第二十一章 〜予期せぬ戦火〜
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第五訓練施設の中央にある浅瀬の川の真ん中。
膝まで川に沈めているミゼリアは、水面と平行になるように倒した剣の柄を右肩まで引いていた。半身の構えで深く、静かに呼吸を整えている。
いつもなら見習いの時に学んだ剣術の基礎から応用までの訓練を一通りにこなすのだが、ここ最近は全く違うメニューを取り入れている。しかしそれは我流であるが為に師と呼べる者はおらず、やっている事が間違っていないかどうかなど自分で判断しなければならなかった。
そしてやろうとしている事は剣士として邪道とされている事であり、剣術一筋であったミゼリアとしても『それ』に頼ろうとした事などない。しかし、これから先の自分を推考してみると頼らずにはいられなかった。いや、頼るのではなく自分のモノにするのだ。もう、悔しい思いなどしたくない。誰も護れない自分を嫌悪するのは真っ平だ。
イメージは剣の表面に巻き付く蛇。しかし、優しく、流れるように。
ミゼリアは大きく息を吸い、爪先で水面を蹴り上げて水飛沫を上げる。ライトに照らされた水滴はそれぞれ煌めき、ミゼリアの顔に向って飛んで行く。はずだった。
ここで流れを――。
引いていた剣先を水飛沫の真ん中目掛けて突き刺すと、剣に静かな風が纏い始める。その流れは剣先から柄頭まで。目では確認できない風の道だが、そこに水飛沫が混じるとハッキリと見えた。
水飛沫はミゼリアの剣の表面から僅かに離れた位置を、螺旋を描くように流れていく。剣を中心として緩やかな竜巻がそこで起きたかのように、水飛沫は滑らかな動きで後方へと飛ばされていった。
ミゼリアは一呼吸置くと、自らの剣に満遍なく目を走らせる。
表には問題はない、しかし裏を返せば二、三滴ほどの水滴が剣腹を伝うように流れていた。この結果にミゼリアは少しばかり肩を落とす。
どうしても目に入らない裏の方のコントロールが上手くいかないのだ。こんな状態じゃコンマ一秒の戦いの中では使えそうにもない。だけど諦めるわけにはいかないのだ。もう一度――そうじゃない。出来るまで何度でも練習あるのみ。更なる高みをモノにする為に。
「へぇ。ミゼリンってば魔法使えるんすね。風ですか」
集中し過ぎていた所為で全く気配に気付けなかったミゼリアは跳びはねる勢いで驚いた。誰か、とも思ったがその口調と呼び方をする者は一人しか知らない。
確信しながら振り返れば、そこに居るのはやはり樹楊。一応訓練着を着用しているが、訓練する気などないだろう。
「魔法ってほどではない。私には魔法の才能などないからな。だが、微弱の魔法なら扱えるんだ。そよ風程度だけどな」
苦笑すると呆気に取られていた樹楊も笑顔を見せる。
「剣と魔法を組み合わるなんて、流石はミゼリン。生粋の剣士ですね」
「褒めてもらえるのは嬉しいが、ミゼリン言うな」
何度も注意してきたが、直す気はないのだろう。今も「はいはい」と軽く流されてしまった。そんな事よりも、樹楊は何をしに来たのだろうか。呼んでもいないのに自ら訓練施設に来るとは思えないし、まさか練習に付き合ってくれる気はないだろう。この男がそんな出来た人間ではない事くらい重々承知している。
ミゼリアの物言わぬ眼差しに気付いた樹楊は思い出したかのように口を開く。
「そう言えば、緊急招集が掛かってましたよ? 何でも小隊長クラス以上の者全員は謁見の間に集まれ、との事です」
「ばっ、それを早く言え! 緊急時に訓練をしている暇など!」
わたわたと川から出て着替えを取ろうとするミゼリアだが、その動きがピタリと止まった。樹楊の言葉を一から考えると、その重大さが嫌でも解る。
「小隊長以上って、まさか……」
ミゼリアのぎこちない表情に樹楊は嘆息。しかしその眼は少しばかり鋭さを見せていた。その只ならぬ雰囲気にミゼリアに脳裏に、そのまさかが過った。
樹楊はミゼリアの肩を強く掴むが視線を合わせようとはせずに、遠くの森を見ながら小さく、しかし強い意志を乗せた言葉を口にする。
「せめてミゼリンだけでも反対して下さい。今は時期尚早です」
「……相手はまさか」
樹楊は首を振ると「クルード王国ではありません」
そしてこちらの息を殺すような目付きをしながら、
