があったのかさっぱり理解出来ない紅葉に樹楊は歯を見せて笑う。


「今から買いに行こうや」

「え、宛があるの? 普通の剣は使えないよ、私は」


 それなら大丈夫だ。

 スネークは武器商人である上にまともな物は店頭に並べはしない。どれも割高だが、紅葉の収入を考えると手に入れれる値段だ。その中にきっと紅葉が気に入る剣があるに違いない。今日は少しばかり静かな紅葉だが、樹楊の手と繋がる自分の手を見ると嬉しそうに微笑んだ。


 

 バイクの後ろに乗せてスネークの元に来た樹楊らだったが、どうも歓迎はされていない。紅葉は闇市の者からすれば天敵であり、スネークも紅葉を見るなり不機嫌に口を閉ざした。


「なぁ、単に剣を買いに来ただけだろ? そんなに不貞腐れるなよ」

「そうは言ってもだな、何度言えば解るんだ? ここに赤麗を歓迎する奴なんざいねーっての」


 普段なら喰ってかかる紅葉だが、今日はやはり少しおかしい。ごめんなさい、と頭を下げるとスネークの驚愕を買ったのだ。そしてずっと頭を下げたままの紅葉を見ていたスネークは罰が悪そうに顔を歪めて苛立ち混じりに頭を掻く。


「わーったよ、ったく。今日は特別だっ。んで、どんな剣が欲しいんだ?」

「あ……これと同等くらいの」


 紅葉が剣をホルダーごと差し出すとスネークは何故か申し訳無さそうに手に取ると、一度断わりを口にすると剣を抜いた。深紅の刀身が光を浴びて姿を見せるのだが、その輝きは途中で失われる。


「それ、折れちまったんだよ。俺からすれば大業物だけど……って、スネークどうした? 何固まってんだ?」


 スネークは剣に視線を止めたまま静止してしまった。まるでロウに固められたかのように動かない。紅葉と樹楊が視線を合わせると首を傾げ合うと、そこでようやくスネークの静止が解除される。


「大業物どころじゃねーぞ、こりゃ。こいつは確か……ああ、そうだ。間違いねぇ。深紅の刀身に波紋がない両刃剣。柄に孔雀の羽模様が彫られていて……」


 何やら興奮しているのだが、樹楊に解るわけもなかった。確かに深紅の刀身は珍しいがあのスネークが舌舐めずりすら忘れて魅入っている。そこまで有名な剣なのだろうか。


「なぁ、こいつを何処で手に入れた?」

「え……拾ったんだけど。四年か五年くらい前、かな?」


「拾った!? 何処でっ」

「クルード王国より西にある渓谷でだけど。祭壇っぽいところに置いてあったから」


 あふ……っと気を失い掛けるスネークは頭を抱えて自我を維持するように頭を振ると「それを盗むと言うんだよ」とかなんとか呟いて項垂れている。しかし樹楊らの不可思議な眼差しに気付いたスネークは空咳をし、背筋を伸ばすとテーブルの上に剣を置いて深く、静かに息を吸い込む。そして決意めいた真剣な瞳で口を開く。


「こいつはな、宝剣と呼ばれる類のものだ。作者は不明だが、見ての通り鮮やかな赤色と柄に彫られた模様から紅孔雀と呼ばれるように」

「宝剣……って、マジかよ」


 落ち着いている紅葉とは対照に樹楊は前のめりになってスネークの言葉を咀嚼していた。剣のコレクターとしてなのだろうか、世に実在する事すら疑わしい宝剣を目の当たりにして目が活き活きと輝いている。しかしその剣は真っ二つに折れていて、スネーク曰く「修復は不可能」らしい。紅葉以上に樹楊は落胆し、欲しい玩具を買ってもらえないガキンチョのような目をし始めた。

 樹楊は折れた剣を引き抜き、まじまじと見る。


 見れば見るほどに美しくて刃こぼれもない。確かに魅了するだけの事はあるが、それでも宝剣には程遠い感じもする。


「なぁスネーク、これって本当に宝剣なのか? そりゃ綺麗な剣だけどよ、何つーかそこまで大層な代物には見えねーんだけど」

「何言ってんだよ、俺は武器商人だぜ? こいつは間違いなく宝剣――」


 そこで横から伸びてきた手が剣を取り、その者はスネークが途切れさせた言葉を繋ぐ。

「宝剣じゃないな」


 落ち気味の声で否定するのはナーザだった。今日も変わらずサラシ姿で訝しげな雰囲気を漂わせている。ナーザは折れた剣をゴミのように捨て、絶句しているスネークを蔑んだ目で見下ろした。


