第二十五章 〜戦前の花〜
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樹楊がラファエロと蓮に会っている頃、サルギナはラクーンの部屋でリラックスしていた。苦手と思っていた相手であるラクーンと二人きりになってコーヒーを飲むなんて、考えた事もなかったが今は気にもしていない。それどころか興味さえある。
そのラクーンはサラの逃亡に頭を抱えていたが、トイレから帰って来ると忘れたかのように笑顔に戻っていた。考えるのは好きでも、悩むのは嫌いらしい。今もこうしてクッキーをさくさくと食べている。
「ところで、聖緑世徒の事なんですが」
「はい、それがどうかしましたか?」
尋ねたサルギナは一度コーヒーを口にしてラクーンの前にあるフィルムに目を向けた。計六枚のフィルムの一番のフィルムには自分がまとめた解読が記入されている。ラクーンはその内容を皆に報告しなかったのだ。
「良かったんですか? 聖緑世徒は紅葉、蓮、オルカの三名だけではないでしょう? それにサラと同等の人間がいるのに」
「構いませんよ。他の者達はこのソリュートゲニア大陸にはいないのですから。私達には関係のない事です。他の問題は他の問題。彼らに知らせる必要などありません。アナタも忘れて下さい」
楽観的に言うラクーンに首肯するサルギナ。
確かに自分達には関係のない事だ。それに、他の聖緑世徒が何処の大陸に居るかも解らないのが殆どだ。この大陸に居ない事だけは確実なのだが。
天草創樹、笹岡陽、木上シン、黒咲マナト、一ノ宮一葉という聖緑世徒。
そしてこの者達の頂点に立つ、サラと同等の人間である鷺宮ヒナタ。ヒナタとは日向とも書き、全てを照らす太陽なる存在であり、影の存在である黒咲マナトが護るべき存在。この他にも聖緑世徒はいるのかも知れないが、調べる術はない。
ラクーンはフィルムを纏めるとファイルの中に収めた。本当に気にしていないのだろう。サルギナとてそれは同じだ。今は目先の事を考えるだけ。
「ジルフード……さまにはこの事は言わなくても?」
「構いません。余計な口出し――いやいや、心配をかけたくないので」
言い直したがしっかりと聞こえた。
ラクーンは相当ジルフードが嫌なのだろう。まぁ、サラに関する事を告げたところで一笑されるのは目に見えている。取り合ってもくれないだろう。
問題なのはヒーリング・ジェイムの研究なのだが、ラクーンは今まで通り続けさせると言う。何でも「可能性があるかもしれない」らしい。創世千書には木人やそれに準ずる存在以外には適応されないとあるが、諦めきれないのだろう。もしかすると、何か別の使い道があるかも知れない。
サルギナはコーヒーのお代りを要求し、大粒の雪が降る外を眺めた。
◆
蓮と会った次の日。
樹楊はベッドの上で気分悪く目覚めた。
何も出来なかった自分が嫌だ。全てを投げ出したい。他の地にでも行って一からやり直したいとも考えている。しかし、ニコの顔を思い浮かべるとそんな事は出来そうにもない。何故、自分にはこんなにも足枷があるのだろうか。
毛布を頭から被って身を丸める。静寂だけが隣に居るこの室内では、自分の心臓の音さえもうるさく感じた。そんな樹楊を、通信機が呼ぶ。
時計を見れば時刻は既に昼を越えていた。長い事眠っていたらしい。早起きが自分の生活リズムだというのに、大分調子が狂っているようだ。
もそもそと動いて通信機を取ると、
「こっちがいいかな? ……いやいや、でも。うーん……」
発信者は樹楊が通話を開始した事に気付いていないらしく、何かに迷う言葉をつらつらと並べていた。やけに真剣なのだが、まさかその声を聞かせる為に通信を試みたわけではあるまい。
「そっちがいいんじゃーねーっすか?」
「そ、そうか? やっぱりこっちの方が――――うわぁぁ! 何だお前っ。通話を始めたんなら最初に言え!」
適当に返してみた樹楊に驚いた発信者はミゼリアだった。
「最初も何も、掛けてきたのはミゼリンじゃねーっすか。どうしたっすか?」
「う、うん。まぁ、その何だ。今日は目覚めが良くてな。朝にトーストを食べたんだが、コーヒーが切れていてだな。代わりに紅茶を飲んだんだがお前は暇か?」
