第二十七章 〜残された策〜
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余裕が満ち溢れた顔で現れたガガ。
見下された紅葉は一撃で仕留めるべく、しかし自分と渡り合えるほどの実力者である事を強く願いながら真紅の長剣を振り下ろした。その兇刃な一振りは常人であれば刀身すらも確認出来ぬほどのスピードでガガの脳天を目掛けて闇を切り裂く。
ガガは迫り来る真紅の刃に笑みを崩さず、腕も組んだままだった。
何だ、終わりか。
紅葉は期待するんじゃなかった、と思った。こんな程度じゃ熱くなれない、と。
しかしその思いは視界いっぱいに広がる銀色の何かによって砕かれる。
振り下ろした長剣は、その銀色の何かに弾かれてしまい反動で上体が反れ、紅葉は驚愕を顔に浮かばせると同時にその銀色の物体を思い切り蹴る事で後方へと跳躍。宙で身体をくるっと回転させ、猫のようにしなやかな着地を見せてからその銀色の物体が何なのかを確認する。
「何よ、あれ……」
独白せざるを得なかった。
その銀色の物体は楕円形、まさしく卵の形で人一人分の大きさを持っている。突如として現れたそれに驚いているが、次の展開には更なる驚きと納得の両方を与えられてしまった。
銀色のそれがパリパリと砕けると、中から腕を組んだままのガガが現れたのだ。その様は、卵から孵化したばかりの雛鳥。最も、雛鳥のような愛らしさではないが。
「アンタ、魔術師だったのね? 特殊三系統魔術・鉄、か。時の魔術ならたくさん見てきたけど、鉄は初めて見たわ」
「ご名答。なかなか面白いだろ?」
「ええ、期待以上だよ。だけどさ、よりによって卵型なんて冗談キッツイわね」
ガガは眉根を寄せて疑問を見せると、紅葉は立ち上がり自分の頭を突いて鼻で笑い捨てる。
「そのツルピカの頭そっくりじゃない。アンタ、一発芸のセンス有り過ぎ。そのクマは何? もしかして今の一発芸を考えて寝らんなかったとか?」
大袈裟に肩をすくめて首を振る紅葉は、自分で言っておいて樹楊ならばもっと酷い事を言うんだろうな、と思いもした。自分には考えつかない、見下した言葉を。
しかしガガはそんな安っぽい挑発に乗るほど愚かしい奴ではなかったらしく、鼻で笑われ返される。どうやら自分は人を怒らせるセンスはないらしい。樹楊だったら何て言うか、ますます気になってくる。
そう言えば、初めて出会った時の樹楊が対峙していた者もツルツル頭だった。あれはクルード兵で、長身で細身のガガとは違って筋肉隆々のむさ苦しい奴だった。それでもツルピカ頭である事には変わりない。
それを思い出した紅葉は唐突に思い出し笑いをし、ガガに言ってやる。
「アンタ、ハゲ散らかしてる場合じゃないでしょ?」
すると、ガガの片眉が僅かに跳ねた。そのツルツルの頭に青筋が浮いてくるのが解る。紅葉は込み上げてくる笑いを、それでも頬がぱんぱんになるほど溜め込んだのだが、破裂した風船のように爆発させた。
「あっはっはっはっは! 怒ってる怒ってるっ。ますますハゲ散らかるわ! 皆さん避難して下さいっ。ハゲが散らかります、散らかっちゃうんですぅ! んにゃははははははっ、うひゃっ!」
ガガを指差して遠慮なく爆笑する紅葉は、この戦場においては異質以外の何ものでもなかった。一人で勝手に笑い声を上げ、涙を流して開口しながら敵兵と目が合っても笑う事を止めない。いや、止める事が出来ないのだろうか。
うひゃうひゃ笑いながら指差す紅葉に、流石のガガも口端を痙攣させる。ガガが連れてきた部下の顔からは血の気が引き始め、慎重に距離を取り始めた。ガガに気付かれたくないのだろう。ゆっくり、ゆっくりと離れていく。しかし紅葉。
「見なさいっ。部下が逃げてるわ! もしかしてそのハゲって伝染とかしちゃう? あっははははっ」
迷惑にもチクられた部下はガガに睨まれると、慌てて否定するがそれでも紅葉は逃げていた事をしつこく告げていた。部下達にとっては紅葉の存在がこの上なく迷惑なのだろう。その強さを知っていながら物凄い剣幕で睨んでいる。
「紅葉ォ……少し、調子に乗り過ぎじゃねぇか?」
ドスが効いた声で睨むガガだが紅葉が怖気づくわけがない。笑いをすぼませつつ涙目を擦り、深呼吸をする事でようやくまともに対峙した。長剣を肩に担いで半身になる。怒るガガを見て、自分にも人を怒らせる才能がある事に気付く。それでも樹楊ほどではないのだろう。樹楊は自分が弱いくせに挑発するから余計に性質が悪いのだ。
それはそうと、これでガガは冷静さを欠いたはずだ。
正直、特殊三系統の魔術師とはやり合いたくはない。それは蓮と手合わせをした頃から感じていた事で、予想出来ない戦闘を展開してくるもんだから判断が遅れれば死に繋がるのだ。そして恐らくガガも相当な手練れだろう。負ける気などしないが、少しでもこちらが優位に立たなければ万が一って事もある。
