第三十章 〜護るもの〜
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ダラス軍との大戦を勝利に収めたスクライド軍は自国に帰還するなり、民衆の盛大な歓声を受けた。しかし中には泣いている者もいる。それは戦死した者が大切な、掛け替えのない人だったのだろう。戦の爪痕はいつも残酷だ。
そんな中、一番の功労者である樹楊はぐったりと項垂れて歓声も何も聞こえてはいなかった。最善の治療をされ、城にある医務室の片隅に寝かされるとそのまま夜を越えて翌日の夕暮れまで死んだように眠った。
目を覚ますと、開けっ放しのカーテンからは朱色の光が差し込んでいるのが酷く印象的で思考回路が全く働かない頭を掻き、ゆっくりと起き上がる。
「そうか……俺達勝ったんじゃぶるあ!」
何故かは解らない。
何故かは全く解らないが、右の頬に隕石が追突したような衝撃が走ったのだ。樹楊は理解不能なインパクトに痛む頬を押さえながら振り返る。鼻血はポタポタ垂れ落ち、真っ白なシーツに赤い斑点を作っていく。
振り返った先には、玩具を取られた子供のように涙をぐっと堪える紅葉がいた。怒っているのだろうか、口を弓なりに曲げて肩を震わせている。
「――に、……のよっ」
「は? え、何? 何で俺殴られ」
紅葉は樹楊の胸倉を掴むと力任せに引き寄せ、眉間に深い縦筋を刻んで睨んできた。物凄く怖い。
「何考えてんのよ! アンタはどうして!」
「ちょ、意味が解らんっ。俺はただ、太陽が綺麗だなーって」
「そうじゃない! 何で何も言わずにあんな事したの! 私がどれだけ心配したと思ってんのよ!」
じんじんと痛む頬を押さえていた樹楊は紅葉の言葉で何となく理解出来た。きっと自分を行方不明にした事を言っているのだろう、と。紅葉は眉根を下げて弱々しい泣き顔となり、鼻をすすり始めた。それでも自分を見つめてきて、目を離そうとはしない。
これほどまでに女の子らしい紅葉を見るのは初めてだ。自分の事を心配してくれて、頼りにしなかった事を怒ってくれて、涙して……。
正直言って、かなり可愛いものがあった。
樹楊は胸倉を掴んでいる手にそっと片手を添えて、
「紅葉……」と、顔をゆっくりと近付ける。
「樹楊…………」
紅葉は大粒の涙を零して震えているその声で名前を呼び返す。
背に受ける太陽の光はとても暖かくて心地良かった。
誰もいない医務室に、樹楊と紅葉の息づかいだけがその存在を潜めている。
あともう少し顔を近づければ唇を重ねられるだろう、が。
「ちゃきちゃき答える!」
今度は紅葉の平手打ちが左の頬に炸裂した。
どうやら紅葉は樹楊の答えを待っていただけで、雰囲気など気にもしていなかったらしい。ばぶ! と情けない悲鳴を上げた樹楊はガタガタ震えながら首を振っていた。
「答えなさい! 何であんな事したの! ホラ、喋る!」
両手で潰すように頬を挟む紅葉の怒りは微塵にも収まっていないようだ。胸倉を掴んで激しく前後に揺さぶり、往復ビンタまでしてくる。こちらが怪我人だという事を忘れているらしい。しかし樹楊はここでようやく気付いた。
紅葉の右手に何かが巻かれている事を。
「お前、これ……」
「ん、あっ。これは……その」
紅葉は右手を隠し、恥ずかしそうに俯く。
どう見てもあれは骨折した時に巻くギプスだった。それでこの右頬の痛みに納得出来る。あんな固いもので殴られれば痛いのは当たり前だ。
隠している右手をそっと取った樹楊はその手を撫で、罰が悪そうにしている紅葉に呆れた声を掛ける。
「ったく、何を殴ればこんな」
「し、失礼ねっ。殴ったって決めつけないでよ」
実際、魔術で硬化した鉄を殴ったのだが。
「どうでもいいけど、少しは気を使え。女なんだからよ、身体を大事にしろよな」
そう言ったものの、傭兵相手に身体を大事にしろって言うのも変では? と首を傾げたくもなったのだが、紅葉は嬉しそうに頷いた。この隙に樹楊は自分勝手な行動した事を詫びた。心配掛けて悪かった、とも。
自分の身体を気遣ってくれてまんざらでもなかった紅葉は怒ろうと眉を吊り上げるが、その気になれなかったのか、変わってしまっただろう感情を樹楊にぶつけた。
真正面から抱き着き、樹楊の首に腕を回す。そして強く抱き締めた。