「ミゼリンが紅茶を飲まなくても俺は暇ですけど」
まったく、何の用なのか。ミゼリアは通信機の向こうで何やら慌てていて、何やら『今日』という単語を何度も繰り返し口にしている。服があーだこーだ、お腹が空いただとか統一性のない事ばかり。しかし樹楊はミゼリアが伝えたい用件を何となくだが解った。
「ミゼリン」
「なっ何だ? なな、何か用なのか?」
用があるのはそっちだろ、と思いつつ嘆息して手を差し伸べてやる。
「今日、暇っすか? 俺、めっちゃ暇なんでたまにはミゼリンと遊ぼうかと思ったんっすけど」
すると、ガゴっという音が耳を突き刺してきた。恐らく、いや確実に通信機を床に落としたのだろう。次いで慌てる声やら何かを倒した音、布を破るような音も聞こえてくる。そして騒がしさ消えた後、息切れしているミゼリアが答えてきた。
「ひ、暇ではないが、お前がそう言うなら仕方ないっ。少しだけなら付き合ってやるから、その、何だっ。ちゃんと迎えに来いっ」
「解ってますって。俺はこれからシャワー浴びるんで、そうっすね。ここからミゼリンの家までは……うん。二時間後に迎えに行きます」
「わ、解った。シャワー浴びるまで待ってろ。じゃあ」
シャワーを浴びるまで待ってろ、って。二時間後って約束したのに一体何時間浴びる気なのだろうか。通信を終えた樹楊の心は少しだけ軽くなっていた。何だか子供の頃を思い出す。ミゼリアにはよく苛められて泣いていたが、嫌いではなかった。自分を馬鹿にする奴から護ってくれたし、面倒見も良かった。きっとミゼリアは落ち込んでいる自分を気遣ってくれたのだろう。
「さーってと。シャワーでも浴びますか」
そして二時間後のミゼリアの家の前。家、というより館と呼んだ方が正しいのだろう。大きく重厚な鉄門の中には噴水があり、一期の初めに薄紅の花弁を散らせる桜の木が歩道の両脇に所狭しと立ち並び、敷地内には本館と別館がある。そう、ミゼリアは生粋のお嬢様なのだ。しかし当主は兄である為、政略結婚の概念を持たないセレア家に生まれたミゼリアは好き勝手に生きてきたのだ。そうは言っても遊んで生きてきたわけではなく、既に故人となってしまってはいるが上将軍であった父を准えるかのように生きてき、それはセレア家にとっても誇りともなっている。
樹楊は鉄門の傍にあるオブジェクトに背を預けて座っていた。約束の時間まであと五分。珍しく遅刻をしてはいない。重々しく開かれた鉄門から出てきたミゼリアも、遅刻をしない樹楊に驚いた表情を見せたがすぐに微笑んだ。
「何だ、珍しいな。もう少し遅れると思っていたぞ?」
「仕事ならそうしますが、女の子を待たせるわけにはいかんでしょう? それよりもミゼリン。上流階級には相応しくない格好ですね?」
ミゼリアは真っ白なハーフコートを着てロングブーツを履き、髪は綺麗に櫛を入れられていた。短めのスカートから伸びる足には網タイツ。化粧も薄くだが施されている。普段とはまるで別人。少し気が強そうだが、微笑めば優しいお姉さんのようでもある。
「へ、変か? 自分ではよく解らん」
「似合ってますよ。何処の神話から飛び出した女神かと思いました」
「ははっ。口が上手いな、お前は」
棘がない笑みを見せるミゼリアに樹楊は手を腰に添えて半身になる。そして肘を突き出し、
「今日はデートといきますか。オーケーなら手を」
一瞬焦りを見せたミゼリアだが樹楊の眼を見ると素直に従う。樹楊が腕で作る輪に手を滑り込ませて歩を進めた。向かう先は特に決めているわけではない。しかし樹楊は東地区にある繁華街へと向かった。そこは年頃の男女のメッカでもある地域であり、兵士が向かうような場所ではない。だからこそ、だ。
一人では向かう気が起きなくとも女性を連れていればその気も出てくる。今日は目一杯遊ぶ気なのだから。
その東地区である、メイリア大通りに連れて来られたミゼリアは左右へと忙しく視線を走らせていた。人、人、人で埋め尽くされた繁華街は異界にも見えているのだろう。その大半が若い男女であり、流行りの服を纏って楽しそうに歩いている。
建ち並ぶビルも大きく、家庭用品や大工用品が売られていない事は一目で解る。
「な、なぁ。私、場違いじゃないのか? 私みたいな年増が来るのは……何て言うか犯罪じゃないのか?」
