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第二十三章 〜ブラッド・バニラ〜

 




「おにいさん、気付いてる?」


 ゼクトの潜めた声の問いに首を傾げたくなったが、辺りを見回すとゼクトの問いの意味がすぐに解った。進むにつれて植物が腐敗しているのだ。倒木も、軽く足を乗せただけでボロボロと砕ける。こんな事に気付かないなんて、どうやら命葬蝶の事で動揺していたらしい。


 その気持ちを察しているのか、ゼクトは何も言わずに視線を外した。

 警戒心を高め、ここから進んでいくと広場に辿り着いた。しかし元より、この場所に広場なんてものはない。


 一面の植物が腐敗する事で出来上がった、不自然な広場だ。その端に大きな穴が空いている。今こそ崩れて土に埋もれているが、これは間違いなく穴だろう。スコップで地面を掘り起こしたような、人でも埋めたのかというような、そんな穴だ。

 樹楊は腰に巻いている革製の五蓮ポーチの中から防腐加工済みの合金製試験管を取り出し、地面から採取した土を入れた。中心と思われる場所から、そしてそこを中心として円系に数か所の土をも採取する。勿論、穴の場所もだ。腐敗した木々や雑草の採取に意味はなさそうだが、それでも一応という事で適当に採取した。


「ゼクト、ここら辺の大気に毒性はあるか?」

「解るわけないでしょ? 私は毒センサーじゃないっての」


 呆れ顔で返してくるゼクトに、それもそうだと樹楊は頷いて辺りを見回した後、轟音の元である滝に足を運んだ。どうやら水は毒に侵されてはいないようだが、この水も持ち帰るとする。当り前と言うべきか、この辺りの植物は腐ってはいない。


「おにいさん、早く帰ろうよ。もう眠いよ」


 ゼクトは目をぐしぐし擦ると岩の上にちょこんと座り、樹楊は適当に返事をすると通信機を取り出す。


「あー、ミゼリン起きてますか? 俺っすけど」

「ああ、起きてる。どうだ? そっちの状況は」


「取り敢えず腐敗ポイントの採取はしました。まぁ、あとは聞き込んだ情報と何ら変わらんので帰ってから報告します」


 安堵の溜め息を吐くミゼリアの後ろにはミネニャがいるらしく、何やら通信機に驚いているような言葉を発していた。制するミゼリアの声にも応じす、何度も樹楊の名前を呼んでみている。


 そう言えばミネニャは文化から遠い存在だったな、と悠長な事を思っていると空から青白く輝く小さな球体が降ってきた。小指の先ほどの大きさの球体が、一つ、二つ。歪な弧を描きながらふわふわと。


「おにいさん、何か光ってる虫が飛んできたよ」


 少し嬉しそうに虫を追い掛け始めるゼクトを見て、そういうところはクールじゃないのな、と頭を掻く樹楊だったが不可解だとも思っている。数十年も前に『ホタル』という発光する虫は絶滅していて、命葬蝶以外に発光性のある虫は観測されていない。そうなれば世紀の発見となるが、解せない。何故、生物が寄り付かないこの場所に?


 少しだけ考えてみるも、生態の知れない虫の事など解るわけがない。昆虫博士じゃあるまいし。思いつくのは可能性が低すぎる憶測程度であり、悩むのが好きではない樹楊は余計な事を考えないようにした。


「ゼクト、帰るぞ」

「えー、何でよ。折角綺麗な虫見付けたのにっ」


「早く帰ろうって言ったのは誰だ?」

「私……だけどさ」


 何やら不満があるらしく、ぶつぶつと文句を言っているが気にしないようにする。魔物の懸念がある以上、この場に留まる気にはなれない。いくら防毒マスクがあるからと言っても未確認のモノに対しては万全とは言えないからだ。


 非難の視線を背にちくちく浴びながら歩を巡らせていると、道の先にも謎の発光する虫が目に付いた。来る時は飛んでいなかったのに何で今更なのだろうか。明け方に活動する性質でもあるのか?

 樹楊は深く考えていたが後ろのやんちゃな小娘はそんな事は考えてもいないらしい。近付けば近付くほどに視界いっぱいに広がる虫の数は先程とは比べものにならないくらいの数だった。


 その中心に立つゼクトは幻のよう。天の恵みを受けるかのように両手を小さく広げて空を仰ぐ。儚げな輝きでも、集中すれば眩い輝きとなる。


「すっごいね。何ていう虫なのかなっ」

「さあな。不吉そうな虫には見えねーのは確かだ」


 何気なくだった。

 本当に何気なく外した視線が捉えたのは、目を疑いたくなる光景。


 木に止まっていた一匹の光る虫が、ぽふん、と白い粉を出して跡形もなく砕けた時、その虫が止まっていた所の木が変色したのだ。暗闇でハッキリと解らないが、虫の集合体が明かりとなっているお陰でその様を確認する事が出来た。


 樹楊はその変色した所を適当な石で突くと、

 ……ボロッ。


 血の気が引いてく。悪寒が背筋を舐めまわし、首筋に巻きついてくる。

 砕けた木は採取した木とよく似ていた。


「ゼクトォ! 離れろ!」

「うわ! びっくりし――何、何よっ。ちょ、離してっ」


 樹楊は発光虫の中に居たゼクトを力任せに引っこ抜き、勢い余って地面を転げた。それでもまだ不十分だと思い、ゼクトと真正面から向き合うように腰に手を回して力強く抱き締めてから後方へ跳躍。