「スネーク、お前は折角いい目を持っているのに知識が邪魔してんだよ。あれは良く出来てはいるけど、贋作だ。大業物には変わりねーけど」

「んな! 俺の目が曇っているってのかよっ。なわけねーだろ、アレはマジで宝剣だ」


 頑なに認めようとはしないスネークにナーザは呆れかえり、捨てた剣を拾い上げて目の前に突き出す。この時点で樹楊は蚊帳の外であり、紅葉に至っては存在すら忘れかけられてもいる。


「良く見ろ。その自慢の知識を全て捨てて、それから見極めろ」


 押しつけるような態度にスネークは下唇を突き出すように不機嫌を表し、ナーザの手から剣を奪い取って渋々と鑑定に入った。表面や下から、横からと様々な角度から見たスネークは鼻を鳴らして勝ち誇るように眉を持ち上げる。


「やっぱり宝剣に間違い……あれ? ちょい雑だな」

「やっと気付いたか、アホ」


 断面を見たスネークは難しそうな目をして指先でなぞり始める。そして指の腹同士を擦り合わせたり光に透かしてみたりと、完全に一人の世界に入り始めた。

 こうなっては話し掛けても無駄だという事は樹楊も知っている。ナーザは心底呆れた顔でこちらを見ると苦笑した。


「代わりに俺が説明してやるよ。あの剣は間違いなく贋作だ。とは言っても名のある刀匠が手掛けたんだろうな。切れ味も強度もいいだろう。そしてもう一つ」


 ナーザは人差し指を立ててその奥から柔らかくも鋭い目を覗かせてくる。生唾を飲んで言葉を待つと、ナーザは感心したように頷いて頭を撫でてきた。


「本当の紅孔雀はこの世に三作あると言われていて、その全てが排除されていると言われている」

「そっか。じゃあ見る事は出来ないんだな。ちょい残念」


「俺は『言われている』と言っただけだぞ?」

「え……じゃあ」


 ナーザは深く頷き「実在する」


 樹楊の顔はじわじわと笑みに変わっていき、最後には子供らしい笑顔になっていた。


「紅葉、そいつを探そうぜっ」

「えっ? これなら向こうにあるけど」


 紅葉は焼き鳥をもぐもぐ頬張っていて売っている店舗を指差した。おすすめは塩味のモモ肉らしいのだが、どうやら話しを聞いていなかったようだ。顔を引き攣らせる樹楊と、男っぽく笑うナーザに紅葉は首を傾げる。そして食いかけの焼き鳥を差し出してきて「食べる?」



 ◇



 ナーザは三本ある紅孔雀の内、その一本が隠されている場所を知っているらしい。

 樹楊と紅葉はテーブルを挟んでナーザと向き合っていた。紅葉の頭には大きなたんこぶが一つ、山を作っている。


「でも知ってるなら何で取りに行かないんだ?」

「取りに……ねぇ。行ける事は行けるんだけどな、持ちかえってくる事が出来ないし、それ以前に触れたくもない」


 遠い目で嘆息するナーザに樹楊はその言葉の意味を考えた。

 ナーザは闇市の住人だし、その宝剣を手にして売る事が出来れば遊んで暮らせるだろう。金に貪欲なナーザだけに、その言葉が何を意味するのか解らない。

 そんな樹楊に応えるかのようにナーザは視線を遠くに投げたまま話し始める。


「アレに触れて腕が吹き飛んだ奴を何人も知ってるんだよ、俺は」

「触れて、吹き飛ぶ? 何だそりゃ。宝剣じゃなくて妖剣の間違いじゃねーの?」


「いや、宝剣だよ。ただし本当は宝剣じゃなくて崩剣だけどな。誰が言ったのか解らねーけど全てを崩壊出来る唯一無二の剣。らしいんだけど、手に出来る者は皆無。皆肘から先が吹っ飛んで持つ事すら敵わないんだ」

「な、何でだ?」


 ナーザは視線だけをちろっと向けてきて「素材は鬼哭の血結晶と言われているからだ」

 樹楊が聞き覚えのある言葉に眉根を寄せるとナーザは嬉しそうに目を細める。また難しそうな話になりかけると、紅葉は辺りをきょろきょろしてその先に見付けた屋台に向かおうと立ち上がった。が、その腕を樹楊が掴んで阻止。


「紅葉、お前が手にする剣だ。よく聞いとけ」

「え……や。私は」

「流石は赤麗の首領だな」


 そんな馬鹿な! と紅葉が驚く事をまるっきり無視してナーザは事の詳細を告げてきた。鬼哭の血結晶とはその名の通り、鬼が泣き叫んだ時に溢れた血を結晶化させたものと言われており、持ち手に膨大なエネルギーを注ぎ込むとされる稀少かつ呪われた宝石と言われているらしい。しかし鬼哭の血結晶は伝書のみに綴られている未確認の宝石であり、その剣の素材である事は勿論推測の域を出ない話だ。誰が何の為に創作した剣かは解らないが、触れた者全員が「凄まじい波動が腕に流れてきた」と証言したばかりに「鬼哭の血結晶が使われているのでは?」という話になったと、ナーザは言う。


