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第二十四章 〜聖緑世徒〜




 雪が降り積もる外を城内にある自室から眺めているオルカの元に、クリアファイルに収めた資料を片手にしたラファエロが嘆息混じりに現れる。ラファエロは連日連夜に及ぶデータ収集に追われていて疲れきっているようだが、そんな事はオルカに関係ない。溜め息を吐かれれば労いの言葉は掛けてあげるが、未だにこの側近がラファエロという名前である事を知らなかった。覚える気がないのだろう。


 そんな事は気にしたら際限がないと把握しているラファエロだが、オルカの傍にある椅子に腰を下ろすともう一度溜め息を吐いてみる。そしてちらっとオルカに視線を投げてみるが、反応なし。という事で今度は空咳をして注意を引いてから長嘆。しかしまだオルカの反応はない。ずっとココアを合間に雪景色を見たままだ。


 そろそろ寂しくなったラファエロ。

「オルカさま、ケーキをお持ちしましたが」


「うん? 食べるっ。苺が乗ったケーキかな?」


 キラキラした瞳を向けてきた。どうやら自分はショートケーキよりも格下扱いらしい。それくらい解っていたつもりだったが悲しくなってくる。だがラファエロはケースの中から苺が乗ったケーキを取り出すと、フォークを添えた皿に乗せて目の前のテーブルに置いてやった。


「オルカさま、少しお時間をよろしいでしょうか? ケーキを食べている間だけでも」


「うん。じゃあケーキ食べ終わるまで待ってて」

「はい。それでは――って、話を聞く気ないじゃないですか」


 突っ込まれた事に喜んだオルカだが、人差し指を立ててくる。この状況から察するに、それが意味するのは「もう一個ケーキが食べたい」って事だろう。厳密に言えば、ラファエロが食べる分のケーキをよこせ。という事だ。

 ラファエロは既に綺麗になったオルカの皿にブルーベリーのレアチーズケーキを乗せると、悔しそうにフォークを噛む。しかしオルカはそのケーキを遠慮なく食べる。まぁ、これもいつもの事だ。


 ラファエロはオルカの口元をじとっとした湿っぽい視線で見つめながら口を開く。


「例の状態ですが、ここ最近不安定なんですよ」

「……うーん、やっぱりかぁ。どうしようかな」

「やはり『メラルライド』の投与を視野に入れなければならないのでは」


 メラルライドとは精神安定剤の一種なのだが、非合法であり副作用が激しいのだ。しかし効力は抜群であり即効性もある。ラファエロは最後の手段とばかりに提案したのだが、オルカは許可しない。これまで何人もの廃人を生んだ薬だけに手を出し辛いのだろう。しかしラファエロは食い下がる。


「このままでは間違いなく壊れますよ。つい先程も発狂してましたし。あの部屋が防呪であるから良いものの、普通の部屋でしたらとっくに壊れてます」


「でもなぁ……。メラルライドを投与されてまともに生きてるのは一割にも満たないんだよ? 何かいい方法探してよ」


 簡単そうに言うが、いい方法なんてものはないに等しいのだ。

 催眠治療を施した時は治療中に術師が殺され、カウンセリングを試みても応じようとはしない。落ち着いている時を見計らっても突拍子もなく狂い出す始末。もはや手に負えない、というのがラファエロの見解なのだがオルカは頑なにメラルライドの投与を認めてはくれない。


 あの防呪部屋も未だ未完成であり、そもそも国王に許可すら貰っていない。いくらオルカが国王の大事な娘だからと言っても限界ってものがある。


 ラファエロは、オルカの「頑張ってねー」というお気楽な声を背に部屋を出るとまた溜め息を吐いて防呪の部屋まで歩を巡らす。確実で安全な方法が無いわけではないのだが、その人物を連れてくるのは不可能だろう。何せ国王の事を殺したいくらいに憎んでいるとの事だ。しかし発狂する彼女を落ち着かせるのは彼が必要。それに変わりはない。


 重く考え込んでいると、白い革張りの扉の前に着いていた。認証番号を打ち込み、大人の胸ほどある南京錠を解錠する。開ける扉は分厚くて重い。床以外の全面に奇妙な凹凸で奇妙な呪符が張り巡らされている、目が痛くなるほどに真っ白な部屋の隅に膝を抱えて蹲る蓮が居た。本人も気にしていないのか忘れているだけなのか、あれほど隠していた右目には何も巻かれてはいない。

 どうやら今は落ち着いているらしい。ぶつぶつと独り言を言っているようだが、攻撃的ではない。一昨日なんかは部屋に入った途端に無数の刃で襲ってきたほどだ。


 しかし気を緩める事が出来ないままラファエロは蓮に近付く。その小さな塊みたいな姿は孤児のようで寂しさが溢れていた。


「……きょーくんはどこ? 会いたい」


 何度も繰り返された質問だ。

 余程会いたいのだろう。無断でスクライドに赴き、サラという女性を連れて来ようとしたほどだ。サラという女性を連れて来れば樹楊も来るらしいのだが、ただの思い込みではないのだろうか、とラファエロは思っている。

 ラファエロは蓮の傍で膝を折ると「もうすぐ会えますよ」と、頭を撫でてやろうと手を伸ばした。しかし、突然。


「触らないで!」


 禍々しい殺気を帯びた白い瞳で睨んでくると、時空から引っ張り出した大剣を薙いで来る。ラファエロはその一薙ぎを後方に跳んで回避すると鉄製の呪符を片手に抗戦の態勢に入った。


「触らないで……触らないで触らないでさわらないでさワらなイで!」


 鬼をも眼力で怯えさせそうな蓮から発せられる殺気は身体をぴりぴりと痛ませる。ラファエロとて蓮に傷を負わされた事はないが、この殺気ばかりは日を追うごとに大きく鋭く、冷たく残酷になっていく。もしスイがこの殺気を浴びていたら戦意喪失どころの話じゃない。確実に自害するだろう。


「蓮さま、どうか落ち着いて下さい。キオウさまは――」

「お前がきょーくんの名前を口にするな! 何も知らないくせに! きょーくんの事何も何も何も!」


「それでは蓮さまはキオウさまの何を知っているのですか?」


 これも何度も繰り返された会話の一つだ。この後、蓮は決まって純白の瞳に呪刑者の証である紋章を浮かべると頭を抱えて発狂し、そして気を失う。聞こえは単純だが、蓮が発狂している時が一番危険度が高いのだ。蓮の発狂は呪いの暴走であり、その呪いの本体が牙を剥けば収集がつかなくなる。そうなれば蓮は廃人となるだろうし、自分も危うい。この部屋がその呪いを抑え込む効果があるとは言え未完成だ。もしこの部屋でも抑えきれないとなれば、その時は。


 ラファエロはポケットに隠し持っているメラルライドの瓶を握り締める。


「あぁ……あ、あっあああぁ、ああっぁあああああああああああああ!」


 大剣を落として頭を潰すように抱える蓮が発する声は人のものではないと言いたい。金切り声のような鳴き声のような断末魔のような、全ての痛みや苦しみを背負う痛々しい声だ。その声を聞いているほうが狂いそうになる。

 喚き散らした蓮が動力を失った機械のように事切れてがっくりと膝を着いたのを見送ったラファエロは、瞬きを何度かするとゆっくりと警戒を解いた。


 この結果も見慣れたものだ。こうして意識を失ってもらえれば手荒な事をせずにいられる。四つん這いになった蓮からは最早殺気の欠片も感じない。少し可哀想な気もするが仕方ないだろう。


 しかしラファエロが一歩足を踏み出そうとした時だった。

 蓮に異変が起きたのは。


 一時的とは言え、心を失ったはずの蓮が俯かせていた顔を上げてくる。その右目には呪刑の紋章が浮き出ていた。虹彩も瞳孔も白に塗り潰され、その上にどす黒くて奇怪な模様。そして蓮が口の片端を釣り上げた時、異変は最終段階に入った。