 虫は追い掛けてくる事はなく、その場に止まって宙を踊るように飛んでいる。それが儀式にようにしか見えない。嫌な予感がする。


「何よいきなり! 離してよ!」


 樹楊は言葉通りに従うが、ゼクトの肩に止まっている虫を見た途端に血相を変えて叩くように払い落した。


「ゼクト、見ろ」


 有無を言わさずに虫の方へ視線を向けさせてやると、それを見たゼクトの額に冷や汗が滲み始める。目を見開き、呆気に取られた跡、思い出したかのように全身を見回した。


「な、何よあの虫。変な粉出して、地面腐らせて……」

「毒の一種だろ。あれが今回の事態の元凶だ、間違いねぇ。ゼクト、この防毒マスクであれを防げるか?」


「あの粉を吸わなければ平気なはずだから防げると思う。確証はないけど。でも、皮膚はどうなるか……」

「ああ、皮膚なら大丈夫だ」


 え? と振り向いてくるゼクトに樹楊は頬を掻く。そしてゼクトを引っ張る際に何匹か握り潰した事を明らかにした。その手を見る限り壊死しているわけでもなければ、体調に異変もない。ゼクトに「もう少し考えて行動しなさいよ」と怒られたが、こればかりはどうしようもなかったと頭を掻く。何せ咄嗟の判断だったのだ。


 虫が出す粉は即効性の毒であると見立てた二人は、取り敢えず安堵の溜め息を吐く。そしてミゼリアに報告をと思ったのだが、集まる虫の中に落としてきた通信機は既に毒の餌食となっていた。


「ゼクト、お前通信機持ってるか?」

「ない」


 何とも簡単な返事だ。

 準備がいいのか悪いのか解らないゼクトをじーっと見ていると「何よ」と口を尖らせてくる。樹楊は「何でもない」とだけ返すと、虫の集合体の輝きに目をやり、


「報告は帰ってからだな」

「じゃ、早く帰ろう? 何かがあってからじゃ遅いし」


 何かがあってからじゃ遅いというのは今から起こる事を指すのだろうか、と樹楊は耳を澄ましながら顔を引き攣らせる。ゼクトは気付いていないようだが、臆病な樹楊は気配に敏感だ。この森に異変をもたらした主が近付いてくるような気がしていた。


「どうしたの、おにいさん。早く戻らないと」

「あのよ、蟻って女王蟻の為に働くよな?」


「は? 何でそんな事を今更」

「蜂も女王蜂の為に頑張ってるんだよな?」


 ゼクトはこの状況下に何の繋がりを持っているか不明な事を聞く樹楊に嘆息する。それでも樹楊は続けた。


「新社会性を持つ虫ってよ、女王のような親玉がいる場合ってあるだろ?」


「え……、ちょっと待ってよ。まさかこの光る虫にも女王がいるって言うんじゃないんでしょうね? 何を根拠にそんな事」


 そこでやっとゼクトも異様な気配を地面の揺れと共に感じた。樹楊も最初は勘違いかと思っていたが、大きくなる振動を全身で感じると嫌でも事実である事が解った。その振動は地震のそれとは違う、異質な揺れ。大地全体が揺れているような感じなど微塵もせず、自分達が居る場所に振動の波が押し寄せているみたいだった。


 これは下から何かが……。

 その時、樹楊は腐敗した広場の穴を思い出した。崩れて、土に埋もれた穴を。


 いや、まさか。そんなはずはない。

 あれを生物が這い上がってきた穴だとすれば大き過ぎる。両手を広げたほどの直径を持つ穴だったのだ。生物なはずは……ないと誰でもいいから言ってほしかった。


 揺れが収まったのは、地面から巨大な生物が荒々しく飛び出てきたのと同時だった。その生物は地面から飛び出てくると同時に、光輝く幻想的な、しかし毒を持つ虫を一口で喰らう。そして食べられた虫に何の効果があるか解らないが、それを喰らった虫の身体も薄らぼんやりと輝きを持ち始めた。


「な、なななな何なの何なの何なのよ、こいつ! あれが親玉!?」

 艶のある蟹の甲羅を数珠のようにいくつも繋げたような長い胴体は茶色く輝き。


「知るか! 俺に訊くなっ」

 目があるのかどうかも疑わしいその頭に伸びる二本の触覚は剣のように鋭く。


「うげっ、気持ち悪い。私、アレ系は駄目なの」

「それには同感だよ」


 数えるのも嫌になるほど、うぞうぞと蠢く無数の足を持つその生物はよく見た事がある姿だが、これほど巨大な姿は見た事もなければ実在する事を考えた事もない。

 ゼクトも樹楊も後退りをせざるを得ないその生物。

 それは巨大なムカデだった。


 樹楊が両手を広げたほどの幅を持ち、全長はゆうに大人六人分はある。その長い身体の半分を起こし、腹を見せつけるように樹楊らを見下ろす巨大ムカデ。どうやらまだ空腹らしく、二人を見つけては緩やかな動きでその名の通りの百足を不規則に動かし始めた。逃げようと試みるもその動きは想像以上に早く、二人を中心として円を描くようにぐるぐると回る。逃がすつもりはないらしい。


「これ不味くない?」

「かなり、な。毒よりもこいつの存在の方が厄介だったな」


 朝を待たずに樹海に踏み込んだのは浅はかだった。いくらムカデの身体が発光してるとは言え、足場を完全に把握できるほどの明るさではない。暗闇だからこそ、その身体が光っている事が解る程度なのだ。


「必要なのは防毒マスクよりも強力な殺虫剤だったね、おにいさん」


「だな。何か身体も硬そうだし、一刺しで何とかなるような相手じゃなさそうだしな」

「そうは言うけどさ、刺さるの? あの身体に」


 ゼクトが親指でくいっと指差す先にはつやつやの身体で蠢くムカデ。その進路の木々を平気で倒している。少なくとも、倒された木よりも硬い事は解った。その足も鋭く尖っているようで、歩いた後の地面が掘り起こされている。何から何まで硬そうなやつだ。樹楊は「それでも」と剣を抜く。