「でも、もし本当に鬼哭の血結晶が使われていて、その剣を手に出来たとすれば……」


 樹楊が恐る恐る尋ねるとナーザは口端を釣り上げて頷く。そして二人とも紅葉を見るなり意味深に頷き、話が勝手に決まっていく。


「そうとなれば行くしかねぇだろ。ナーザ、案内頼めるか?」

「ちょ、ちょちょちょー! 私は別にっ」

「案内は任せろ。つっても今から用事があるから、明日の昼にまた来い」


 張り切っているのは樹楊とナーザで、紅葉はいわくつきの話にドン引きしている。もう普通の剣でいいから、と言うも二人の耳には届かない。コレクターとして、闇市の店主としての性が興奮させているのだろう。紅葉はがっくりと肩を落とすと「もうイヤ」と呟き始めていた。


「うん、そうだな! これは贋作――って、あれ? みんなドコ行ったー? おーい」

 

 スネークがようやく見極めた頃には既に解散済みで、店じまいをしている向かいの店主が首を傾げられ、仲間外れにされたと目を袖で擦る。そしてその夜、紅葉はイルラカと一緒に寝て何とか次の日の出発を避けようとする。が、翌朝に訪れた樹楊の話を聞いたイルラカに元気よく見送られる破目となってしまうのは、些細な余談であったりもする。


 そして翌朝、紅孔雀を手にせんとばかりに出発した三人(元気なのは樹楊とナーザだけだが)は日を跨いで翌日の夜に目的地に着いた。

 スクライド王国から北西の方角にある、白鳳に近い海岸沿いに出た樹楊は海を眺めるナーザの隣に立ち、同じように海を眺める。


「海……だけど」

「そうだ。海だ」


 沈黙。

 打ち寄せる波の音と琥珀の光に照らされる雰囲気は、そこそこロマンチックな雰囲気を醸し出している。紅葉はと言うと、長旅にすっかり疲れたようで一本に木に寄り添ってうとうとし始めていた。

 

「で、ここが目的地?」

「そうだ。まあ心配するな」


 ナーザは海に背を向けると紅葉の元で膝を折り「アンタの彼氏、襲っちまうぞ」

 その途端、紅葉の眼がくわっと開き何かを言おうと口を開けるが思う所が多々あったようで赤面すると恥ずかしそうに俯く。ナーザはにやにやしながらバイクに跨るとエンジンを掛けた。


「おい、早く行くぞ。時間がない」

「時間? 何のだ?」


 全く意味が解らない二人に説明もせずにバイクを走らせるナーザは、何を思ったのか海に突っ込んでいく。バイクが防水ではないのは解っているはず。樹楊が止めようと手を伸ばして大声で名前を呼ぶが、ナーザは止まらずに『海の上を』走っていった。

 

「樹楊っ、ナーザがバイクで海の上をシャーって、私もあれが欲しいけどありえねーってて言うか! 何を言ってるか訳解らねーと思ってるだろうけど、私も何を言ってるのか訳解らないからそこんとこヨロシクっ」


 激しく混乱する紅葉だが、樹楊にはそのカラクリがすぐに解った。すると紅葉をバイクの後ろに乗せて後を追うようにエンジンを全開にする。


「ちょっと待って! アンタのバイクは普通の軍用バイクでしょ!」

「それがどうしたっ」

「なああああああ! ダメ駄目だめだめぇぇぇえぇえええええ! 私泳げないんだから!」


 初めて知る弱点に樹楊は笑いを堪えながら、そして嫌がる紅葉を無視して海に突っ込んでいく。しかしそれはナーザが通ったところに限定される。紅葉は海に突っ込む前に跳び下りようとするが、樹楊に腕を掴まれていてそれすらも叶わずに涙目をぎゅっと瞑った。紅葉の頭の中には溺れる自分の姿が映っているのだろう。しかし、その思いとは裏腹にバイクは沈む事無く、水面を斬るように疾駆している。

 紅葉が目を開けば、水飛沫が琥珀の光に煌めいて飛んでいるかのような光景に顔を徐々に綻ばせ始めた。


「す……ごぉい! 何でっ、ねぇねぇっ。飛んでるっ」

「ナーザと俺はマジシャンだからな」


 本当はただの干潮で、潮が大きく引いているだけなのだ。それ故、盛り上がっている地が道となった。海水が僅かに地を覆ってはいるが、大した問題ではない。紅葉は嬉しさのあまりに樹楊の肩に手を乗せて立ち上がり、遠くを眺める。先程までの弱気な姿は何処にいったのか。あたかも水面を切って飛んでいるかのような感覚に樹楊も少しばかり楽しんでいるが、目的地と思われる小さな浜に着いてしまった。