予想外の行動に樹楊は慌てるが、身体を震わせられると心が少しばかり落ち着き、同時に痛みもする。余程心配してくれたのだろう。静かに嗚咽を漏らす紅葉の頭を撫でてやり、何度も謝る。
身体が合わせられている所為で胸の傷が痛むが、そこは我慢する。
何故なら、傷に当たる柔らかい二つの感触がどうにもこうにも気持ちいいからだ。恐らく下着を着けていないのだろう。物凄く柔らかい。
「もう勝手な事しないで……」
「そうだな。心配かけちまったか」
「当り前でしょ、ばか」
劣情を催した事を少しだけ反省した。
紅葉は本当に心配してくれたのだ。あの気丈な紅葉が泣くほど。
こんな事思うのは間違っているかもしれないが、やっぱり心配されるというのは嬉しいものがある。もしこれが逆の立場であれば気が気ではないのだろうが。
太陽の光と紅葉の身体は同じ暖かさを持っているようで、このまま眠りたいと樹楊は思う。凄く心地良くて、思わず顔に綻びも出来ていた。
「なぁ、どうして俺の事をそんなに心配してくれるんだ?」
「え、そっそれは……、えと」
少し意地が悪い質問だったと思う。
紅葉の気持ちは僅かだが知っている。だけどそれは勘違いかもしれない。
だからこそ、知りたくもあった。
自分は気が多い事は認める。
サラに惹かれ、その中でゼクトにも暗に惹かれ。
だけど自分を一番惹いたのは紅葉だった。
初めて逢ったあの日。
確かクルードの撃退戦で、雨が降っていた。
自分はハゲ頭の屈強な兵に追い詰められて逃げる事に必死だった。そこに現れたのが紅葉で、あの時は背筋が凍るくらいの恐怖を感じた。だけど、クルードを撃退して雨が上がり、虹が空に架かり。
フードを取った時の紅葉の姿は今でも鮮明に思い出せる。何もかも焼き尽くす炎のような紅い髪をした少女は自分の虹彩をも焼いたのだ。それからというもの、自分の人生は変わった。鬱陶しい事に絆とやらも持ってしまった。それもこれも紅葉が持ってきた運命なのだろうか。
樹楊は紅葉の言葉を待っている間、胸の鼓動を高鳴らせていた。それは紅葉も同じらしく、柔らかい感触の向こうから心音が伝わってきている。それが自分の鼓動と重なり、どっちがどの心音か解らなくなっていた。
何度も思うが、自分は気が多い。
だけど、もし。紅葉が『その言葉』を言ってくれたのなら、自分は真紅の炎に身も心も焼かれるだろう。
「わ、私はっ」
心臓が一度、大きく跳ねた。
紅葉が回す腕にも力が入っていて力強く抱き締められ、困ったような顔をしているだろうその表情を見てみたい気もする。
首と肩の間に顔を埋めてくる紅葉の唇が暖かく、少しだけこそばゆい。このままでもいい気もしたが、紅葉の唇が動いた瞬間に反射的に強く抱き締めてしまった。
「あのね、私……私はあん」
「樹楊くっふーん! おーきてますかぁ?」
紅葉の照れまくる言葉を非情にもハイテンションで遮ったのは、勢い良く扉を開けてきたラクーンだった。あまりのハイテンションぶりに医師に注意もされている。片手には果物がみっちり詰まった籠を持ち、もう片方の手を目一杯上に挙げていた。
抱き合っていた樹楊らとラクーンの視線が絡み合う。
「おやっ。おやおやおやっ? これはこれは、ラブシーンに突入ですか? 駄目ですよー? ここは傷を癒す場であって子作りする場ではありません」
手を口に添えて楽しげに笑うラクーンだが、紅葉は樹楊を思いっきり突き飛ばして隣のベッドに戻り、布団を頭まで被った。どうやら紅葉も入院していたらしく、突き飛ばされて後頭部を床に打ち付けた樹楊は転げ回っている。ラクーンはお決まりのような笑い声「あっはっは」と歩を進めながら機楊のベッドの傍にある椅子に腰を降ろした。
「いやー。元気いっぱいですね。羨ましいかぎりです」
「いっつつつ。何か用っすか?」
ベッドを拙くよじ登りながら樹楊。
ラクーンは、冷たいですね、と嘆息しながら恥ずかしくて死にかけている紅葉を見て「まぁ、それもそうですか」
布団にくるまって繭になっている紅葉はぴくっと反応するが、何も言い返す事はなかった。今は布団の中で枕でもかじっているのだろう。しかし樹楊は恥ずかしさの欠片も見せずに、もう一度ラクーンに用件を訊く。しかし大した用事はないらしく、ただ心配で見舞いに来ただけと言う。そして先程のラブシーンを一部始終見て期が熟した頃に入ってきた事も、さらっと告げてきた。