「見逃してはくれねぇだろ」

「まーね。こんな化け物、相手するのは嫌だけど食べられるのはもっと嫌だしね」


 ゼクトも大鋏を双剣にすると樹楊の背後に回り背中を合わせる。

 こんな見た事もない奇変種に勝てるのだろうか。樹楊は通信不能になった事にミゼリアが気付いて増援に来る事を願ったが、宛てに出来ないのも事実。結局、自分達が生き残る為にはこの化け物を倒すか、隙を見付けて逃げるかのどちらかしかない。命葬蝶はこの事を予期して肩に止まったのであれば、その未来の見方を是非とも教えてもらいたいものだ。


 いい加減、腹を満たしたい巨大ムカデは樹楊らが逃げようとしない事を感じ取ったのか動きを鈍くした。しかし隙を見せようとはしない。触覚をセンサーのように動かし、文字通り地を這うようにじりじりと間合いを詰めてくる。

 その動きがぴたりと止まった次の瞬間、高く上げた頭を投げつけたかのように樹楊目掛けて振り下ろす。口は開かれており、グロテスクな口内からは唾液が流れ落ちていた。


「ゼクト!」

「解ってるってば! おにいさんこそちゃんと引きつけておいてよねっ」


「えっ、違っ」


 樹楊が言いたい事は逆だった。

 ゼクトに引きつけてもらって自分がムカデの背後から襲い掛かろうとしていたのだ。しかしゼクトは既にムカデの背後に回り始めている。それを知っていそうにもないムカデの捕食対象は勿論、


「俺だよなぁ」


 当り前、と言わんばかりにムカデはうねうねと蛇行しながら襲い掛かってくる。樹楊は持前の身のこなしで何とか回避をするが、それも長くは続きそうにもない。噛みつきを回避したかと思えば、そのまま地を抉って蛇のように噛みついてくるのだ。流石、地中から現れただけあって強靭な顎だ。噛まれたら最後というのが良く解る。


「ゼクト、何やってんだよ!」


 姿が見えぬゼクトに大声で叫ぶと、

「刺さんないのよ、身体もその繋ぎ目も!」


 暗闇から焦りまくった怒声が返ってきた。一生懸命に頑張っているらしいのだが、早く何とかしてほしい。そうこうしている間でもムカデの連撃は止まりそうにもない。


「ンの野郎!」


 樹楊は真正面から飛び掛かってくるムカデの顔面と思しき箇所に剣を振り下ろしてみたが、鉄でも殴りつけたかのような音と感触がした。ゼクトが言いたい事が十二分に解る。樹楊は痺れる手でしっかりと剣を握り締めて横跳びで力の流れを逃がしてやる。直線馬鹿のムカデはそのまま大木に顔から突っ込んだが、ダメージは無さそうだ。


「おにいさん、これ本当に不味いって!」

「解ってる。何つー硬さだ。鉄でも食ってるんですかっての、あの馬鹿ムカデは」


 ゼクトが息を切らして隣に来て、これから逃げる策を練ろうかとしている時だった。ムカデが今までにない速さで突っ込んできたのは。


「――――っな!」


 的にされた樹楊だが、その噛みつきに対して剣を盾にする事で何とか防ぐ。しかしムカデは樹楊を力づくで押し続けていた。地面を削りながらもブレーキにしていた足は遂に宙に浮き、抵抗のなくなった身体は川を上る魚のように樹海の中を縫いながら突き進んでいく。剣を捨ててこの流れから脱出したいが、その後の事を考えると捨てる事が出来ない。

 剣を邪魔そうに顎をガチガチ鳴らすムカデはその動きを真下に変え、地に樹楊を叩きつけた。樹楊の視界は九十度変わり、ムカデの顔を挟んで夜空が見える。


「げほっ! こ、ンの化け物っ」


 背中を強く打ち付けたが、幸いにも地面は柔らかくてダメージは少なかったのだが、不幸にも剣にヒビが入り始めている。ムカデは相変わらず剣に顔を押しつけてきていて唾液を樹楊の身体に落としてきていた。力に自信がない樹楊だが、命に係われば話は別らしく懸命に堪えている。しかしもう限界が近い。ついでにムカデの顔も近い。


 ゼクトの救援を待つものの、あの場所から随分と離れた場所に飛ばされてしまった。急いで来たとしても五分は掛かるだろう。それまで堪えられるか……。樹楊が身の危機を切に感じた時、左側から草木を掻き分ける音が聞こえてくる。


「おい、誰か居るのか?」

 その声にムカデも反応したのか、押し付けてくる力が緩くなった。


「居るなら返事を」

「ミゼリン、早く逃げて下さい!」


 顔を見なくても解った。何度も何度も聞いてきた声だ。聞き間違えるはずもない。

 あれほど救援に来てほしいと願ったのだが、勝ち目のない戦いに巻き込みたいと思うほど樹楊は我が身を可愛いとは思わない。犠牲者は少ない方がいい、残される泣き顔は少ない方がいいのだ。


「お、その声はっ。どうしたんだ?」


 しかしその願いを聞き入れるほど非情になれるミゼリアでもなかった。逃げろと言っておいて嬉しく思う。この人は部下の命を重んじる人だったな、と。

 乱雑に伸びきった草木を掻き分けるように現れたミゼリアは、樹楊に覆いかぶさる巨大なムカデを目にすると言葉を何処かへ忘れてきたかのように絶句する。しかし樹楊の身が危ないと気付いた次の瞬間には抜剣し、刺突の構えのまま地面を滑るようにムカデとの距離を詰めた。そして体重を乗せてムカデの胴体の繋ぎ目を突くのだが、その剣先はミゼリアの思い通りには突き刺さらなかった。