剣先を向けたまま柄頭を肩まで引き、足を広げて腰を落として紅葉は対峙するが、ガガは依然として腕をくんだままバイクに跨っているだけ。だがそこにはニヤケ面はない。
紅葉は前足で地を擦ると、くの字の閃光を描きながらガガの左側を取る。そして喉元に刺突。だがそれも突如として現れた鉄の膜に止められる。この刺突が僅かな角度を持ってしまっていれば弾かれただろう。しかし紅葉の刺突は一度の角度も持たぬ純粋なる直線をなぞっていた。長剣の剣先は弾かれる事無く、まるで力比べをするかのように鉄の膜を突いている。
微動だにしない鉄の膜は切っ先の侵入を許さず、針の先ほどの傷がついただけだった。
「無駄だ。俺の鉄は普通の剣じゃ斬れやしない。刃こぼれして終わりなんだよ」
勝ち誇った笑みで見下すガガだが、剣先を押しつける紅葉もまた、見下した笑みを浮かべる。
「私を誰だと思ってるの?」
鉄の膜に、剣先を中心として亀裂が入る。それは干からびた大地のように。
「この剣を何だと思ってるの?」
ビキビキと音を立てる鉄の膜にガガは目を見開いて失った言葉を探していた。紅葉の眼は闇夜の中で輝き、真紅の髪は不吉に揺れる。
「っく、不味い!」
流石に焦ったガガはバイクを踏み台に後方へと跳びながら身を捻る。その瞬間に鉄の膜を突き破った長剣はガガを追うように迫ったのだが、その剣先が頬の皮膚を数枚切る事しか出来なかった。
ガガは地に着いた手元に着地をし、屈んだ姿勢のまま剣を担ぐ紅葉を上目で睨む。月を背に赤く燃える凶者。髪も剣も服も紅い彼女は常人ならざる者だった。幼き過去を犠牲として得たような、常軌を逸するその力は聖緑世徒のものであるが、それを知るガガではない。
「生憎ね、私とこの剣は普通じゃないのよ」
「何だってんだ、その剣は」
何も特殊な剣ではない。確かに大剣の全長と重さを兼ねる長剣だが特別な素材は使われはいないし、いわくつきの剣でもない。ましてや、神話に出てくるようなこの世の物ではない剣でもない。ただどの剣よりも多くの血を吸い、人の未来を奪い、魂を無価値に破壊してきただけだ。
ガガが未知なる威圧感に動けずにいると、それを案じた部下数名が愚かしくも紅葉に斬りかかる。逃げ道がないように、確実に一太刀を浴びせるように紅葉を円形に囲んで。もしその武器が槍などであれば、万が一よりも低い確率ではあるが紅葉の髪の毛一本を斬る事が出来たのかもしれない。しかし手に持っている武器は通常の両手剣だ。
紅葉は襲い掛かってくる全員が制空権内に入った事を確信すると、身体を回転させて剣を振るう。その剣筋の始点と終点はピタリと重なり、リング状の残光が出来上がっていた。その軌道上にいたガガの部下は通り抜けた風斬り音に耳を傾け、その次の瞬間には上体が下半身からズレて絶命。
その二つになった身体の断面からは、壊れたスプリンクラーのように血が噴き出し血煙りとなる。紅葉が回転した時の軸足は、コンクリートの地を抉っていた。
紅葉は作り上げた死体を蹴飛ばすと、ガガを睨む。
「アンタもこの程度なら抵抗しない事ね。面白い術を見せてくれた礼に無痛で殺してあげるわ」
ガガは立ち上がると片手をブランデーグラスを持つような形にした。すると、魔術を媒体とした液体のように揺れている鉄が宙で形を変え、一本の剣になった。
そしてガガの身体を鉄の膜が覆い、皮膚のような鎧になる。
「ナメるなよ? 俺は鉄の硬度も操れるんだ。この魔術を何度も破壊出来ると思うな」
「言っとくけど、私に壊せないモノはないの。例えそれが神器だろうと何だろうと、アイツが望むなら……」
何だって破壊してみせる。
双方、何も合図とせずとも互いに距離を詰め合うと誰をも寄せ付けないほど激しい打ち合いを始めた。金属が打ちつけられる音は幾重にも重なり、その歯切れの良かったテンポが速度を上げていく。しかしその全てが刃同士の接触音などではなかった。
紅葉が振るう剣は何度もガガの身体を捉えるのだが、言葉通り硬度を操っているらしく、みすぼらしい傷しか付ける事しか出来ないのだ。
この魔術の鎧を破壊するには一点集中の刺突が理想だ。しかし、ガガの剣の腕はその隙を作らせるほど悪くない。劣性とも優勢とも言えないまどろっこしい展開を好まない紅葉は、この打ち合いを止めるべく、つばぜり合いに持ち込んだ。
「ハッ、どうした紅葉。お前は普通じゃないんだろ?」
この男に名前を呼ばれると何だか腹が立つ。その全身タイツのような鎧も人を馬鹿にしているとしか思えない。
「気安く名前を……」