どうやらラクーンは樹楊らが抱き合う前から、扉の陰でこそっと覗いていたらしい。とんだ性悪だ。その事を聞いた繭化した紅葉はベッドをガタガタ動かして怒りを露わにしていて、何か孵化してきそうで怖いものがある。
「あー、そうそう。樹楊くん」
「何です?」
わさわさ繭を揺らす紅葉を無視してラクーンは指を立てる。
「明後日にパレードがありますので、退院許可を取っておいて下さいね? その様子であれば座るくらいは出来るでしょうし」
「パレード? ああ、ダラス連邦を破りましたからね。祝賀パレードですか」
「それもありますが、キミの戦功を称えるものでもあるんですよ。ですから、ちゃんと参加するように」
あからさまに嫌そうな顔をする樹楊だったが、ラクーンは樹楊がいないとパレードは中止になると責任も押し付けて逃れないようにした。
樹楊は完全劣勢の戦を見抜いて起死回生の策を投じ、それでいて勝利を導いた兵なのだ。本人にその気がなくても周りはそう思っている。だが樹楊は完全に嫌がっていた。何も称えられたい為に戦っているわけではなく、あくまでも自分の為にしか戦っていないのだ。それを褒められても困るという思いが強いのだろう。
ラクーンは退室間際、扉を半分開けたところで足を止めて意味深な笑みを浮かべた。
「キミは英雄となりつつありますからね。街の女の子達にも黄色い声援を贈られるでしょうね。羨ましい限りです」
そう言うラクーンだが、羨ましそうではない。ただ単に、繭となって外界を遮断する紅葉への当て付けだろう。大戦の勝利を収めた時、紅葉に殴られた事を根に持っているのだろうか、嫌に当てつけがましくもある。その目論見通り、紅葉はぴくっと反応する。するとラクーン。
「ホンット羨ましいです。パレード後にでもお誘いを受けるんじゃないですかね」
紅葉、また反応。
「そう言えば行きつけのバーのララちゃん、いや、これがまた綺麗で色っぽい方なんですがね、樹楊くんに会いたい事を言っていたような」
更に反応する紅葉は、鼻の下を伸ばしつつある樹楊を布団の隙間からこっそり見て片眉を跳ねさせていた。
「あとは、花屋の――」
「うるさいっ。早く出て行け!」
耐えられなくなった紅葉は枕を投げつけるが、そそくさと出ていくラクーンには当たらず扉が盾となった。あっはっは、と実に愉快そうに消えていくも、残された樹楊は捨てられた仔犬のように悲しげな瞳をしている。
紅葉は荒げた息を整えると、ゆらりと振り返ってくる。攻撃を予測してガードに備える樹楊だったが、紅葉はつまらなそうに鼻を鳴らすとベッドに寝転がるだけだった。しかしその不機嫌さは背中を見ていれば解る。
「なぁ、紅葉。怒ってんのか?」
「別にっ。いいんじゃない? か弱くて護ってあげたい女の子が待ってるんでしょ? 今日の夢はさぞ楽しいんでしょうねっ」
誰がどう見ても怒っている。声も刺々しく、話し掛ければ答えてくれるも素っ気ない。この後見舞いにきたイルラカがそのとばっちりを受けもしたが、流石と言うべきか。イルラカは紅葉の扱い方を知っているようで、頭を引っ叩いては涙目にまで追い込んでいた。そのイルラカを見て樹楊は思う。イルラカは夫を尻に敷くタイプだと。
◆
キラキ樹海にある、大木。
その一本の大木の根元には花が添えられていて風に揺れているが既に枯れ始め、悲しげな光景となっていた。しかし、そこに一輪の花が添えられる。鮮やかな青が人目を惹くその花の花言葉は『死にゆく友へ』であり、断崖絶壁の高地にしか咲かない花。それを添えたのは蓮だった。
蓮は曲げた膝を抱えたまま、じーっと置物のように大木の根元を見続けるが口を開こうとはしない。ただ、ゼクトとの思い出を脳裏に描くだけで、何も。そうして時間だけを流していると、聞き覚えのある声が肩を叩いてきた。
「何してんだ?」
振り返れば、サングラスをして髪を全て後ろに立てている男がいた。口の片端は大きく裂けているが、三個のピアスで留めている。蓮は記憶を巡らせるが、その人物が誰であるか思い出せずにいる。だとすれば、自分にとってどうでもいい存在だと、返答する事無く目を反らした。
「おいおい、無視かっ。酷いじゃんね」
「……話し掛けないで」
「拒絶とは、益々酷いじゃんね。俺の事、覚えてないのか?」