「なっ、何だこいつは! 固すぎるのも限度ってものがあるぞっ」


「ミゼリン、退いて下さいっ。このままじゃ」

「馬鹿を言うな!」


 樹楊の気遣いは大喝によって砕かれる。

「もう誰かを救えないのは嫌なんだ!」


 何も言い返せなかった。その気持ちが充分過ぎるほど伝わってきたから。

 だがその思いがこのムカデに伝わる事など万に一つもあるわけがなく、捕食者である立場を変えようとはしない。樹楊とムカデを隔てる一本の剣はビキビキと音を立て始め、誰が見ても折れるのは逃れようのない事だった。この剣が折れた時、命も尽きる。強靭な顎に顔を挟まれれば、それは見事に砕けるだろう。


 もう終わりか。

 樹楊は観念し、ふっと力を抜いたのと同時。

 ムカデの押してくる力も急激に緩んだ。


 それが意味する事は――――。

「ミゼリ」

 ――――捕食対象の切り替え。


 樹楊がその次なるターゲットの名を呼ぶよりも速く、ムカデの顎はソレを捉えていた。スクライドが誇る鉄の鎧並みの強度を持つ戦衣を軽々と貫き、身体の傷をコンプレックスに感じているミゼリアの肌に、深々と突き刺さる牙。


「あぁあああっ!」


 ミゼリアは右肩を噛みつかれ、激痛のあまりに悲鳴を夜明け前の樹海に木霊させる。ムカデはミゼリアを咥えたまま上体を起こすと、その顎を左右に振った。ミゼリアに雄々しくも握られていた剣は上から降ってきて、樹楊の目の前の地に突き刺さる。その剣を引き抜き、ミゼリアの救出を試みようとするがムカデの顎の位置は遥か上にあった。

 身体に受けたダメージは予想以上に大きく、力が入りきらない足ではその高さまでの跳躍は叶わない。その間にもミゼリアはムカデの食事の運びに移ろうとしている。


 どうする。

 そんなの助けるに決まってる。

 だが、どうやって……。


 自問自答してみるも、確実に助けれる方法が思いつかない。闇雲に斬りつけてみるものの、ムカデの腹も背と同じ硬度を持っているようで掠り傷しか付ける事が出来ずにいた。ミゼリアの痛みに擦れる悲鳴も次第に小さくなり、ムカデの動きも比例して小さくなる。待ちに待った食事の時間なのだろう。


 だがそれを阻止したのは、ようやく追い付いてきたゼクトだった。

 ゼクトは高く跳躍すると、針の穴を通す正確さでミゼリアの肩を咥えている口の中に矢を放つ。


「ッギィイ!」


 初めて聞いたムカデの声は想像通り、身の毛がよだつほど気味が悪い声だった。矢が口内に突き刺さったムカデはミゼリアを離し、それが地面に追突する前に樹楊が受け止める。ミゼリアの意識は飛んでいるが、取り敢えず息はしている。元々暗色の戦衣だけに色では判断できないが、出血量は多いのだろう。


「おにいさんは平気?」

「何とかな。それよか、本当にありがとうな。いくら礼を言っても足りねぇよ」


 ゼクトも安堵したのか、少しばかり緩んだ表情を見せてくれた。しかし思わぬ反撃に怒りを露わにしたムカデは耳をつんざく奇声を上げ、その長い身体をめちゃくちゃに振り回す。叩きつけられた地面は大きく凹み、木々は薙ぎ倒され、樹楊らは身を屈めてやり過ごすしかなかった。


 そして暴れ狂うムカデは青黒い球体を四方八方へと吐き出す。完全に我を見失っているのかその球体を吐き出す事は止めず、樹楊達は身を低くしながら何とか直撃を避けていた。だが、その吐き出された球体に変化が現れる。

 地面に当たり、弾けたかと思えば、そこからミスト状の黒い瘴気がもやもやと辺り一面を包み込んでいくではないか。そのミストに触れた植物は例外なく朽ちていく。黒いミストは濃霧のようで、包まれれば自分の手先が見える事はないだろう。


「おにいさん、毒霧だよっ。早く防毒マスクを!」

「ああ、解ってる」


 防毒マスクを被りながら指示をしてくるゼクトに倣おうと、腰にぶら下げている防毒マスクに手を伸ばそうとするのだが。……一つ、足りない。

 気を失っているミゼリアの分が無いのだ。重症である上に、性質の知れない毒を浴びればミゼリアはどうなるのか。だが自分とて同じ事。性質が解らない以上、防毒マスクをしなければ死の可能性は充分に考えられる。樹楊は他人を見捨てる事が出来る男だ。冷酷と言われようが非情と後ろ指を指されようが、目的を果たすまでは死ねない。


 助けれる命は助けたい。そうも思ってはいるが、自分の命と天秤に掛ける事は出来ない。自分が一番であり、自己犠牲という言葉が何より嫌いだ。それならば他の命はないがしろに出来る。そう、思っていた。


 樹楊は意識を閉ざしたまま呼吸を荒く切るミゼリアに視線を落とす。その口から何度も怒りの言葉を出させた。悩みも聞いた。意外に可愛いところもある事が解った、自分の隊長。


「何でこうなるかな。……深く関わるんじゃなかった」


 そうは言いつつも、薄氷のような笑顔を浮かべる樹楊は黒い瘴気に包まれだしている中、防毒マスクをミゼリアに被せる。バンドで固定して外れる事がないように、しっかりと。この時、ようやく命葬蝶が自分の肩に止まった事の意味を知ったような気がした。