「なーに言ってるんすか、ミゼリン。全然違和感ないですって。確かにこの地域の年齢層は俺くらいっすけど、ミゼリンはこの中でも輝いてますって。ショートケーキの苺みたいな?」
すっかり怖気づいていたミゼリアも、指を立てて説く樹楊の言葉に少しは落ち着きを取り戻したようで、しかしまだ顔が強張っている。行き交う人々もミゼリアの端正な容姿には目を奪われているのだが、当人は気付いてもいない。
これじゃあ楽しめないかもな、と危惧した樹楊。とんでもない事を言い出す。
「やっぱ、ミゼリンは確かに浮いてるかも知れないっすね」
「そうだろう? やっぱり私は――」
「うんうん。ケーキの上の苺は際立ってしまいますからねー。見て下さい、こいつらのきったねー姿。食い散らかしたケーキみたいでしょ? こんな中じゃ目立つってもんっすよ」
そこら辺の男女を指差して「あっはっは」と笑う樹楊に氷像のように固まってしまうミゼリア。周囲は当然、殺意の眼を樹楊に向けるわけで。
「ば、馬鹿かお前は! 逃げるぞっ」
「おーけい、小隊長っ」
樹楊はミゼリアの手を取ると、今にも襲いかかって来そうな群衆を掻き分けて走り出す。後ろから「ちょっと待て」だの「何か踏んだ」だの聞こえてくるが全て無視。何処を目指すわけでもなく、ただ適当に走る。樹楊らに突っ込まれる人々は怪訝そうにしていたが、そんな事だって関係ない。今度ここに来るのはいつになるか解らない事だし。
走りまくった挙句、とあるビルに入った二人は壁に背を預けて乱れた呼吸を整えた。常人であれば既に倒れている距離を倍近く走る事が出来たのは、体力も要求される兵士であるからなのだろう。
「ったく、見知らぬ人達に向って暴言を吐くとは、何を考えているんだお前はっ」
「っはははは。面白くなかったすか? みーんな、俺達の事を一般人だと思ってるんすよ? 国の為、もう少しでダラスとの大戦を控えた兵士だとは思ってないんすよ。何か面白ぇじゃねーっすか。ちょっとでも、一般人になれた気がして」
コートのボタンを開けて手団扇をしていたミゼリアは動きをピタリと止めて周りを見回した。左右見回す限りの人々。そこには笑顔しかない。明日を保障されているわけではないが、それでも戦争には関係のない人達。ミゼリアは微笑むが、悲しそうにもしていた。
「いい顔をしているな。私も幼い頃、選択を変えればこの者達のように笑えたのだろうか」
「多分、そうなんでしょうね」
少し羨ましいな、と視線を落とすミゼリア。服の上から傷を押さえるように手を添えてガラスに映る姿を見ていた。自分の過去を見ているのだろうか、それとも未来? よくは解らないが、今すべき事は落ち込む事ではない。
樹楊はミゼリアの手を掴むと、太々しく笑った。
「ですから、今日は一般人になりましょう。思いっきり遊んで、笑って美味いモン食って……。兵士である俺達だから、今この時を遊び倒しましょうよ。何を羨んでも、憎んでも後悔しても、俺達はどうしても兵士なんです。だからこそこいつらより楽しめる時間があるんですよ。自分が決めた道を……大切にしましょう」
それはミゼリアにだけではなく、自分にも言い聞かせた言葉だった。自分の決めた道に後悔をする暇があるなら歩こう。今更悔やんでも仕方のない事。自分は誰が何を言っても兵士なんだ。だからそれを真正面から受け止めて、それでも笑って暮らせるように生きよう、と。
ミゼリアにも樹楊の言葉が届いたらしく、上品な笑みを浮かべると握られていた手を握り返す。何かが吹っ切れたらしく、その表情に悲しみの欠片も見当たらない。
「よし、行くかっ」
「あー……その前に、ミゼリン。どうせならこの場に合った言葉使いをしてみたらどうっすか?」
「言葉……。確かに私の言葉は固いと言われるが、どうすれば良いのだ?」
「うーん、そうっすね。さっきの『よし、行くか』を『ねぇ、行こっ』に変えるところから始めてみては?」
口を難しそうに結ぶミゼリアだが、意を決すると深く頷いて大きく息を吸った。
「ね、ねぇ、い、いいいいここここっ」
「なーに言ってるんすか。じゃあ『私、ミゼリン。今日はデートしに来たのっ』てのは?」