 浜には小さな慰霊碑が置いてあり、それを横へずらせば地下に通ずる階段が現れる。海にいるというのに、中から込み上げてくる湿気がハッキリと解った。そしてカビ臭い。


 ナーザは鼻までピッタリと覆うマスクをすると、虚を衝かれた二人の視線に気付き頬を掻いた。


「悪い、言ってなかったっけ? カビ臭いって」

「聞いてたら」と樹楊が言えば「マスクくらい用意してるわよ」紅葉が繋げる。

 込み上げてくる湿気よりも湿った視線を二つ受けたナーザは持参のライトで中を照らすと誤魔化すように促す。男っぽい性格なのに可愛らしい所があるナーザに樹楊は溜め息を一つ。それから仕方なくといった感じで入ってく。


 階段は石で苔やらカビやらで何とも豪勢にコーティングされている。これで蜘蛛の巣でも張っていれば不快感もマックスだ。自分はこういうところは歩き慣れているし、ナーザもきっと慣れているだろう。だが紅葉は慣れていそうにもない。注意するのも杞憂かと思ったが一応言っておいても悪い事ではないだろうと振り向いたその時。


「滑りそ――って、あややややややぁ!」


 ケツが降ってきた。

「うそだぁ!」


 最初の一歩で早速足を滑らせた紅葉は見事後方にバランスを崩してヒップアタックを樹楊の胸元に喰らわせ、下まで真っ逆さまに落ちていく。エコーが掛かる悲鳴を上げながら闇に消えていく二人を見送ったナーザは「えー……っと」と状況を何とか理解し、


「大丈夫かーっ?」


 だすん、と重量感たっぷりの落下音の後、

「だ、大丈夫」紅葉の声だけが聞こえた。


 下敷きになった樹楊はきっと大丈夫じゃないのだろう。うんともすんとも言ってこない。ナーザがゆっくりと階段を下りライトを照らすと、樹楊は泡を吹きかけていた。


「おーい、大丈夫か?」

「ちょ、ちょっぴ大丈夫じゃ、ない」


 樹楊が回復するまで五分の時を要し、三人は奥に繋がる一本道を歩き始めた。通路は一人しか通れないほどに狭く、樹楊くらいの身長ともなれば首を曲げなければ天井に当たってしまうほど低い。この辺りもカビ臭さが充満し二人は手で鼻を覆いながら無言で進む。ナーザは口を開きたくない樹楊の気持ちを悟ってか、勝手に話し始めた。


「あと少しで扉の前に着く。その扉は何の変哲もない扉だが、中に入ったら驚くぞ」


 紅葉を挟んで一番後ろにいるナーザに「何があるんだ?」と意味を込めた視線だけ送ると、その意すらも理解してくれる。ナーザは頷き、マスクに隠されている口を綻ばせて笑う。


「まぁ、見てのお楽しみだ。こんなカビ臭くもないし、狭くもない」


 本当かよ、と思いつつもいい加減に辛くなってきた中腰のまま歩き続けていると、ナーザが言う通りの扉が行く手を阻むように閉じていた。何の特徴もない石で出来ただけの粗末な扉。樹楊は指先で扉の表面をなぞるとナーザの方を見て、頷かれた後で慎重に扉をスライドさせる。扉は思った以上に軽く、潤滑油を塗っているかのように滑らかに開いた。


 そして眼の前に広がる光景。


「おお……」

「な、何この部屋……すっごく綺麗」


 樹楊と紅葉は見た事もない世界に目と心を奪われ、入口で立ち尽くした。後ろで控えていたナーザはその背中を押してやり、カビ臭い通路から抜け出ると伸びをして腰に手を当てる。


「な? 驚くだろ?」

 偉そうに言ってくる言葉にすら返せない樹楊は頷くだけで視界の限りを見渡す。


 狭かった通路、そして地下とも思えないほど広い室内は障害物もなく天井が丸い。そして何よりも樹楊の目を奪ったのは、その室内を惜しみなく照らす天然石だった。

 天然石は壁や天井だけに留まらず、地面にも埋まっていて淡いブルーの光を点灯させている。大きさやその輝きの明度に違いはあるものの、逆にそれが神秘的でもある。まるで星空の中、そう夜空の星星の中に居るみたいだ。

 紅葉は地に埋まっているその石に爪を掛けてカリカリと掘る仕草を見せている。しかし取る気はなく、ただ単に興味本位で引っ掻いているだけのよう。


「ナーザ、この天然石って何なんだ?」

「知るかよ。海の結晶だとかリヴァイアサンの涙だとか、色々言い伝えはあるけど……どれもただの憶測だ。それよりも俺達はこんな石を見に来たわけじゃねーだろ?」


 そう言えばそうだった。

 圧倒的な神秘が広がる世界に気を取られていたが、本来の目的は紅葉の武器を取りに来たのだ。ナーザが言う『崩剣』という異名を持つ紅孔雀。それを手に入れに来たのだ。樹楊は目的を思い出すと、未だに石を引っ掻いている紅葉を連れてナーザの後を追った。