ふつふつと沸き上がる苛立ちに、紅葉は拳を強く固く握り締めると、それを大きくテイクバックさせる。そして一層力を込めると、腰の回転を活かして拳を振るった。
「呼ぶな!」
こめかみ目掛けて打ちつける拳は皮膚が裂け、ぷしゅっと血が噴き出るが紅葉は満足気に笑みを浮かべた。部下達の元まで吹っ飛んだガガはすぐに起き上がって下劣な笑みを浮かべるが、二歩も歩かない内に膝を折る。
「っな、何だっ」
「ガガ大隊長……っ、兜がっ」
化け物を見るような目で頭部を見てくる部下の態度にガガは訝しげな表情を見せるが、剣腹に映る自分の頭部を見た瞬間、その表情を驚愕へと変換させた。
「な、何だこれは。何故……」
紅葉が殴った箇所である側頭部が、その鉄の兜が大きく陥没しているのだ。破壊こそされてはいないが、その事実にガガは目を疑う。
裂けた拳から流れる血を舌先で舐めている紅葉はガガと目が合うと鼻で笑い捨てた。
「アンタ馬鹿? 普通じゃないってさっきも言ったでしょ?」
「っく、紅葉ォ……」
「だから、名前呼ぶなって言ってるでしょ。気持ち悪い」
ゆらり、と立ち上がるガガは髪こそない頭だが怒髪天突く勢いで怒りを露わにする。特殊三系統の魔術師であるプライドを傷付けられたのだ。その怒りは計り知れないものだろう。
紅葉は剣を構える事無く、ただ片手に握って余裕の笑みを浮かべているが、それは本当に余裕だからじゃない。あの鉄の塊を殴った拳の骨が砕けてまともに握る事すら叶わないのだ。それを気付かれない為に余裕を演じているが、殴られた当人はそれを見破っている。それもそうだろう。その硬度を一番知っているのは術者なのだから。
「終わりだな、紅葉」
「だ・か・ら! 名前を呼ぶなっての、ハゲ! アンタ、毛が無くなったと同時に知力も失ったんじゃないの?」
ズキズキと痛む手が動かない。
あの一撃は力を見せつけるには充分だったが、その代償も大きかった。何でもかんでも勢いに任せる事は良くないな、と改めて思う紅葉は劣勢。
ガガはもう一本の剣を作り出し、全面に棘を持つ鎧に変化させる。
こちらの考えている事が解ったのだろう。
紅葉は蹴飛ばして隙を作ろうとしたのだが、あの鎧を蹴飛ばす事は足に穴を開けるだけで終わってしまう。
いよいよ打つ手がなくなってきた紅葉に対峙するガガだが、その身体に何かが蛇のように巻き付いた。紅葉にはその巻き付くものに見覚えがあった。ずっと目にしてきたものだ。見間違えるわけがない。
ガガは縛られたまま宙に振られ、勢い良く放り投げられる。誰もが虚を衝かれたこの状況を作り出したのは、赤麗のイルラカだった。褐色の肌に映える銀髪を揺らし、紅葉を庇うように現れたイルラカの武器は鞭。だが、ただの鞭などではなく、スクライドが誇る伸縮鋼線に酷似した素材を持つ鞭であり、使い手によっては剣と同じく対象物を切り裂く事が出来る。
「イルラカ、邪魔よ! 退きなさいっ」
「退くも何も、防衛線までの撤退命令が下されました」
怒声を張る紅葉に背を向けたまま、ゴミのように放り投げたガガを睨んで答えるイルラカ。その言葉が紅葉には理解出来なかった。
紅葉はこれまでの戦で逃げた事などないのだ。目に映る者は破壊し、勝利を掴むまで突き進んできた。逃げる事など敗者の選択だと思ってもいる。それに逃げる事は、初めて敗北した時の……オルカに負けた時の事を思い出してしまう。あんなに屈辱的な思いはもう沢山だ。
「イルラカ、アンタはそれでいいの? 赤麗は何時そんな弱い部隊に成り下がったの?」
「首領、撤退です。私達は雇われの身。更に今は大戦なのです。……命令に従って下さい」
「嫌よ! 私は私が思うままに――」
「撤退です! 何度も言わせないで下さい!」
イルラカがこんなにも頑なになるのは珍しい事だった。何時もであれば、しぶしぶでも自分に従ってくれていたのだ。何かあったのだろうか。
紅葉は下唇をぐっと噛み締めて握りたいのに叶わない拳に苛立ちを募らせながらもバイクに跨る。投げ捨てられたガガが馬鹿にするような笑みを浮かべているが、イルラカの真っ直ぐな瞳を見れば、自分の悔しさなど捨てなければならない。
「ハゲ。アンタは私が必ず殺す」
「そうか? ならさっさと逃げてその拳を治す事だな」
口角を持ち上げて嘲笑うガガの態度に紅葉はバイクを降りそうになったが、やはりイルラカがそれを制する。はらわたが煮えくりかえる。何でもいいから壊したい。暴発しそうな破壊衝動に駆られるも何とか抑え込み、イルラカの言う通り撤退を始めた。
それを見送るだけのガガに部下は躊躇いがちに歩みより、逃がしていいのか尋ねる。
ガガは撤退していく紅葉らを見届けた後、両膝を折って地に手を着いた。
「ガガ大隊長!」