ミゼリアの顔は徐々に赤みを増し、身体も硬くなり始める。それを樹楊は楽しそうに見ていた。いや、実際楽しい。物凄く。
「わ、わた、わたしゃ、み……ミゼリっン。きょ、きょーはでっでででーとしにきた、ぞっ――って、ミゼリンじゃないっ。私はミゼリアだ!」
「くっはははははははは! いい調子じゃねーっすか、めっちゃ可愛らしいっすよ、ホント」
「からかったなっ。そこに直れ! 上官を馬鹿にす――」
悔しそうに怒声を上げるミゼリアの言葉を遮るのは、樹楊のたった一本の指だった。樹楊は人差し指をミゼリアの鼻頭に軽く押し当て、屈託のない、しかし悪ガキのように歯を見せて微笑む。
ミゼリアは先程の怒りは何処に行ったのか、きょとんとして目をぱちくりさせていた。周囲の人々は痴話喧嘩を見るように、通り過ぎる際に目を向けてくる。
「ミゼリン?」
「な、何だっ」
「今日は俺の上官じゃねーです。ただ一人の女性っす」
呆然とするミゼリアの返答を待つ気もない樹楊は身を翻すと、早速行き場所を探し始める。遊びたいのは山々だが、先ずは空腹を満たしたい。ダウナーな自分から立ち直った所為か餌を与えられていない腹の虫も元気に暴れている。
きょろきょろする樹楊の腕。兵士とは程遠い細い腕にミゼリアはするっと手を忍び込ませてしっかりと絡ませる。頬は微かな朱を差しているが、まんざらでもなさそうだ。
「ちゃんとエスコートするんだぞ? 私はこれでもお嬢なんだっ」
「はいはい、解ってますよ」
本人は解っていないようだが、纏っているその雰囲気は上流階級そのもの。歩き方から一つ一つの仕草には気品があり、何気ない顔の中に光る瞳には力強さが込められている。その事を伝えても本人は首を傾げるだろう。だから、
「お嬢なら『ごめんあそばせ』くらい言わないと」
「言うかっ」
からかっておく事にする。
◆
キラキの樹海。
南西のから入り、少しばかり進むと拓けた場所に出る事が出来る。そこの一本の大木には花束と棒付きの飴が数本備えられていた。太陽の光を受け、さざ波のような優しい風に寂しそうに揺れている花。
アギはここ、ゼクトが命を落とした場所に真っ白な花束を手に訪れていた。プライベートである以上、誰かを連れてくる気はなかったがツキがどうしてもと言うので仕方なく連れて来ている。ここは安全とは言えない為、警戒をする必要もある。
アギは周囲に気を配り、何者もいない事を確認すると供え物の前に膝を着いて持ってきた花束をそこの一部にする。そして片膝を着いたまま、その上に腕を置いて目を伏せ、軽く頭を下げた。
ゼクトには恩がある。
自分が死地に陥った時、樹楊と一緒に救援に来てくれたのだ。スクライドの皆は、あのぶっきら棒な態度に煙たがっていたが、アギはそうは思わない。確かに樹楊ばりに面倒くさがる一面を持ってはいるが、仲間の命を大切にする子だと思っていた。
だからなのだろう。樹楊の命を護ったのは。
「アギ小隊長。おいらはゼクトって人がよく解んないけどさ……」
「うん、どうしたんだ?」
ツキはじんわりと涙を浮かべると誤魔化すように、袖でそれを拭う。スクライドで買ってきた棒付きの飴を五本ほど供えると、ぐっと噛み締めていた唇を開いた。
「やっぱ、誰かが死んじゃうと悲しいよ。でもこの人は、にいちゃんを護って死んでいったんだよね?」
「……そうだね。この方はキョウを護って命を落としたんだよ」
「……うん、やっぱそうだよな。死ぬなら、おいらも誰かを護って死にたい。ゼクトは凄いな。ちゃんと護って死んだんだもんな。うん、凄い」
まだ幼いツキにも死がどんなものであるのか理解出来ているようで、アギは安心した。一般の、兵士でもない人々には兵士の死に方を理解出来ないのかもしれない。誰かの為に命を落とす事は、自己犠牲であり同時に自己満足でもある。残された者は悲しみ、護られた者は自分を卑下し激しく攻めるだろう。とても褒められた事ではないのだ。
しかし兵士となれば、違う。
誰かを護る事は、自分の気持ちを託し、そしてその者の未来を紡ぐ事なのだ。それが自己満足でも、その想いには価値がある。何にも代えがたいほどの価値が。
そして護られた者はその想いを真正面から受け止めて、少しでも長く、出来る限り生き延びる義務が与えられる。