「恐らく、ダラス連邦です」
◇
樹楊から連絡を受けたミゼリアは大急ぎで戦衣に着替えると、息を切らしながら謁見の間へと辿り着いた。しかし小隊長たるもの、慌てふためく姿など上官の方々に晒す事など出来るわけもなく、扉の前で深呼吸をして扉に手を掛けた。
「なーにやってんの、ミゼリン」
「うわぁ!」
本日二度目の不意打ちである。
ばくばくする心臓を押さえながら振り返ると、やはりと言うべきかサルギナが愛玩動物でも見るような目付きで微笑んでいた。折角落ち着く事が出来たというのに、この人ときたら。
「サルギナ将軍、どうしたもこうしたも――」
口を遮ったのは、サルギナの長い人差し指。
ミゼリアは上唇にそっと添えられた人差し指に言葉を押さえられ、代わりに顔を真っ赤に火照らせた。向こうに悪気がないのが余計に性質が悪い。
「俺はもう将軍じゃないよ。今は大・隊・長っ」
胸を張るサルギナだが、それは誰がどう考えても良い事ではない。今まで築いてきた地位も名誉も、降格という処罰で奪われたのだ。例えその処置が『仕方なく』だとしても、事実は肩書として現れている。サルギナが上将軍に上がる日は、果てのない明日なのだろう。
「すいません、以後気を付けます」
「いいって。全然気にしてねぇからよ。むしろこの方が気楽でいい」
昇格するには時間が掛かるクセに、降格ともあればあっさりだ。これまでに何度も活躍してきたサルギナでさえもあっさりと。
ミゼリアは、サルギナが上将軍に上がる日を心待ちにしていた。地位を振りかざさない将軍として、気さくで優しい上官として信頼されているこの人が上に登り詰めたらどんなに良い環境が生まれる事なのだろうか、と。今の上将軍は昔の名残りで貴族というプライドを高く持っている者ばかりだ。自分を含めた平民である皆は厳しく虐げられてきた。仕方がない事とは思うが、やるせない。
「ミゼリン、中に入らないと」
「あ、すいません」
どうやらぼーっと立ち塞がっていたらしい。自分どころかサルギナさえも遅刻に追いやるところだった。
「俺はこのままミゼリンとデートでも構わないけど、どうする?」
「どうもしませんっ。それと、ミゼリンって呼ばないで下さい」
つれないねぇ、とサルギナの漏らした言葉を背に扉を開くと、ラクーンを含めた、総勢百三十五名が八つのテーブルに振り分けられていた。その全てが重い面持ちをしていて、あのラクーンも至極真面目な顔を見せている。
「第十二番隊小隊長、ミゼリア・クライド=セレア。只今到着致しました」
「第二番隊大隊長、サルギナ・オク・ロイズ。到着ッス」
ラクーンに促され、長方形のテーブルを中心として囲う椅子に座ると、隣にはアギが居た。ラクーンに引けを取らない穏やかな笑みを見ると、少しばかり子供の頃の思い出が蘇る。が、今は気を緩めるべき状況ではない。ふと、正面を見れば、同じく気を引き締めているイルラカの姿が。満足に動けない紅葉の代理、なのだろう。
まるで重力が変動したかのように重い空気の中、口火を切ったのは中央のテーブルの端にいるラクーンだった。
「既にお察しかと思いますが、本日皆さんを招集したのは他でもありません」
その言葉に、各テーブルからは小声が漏れ始める。ミゼリアも隣のラクーンに話し掛けたいのは山々だが、今はラクーンが話している途中。ここで動揺を口にするのは言語道断。それは兵とは呼べない、と意志と口を固く結ぶミゼリアだったが、何やら隣に座ったサルギナが落ち着かない様子。
「あっちゃー、遂に来たか。予想通りなんだけど、やっぱ緊張するな。ねぇミゼリン」
最も、この将軍――いや、大隊長が動揺する事などあり得るわけがなかった。完全に無視を決め込むも、サルギナの「ミゼリン」口撃は止まりそうにもない。代わりに一睨みをくれてやるも、
「ミゼリンの怒った顔もきゃわゆいねぇ」
どっと疲れが出るだけだった。樹楊といいサルギナといい、どうして自分の周りにはこんなお気楽でふざけた人種しか集まらないのだ、と己の運命を呪いたくもなる。こんなサルギナを余所に、ラクーンは続ける。
「昨夜、正式に大戦の布告の申し出がされました」
大戦の布告とは、その名の通り大戦を敵国に申し出る事であるが、侵攻戦や防衛戦、奇襲戦とは戦方式が大きく異なる。相手の兵力を削ったりプレッシャーを与えたりするだけの戦とは違い、総勢力で大戦をするという事であり、この戦に負けた国は敵国に吸収される事となる。負ければスクライド王国が消滅し、敵国の領土が広がる事となってしまう。