 通常だった左目が真っ黒に染まりきり、その中で紫色の瞳だけが存在を強く主張してきている。そしてその色と同じ、濃い紫色の霧が蓮に絡み付き始める。真っ白な室内に張り巡らせていた呪符は一枚残らず燃え尽きた。


「呪いに心を喰われましたか……」


 ラファエロは「残念です」と呟くと両手に鉄製の護符を広げ、すっと目を細める。こうなってしまってはもう手遅れだろうと、オルカの許可も得ずに削除対象として蓮に冷たい視線を送った。獣のように四つん這いだった蓮は、何かに糸に吊り上げられる人形のように身体を起こすと戦闘に準じた構えも見せずにだらしなく手をぶらつかせる。その先端にある中指がぴくっと動くと、蓮は前のめりに走り出した。紫の霧はその動きに付いていくように尾を伸ばすが、追いつく事はない。


 瞬き一度も許さないほどのスピードでラファエロの制空権を潰した蓮は、手を伸ばすと顔を荒く掴む。そしてそのまま床に壁に叩きつけた。しかし壁はラファエロの頭を砕くほどの硬度は持ち合わせていない。スポンジのように柔らかく、ラファエロの頭は沈むだけに止まった。


 一瞬の隙を見付けたラファエロ。

 蓮の手を払うとその小さな胸に護符を一枚貼り付け、その表面に二本の指を添える。


「爆式滅葬陣!」


 すると護符はラファエロに応えるように放射状に爆発し、蓮は弾丸のように部屋の隅まで飛ばされた。そこに追撃。片手に二枚ずつ、計四枚の護符を蓮に投げつけると胸の前で数通りの印を組んだ。


「侵食氷蟲」


 投げつけられた護符は蓮の元に辿り着くまでの間に氷の羽虫へと姿を変える。そして蓮の両手両足を貫いた。貫かれた箇所はみるみる内に凍り始め、その浸食は蓮の身体を確実に蝕み、遂には全身を凍らせててしまった。

 蓮は口を薄く明け、白と黒の眼でラファエロを睨んだまま固まってしまう。その姿を見たラファエロは残りの護符を宙に浮かべると再度印を組み、止めの魔法を紡ぐ詠唱を始めた。


『終末を迎えし汝に獄々輪廻を与えん――』


 しかしその詠唱中、蓮を封じる氷が腐った木のようにボロボロと崩れ始める。僅かに出来た穴からは紫の霧が溢れ出し、熔解を始めた。術の効力に自信を持っていただけにラファエロは動揺にも似た驚愕をし、慌てて詠唱を完成させる。


『我が導く風は冥界の愚者により生み出されし災厄っ』


 護符は鉄である事を忘れたかのように砕け、代わりに手のような形の風が生まれる。


「握砕鋼風触手!」


 八本の風の手は際限なく伸びていき、蓮を握り潰そうと五指を大きく広げるのだが、辿り着く前に蓮は氷塊を粉砕して身に纏う霧で応戦。霧は術式の触手に絡むとその腕を捻じり切り、蓮の身体を護った。しかも最初の爆撃を喰らわせたはずなのに、蓮は平然としている。自分が持てる術式の中でも高等な術だというのに、この小さな呪刑者には優しすぎたらしい。それならば仕方無い。せめて最後くらいは無痛のまま殺してあげようと慈悲を持ってやったというのに。


「本当に残念ですね。……でも仕方ありません。アナタが招いた事ですから、地獄の苦痛くらいは覚悟しておいて下さいね?」


 不敵な笑みを浮かべ合う二人が殺気をぶつけ合う間に、オルカが割って入った。先ずラファエロを蹴り飛ばして間髪入れずに蓮の顔を両足で挟み、そしてバック転するように身体をのけ反る。足で挟まれていた蓮は縦回転してそのまま頭から床に激突した。オルカは蓮が反撃に来る前にマウントポジションを取り、ナイフを首に当てる。


「ちょっと落ち着いてもらえるかな?」と蓮に告げ、起き上がったラファエロに視線だけを向けると「キミも落ち着いてね?」


 ラファエロは痛む頭を撫でながら頷くが、蓮に至っては言葉が届いていない様子だ。命を握られているというのに狂人めいた笑みを浮かべている。しかしオルカは動じない。


「樹楊のにいさんは今の蓮ちゃんを受け入れてくれると思う? ボクは思わないなー。今の蓮ちゃん、怖いもん」


 蓮はオルカの言葉を聞くと片手で顔を覆い「ううっ」と小さく呻く。歯が砕けそうなほど強く食い縛り、眉間にシワを寄せる蓮の真黒な蓮の左目は徐々に白さを取り戻し、反対に瞳は元の黒さを取り戻していった。右目に浮かぶ紋章も薄くなり、最終的には元通りの白い瞳になる。その後、蓮は悲しそうに眉根を寄せて口をむずむずとへの字に結ぶ。


「きょーくんに会いたい……」


 それだけの言葉をぽつりと落とすと、疲れきった子供のように眠りに入っていき、静かな寝息を立て始めた。オルカは安全と判断して身体を退かすと、今度はラファエロの元に向かう。怒っていないのは側近であるラファエロには解っていた。オルカが怒る事は少なく、第一、怒っていたら言葉よりも先に手が出る。つまり、何も弁解する暇などなく殺されている、という事だ。


 しかし拳骨を喰らわせてくるオルカ。少しは怒っている――いや、呆れていた。


「何やってんのさ。殺しちゃ駄目でしょ?」


「ですが」

「ですが、じゃない」


 と、再度拳骨を浴びる。これが地味に痛かったりする。

 ラファエロはオルカの命を受けて蓮をベッドに寝かせると、室内に護符を張り巡らせた後、ようやく部屋を出た。部屋の外にはオルカが居て、何故かうとうととし始めている。しかしラファエロが出てきたのに気付くと、目をごしごしと擦って歩き始めた。


「オルカさま、マイペースですね」

「うー。そうでもないよ。ボクは自分のペースを崩したくないだけ」


 それをマイペースと言うのですが、とラファエロは教えてやりもしたが今のオルカには届きそうにもない。仕方無く背に負ぶってやり、自室まで届けようとしている時、何やら開発部の者が慌てながら通り過ぎていった。


「どうしたのでしょうか? 何かトラブルですかね?」

「ああ、アレは『クリムゾン』の研究員だね」

「クリムゾンって、化け物開発のですか?」


 背に居るオルカは小さく頷くとまた目を擦り、欠伸を挟んだ後で口を開く。

「何でもキラキの樹海に放したムカデ君一号が殺されたらしいね」


 その話は聞いた事がある。殺されたのは初耳だが、その巨大ムカデの開発は随分前から耳にしていた。名前もムカデ君一号という間抜けな名前ではなかった気もするが、その獰猛さは聞いている。

 何でも甲殻が鋼のようで食欲は呆れるくらいに旺盛。幼虫の時は幻想的に輝くが、持前の毒は健在で人を死に至らしめるほどらしい。しかし成虫はその幼虫を好んで食し、手に負えないほど凶暴らしく、研究放棄と同時にキラキの樹海に捨てたとの事。


「よくまぁ、そのムカデを殺せる者がいましたね」

「そうだね。並みの人間じゃ歯が立たないから捨てたのに。……でもさ」


 オルカは言葉を切ると、ぎりっと歯を食い縛る。ラファエロはその溢れてくる殺気を背からひしひしと感じ取っていた。その気持ちは解る。自分とて、怒りが溢れてくるほどだ。


「やり方、気に喰わないよ。化け物開発も、それを捨てるのも、何もかも! だから国王はクズなんだよっ」

「オルカさま、ここでそのような事は」


 怒り心頭のオルカにラファエロは潜めた声で注意を促す。オルカが国王の事を嫌っているのは解る。そして王位を剥奪する事を目論んでいる事も解っているし、自身も加担している。自分はクルード王に仕えているのではなく、オルカ個人に仕えている者だ。だからその為に死んでいくなら構わない。