 ナーザは脇目も振らずに奥へと進んでいくと小さな祭壇の前で止まり、無言のまま指を差す。そこには紅葉が持っていた贋作の剣ほどの幅を持ち、短めの剣がホルダーに収められて置かれていた。そのホルダーの中央には何やら解読不可能な文字が書かれた護符が貼られている。恐らく白かったのだろうが、長い歳月を経ると共に色褪せているようだった。


「えらい中途半端な長さだな、この剣。短剣じゃなさそうだし、どんな剣なんだよ」

「だから、触れた奴は皆腕を吹き飛ばされたつったろ? どんな剣かは知らん」

「そーだったな。つー事は、この剣を……」

「ああ。この剣を……」


 腕を組みながら二人に急くような視線を送られた紅葉はびくっとし、怖気づくように後退りまで始める。


「ほ、本気で言ってんの?」

「勿論」

 

 樹楊が頷けばナーザも首肯する。

 腕が吹っ飛ぶって言ってんのに? と紅葉が弱音を吐くも樹楊とナーザの視線は変わる事はなかった。樹楊は勿論、ナーザも紅葉には期待しているのだろう。何せ常軌を逸した能力を持っている。紅葉であれば、といった根拠のない期待は揺るぎそうにもない。


「い、嫌よ。腕が吹っ飛ぶなんてのは絶対に嫌っ」

「大丈夫だって。吹っ飛びそうだったら離せばいいだけの事だろ?」

「そんな簡単に言ったって、嫌なものは嫌っ」


 紅葉が嫌がるのは当然の事だろう。触れた者は皆腕が吹っ飛んだ、と言われればどんな馬鹿でも怖気づくに決まっている。それでも触れる者は勇気と無謀を履き違えた者のみだ。だが樹楊としては紅葉にこの剣を手にしてほしいという思いがあった。贋作とは言え大業物である剣を扱っていた紅葉が、その贋作より劣る剣を握って今までと同じくらいに能力を発揮するとは思えない。それに、あの深紅の剣が紅葉に似合いすぎていて見惚れる事もあったのだ。今更普通の剣を使ってほしくない。そもそも並みの硬度の剣であれば、紅葉の力に耐えきれずに折れるのが目に見えている。

 宝剣だろうが崩剣だろうが、紅葉が持つ剣は至高のものであってほしい。


「少しだけでも触ってみろって」

「で、でも。もし腕がなくなったらどうすんのよ」

「そん時は俺が一生面倒を見てやる」


 樹楊の申し出に紅葉は少しばかり心が揺らいだようだ。あれほど目を逸らしていた剣をちらちらと見始めている。少しばかり唸り、紅葉は樹楊を上目で見た。樹楊は頷き、紅葉はまた小さく唸る。そして深呼吸をすると、決意めいた表情を見せた。剣の前で膝を折ると樹楊の頷きを貰い、そして小刻みに震える指先で躊躇いがちに突く。コツコツと爪が当たる音が響き、何の変化もない紅葉は首を傾げて大胆にも柄を握り締めた。


 流石にナーザも驚いたが、紅葉の腕は吹き飛びそうにもない。

 紅葉は握り締めた剣をしばらく見つめた後、何を思ったのか封印を意味しているだろう護符をべりっと剥がした。


「こ、紅葉。何ともないか?」

「ん……、別に何とも」


 胸を撫で下ろす樹楊は安堵の表情を浮かべ、紅葉は拍子が抜けたような面持ちで振り返ってきた。そしてその念願の刀身を拝める時が来たナーザは目を煌めかせる。紅葉はそれに気付くとホルダーを抑えて柄を力強く握ると一気に引き抜いた。

 その瞬間、紅葉の顔が苦痛に歪んだ。


「紅葉!」

「ん、くっ。腕っ……身体が吹き飛びそうっ! 痛、い!」


 それでも紅葉は力づくで剣を引き抜こうとする。樹楊に離せと言われても頑なになり手離そうとしない。ぎりぎりと歯を食い縛り、膝を着いてまで堪えていた。だけど状況が最悪の方向へ向かっている事が樹楊にも解っていた。

