第三十二章 〜砕愛〜
ラファエロは、ケーキがなくてご機嫌斜めのオルカに貰い物のクッキーを差し出して宥めた。最初はケーキがない事に怒りもしたが、やはりまだオルカは幼いところがあり、代わりにクッキーを出すと口を尖らせながらも許してくれた。そのクッキーが少しばかり有名な銘柄だったお陰もあるが。
「ねー、何か飲みたい」
「紅茶でよろしいですか?」
「うん、何でもいいよ」
すっかりご機嫌を取り戻したオルカに紅茶を淹れに立つと、羨ましそうにクッキーを眺めている蓮に気付いたラファエロは「まだ食べるのか」と思いつつもやんわりと促してやる。すると少しばかり考えた後、お腹を撫でてクッキーに手を伸ばした。
「蓮さまも紅茶でよろしいですか?」
「う……だめ」
「では、何を飲みますか?」
蓮は一枚のクッキーをさくさく食べ終えた後に「……ちゃ」
お茶の事だろう。
オルカ一人でさえも大変に感じていた子守りは、二人となった今だけど苦に感じなくなっていた。こうしている時の蓮は食い意地こそ異常だが素直で扱い易いものがあり、オルカも同姓の友達を持てて以前よりは我儘を言わなくなったし軍議にも素直に参加してくれるようになった。考えを変えてみれば、猫を飼っているようなものだ。
自分勝手で懐きはしないものの、餌を与えると大人しくしてくれる。日向ぼっこをして寝ている時なんかは穏やかなものだ。そう考えればやはり猫を嫌う事なんて出来そうにない。
勝手に頷きながら紅茶のカップを用意していたラファエロだが、そこでようやく気付く。自分は餌を与えるだけの存在だという事を。
蓮は自分の名前を覚えてはいないだろう。オルカだってきっと覚えてはいない。自分を呼ぶ時は何時だって「ねえ」とか「あのさ」とか。結構辛いものがあったりするが。
「蓮ちゃん、それは私のっ」
「……ちょこ味は二枚重ねが基本」
たかだかクッキーで騒ぐ二人を見れば、それでもいいかと思う。
オルカが名付けた『第一次クッキークライシス』は引き分けに終わり、騒がしかった室内にも穏やかな時が流れ始める。ラファエロは散らばったクッキーのカスを丁寧に拭き取ると、ようやく自分の紅茶に口を付ける。そうやって心を和ませてソファーに座っていると、オルカが仰向けになって膝を枕としてきた。少しばかり眠たそうな目をしている。本当に猫のような上官だ。
微笑ましく思いながらも声を掛けず夜の風の声に耳を傾けていると、蓮が不意に訊いてくる。
「きょーくんは何でお父さんを憎んでるの? 反抗期?」
「いや、反抗期ではなくてですね。その……」
答えようとするも、口にしていいかどうか解らず目線をオルカに向けるラファエロに蓮は首を傾げた。オルカは眠たそうだった目尻を尖らせ、苛立ちに結ばれていた口をそっと開いて感情を押し殺した声を漏らす。
「あいつは……兄さんの母親を殺そうとしたんだよ」
オルカが直接見たわけではなく、あくまでも聞いた話だ。しかし、口にしたのは国王自身であり、それは揺るがない事実だ。
子宝に恵まれなかったクルード国王は、第二夫人との間にようやく生まれた樹楊を可愛がっていた。しかし、その四年後。第一夫人との間に男の子が生まれると、燈神の血を濃く継ぐ樹楊とその母親の暗殺を部下に命じた。王位継承は一番最初に生まれた者となる。樹楊の母方の家系には燈神の血が混じっており、クルード王家は代々ソリュートゲニア人で継承されてきた。国王は燈神の外観を持つ樹楊を疎く思ったのだろう。それに気付いた母親が亡命を決めて逃げたのだが、スクライドとクルードの国境にある川で暗殺者に捕まってしまう。
オルカはそこまで簡潔に説明すると、一度言葉を区切った。そして眼を瞑ると溜め息を逃がして続きを口にする。
「そこに精霊が現れたらしいんだ。精霊は神聖で崇められる存在だし、守り神とも言われてる。当然、兄さんは精霊に母親の助けを求めたらしいんだけど……。どうやら見捨てられたらしくてね。そこから先、どうやって逃げたのかは知らないけど……」
「王族にはよく聞く話ではあります。燈神人もソリュート人も同じ人間だというのに……」
話の補足をしたラファエロは膝を枕にするオルカの髪を撫でた。すると僅かだが高ぶっている思いを静めてくれたオルカは偽りの笑みを見せてくれる。虐げられた過去を持つ蓮も憤りを感じているのだろう。お得意の無表情ではあるが、目が怒りに淀んでいた。
樹楊は自分が見捨てられた経験を持っているから、孤児を放っておけないのだろう。過去に空腹で行き倒れていたオルカを見捨てようとした事もあるが。
「……いつ国王をやるの?」
「期が熟してからです。国王は警戒を怠らない方でして、常に親衛隊の誰かが傍にいるんですよ。いくらこちらが魔術師で固めたとしても一筋縄にはいきせん。いくらクーデターだからと言って、暗殺でなければ意味がないのですよ。それに樹楊さまをこちらに引き抜くタイミングと合わせなければなりません。王位継承は王族の男児のみ。今、国王の血を引く者と言えばオルカさまのみです。仮に今暗殺出来たとしても、樹楊さまが居ないとなればオルカさまが婿を迎えなければなりません」
