第二十二章 〜異変〜
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ダラス連邦から大戦の布告をされてから七日が過ぎた。そして今日の正午、大戦は二ヶ月後である四期の終わりに行われる事が正式に決定。樹楊は朝から夕暮れまでの間、ずっと訓練施設に籠りきって自分の型を見直していた。師と呼べる者が居ればアドバイスを受ける事が出来るのだが、生憎我流である為に自分自身が見直さなければならない。それに加え、樹楊は剣術に長けるわけでもない。
「付け焼刃……か」
剣をホルダーに納め、森から抜けると腕を組みながらも満足そうな表情を浮かべるミゼリアにタオルを手渡された。
「やっとお前も真面目に取り組む気になったか」
「真面目とは違いますけどね。ただ死ぬわけにはいかないんで最終チェックっす」
「そうかそう――、って最終っ?」
そんな馬鹿な! というような顔で驚くミゼリアを無視し、タオルで顔を拭いて水で喉を潤す樹楊。明日からここに来る予定はない。ミゼリアに告げた通り、今日が最終チェックのつもりだ。
「それよりもミゼリン、大戦の日は決まったんすか?」
「ミゼリンじゃない。ったく、何度言えば……。それよりも大戦は二ヶ月後に決定した。四期の終わりだな」
四期の終わりともなれば、薄紅の花弁を幻想的に咲き誇らせる桜が見頃な季節を目の前にする頃だ。その桜が咲くよりも早く、大戦の幕は下りるのだろう。故郷の端にある桜の木が今年も見事に咲いてくれるといいのだが。その時、自分は生きていられるのだろうか。
ミゼリアは樹楊の心情を悟っているのか、戦の事は口に出さずに一緒に訓練施設を出た。外はやっぱり薄暗く、丁度腹の虫も泣き始める時間帯。汗は自宅で流せばいいだろう。このままスクライド城内にあるシャワーを使ってもいいのだが、何より他の隊員達と顔を合わせたくもない。サボり魔の自分が訓練をしたという事実は下らない談笑の種となる事は解りきっている。
樹楊はミゼリアと一緒に食事をする約束をし、先ずは汗を流そうと早々に帰ろうとしたのだが、息を切らして駆け寄ってきたミネニャに道を遮られてしまった。ミゼリアは少しばかり考えたが、キラキの樹海で会った獣人である事に気付くと一人で頷く。
「ミネニャ、どうしたんだ? そんなに血相を変えて」
「た、たたた大変なんだっ。キラキの森がっ、大変な事に」
わたわたと身振り手振りをして伝えようとする気持ちは解るが、何を伝えたいのかは解らない。樹楊が口での説明を促すも、ミネニャはパニックに陥っていて獣人族の共通語を混じらせるものだから余計に解らないでいた。
遂には首を傾げる樹楊にミネニャは逆ギレをし、鋭く尖る爪を剥き出しにしてきた時、ミゼリアの通信機が呼び出し音を鳴らす。少し可愛らしいメロディが、樹楊の興味を引いた。
「は、はい。ミゼリアです」
ミゼリアは頬に朱を散らすも、誤魔化すように背を向けて通話をする。可愛い音に設定してるんすね、と馬鹿にしようとした樹楊だったがそうもいかなくなった。ミゼリアが通話を終えるとミネニャと同じように表情に焦りを浮かべたのだ。
「大変だ。キラキの樹海が未確認の魔物の被害にあっているらしい」
ミネニャは力強く頷くと樹楊に弱々しい瞳を向けた。
一体何を求めているのだ、と思いもしたがそんなにすがられるような目をされると無下にも出来ない。スクライドの領地であるキラキの街に被害が広がる事は目に見えてるからには、上も調査の任務をどこかの隊に出すだろう。それは自分の隊じゃなくとも、ミネニャの不安は取り除いてくれるはずだ。
「大丈夫だミネニャ。ミゼリンの隊は俺とミゼリンしかいないから任務の命は来ないと思うけど、他の奴等が何とかしてくれる。だからそんなに心配するな」
耳をへなっと伏せるミネニャは不安そうに喉を鳴らすが、樹楊の言葉に頷く。樹楊以外の者を信用していないのだろう。樹楊は取り敢えずミネニャの耳を隠すようにマフラーを頭に巻き付けてやり、それから撫でてやる。身長こそ自分よりも少し低いだけだが子供のような奴だ。こうして頭を撫でてやれば笑顔を見せてくれる。