 そよ風すら吹かぬ樹海の中で瘴気が広がるのは容易く、ムカデを中心としてみるみる漆黒に堕ちていく。樹楊はミゼリアを腕に抱いたまま眼と口を閉ざした。口を閉じたのは最後まで抵抗する為、目を伏せたのは覚悟を現す。少しでもこの瘴気を吸おうものなら身体中に毒が回るのだろう。口を閉ざす程度でどれくらいの時間を堪えれるのかは解らない。それでも何もしないよりはマシだと思ったのだが、この瘴気は中々しぶとく、一向に晴れる気配がない。


 息を止めていたが、もうそろそろ限界である。胸の中には得体の知れないものが膨らみ始めて喉を突き破らんとしているようだ。酸欠で頭もクラクラしている。終りなのか? もうこれで終わりなのだろうか……。


 全てを諦めようと、樹楊は伏せていた目を力なく開けた。すると、真っ黒な瘴気を突き破るように手の平が襲い掛かってくる。その手は喉を絞め、乱暴に地面へと押し倒してくるばかりか息の根を止めるように気管を潰すほど圧迫してきていた。次いで顔を潰すように何かが覆ってくる。樹楊が無理矢理押し付けられたソレの中で目を開けると同時に、喉の圧迫が解放された。


 樹楊の身体は失った酸素を求めるべく大きく一吸いするのだが、すぐに咽てしまう。しかし無我夢中で再度呼吸をすると、ようやく自分の身に何が起きているのか解った。


 樹楊はそれが解ると目尻が裂ける程に大きく目を見開き、必死に抵抗する。その樹楊の身体に跨っているゼクトは皮肉な笑みを見せてきた。


 自分の防毒マスクを樹楊に押し当て。

 小刻みに震える小さな身体で暴れる樹楊に抵抗をし。

 毒の瘴気を吸っても尚……笑みを浮かべている。


 樹楊は防毒マスクを押しつけるゼクトの手を必死に退かそうと、その細い腕を掴むがビクともしない。自分の上に跨る身体を跳ねのけようとするも、どうにもならなかった。


「ゼクト、何やってんだよお前!」

 マスクの中から籠った声で叫ぶも、ゼクトは何も答えない。


「さっさとマスクしろッ! このままじゃお前がっ――俺の事は放っておけばいいだろ! お前に助けられる義理なんざねぇんだよ!」

 それでも、ゼクトは眉一つ動かさない。


 ゼクトの『ソレ』は、樹楊が嫌いな自己犠牲。

 ゼクトの『ソレ』は、樹楊が抱いた覚悟を凌駕していた。


「ふざけんなテメェ! 止めろっつってんだろ! 止めろって――」

「――――ない」


 喉が裂けるほどに張られた樹楊の金切り声はゼクトの呟きに消される。樹楊は凍ったように動きを止めてゼクトを静かに見上げた。するとゼクトはまた呟く。

 情けないほどの弱々しい笑みで。しかし強い瞳で。


「私は多分……間違ってないから」


 ふふっと笑うゼクトの姿に、背中一面を強く打たれたような感じがした。

 

 間違ってる、こんなの間違ってる。

 樹楊は震える唇を堪えるように奥歯を強く噛み締めた。流したくない涙が目尻から溢れてはマスクの縁に溜まっていく。真っ黒な霧を纏うゼクトの姿は強く優しい。


「泣かないでよ。私はまだ死ぬって決まったわけじゃないんだよ?」

「るせぇよ、お前の為に流す涙なんかねぇよ」


 樹楊がゼクトの腕を掴んだまま何も抵抗出来ずにいると瘴気も晴れてきて、その中からあの巨大なムカデが姿を現してきた。ムカデは満足気に弱り始めたゼクトを見下ろすと、その長い身体をうねらせる。


 全ての瘴気が無になった事を確認したゼクトは樹楊から離れて弓型にした大鋏を構える。何ともなさそうに見えたが、足ががくがくと震えていて口からは血が流れてきていた。


「ゼクト、早く逃げろ! ここは俺が何とかすっから!」


 ゼクトは背を向けたまま視線だけを向けてきてシニカルに笑う。


「おにいさんはキラキにいるスクライドの警備兵とあの獣人の子を応援に呼んで来てよ。それまで持ちこたえるからさ」

「持ち堪えるって……無理だろ、そんな身体じゃ!」


「大丈夫。あの毒は即効性はあるけど死にはしないみたい。それに私にはとっておきがあるのよ。だから……お願い。解毒剤も持って来てもらえれば助かるかな」



 ゼクトが嘘を言っているようには思えなかったが、持ち堪える事が出来ないのは誰が見ても解る。確かに即効性の毒だが、死に至らしめるほどではない。もし毒死させる為の毒なら、もうゼクトは死んでいるだろう。


 自分が今出来る事は、ミゼリアをキラキまで運んで増援を呼び、そしてキラキの街にあると願う解毒剤を持ってくる事だ。ゼクトはテコでも動きそうにもない。そうともなれば、こうしている時間も無駄になるだけ。


 樹楊はミゼリアを担ぐと、

「戻るまで何とか持ち堪えろよ! すぐに帰って来るから!」


 吹っ飛ばされた距離を考えれば、ここから街までは三十分で行ける。往復一時間強。何としてもゼクトを助けなければならない。


 軽い身のこなしで疾風のように駆けて行く樹楊の背を見送ったゼクトは一度吐血すると、手に付いた血を馬鹿馬鹿しそうな瞳で見る。しかし意を決したように口を拭うと弓を剣のように握り締める。