樹楊にはそれが伝わっているだろうか。ゼクトがその全てで紡いだ未来から目を逸らさずにいるだろうか。少なくとも、第三者であるツキにはゼクトの死の意味を理解している。
アギはそれが心配だった。樹楊には重すぎる現実を背負っている。そこにゼクトの死が圧し掛かれば潰れるかもしれない。口や態度が悪いのは、その繊細な心を護る為にあるものだとアギは解っている。
ここで思いに更けても仕方がないと、ツキを連れて帰ろうとした時だった。帰り道の方角に誰かが立っている。それも遠くない距離だ。
気付けなかった。気配も何も感じる事が出来なかった。
アギはツキを後ろに下げると腰に携えている短剣に手を掛ける。が、その者が誰であるか解ると目を見開いて固まってしまった。
ゼクトと同じ深紅の長衣を纏い、真っ白な髪に隠された右目。表情には無しかなく、映すものの全てに価値を見出さないような左目をしている、小さな反逆者だ。
「アナタは……」
アギが驚きの音を細々と漏らすと、後ろから顔を出したツキの顔も強張る。
現れたのは元・赤麗の蓮だったのだ。
蓮はアギに視線を向けるがすぐに興味を失い、それでも歩み寄ってきた。何のつもりなのだろうか、と考えもしたが蓮の目的が解ると警戒を解く。
確かめずとも、蓮はゼクトと同じ部隊に所属していた仲間であり友なのだ。手には、そこら辺でむしり取ったような一輪の青い花。
「……退いてくれる?」
供え物の前に突っ立ているアギに蓮は首を傾げて訊く。やはり争う気はないらしく、ただ純粋に喪に服しに来たのだろう。殺気が皆無の蓮の存在は儚く、病弱な少女を思わせた。
アギは低頭すると立ち位置を変えて、花を備え終えた蓮に尋ねる。
「知っていたんですか?」
「……きょーくんがゼクトの剣を持ってたから、調べた」
しばらくの間、無言のままに一点を見続ける蓮の瞳に何が映っているのだろうか。涙を流す様子も見受けられないし、何か言葉を掛けるわけでもない。ただ、じっと供えられている花束を見つめていた。
樹楊に会った事を仄めかす蓮の言葉が気になったが、追及はしないでおこう。どうやって連絡を取ったのかは気になるところだが、今聞くのは無礼だ。とアギは言葉を飲み込む。
沈黙する蓮の肩に小鳥が止まり歌を歌い出す。すると蓮は肩の小鳥を乗せたまま、その存在を無視するかのように身を翻した。長衣のポケットに手を突っ込み、アギ達にも目を向けず歩き出す。掛ける言葉も見付けられないアギだったが、代わりにツキが蓮を呼び止めた。
「アンタは悲しくないのかよ……。仲間が死んじゃったんだぞ?」
蓮は足を止めてゆっくりと振り返って、
「人が死ぬのは当然……。闘えば、その確率は高くなる。……それだけの事」
風が吹けば消えそうなほどのか細い声だったが、ハッキリと聞こえた。声音も酷く落ち着いていて、本当に何も思っていないように聞こえる。ツキはその言葉に腹を立てて前のめりになるが、それをアギは制する。見上げてくるツキに首を振ってやり、蓮に頭を下げた。
何も言わないツキにも興味を持っていない蓮はまた身を翻すと、今度こそ樹海を出ていく。その後ろ姿が、光に消えていく死者のようで悲しさが満ち満ちていた。
「アギ小隊長、何でっ。アイツは!」
「ツキ。あの人は悲しんでないとは言っていないよ。きっと誰よりも泣きたいのは蓮さんなんだよ」
納得がいかないツキはつまらなそうにそっぽを向くが、アギはその頭を撫でてやる。そして蓮が備えた花を見た。その花は『ビジャク』という、断崖絶壁の高地に咲く花であり『死にゆく友へ』という花言葉を持つ。百年以上も前に戦人が戦死した友へ最愛を込めて贈る花としてポピュラーだったのだが、今となっては廃れた風習となっている。しかし蓮は知っていたのだろう。
◆
日も落ち始めた頃、樹楊とミゼリアはメイリア大通りから西へ外れた場所に開かれている大きなバーに来ていた。店内はだだっ広くて二階席もあり、一階席は既に客で埋め尽くされていた。一階のスペースを四分の一を占めるのは舞台であり、今は誰もいない。店内の灯りは卓上ランプのみで頼りないが、どうにもこうにも騒がしい。店自体は上品なのだが客層はそれに相応しくない。