「キヨウはキラキに向かわないのか?」
「多分な。任務は個人か隊で動くから、上も二人だけの隊に任務を命じる事はないだろ。報告の通り、未確認の魔物の調査と駆除なら最低でも五人編成の隊が動くはずだからな」
その言葉にしょんぼりするミネニャ。
樹楊の服の裾をちんまりと摘まんでいる。
その期待に応えてやれないのは申し訳ないが、自分ではどうしようも出来ないのだ。
◇
「では、ミゼリア小隊に動いてもらいましょうか」
「…………何で?」
ニコニコと告げてくるラクーンに対し、思わずタメ口になってしまった樹楊。少しばかり非難の視線を受けもしたが、そんな事は気にしてはいられない。隣で聞いていたミゼリアも言葉を失っていた。
「だから、ミゼリア小隊に動いてもらいますって言ってるんですってば」
各小隊が徴収された場で、ラクーンは大して考えもせずにミゼリア小隊に任務を命じた。小隊、というよりもペアと呼んだ方がしっくりくる。その決定にアギも反対したが、ラクーンは決して変えようとはせずに耳を塞ぐ。ここに居る誰もが『何で二人だけの隊に?』と思っただろうが、ラクーンには考えがあった。
「いいですか? キラキの樹海は未だに不明な点が多いんですよ。加えて足場も悪いと報告を受けています。今回の任務は魔物の討伐にはあらず。ただの調査です。その調査を終えた後、正式に討伐メンバーを決定します。何も情報がないまま現地に向かっても無駄に犠牲を増やすだけです」
確かに言われればそんな気もする。
大戦を控えた今、一人でも失いたくないのがスクライドの現状なのだ。キラキの街の住人には少しばかり堪えてもらう結果となるが、ここは慎重に慎重を重ねる必要がある。
「と、言うわけですので。ミゼリア小隊は明日の夜明け前には発って下さい。そしてキラキの街に着いたら一度報告を。それから指示を出します」
「了解しました」
ミゼリアは模範的に礼をすると無礼な樹楊の腕を引いて部屋を出ようとするが、ラクーンが言葉で追い掛ける。名を呼ばれたのは樹楊。
「キミはまだ死んではいけない。そうでしょう?」
その言葉は『深く首を突っ込むな』と解釈した樹楊は「当然です」とだけ返して部屋を出る。そう、自分はまだ死ねない。まだ故郷を救ってはいないのだ。情けなく生にしがみ付いてでも生き抜かなければならない。せめてダラスとの大戦までは。
樹楊が任務に出ると聞いたミネニャは嬉しそうに耳を立てて喜んだ。きっと樹楊ならなんとかしてくれると過大評価しているのだろう。だが樹楊の胸の中には一抹の不安が身を潜めていた。
そして翌日の正午。
何事もなくキラキの街まで来る事が出来た樹楊らは、街の住人と訪れていた行商人から詳しい事情を聞き出すと飲食店の片隅に席を設けた。掻き集めた情報を組み立てれば、どうやら樹海の北東に位置する滝周辺に異常が見られるらしく、その近辺の植物が腐敗しているとの事。
今年も例年通り、別段変わらない気象だ。それなのに今年だけ異常が見れれると言う事は人為的、あるいはその他の要因が考えられるとミゼリアと樹楊は判断。それについてはこっそり着いてきたミネニャも賛同する。しかしこれだけの情報で魔物による被害だとは断定出来ない。
「このままでは被害が広がる一方だ。そうなればキラキの街の住人はもっと苦しむ事になってしまう」
「そうっすね。滝周辺は一期と三期になれば山菜やらキノコやらが豊富に採れる場所っすからね。キラキどころか行商人にも影響が出ます」
勿論ミネニャにもな、と樹楊はミネニャの頭を撫でてやり不安を和らげる。しかし充分とは言えない情報にミゼリアは腕を組んで考え込んだ。何を考えているかは大体解る。自らが森へと調査に乗り出そうと考えているが、しかしそこまでの許可を得ていないが為に動けずにいる事を歯痒く思っているのだろう。
むむむ、と口をへの字に結んで眉間にしわを寄せている。樹楊は既に紅茶を飲み干したというのに、ミゼリアの紅茶は最初の一口から量に変化がない。
出ない答えを待つ気にもなれない樹楊は、隣で肉料理をパクついているミネニャを横目にミゼリアに言う。