「ねぇ、クソムカデ。仕方無いからとっておきを見せてあげる」


 ゼクトは弓を素早く分解すると、深紅の長衣の中からまた一本の刃を出す。そしてそれを慣れた手付きで組み立てると、二本の弦を持つ無骨な弓となった。


「破壊弓――零型」


 セットされるのは通常の矢よりも太く、長い。そして先端はドリルの刃のように螺旋状。これは的を射る弓矢ではなく、的を破壊する弓矢。その奥から覗く瞳は冷酷に微笑んでいた。



 ◆



 樹楊がキラキの街に増援を呼びに行ってから十分は過ぎた頃、ゼクトは巨大なムカデと激戦を繰り広げていた。もし毒が回っていなければもっと楽に戦えたのかもしれないが、済んだ事に文句を言っても仕方ない。


 破壊弓・零型から放たれた二本の矢はムカデの身体を貫く事が出来た。しかし目的の破壊に至らないのは、その硬度があるからなのだろう。何本も撃てれば勝機はあるのだが、この弓を引く為に使う力は計り知れないほどで、身体が万全の状態でも十本撃てれば上出来だろう。それに弓事態にも負荷が掛かる。二本放たれた状態で、短剣の方にヒビが入っている。


 あと一本……か。

 ゼクトはムカデの連撃を避けながら隙を窺う。あと一度放てば、この弓は間違いなく壊れるだろう。今まで使えずにいたのは、これを懸念していたからだった。壊れる前にメンテナンスや補強をすれば問題もないのだが、今はそんな悠長な状態ではない。


 自分は何をしてるのか。

 何で惚れてもいない男を庇って、と考えるフリをしても解りきっている事だ。あのどうしようもない男が蓮を救えるただ一人の人であるからだ。ただそれだけ。

 何も樹楊の為じゃない。全ては友である蓮の為なのだ。


 間違ってない。うん、間違ってなんかいない。

 ゼクトは何度もその思いを繰り返して奥歯を噛み締める。


 自分はまだ動けている。適当に言ってみただけだが、あの毒は死に至らしめるほどの効力はないようだ。身体中が悲鳴を上げてはいるが悪化はしていない。


 あと一度だけの反撃の機会を待っていたゼクトに、その瞬間が訪れる。

 巨大ムカデが遥か高い位置から大口を開けて襲い掛かってきたのだ。


 一度口内を射られてるのに、また口を広げるなんて馬鹿なやつだ。

 ゼクトはそう思いながら口の端を吊り上げて得意気に笑い、背筋を伸ばし、的を見据えながら矢を引いた。……のだが。


 ――引けない?


 矢を引くだけの力が腕に残されてはいなかった。

 まだ戦えるのに、まだ動けるのに腕は思い通りに動かない。


「くっそォォォ!」


 ゼクトは足場を気にもせずに横跳びで避ける。しかし着地地点は泥でぬかるんでいて、足を滑らすと勢い余って前転。受け身も取れずに背を打ち付けると息を止められたが、二度三度も咽ている場合じゃない。


「くそ、何でよ! あと一度だけっ、一度だけ!」

 ムカデの追撃はゼクトを大木まで吹き飛ばす。


「ごほっ! けほ……、くそ、くそっ。ちっくしょぉ……」


 あと一度だけでいい。それだけでいいんだ。

 この弓を引ければ、引く事が出来れば。


 しかしムカデの一撃で体力をごっそりと奪われてしまった。こうやって座ってる事も辛い。諦めてしまえば楽になれるだろう。だけどそれは出来ない。

 ここに樹楊が来るから。だからこのムカデを生かしておくわけにはいかない。


 ムカデは勝ちを悟ったのか、ゆるゆるとした動きで吹き飛ばしたゼクトを追う。長く伸びた草木を掻き分け、待ちに待った食事だとばかりに余裕を見せながら。

 そしていよいよ食事との対面、のはずだった。だがゼクトは黙って喰われるほど素直じゃない。


「私からの差し入れでも食べてろ」


 ゼクトは座ったまま弓を引いて待っていた。

 両足で弓の先を押さえ、両腕で矢を引きながら。


 ムカデもその兇刃な矢の輝きに慌てたのか、すぐに身を引こうと動いたのだがゼクトはそれを許さない。力を抜くように両手を離して限界まで引かれていた矢を放つ。


 轟々たる風の音を奏でた矢は大気を切り裂き、ムカデの口を目掛けて飛んで行く。


「じゃあね」


 ゼクトの別れを告げる言葉と同時に矢はムカデの口内に侵入し、刹那、その上顎ごと吹き飛ばしてしまった。ムカデは身体をうねらせるが、ほどなくしてその動きを止めて後ろへと崩れるように倒れる。身体は硬いくせに死ぬ時は柔らかい動きを見せるんだ、とゼクトは壊れた大鋏を手から落とした。


 全てが終わったと思うと、身体から力が抜けていく。それでも帰りたいと思うのは何故だろうか。……無理してでも帰りたい。その理解不能な思いに駆り立てられるようにゼクトは立ち上がる。まだ壊れていない大鋏の長剣を杖にして、よろよろと。


 小刻みだった呼吸は大きくなり、身体はより多くの酸素を求めた。肺が苦しく、血液に鉛が溶け込んだかのように全身が重い。視界も定まらない。何故? あの毒は死を目的とした性質はなく、獲物を弱らせる毒だったはず。それなのに、何故こんなにも死を身近に感じるのだろう。

 

 遠くを見つめる瞳で、暗闇の中でスイッチを探すように手を伸ばしているゼクト。ぼろぼろの身体を引き摺り、ただ前を目指す。歩き先が何処に繋がっているのかなんてどうでも良かった。