 しかしその反逆の計画が漏れてしまうのだけは避けたいのだ。確実に王位を奪う為にも。


 ラファエロに注意されたオルカは頬を膨らましながらだが、素直に謝ってきた。肩にだらしなく顎を乗せて鼻歌も歌い始める。もし自分が樹楊であればオルカはどんな顔をしているのだろうか。きっと見た事もないくらい、満面の笑みをしているに違いない。


 オルカの幸せを願うラファエロが望むものはクルードの繁栄でもなければ壊滅でもない。ただ、この背に居る女の子に幸せになってほしいだけだ。その為なら誰でも殺そう。国王だろうと、かつての仲間だろうと。


 裏で謀反の計画を着実に描きながら十日が経ち、二十日が過ぎて、気付けば一月が過ぎようとしていた。計画は徐々に輪郭を現し始めて順調とも言えるが、その反面で蓮の精神は砕けていく。それは日を追う毎に。

 一言目には「きょーくん」で、その次の句は会いたい。発狂して暴れる日もあれば穏やかな日もあるが、子供のように部屋の片隅で泣き続ける日もあった。


 そろそろ限界なのだろう。食事もまともに摂っていない所為で、頬骨が見え始めている。流石に心苦しいラファエロはオルカの元に行き、


「キオウさまに会わせる事は叶わないのでしょうか?」


 遠い目で訊くと、生クリームを口の端に付けながら三個目のケーキを忙しく口に運んでいるオルカが目をぱちくりさせて制止し、瞬きをすると口をもぐもぐと動かし始める。余程美味しいケーキなのか、にっこーっと少女らしい笑みを浮かべて。


「いいんじゃない? もうそろそろ限界なんでしょ?」

「あ、あの。キオウさまはスクライドに居るんですよ? そんな簡単に会う事は出来ないのでは?」


 するとオルカは二口ほどケーキを食べ、最後にと残しておいた苺を摘まむと視線だけを向けてくる。


「闇市のスネークを使いなよ。コンタクトくらい取れるでしょ?」


 闇市のスネークと言えば、その世界では有名な人物だと記憶している。そしてクルード国内には闇市に関わっている者がいるのも知っている。オルカはその人物を使って闇市のスネークとコンタクトを取り、樹楊を呼び出せと言った。そんな事くらい、簡単に出来るのだが懸念すべき事がある。


 それは闇市に通ずる者が自分達の勢力に加担してくれるかどうか、である。そして信用に足る人物でなければならない。もしそうでなければオルカの案は却下だ。只でさえ蓮が呪刑者である事は秘密なのだ。それが公になるならまだしも、謀反の計画が表沙汰になってしまっては元も子もない。

 しかし、樹楊を確実にスクライドから呼び出すには他に手がないのも事実。それならばいっその事蓮を諦めるかといっても、それはオルカが許さないだろう。



 ラファエロはオルカの口の端に付いた生クリームを指で拭うと、椅子に深く腰を落として考え込んだ。それを余所にオルカは曖気をして紅茶を美味しそうに飲み始める。時計の針だけが音を支配し始めた時、ラファエロが上体をゆっくりと起こす。生憎、ラファエロは悪戯に無駄な時間を過ごす気など無い。


「仕方ありませんね。私が直接スネークに話を持って行きましょう」

「いいの? あそこにはナーザもいるんだよ?」


 その名前を聞いたラファエロは懐かしむように目を細めて微笑んだ。

 かつての部下であり、死地を共にしてきた仲だった。自分がオルカに仕えるまでは。


「構いませんよ」と、ラファエロはスッと立ち上がり、

「あいつは私には敵いません」


 自信が溢れているラファエロの笑みを見たオルカは「だね」と手を頭の後ろで組んで目を伏せる。そう、負けるわけがない。あのナーザごときに。


 それから二日も経たない内に、ラファエロはスネークが出店している闇市の所在地を突き止め、動き辛い長衣を脱ぎ捨てて灰色のツナギを纏う。そして蓮に一言だけ用件を告げた。すると蓮の眼に生気が戻り、仔犬のようにちょこちょこと、しかし急くように着いてきたのだった。



 ◆



「サラさんと一緒に来て頂けますか?」


 目覚めのコールを鳴らしてきたのはラクーン。

 樹楊は寝惚けた声で返答すると窓の外を眺めて重い空に嘆息し、大きく欠伸をすると隣ですやすや眠っているサラを起こした。


「う……ん。どうしたの?」

「ラクーンが俺と一緒に来いってよ」


 むにゃむにゃするサラは大きな欠伸を手で隠して、樹楊が洗面所から戻るまで外を眺めていた。冷たい水で顔を洗った樹楊はサッパリし、マイペースで着替えを始める。しかしサラはまだ動こうとしない。


「おい、サラ? ラクーンの所に行くぞ」

「う、うん。遅れていくから行ってて」


 それほど急ぐわけでもないし、それよりも元気がなさそうなサラが気になる。治癒の所為で高熱を患ったみたいだが、その熱も随分前に引いたはず。それともまたぶり返したとでもいうのだろうか。

 樹楊が顔を覗き込もうとするとサラは「何でもないよ」と、ほんわかした口調で笑い掛ける。念の為に額に手を当ててみたが平熱で、サラが言う通り心配するような事ではないかもしれない。思えばサラは気分屋だしマイペースだ。下手に気を回す方が野暮ってものだろう。


「んじゃ、先に行くから後でな」

「うん、ばいばい」


 ベッドの上で手をひらひらさせるサラに顔を綻ばせられた樹楊は、外の寒さに身を縮めながらラクーンの家までの道を歩く。

 大戦まであと一か月。兵の皆が思い思いに過ごす中、樹楊は訓練に身を置いていた。何も肉体的な訓練ではない。そんなの短期間で身につくわけないだろう、とは樹楊の考えであり、自分で考えた感覚を研ぎ澄ます訓練をしている。

 それは、自分が持てる武器である『危険察知能力』を伸ばす訓練だ。何も特殊な能力ではなく、小動物が備えているそれと同じ、自分が生き延びる為の能力とも言える。


 しかし自分が成長している実感がない。焦りなどはないどころか、それもそうか、と変に納得してしまってもいる。訓練を始めたばかりで強くなれるなら苦労はないと。


 相変わらず活気が良い朝市の人達と挨拶を交わしながら、それでもラクーンの家だけを目指して歩く中、ニコの頑張っている後姿が見えて、樹楊は少しだけ微笑んだ。元気だけなら朝市の誰にも負けてはいない。口から白い息を吐きだした樹楊の足取りは少しだけ弾んでいた。

 そして着いたラクーンの家には、剣も振れるほどに回復した紅葉とミゼリア、それとラクーンが居て、皆が落ち着いた様子でコーヒーを飲んでいる姿があった。テーブルを囲むように座る中心には、相変わらず笑顔のラクーン。樹楊は空いている席、紅葉の隣に座る。


「よっ、元気そうだな」

「まーね。何としてもダラスとの戦までには間に合わせるわ。それよりも、サラはどうしたの?」


「遅れてくるみたいだけど、調子も良さそうだしすぐに来るだろ」


 ふーん、と大した興味を持たない紅葉とは逆にラクーンとサルギナの顔が少しばかり強張る。ミゼリアはそんな二人を口にカップを付けながら見る。樹楊と紅葉は他愛のない話をして時間を潰すが、一向にサラが来る気配がない。もしかして調子でも悪くなったのかと案ずる樹楊だが、それをラクーンが阻止。サルギナとアイコンタクトを取ると重そうに口を開いた。


「今日集まってもらったのは、お二人が手に入れてくれた創世千書の解読――つまり、『木人』の、サラさんが何であるか解ったからです」


 サルギナは古ぼけた創世千書の上下巻の二冊をテーブルに出すと、解読を纏めただろう半透明のフィルムを出す。それを手にしたラクーンは、集まる視線に全て目を合わせた後でフィルムに目を移した。