「スクライドに連絡を取って現状の報告をして下さい。そんで腕が立つ者を一人、出来れば二人を増援に。その増援者と俺が樹海に向かいます」
「調査ならば私が」
「駄目です」
「何故だっ」
樹楊はミネニャを見た後、ミゼリアの眼を真っ直ぐに見つめる。今にも胸倉を掴んで来そうなほどに険しい剣幕を貼り付けているミゼリア。ミゼリアに限ってそんな乱暴な事はしないだろうが、それほど反対している事が見て取れる。
「ミゼリンは俺とスクライドの繋ぎ役をして下さい。俺が樹海の調査報告を現地からするんで、それを伝えて欲しいんっすよ。その役は俺に向かないでしょう? もし魔物がいても戦闘は展開しないんで、心配しないで下さい。討伐は俺の仕事じゃないんで」
腕を立つ者が必要なのは、いざという時の備えっす。と樹楊は付け加えてミゼリアの反応を待った。ミネニャも置いていくつもりだ。あれほど戦闘的なミネニャが不可解な出来事に怯えているのは火を見るよりも明らかだし、第一スクライドの者ではない。獣人族である事を増援者に説明するのも面倒だとも思っている。
ミゼリアはようやく紅茶を二口目にするとグラスを置いて仕方なくといった感じで頷いた。部下だけを危険に晒すのは忍びないのか、うずうずしている。自分の体調であるミゼリアの気持ちを組みたいのは山々だが、それでも同行させるわけにはいかない。
早速スクライドに連絡をしようとするミゼリアに、樹楊は人数分の防毒マスクを持たせるように頼む。何故だ、と訊いてくるミゼリアに返す答えは、
「もし魔物なら、毒性の強い瘴気を持っている事になります」
◇
深夜未明、キラキの街の西側で待っていたミゼリアと樹楊の前に一台の軍用バイクが円を描くように後輪を滑らせて停車した。樹楊が要請したスクライドからの増援であるが、その当人は不本意なのか物凄く機嫌悪そうに目を細めている。
「ゼクトリア・イルウェイです……。増援です」
ぶすっとしながらミゼリアに頭を下げる増援者は赤麗のゼクトだった。ゼクトの本名を知って何故だか楽しそうに頭を撫でる樹楊だが「触んないでよ」と手を払われてしまう。そんなゼクトの口からは二本のプラスチック棒が出ている。恐らくいつも口に入れている棒付きの飴なのだろうけど、何故二つ同時に舐めているのか解らない。まぁそれで不機嫌が和らぐなら良しとした。
「ゼクト、増援はお前だけ?」
樹楊が何気なく訊くと、
「何か不満でも?」
ゼクトはドスの効いた声で睨む。
本当の本当に不機嫌なようだ。帽子のツバの陰に影を落とされている目から送られてくる視線が、氷よりも冷たい。そこまで苛立つなら断れば良かっただろうに、と樹楊は思う。樹楊とて不機嫌なゼクトよりも礼儀正しいイルラカの方がいい。イルラカだったら笑顔で『樹楊さま、樹楊さま』とか『あなたは私の英雄です』とか。
そう思うと、イルラカの満面の笑みがモヤモヤと浮かんでくる。正直鬱陶しいものがあった樹楊は浮かんできたイルラカの笑顔の百花繚乱を、虫でも払うかのように手をパタパタさせて追い返した。
それなら紅葉はどうだろうか。
『何よ、この不細工。ちゃっちゃと働き――』こいつは論外だ、と同じ様に手をパタパタさせて妄想を追い払う。結局の所、着かず離れずのゼクトが適任である事が解った樹楊。ゼクトの眼をじっと見て「何よ」と、睨まれもするが頭をぽんぽんと叩いて何度か頷いた。
ゼクトは訳の分からない接し方をしてくる樹楊に益々腹を立てたのか、持ってきた防毒マスクと放るように渡す。顔の一面だけを覆うタイプの物で、強化ガラスの目元は視界の妨げを最小限に抑えていて、口の部分は天道虫のような形をして盛り上がっている。裏側には解毒作用がある液体がセットされており、顎の先にあるツメを折ると空気と混じり合って気体になる。と、ゼクトはぶっきらぼうにだが説明してくれた。それを吸っている限り、毒の霧の中でも平気らしいのだが。
「液体が全て気体になるまではおよそ二十分。んで、そこから更に十分程度は解毒の効果は得られるようになってるから」
「これってスクライドのモノじゃねーよな? 本当に効果あんのかよ」