それだけは絶対に嫌だ、と頑なに拒否するオルカだがラファエロとてオルカには純粋に恋愛を経てから結婚してほしいと願っている。王族には恋愛など不必要ではあるが、樹楊が王となればそれも可能になる。それはラファエロの小さな願い。オルカには幸せにになってほしい、と。
一通りの説明を終えたのだが、頭の上にどでかい疑問符を浮かべている蓮。
ラファエロの視線に気付くと理解したかのように頷くが、絶対解ってはいないだろう。
だから質問をしてみる。
「蓮さま、まとめるとどうなりますか?」
「んぅ……。いくら魔術師で固めても熟したトマトをこっそり盗めるのは王族の男の子のみ。女は婿を…………呼べ?」
「い、いや。何て言うか……。まあ、そんな感じで」
「ばっちり」
回答を聞いたラファエロは自分が何を言っていたか思い出せなくなった。だがこれだけはハッキリしている。トマトという言葉は口にしてはいない。
◇
ラファエロが遥か遠くで頭を抱えている頃、紅葉は混乱しかけていた。
それは樹楊が精霊を自分の母だと、そう言ったからだ。
何時になく悲しげで真剣な表情をする樹楊が嘘を言っているとは微塵にも思わないが、それでも信じる事は出来っこない。精霊が人の子を生めるわけがないのだ。
紅葉は銃を下げて、一先ず樹楊を抱えながら精霊との距離を取り、森の深くへ隠れる。精霊は樹楊が離れていく事に動じる事無く、ただ静かに微笑むのみだ。
ここから逃げて皆の元へ、とも考えたが、それは却下だ。
精霊はしつこく追ってくるだろうし、キャンプ場には小さな子供もいる。この精霊が子供に手をかける事はないだろうが、万が一を考えると向かえるわけもない。
「紅葉、銃を返してくれ」
「嫌よ。返したとしても、アンタはどうすんのよ。このままあの精霊に喰われる気? そもそも母親って何?」
矢継ぎ早に質問をするが、樹楊は俯くだけで何も答えなかった。いや、答える事が出来ないのだろう。本人も困惑の表情を浮かべている。
「あいつは殺さなきゃ」
「それは駄目だ! 俺の母さんなんだよっ」
それだけはハッキリと答えられるようだ。
何を考えているか解らない態度に苛立ちを感じ始めた紅葉は、手っ取り早く樹楊を気絶させて精霊を討つ事を考える。そうすれば問題ない。目を覚ました樹楊に嫌われるかもしれないが、ここで死なれるよりは何倍もマシだ。
そんな思いに気付いたのか、樹楊は泣き出しそうな表情で紅葉の肩を弱々しく掴む。これは命を請う者の瞳。
だから何だ。
この眼なら戦場で何度も見てきた。その度にその思いを踏みにじり、ないがしろにし、命を奪い尽くしてきた。だけど……何でだろう。
凄く胸が締め付けられる。
紅葉は釣られて泣きそうな顔を歪めた。
動けない。この拳を鳩尾にでも突き立てればいいだけなのに、動かせない。
紅葉はこの期に及んで樹楊から嫌われるという選択を選べずにいた。
力になりたくて、どうにかしてあげたくて。
それなのにどうする事も出来ない。
「紅葉……頼む。母さんを殺さないでくれ」
それは反則だ。
ここで願われたら、もう……そうするしか出来ない。
俯く紅葉は背後の地面から浮き出てくる精霊の存在にも気付けず、銃を返そうといていた。しかしその手が力強く引かれ、もたれかかった樹楊と一緒に地に転げる。そこでようやく背後に気付くと、慌てて起き上がり精霊と対峙する。
「紅葉、逃げてくれ。ここは俺が何とかするから」
「何とか――って何よっ」
返ってきたのは薄氷の笑み。説得力が皆無のその薄っぺらさは紅葉の苛立ちを呼び戻した。真っ暗な森の中には枝がざわつく音しかなく、生物の気配すらない。恐らく精霊の出現を察知して避難したのだろう。
精霊は地面から身体の全てを出すと地表の僅か上を歩くように近付いてくる。それと合わせるように、紅葉は樹楊の手を引っ張って後退した。しかしそれも長くは続かず、伸びてくる精霊の手を樹楊は握り返そうと手を差し伸べる。
だがその手が繋がれる事はなかった。
突如として閃光のように現れたクルスが精霊の手を薙ぎ払い、瞬きをする間も与えずに後方回し蹴りで蹴り飛ばす。精霊は放たれた矢のように飛ぶが、宙で身体を捻ると羽のように柔らかく着地した。
「アンタ、何でここにいんのよ」
「ちょーっと気になって覗――――じゃなくて、胸騒ぎがしたから様子を見に来たじゃんね」
手には暗視望遠鏡、首からカメラを下げている姿からは信じる事が出来ない言葉だが、紅葉の湿っぽい視線に「ホントじゃんねっ」と、嘘を吐き通す所存らしい。だが助けてくれた事は事実だ。それに対しては紅葉も素直に礼を述べる。
「あいつ精霊だら? 何したんだよ、ったく」
「知らないわよ。何か『私を慰める者じゃないのか』って訳の解らない事を言って樹楊を狙うのよ」
「何だそりゃ。つーか紅葉、その銃……まさかとは思うが万霊殺しの銃?」
「あ、これは……。うん、樹楊のだけど」
「イリリールの秘宝が奪われたって話は聞いていたけど、まさかキョークンがその持ち手とは」
クルスは口端に見出した勝機を現して紅葉から銃を受け取るが、その後頭部に真っ白な銃口が当てられる。目線だけを背後に流すクルスに樹楊は銃を構えていた。
「その銃を返してくんねーか」
「どういう事だ。まさか精霊の味方をするつもりか?」
「……お前には関係ない。解ったらその銃を渡してここから消えろ。紅葉もだ」