「まず『木人』とは人間の亜種、というよりも神話に出てくる『極種』と、そう呼んだ方が我々人間にはしっくりくるでしょう」


 ラクーンの言葉に、樹楊に紅葉、ミゼリアが驚きを隠せない様子を見せる。思いは同じだろうが、その代表としてミゼリアが真っ先に口を開く。


「キョクシュって、そんな……。いや、そんなハズはないでしょう? アレは神話の世界だけの種族で、そもそもあんな女の子がっ」


「まぁ、ミゼリン落ち着いて。極種ってのは例えだ。亜種である亜人間である事には変わりないけど、俺達にとっては極種といった方が解り易いって事だ」


 サルギナはテーブルをひっくり返しそうなミゼリアを落ち着かせると、次いで樹楊と紅葉にも落ち着くように促す。しかし樹楊らが動揺するのも当たり前であり、事実、解読をしたラクーンやサルギナも当初は動揺していたのだ。


 極種とは極なる存在。

 このソリュートゲニア大陸に溢れた神話の中に出てくる種族であり、不可侵の存在であり滅亡と再誕の象徴でもある。つまり、

「創世千書の記述が真実であれば、サラさんはこのソリュートゲニア大陸に溢れる命を残らず破壊、そして無の大地に新しい命を生み出す存在です」


 ラクーンは淡々と解読した事実を告げる。そして静まり返る室内に、カップとテーブルが接触する音が鳴る。紅葉は困ったように眉根を寄せミゼリアは口に手を添えて気分が悪そうに、樹楊は椅子に背を預けて自分の膝に視線を落としていた。

 言葉も出ないのだろう。予想を超える事実を突き付けられて上手に理解出来ないのだろう。柔軟な思考を持っていると自負していた樹楊だったが、ラクーンの言葉はあまりにも歪で大き過ぎる問題だったのだ。


 しかしラクーンは続ける。

「少し長くなりますが、聞いて下さい。そして理解して下さい」


 三人はぎこちなくだが頷く。すると、ラクーンは礼を述べて薄く口を開いた。しかしその声はハッキリと、確かな輪郭を持った声。


 ――木人とは自然の母なる存在せあり、『木人あるところに砂漠はない』とエルフと獣人目は唱えた。実質、木人が繁栄する地には圧倒的な自然が広がっていたそうです。それ故、エルフと獣人目の両種族は木人を唯一無二の宝物のように扱っていたそうですが、サディスティック・ミストによる終焉を迎えた時、ソラクモの祖先である獣人目ララアがサラさんを捉え、樹木の中に封じた。しかし、ここで想定外の事が起こっていました。


「想定外の事?」


 樹楊はラクーンの言葉の区切りに割り込む。しかしラクーンはそれを咎めず、丁寧な口調で樹楊へと尋ねた。


「呪縛陣が人体に及ぼす影響とは、何か知っていますか?」


「確か、拘束時間が長ければ精神をも壊してしまう、だったはず――って、あれ? 確かサラはバカでかい呪縛陣で封じられていたような……。何であいつはあんなにピンピンしてんだ?」


 そこです、とラクーンは指摘し、

「コーヒーのお代りはどうです?」


「いりませんっ」

 樹楊、紅葉、ミゼリアの三名に怒られてしまう。ラクーンは口を尖らせ「折角挽きたての豆なのに」と独り言を呟きながら「そんなに怒らなくてもいいじゃないですかっ、まったく」


 拗ねた子供のようなラクーンにサルギナは失笑してお代りを要求した。ちなみに、言わずともラクーンがこの場の中で最高位の地位を有している。が、サルギナが気兼ねなくお代りを要求するのはその人柄が作用しているのだろう。

 一同はラクーンが戻ってくるまでの間、各々に考え込むが一人として言葉を発する者はいなかった。そしてラクーンがカップを両手に持ってくるなり、目線のみで続きを促す。


「え……と、どこまで話しましたっけ? えーと、あぁそうそう、思い出しました」

 一人で勝手に納得すると、コーヒーで唇を湿らせて再度重々しく話し出す。


「この本によれば、サラさんを閉じ込めた樹がサラさんを護った事になっています」

「樹が護った? 木人が自然の母だからか?」


 樹楊の問いにラクーンは「それも考えられるでしょうけど」と否定はせず、

「その樹がサラさんの母親だったのですよ」


 サルギナ以外の一同はラクーンの言葉に思考回路を狂わされる。いくら自然の母だとしても生みの親が樹であるわけがない、と納得した面持ちを見せない。しかしラクーンはその疑問の紐を解くべく、真相を語り出した。


「木人とは、孤独な人間――孤人と。その所以は、木人は誓ってはいけない言葉があるそうで、その言葉の禁を破ると植物化してしまうらしいのですよ。樹楊くん、その言葉が解りますか?」


 勿論解るわけがないのだが「ヒントは『木人とは孤独な人。未来永劫として愛しき人の傍にいる事が出来ない種族』……そう記述されています」と、ラクーンが得意げに指を立てられて記憶の中に眠っていた言葉を思い出した。

 その言葉は、ここでサラが口にした言葉。


「ロア……ラズラートゥ・ミア。サラに言われた言葉」

「そうです。良く出来ました」


 にっこりと微笑むラクーンは控えめに拍手をするが、ミゼリアと紅葉は何が何だか解らない様子。互いに目を合わせて首を傾げている。しかし気になる事は今すぐにでも訊きたい紅葉は樹楊の肩を掴んだ。


「ちょっと、私とミゼリアを退け者にしないでよ。アンタが言われたその言葉、何て意味なの?」


「ああ、何でも木人の言葉らしくてな、ロアは『私』でミアは『アナタ』で、ラズラートゥは『魂』だったかな?」


 はい? と片眉を跳ね上げて樹楊の肩を掴む手に力を入れる紅葉。

「ぶつ切り単語じゃ解んないわよ。どういう意味なのっ?」


「私の魂はアナタだけのものって意味らしい」


 瞬間、紅葉とミゼリアが石像のように固まり、ぴしっと顔にヒビを入れるがそれに気付かない樹楊は肩を掴まれたままラクーンの方を見る。が、頭をわしっと掴まれて強制的に紅葉の方へと捻られた。

 ごきゅっという音が首の骨から響き渡り、同時に激痛が脳天まで響いた樹楊は乱暴者の紅葉を睨もうとするが、その乱暴者の方の剣幕が険しかった。目尻が痙攣し、眉が忙しく上下している。額には青筋がくっきり。


「な、何だよー」


 まるでイジメられる前の子供のような声音でおどおどする樹楊の頭を潰すように力を込める紅葉の第一声は、

「返事は!?」

「はい!」

「うるさい!」


 鬼教官に怯えまくる新米兵士のように返事をしたというのに怒られた樹楊を見たサルギナとラクーンは腹を抱えて笑い出す。ラクーンに至っては口に含んでいたコーヒーを噴射させたほどだ。普段なら「笑うな」と制する樹楊だが、今の紅葉を目の前にそんな余裕などミジンコの頭ほどもない。この世の魔王を前にしているようで、怯える事しか出来ないのだ。


「そうじゃなくて! アンタは何て返事をしたのっ。ホラ、ちゃきちゃき言う! じゃないと潰すわよ!」


 反射的に股間を押さえて内股になる樹楊に「そこじゃない!」と大喝する紅葉の怒りのリミッターはぶち切れている。鼻息は荒いわ樹楊の頭を潰しかねないほどの握力を出すわ。それでも樹楊は己の凄惨な末路を回避するべく、訊かれた事に答えるしかない。


「へっ、返事とかしてねぇよ。俺は何もっ」

「嘘を吐かない! 頭ァ千切るわよ!」


「嘘じゃねーって! ホント、だって!」

「どっちよ!」


 頭がメキメキと鳴り始める樹楊を、ラクーンは「おやおや」とすっかり他人事のようで助ける気は皆無らしい。呑気にコーヒーをすすってもいる。もうダメ、と腹を抱えてぴくぴくしているサルギナにミゼリアは樹楊の救援を頼むが頼りにはなるそうにもない。