興味深そうに防毒マスクを色んな角度から見る樹楊にゼクトは長嘆。樹楊の手から乱暴に防毒マスクを取り上げる。
「私が作ったものだけど、いらないの? おにいさんの国にはロクな解毒剤がなかったのよ。お陰で貴重な材料がスッカラカンなんだからね」
「作ったって……お前が?」
信じられない、といった反応を見せる樹楊の態度にゼクトはムッとした顔を見せ、口から出ている棒二本がぴこっと上に向いた。その様子は間抜けであるが機嫌を損ねたのは事実であり、目尻が細かく痙攣している。
「あのね、ダラスで見たでしょ? 私は薬品関係の調合は得意なの。医療から毒物、それにおにいさんに使った媚や――」
媚薬、と言い掛けてハッとして口を閉ざすゼクトに樹楊は眉根を寄せて首を傾げる。びや……何なのだろう。びや、が付く薬品を使われた事など一度もない。
樹楊が送る視線は次の句を待っていたのだが、ゼクトは取り乱す事はなく、しかし空咳。防毒マスクを放り投げてくると、
「ダラスでおにいさんが刺されて応急処置した時に使った薬品に『ビヤガル』って止血材を使ったのよ。それだけ」
へーっ、と感心する素振りを見せた樹楊に背を向けたゼクトは『馬鹿で良かった』と聞こえない声で呟いて胸を撫で下ろす。どうやら誤魔化し方は首領である紅葉よりは巧いらしい。樹楊の反応も普通だ。
「しっかしまぁ、毒物の知識もあるなんて、お前って結構博識なのな」
「医療に携われば嫌でも覚えるわよ。特に私達みたいな傭兵は色んな地を渡り歩くからね」
ゼクトは冷めている反応しか見せない。時々笑ったりもするが、普段は多方面に対して無関心であり、自分が興味を持った事にしか喰らいついて来ない。愛想笑いや相手に調子を合せる事など皆無だ。接しにくい奴、と樹楊は思っているがそれでも近くに来られると少しだけ鼓動が大きくなる。
恋……とは違う、気が逸るような。それは依然ゼクトに挑発されたからだろうか。何か悶々としてスッキリしない。何時までもこんな気持ちを引き摺るのは勘弁だ。
風が吹けばゼクトのレモン色の長い髪が揺れ、甘い香りが流れてくる。良く見ればまつ毛も長く、ふとした視線を向けてくる時の顔も優しい顔立ちである事が解った。隠れた魅力、とでも言うのだろうか。
「調査に向かうんでしょ? 早く終わらせて帰ろうよ」
「そうだな。それよか髪縛った方がいいぞ? 樹海は草が伸び放題だし」
「いいわよ、別に。おにいさんは自分の事だけ気にしてればいいの」
「うーん、でも邪魔だろ? 折角綺麗な髪してるんだし、やっぱ縛った方が」
「いいって言ってるでしょ」
「でも――」
しつこく喰らい下がる樹楊に対し、ゼクトは片眉を跳ね上げて口に含んでいる飴に付いた棒を素早く手にする。
「――っむ」
「それ上げるからもう喋らないで」
樹楊は口の中に広がっていくバニラの味に目を見開き、横で見ていたミゼリアに到っては餌を待つ鯉のように口をぱくぱくさせて馬鹿面をした。ゼクトはようやく静かになったと腰に手を添えて鼻を鳴らすと、顎で目的地に促してくる。
ゼクトはうるさい樹楊の口を塞ぐ為に、自分が舐めていた飴を樹楊の口の中に突っ込んだのだ。それを受けた樹楊は未だにぽかん、としている。間接キスとかなら気にもしないのだが、これは少しばかり刺激的かもしれない。ついさっきまでゼクトの口に入っていた飴が自分の口の中にあるのだ。歪に溶けた形が舌で解るのが妙に生々しく、心臓はバクバクだ。
樹楊は舐めるべきか返すべきか迷っていると、こちらを変な目で見てくるミゼリアの視線に気付き、棒の端を摘まんで口から飴を出す。そしてそれをミゼリアに差し伸べた。
「舐めます?」
「んな、なな舐めるかっ」
「…………ですよねー」
飴の行き場は自分の口の中でしかないらしい。捨てればあの大鋏でゼクトに切られそうだし、ここはやはり動じない素振りでやり過ごすしかない。馬鹿を見るようなミゼリアの視線は痛いが、これは少しばかりラッキーな気もする。ゼクトはサラとは違う意味で気になる存在だ。それが不純な気持ちだとしてもそれが男の性と言えばそこまでだろう、と樹楊は都合良く納得。でも……。