「げほ! ごほっ、ごっ……」


 べちゃっと粘着質な音と共に生暖かいものが手に吐き付けてしまった。それを見たゼクトは納得。


 ああ、そうか。

 あの毒は獲物を弱らせる為の即効性のある毒と、仕留め損ねた場合の……道連れにする為の遅効性の毒、二つの性質を持つ毒だったんだ。しかも遅効性のある毒は厄介だ。確実に死に至らしめる為の毒なんだ。


 ゼクトは木に背を預けるとずるずると地に腰を下ろす。

 ここが何処なのか解らない。ぼやける視界だ。

 それでも夜が明けた事くらい解っていた。


 朝日は樹海の中にいるゼクトを柔らかく照らしている。木々は夜明けと共に朝露を輝かせ、冷たい風を招き入れ始めた。ゼクトは冷たい朝風にレモン色の髪をなびかせ、心地良く思いながらポケットから飴を取り出す。


「これで最後か」


 ぺりぺりと包みを開けると、白濁したミルクの飴が現れる。

 これはラッキーかもしれない。何せ、一番好きな味の飴だ。


 その球体を力なく開けた口に入れて舌先に乗せて、ころっ……ころっ、と転がすが鉄錆のような味しかしなかった。全く、ラッキーじゃないじゃないか。期待したのは甘くて濃厚な味だというのに、自分の毒塗れの血がそれを邪魔してくる。不味い事この上ない。


 ゼクトは棒を摘まんで口から出した。

 その飴を朝日が、照らす。


「あはっ…………あははっ」


 ゼクトは込み上げてきた思いに遠慮する事無く笑った。ずっと被ってきた帽子を取り、よくよくその飴を見る。口の中に入れる前は確かに白かった。だが今は真っ赤になっている。


「おにいさんが好きなイチゴ味になっちゃった」


 その飴に付いている棒を地に刺して、地表に指を滑らせた。

 瞬きをする度に世界は明暗を繰り返し、その合間に色々な仲間達が瞼の裏に映る。その中には家族もいた。自分が見捨ててきた家族だ。


 父さんや母さんは何をやっているだろうか。泣き虫の妹は今も泣いているのだろうか。そう思うと、涙が零れてきた。もう一度会いたい。母さんが作ってくれたクリームパイが食べたい。父さんが作った時計で刻む時間を見たい。泣いている妹を慰めながら一緒の布団に包まりたい。


 一つ、二つと涙を零していると、目の前に樹楊が現れた。負傷したミゼリアも無事のようで微笑んでいる。樹楊の後ろには獣人の女の子がいて舌打ちをしていた。それでやっと解った。以前、アギの救出に向かう際に樹楊の頭の上に乗って睨んできていた猫がこの獣人の子であると。


「おにいさん、来てくれたんだ?」

「当り前だ。お前には借りがまだある」


「……そっか」


 ゼクトは樹楊に解毒剤を飲ませてもらい、その広い背に担がれる。

 暖かい。身体の痛みも気だるさも消えていく。それは解毒剤が効いているからなのだろうか。それとも、この背中が本当に暖かいからなのだろうか。

 ……どうでもいっか、そんな事。


「なぁゼクト」

「うん?」


「戦……終わったらしい。全部終わったんだ」

「え? 何、それ」


「蓮も帰ってきたんだ。これからはいっぱい遊べるぞ?」

「遊ぶって……馬鹿じゃないの? 私は傭兵で」


「いいじゃねーか、もう。蓮とお前と、俺で楽しく暮らそうぜ? 旅とかしてよ」


 いいじゃねーか、もう。

 ……そうかもしれない。いいのかもしれない。

 戦が終われば傭兵なんて必要ない。自分の隊を持つのが夢だったけど、それを破棄して蓮と樹楊と一緒に旅するのも悪くはない。


 揺り籠に揺られるように心地良くなり始めたゼクトが小さく頷くと、樹楊は嬉しそうに――――。



 ◆



 朝日が差し込む樹海の中を樹楊は大きく腕を振って駆けていた。連れてきたキラキに派遣されていたスクライドの兵はその速さに追い付いてはいないが、樹楊は振り返りもしない。


 かれこれ何十分も走り続けていて肺が破裂しそうだが、ここで足を止めるわけにはいかなかった。折角解毒剤もあったのだ。何としてもゼクトに届けなければ。


 ミゼリアも衛兵に頼んで手当てしてもらっているから安心だし、警備兵にスクライドへの緊急連絡も取らせた。向こうには何も問題はない。あるのはこの樹海の中なのだ。


 樹楊は倒木の上を跳ね、瞬時に足場を確認しつつ駆ける。一分でも、一秒でも早く辿り着く為に。


 無事でいてくれ。

 その思いだけが何度も何度も小さな心の中で木霊する。


 そして、樹海の中で少しばかり拓けた場所に出ると、その先の大木に座るゼクトを見付けた。朝日が邪魔で良くは見えないがこちらを見て微笑んでいる。ゼクトはあの巨大ムカデを倒してきたのだろうか。だとすれば凄過ぎる。


 嬉しさが込み上げてきた樹楊は少しだけ呼吸を整えると、満面の笑みで駆けて行く。それは子供のように、大人らしからぬ笑顔。こんなに嬉しい思いをしたのは何時ぶりだろうか。すぐに解毒剤を飲ませて安心させてやりたい。そして帰ったら飯でも食いながらこの一件を笑い合おう。


 次々に浮かんでくる楽しそうな事をまだ喉の奥にしまい込み、駆ける。


「おい、ゼクトっ。無事――」


 樹楊は言葉を失うと足をも止めた。

 帽子を取って微笑むゼクトの肩に、


「うそ…………だろ?」


 赤く輝いている羽を揺らす命葬蝶が居た。


 樹楊は覚束無くなった足でふらふらと歩み寄ると、がっくりと両膝を着いて手を伸ばす。風に吹かれて冷たくなった肌、指を滑らせて首筋へ。


「うそ、だ。何でっ」


 脈が、ない。

 笑ってるじゃないか。幸せそうに笑ってるじゃないか。

 なのに何で脈がない? 何で息をしてない? 何で「触るな」と口を尖らせない?