ガガが紅葉に殴られた時のダメージは尋常ではなかった。それに気付く事が出来なかった紅葉だが、イルラカは全てを見通した目をしていたのだ。ガガは見逃したのではなく、イルラカに見逃してもらったに過ぎない。ただ、その闘いが長引く事を想定し、紅葉の気持ちを悟っているイルラカだからこそ退く事を最優先としたまでだった。
ガガは部下の肩に担がれると、赤麗達が居なくなったこの場を休憩の場とする事を全員に告げる。
「あの女ァ……ぶち殺してやる」
◆
暗黙の了解のように一騎打ちを続けるサルギナとクルスは心底嬉しそうに何合も打ち合っていた。バイクを最小限に操り、時にはつばぜり合い、それでも決め手となる一撃は互いに与えてはいない。部下達はただそれを見守るだけだった。
サルギナの頭の中はクルスを討つ事のみで満たされ、大戦である事すら忘れている。普段のサルギナらしくない。それもクルスという強者を相手にしているからなのだろう。傭兵時代は一つの国をも壊滅させるのでは、と恐れられた傭兵団のサルギナだがスクライドに仕えている内に穏やかになっていた。犠牲がつきものの戦だが、それでも誰一人として失いたくないと思っていた。
どうやらクルスの言う通り、牙を失っていたらしい。
柔らかい餌を食べている内に牙はその役目を失い、丸みを帯びていた。噛みつく事は出来ても噛み殺す事の出来ない牙は牙と呼ばない。ただの歯だ。
「クルス、礼を言ってやる」
頭を砕くつもりで叩きつけた重槍をクルスはしっかりと受け止めて弾き返した。サングラスの奥に潜む瞳は歓喜に歪み、ピアスで留めた口端はその裂け目を釣り上げている。
「礼を言われるのは照れるじゃんね。でも言いたいなら言わせてやるよ」
目を狙うクルスの刺突を最小限の動きで避け、しっかりと柄を添えて斬られないようにガードするサルギナ。クルスの両手剣の剣腹はサルギナの横顔を映したまま、その刃を重槍の柄に止められている。
「ああ、言わせてもらうよ。咬み殺す快感を思い出させてくれてありがとうってなァ」
「それは俺のセリフじゃんねぇ。随分と長い間、犬っころを斬り殺してきたんだ。暇だったんだぜ? でもやっとだ。やっと、狼を咬み殺せる時がきたんだ。この気持ち、ロイズ。お前にも解るだらァ?」
サルギナはクルスの剣を弾くと、瞬時にバイクの前輪を軸として車体を回転させ、後輪を回し蹴りのように振った。バランスを僅かに崩していたクルスだが、何とか上体を反らして避けた。しかしサングラスが弾かれ、その瞳が現れる。
「お前……その眼はっ」
目を疑った。いや、まさかコイツも……。
その瞳が何を表しているかなど、解っている。だが信じられない。
「っくく、痛ぇじゃんね。まさかそこまでバイクを操れるとは思ってもいなかったぜ」
クルスが戦闘に狂った光を宿る、その瞳は。
虹彩は緑。白目である部分が淡い緑の瞳は正しくサラと同じ瞳だった。
それが意味するのは、人間ではないという事だ。ましてや、聖緑世徒でもない。クルスはサラと同じ、木人である事をその瞳が証明している。
「お前、木人だったのか?」
「ん? ロイズ、意外と博識なんだな? でもそれじゃ半分正解ってとこじゃんね」
「半分? どういう事だ?」
「ちったぁ頭を使え、ロイズ」
自分のこめかみを指先で叩くクルス。
それでもサルギナが答えられずにいると、クルスは肩をすくめて溜め息を吐き、剣を担ぐと前のめりになって鋭い瞳でニヤけた。
「俺はな、木人っつー訳解んねぇ血と人間の血が混じって出来たんだよ。つまり、混血種じゃんねぇ。……まぁ、雇い主はその事を知らねぇけどな。何たって、俺のサングラスを弾いたのはお前が初めてじゃんね」
サルギナはクルスへの警戒を高めた。ただの人間であれば、その実力だけを判断すればいい。そこに魔術者であるかも知れないと一線を引いておけば何の問題もない。
だが、クルスは未知なる人種とも言える。
人間は、魔法を得意とするエルフと武芸を得意とする獣人目が配合して誕生した生命体だ。それにより、魔法に長ける者や武芸に長ける者、又はその両方に長ける者が存在する事となった。
しかしこのクルスは、未だ解明出来ていない木人と人間の混血。
未知なる力を使ってきてもおかしくはない。
サルギナが迂闊に動けずにいると、クルスはアクセルを吹かして圧力を掛けてくる。それに怖気づくわけではないが、やはり慎重にならざるを得なかった。
クルスの動きを待っていたサルギナだが、突然腕輪が赤く光り出す。
これは……撤退命令? 何かあったのだろうか。
考えられる事はここ以外の場所、森と廃虚を占拠されたという事と、もしくは敵兵が防衛線に到達している事だ。しかしあの赤麗が簡単に墜ちるとは思えない。しかもこんなに早く。
だとすれば、あのラクーンが何かを見出したのか。