「俺、イチゴ味の方が良かったな」
「文句は言わない」
ぶっきら棒に吐き捨てるゼクトの口の中では真っ赤な飴がゆっくりと溶けていて、イチゴの甘酸っぱい味を広げていた。
◇
樹海に足を踏み入れて一時間が過ぎようとしていた頃、樹楊は未だに漆黒の世界を見回しながら空が白み始めるのを切に待っていた。人間は夜行性ではない。いくら旅をしてきたとは言え、夜の世界は辺りを警戒するだけで体力が削られる。しかしミネニャは独りでこの世界を生きてきたのだ。そう考えると改めて獣人族が自然界に特化された戦闘民族である事が解る。今になって引き返して連れてくるのも遅すぎるだろう。
不味ったな、と苦虫を噛み潰したような顔で独白する横にはゼクトが居る。それも平然とした顔でだ。
これには樹楊も驚いていた。
傭兵であるゼクトが、倒木やら苔やらが覆い尽くす地を難なく進んで来れるとは思ってもいなかったからだ。一時間も歩けば息を切らして弱音を吐くとさえ思っていた。ソラクモに向かった時、バテバテだった紅葉とはえらい違いを見せつけてきている。
感心の視線に気づいたゼクトは鬱陶しそうに溜め息を吐いて、それから樹楊に目で「何?」と尋ねる。こんな時、とは言わないが、いつも飴を舐めるのはどうかと思う。樹楊は突き刺さってくる視線を免れるべく、素直に思った事を口にする。
「お前、疲れねぇの?」
「傭兵のクセに? ――って?」
うっ、と言葉を詰まらせる樹楊を見たゼクトはまたも嘆息。しかし今度は得意気ではある。心を見透かした事が嬉しかったのだろう。先に付いていた飴が無くなった棒を適当な場所に吐き捨てると、ポケットからまた飴を取り出す。一体何個常備しているのやら。
「薬品の調合が得意って言ったけど、それ自体が好きでもあるんだよね。数種類混ぜ合わせるだけで一つの特効薬が出来上がるのが嬉しくてね」
一旦区切ったゼクトは、真っ白の球体の飴を口にして顔を僅かに綻ばせてから言葉を繋げる。
「新薬開発ってのはもっと好きで、その為には薬草やら何やら必要になってくるでしょ? だからこのような樹海や断崖絶壁の崖に身を投じるのは慣れてるのよ。それよりも私の方がおにいさんに驚いてるわよ。見たまんまヘタレなのに随分余裕じゃない」
「俺は色んなところを旅してきたからな。慣れてるってわけじゃないけど、足場の悪い場所の歩き方くらいは知ってる」
「そう言えばイルラカさんの故郷にも行ったことがあるんだよね? どんな場所だったの? イルラカさん、訊いても詳しくは教えてくれないのよね」
「ああ、イルラカの故郷はイリリールっつー銀髪で褐色の肌が特徴の民族の村で、今は――」
ゼクトは樹楊の話しを興味深げに聞いては素直に相槌を打ってきた。言葉を閉ざすように結ばれた口の線も柔らかく、向けられる眼差しも年相応に可愛らしいものがある。いつも冷めた態度なだけに余計に可愛く見えた。倒木を跳び越えたりしてはいるが、それを苦には思えない。目指す場所が未だに暗闇でも、何も不安はなかった。
そう言えば聞こえはいいが、実際は警戒心が薄れて気が抜けているだけだ。樹楊もそれくらいは解っているが、今の楽しさは捨てられない。
「なぁ、ゼクト」
「ん? 何?」
やはり柔らかい態度だ。いつもこうなら文句はないのに、と思う。
そして今のゼクトの素であれば自分の心が傾きそうな感じさえもしている。自宅で療養中のサラに気持ちを大きく膨らませてはいるが、寝言で想いを告げてきた紅葉も気になる。
その二人は自分の心に表立って出てきているが、ゼクトは心の隅に居た。それはラクアット街で死を目の前にしたアギを一緒に助けた時から。ずっと。
イマイチ上手に整理出来ない自分の想いを鬱陶しく思いながら頭を掻く樹楊は、自分の恋愛経験の無さを情けなくも思った。異性がこれ程近くに感じた事は、歩いてきた人生の中では皆無。それだけに色んな異性に目がいってしまうのだろうか。
でも。
自分の宙ぶらりんの気持ちが蓮を傷付けたのだ。一人の女性としては見れないなら、何らかの方法で伝えれば良かったのだろう。