クルスは銃を指で回すとトリガーを握り締めて振り向かないまま樹楊へと差し出す。樹楊が銃を受け取ろうと視線を放した瞬間、クルスの意味深名微笑みに気付いた紅葉が動く。
樹楊が握る純白の銃を紅葉が叩き落として地に着く前に蹴り上げて奪い取ると、クルスは樹楊に銃を渡す事無く手を引っ込めた。そして二人は流れるように銃を樹楊へと向ける。
「テメェら……」
「悪く思わないでほしいじゃんね。精霊を倒すにはこの銃を使うしか方法がないんだ」
銃口を向けられているというのに奪い返そうとする樹楊だったが、紅葉が立ち塞がって阻止する。そして強烈な平手打ちを見舞われた。
「あいつはアンタの母さんじゃない。いくら外見がそっくりでも、違うの」
その言葉にクルスも驚いたが、精霊の姿を見ると納得した面持ちを見せた。何故樹楊が精霊に与するのか、それが解ったのだろう。そして射抜く眼差しを精霊に向け、ぽつりと漏らす。
「キョークンが護るのは過去じゃないじゃんね」
と、その次の瞬間には引き金に掛けていた指を屈伸させ、静かな森の中に重い銃撃音が響いた。精霊の胸の中心は撃ち抜かれ、ぽっかりと大きな穴が開く。
血も出ず、ただ人形のように倒れるその姿に樹楊は手を伸ばしながら駆け寄ろうとしていたが、紅葉に手を引かれてしまう。
「放せ! 母さんが、母さんが!」
「だからあれは母さんじゃないの! ただ似ているだけなんだって!」
「違う! あれは母さんだ! 精霊の姿はその地に一番強い思いを根付かせる生前の人間の姿なんだよ!」
思いもよらぬ告白に紅葉の手は緩み、その隙を衝いて樹楊は消滅しかけている精霊の元へと駆け寄った。半透明のその身体を抱き起こし、もう手遅れである事が解ると涙を浮かべる。
「母さん……」
忘れるわけがない、その優しい顔。
たった四年しか一緒にいられなかったけど、愛情の全てを注いでくれた。体温もないその身体だけど、温もりを感じる。ずっとここで苦しんでいたのだろうか。精霊に成り果てるほど、強い想いがあったのだろうか。笑ってほしい、名前を呼んでほしい。それだけでいい。
精霊は樹楊の頬に手を添えて息苦しそうに口を開いた。そして静かな闇に負けるほど、小さな声を発する。樹楊はその口に耳を当てるように傾け、全神経を聴力に注いだ。その言葉を聞いた瞬間、口をへの字に曲げて嗚咽を殺す。そしてクルスに手を伸ばし「銃を……くれ」
悪びれる様子も見せずにクルスは樹楊に銃を渡してその場から離れて紅葉と肩を並べた。
樹楊は目を強く瞑り、母との思い出を蘇らせる。
だけどそのページ数は少なくて虫食い状に欠けているのが大半だった。たった四年。それだけでは思い出というほどのアルバムは出来ない。だけどあの笑顔だけは覚えている。愛しさを集約させたあの笑みは好きだった。何にも代え難いほどに。
だからもう……。
「また……俺を生んでくれよな」
母さん……。
その思いを込め、精霊の頭を撃ち抜く。
精霊は苦しむ事無く、一瞬で水になった。下半身を水で濡らした樹楊はがっくりと力が抜けた肩を震わせるだけで動かなかった。自らの愛を砕き、無にした。自分を全く覚えていない母だとしても愛おしかった。また幸せな日々が送れると、愚かしくも思ってしまった。それが叶う事はないのに。だから自らの手で決める事が出来て良かったのかもしれない。
「クルス……」
「何だ?」
「あり、がとう」
クルスはわざと急所を外して撃ってくれたのだろう。自分の手で決断させる為に。
勘違いかもしれないが、そう思える。きっとこれで良かった。こうしなければ自分は死んでいたのだ。クルスの言う通り、過去を護る為に未来を――ニコ達を護る事を放棄してしまう破目となっていた。だからこれで良かった。こうしなければならなかった。
だけど。
紅葉は戸惑いながらも機楊の元へ行き、膝を折って震える背中に手を添えて罰が悪そうな表情で顔を覗き込んだ。樹楊の顔は悲しみでくしゃくしゃだった。いつもの強気の欠片も何もない、ただ悲しむだけの顔。その顔を胸に抱いく紅葉。
「アンタは生きなきゃならないの」
「……解ってる」
「ニコを護るんでしょ?」
「……護、る」
「そう……。解ってるならいいの。だから今はいっぱい泣いていいよ。いっぱい泣いて悔やんで……明日からはまた笑おう? 私も一緒に笑ってあげる」
今は胸が潰れそうなほど悲しい。悲劇の主人公気取りでもいいから、そう思わせてほしい。紅葉はそれを許してくれた。情けなく泣いてもいいから、と。
自分が選んだ最後が正しいとしても、止めを刺した事だけは苦しい。それを後悔する事も紅葉は許してくれた。
樹楊は紅葉の胸をびしょびしょに濡らすまで涙を流し続け、我慢する事無く鳴き声を上げた。母へ別れの思いを込めて。
母は自分の事を覚えてはいなかった。最後に聞いた言葉も「苦しい」と、それだけ。自分の名前を呼んでほしかった。大きくなったね、と言われるのかと期待もしたが現実は優しいものではなく、存在定義を変えている母は自分が知らぬ存在だった。
母を見捨てた精霊を恨み続けた。憎悪の念を抱いてきた。だからこそ、この銃を手にした。目に映る精霊を全て殺そうと。だけど先程引いた引き金は重くて、発砲音は悲しくて。