サルギナは冷静さを取り戻し、傭兵団の頭領などではなくスクライドの大隊長として部下に撤退の合図を手で示す。
次々に撤退を始めるスクライドの兵を見たロイズは呆気に取られ、しかしサルギナに向かって吠えた。
「ロイズ、逃げるのか! まだ始まったばかりじゃんね!」
「じゃんねじゃんねぇって、うるせぇよお前は。俺は逃げる」
「っく、待てロイズ! 逃がして――」
追ってこようとするクルスに、サルギナの部下が毒煙瓶を投げつけて足止めをした。すっかり周りが見えなくなっていたクルスはまともに毒を吸って咽ると、バイクのコントロールを失って転倒する。しかしこの毒は人を殺せるほどの効力などはなく、数分の間だけ痺れさせる効果しかない。
「ロイズ……くそ、あの野郎っ」
クルスは地に這いつくばったまま土を握り締めると、サルギナが去っていった方角を悔しそうに睨んでいた。
◆
スクライド第一防衛線。
そこには中隊が三つ、迫り来るだろうダラス兵を迎え討つべく戦闘態勢を崩さずにいた。各隊に撤退命令を出した当人であるラクーンはそこで隊の帰還を待っている。残るは赤麗とサルギナの隊のみである。森から帰還した兵は五分の一までに減っており、予想以上の劣勢に思わず顔が強張る。森の占拠は難しいだろう。仕掛けたトラップがどこまで敵の侵攻を食い止められるのか、それに頼るしかない。
廃虚と荒野での戦闘は互角との報告を受けたのだが、全軍を撤退させた今、取り戻すのは困難を極めるだろう。しかしラクーンはそれでいいと、いや、そうでなければならないとさえも思っている。
あとはダラス連邦がスクライドを潰すべく、全軍を投入してくるタイミングが重要なだけだ。ダラスが兵力を残して攻めてくる可能性はない。もし、兵力を残して攻めてくるのであれば、スクライドの勝利は遠くなるだろう。
「ラクーンさま、サルギナ隊が帰還しました」
その言葉に荒野を見れば、兵力を失っていないサルギナが砂煙を上げて帰ってくるのが見えた。サルギナは適当な場所にバイクを止めると部下に休息を促し、ラクーンの元まで足を運ぶ。目立った怪我こそないが、大分疲れているようにも見える。
サルギナは用意された椅子に座るとラクーンから水を受け取り、それを一気に飲み干した。
「どうでしたか? 砂嵐は」
「ありゃ厄介ですね。引き連れている部下は俺の部下と互角でしょう。あれは多くの人を殺してきた目だ。何の躊躇いもない。それにあのクルスって野郎……」
裂けた口をピアスで止め、サングラスで隠していた緑の瞳。あの戦闘センス。
並みどころじゃない。独りで赤麗と渡り合えるのかもしれない。
「どうかしましたか?」
「え? ああ、そうだ。砂嵐の頭やってる奴なんですけどね」
思いに更けていたサルギナがラクーンに問い掛けられて我を取り戻すと、廃墟の方角から赤麗が慌ただしく帰還してくる。紅葉はバイクを降り、ラクーンの顔を見るなり鋭くなっている目を更に尖らせ、つかつかと足早に歩み寄ってきた。そして左手でラクーンの胸倉を掴むなり、傍に突っ立っている大木に叩きつける。
「撤退ってどういう事なのよ! アンタ、私達をナメてんの!? こんな屈辱を受けさせるなんて、死にたいらしいわね!」
「お、落ち着いて下さい。確実に勝つ為の策なんですよ」
おどけたように宥めるラクーンの態度は紅葉の逆鱗を更に撫で上げ、もう一度大木に叩きつけられる。今度のは強かったらしく、ラクーンは咽てしまう。今にも殺すのでは、という紅葉の怒りように怯えていたスクライド兵は誰一人として止めようとしない。サルギナはぽかーんとしているが。
「首領! 何をしてるんですか!」
「イルラカ、離して! もう我慢の限界よ!」
まるで我が子を殺された猛獣のように吠えまくる紅葉を制そうとするのはやっぱりイルラカだけであり、力づくでラクーンからその手を離させた。そして勢いのあまりに紅葉を掴んだまま転げるが手を離さず、そのままマウントのポジションを取る。
「鎮静剤を用意して!」
「なっ、イルラカ! アンタ、どういうつもり!」
暴れる紅葉を落ち着かせる為の手段としてイルラカが選んだのは、手っ取り早く眠らせる事だった。半ば脅されるように要求された部下は大慌てで小型のマスクを取り出すと、紅葉の元に座り込んでそれを当てようとする。
「それがどういう意味か解ってるんでようね!」
「いいから早く! 私が責任取るから早くしなさい!」
紅葉とイルラカに凄まれて板挟みの部下はおろおろして半泣きになっていた。紅葉の力に勝てるわけがないイルラカは、押さえつける事に限界を感じたのか乱暴に怒鳴るが、やっぱり部下はどうにも出来ないでいる。そこに手を差し伸べてくれたのはサルギナであり、部下の手からマスクを取り上げると難なく紅葉の口元に押し当てた。