この上品なんだか下品なんだか訳の解らない店の二階席、そこから一階席と舞台が良く見える位置に樹楊らは座っていた。ミゼリアは物珍しそうに辺りを見回して手に持つカクテルを飲む事さえ忘れている。
「なあ、ここはよく来るのか?」
「いーや。今日が初めてっすけど?」
その割には落ち着き払っている樹楊は既に三杯目の酒を飲み干した。淡いオレンジの灯りが互いの姿を隠すように照らし、ムードを盛り上げる。その役目を持っているのだが、生憎店内は安いだけが取り柄の酒場のような騒がしさだ。
夜景が綺麗なバーでうっとり、なんてシチュエーションを求めるなら帰った方がいいだろう。
「何でお前はそんなに落ち着いていられるのだ? 私は、何だか落ち着かん」
「何事も順応性ですって」
と、適当にあしらうと時計を確認する樹楊。
今日、遊んでいる中で偶然にも耳にした情報によれば、あと少しで目的のものが拝めるはず。
鶏肉の串焼きをもぐもぐ食べているミゼリアは未だに落ち着かない様子で、租借しながらも辺りを見回す。しかし他の来客はこの雰囲気に慣れているのか他人を気にする様子もない。ますます怪訝そうな顔つきになるミゼリアは鼻歌混じりに舞台を見下ろす樹楊を見ていた。そしてグラスを手に取ると、卓上ランプの灯りが唐突に消える。
「お? 何だ、故障――」
卓上ランプが消えたのは樹楊達の席だけではなく、店内全席のランプが消えている。焦りに焦りまくるミゼリアだが、樹楊はやはり落ち着いていた。
「ミゼリン、始まるっすよ」
「な、何がっ?」
「舞台を見ていて下さい。きっとイイもんが見られますって」
ミゼリアが返答する間もなく店内は歓声と拍手で包まれ、次いで舞台にスポットライトが当てられる。まるでこの時を待っていたかのように歓声は次第に大きくなり、舞台の上に一人の女性が現れるとその声は熱狂的なまでに膨れ上がる。まるで勝鬨を上げる兵士のようだ。そしてその全ての歓声を受け止めるのは舞台に上がっている一人の女性。
華奢な身体を纏うのは空色のドレスで、白い手袋で肘まで隠している。
その女性が手をすっと上げると、凶暴なまでに張り上げられていた歓声は治まっていった。それは、猛獣を宥める妖精のように。
「これは一体……」
「いいから耳を澄まして下さい。世界……変わりますよ」
周りに気遣って潜めた声で返す樹楊の目は、その女性ただ一点を見つめている。それが当たり前のように、周囲の客もその女性だけを見ていた。彼女が独裁者であれば、その傘下に入る者達は決して謀反を起こしはしないだろう。健全で勇ましくもあり、優しくもあるその立ち姿。ミゼリアは樹楊に言われた通り耳を澄まして目を向ける。
そして全ての音が無くなると舞台の女性はゆっくりと深く息を吸い、第一声は聴き手の思考を止め、耳を奪い、目を向けさせ、幻想的な世界に引き摺り込むほどの歌声だった。
彼女が歌えば暴風はそよ風に、囁けば泥水も聖水になるかと思ってしまうだろう。しかし彼女が悲しみの歌を漏らすのであれば、楽園さえも止まない雨に包まれてしまうのではないか。彼女の歌声は、聴く者の全てを自分の世界へと誘う魅力的な質を持っていた。ハスキーでありながら高音が澄んでいて、震える声は思わず涙してしまう。
彼女は計八曲を歌い上げ、その全ての曲で観客を癒し、悲しませて舞台を降りた。全員がその余韻に浸っているのか、当初のように雑な騒ぎ方はせず大人しいものだ。そしてこのテーブル、落ち着きのなかったミゼリアもその一部であり、手にはグラスを持ったままで口を付けていない。そのミゼリアが奇跡を目の当たりにしたかのように樹楊に向き直った。
「どうでした? 結構いいモンでしょ?」
「結構どころじゃないっ。何だ彼女は。お前は彼女がここに来る事を知っていたのか? そもそも何で彼女を知っている? 鶏肉をもちゃもちゃしてる場合じゃないぞっ」
前のめりになるミゼリアを樹楊は落ち着かせてからグラスを傾けると、再度舞台に目を降ろす。すると歌を披露した女性が樹楊に手を振った。それに自然と返す樹楊。ミゼリアはニワトリのような動きで樹楊と彼女を交互に見る。
「彼女はフェイリスっていう、まぁ歌姫みたいなモンでして色んな土地を回っているんですよ。フェイリスがここに来るって知ったのは偶然でして、俺が彼女を知ったのは旅をしていた頃、それも偶然に知っただけです」