 なぁ、何でだ?


 樹楊は力が全て抜け切ったゼクトを抱き締めて嗚咽を漏らす。それでも泣きたくなくて、ゼクトの長衣を噛み締めていた。手に握り締めた解毒剤の瓶を砕き、血に染まる手で頭を抱えてやり、しっかりと抱き締める。


「何でだよ、ゼクトぉ……。何でお前がっ。……大丈夫って言ったじゃねぇかよ。起きろよ、このやろう。起きろってんだろ、やんちゃ娘……。こんなの、こんなの! …………らしくねぇだろうがよォ」


 苦しかっただろう、痛かっただろう。誰も傍にいなくて、独りぼっちで。

 それでもこんなに幸せそうな顔をして、どんな夢を見ているのだろうか。……そこに争いはあるのだろうか。笑って暮らせる世界なのだろうか。ゼクトが望むものがいっぱい、いっぱいいっぱい詰まっている世界なのだろうか。


 その答えは解らない。誰にも。

 だた夢を見続けているゼクト以外の、誰も。


 ゼクトの長衣の端を噛み締めて声を殺す樹楊は、ひたすら涙だけを流した。その腕に包まれるゼクトはやっぱり幸せそうに微笑んでいる。本当に、幸せそうに。




 ゼクトリア・イルウェイ。

 クルードに仕えていたが、途中で蓮を連れて赤麗に身を置く。

 第四期という身も凍える季節に樹海という鬱蒼とした中、独りで静かに十六歳の歳月に幕を下ろした。戦が生業の傭兵が若くして死す事は珍しくもない。だがその死は、樹楊にとってあまりにも大きいものだった。


 ぶっきらぼうな口調も、迷惑そうな態度も、帽子の陰から送られる冷たい視線も何もかも……もう戻らない。僅かに垣間見たゼクトの素顔も、もう二度と。





 ゼクトの死から十日が過ぎた、キラキの樹海の中。

 樹楊はゼクトが終わりのない夢を見始めた大木の元までやってきた。その隣には紅葉と、その身体を支えるイルラカ。


 樹楊は生気の抜けた目で、下瞼にクマを作っていた。

 眠れなかったのだ、眠れるわけがなかったのだ。身を案じたサラが歌を歌ったが、それでも眠る事が出来なかった。人の死は何度も目の当たりにしてきた。誰もが同じ重さの命を持っている事は解っている。だけど、辛かった。


 ゼクトは命を落とした次の日には火葬され、灰となった。残っているものは思い出と、目に焼き付いている色んなゼクトの顔、姿。耳の奥で残響となっている声だけだ。

 

 ゼクトに倒された巨大なムカデの死骸は解剖されて研究の材料となってはいるが、その詳細はまだ不明だ。ただ、昆虫の亜種とだけされている。


 樹楊は大木の元に一輪の花と、ゼクトが好んで口にしていた飴を何本か添える。死者に対する供えをしてみても実感が湧かない。スクライドに帰れば、またあのぶっきらぼうな声が聞ける気がしていた。


 ふと、視線を外すとその先にある物が目に映る。それを見た樹楊。


「……笑えねぇんだよ。お前のギャグセンス、どうかしてるだろ」


 涙を浮かべて歪む唇の端が自然と釣り上がる。

 樹楊の眼に映ったのは、地面に刺さる棒の上に付いている赤茶けた球体。それはゼクトが最後に口にした飴で、その横の地表には『イチゴ味』と指で書かれていた。

 最後の最後に何を考えているのやら。


「なぁ、紅葉」

「……ん?」


 呼ばれた紅葉は静かな声で返した。


「傭兵ってのは死ぬのが日常だろ? こういう時ってどんな気分だ?」

 紅葉は目を細めると木の枝から飛んで行く鳥を見た後、しっかりとした声で返す。

 

「何人も仲間を失ったけど、それを悲しまなかった事は一度もないわ」

「……そっか」


 樹楊は涙を一つ溢すとゆっくりと立ち上がって紅葉の元まで行き、その身体を抱き締めた。何も愛おしく感じたわけじゃない。何かにすがりたいわけでもない。


「ごめん。……俺の所為で」


 ただ、その言葉を吐き出して楽になりたかっただけだ。自分の判断の甘さや弱さが招いたゼクトの死を、紅葉の痛む心に謝って楽になりたかっただけ。これ以上苦しみたくなかった。

 紅葉は樹楊の言葉を聞くと息を詰まらせ、そっと伏せた眼から涙をぼろぼろと流す。イルラカから手を離してもらい、樹楊にすがるように腕を回して顔を胸に埋めた。


「アンタの、所為じゃっ……。そんな事言ったら、ゼクトだって……」

「それでも、ごめっ……俺っ、おれ。何もでき、なかっ。…………ごめ、ん」

 

 紅葉がくれたのは、自分が求めていた優しさだった。暖かさだった。許しだった。綺麗事は言わない。これが欲しかっただけだった。誰かに許されて、無力な自分を正当化したかっただけだ。だけど、今こそ強く誓う。



 ――――強くなる。



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