依然としてざわめく兵にラクーンは厳しい目を走らせる。隣のジルフードは貧乏ゆすりで忙しそうだ。遂にクルードと雌雄を決するのか、いくら何でも早過ぎる、勝ち目はないだろう。などと無責任な言葉が密やかに飛び交うと、ラクーンは空咳をして注目を集めた。
「相手はダラス連邦です。クルード王国ではありません」
その言葉は、皆の言葉を抑えつけた。一気に音を奪われた室内には静寂が訪れようとしていたのだが、ジルフードの貧乏ゆすりがそれを姑息に邪魔をしている。サルギナが「やっぱりか」と呟けば、状況が飲み込めないアギを振り向かせる。ミゼリアとて樹楊から聞いていた程度であり、何故ダラスがスクライドに大戦を布告してくるのか解らなかった。
サルギナがアギとミゼリアの視線を手で払うと、音を失くしかけていた部屋中に猛々しい雄叫びが響き渡る。それはミゼリア、アギ、イルラカとその他少数を抜かした兵達の叫び。何が起きたのか、ミゼリアは無差別に目を走らせるが誰もかれも拳を強く握って雄々しく吠えているだけだった。
兵達は大戦に賛成するだろう。そう思わざるを得なかった。
樹楊はこの事を予測していたのだろうか。
『せめてミゼリンだけでも反対して下さい』
その言葉がよく解る。ダラス連邦はクルード王国よりも弱いとはいえ、一癖も二癖もある国家であり、傭兵団を多く抱え込んでいる。それを知っているはずなのに、何故? そう思うが、答えは目と鼻の先にあった。
罰が悪そうに目を伏せているイルラカ。
そう、赤麗の存在があまりにも大き過ぎたのだ。強力な傭兵団を抱え込んでいるスクライドの兵達は過剰なまでの自信を持ってしまっている。まともな判断が出来ずにいるのだろう。それにしても軽視しすぎだ。
まるで城を揺るがしているような兵達の雄叫びはしばらく続いたが、ようやく落ち着いたところでラクーンが席を立って訊く。
「皆さんの気持ちは『大戦の布告を受理する』と受け取らせて頂きます。ですが、敢えて訊かせて頂きます。……反対の意を唱える者は挙手をお願いします」
大戦の布告を受理するかどうかは、兵による多数決で決まる。その数が五分の四を超えれば可決となるが、反対の意見によっては再度その可決を覆される事もある。
ミゼリアは樹楊の願いを受け入れるべくすぐさま挙手をしようとするが、その手はサルギナによって止められてしまった。サルギナは真剣な面持ちで首を振る。
「サ、サルギナ大隊長、手をお放し下さい」
耳打ちするように声を振り絞るが、サルギナは頑なに拒否する。何を考えているのか解らない。樹楊の言う通り、今は時期尚早だろう。サルギナにも解っているはずだ。
ミゼリアはサルギナの手を振り払おうとするが、万力のように握り締めてくる力にどうしようもなかった。しかし口がある。両手が使えずとも、この口が。ミゼリアは挙手を諦めて、無礼だが口でラクーンと皆の眼をこちらに向けようとしたのだが、それさえもサルギナが止める。
それは、耳をつんざくほどの大喝。
「言う事を聞け! アギ、テメェもだ!」
ミゼリアは背筋を伸ばし、手を挙げようとしていたアギも身体を強張らせた。周りに居た兵達も驚いて身を引いていたが、イルラカだけは静かな眼差しを送っている。こういう事にはなれているのだろうか、堂に入った姿勢だ。しかし周囲はサルギナの唐突な怒声に目を丸くしている。ラクーンも例外ではない。
サルギナは苦笑しながら頭を掻き、
「いやー、すんません。ミゼリアとアギが飯の誘いを断るもんで、つい」
なはは、と笑うサルギナに全員が呆れた顔を見せる。しかしラクーンはその真意をいち早く察すると便乗して笑い声を上げた。
「まったく、軍議中だというのに。まぁサルギナくんらしいですけどね」
と、ここで言葉を切ると全員を見回し、
「大戦の日時は後日、上将軍、将軍各位にお知らせ致します。恐らく二か月から三か月の準備期間があるでしょうから、各々で時間を有効に使って下さい。クルード王国にもこの事はお伝えしますが、警戒は怠らないように」