ちなみに彼女と俺は何の面識もありません、と告げて鶏肉の串焼きを頬張った。ミゼリアが疑いの目を向けてくるが、本当に面識はない。手を振ったのだって、客に対するサービスってやつなのだろう。
それに。
樹楊にとってはサラの歌声の方がよっぽど好きなのだ。感動も何もない歌声だが、そこには安らぎがある。犯してきた罪さえも全て流してくれるような優しさがある。旅をしていた頃にフェイリスの声を聴いた時は確かに感動して鼻歌まで歌っていた。しかし今は感心はしても感動はしない。フェイリスには悪いが、その程度の歌でしかなかった。
そんな樹楊とは真逆にミゼリアの機嫌は一気に良くなり、それは店を出ても変わる事がなかった。旅をしていた時の自分と同じく鼻歌を歌っている。
「満足していただけましたか?」
「勿論だっ。あんなに素晴らしい歌を聴けるとは、この街も捨てたもんじゃないな」
昼間の人混みが余程気に喰わなかったのか「最近の若者はなっとらん」などと、笑顔で愚痴を溢している。ミゼリアは二十四歳で中年ではないのだし、見た目も二十歳と言えば通じるものもある。しかし口調や考え方が固い所為でそれも台無しだ。
しかし本当のミゼリアを知る者、少なくとも樹楊とアギは彼女の女らしさというものは解っている。だが、今は言わないでおく。
「さてと、帰りますか」
「そうだな。何時までも楽しさに浸っている場合じゃないしな」
雪がちらつき始め、寒かっただけの世界に暖かさが訪れた。子供じゃあるまいし、雪ごときで喜ぶ樹楊ではないがそれでも微笑ましいものがあった。しかしミゼリアは喜んでいる。綺麗だ、とか言って手の平に雪を乗せて。
樹楊はミゼリアに言いたい事があった。それは間違いなくミゼリアの逆鱗に触れる事だろうけれど、言わずにはいられない。今日のミゼリアを見れば尚更だ。
「ミゼリン、辞任して下さい」
「……え? な、何だ突然」
「ミゼリンは普通の生活をするべきです。今度のダラス連邦との大戦、俺達は高確率で戦死するでしょう。言いたくはありませんが、負け戦のようなモンです。そんな戦、する方が間違ってるんっすよ」
死んでほしくない、ミゼリアには。
普通の女の子に憧れ、普通の楽しみも知らないまま死んでほしくはない。
今日だって普通の楽しみの一部でしかないのだ。ミゼリアは世界を知らな過ぎる。だから、今からでも世界を知ってほしい。それが樹楊の気持ちだった。
ミゼリアは腰に手を添えると口を固く一直線に結び、僅かに眉根を寄せる。そして間もなく、つかつかと歩み寄って来るとあと一歩のところで足を止める。そこから見上げてくるミゼリアは、
「ありがとうな」
微笑んでいた。
てっきり怒号か平手を浴びせられると思っていた樹楊は虚を衝かれて戸惑う。ミゼリアは呆ける樹楊の頭を撫でると、そのまま優しい表情で口を開いた。
「お前の気遣いは素直に嬉しい。私だってこのような日があるなら一般人に戻りたい。けどな、駄目なんだ」
「何が……駄目なんです?」
ミゼリアは雪を落とす空を仰ぎ、
「どうせ死ぬなら戦場で死にたい。誰かを護って死ねるのなら、本望なんだ」
どうしようもなく軍人気質だからな、と屈託のない笑みを見せるミゼリアだが、樹楊には悲しい姿にしか映らなかった。色んな痛みを知っているのに楽しさを知らないミゼリア。彼女はどうしてそこまで戦地にこだわるのか。
「それにお前も言っていたじゃないか。『自分が決めた道を大切に』って」
「そうっすけど、でも」
「でもじゃない。私は私の道を大切にする。その先に何があっても、後悔はないんだ。折角、今日という日にお前がそれを気付かせてくれたのに、それなのにお前がこの気持ちを揺るがすのはやめてくれ。私はお前の言葉なら、何でも頷きそうな気がして怖いんだ」
語尾を小さくするミゼリアの顔は暗色に落ちていた。
誰よりも真っ直ぐで、誰よりも不器用な自分の小隊長。戦地では苦渋しか味わう事しか出来なかった、才に恵まれないミゼリア。ここまでの道程は遠回りだったのだろう。それでもミゼリアは真っすぐを見ている。自分の言葉を素直に受け止め、濁りのない瞳で。