「っう、く。何すんの……よ、アンタ。ふざけ、な……」
即効性の睡眠作用があるマスクは紅葉を柔らかく夢路に誘い、その役目を終えると呆気なく捨てられる。ようやく落ち着いた紅葉にイルラカは長嘆し、びっしょり掻いていた汗を拭うとサルギナに礼を言い、ラクーンに深く頭を下げた。
「あ、あの。イルラカさま……私、その」
金色のボブカットが良く似合う赤麗の部下がイルラカの前で未だにおろおろしている。イルラカは頭を撫でてやると、
「気にしないで。私も強く言いすぎたし、相手は首領だから怖いのは当たり前だろうから。何も心配しなくていいわ」
部下はここでようやく頭を下げると、促されるままに休息を取り始めた。サルギナは眠る紅葉の砕けた手を見ると、自らの医療セットで手当てを始める。
「すみません、お見苦しい所まで見せた上に治療まで……」
「いや、別にいいよ。逆に大人しかったら気持ち悪いしな。それよりも、この手はどうしたんだ? 鋼鉄のテーブルを殴っても傷付かない拳なんだろ?」
魔術で出来た鉄です、とは言い辛かったのか、イルラカは引き攣った笑顔で誤魔化していた。と、その時。イルラカの目が尖り、導かれるように森へと視線が流れる。首を傾げるサルギナに紅葉の治療を任せると、独りで森の中へ入っていく。
「どうしたんですか? 何かありました?」
「さあ? 治療を頼む、とだけしか。でもまぁ、遠くに行くほど頭が悪い子じゃないでしょう」
ラクーンはイルラカが消えた森を見つめた後「そうれもそうですね」と楽観的に笑い、サルギナの手伝いをする。本来であれば衛兵の仕事だが、生憎、森から帰還した者の手当てで忙しいようだ。
「それで、サルギナくん。さきほど言い掛けた事がありましたよね」
「あ、そうだ。砂嵐の頭やってる奴なんですけどね、どうやら木人の血が混じっているらしいんです」
ラクーンの手が止まり「木人?」
サルギナは頷くと、事の全てをラクーンに告げる。サラ同じ、緑の瞳をしていた事。それに本人が口にしていた事。聞かされた事は嘘かもしれないが、木人である事には違いないだろう、というのがサルギナの見解であり、ラクーンもそれには頷いた。
これは思わぬ展開だった。
砂嵐の強さは悪評で聞いていたが、そんな秘密が隠されているとは思いもしなかった。ラクーンはサラが居ない事を悔やむ。
「木人ってのは、特殊な力の持ち主ですよね?」
「ええ。私達が解明したのはその一部でしかありませんが、治癒の能力を持つ事は明らかです。ですが、それは同じ木人しか対象にならないはずですし……。でも気になりますね。もし本当に混血種であれば、厄介な変化を起こしているかもしれません」
「厄介な変化?」
「そうです。考えてもみて下さい。私達はエルフと獣人目の混血なんです。しかしそのクルスとかいう者には木人の血も混じっている。ある意味、最強の人種なのかもしれませんよ」
ラクーンが懸念しているのは、その三種の血が混じり合う事で起こる変化。それと、未だに解明出来ていない部分にもし木人の能力が記されていたら、それが何なのか。今知り得ている事から考えると、木人が戦闘に適さない人種である。しかし未解明の能力があったとして、それが戦闘向きの能力であれば厄介だろう。そして聖緑世徒の件もある。
聖緑世徒は木人ではないにしろそれに準じた存在であり、反則とも言える戦闘能力を持っている。聖緑世徒は、サラの母親が残した魂の種。木人に近い存在であり、木人とは言えない存在なのだ。それはクルスも同じと言えなくもない。
「サルギナくん」
「何です?」
「……その者を抑えきれますか?」
心配そうなラクーンの眼にサルギナは嘆息し、丁度紅葉の治療を終える。眠る暴れ姫の頭を払うように叩くと、ラクーンに向って胸を張った。
「誰に言ってんですか。抑える? それどころか勝っちゃいますって、俺は」
「……ふふっ、そうですね。サルギナくんなら、勝てますね」
「当然っ」
それが強がりである事がラクーンには解っていた。何時もより無駄に明るく、肩に力が入っている。恐らく、クルスの実力を一番間近で垣間見たサルギナだからこそ、その実力差を感じ取っているのだろう。サルギナはクルスに勝てない。何故だか解らないが、ラクーンはそう確信してしまった。それでもサルギナに頼る他ないのだ。
倒せなくてもいい、スクライドが勝つまで耐えてくれるならそれでいいのだ。
◆
この辺りで一番高い木の枝から蓮はスクライド側の様子を探っていた。闇の中に溶け込むように、その身を隠して慎重に見渡す。
恐らく、ここは防衛線なのだろう。いくつかの隊が前線で辺りを警戒しているが自分には気付いていない。それで防衛線を名乗るものだから鼻でも笑えそうになかった。