「嘘じゃないっ。俺は何も返事してないんだぁ!」

「ホ! ン! トーっでしょうね! 何も返事してないんでしょうね!」


「ちかっ、誓う! 何も返事してないっ」


 はいっと模範的に挙手をする樹楊を見て、ようやく落ち着きを取り戻しつつある紅葉だがまだ鼻息は荒い。まるで暴れまくった馬のようだ。しかし何でこんなに怒られるのか解らない樹楊だったが、以前寝言で告白された事を思い出すと頭を掻いて罰が悪そうに苦笑した。

 怒るって事はやはり好かれているのだろうか。でも何でだ? 何も特別な事はしてないのに。と、当然のように疑問も募っていく。だけど今はそれを問う事は出来そうにもない。そんな事を口にしたら間違いなく頭を潰されるだろうから。


「えーと、それでラクーン様。話しを戻しますが、サラの母親はその禁を破って植物化してしまったと記述されているのですか?」


 ミゼリアが樹楊への憐みをそこそこに本題へと話しを戻すと、ラクーンはワンテンポ遅れて首肯する。どうやら樹楊と紅葉の揉め事に気を取られて忘れていたらしい。しかし、思い出すとそれらしく話しを進め始めた。


「サラさんが母親である樹木に封じられたのは偶然でしょう。そのお陰で呪縛陣から逃れる事が出来たとされています。そしてサラさんが生き永らえた要因はもう一つあります」


「まだあんのかよ」


 樹楊の呆れるような独白に紅葉は再度睨みを利かせるが、サルギナがそれを否定した。しかし樹楊も関係する、と意味深な言葉を置く。そしてラクーン。


「ヒーリング・ジェイムですよ。樹楊くんも紅葉さんもソラクモの御神木から溢れていたソレを見たでしょう?」


「ええ、見たわ。けど……」

「それが何で俺に関係するんだ?」


「どうやら俺達が実用化しようとしているヒーリング・ジェイムってな、木人、又はそれに準ずる生命体にしか効果がないらしいんだ」


 答えたのはサルギナで、視線も自然にそちらへと流れた。しかし疑問は解消されないままに。頭が一番固いミゼリアは着いていけず顔を真っ赤にしているが、取り敢えず落ち着こうとコーヒーを口にする。だが樹楊は柔軟であり、自らの憶測を口にした。


「俺が木人……か、それに近い人種とでも言うのか?」


 ぶはっと茶色い液体を隣りの大隊長の顔にぶっかけるミゼリア。しかしサルギナは何でかまんざらでもない顔をしている。鼻からも茶色い液を出しながらもミゼリアはあたふたしつつ拭いた。やはりサルギナは嬉しそうだ。

 それは完璧に無視するラクーンは何もなかったかのようにフィルムに目を走らせる。


「樹楊くん、キミの本名は?」


 本名を嫌う樹楊だが、ラクーンの至極真面目な瞳に声を籠らせる。


「キオウ=フィリス・クルードっすけど……」

「そうですよね。それではキオウがどのような字に変換されるかご存知ですか?」


「変換も何も、そのままっすよ。まんまキオウです」

「それが違うんですよ」


 首を振るラクーンは構わず続ける。

「キオウとは樹の王と変換されます。樹王、つまり自然界の王である事を指します。私がこう言うのも創世千書の解読結果であって、これにも理由があります」


「理由? どんな理由があって……」


 ミゼリアの驚愕を始め、樹楊と紅葉も驚きを隠せないようだ。しかし突拍子も裏付けもなさそうな話しに疑いを掛けてもいる。だが頷くサルギナの様子からも、事実である事がそれとなくだが樹楊にも解った。自分が自然界の王であると差す記述がある事を。でも信じる事が出来ない。それと木人がどういう関係になるのかも解消されていないからだ。


「いいですか、先程私はサラさんの母親が樹木に成り果てた事を告げましたよね? 実はそこからが始まりなのです」


 ラクーンは丁寧に、ゆっくりと語り始めた。


 ――サラさんの母親は、いつか外界にでるサラさんを護る者を作るべく、長年の時を掛けて種魂と呼ばれる胞子を作り上げ、飛ばし、それぞれの人間の母体に子を宿らせたのです。その子こそが失われつつある自然を復活させるべくして生まれた子であり、木人に準ずる存在『聖緑世徒』という人であり亜人種でもある子というわけなのですが、樹楊くんはまた違う立場として生まれた子なのです。


「俺は……違う? 何がどう……あーもう! わけ解んねぇっ」


 頭をがしがし掻く樹楊にラクーンは微笑み、ちんぷんかんぷんな紅葉を見やる。紅葉が驚いたように自分を指差すとラクーンは目を伏せながら頷いた。


「紅葉さん、アナタが聖緑世徒なのですよ。そして蓮さんとオルカという子も」

「はっ? 何で私が? え、嘘っ、だって樹楊が、あれ? 何で蓮とかっ。意味解んないっ」


「紅葉さん、失礼なのは承知の上で訊きますが……アナタは幼少の頃、残酷とも言える日々を迎えませんでしたか?」

「……そうだけど。何でそれが関係あるのよっ」


「それは運命とも言える必然らしいのですよ。そしてそれは紅葉さんだけではなく、アナタの部下であった蓮さん、そしてクルード王国のオルカという子も残酷な幼少期を迎えたでしょう。それが聖緑世徒の必然たる運命なのです。その代わり、アナタ方は人外とも言える強大な力を手にしているはずです」


 紅葉とオルカの鬼才なる戦闘センスに人間離れした身体能力。そして蓮の異質な力と、同じく人間離れした身体能力の事をラクーンは差す。紅葉と同じく、彼女らは幼少期に残酷な日々を迎えた。紅葉と蓮は家族からも忌み嫌われ、迫害されてきた。蓮に至っては死よりも苦痛な呪術での拷問を受け、しかし死ぬ事はなく逆に呪いに魅入られて呪刑者となる。オルカも紅葉と同じだった。今こそ一人娘として国王に大切にされてはいるが、幼き頃は兄弟や肉親から酷い仕打ちを受けていたのだ。


「ちょ、ちょっと待ってよ。いくらそんな過去があるからって、そのセイリョクセイト? そんな変な人種って決めつけるのは無理があるんじゃないの?」


「それがそうでもないんだよ」と、サルギナが割って入るなり創世千書を指差して、

「この本に紅葉、蓮、オルカと名前が付く事がハッキリと明記されている。そしてこの三人には共通する事がもう一つある」


「植物……」


 ぼそっと漏らす樹楊にサルギナは少しばかり驚くが、頷いて正解である事を告げた。紅葉は木になる朱色の葉であり、蓮は泥に咲く花。そしてオルカは香り高い花である。そして樹楊はこの者達の王なる存在であり、サラの夫として生まれた子供であるとラクーンが補足した。


 それだけじゃなく、創世千書には樹楊を含める名を上げられた四名の誕生日や性別、他にも特徴が記述されていたらしい。全てがピタリと当てはまる事に樹楊らは言葉を失う以外の反応を見せる事が出来ずにいた。


 しかしこれでサラが口にした「紅葉と蓮は私の子」という意味が解る。樹楊に想いを寄せるのも、木人である彼女の本能が促しての事だろう。ラクーンは創世千書の筆者は恐らくサラの父親ではないか、と憶測していた。


 樹楊はじっくり考え込み、突き付けられた事実を上手に租借する。

 ヒーリング・ジェイムの効果を得られた事や、付け足して言われたサラの治癒を受けられる事。そしてあの言葉……ロア・ラズラートゥ・ミアはサラに向って口にしてはいけない事。サルギナによれば、その言葉を口にする事でお互いの想いを一つにする事が出来、そして子を宿らせる事が可能になるらしい。