この先、精霊を殺し続けるのかと訊かれた時は素直に頷くだろう。精霊は神聖視すべき存在ではなく、忌むべき存在だ。それがこの銃を手にした理由だ。だから、迷わず撃ち殺すだろう。
様々な思いがぐちゃぐちゃに絡み合うが、紅葉の胸の香りは柔らかくて伝わってくる体温は暖かい。
だけど、その傷つけないように抱き締めてくれる優しさが痛かった。
◆
翌日、半分の月が昇り始めた頃。
ラファエロは蓮の案内で、とある廃村まで来ていた。見渡す限り時の流れから逸れた小屋のような家々が立ち並び、吹く風に戸口を揺らしているこの村が廃となったのは戦火を浴びたわけではない。蓮はこの光景に眉一つ動かさずに奥へと足を運んでいるが、ラファエロは観光地に訪れたかのように視線を左右へと忙しく動かしていた。
見ても面白くとも何ともないこの村に訪れたのは暇だからとか、そんな悠長な理由ではない。蓮の中に眠る力を利用する手立てを探したかったからだ。
ここは蓮の生まれ故郷であると同時に呪刑者になった場所でもある。現クルード王国よりも更に北に位置するこの村は大陸の最北端であり、地図には記されていない場所。溶けかけた雪がそこらかしこにあるのだが、おかしな事に雑草の一本も生えていない。
「蓮さま、この先には何があるのですか?」
「……見れば解る」
忌まわしき場所であるにも関わらず、蓮の表情は崩れない。コップに注いだ水のように穏やかで平静だ。殺気の欠片すら感じられない。この分では何事も起きないだろうとラファエロは胸の奥で安堵し、何も言わずに蓮の後を追う。
蓮は村を通り抜け、裏山のふもとまで来ると真っ黒な鳥居を指差した。月明かりだけでは視界もままならないラファエロは何かと思ったが、目を細める事でようやくその鳥居を目に収める事が出来た。その鳥居の奥には大きな石碑っぽいものがあり、傍には何やら白っぽい残骸らしきものが散乱している。
それは何か尋ねようとしたラファエロだが、返ってくる言葉は「見れば解る」だと予想して口を閉じた。まぁ、見ても解らないようであれば訊けばいい事だ。そう思い、蓮と肩を並べて月を見ながら歩を進める。
畦道を踏みつけ、ようやく大きな鳥居を潜ったラファエロは冷や汗を滲ませた後、苦笑いをする事以外何も出来なかった。地に散らばる白いそれは、人の骨。
大小様々であり、汚れきった衣類もある。その数は――数える気にもなれないほど多く、この村に住んでいた者達全員分である事が想像出来た。
空気は淀んでいて風がない。
異臭はないが、おぞましさだけは吐き気を催してしまうほどだった。
ふと振り返ると、蓮は鳥居の前で足を止めていた。
「どうかされたのですか?」
そうは訊くも、やはりこの場にはいたくないのだろうとラファエロは憶測する。何せ一族全員に忌み嫌われていた蓮だ。呪刑を行使され、全てを狂わせた者達。それが骸骨でも気が滅入るのだろう。ラファエロは人並みにそう思ったのだが、返ってきた答えは違っていた。
「どうもしない。でも、私はこの鳥居を潜りたくない」
「どうもしないのなら、何故?」
「この鳥居の中は、今も結界が張られている。私がその中に入れば多分……呪いが表に出てくる。そうなればアナタは一瞬で」
蓮は適当な骸骨を指差し「それと同じ。アナタにはまだ利用価値がある」
かつての仲間を、一族の骸をそれと呼ぶ蓮の眼は無価値を押しつけてきていた。冷たくもなく暖かくもない。ゼロの価値を見出している目だ。蓮はこの場を何とも思っていなかった。悲しいとも恨めしいとも、何とも。ただここにこの村があり、骸骨が転がっている。それだけなのだろう。
ラファエロは生唾を呑み込むと、辺りを慎重に見回した。
どうやらその結果とやらは自分に害があるわけではなさそうだ。蓮が立つ南と東西に漆黒の鳥居。そして北の方角、目の前には一枚岩の石碑が奇妙な文字を刻まれて立てられている。その文字が何て書いてあるのかを蓮に尋ねたが、本人も知らないと言う。何でも一族に伝わる呪詛らしいのだが、詳細は不明。
ここに来たのは蓮を魅入った呪いである「壱千年の嘆き」を自在に操る為の手立ての為だったのだが、恐らくその手掛かりすらもないのだろう。屍気神一族は書物に歴史を刻む事はせず、全て口伝だと聞いている。
せめてこの場に呪符でもあれば、と思ったのだがただの足労だった。
だがラファエロは吐き気を堪え、石碑や鳥居を大雑把に調べてみる。何もないとは知りながらもやはり気になるのだろう。それもこれも、結局はオルカの為に繋がるのだが。
結局何も見付ける事が出来なかったラファエロは長嘆し、引き返す事を決めて頭を掻きながら蓮の元へ向かった。その途中、小さな鈴を爪先で蹴飛ばしてしまい、それは蓮の足元にまで転がっていく。すると、あれほど無表情だった蓮の瞳が僅かに見開く。
「お母さんの……」
蓮は拾おうと手を伸ばすのだが、鈴がある場所が結界の中だと気付くとゆっくりと手を引っ込めた。恋しいのだろうか。それとも罪悪感でもあるのだろうか。
どちらにせよ勘ぐる事ではないとラファエロは何も聞かずに鈴を手に取り、鳥居を潜ると蓮に手渡す。
小さな鈴の頭に結ばれた細い糸を摘まんだ蓮は、二回だけその音を鳴らす。
ちりん、ちりん……。