その護っているのか護っていないのか解らない防衛兵の後ろには、よく見た顔がある。
領政官のラクーンに、女好きという噂のサルギナ。何やら談笑しているが、その傍らには拳が潰れた紅葉が寝ている。あの紅葉がその身体に傷を負っている事には少々驚いたが、今の自分には関係ない。自分が探しているのは樹楊の姿だ。
「……やっぱり、いない」
どうやら本当にダラス兵に捕まったらしい。
護衛として向かったスイだかサイだか解らないが、役に立たないにもほどがある。
樹楊が捕まったのであればこうしてはいられない。今すぐにでも救出をしなければ。
蓮は警戒を怠らないまま身を引くように下がったのだが、その気配に気付いている者が一人だけいたようだ。
「やはり、蓮さまでしたか」
蓮はその声に驚く事なく、視線だけを声の方へ向けた。その声はよく知っている。
「なに?」
二本隣りの木の枝からこちらを見ていたのはイルラカだった。身を低く構え、手にはスローイングナイフが握られているが、すぐに太腿に巻きつけてあるホルダーに収める。どうやら交戦をしに来たわけじゃないらしい。何かの気配に気付いて来ただけのようだ。
そう言えばこのイルラカという者が、気配に敏感な紅葉をも上回る察知能力の持ち主であり、気配を殺す事が得意である自分をも上回るほど、自分を無に出来る者だった事を思い出す。それは狩猟民族であったから自然と付いた能力なのだろう。
イルラカが蓮に寄ろうと足を屈伸させた瞬間、その身体の周りに数十の剣が囲む。見れば、蓮が警戒をしている目を向けてきていた。
「近づかないで……」
「蓮さま、私は何もっ」
イルラカの言葉すら拒絶するように、蓮はまた数十の剣をイルラカの周りに出現させる。身体は傷付けていない。ただ、その身体を数センチでも動かせば切っ先が皮膚に刺さるだろう。
近付く事も許されないイルラカはぐっと言葉を飲むが、諦めたように力を抜き、再度蓮の眼を見つめる。
「蓮さま、赤麗に戻ってきて下さい」
「なんで? 私は反逆者。……アゲハは私を殺そうとしているはず」
「確かに蓮さまは反逆をされました。ですが、その件については樹楊さまと……今は逃亡されましたがサラさんがっ」
「サラ? ああ、あの緑目の……。でも私には関係ない。それに……」
蓮は微かに悲しそうな瞳を見せると小さく呟く。
「きょーくんはダラスに捕らえられているんでしょ?」
それだけ言うとイルラカを刃の牢獄から解放してやり、身を翻す。イルラカの相手をしている場合でもない。時は一刻を争うのだ。急がないといけない。
この場を離れようとした蓮だが、それをイルラカの言葉が止める。
「その情報をドコで仕入れたのかは解り兼ねますが、私が得た情報によれば樹楊さまはダラス兵との交戦中に崖から転落し、大陸を縦断する河に落ちたとの事です。私達もそれ以上の情報を得てはいませんが、生存確率は極めて低いと……」
拳を握って震えるイルラカだが、蓮は何も言わずにこの場を去った。
自分が得た情報とイルラカが得た情報のどちらが正しいなんて、自分では判断出来るわけがない。それならどうするべきか。何を信用すればいいのか。
……それは解りきっている。今の蓮にはちゃんと解っている。
樹楊が生きている事を信じるだけだ。信じて行動し、出来るだけの事を成し遂げるだけだ。絶望を感じるのはその後でいい。その後で考えればいい。今は、樹楊を助けたい。その一心だけを大事にする。
◆
全軍が撤退してきた事を確認してから一時間が過ぎようとしていた頃、ラクーンは本陣に戻っていてもう一度地図を見ていた。目の前には廃墟、左側には荒野。既にここは占拠されていてはいるが、取り戻す気はない。ので×印を。右側には森。ここの防衛線の前に、ありったけのトラップを仕掛けるように命ずるとする。
そしてダラス連邦の本陣は、その森を正面に構えている。それならば、廃墟にも隊を投入する必要がある。しかしそれは拠点を取り戻す為ではなく、ダラス連邦に『進軍しにくい』という考えを持たせる為だ。荒野はがら空きにし、ダラスの拠点や進軍の要にしてあげればいい。そしてスクライドの本陣をこの荒野の前に移し、その情報をダラスへとそれとなく流す。そうすれば、慎重になりながらもここを攻めざるを得ないだろう。
「美味しい餌ですからねぇ。森はトラップだらけ、廃墟は攻めにくい。荒野はがら空きの上、スクライドの本陣が目の前にある。攻めない手はないでしょうね」
ここまでの策はただの賭けにしかすぎない。問題は……。
ラクーンは森に目を移して何度も丸を重ね描く。