 紅葉の骨が軋む音が聞こえるのだ。万力に締められているように紅葉の身体は悲鳴を上げ、柄を握る手の爪が全てひび割れてきている。

 それでも、それなのに。


「紅葉、離せ!」

「嫌よっ。ムカつくのよ、こいつ! 崩剣だか何だか知んないけど、この私に牙を剥くなんて上等だわっ」


 つい先程までは怖気づいていたと言うのに、そこはやはり樹楊が良く知る紅葉の姿だった。負けん気が強すぎて意地っ張りで。

 だからこそこの剣を引き抜きそうな気がする。紅葉なら、紅葉だから引き抜きそうな気がしてならない。


 紅葉は重く息を吸い込むと全ての力を腕に集約したようだった。前のめりになり、片手の爪が全て吹き飛び、目を見開く。



 ◆



「お、あぁあぁああああああああああああああああああ!」


 紅葉の手が真横に振り抜かれると同時に、この幻想的な部屋を血のような真っ赤な光に染まる。あまりの眩さに樹楊らは目を閉じざるを得なかった。雪に反射する太陽の光を見たかのように眩んでいた目をゆっくり開けた紅葉は、軋む身体の節々を触る事で五体満足でいられた事を認識する。しかし肝心の剣が無くなっている。あれほど力強く握り締めていたのに、すっぽ抜けるわけがない。


 財布を落としたかのように辺りをきょろきょろする紅葉が目にしたのは、地じゃなく宙に浮かぶ裸体の子供だった。見た目、十歳くらいだろうか。髪が長くて、自分と同じで赤い色をしている。いや、向こうの方が神々しく輝いて見えた。そして額には二本の角が生えている。膝を細い腕で抱えながら背を丸め、縮こまる姿は何とも儚い。


「は……? 何、こいつ。ね、ねぇ樹楊」


 隣にいる樹楊の肩を揺らすが返事が返ってこない。何時まで呆けてるのかと苛立ちながらも目をやると、樹楊は目を腕で覆ったまま動かなかった。もう一度強く肩を揺さぶるも、固められたかのように動かない。


「ナーザ、アンタは無事……」

 でもなかった。


 樹楊と同じような姿勢で固まっている。念の為身体を揺らしてみても結果は同じ。

 自分だけが動く空間は真夏に生温い湯を飲まされるように気持ち悪く、背筋に冷や汗が浮かんでくる。もしかしたらこのまま一生……、などと考えていると宙に浮かんでいる少女がやけに落ち着き払った声で、しかし目は閉じたまま問い掛けてくる。


「汝、我を求めし者か?」

「は? 何言って……、ってかアンタは何なの?」

「答えよ、弱き者よ」


 弱い。

 その言葉に紅葉は苛立ちで動揺を跳ね退け、眉間に縦筋を浅く刻む。そしてこの少女が剣に宿る怨霊なる主みたいな者だと予測を立てながら睨んだ。


「別に私は何でも良かったんだけどね、こいつが強引だったから仕方なく――ってところかしら? で、アンタは何者?」


 見下すように鼻を鳴らすと、浮かぶ少女も鼻を鳴らし返してくる。


「我は汝等が『紅孔雀』と呼ぶ剣だ」

「って事はアンタ、本当に鬼なの? 鬼の悲しい血で出来ているって聞いたんだけど」

「そうだな……そうかも知れんが、過去の事はもう忘れた」


 ふふっと笑いを含む少女が嘘を言っているようには見えない。触れた者の腕を吹き飛ばしたのは、憎しみよるものかと思っていた。言い伝えが本当であれば、この少女は悲痛な思いと同時に血を抜かれた事となる。そうなれば憎悪が残留思念となりこの剣に宿ってもおかしくはないだろう。だが、そう思うと同時に自らが立てた憶測に疑問が生じる事が解った。


 振れた全ての者の腕を吹き飛ばすとなれば、紅孔雀の刀身が赤い事を誰が知ったのだろうか。作った者は当たり前として、贋作があると言う事はその者か他の誰かが手にしていた可能性も否めない。だとすれば、腕が吹き飛ぶ理由は?

 考える事が得意ではない紅葉は、こんな時に樹楊の無駄に回る頭が頼りなる事を改めて思い知った。そんな思いを見抜いてか、少女は口を開く。


「腕が吹き飛ぶのは持ち手としてふさわしくないからだ」

「ふさわしくない? アンタを必要として何が不満なの?」

「我はお飾りではない」


 なるほど、と紅葉も納得。

 昨今でも珍しい剣をコレクションとして集める輩も多くなってきている。隣で固まっている馬鹿もそうだ。第一剣は飾る為に作られたものではなく、人を殺す為に作られた武器だ。少女が言う『ふさわしくない』とはその事だろう。でも、自分は心から紅孔雀を欲してはいない。先程も言ったが、樹楊が強引だったから仕方なく、だ。

 紅葉が頭をぽりぽり掻いていると、少女は未だに目を閉じたままで目の前まで降りてきた。膝を抱え、宙にふわふわと浮きながら。そして目線の高さが合うだろう位置まで来ると、少女はゆっくりと目を開ける。その瞳も紅く、くりくりしていて可愛らしいものがあった。