大戦中にその国を攻めるのは原則として禁じられているのが、この大陸の共通規則である。仮にも正々堂々とした戦。クルード王国にそれを伝えれば攻めてくる事はないだろう。だが、綺麗事だけが戦じゃないと解っているラクーンは各位に警戒を促したのである。
能無しの兵が謁見の間から出ていくのに対し、サルギナやアギ、ラクーンやミゼリアもこの場に残った。イルラカも席を立とうとはしない。再び静寂が訪れようとしていたのだが、ミゼリアがそれを拒む。
「サルギナ大隊長、何故止めたのですか! 今は時期尚早です! 何としても食い止めなければならなかったのは、アナタなら解っていたはずですっ」
テーブルを叩いた勢いで立ち上がり声を荒げると、アギも同意の面持ちでサルギナの反応を待つ。ラクーンは別のテーブルの椅子に座ってはいるが、こちらに身体を向けてきていた。サルギナはポケットから煙草を出すと火を点けて深く一吸い。その落ち着きはらったような人を食ったような態度にミゼリアは眉間に縦筋を刻む。
「ミゼリンが言うように俺だってそのくらい解ってるさ。けどな、ほぼ全員がやる気になって士気を高めている状況で反対の意を唱えてみろ。小隊長クラスのお前らなんざ潰されるのがオチだ」
「しかし今のスクライドはクルードとの抗戦で兵力が激減しているんですよ!? その被害は私の兵だけじゃない。ラクアット街戦ではトロア上将軍を失い、アギ小隊長の隊も全滅しかけたんですっ。加えて赤麗の紅葉さんも戦闘に参加出来るじょうたいじゃない。いくら三か月の準備期間があるとは言え、その間に全ての状態を整えるのは無理です!」
ミゼリアは思っている事を全て怒声に乗せると一気に捲し立てた。しかしそれでもサルギナの表情に変化など無く、やっと吸い終えた煙草を携帯灰皿へ押し込んだだけ。アギはミゼリアを落ち着かせようと席に座らせるが、その怒りは抑えきれない様子。そんなミゼリアを冷めた目で見つめるサルギナ。
「それがどうした?」
「え、どうした――って」
「それはお前の考えだろうが、他の皆は気にも留めていない。例えそれを皆に叫んだとしても届く事はないだろうよ。そればかりか小隊長ってのは発言力はないし、軍議においてもお飾りみてぇなモンなんだ。結果、スクライドに仕える兵らしからぬ発言と見なされ、軍議で潰されるのがオチだ。今ここでお前達を失うのは大きな痛手を負う」
ミゼリアが悔しそうに歯を食い縛ると、それを横目で見ていたアギが身を乗り出す。内心、高ぶる気持ちがあるのかもしれないが平静な顔だ。
「ですが、相手はダラス連邦です。目立った抗戦の報告を耳にはしませんが、やりにくい相手というのも事実です。クルード王国でさえ攻めあぐねている相手を前に、ミゼリア小隊長の意見を耳にして思い留まらないのも如何なものかと」
「確かにダラス連邦はやりにくい相手だろう。それは俺ばかりか他の将軍達もよく解っている。だが、俺達に何もないわけじゃない」
サルギナはミゼリアとアギの視線を受け止めると、また煙草を取り出して火を点ける。そしてゆっくりと煙を吐くと、言葉を繋げ始めた。
「俺達には白鳳という同盟国家がある上に赤麗も抱えている。だからこそ、皆ダラス連邦に勝てると思ったんだろ。ま、考えようによっては、今ここでダラスを喰っちまえばクルードとの戦も楽になるって事だ。見込みは少ねぇけど、やるしかない現状でもあるんだよ」
サルギナは自分の言いたい事を言うと早々に席を立つが、小さな声でアギとミゼリアに「早く上へのし上がれ」と願いを伝える。このスクライドの状況を変えて欲しいと思っているのだろう。ミゼリアにとってはスクライドに改新をもたらすのはサルギナであったが、どうやら当人は小隊長である二人に希望を持っているらしい。
その意が少なからずとも理解出来たミゼリアはぐっと言葉を飲み込む事しか出来ずにいた。
「あ、そーだ。イルラカちゃん、赤麗で暇をしている子っている? 一人貸してほしいんだけど」
部屋を出ていこうとしていたサルギナが、いつものような軽い口調でイルラカに訊く。唐突な申し出に驚いていたイルラカだが、サルギナの馬鹿っぽい笑みに警戒心を解くと何やら話し始める。こんな時に女の子をデートにでも誘う気なのだろうか。ミゼリアは長嘆すると、ラクーンに低頭して部屋を出た。
大戦は最も命を落としやすい為、準備期間と称された自由時間を与えられ、その間に何をするかはそれこそ本人の自由だがサルギナのお気楽ぶりには呆れを通り越して褒めてやりたい。だけど、サルギナの考えは間違ってはいないのだろう。