虫の声も聞こえない闇夜にはその音が美しく響き渡った。すると、もう一度鳴らす。
何か思う所があるのだろうか、蓮は微動だにせずに鈴だけを見ていた。
だが、蓮は突然その鈴を握り潰す。手の中でぎゃりぎゃりと音を立てる鈴は、ラファエロが再度目にする頃には既に原形を留めてはいなかった。ただの鉄くずとなった鈴はもう二度と美しい音を鳴らしてはくれないだろう。
蓮は鈴に向かって呟く。
「アナタだけは……私の手で殺したかったのに」
◆
キャンプも最終日を迎え、樹楊は子供達を連れて森の奥へと入っていった。折角の機会だから動物の獲り方や食べられる山菜や果物を教えてくる、とにこやかに出掛けた姿は紅葉から見れば空元気もいいところ。心配のあまりに「着いていく」と申し出たのだが、やんわりと棘なく断られた。
「心配するな」と。
それはきっと『来るな』という合図。
それが解るだけに、紅葉は何も言えなくなりクルスやサルギナと共に留守番をする事となり、先程からつまらなそうに川へ小石を放っている。
「思春期ですねー、サルギナさん」
「そうですな、クルスどん」
この二人はずっとこの調子で人を小馬鹿にしてきている。犬猿の仲じゃないのか、と突っ込みたくなるほど仲良しこよしなのが逆に腹が立つ。茶をすすり、ぷはっと一息吐く度に井戸端会議をするおばちゃまの如くひそひそひそひそと。堪忍袋のだかヘソのだか何だか解らないがぶちぶち切れ始めている紅葉だがひたすら堪えていた。争う気分じゃないからと自分を誤魔化してまで。しかし「フラれましたな」と呟かれれば怒りは爆発する火山の如く。
手元に置いてあった深紅の長剣をホルダーから引き抜くと同時に弾かれるように振り返る、つもりだった。しかし、それは見知らぬ男に阻まれてしまう。
「ちょっと訊きてぇ事あんだけど、いいか?」
その男は闇色のローブを羽織り、フードまで深く被っている。
スラッとした体系で長身。顔はよく見えないが、声色から十代後半から二十代前半の男であると予想がつく。身なりから察するに、旅人なのだろう。
「答えられる範囲ならね」
紅葉が長剣を下ろして迷惑そうに返すと男は鼻で笑う。気取っているみたいな態度が少し癪だ。
「この辺りに長い銀髪の女が来なかったか?」
「銀髪の女……。イルラカの事?」
「イル? 違う違う、そんな名前じゃない。何つーか、魔女みてぇな女だ。見ただけで腹が立つような」
漠然と魔女みたいな、と言われても解るわけがない。そもそも銀髪の女はイルラカ以外知らない紅葉は「知らない」と冷淡に返すだけだった。男は落胆するわけでもなく、肩をすくめて鼻から溜め息を逃がす。ただでさえ苛立っているのに、この男の反応は一々腹が立つ。ここが戦場であれば真っ二つにしてやりたいくらいだ。
しかしここはキャンプ場。そんな事をするわけにもいかず、怒りから逃げるように視線を川に戻すと、黙っていたクルスが押し殺した声を吐く。
「紅葉、そいつから離れろ」
「は? 何言ってんの?」
「いいから離れろ! こいつ……」
クルスはゆっくりとホルダーから剣を抜き、切っ先が見える手前で横薙ぎするように抜剣する。風が一枚切れる音がし、その剣先にまでクルスの闘争心がみなぎっているのが火を見るよりも明らかであった。クルスはサングラスの奥で緑色の眼を尖らせると、
「こいつ……人間じゃねぇ」
理解不能な事を言う、と思いながらも視線を移す紅葉とサルギナだが、その男の口の両端が持ち上がると二人はほぼ同時に後方へ跳んで抜剣する。三方から囲まれる男は、しかし動じる事無く頭を片手で押さえる。
「おいおい、何言ってやがる。これでも生物学的には人――なんだけどな」
「ハッ、嘘を吐くな。俺には解るじゃんね。この眼が、お前を人外に映してる」
「サングラスの所為だろ、そりゃ。どっから見ても俺は――おっと」
男の言葉を遮るようにクルスは斬りかかるが、寸前のところで避けられてしまった。しかし剣先は男のフードの先を斜めに切り裂いた。その隙間から見える灰色の眼光は、慈愛からは程遠い狼子野心を灯らせているように見える。男は後方へと跳ぶとフードを鬱陶しそうに払い除ける。
銀色の髪が太陽に透かされて幻想的に煌めき、風に吹かれれば無造作に揺れる。精悍な顔立ちでありながら凶暴な目付き。そして不敵な笑み。
だが、それでも。
殺気が感じられない。
紅葉は目の前にいる男が本当に実在するのか疑わしく思えた。存在が希薄なわけじゃない。ただ、そう。無色透明なのだ。人には気配というものがある。隠密に行動する時はその気配を殺すが、人に見られれば無ではなくなる。いくらそこで気配を殺そうが相手から見れば無ではないのだ。しかしこの男は目に見えているにも関わらず無だ。そう言えば、この三人の誰もがその気配に気付けなかったのはおかしい。クルスの言う通り、人外なのだろうか。でも見た目は人だ。
紅葉ばかりかサルギナも冷や汗を浮かべて苦虫を噛み潰したような顔付きとなっているが、クルスは相変わらず冷静だ。剣を構え、男を視線で射抜いている。
「何つーか……声掛ける相手を間違えたな、俺」
「今頃気付くなんて遅いじゃんね。お前が何なのかは解らねーけど見逃すわけにはいかないな」