「……知らない」
蓮はその独特な訛りを耳にして見当が付いていたのだが、関わりたくない思いから知らぬ存ぜぬを口にする。この男はダラス連邦が抱える傭兵の男であり、自分に「俺の女になれ」と気持ち悪い事を言ってきた奴だ。名前はクルスといったか。どうでもいいけど早く何処かへ行って欲しい、と切に願うもクルスは隣に腰を降ろしてきた。
「ビジャクを添えるたぁ、よほど深い仲だったんだな」
「…………アナタには関係ない」
「ま、そうだけどよ。そんなに悲しげな背中を見せられると、男としては放っておけないじゃんね」
鬱陶しい男だ。
そう思っているとクルスは立ち上がり、何処かへ消えていく。やっと消えてくれたかと思うのも束の間。またやってくる。今度は何か、一輪の花を持っていた。そしてそれをビジャクの隣に添える。
「俺には関係ねーけど、これも何かの縁じゃんね。添えさせてもらう」
手を合わせて黙祷するクルス。だが、
「その花……勝利っていう花言葉」
「え! ウソっ」
クルスが添えた白い花は四期の短い時間の中でしか咲かない綺麗な花だが、その花言葉は蓮の言う通りだった。それを知らなかっただろうクルスは良かれと思い、添えたのだろう。クルスは慌てて捨てようと手を伸ばすが、蓮はそれを制した。小さな身体に見合うだけの小さな手が、クルスの腕をそっと掴んでいる。傷付いた蝶を優しく包むかのように。クルスは一挙一動に儚さを見せる蓮に目を奪われていた。その漆黒のレンズの奥に潜む緑色の眼に暴虐性など、微塵にもない。
「……花言葉はどうでもいい。気持ちだけで充分」
興味無さ気にクルスから目を離す蓮の口元は僅かに綻びている。どうでもいいと思っていた相手だが、花を添えてくれるのは嬉しかった。
クルスはぼーっと蓮を見た後、口端を優しく釣り上げ、
「やっぱ、お前……イイじゃんね。俺の女になれよ」
「……それは無理」
「付き合ってる男、いねーんだろ? ならお試しって事で」
「……いや」
「何でだよっ。こう見えても俺、優しいじゃんね」
「無理」
まるで相手にされないクルスだが、この男は諦めるという言葉を知らないのか蓮にアピールを繰り返す。しかし返答は変わらず、遂には沈黙する蓮。クルスはそれでも負けない。
いい加減、飽きてきた蓮は何も言わずに立ち上がるとクルスに背を向けて歩き出す。それを制そうとしたクルスが手を伸ばすと、蓮が目に巻いている布に指が掛かっていしまい、その結び目を解いてしまった。スルッとした感触に蓮が眉根を寄せて振り返るとクルスは謝罪の言葉を並べたが、その途中で言葉を見失っていた。
わざわざ訊かなくても解る。この右の白い眼の事だろう。
しかし蓮はその眼を隠そうとはしなかった。クルスがどうでもいいと思っている人物であり、今すぐにでも消そうと思っているからだ。蓮は時空から剣を抜こうとした、その時。
「綺麗な眼じゃんね。ビー玉みてぇだ」
「……え」
そのフレーズ、忘れるわけがない。
あの樹楊が初めてこの瞳を見た時に口にした言葉であり、自分の中でも大切な思い出だ。それと同じ事をクルスが惚け面で言うのだ。蓮は必然と樹楊の顔を思い出し、切ない思いに駆られる。クルスは布を取った事を謝りながら、その布を手渡してくると無邪気な笑顔を見せてきた。
「隠すのは勿体無いじゃんね。そんなに綺麗な眼、初めて見たよ」
「……そう」
そう返すも、躊躇う事なく布を巻いて背を向ける。
「なぁ、本当に俺の女になんねーか?」
「……しつこい」
「仕方ねーじゃんね。本気なんだからよ」
肩を並べてくるクルスに蓮は足を止めると、目を合わせた。
何かを期待して首を傾げるクルス。少なくとも自分にとっては害のない人物である事は何となくだが解った。信用する、とは言えないが。
蓮は少しばかり考えた後、条件を告げる。
「きょーくん」
「キョークン? それがどうした?」
「きょーくんを護って。きょーくんはスクライドの兵士」
「きょーくんって、人間の名前だったのか。スクライドってのは気が引けるが、まぁいい。それで? 見返りは?」
「……友達」
「に、なってくれる。って事か?」
コクリ、と機械的に頷く蓮。
クルスは折り曲げた指を添えて考えるも、大して時間を費やす事無く条件を呑んだ。
「で、いつまで護ればいいんだ?」