もし彼の考えが正確な形で自分に伝わっているとすれば、この展開こそが唯一の勝利への道となる。彼は、軍師である自分がこういう展開を広げる事まで読んで『崖から落ちた』のだ。恐らく、彼が描いたシナリオは『ダラス兵に見付かれば終わり』であり『自分が行方不明になる事が必要不可欠』であったに違いない。そうでもなければ彼が、知恵の深い彼がわざわざ自分が不利になる場所を選ぶわけがない。
ラクーンは満足気に微笑み、椅子に深く座ると俄然美味しく感じるコーヒーを飲んで感嘆を漏らす。
「あとは……。タイミングとこちらがどこまで耐えられるか。ですよね、樹楊くん」
彼が考える事は突拍子もなく、解り辛い。だが『その身を犠牲にしてまで』作り上げてくれた勝利への道だ。必ず成功させてみせる。
まさかの、本当にまさかの展開に満足したラクーンがお気に入りのクラシックを鼻で歌っていると、そこにサルギナが現れる。どうやらコーヒーを飲みに来たらしく、隣に座るなりくつろぎ始めた。
「何だかご機嫌ですね。何か吉報でも?」
「ええ。サルギナくんには話しておきましょうか。全軍撤退の理由と、これからの作戦を」
ラクーンが本陣を移し、それをダラス連邦に流す事と、荒野、廃墟、森に広げる展開を話すとサルギナは眉間にしわを寄せて反対の意を唱えそうになったが、その理由と樹楊が残した策を告げると大笑いを始めた。
「っくはははははっ。あいつ、大胆な事を考えたもんだ。まさか『崖に落ちる事が目的』だったとは、やってくれる」
「そうでしょう? 私も気付くまで時間が掛かりましたよ。まったく、誰も気付かなかったらどうしたんでしょうか」
追従で笑うラクーンもまんざらではないようだ。笑いすぎて涙を浮かべたサルギナは袖で目を擦り、それでもまだ笑いを零す。
ラクーンは目一杯笑った後、本陣の前に侵攻隊の隊長を担う者を集めて策を告げた。赤麗は紅葉の意識が夢の世界の物になっている為、イルラカがその代役を担う。
「あの、ラクーン領政官。少々尋ねたい事が……」
これからの策を講じられた後、イルラカは控え目な態度でラクーンに詰め寄った。顔色が優れていない。
「何です? 不満な所でもありましたか?」
不満も何も、その策は愚策と呼べるものだろう。
わざわざ撤退させたかと思えば廃墟には囮の隊を投入し、出来るだけ長く侵攻を食い止めろと言い、荒野の拠点の奪還をせずに、しかもその後ろに本陣を構えると言うのだ。明らかに罠です、と言っているのが解るばかりか、それに応じてダラス連邦はそこを突いてくるに違いない。いくら防衛に力を入れても全軍を投入されたら一溜まりもない。
しかしイルラカが尋ねたいという事は、そんな事ではなかった。
「樹楊さまは本当に……」
「……ええ。彼は『崖から落ちました』よ。その行方は依然として不明なままです」
「そ、そうですか……」
イルラカは肩を落として、とぼとぼと持ち場に戻る。それを見たサルギナは憐みの瞳で見送っていた。
「この策、成功しますよね」
「勿論です。ダラス連邦が全軍を進めてくるのが理想ですから、頃合いを見て『白鳳が援軍に来る』とガセネタを流しましょう。そうすれば焦りを感じて早期に潰そうとしてくるはずです」
うんうん、と納得するラクーンには一抹の不安もなかった。これは上手くいくと確信めいている。何せ、彼が導いた展開なのだ。そこに自分の知略をありったけぶつければ、間違いなく成功するだろう。
自分が優れた軍師ではない事は重々承知しているが、誰よりも彼の思惑を察する事には長けていると自負している。だから、これは間違いではない。
それから更に一時間が過ぎた頃、樹楊が崖から落ちて行方が不明になった事が紅葉の耳にも入る。しかし紅葉は一度だけ表情を曇らせただけで「これは戦だから」と割り切った表情を見せた。それが精一杯の強がりである事はイルラカも解っている。流したい涙を殺している事も、解っている。だからこそ、イルラカは何も言わなかった。
そして、ダラス連邦に動きがあった事が通信兵から知らされた。
「各隊、防衛配置に着いて下さい! 作戦通り、紅葉さんは防衛に徹し、イルラカさんは赤麗を引き連れて廃墟へ侵攻! 森にはありったけのトラップを仕掛けて下さい!」
ラクーンの愚かとも言える策に兵達は疑惑の念を口にしたが、それでもそれ以外に策がない事と、ラクーンが最後に言い放った『秘策があります』と、その言葉を信じて配置に着く。
それと同時に現本陣を撤去し、荒野の後ろへと移動を開始した。あとは各所に配置した通信兵の報告を受け、ダラスの動きに合わせてガセネタを流すタイミングを計るだけだ。このタイミングが重要。間違えてはならない。
ラクーンは移動する中、夜空に輝く星を眺めて明日が晴れである事に満面の笑みを浮かべる。撤退命令を出していたミゼリアが帰ってきてはいないが、戻ってくる事はないのだろう。