「俺は人を訪ねただけだってのに。まぁやるんなら構わねぇけど、弱い者いじめは嫌いなんだよな」
その言葉に流石の紅葉もサルギナも目を尖らせた。
クルスのように意気込むつもりはなかったが、弱者と言われてまで許す気もない。殺しはしないが痛めつける必要はあるようだ。本人もそれを望んでいるのだろう。ここに居るのはスクライドの中でも腕が立つ三人であり、紅葉に至っては赤麗という最強の名を持つ傭兵団の首領だ。たった一人の男に負けるわけがない。
「ねー、アンタら。手出しは無用だからね」と軽く吐き捨て、二人が反論する前に睨みを効かせ「私は強がる男を痛めつけるのが趣味だから」
「はいはい。いいけど、殺すなよ? クルスも解ったか?」
「仕方ないじゃんね。紅葉だったら一人で充分だろうし、まぁ油断はしないこった」
ありがと、と感謝の気持ちも込めずに礼を言う紅葉に男は「怖い女だ」
「アンタの一言一動が腹立つのよ。何様のつもりかは知らないけど、さ」
長剣をだらしなく構える紅葉に対し、男は武器も持たずに自然体で対峙しているだけだった。見下してきているのだろうか、やる気も見当たらない。遂には欠伸までする始末。紅葉はぎりっと歯を食い縛ると一秒にも満たないスピードで間合いを詰めていた。奥に流していた長剣を力の限り、しかしコンパクトに振り抜く。
殺すつもりもなかったが、剣を振るった瞬間にはその事さえも忘れていた。
剣腹は男の首に迫る。しかし、その剣は。
男の裏拳でいとも簡単にへし折られてしまう。まるで楊枝を折るように、あっさりと。紅葉の顔には驚愕が貼り付くが、次の瞬間には身体がくの字に曲がっていた。
拳が鳩尾に深く埋まり、紅葉は声すら上げられずに瞳に苦悶を浮かべる。
「――――っ!」
衝撃が外に逃げず、背と腹の間を縦横無尽に駆け巡っている。内臓に直接鉄球をぶち込むような威力は、紅葉の膝を地に着かせた。腹の底から液体が込み上げてくる。
「う、え…………」
「あーらら。綺麗な胃液だな。朝飯抜いたろ?」
苦しいなんてもんじゃない。
これじゃまるで拷問だ。息が詰まり、口は胃液の酸味で満たされて喉が痛む。一度胃液を吐いただけに留まらず、もう一度大量の胃液が口から出てきた。
「こ、紅葉……」
サルギナは目を大きく開いて言葉を失ったようだ。
散々強さを見せつけてきた紅葉が一撃、たったの一撃で沈んだのだ。何が起こっているのか理解出来ないのだろう。紅葉は腹を両手で押えながら地に転がり、目を開いたまま痙攣して気を失っている。潰された蚊のように、ひくひくと。
「剣を素手で折るたぁ、化け物じゃんねお前」
「だから人だっつーの。面倒な奴だなお前は。それよかまだやんのか? 男が相手なら今みてぇに手加減はしねーぞ、俺は」
「て、手加減……? ウソだろ、オイ」
「サルギナ、怖気づくな。ただのハッタリじゃんね」
クルスはあくまで強気の姿勢を崩さずにいたが冷や汗が頬を伝わせていた。首を斜に溜め息を吐く男は頭を掻いた後クルス達に歩み寄ろうとするが、その足を紅葉が掴む。途切れた息を吐き、震える手にしっかりと力を入れて起き上がると折られた剣を握り締めて虚ろな瞳に闘志を宿した。しかし、男は有無を言わさずに再度鳩尾を殴り、堪らず腹を押さえようとする紅葉の両手を掴むと冷酷にも鳩尾へと膝を突き上げる。
「てめぇ!」
業を煮やしたクルスが大きく踏み出して男に剣を振るが、その軌道を肘で柔らかく逸らされ、ガラ開きになった側頭部に回し蹴りを喰らってしまう。そして回転の勢いを殺さぬまま足払いをした男は宙に浮かぶクルスの延髄に膝蹴りを見舞った。クルスはサングラス越しに空を無機質に見上げながら地に落ちて、沈黙。
「クル――」
呼び掛けようとするサルギナだが、男は既に背後に回っていた。
サルギナは口を開けたまま瞳を驚愕に揺らすと剣を地に落とした。ただ棒のように立ち尽くし、男の言葉を待つ。
「もういいだろ? それともお前も土を舐めるか?」
「お前……何なんだ? クルスの言う通り、本当に人間じゃないのか?」
「人間――って訊かれりゃ困るけど、一応は『人』ではある」
不可解な回答にサルギナは怪訝そうな面持ちとなるが、すぐさま後頭部を殴られて気絶する運びとなった。男はサルギナの内ポケットから煙草を拝借すると火を灯してフードを深く被ってこの場から去っていく。
紅葉はその後ろ姿を必死に睨み、歯を食い縛っていた。
◆
紅葉と銀髪の男が接触した頃、その場より南東の方角にあるキラキの森の最深部、俗に秘境とも呼ばれる場所ではミネニャが化け物に悪戦苦闘を強いられていた。昼でも夜でも真っ暗なこの場所を発光性の高い草花が地を黄緑色に照らし、そして踏みつけられている。
ミネニャとしてもこの草花を踏み潰したくはなかったのだが、そうもいかない。無数の関節と足を持つ大きなムカデ――ゼクトが命を代償に仕留めたクルード王国の『クリムゾン』開発の大ムカデが相手なのだ。武芸には優れる獣人目ではあるが、特別訓練をした事はないミネニャにとっては強敵も強敵。自慢の爪で引っ掻いても掠り傷しか付ける事が出来ないでいる。しかし持前のスピードでムカデの攻撃は余裕で避けていた。
「うー、何なんだお前はーっ」