「……護っていれば私と会うから。だからその時まで何があっても護って」
「オーケー。道程は長いけど、お前との接点を持てるなら頑張るじゃんね。それはそうと、名前くらいは今教えてほしいじゃんね」
蓮はまた頷くと、唇を薄く開いて名前を告げた。すると、クルスは驚愕を顔に張り付ける。
「織上って……まさかあの一族のか」
「そう」
「ははっ。絶滅したって聞いたけど」
怯えるというよりも寧ろ喜びを巡らせているようなクルスに、蓮は首を振ると真っ直ぐに見つめた。その瞳は無機質で感情の全てを失くしたようでもあるが、憎悪の片鱗を潜めてもいる。蓮は忌々しい記憶を吐き捨てるように、呟く。
「私は生き残り……。皆、私が殺したから」
蓮のフルネームは織上蓮。
織上一族は暗に屍鬼神と呼ばれていた一族であり、死を招く者として世間から淘汰されてきた。しかし織上一族は存在を陰に潜め、生き永らえてきた。そして屍鬼神と呼ばれる由縁ともなった呪術を代々受け継ぎ、そして進化させてもいた。その目的は織上一族が呪術により大陸を制する事、それだけだった。しかし、そんな時に蓮がこの世に生を授かる。それは純真無垢で、清らかな体質で。
世間一般では喜ばしい生誕だが、その無垢な蓮は織上一族としては畏怖なる存在であり、破滅を呼ぶ子供として恐れられた。そして蓮が四歳の頃、呪術による極刑が執行された。幼かった蓮は泣き叫び、自分を虐待し続けてきた両親にさえ命を懇願するも手を払われてしまい、この世の闇と絶望を知る。生まれてから四年間、誰からも愛されず忌み嫌われてきた蓮。未熟児のような身体が墓石に張り付けられ、その魂の輪廻をも破壊するべく掛けられた呪術は『壱千年の嘆き』だった。
しかし蓮はその呪いに魅入られ、暴走。
気が付いた時には一族を皆殺しにした後だった。そして呪刑者の証である、白濁した瞳を生涯携える事となったのだ。
全ては知らないだろうクルスに蓮は問う。
「私が織上一族と知っても……女にしたい?」
「当り前じゃんね」
くはっと力むクルスは蓮の肩を強く掴むと、言い聞かせるようにハッキリと明言する。
「世界中がお前を敵視しても、俺は蓮の味方じゃんね!」
「……そう」
何か、心地良さを感じた。
樹楊のそれとは違う心地良さ。いや、力強さだろうか。何せ生まれて初めて感じる事だ。ハッキリとした言葉が見当たらない。だけど嫌じゃない。この人は自分を見捨てないと、何となくだが理解出来た気もした。
「だから俺の女になれっ」
「それは嫌」
しかし雰囲気には流されない蓮であった。
◆
季節は四期から一期に移り変わるも肌寒さは拭えない時期であり、スクライド国民の大半は防寒着を着用している。しかし、今日という日に限ってはお祭り騒ぎをしたい輩もいるらしく、顔に色取り取りのペイントを施している者もいた。何時も賑わいを見せている大通りだが、今は賑わいというのも控え目に聞こえてしまうくらいの熱狂に包まれている。通りの両脇には露店が所狭しと並び、子供達ははしゃぎまわっていた。
このお祭り騒ぎにはちゃんとした理由がある。
「おい、来たぞ! 先頭はサルギナ大隊長だ!」
「アギ小隊長、今日も爽やかな笑顔ねっ」
「あー! あれ、見習いで入ってきたソラクモノ奴だっ。俺と同い年なんだよなー。すげー、かっくいー!」
人々はそれぞれの歓声を上げて、華やかに行列を組んで行進してくるスクライド兵を満面の笑みで迎える。各隊長位は軍用バイクに乗ってはいるが、歩くスピードとほぼ同じ速度で運転していた。サルギナは屈託の笑みで、アギは涼しげな笑みで国民に手を振るが、ツキは緊張しまくっている所為か手足が一緒になっている。
本日快晴、実にパレード日和。
ダラスとの大戦で勝利を収めたスクライド兵達は国民全員から祝福を受けている。今、このスクライド城下町に居るのはここの住民だけではなく、他地域の町民も自国の英雄を一目見ようと多数集まってきている。
スクライド兵は戦衣ではなく正装で身を包んでいて、その鮮麗さは普段とは別格でもあった。
沸き上がる声援、歓声と共に紙吹雪が宙を舞ってひらひらと景色に色の鮮やかさを加え、誰が見てもめでたい日である事は明らかだ。そんな中、行列の後方から現れた白いオープンカーが来ると歓声は一気に膨れ上がる。爆発していた火山が、まだ足りないと山を吹き飛ばす勢いで噴火させるかのように。