 木人が子を授かるには、生殖行為の他にその言葉も必要らしいのだが、そのページのインクが滲んでおり真意は定かではないとラクーンは言う。


「考えているところをすみませんが、私が最初に話した事を覚えていますか?」


 早速首を傾げる樹楊と紅葉。二人して大きな疑問符を頭にぶっ刺すのだが、そこはやはりミゼリア。頭が固い分、膨大な情報を得たからとは言え、しっかり覚えていたようだ。


「サラが極種である、ですよね?」

「そうです。サラさんはこの世を一度ゼロに戻す為に解き放たれた存在です。この本によれば、名を上げた四名を纏める事が出来た時、時代に変化が起こるとされています」


「そんなっ、サラはそんな事」

「しない、と断言出来ますか?」


 樹楊が真向に否定しようとしたところにラクーンが遮りながら問う。樹楊はサラの全てを知っているわけではない。それどころか、サラが紅葉や蓮を可愛がる意味や自分に想いを寄せる意味が解る気がする。だけど、オルカとやらはクルードの者らしいのだ。四人が纏まる事はないだろう。紅葉もオルカには酷くやられた事だ。


「そう言えば、遅いな」


 ミゼリアが時計を見て何気なく呟いた。何の事か、と思いもしたがすぐにサラの事を言っている事が解り、時計に目をやる。

 家を出てから一時間近くも経つ。サラはすぐに来ると言っていたのに。やはり体調が優れないのだろうか。


 しかし樹楊の心配は裏切られる。


「ラクーンさま、すみません!」

 

 慌てて入室してきた兵が大声を上げた。その後でノックをしなかった事を謝るが、ラクーンは気にも留めず、しかし険しい表情を見せる。


「逃がしたのですか?」

「は、はい。赤褐色の猫に邪魔をされて、それで……」


 ラクーンは長嘆すると疲れたように椅子に背を預け、

「サラさんがこの街から逃亡しました。恐らく、私達が真実を突き止めたのを悟ったのでしょうね」


 サラが……逃げた?

 その事実が意味する事を何通りか思い浮かべようとするが、結局一つしか思い浮かばなかった。それはラクーンが述べた通り、サラがこの大陸を一度ゼロにする計画を企てていた事。そしてそれを勘づかれたが為に逃亡した、と。


「うそだろ……何で」

「種族の数以上の思想がこの世にはあるんですよ。でもアナタ方が纏まらない限り、時代は動かないのです。私はアナタ方がどう動こうが咎める気はありません。ですが、サラさんに付く、と言うのであれば全力で潰しに掛かりますので」


 ラクーンの思いは当り前だろう、一人の人間として。樹楊とてサラに付く気は無い。この大陸にはニコが、護りたい人達がいる。その人達をないがしろにしてまで木人である運命に従う気はないのだ。例え自然界の王たる存在としてこの世に生まれ落ちたとしてもだ。


「俺はこのままスクライドにいますよ。今更そんな事言われても、ねぇ」

「私も……うん。第一オルカと仲良くなんて出来っこないし」


 紅葉は、サラに付く気はないと言い張る樹楊の横顔を見て安堵の表情を浮かべる。だが目が合うと固く握った拳をその頬に捻じ込んだ。頬に朱を散らしながら。



 ◇



 ラクーンの口から知恵熱がでしょうなほどの真実を語られた樹楊はその帰路、思いを巡らせていた。それは勿論、逃亡したというサラの事だ。ラクーンが見張りを付けていた事は気に喰わないが、それ以上にショックを受けている。サラを逃がす事に加担した赤褐色の猫とは、勿論ミネニャの事だろう。となれば、一緒に逃げたのだろうか。


 呆然と歩を進めていると、通信機が鳴る。大分前から鳴っていたのだろうか、それとも今鳴りだしたばかりなのか、解らない。


「おぉ、俺だ」

 いくら頭が呆けてても声の主くらいは解った。


「スネークか。どうした?」

「お前に会いたいって奴がいるんだけどよ、ちょっと来てくんねーか? 場所は――」


 スネークが指定してきたのはスクライド王国よりも北にある、小さな川だった。確かあそこには闇市に絶好のポイントがある。だが、こんな雪が積もる四期にそこに出店するのは解せない。それを問おうかどうするか迷っている内に、スネークは早々と通信を切った。待ってるからよ、と一言添えただけで。


 樹楊は通りに立ち尽くしたまま頭を掻いて北の空を見る。曇天。

 今日は大雪が降りそうな空模様である。


 バイクのタイヤを積雪用の大きなタイヤに替え、マフラーを口を隠すように巻いて黒の革手袋をし、防寒装備を整えていつもの剣を……。

 部屋の壁に掛けてある、コレクションの剣の数々。その中、一番片隅に隔離して掛けている銀色の長剣を手にした。樹楊は剣腹に自分の顔を映して目を細めると、遠くない過去を思い出す。


『黙れ、駄犬』

『おにいさん、昨日私の夢見たでしょ?』

『もし、私がまた死にそうになったら助けにくるの?』

『私は多分……間違ってないから』


 未だに耳の奥で残響となっている声。

 鮮やかな記憶が次々に蘇れば鼻の頭もツンとし、目頭が熱くなってくる。生意気で、友達思いで飴が好きで、クールな奴で。自分は助けてもらってばかりだった。アギの救出の時、ゼクトに「あと一度は助けてやる」と、そう言ったはずなのに。その一度さえも、たったの一度も助けてやれずに……。


「勝手なんだよ、お前は……」


 悲しそうに微笑む樹楊はゼクトが使っていた大鋏の対となっていた長剣を背のホルダーに収めると、涙が零れていない目を袖で擦って家を出た。

 バイクで駆けると、いくら防寒を整えても寒さが身に染みてくる。鼻頭も冷たいを通り越して痛くなっている。控えめに降っていた雪も、指定された場所に着く頃には大雪となっていた。ふわふわとした雪は大きく、風に流れて視界を悪くする。


 そんな中、崖に面して見通しが悪いポイントに着くと遠くに人影が映った。スネークだろう、と雪を踏みつけて急がずに向かうとその人影が徐々に明らかになっていく。


 その見慣れない姿に樹楊は足を止め、斜め下から睨むように確認。

 スネークにしては身長が高く、全身灰色の服を纏っている。大雪とその者がマフラーを巻いている所為でハッキリとは解らないが、人が良さそうな、それでいて爽やかな顔立ちをしている。ラクーンとも違う、柔らかい雰囲気だ。


 しかし警戒を解けずに見ていると、その者がこちらに気付いて微笑んでくる。そしてこちらが向かわずとも、向こうから近付いてきた。


「どうも、こんなところまですみません。こんなに雪が降るとは思っていなかったので」


 格好を見れば解る。一応マフラーは巻いているが、服が灰色のツナギだ。四期用に防寒素材を使っているツナギだろうが、それだけで寒さを凌ぐのは無理がある。


「場所なんてどうでもいい。それよりも何の用だ?」

「そう急かないで下さい。私はラファエンジェロ・シグ・ローグルと申しまして」


 ラクーンを思わせるふんわりとした笑みを浮かべて手を差し伸べてくる。その手を樹楊が訝しげに握り返すと、

「クルード王国に仕えている者です」


 樹楊は後方に跳ぶと同時に手を引き抜き、着地するなり背の剣を抜く。まだ新しい革手袋だけにしっくりとこないが、それでも無骨な柄を握り締めるには最適とも言えた。


「クルードのラファエンジェロだったか? どういうつもりだ。今、スクライドはダラスと大戦前だぞ? スクライドに手を掛けるのは規約違反なんじゃないのか?」


「そんなつもりじゃありませんよ。あ、それと、私の事はラファエロでいいですよ? 皆そう呼んでますし」


 ちなみに私の彼女はラーファと呼んでくれます、とどうでもいい惚気を口にするラファエロからは殺気が感じられない。武器も手にしてはいないようだし、本当に争いに来たわけじゃないのか。と、樹楊は落とした腰を上げて剣を納める。

 するとラファエロは嬉しそうに頷いてまた近付いてきた。


 殺気はないようだが、この手のタイプはどうにも苦手だ。見方ならまだしも、敵ともなれば厄介だと樹楊は思っている。それは、もしラクーンが敵ならばと考えれば簡単に解る事。実際、見方であるラクーンが何を考えているか解らないからだ。

 だから警戒は解けない。何か罠を――。


「何も罠など張ってはいませんよ?」


 ……やはり苦手だ。それと苛立ちが募り始める。

 この雪のように。


「だったら何の用だ? あまり時間を掛けたくねぇんだけど」

「そうですね、寒いですし」


 ラファエロは肩に積もる雪を呆れ顔で払い落すと背を向け、口に手を添えると少しばかり張った声で名を呼ぶ。


「蓮さま、出てきて下さい」


 ――蓮?