やり残した事があれば死んでも死にきれないだろうし。後悔するよりは賢明だ。
そう考えると、自分は何をすればいいのか迷うミゼリアだった。
◆
ミゼリアから報告を受けた樹楊だが、肩を落とす事はなかった。小隊長であるミゼリアに反対を唱えろというのはあまりにも無茶があったし、通らないのも解りきっていた事だったからだ。
大戦……。
最前線に出る速突兵が生き残れる確率など無いに等しいだろう。
総力戦である大戦における速突兵の役割は、一人でも多くの敵兵を打ち、少しでも長く生きる事だ。決して生き残れとは言われない。悪く言えば『捨て駒』なのだ。それこそ古代に唱えられた騎士道とやらに準ずる精神で臨まざるを得ない。今年の二期、灼熱の太陽の元で海を楽しもうというささやかな願望は叶わないのだろう。
珍しく考え込んでいたのか、気付けば辺りは薄暗くなっており、街の人々は夕食を摂り始めている時間帯になっていた。何も落ち込んでいたわけではないが、身の回りの整理でも始めなければな、とここには戻れない事を前提に物事を考えていたりもした。
人工物の光が太陽の代わりに世を照らす役目を担い、スクライド城下町もそれと同じく街路灯が点り始める。こうなれば居酒屋やレストランの店内などの賑わいが活性化し、人々が夜だけの笑顔を見せ始める。
そんな光景を目にも留めずに自宅までの道程をゆっくり帰った樹楊を出迎えたのは見知らぬ男だった。しかしその男がスクライドの者ではない事は見て取れる。樹楊は足を止めるとポケットに手を突っ込んだまま視線を突き立てた。
「俺にお客とは珍しいね。一体何の用で?」
牛をも拳で倒しそうなほどに筋肉がついた、身体が大きい坊主頭の男。背も高く、スクライドの上将軍であるグリムと同じくらいだろうか。その男は樹楊の自宅の壁に腕を組んだままもたれ掛かっていた。しかし樹楊が話し掛けると組んだ腕を解き、ゆったりとした足取りで近付いてくる。
いかにも暴力好きそうな顔立ちだが、殺気はない。深緑色の軍服を纏っていて胸には煌びやかな階級章が付いている。
「ほう、あれだけの傷を負っていながら難なく生きているとはな。生命力が強い男だ」
その男は見下ろすように子供が泣き叫びそうな笑みを見せてきた。しかし口調に棘はなく、皮肉でもないようだ。樹楊はこの男と子供を対面させてみたいと思った。まぁ、その結果は火を見るよりも明らかだが。
男は樹楊のそんな視線を何と勘違いしたのか「そんなつもりじゃないんだ」と苦笑しながら頭を掻く。そんなつもりじゃなくても子供は泣くぞ、と樹楊は声を大にして言いたい。
「俺はバリード・ロックラル。バリーと呼んでくれ」
すっと出される子供の頭ならスッポリ包み込める大きな手は握手を求めているのだろうか、それとも金を要求してきているのだろうか。どちらかよく解らないが、取り敢えず握手をしてみる。するとまた凶悪犯のような笑みが返ってきた。どうやら握手で正解らしい。握ってくる力が半端じゃなく強くて痛いのだが。
「俺は樹楊。呼び名は何でもいい。……で、そのバリーさんが俺に何の用で? その軍服、ダラス連邦のものと見受けるけど」
「おおう、実はな、会いたい人がいるんだが名前を知らなくて困っていたんだ。そこで思いついたのはお前の顔だ」
「会いたい、人? スクライドの者に人脈を求めるなら俺以外を当たった方が賢明だと思うけど? 俺は友達ってのは少ないタイプなんでね」
そこでようやく握手を解いてくれたバリーは坊主頭を撫でる。
「髪は肩までで真っ白だ。そして緑色の眼をしてたな。お前の傍に居たからお前に尋ねるのが一番だろう?」
緑目……、それはサラしかいない。サラも少しばかりダラスに拘束されていた事は聞いたが、誰かが訪ねてくるほどの話は聞いていない。それにバリーの胸に付いている階級章は明らかに階位が上である事を示している。どの階級化は解らないが、そんなお偉いさんがサラになんの用事があるのだろうか。
「おいおい、何も争いに来たわけじゃないよ俺は。ただ、あの小娘の事が気になってな。相当身体に負担を掛けていたようだしな」
「……用件は見舞いって事か?」
「ああそうだ」