怒涛の歓声に圧迫されるその白い車を赤麗の者達が護るようにバイクで囲み、その中の人物がこのパレードの最重要である事を差していた。
車の中に居るのはラクーンとミゼリア。それに、
「うおっ、すっげー歓声。ミゼリン、顔上げないと」
まるで他人事のような樹楊である。
ラクーンはいつも通り笑顔で手を振っているが、ミゼリアだけは身を縮めて俯いている。顔を真っ赤にしむずむずしている口を固く結んでもいた。
「わ、私はこんなっ……不慣れなんだ、こういうのはっ。大体、今回の大戦で功績を上げたのは私ではないっ」
それと私はミゼリアだ。と正す事を忘れている所を見れば、大分緊張しているのだろう。樹楊からすれば、何とも可愛らしい光景であり悪戯心をくすぐるが、今日の所は止めておくとする。ぴっちり閉じた膝の上に乗せるミゼリアの手をそっと取り、優しく立ち上げてやると腰を支えてスクライド国民にその姿を見せつけてやる。
「あっ、ミゼリア小隊長だっ」
「顔真っ赤にして可愛いーっ」
歓声と共に手を振られて、あやややややや、と訳の変わらん言葉で混乱をアピールするミゼリアに樹楊は言ってやる。
「今回の戦の功績は、俺の隊長が指揮する第十二番隊のものです。ミゼリンなしじゃ、上手くいっていません」
「そ、そんな事はないっ。第一私は何の役にも立っていないんだ」
「俺を信じでくれたじゃねーっすか」
視線を他に手を振る樹楊の顔を、ミゼリアは不意を衝かれたかのように見た。腰に手を回されている事すら忘れていて、ただ樹楊の顔だけを見ている。
「ミゼリンが俺を信じずに作戦を中止していたら、もしかすると敗戦していたかもしれません」
それにバリーと一騎打ちしている時、ミゼリアは一番近くで待機していてくれた。何かあればすぐに駆けつけて来る気だったのだろう。それは解っていた。それは凄く嬉しい事。
「それにホラ、見て下さい。俺達が護った人達、すっげー喜んでくれているでしょう?」
「あ……ああ」
「今この瞬間を目に焼き付けておいて下さい。この人達の顔を、この先どんな事があっても護れるように、しっかりと」
樹楊達を包む笑顔はとても暖かく、優しく、力強い。これを自分達は護れたのだ。もし敗戦していれば、この笑顔の明暗は逆転していただろう。だからこそ、ミゼリアの眼に焼き付けておきたい。この人であれば、この笑顔の大切さを一欠片も見落とさずに受け止める事が出来るだろうから。
ミゼリアは樹楊の言葉に、少々躊躇いがちに手を振り返し始めた。そんな時、ミゼリアの眼にある人物の姿が飛び込んできた。
「に、兄さん!」
それはミゼリアの兄だった。
ミゼリアからは想像がつかないほど柔らかい表情で一生懸命に手を振っている。他の群衆に押されるも、ミゼリアだけを見つめて必死に、しかし心底嬉しそうに。ミゼリアは目にいっぱい溜めこんだ涙を流す事無く拭い捨てると、大きく手を振り返した。車から身を乗り出し、先程までの緊張は嘘のよう。
「私は兄を護れたんだな」
「そうっすよ。ミゼリンが護ったんです」
「ははっ、何だか凄く嬉しい。だけどな」
ミゼリアは太々しい笑みを樹楊に向け、
「私はミゼリアだ」
ようやく、らしくなってくれた。
自分には家族というものはないから、その繋がりが羨ましく思えた。もし自分に兄弟や親がいれば、今のミゼリアのようにその名を呼んで手を振ったのだろうか。それとも恥ずかしくて目を反らしたのだろうか。どちらにせよ、羨ましい。
そんなシニカルな事を考えていると、行進も終わりを見せ始めた。前方に見えるスクライド城下町の門を潜れば、このパレードも終わりだ。
これでやっと息を抜けると思っていた樹楊だが、そうもいかないらしい。
「キョーちん!」
「キー坊っ。こっち見ろっ」
この天真爛漫な声と、こざっぱりとした印象を受ける声の主は。
その声の方向に視線を向けると、ニコとミリアがいた。
ニコはミリアに肩車してもらっていて、その上で手を振ってきている。いつも油汚れを付着させているミリアだが、今日は綺麗な顔をしていた。
「ニコ! ミリア、さんっ」
年上には敬語を、というのは忘れてはいけない。特にミリアに限っては、忘れでもしたら拳骨が飛んでくる。こんな時に思い出す樹楊だが、内心は凄くはしゃぎたかった。
家族がいない?