 樹楊は耳を疑った。その名はこの大陸に何人も居るだろう。しかし、樹楊は自分が知り得るその人物しか思い浮かべる事が出来ない。白い髪と右目に背が低く、やたら無口で大食らいの、少女の事。

 落ち着いていた樹楊はラファエロの前に躍り出ると、向こうから駆けてくる小さな影に目を凝らした。足場の悪い積雪を狭い歩幅でたかたか走ってくるその人は、もこもこした防寒着を纏っている。雪のように白い服装とその髪。肌さえも白く、その姿は架空の種族とされていて幼い頃に訊いた事がある『雪女』の娘のように見えた。その右目には蓮の花が咲く紫の布。


「れ、ん……蓮、蓮!」


 樹楊は待ち切れなくなり、遂に走り出す。ラファエロはその後ろ姿を微笑ましげに見守っていた。名前を呼ばれた蓮も、相変わらずの無表情ではあるが左目をキラキラさせて嬉しそうに駆けてくる。


「きょーくっ」


 が、あと数歩というところで溝にずぼっと身体を埋めてしまう。この川には幾多の深い溝があるのだが、雪の所為で見えなかったのだ。蓮は下半身を全て雪に埋め、手を前に伸ばしたまま沈黙。恐らく、何がなんだか解らないのだろう。しかし状況を理解すると手をバタつかせて暴れ始める。


「…………むふぅ」

「蓮、久し振りに会ったっていうのにそんなザマぁ!」


 笑いを含んで歩みよろうとした樹楊も蓮と同じく、下半身を深く埋めた。お互い手を目一杯伸ばせば指先が辛うじて触れ合え……ない距離で溝に身柄を拘束される運びとなってしまったようで、後方ではラファエロが笑いを殺していた。樹楊の前には胸から上だけの蓮。蓮の前には、同じく胸から上だけの樹楊。


 まさか自分もハマるとは思っていなかった樹楊は、無表情の中でもキラキラ輝く蓮の瞳が何となく痛かった。凄く馬鹿にされているような感じがしなくもない。それか同類と思われているのだろうか。蓮が少しばかり嬉しそうなのが心苦しい。


「くっそ。情けねーな、もう! って、あれ? このっ、う、く」


 どうあがいても抜け出せそうにもない。そればかりか沈んでいるようにも感じる。

 それだけは避けたい樹楊はあれこれ考えるが、自分の力ではどうにかなるものでもなさそうで助けてもらうにも目の前の蓮は既に足掻く事を放棄している。残るはラファエロしかいないのだが、あんな奴に助けてもらうのはそこはかとなく気が引ける。


 どうしたものか、と考えていると蓮が呼ぶように手で雪を叩いた。

 視線を向けると、置物のようで、しかし瞬きをする蓮が二拍置いて口を開く。


「きょーくん……ひさしぶり」

 

 思う所があるのか、蓮は口をふるふると震わせて涙目になっていた。ぐしぐしと目を擦り、一生懸命に手を伸ばしてくる。届かないのは解っているはずなのに、それでも触れてこようと必死だ。


「ホント、久し振りだな。つーか、手……届くわけないだろ?」

「んぅ……」


 蓮はぴたりと止まって自分の手をまじまじと見つめ、次いで樹楊の肩をじっくりと見つめる。何かを期待している目だ。


 一度諦めたはずなのに、蓮は再度手を伸ばし、

「きょーくん……て」

「だから無理だって」


 蓮は首を振り、

「肩外せば何事も……おーけい」

「お前が外せ」


「それは無理」

 再度首を振る蓮は、ぽつりと呟いた。



 ◇



 仕方なくラファエロに助けてもらった樹楊だが、蓮は樹楊に助けてもらうと言い張った。余程他人に触れて欲しくないらしい。蓮は樹楊に助けてもらうともう一度溝にハマりそうになる。しかし樹楊のお陰でそれを回避。それからずっと樹楊の傍を離れようとはせず、袖を摘まんで離そうともしない。頭を撫でられれば嬉しそうに目を伏せた。


「アンタの目的は蓮と俺を合わせる為だったのか?」

「ええ、勿論です」


「何で蓮がお前と一緒に居る?」


 未だに警戒を解かない樹楊に尋ねられたラファエロは、さも当然のように答える。

「それは蓮さまがクルードに仕えているからです」


 予想はしていたが、実際耳にするとやはり信じがたい事実に樹楊は驚いてピッタリとくっついている蓮に視線を落とす。蓮は悪びれる様子もなく、首を傾げた。

 今更蓮を咎めても仕方ないだろう。何処にも居場所がないのだ。身を寄せる場所が敵国だとしても怒れるわけがない。


 樹楊の視線に何かを思い出した蓮。

 いそいそと樹楊の服を捲り上げる。


 こんな凍える季節に地肌を外気に晒すのは、ハッキリ言って苛めだ。


「寒い寒い! 蓮、やめっ」

「んー、我慢」


「出来るかっ、このっ」


 必然と拳骨を落とされた蓮は「む……」とだけ呟いて頭を抱えた。革手袋をしているとは言え、結構力強く落としたのだ。うずくまるのは当然だろう。樹楊は服をしっかり戻すと、頭を抱えて動かなくなった蓮の頭を撫でてやる。


「何がしたいんだよ」

「……きず」


「キズ? 何のだ?」


 首を斜にする樹楊を見上げた蓮の眉は下がっていて悲しそうだった。手を胸の前でもじもじさせて、遂には耐えきれなくなったように視線を逸らす。一体何の事か解らなかったが、蓮の事を考える内に思い出した樹楊。蓮の頭に手を置いて視線を向けさせる。


「もう平気だ。つーか、気にすんなよ。死んじゃいねーんだし」

「でも……痛かったでしょ?」


 痛いってレベルの問題じゃない。ダラスで蓮に刺された時、本当に死を間近に感じたほどだ。焼けるように熱く、魂を引き剥がされたかとも思ったほどだ。しかし樹楊はそんな事は言う気になれない。こんなにも罪を感じているんだ。そもそも非は自分にもある。


「痛くねーって。ホントだ」

「……うん」


 そのやりとりを見ていたラファエロは樹楊に興味深げな視線を向けていた。あれほど錯乱していた蓮が何もなかったように大人しくなっているのだ。しかも殴られたというのに怒る事もない。


「キオ……樹楊さま、クルードに来ませんか?」


 勿論、観光に。という意味合いではないのは明らかだ。ラファエロは樹楊にスクライドを裏切れと言っている。それも世間話のように軽い口調で。

 樹楊は片眉を跳ね上げると、蓮の身体をぐっと寄せた。


「行かねぇよ。それに蓮は返してもらう」

「ですが、スクライドに居ても意味はないでしょう?」


「折角のお誘いだけどな、生憎俺には」

「アナタの故郷の方々、全員でも構いませんよ? 勿論、国民権も与えますし住居もこちらで用意します。職探しの手助けもさせて頂きます」


 皮肉に吐き捨てるつもりだったのに、的を射たラファエロの言葉は樹楊の思考を一時的にだが停止させた。二人の壁を現すかのように吹き抜ける風は大粒の雪で幕を引き、互いの視界を遮る。蓮はその突発的な吹雪を樹楊の陰に隠れる事で回避。