と、言ってみるが解っている。自分が森の異常に怯えて樹楊に頼み込んだ時に出てきた化け物だ。話をした事はないが、嫌いではなかったゼクトを殺したムカデと同じ生物だ。こんな化け物に森を荒らされるのは許せないが、樹楊を護ったゼクトを殺した生物と同じである事はもっと許せない。
ミネニャは赤褐色の毛を逆立てると唸り声を上げて威嚇する。それに対し、大ムカデは上体を起こして無数の足を不規則に動かしながら歯を鳴らしている。人外の者同士通ずるモノがあるのか、互いに牽制しあいながら間合いを取っていた。
それでも長期戦は不味いと思うミネニャは一か八か、ムカデの口内に飛び込んで内側からの破壊をシナリオを描いている。じりじりと右へと動いてムカデの隙を窺う。
そしてムカデが起こしていた上体を地に倒した瞬間。
ミネニャの眼がカッと開き、足に力を込める。
「ここかぁっ」
やたら嬉しそうに弾む声はミネニャのものではなく勿論ムカデのものでもない。
誰かと言うと、それは第三者である女性の声だった。
サラサラの長い髪は銀色に輝き、切れ長でありながら大きな灰色の瞳を持つ女性。歳は二十代前半だろうか。まだまだ若いのに妖艶な雰囲気をも持つその女性は茂みを両手で掻き分けるように顔を出していた。
しかしその魔性の美を持つ女性。タイミングをぶち壊されてずっこけているミネニャを見るなり「あれ?」と首を傾げる。そして茂みをわさわさ鳴らしながら出てきた。真っ黒のローブに身を包み、身長もそこそこ高くて美麗な体系をしている。
「あはっ。アンタ獣人? 猫耳があるっ」
前方のムカデを完全に無視し、ミネニャに近付くなり耳をぎゅむぎゅむ握る女性はうっとりとした顔で感嘆。
「ふわああああっ、それはやめろーっ」
随分前にもこんな事があった。
初対面だというのに遠慮なしに弱点の耳を握る樹楊と同じ匂いがする。力が抜けていくミネニャはがっくりと肩を落とすと女性はますます瞳を煌めかせて激しく握り始めた。
「や、やめてくれっ。そもそもここは危ない……」
「危ない? 何が?」
笑顔で首を傾げる女性にミネニャはムカデを指差してやった。ムカデはギチギチ鳴くと大きな口から唾液を流して御馳走の追加を喜んだ。女性はそのムカデを見るなり興醒めした顔になり長嘆する。そして冷やかな目線を送り始める。しかし手はミネニャの耳をにぎにぎ。
「蟲の分際でマナト君と同じ気配を出さないでくれる? 殺すよ?」
そんな事を言うが、勿論人語が解る生物ではない。ムカデは女性の言葉を雑音程度にしか受け取っていないのだろう。身をくねらせると蠢きながら近付き、女性の目の前に来ると口を大きく開いて獰猛な牙を見せつけてきた。
「逃げろ……。く、喰われる。ってより、耳を……」
しかし女性は手を離さずに目の前のムカデに氷のような瞳を向けたままだ。ムカデは「いただきます」とばかりに顔を近付けるが。
「殺すって言っているでしょ?」
女性が呟くとその動きを止めて、事もあろうか震え出した。その低知能でも本能というものがある。ミネニャが感じた異常なまでに禍々しい殺気をムカデも感じたのだろう。目線を送られていないミネニャにでも解る。この女性は自分が知る誰よりも強者である事を。自分はこの女性に比べれば蟻のようなものだ。悪戯程度でも簡単に命を奪われてしまう。ミネニャは耳に暖かさを感じながらも女性が発する殺気にガタガタと震え出した。
殺される……。
そればかりが脳裏を駆け巡り、世界が暗転したかのように感じていた。地から照らされる女性は何と神々しい事か。しかしその纏うオーラは鬼ですら逃げ出すだろう。
本能に従って逃げればいいものを、ムカデはその旺盛な食欲に負けてしまい再度牙を向いてきた。しかしその女性は片手でムカデの口端にある牙を掴み、冷笑を浮かべた。もう片方の手は相変わらずミネニャの耳を大切そうに掴んでいる。どちらの手も離す気はないらしい。
「こう見えてか弱いんだからね、私は」
どの口が言うのか。
片手のみでムカデの動きを制し、余裕の笑みを浮かべている。
「さぁ、お食べなさい。獄牢で苦しむ私の愛しい子供たちよ」
すると地鳴りが辺りから響き出し、地中から無数の手が飛び出てきた。骨に皮を被せただけのような手は次々に現れるとムカデの身体に指を突き立てる。ムカデは突き刺された箇所から奇妙な液体を吹き出し、苦しみに滲む鳴き声を上げた。しかし女性と地中から現れた手に掴まれて身動きさえもとれずにいる。ミネニャの爪でさえも掠り傷しか負わせられない硬度の殻はがいとも簡単に穴が開いていく。その手を持つ者達はまるでムカデの身体を這うように地中から出てくると、腐りきった身体を出して醜悪な笑みを浮かべた。
「あ、ああ……うあ…………」
恐怖。
ミネニャの身体と精神を満たすのはそれのみ。
死人のような者達は女性の笑みを受けると嬉しそうにムカデに喰らい付く。
「ギギッ! ギ、ゲェアアアアア!」
ガリガリと躊躇なく喰らい付つかれるムカデは泣いているようだった。
その様は正に地獄絵図でこの世のものとは思えそうにもない。ミネニャは涙をボロボロ流して嗚咽を上げていた。
女性が言う、子供達はムカデを余す事無く喰い尽くすと次いでミネニャに視線を向けて舌舐めずりする。まだ食い足りないのだろうか。