「汝は何の為に剣を欲する?」

「私……。そうね、自分の強さを誇示する為。牙を剥く奴を斬り伏せる為」


 紅葉はそこでくすっと笑うと、馬鹿馬鹿しそうに微笑む。しかし少女は紅葉の奥底を見るような瞳を閉じようとはせずに言葉を待った。


「その為に剣を握っていたんだけどね、今はどうなんだろ? よく解んないな。……解んないけど、今は剣を捨てるわけにはいかないの」

「……何故?」

「だから解んないって。…………まあ、多分剣を握る理由にそこの馬鹿も含まれているんだろうけど、ね」


 少女は固まっている樹楊を見ると目をぱちくりさせ、そのままの体勢で移動を始める。そしてふわふわと樹楊の周りを飛んだ後、顔を覗き込み始めた。腕が邪魔でよく見えないのだろう。眉根を寄せてぐいぐいと顔を押しつけて見ている。すると、何かに気付く少女。言葉を忘れたかのように口をぽっかり開け、それでも次の瞬間には嬉しそうに目を細めた。


「何……。樹楊の事知ってるの? そいつ、変わり者だから知り合いでも不思議とは言えないけど」


 それは正直な気持ちだ。

 自分よりも早くイルラカと知り合っているし、蓮も懐いている。更には木人であるサラの夫となる人物である上に王たる存在でもある。そんな奴だからこそ、今更知り合いでしたと言われても余り驚く事は出来ない。

 しかし返ってくる言葉は違っていた。


「こんな阿呆とは知り合いなものか。見れば見るほどに阿呆面だ。だが……懐かしい顔をしている」


 そう言う少女の顔は嬉しそうだった。蹴りを喰らわせ(主に股間に)、頬を引っ張り。それでも嬉しそうで、楽しそうで。だけど少女の瞳に樹楊が映っていない事は、何となくだが解る。その瞳は遠い過去を映しているのだろう。きっと樹楊に似ている者と知り合いか何かだったのだ。

 少女は満足するまで機楊に攻撃した後、やっとの事で目の前にまで帰ってきた。すると鼻から溜め息を逃がし、肩をすくめる。


「本来であれば汝の腕も吹き飛ばすつもりだったのだが、あの阿呆を護る為と言うならば我を受け取るが良い。我は血を求めし存在。悲痛な血を求めし剣だ。だが、ここで護る剣となるものいいだろう」


「いいの? 私は都合がいいんだけどさ、アンタはそれで満足?」

「時には酔狂になるのも悪くはないだろう。なに、人の命は短い。次の者に渡る時に再度血を求めればよい」


 それに、あの阿呆を護って欲しいと我も思う。

 少女は紅葉に聞こえないほどの声で呟いた。そして今一度身体を赤く発光させると、その形を徐々に変化させて一本の剣……いや、太刀となる。それはあまりにも長く、幅も広い太刀。その太刀を握ってみるも重さは全く感じられず、羽根を持っているみたいだった。刃は紅孔雀と言われるだけあって、鮮やかな紅だ。波紋もなく、芸術品とも言えるだろう。その刀身は樹楊の身長と同じくらいで柄も長く、それでいて刀身との間を隔てるはずの鍔がない。


「長い……けど、ホルダーに収まるの? いや、太刀の場合は鞘……だっけ」

「我は鞘の中では無形だ。案ずるな。一度抜刀すればこの形となろう」

「ふーん、便利ね。で、アンタは何時まで喋るつもり?」

「この空間凍結を解除すれば我は言葉を失う。汝は気にせずともよい」


 そ、と素っ気なく呟くと太刀が笑ったような気がした。それに対し微笑み返すと、剣が告げてくる。


「我は紅孔雀ではない」

「え? アンタ偽物?」

「馬鹿者。人が勝手に名前を変えたのだ。我の名は『紅威』だ」


 クレイ……。

 その名前は生前のものなのだろうか。


「解ったわ、紅威」


 紅は何も言葉を返しては来なかった。しかしまた微笑んだのが解る。

 紅葉はその長い刀身を落ちていた鞘に収めた。紅威が言った通り鞘に収める瞬間に無形となったのだろう。手には何の感触も得られなかった。しかし、身体が一際大きい脈を打つ感覚に襲われると腹の底が軽くなってきた。そればかりか血管にメンソールを流されたかのような爽快感が身体中を巡っていく。これは都合が良いパワーアップなんかじゃない事は解っていたが、感じていた自分の限界がなくなったような気もしてきた。前まではグラスのような自分の器に、力という水がいっぱいだった。だけど今は……その水の量こそ変わりはないものの、器が大きくなった気もする。錯覚ではない。自分はまだ強くなれる。今より、ずっと。まだ水を注げる。


 これがナーザが言っていた「膨大なエネルギーが注がれる」という事なのだろうが、それは間違いなのだろう。これは力をくれる太刀ではなく、自分を広げてくれる太刀だ。これが……鬼の器なのだろうか。