いるじゃないか、目の前に。そして故郷にもたくさんの家族がいる。
血は繋がっていなくとも、ニコやミリアは家族だ。自分はこの人達を誰よりも護りたくてここにいるんだ。だからこそ戦ってきた。法をも犯してきた。
「ミリアさん! アンタの武器、最っっっ高だぁ!」
笑顔で返してくるミリアに、大きく手を振る。
今回の大戦ではミリアが作った武器が勝利の鍵だった。アレがなければ、もしかするとかもしれない。今回の戦は、多数の『もしかすると』があった。その一つが欠けていれば、それこそもしかすると、だ。
後ろに流れていくニコらにしつこく手を振っていると、視界の端に一人の少女の姿が映った。影に隠れるようにこちらを見てきている少女は、ダラス連邦アシカリ地区にいるシィ。
シィは樹楊と目が合うと、驚いたように人の後ろに隠れるがやっぱり見てきている。小奇麗な服はきっとバリーからの贈り物だろう裸足なんかじゃなく、勿論防寒着も着用している。ボロボロだった髪にも櫛が入れられていて、本来の輝きを取り戻していた。
樹楊はシィを見ると車の上で両手を広げる。
「シィ、来い!」
しかしシィは戸惑い、動こうとはしない。だが、樹楊の後ろでラクーンが微笑みながら頷くとシィはじわじわと笑顔を浮かべてよろよろと前に歩き出し、そして弾かれるように樹楊を目指して走り出した。
「樹楊さん!」
「ははっ、やっと来たなシィ! 待ってたぞっ」
ミゼリアは驚いていたが、ラクーンは事前に樹楊からシィの移住の件について知らされていたお陰か動じてはいない。シィは樹楊に強く抱き締められると胸に顔を埋めて涙を流した。
「ありがとうございますっ、樹楊さん!」
「約束だろ? お前はスクライドに移住させるって。遅くなって悪かったな」
シィは首を振り「そんな事無いですっ」
シィには助けてもらった上に大怪我をさせてしまった。それが仇となって、スクライドへは来ないかとも思っていた。だけど、こうして来てくれるのは嬉しい。そして無茶な要求を呑んでくれたバリーにも感謝をした。シィは涙を袖で何度も拭うと、樹楊を見上げる。すると、感極まったのか再度涙を流し始める。
ここまで喜んでくれるのは意外だったが、嫌な気分じゃない。
樹楊が頭を撫でてやると、シィはまた樹楊を見上げ、
「樹楊さん、わたしばぶっ!」
「さんどいっちー!」
だすん、と突撃してきたのはニコであり、その言葉通りシィを樹楊との間に挟んだ。シィと樹楊が抱き合うのを見て楽しくなったのだろう。誰も許していないのに、進行する列に突進してきたのだ。
にはははははっ、と笑うニコにシィは戸惑うが樹楊の簡単な説明を受けると納得したように頷く。ただし鼻血を両方の鼻の穴から流してはいるが。兵がニコを不審者と見なして取り押さえようとするも、それをラクーンが制する。
「家族ですから」……と。
◇
パレードを無事に終えたスクライド兵達は夜を迎えると、城内にある大広間にてパーティに集まった。綺麗に着飾る者やラフな格好をしている者まで、会場となるこの場を有意義に楽しんでいる。その中にはダラス連邦の兵や重鎮らも出席し、今後に築くだろうスクライドとの友好を深めていた。
元々、こういった催し物は性に合わない樹楊は私服で身を包み、独り、壁際でシャンパンを傾けている。半ば強制的に出席させられたものだから機嫌も良くない。紅葉は樹楊の姿を探し回っていたが、この大規模なパーティに出席している人数が多過ぎて探し当てる事が出来ずにいた。
そんな事は知らず独りで呆けていた樹楊の元に、バリーが現れる。やっぱりと言うべきか、こんな時にも関わらず軍服を着用している辺りがバリーらしい。
バリーは葡萄酒を注いだブランデーグラスを片手に、話し掛けてきた。
「よう、機嫌悪そうだな小僧」
「慣れてねぇんだよ、こういう集まりは。それよか、おっさんは大丈夫なのか?」
はて? と首を傾げるバリーに、樹楊は目を細めながら自分の胸を親指の先で叩く。傷は大丈夫なのか、という意味だ。それが解ったバリーは「大丈夫じゃない」と言うが、美味い酒は良薬だとも言っていたのでこれ以上気にしない事にする。何か用があるのかと思っていたが、バリーは壁に背を預けると賑わう周囲を楽しそうに眺め続けるだけで何も言ってこない。樹楊は居心地の悪さから、仕方なく口を開いた。
「サラはどうしてる?」
「ん? 気になるなら自分で確かめに来れば良かろう」
じろり、と睨む樹楊にバリーは坊主頭を撫でると葡萄酒を一口、軽く喉に流し込む。スクライドの葡萄酒美味いな、などとどうでもいい事を呟くと真っ直ぐな目を合わせてきた。
「元気にしているよ。まぁ、ここに来るのは嫌がっていたから連れては来なかったが、何かあったのか? それに、サラの事はスクライドに内密とはどういう事だ?」