いつものような抜けた目をしていない樹楊からは警戒心が溢れ出ていた。バリーの表情の変化を一つも見逃すまいとしているように視線を貼り付け、瞬きすらしていない。しかし見舞い以外の要件をもたないバリーが不審な挙動を見せるわけもなく、それが解った樹楊は自宅へと促す。自分の家が何故解ったのかも気にはなったが、今はどうでもいい。何か変な言動を見せたら不意打ちでも何でもいいから斬り伏せるまで。
部屋の扉を開けるとベッドの脇に座っていたミネニャが笑顔で向かってくるが、後ろに居るバリーに気付くと警戒したように喉を鳴らす。
「ミネニャ、構えなくてもいい。サラを見舞いに来ただけらしいからな」
「おお。この娘は獣人かっ。お前の知り合いは変わったものばかりだな」
その言葉は何を意味しているのだろうか。
それを勘繰っていると、起きていたサラがベッドに座ったまま覗き込むように見てきた。自分に「おかえり」と言うが、バリーを見た瞬間嬉しそうに笑顔を見せる。
「おっちゃん! 久しぶりーっ」
「お? 元気そうだな、小娘」
バリーは片手だけ上げると、樹楊に注意された通り靴を脱いで上がる。樹楊とミネニャはサラとバリーを交互に見るが、その答えは二人から返ってきそうにもない。どすどすと重量感たっぷりの足音を立てるバリーも何だか嬉しそうだし、サラの眼もこちらを向きそうにもない。二人は知り合い……というよりも友達のようにも見える。
バリーはダラス連邦の兵であり、大戦ともなれば討つ対象でもある。その男がサラと仲が良いという事実は何となく居心地を悪くさせる。そんな樹楊を余所に、サラは楽しそうにバリーの頭を撫で回しては小突かれていた。逆に撫で返すバリーは思い出したかのように懐から紙包みを出してサラに渡す。
「わ、クッキーだ。美味しそうっ。ダラス産?」
「ダラス……ってよりも、俺の手作りだ」
「それは嘘」
サラは首をぷるぷる振るとバリーの無骨な手を突っつき、
「そんな顔でクッキーは焼けません」
「かお……顔は関係ないだろうっ。これでも俺の焼くクッキーは評判がいいんだっ」
「どうせ皆に『美味しいと言わなければ頭をこねくり回すぞ』とか言ってるんでしょ? お前らの悲鳴が最高の甘味料じゃ、とか」
「そんな事言うかっ」
本当に『友達の見舞い』だな……。
「キヨウ?」
樹楊は二人が生み出している楽しげな雰囲気に呑まれる事はなく、ミネニャが呼ぶ声にも反応出来ず、何も言葉にしないまま部屋を出た。ここが自分の家だというのに、何だか邪魔者みたいな感じもしたのだ。
階段の一番下に座り、空を見上げているとほどなくしてミネニャが傍に来た。自分と同じく、居心地が悪かったらしい。
ミネニャが縮こまるように背を丸めて隣に座ると、肩を預けてきた。こんな通路に二人で座るだけで狭いというのに、体重をかけられるとその苦しさは増していく。そう、増していくのだが、今ばかりはこの重さとミネニャの身体の暖かさが心を落ち着かせてくれていた。
「あのいがぐり頭は誰なんだ?」
「ダラス連邦のバリーとかいう奴らしいけど、詳しくは知らん。サラが捕らえられている時に知り合ったんだろ」
「ふーん」
興味津々に訊いてきたわりには投げ捨てるような反応を見せるミネニャは、それ以上は何も聞かずに夜空を見上げる。獣の耳が時折ぴくぴく動いているが、何かを聞いているのだろうか。その横顔を黙って見ていると、顔は夜空に向けられたまま琥珀の猫目だけがこちらに流れてきた。
「キヨウ、明日一度キラキの森に帰るね」
「ああそれは構わないけど。……それよか、お前はどうやってここまで来たんだ? キラキ樹海から一度も外に出た事はないんだろう?」
「猫になって、スクライドに来る予定を立てている行商人の積み荷に乗っかってきただけだよ」
随分と簡単な方法だった。獣人族ならではの方法があるのかと淡い期待をしていただけに、少しばかり拍子抜けだ。それはいいとして、ここからキラキに向かうって事は同じ方法で帰るのだろうか。それを訊こうともしたが、当然とばかりの答えが返ってくる確率が濃厚そうなので止めとく。
「でも突然帰るって、何かあったのか?」
ミネニャは夜空を見上げたまま、
「うん」
軽く、そして弱く相槌を打つとそのまま答える。
「何かあったって言うよりも、何かあるような気がするんだよ。胸騒ぎがするって言うのかな? あまり良くない感じがする」
「勘、か」
「そ。勘、だよ」