 そして樹楊は、風が吹き終わる事で見え始めるラファエロを睨んでいた。


 相変わらず雪が邪魔でよくは見えないが、勘に触る嘘っぽい笑みを浮かべているラファエロ。


「何で俺に固執する? 前に襲ってきた魔術師も同じ様な事言ってたけどよ」

「ああ、それは私の部下ですね。その折は失礼致しました」


 ラファエロは恭しく一礼すると、

「アナタは私達に必要なんですよ。何故か、とまでは言えませんが以前よりもアナタを必要としている事は確かなのです。蓮さまも、そう願っていますしね」


「蓮は返してもらうっつったろ? 何を吹き込んだか知らねーけどよ、こいつはクルードに居るべきじゃねぇんだよ」


 強く身を引く樹楊に蓮は視線を落として寄り添う。罰が悪いのか、何も喋ろうとはしないのだがそれでも樹楊から離れる気はないようだ。しっかりと袖を両手で握っている。


「すみませんが、蓮さまは今やクルードの兵です。それは蓮さま本人が決めた事。いくらアナタが拒んでも、はいそうですか、と手放す気などないんですよ」


 ラファエロは視線を蓮に移すと「こちらに」


 一度は拒否するように首を振る蓮だったが、ラファエロに「駄目です」と言われると、しゅんと落ち込み、名残り惜しそうに樹楊の傍を離れる。みすみす行かせる気もない樹楊は手を伸ばしたが、信じられない事に蓮がそれを拒否する。風に浮かぶ羽根のようにふわりと樹楊の手を避ける。しかし泣き出しそうな顔をしてもいた。


「樹楊さま、故郷の皆さんの事を考えればクルードに移籍するのは得策なのではないですか? スクライドがダラスに勝つのは難しいでしょうし、その後は我々の国、クルードとの戦もあるのですよ? そうなればスクライドの崩壊は免れません。故郷の皆さんも、間違いなく消されるでしょう」


 確かにラファエロの言う通りだ。

 蓮ばかりかゼクトを欠いたスクライドの兵力は頼り無い。万が一ダラス連邦に勝てたとしても、兵力は激減しているはずだ。その後で、クルードとやり合うなんて滅ぼして下さい、そう言っているようなもの。


 しかし。


 やっぱり深く関わるべきではなかった。自分は自分で何も考えずに自分の為だけに生きていれば良かったんだ。そうすればラファエロの誘いにだって二つ返事で了承出来た。護るもの? いや、ちょっと違う。思い浮かぶ面々は護る、というよりは――。


「裏切れねーよな、やっぱ」


 ははっと苦笑しながら独り言を呟く樹楊は、法を犯せても仲間を裏切る事が難しくなっていた。少し前までなら簡単に裏切れた。そいつらが居なければ国だって簡単に捨てる事が出来る。何せ、故郷の皆の為にスクライドに仕えただけなのだから。

 自分は何をしているんだか。わざわざ動き辛くなる道を選ぶなんて、自分らしくもない。だけど、悪い気分ではなかった。


 樹楊はラファエロに目を向けると、

「俺は俺のやり方で故郷を護る。ダラス? クルード? それがどうした。弱者には弱者なりの闘い方があるんだよ」


 誘いを断られ啖呵を切られたラファエロは困ったように腕を組み、考え事を始めるがすぐに立ち直る。それほどショックではなかったのだろう。それか、他の策でもあるのか、妙に諦めが良い。


「残念です。が、アナタを引き込むのはスクライドを潰してからでも遅くはないでしょう。今日はご足労感謝致します。私達はこれにて」


 くるっと背を向けるラファエロに樹楊は口の端を吊り上げて、懐から漆黒の銃を取り出して銃口を向けた。安全装置も外し、トリガーに掛ける指にも力を込めている。


「俺は蓮を返してもらう……そう言ったよな?」

「おや? それは万霊殺しの銃ではありませんか。先程ご自身が、今争う事は規約違反だとか申されていたのに、規約どころか大陸全土共通の法を破るとは。面白い方ですね」


 撃たれれば魂ごと破壊される銃を向けられているというのに、ラファエロは動じてはいない。背を向けたまま視線だけを樹楊に移して微笑んでもいる。何か策でもあるのかと樹楊は五感を研ぎ澄まして、しかし決してラファエロから目を離さない。


「俺にとって法律なんざどうでもいいんだよ。バレなきゃなかった事と同じだからな。それによ、俺をここに呼んだのは不味かったんじゃないのか? ここは人気も無ければ街も遠い。ここで銃をぶっ放そうが、誰も気付きはしねーんだよ」


 殺気が宿り始める樹楊の瞳に、相も変わらず他人事のようなラファエロの瞳。互いの視線が一本の線となるが、火花は散らなかった。ラファエロに争う気がないからなのだろう。

 その余裕が樹楊の殺意を増幅させる。躊躇う気など無い。

 その口からこちらに応じない言葉が漏れた瞬間、トリガーに掛けている指を屈伸させるだけだ。死体は上流にある滝壺にでも捨てておけば誰にも解らないだろう。後は魚の餌にでもなってくれれば万事解決だ。


 しかし、ラファエロが何かを口にする前に蓮が動いた。

 樹楊の前に立ち塞がるなり、銃口に人差し指を入れる。すぽっと。

 流石に慌てた樹楊は反射的に銃を引き、安全装置を掛けた。


「蓮、何を考え――」


 蓮は正面から樹楊に抱きつくと、その腕を腰に回して顔を胸に埋める。そして形の崩れないデフォルトの表情を貼り付けている顔を向けてきた。


「だめ……。この人、強いから」

「蓮、お前何で……。ス、スクライドには、赤麗には戻らないのか?」


「うん。私はクルードできょーくんを待ってる」


 揺るぎようもない瞳だった。何を言っても戻ってくる気がない事が解る。ゼクトの言葉もあれば、帰ってくるのだろうか。しかしゼクトはもういない。その事を教えてやろうかとも思った。だけど言えない。

 蓮の事を案じているわけじゃなく、自分が口にしたくないだけだ。


 離れていく事を悲しく思ったのか、蓮は誰にも知られずに涙を浮かべたが、樹楊に抱きついたままその服で目を擦る。そして最後に樹楊の人差し指を弱々しく握ると、無言で手を振った。



 何も、

 何も出来ない。何も、何も。


 ラファエロと蓮がいなくなった川で樹楊は両膝を折ると溢れてくる悔しさと不甲斐なさから地面を強く叩く。しかし雪で覆われた地面は柔らかく、己の手を痛めつける事が出来ずに悔し涙が溢れてきた。それを拭いもせずに頭を抱える樹楊。

 ゼクト、俺はどうすればいいんだ。と、吹かれる風に消えゆく声を漏らし、身体に積もっていく雪を払う事も忘れて蹲る。


 何もかも、一からやり直せる事が出来るなら。

 戦争なんかなければ。

 何処か違う場所に生まれる事が出来たのなら。


 こんな思いはせずに済んだのかも知れないのに。


 兵士になんかなりたくなかった。

 自分が普通の家庭で育っていれば、兵士になんかならない。

 普通に遊んで普通に大人になって普通に老いて普通に死んでいきたかった。

 話題にするのも気が引けるほどの、普通の生活をしたかったんだ。


 樹楊は遠い過去に凍らせたはずの思いを、自分の人生を悔やむ事を蘇らせた。

 生きていくにはあまりにも重い足枷だからと前向きに生きると決めていたのに、どうして、どうしてなんだろう。


 こんなにも自分を取り巻く環境に怒りを感じるのは。



 全てを――捨てたい。




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