「……っく、何だっ今の光は。つーか股間が痛ぇ」

「……樹楊、紅葉大丈夫か?」


 空間凍結が解けたのだろう。

 固まっていた樹楊とナーザが動き出して安堵するはずだったのだけど、何故か滑稽で笑えてくる。この二人は自分と紅威のやりとりを知らないのだ。樹楊は不思議そうに首を傾げて腰を叩いていた。

 樹楊は紅葉が平然と太刀を握り締めている事に気付くと疑問を込めた目をする。それに対して頷いてやると、満面の笑みを樹楊がくれた。そして駆け寄ってきて脇の下に手を突っ込んでくると、ふわりと身体を持ち上げてきた。


「紅葉っ、お前すげーよ! やっぱ普通じゃねーっ」


 普通じゃないのはアンタよ、と紅葉は口にせず笑うだけだったが樹楊に持ち上げられたまま誓う。これは紅との約束でもあり、自分の決意だ。


「この先、私がアンタを護るから」

「え、あ……ああ」

 

 樹楊は顔を真っ赤にして目を反らして紅葉を降ろすと、ナーザがこれまた嬉しそうに近寄ってきて剣を抜いてみろと催促してくる。よほど気になっていたのだろう。それは樹楊も同じようだ。

 紅葉は剣ではなく太刀である事を前置きし、抜刀。すると無形だった紅は長い刀身へと変化した。


「な、長っ……」

「紅葉、これは一体……」


 まるで水晶のように透き通る紅威を見た樹楊とナーザは同じ反応だった。それもそうだろう。長くも短くもない鞘に納められていた太刀が、超が付くほど長い刀身だったのだ。


「これは鞘に入っている時だけ無形らしいわ。抜けばコレだけど」

「コレだけど……って。こいつは太刀ってより斬馬刀だな」


「斬馬刀? 何それ」

「何でも馬を斬る為の刀らしくてな。だけど重すぎて二人がかりじゃなきゃ抜けない刀だったらしい。対人向けではない事は確かだ」


 重くないのか? と心配そうに尋ねられた紅葉は勝ち誇ったように微笑むと片手で紅威を振り、樹楊の完全でぴたりと止めてやる。身動き一つも出来なかった樹楊は口をわなわなと震わせると目線だけを紅葉へと移した。そして遅れるように樹楊の前髪がはらはらと落ちてくる。


「これでもまだ心配?」

「い、いや。大丈夫……だいじょ、だいっだい」


 樹楊は刀身に映る自分の顔を見ると顔面を蒼白に染めて目を思いっ切り開いて前髪を触る。しかし鬱陶しく感じていた前髪はなかった。紅葉の寸止めに半分以上も斬られてしまったのだ。


「ああああああああ! 俺の髪がぁ大丈夫じゃねぇえええ!」

「あれっ? えーと、何て言えばいいのかな」

「ばっきゃろー! 前髪がぱっつんになったじゃねーか!」


 樹楊の前髪は眉の上で横一直線になっていた。そしてサイドの髪が頬まで垂れているもんだからどこぞの人形の失敗作みたいになっている。それを斜め後方で見ていたナーザは興味をそそられたのか、こそっと近付いて背後から肩を掴むと同時に樹楊の身体を反転させる。


「んなっ、ばっ! 見んな!」

 恥ずかしそうに額を手で覆うも、その髪型はばっちりナーザは見た。


「ぶっははははははははははは! 何だお前っ、前髪ちょっきりじゃねーかっ、げほっごほっ。くっはははははははっ」


 ナーザは腹を抱えてしゃがみ込むが耐えきれなくなったのだろう。遂には膝を折り、涙を流しながら爆笑し、地をだむだむと叩き始めていた。くっ、と言葉を喉に詰まらせて顔を赤くする樹楊がやけに可愛く思えた。いつも飄々としていて照れる事など殆どないから珍しいものがある。そんな思いを胸に見ているというのに、樹楊は盛大に顔を怒りで染めながら笑ってぎこちない動きで振り返ってきた。


「紅葉……てめぇ。ケツから降ってきて潰すわ前髪こんなんにするわ…………。一体俺の何がそんなに気に喰わねぇんだコラ」

「わざとじゃないってばっ。事故よ、事故」


 紅威を鞘に納めて事故と主張するが、樹楊の耳には届きそうにもなかった。相変わらず前髪を手で覆ってはいるが怒髪天突く思いなのだろう。今にもポーチの中から剣を取り出しそうな勢いがある。


 この後、樹楊を宥めるのには一時間弱必要とした。

 しかしスクライドに帰るなり爆笑の的となったのは言うまでもないだろう。樹楊曰く、泣きながら髪を切ったのは初めての経験。だそうだ。


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