樹楊はその胸騒ぎが勘違いであればいい、と少しだけ心配をして「気をつけろよ」とだけミネニャに残して歩き出してバイクにエンジンを掛ける。ミネニャは何処に行くのかも尋ねずに手をひらひら振っているだけ。余計な詮索が好きではない樹楊にとって、その気遣いは嬉しかった。
「少し出てくる」
「うん、気をつけて」
◆
荒野を想定としたスクライド第三訓練施設。
風景は荒野そのものだが、施設内というだけあって室内は電気で照らされて日中のように明るい。明るさは調節可能で夜にも出来るだが「単に自分の実力を確認したいだけだから」という、サルギナの言葉に従ってこの部屋を外と同じ夜の暗さにしなかった。
サルギナは訓練用の重槍を軽々しく肩で担いで額の汗を拭っている。しかし、ゼクトは片膝を着いて乱れまくった呼吸を整えていた。何かの間違いだと言ってほしい。ゼクトは背中を濡らす汗に不快を感じる事も忘れて見下ろすように突っ立っているサルギナを睨んでいる。
サルギナの相手するのは嫌だったが、イルラカの頼みともあれば断るわけにもいかず適当にあしらうつもりだったのに、いざ手合わせするとあしらわれていたのは自分だった。
「アンタ……隠していたの?」
「隠す? 何を?」
サルギナのきょとんとした返答が勘に触る。旧ネルボルグの侵攻戦でクルード兵に囲まれた時、その実力があれば救援など必要なかったはず。樹楊と二人で焦りまくっていたのは演技だとしか思えない。
ゼクトのその眼に、サルギナは思い出すと苦笑を洩らした。しかし悪びれる様子などなく、相変わらず人を食ったような態度だ。
「あん時は調子が悪かったんだよ、ホント。何も隠していたわけじゃないって」
起き上がるように差し伸べてくるサルギナの手をゼクトは強く払い、そのまま睨み続ける。男に触れられるのは嫌いだ。しかしそれ以前に立てそうにもなく、それを知られたくもなかった。これでも赤麗では実力者の内だけに、情けない姿を晒すだけで腹が立っているのに身を案じられるのはまっぴらだ。
それにしても、自分の攻撃は当たらなかった。数えるのも馬鹿らしくなるくらいに振り続けた攻撃が一度も、だ。反撃は重くて身体の芯まで響いてくる。スピードもテクニックも、首領である紅葉を彷彿させるものがあった。
底が見えない。
……いや、自分じゃこの男の全てを引き摺り出す事が叶わない。これほどの力を持っていて、何故それを隠しているのか。考えている事が解らない。その疑念はゼクトの中でサルギナを馬鹿っぽい奴から得体の知れない者へと変換させた。
「もう帰ってもいい?」
ゼクトはようやく立ち上がる事が出来、膝に着いた土埃を払いながら言う。
「駄目――って言っても帰るんでしょ?」
「……ふん、解ってるなら聞かないでよね。鬱陶しいな」
訓練の為に借りていた刃の無い長剣をサルギナに放り返し、今一度足の踏ん張りを確かめるとサルギナの笑みを見ようともせずに出口へと向かった。しかしサルギナの一言が後ろ髪を引くと同時に苛立ちを蘇らせる。
「俺がキョウだったらそこまで邪険にしないのかな?」
ゼクトの眉間には縦筋が薄っすらと入ったが、目を凝らさないと解らない程度。しかし帽子のツバの陰に潜む眼は鋭く尖っていた。その瞳を突き立てられたサルギナは両手を肩の高さまで上げるという降参の意を示してゼクトの殺気から逃れ、肩をすくめる。
訓練施設を後にしたゼクトは城内にあるシャワーで汗を流すと私服に着替えてから帰路に着いた。火照った身体に浴びる夜風は心地良いが、絡んでくる酔っ払いはこの上なく鬱陶しい。ここがスクライドでなければサクッと一刺しで解決出来るのに、などと危なっかしい事を考えていると人混みの向こうに白い髪の少女を見付けた。
「蓮、ちゃん?」
走り出そうとするゼクトを遮るのは、既にご機嫌な酔っ払い。千鳥足で目が据わっている。ただでさえ男に触れられるのが嫌なのに、アルコール臭を漂わせるおっさんともなれば問答無用で首を刎ね飛ばしたくなる対象だ。しかしそれも出来ずに突き飛ばして視界を広げるも、一瞬だけ見掛けたあの姿はもう見えなくなっていた。
目の前を通り過ぎる小鳥のように一秒にも満たない時間の中に見付けた姿だけに、見間違いかとも思ったがあの小さな背丈で雪のように白く美しい髪をしているのは蓮以外見た事がない。だけど、何故蓮がここに?