「まぁ、ちょっとな。サラをダラス連邦で内密に保護してくれていれば何の問題も無い。今出てこられると厄介なんだ。何があったか、何で内密にするか……。それはサラの口から聞いてくれ。俺が口にするのは気が引ける」
「そうか。なら追及はすまい。その時が来るまで見守るとしよう」
バリーの包容力には感謝をしてもしきれないくらいだった。今、情緒が不安定に陥っていたら涙を流していただろう。この男がダラス連邦の上部に立つ者で良かったと心のから思う。樹楊の心情を察したのか、バリーは髪をくしゃくしゃするように頭を撫でた。その時、思う。
不安でいっぱいの時に頭を撫でられる事が心地良い、と。決して嫌な気分になれない。兄貴がいれば、こんな感じだったのだろうか、とさえも思った。バリーはスクライドの重鎮に挨拶回りをすると、ここを離れる時、樹楊は聞こえないように呟いた。
「また……来いよな」
「勿論、そのつもりだ」
どうやらバリーには聞こえていたらしく、少しばかり戸惑ったが強張っていた顔が自然と緩んでしまった。背を向けたまま片手を上げるバリーを見届けた後、樹楊はほろ酔いのまま、中庭に出る。火照る身体は夜風を歓迎し、清々しい心地に包まれた。
そしてそのまま、石段に座ると目の前に黒いレザージャケットを着ている男が姿を現した。髪を全て後ろに逆立て裂けている口の片端をピアスで留め、自分と同じ好みを持っているのか、全身を黒で包み夜と同化している。だが、こんな夜にサングラスはどうかと思う。
樹楊に馬鹿を見るような目で見られたその男はポケットに手を突っ込んだまま、月を背景に歩き出す。向かう先は勿論、樹楊の元だ。明らかに不審者だが、騒ぎ立てる事もない樹楊は座ったまま冷たい目を向けた。
「なぁ、お前。キョークンって奴知ってるか?」
「キョークン? 誰だ、そりゃ。つーか、俺に人を尋ねるのは間違いだぞ? 俺、知り合い少ねーんだ」
「……うーん、そりゃすまない。ところで、それ酒だら?」
「ああ。シャンパンだけど、飲むか?」
花咲くような笑みで頷く怪しい男が少しだけ可愛く見えた。よほど酒が好きなのか、ごくごく飲み始める。樹楊はその飲みっぷりに喜び、一旦会場に戻ると酒を数本と適当な料理を持っていた。
「お前、いい奴じゃんね」
「そうでもねーよ。酔わせてお持ち帰りするつもりかもしんねーぞ?」
「そん時は優しくね。痛いのは嫌じゃんね」
「優しくすんのはお前だろ。俺が女役だ」
「俺が頑張らんといかんのかっ。酔った状態じゃ腰も振れないじゃんね」
「じゃー、俺が上に乗る」
込み上げてくる笑いを同時に爆発させた二人はグラスを合わせると、料理をつまみだす。樹楊にとっては、会場で下らない話をするよりこの不審者と談笑している方がよっぽど楽しいものがあった。その上、女の好みが同じだったり旅が好きだったりと話が合う。酒はその盛り上がりの加速剤となり、品のない笑い声が挟まれた。
「くっはははははっ。いやー、人探しに来てこんなに美味い酒を飲めるとは思ってもいなかったじゃんねぇ」
「俺も、下らねぇパーティに来てこんなに笑えるとは思ってなかったな。つーか、そのキョークン? ファーストネームなのか? それともフルネーム?」
「知らん。フルネームだとすりゃ、キョー・クンになるな。白鳳にいそうな名前じゃんね」
キョー・クンもキョークンも知っている限りではスクライド王国にいない。この男の力になってやりたいが、人望がないばかりにそれも叶いそうになかった。
それは後でもいい、と酒を飲む不審者は言うが、どうにかならないものか。
そんな思いを巡らせていると、紅葉が姿を見せた。
「アンタこんなところで何やってんの? それにその男は?」
「ああ、会場はつまんねぇから……この……えーと、不審者と一緒に酒を飲んでた」
「不審者とは失礼じゃんね。俺はクルスって名前だ」
そう言えば名前を教え合っていなかった。まるで再開した友達のように感じていたから、そんな事が気にならなかったのだ。その事にようやく気付いた樹楊が名乗ろうとするよりも早く、クルスが紅葉に話し掛ける。
「キョークンって奴知らないか? 訳あって探してるじゃんね」
「は? キョークンって……」
紅葉は呆れた顔で嘆息し、首を振ると樹楊を指差した。すると樹楊も自分を指差し、クルスも樹楊を指差して目を見開く。
「俺は樹楊だろーが」と、馬鹿馬鹿しそうに樹楊。
「アンタ、蓮にきょーくんって愛称されてたじゃん」と、疲れ気味に紅葉。
「あ、俺、その蓮って子に聞いた」と、思い出したかのようにクルス。
えーと、と樹楊が呟くと一陣の風が寒さを運んできた。
沈黙を交わし合う三人は、会場から聞こえてくるサルギナの大きな笑い声には眉根を寄せる。