樹楊は落ちているミゼリアの肩を叩くと、
「ミゼリンが死ぬのはよぼよぼの婆さんになってからです」
「だから私はっ」
「戦地で死ぬのは俺が許しません。絶対、生きてスクライドの地を踏んで下さい」
揺るがない瞳で厳しい口調の樹楊にミゼリアは嬉しそうに頷くと、腕を組んで帰路を踏む。鼻歌は勿論フェイリスの歌で、楽しそうに弾んでいた。そのメロディーは心地良く、客は樹楊一人だけ。
「ミゼリン、強くなりましたね」
「お前は弱くなったな? らしくないぞ?」
針を含む笑みにムッとした樹楊。
「そう言えば、俺の言葉なら何でも頷くって本当っすか?」
「ちがっ、それはだな。何と言うか……頷きそうって言うか、ふ、深い意味はない!」
「ふーん。じゃ、試しに言ってみますが、ストリップを披露し――」
「するかっ!」
拳骨を喰らわせながら頬を赤らめるミゼリア。
口を尖らせてはいるものの、イマイチ迫力に欠けるのは恥ずかしがっているからなのだろう。小惑星が追突したかのような衝撃を頭に喰らった樹楊は頭を抱え込み、だが楽しそうでもある。
この小隊長を死なせはしない。少なくとも自分の目の前では、自分を護らせて死なせはしない。あんな思いはもう沢山だ。それはミゼリアも同じ気持ちなのだろう。それが解る。
絶対、死なせはしない。
固く誓う思いは、二つ目の誓い。落ちてくる拳骨も二つ目で勿論固かった。
◆
クルード城内にあるオルカの部屋には蓮も居た。
オルカと一緒にケーキをパクついている。買ってきたケーキは大きめのホールケーキだったはずなのだが、二人の受け皿に乗っているケーキが最後のようでラファエロの分はない。
オルカのおやつを買ってくるだけで財布が軽くなるというのに、どうやらこの蓮もオルカに負けないほどの大喰らいらしく、ラファエロの財布は寂しくなる一方だ。しかもこの二人、先程から目で「足りない」と訴えてきているのだ。それだけは勘弁してほしいラファエロ。視線を合わせようとはせず、書類に目を通すふりをするだけで精一杯になっている。
「蓮ちゃん、お腹空いたね」
「……ん」
まるで何も食べてないような会話だが、朝食もしっかり摂ったし昼食も夕飯も摂っている。そして今はおやつを食べ終えたばかりだ。それでもじとーっとした湿っぽい視線を送ってくるもんだから性質が悪い。
「オルカさまっ」
「うん、今度はチョコレートケーキがいいな」
「い、いや。ケーキの事じゃなくてですね」
オルカは煌めかせた瞳を濁らせ、つまならそうに頬を膨らませる。これだけ我儘なのも自分が甘やかし過ぎた所為なのだろうか。嘆息をしかけたラファエロだが、事を思い出すと早速切り出す。
「あと三日後、ダラスとスクライドの大戦が起きるんですよ?」
「うん知ってるけど、それがどうかした?」
「それが――って」
他人事のようなオルカの反応にラファエロは身を引くと、向かいに座って一生懸命にケーキを食べている蓮を横目で見る。それからアイコンタクトでオルカに伝えようと試みるも、どうやら伝わらないらしく、首を何度も傾げられてしまった。思ってた以上に以心伝心はしていないらしい。
「スクライドはダラスに勝てません。そうなればお兄さんの命だって危ないのですよ? その辺はどうお考えなのですか?」
オルカは目をぱちくりさせ、
「考えてなかった」
てへっと可愛らしく自分の頭を小突いて舌を出すオルカにラファエロは長嘆し、蓮を見た。すると蓮はフォークを咥えたまま首を傾げてくる。誰も何も考えていないらしい。ラファエロは聞いておいて良かったと心底思う。今言わなければ、とんでもない事になっただろう。
「では、私に全て任せて頂きますか?」
「うん、いーよ。でも足が付く事は止めてね?」
「解ってます。ご安心下さい」
ラファエロは席を立つとスイとサイの双子の元へと向かった。その二人を大戦に忍び込ませてダラスの戦力を削らせ、樹楊を陰ながら護衛させる為に。
二人の元までの道程、通信機が鳴り、何かと出てみればオルカにチョコレートケーキを要求される。ついでに買って来て、と。
ついでも何も、城から出る必要もないのに。
ラファエロは重い重い溜め息を口から落とすと、再度鳴る通信機を取った。
発信者は蓮らしく、一言。
「…………わらび餅」