そうこう悩んでいる内にまた一時間が過ぎた。が、まだ夜は明けない。明けてはくれない。闇をぶちまけられたような樹海を照らすのは二人に握られた携帯ライトだけであり、その光は交わる事なく揺れていた。遠くではミミズクが二人を歓迎するかのように怯えさせるかのように、不気味に鳴いている。
その鳴き声に耳を突かれながらも歩いて行くと、大きくなっていく滝の音がミミズクの歌を掻き消していく。無数の岩を休む事なく水面に叩きつけているかのような轟音は闇夜だけに響いてくる。風も湿っぽくなってきた気もする。そろそろ『現場』だろう。
「魔物いるかねぇ」
何気なく呟く樹楊にゼクトは「さあ?」と素っ気なく呟く。ここで起きている事態に興味がないのか眠いのか、樹楊が魅かれつつあった素のゼクトは居ない。
「そう言えばさ」
ゼクトは真っ直ぐ先を見つめたまま小さく言葉を漏らした。そして樹楊が視線を向けると変わらぬ声音で淡々と話す。
「蓮ちゃん、サラって子を連れて行こうとしたらしいよ」
「は? 何だそりゃ」
「さあ? 何が目的かは解らないけど、アンタの耳にも入れておこうと思って。どうせ何も聞かされてないんでしょ?」
勿論初耳だ。
それは何時の事か、と問えば七日前。と素っ気なく返ってくる。
七日前と言えばダラスのバリーがサラに会いに来た日だ。そんな日に蓮も来たと言う。蓮は以前にサラの事を『自分が従うべき存在』と言っていたのは覚えているが、何故拉致に繋がるのか理解出来ない。住む場所だってないだろうし、まさか旅路の共にサラを選ぶとも考え難い。一体、蓮は何をしているのだろうか。
考え込みながらも足場に注意をして歩く樹楊にゼクトは横目を向けると、悲哀の眼を細めた。
「もし蓮ちゃんがまたおにいさんを殺そうとするなら」
「するなら?」
返ってきたゼクトの声は小さかった。それは既に轟音とも言える滝の音よりも遥かに小さい声。しかし、その声は轟音の表に出てきたかのようにハッキリと聞こえた。
薄く開かれた唇から「その前に私がおにいさんを殺すから」と。
殺気の無い目に棘のない声。そして力が抜けているような肩。
そんなゼクトから伝えられた言葉だが、とても冗談には思えず、本気である事が解る。殺す、という残酷な言葉が耳に残る樹楊は何も言い返せずに頷いた。
何も「そうしてくれ」というわけではない。ゼクトの気持ちが解ったという意味だ。どうも死神は自分の事を気に入っているらしい。清く正しく生きてきたつもりはないが、極悪人でもないと思っている。それなのに死への道が次々に生まれてくると滑稽に思えた。事故で、病気で、老衰で死ぬ事が出来るのであればどんなに幸せなのだろう。喉元に鎌を当てられる人生はつまらない。
それでも自分には護りたい笑顔がある。
未だに結婚はしていなが、婚約者がいるニコ。それと故郷のみんな。
その人達は誰よりも何よりも大切な存在だ。誰かに託せる事も出来ない、自分だけが護ってやれる存在なのだ。
まだ、死ねない。
そんな樹楊の肩に、羽を赤く光らせる蝶が羽根を休めにきた。
その蝶を見た樹楊はますます滑稽な気分になる。
「何、その蝶々。赤く光ってるよ?」
興味津々に顔を近付けてくるゼクトの接近を許そうとはしなかった蝶は、同じく赤く光る麟粉を羽からさらさらと降り注ぎながら飛んで行った。ゼクトは口を尖らせて「何でよ」と面白くなさそうに呟くが、それは喜んでいい事だと樹楊は教える。
「あの蝶の名前、メイソウチョウって言うんだよ」
「メイソウ? 迷ってんの?」
「メイは命。ソウは葬ると書く」
「命、葬……蝶」
頷く樹楊にその名前の由来を聞いたゼクトは少しだけ動揺した。その反応を見ると、何でお前が動揺する? と思ってしまう。いいじゃないか、別に。ゼクトにとっては手間が省ける事となるかも知れないのに。……そう思った。
命葬蝶。
それは、命を葬る蝶々。
この蝶は、決して生きている者に止まらない。
命が尽きたばかりの者の魂を運ぶ蝶と言われている。その蝶に止まられた樹楊は、既に死す運命にあるという事なのだろうか。それとも、ただ単に羽を休めただけなのだろうか。その答えを知るのは――未来だけ。