「ひっ、や……やだっ、やだよ!」
苛められっこのように両腕で顔を覆うと、女性は頭を撫でてきた。そして子供達に言う。
「この子はダメ。私の可愛いペットなんだからっ。解ったらさっさと戻るの」
すると子供達は不満そうに地中に消えていった。潜るわけでもなく、土に染み込む水滴のように。辺り一面は静寂に包まれ、この場に戻ってきたミミズクが嬉しそうに鳴き始める。ホーホー、ホーホーと歌うように。女性はミネニャを胸に抱くと子供をあやすように軽やかに背を叩き始めた。
「怖がらせてごめんね? 私はタマの敵じゃないから安心して」
ね? と笑顔を見せる女性からは先程の殺気が跡形もなく消えていた。タマとはなんなのか解り兼ねたが、二度三度言われると勝手に名付けられたんだなと流石のミネニャも理解した。
それにしてもこの女性はなんなのだろうか。ムカデの動きを片手で制する力といい、死人みたいなものを呼び出したり。
ミネニャが不審がっていると、それを察知したのか女性は苦笑するがまだ耳を離す気はないらしい。そろそろもげてしまいそうなのだが、中々手を払う事が出来ないミネニャ。
「私はサクラっていうの。出来の悪い息子とここまで来たんだけど、はぐれちゃってね。気配を感じたからあの子かと思ったんだけど、ムカデだったってわけ」
なるほど、とミネニャは頷く。
だから嬉しそうに「ここか」と現れたというのか。しかしミネニャには解せない事があった。
「息子って……あの気持ち悪いやつ?」
「ちが、失礼ねっ。あんなの呼べばそこら辺から出てくるわよ。そうじゃなくて、銀色の髪でやんちゃっぽい子なんだけど……タマは見なかった?」
「見てない。けど、何歳の子なんだ?」
「んー、と。確か……あれ? 今年で二十三歳になったんだっけ? 二十二? まーいっか。そんくらい」
そんくらい、って。
じゃあアンタは何歳だ。とは訊けない。出来の悪い息子と言っていた割にその子供の事を話す時は嬉しそうで溺愛している事が解る。親バカなんだろうか。しかし片時も耳を離してはくれないようで、ひょっとするとこのまま持ち帰られるのでは?
「あのー」
「ん? なあに?」
「私はこの辺で帰りたいんだけど……」
「うそっ。連れてっちゃダメ?」
「うん、まあ。帰るところあるし」
えー、と子供っぽく拗ねるも耳を離そうとはしない。いい加減、痛くなってきた。サクラはぶつぶつよ不満を漏らすがようやく諦めたようで名残り惜しそうに手を離してくれた。
「私のところに来る気になったらいつでもいいから来てね」
「解った。だけど、どこに住んでるんだ?」
「あー……。そう言えばこの大陸じゃないんだよね、私の家」
この大陸じゃない……?
ミネニャは耳を疑った。ここはソリュートゲニア大陸で、この星には他にも大陸がある事は聞いている。だけどその何処も侵攻不可で行き来した者は皆無とも聞いている。もしサクラの言っている事が本当なら、ソリュートゲニアの誰もが未だ知らぬ土地から来たという事なのだろう。
ミネニャの興味を余所に、サクラは何やら思いつくとネックレスを渡してきた。
紫色の天然石が埋め込まれているトップをぶら下げているシンプルなネックレスだ。
「これは?」
「それは私と繋がるネックレスよ。もしタマが死にそうになるくらいピンチになったら私が助けてあげる。その時は対価としてタマは私のペットになる事。いい?」
「いい……って。イマイチ意味が解らない」
「まーその内に解るわよ。私、術者の中でも結構特異の方だから」
「特異?」
「そっ」サクラは悪戯っぽくウインクすると「ネクロマンサーだからね」
ネクロマンサーとは初めて聞く言葉だが、何となく格好いい響きにミネニャは目を輝かせて褒めまくった。すると気分をよくしたサクラは胸を張り、特別サービスと称して、
「誰か生き返らせてあげるけど、そんな人いる? 獣でもいいけど」
「生き返らせる? そ、そんな事も出来るのかっ?」
「まー、生き返るとはニュアンスが違うかな。姿形、記憶は生前と変わりないけど問題は死んでいる――つまりは命を持たない人間ってところかな。だけど、その者の尊厳も何もかも奪い取る術式だから間違っても喜べる事ではないけどね」
ミネニャの脳裏にはゼクトが浮かび上がった。そして樹楊の顔も。
もしゼクトを生き返らせれば樹楊は喜ぶだろうか。負っているだろう罪を拭ってやれるだろうか。そんな事を考えた。だけど、怒られるかもしれない。もし自分の立場であれば、大切な人が蘇るのは嬉しい。だけど人間の考える事は理解出来ない所がある。
耳を伏せて落ち込んだ様子を見せるミネニャの頭にサクラが手を添えて微笑む。
「ゆっくり考えなさい。急がなくていいから。……だけど、よく考えてね? 蘇らせる事は世の理をねじ曲げる事だから上手い道に転がる事は稀なの」
こくり、とミネニャが頷くとサクラは「いい子ね」とだけ呟いて闇夜に溶けていく。足音も鳴らさず、あの死人のように。
一欠片さえも残されなかったムカデの体液は草花を腐らせ、辺りに異臭をばら撒いていたが吹かれる風に運ばれてもいた。ミネニャは嗅覚を取り戻したかのように顔をしかめ、ネックレスを首に掛けると帰路につく。
取り敢えずサラの元に帰ろう。
考えるのは後でいい。