蓮は免罪になったわけではないし、本人だったそれは解っているはず。紅葉に見付かればタダじゃ済まない。それを知っていて何故スクライドに?
まさか、おにいさんを……。
樹楊が目的である事に気付く事に難はなく、ゼクトは跳ね飛ばす勢いで人混みの中を突き進んだ。ぶつかった人に文句を言われもしたが関係ない。樹楊と蓮が今会ったところで何が起きるかなど解らないが、それだけは阻止しなければと強迫観念にも似た思いに駆られていた。
いくら友達とは言え、幼い頃から蓮の考える事が解らない時があった。これまでは下らない事で溜め息を吐く程度で済んできたが、蓮は常軌を逸した思考を持っている。樹楊に対しては信じられない程に入れ込んでいる。
これは予測――あくまで予測だが、蓮はきっとこう考えている。
『手に入らなければ壊せばいい』と。
ゼクトにとって樹楊は何でもない存在。戦を生業としている限り死はいつも手を添えてきているだけに、死んでも別に構わない存在だ。だけど蓮がその手で下すのだけは阻止したいと思った。
蓮が自分の手で樹楊を殺したら、その先に待つ未来は……。
「真っ暗だよ、蓮ちゃん」
独白するゼクトは腰に携えてあるナイフを確認して疾風の如く駆ける。
恨まれてもいい。蓮が過ちを犯し、自分の未来を真っ黒に染めるくらいなら喜んで憎まれよう。蓮だけは幸せになって欲しい。それは隣に樹楊がいなくても叶う事なのだ。
だから。
恨まれよう、憎まれよう。
蓮の未来と引き換えに、この手で――。
「ごめんね、おにいさん」
蓮の泣き叫ぶ顔を想像するだけで痛む胸を押さえずに、ゼクトは樹楊の家を目指す。
◆
バリーはサラと話し込んでいる内に過ぎていく時間も気にならなくなっていた。ふと見た時計が差す時間は既に明日へのカウントダウンを始めている。気付けば樹楊も獣人族の女も居ない。サラと話すのが余程楽しいのだな、としみじみ思った。恋などではなく、妹のような感じがしている。兄妹と呼べる者はいないが、もしいたら楽しいのだろう。スクライドの住人ではない、とサラは言うが、それが本当であればダラスに連れて行っても問題はないとも思い始めている。
スクライドはダラスに勝てるわけがない。見下すわけではないが、抱えている傭兵団を全て動かせばクルードとも渡り合えると思っている。それに比べてスクライドは赤麗という、強大だが人数が少ない傭兵を雇っているだけだ。総力戦である大戦において重要とも言えるのは、その人数だ。クルードとの小競り合いで戦力が削られているスクライドを討つのは容易ではないが、苦戦を強いられるほどのものでもないだろう。あのオルカという子供とスイという狂人がスクライドの戦力を上げているとは言え、それは変わらない事実だ。
未だにスイとオルカがスクライドの兵だと思い込んでいるバリーに、サラは心配そうに首を傾けた。覗いてくる緑色の瞳は森を彷彿させるものがあった。
「おっちゃん、どうしたの? 渋い顔して」
「ん、ああ。何でもない。ところで小娘――」
サラはダラスの口に伸ばした人差し指を添え、
「小娘って言わない」
この柔らかい存在、やはり護りたくなる。戦禍を浴びせるのは気が引ける。樹楊という男とはどういう関係なのか解らないが、何とかしてダラスへと連れて行けないものだろうか。バリーはボウス頭を掻いてサラを真っ直ぐに見た。
「小む――じゃない、サラ。ダラス連邦に来ないか?」
「え? どうしたの突然」
「それはだな、今度大戦が」
言い掛けたバリーだが、区切り悪く口に固い線を結ぶと戸口を睨む。
何か得体の知れない者がそこに居る。殺気と呼ぶには生易しい、禍々しいモノを纏う誰かが扉の向こうに居る。スイ……とは違う。比べ物にならない。
冷や汗を拭うバリーは首を傾げて何か言おうとするサラを制すと、壁に掛けてある忍び足で樹楊のコレクションの剣を手に取る。刃は無いが本物の剣だし、防ぐ事や突く事くらいは出来よう。そこに自分が得意とする魔法、特殊三系統の『重』の魔法を使えば撃退は出来るだろう。いや、何としても撃退はしなければならない。
自分が倒れればサラの身に何があるか解ったものじゃない。この家が潰れるかも知れないが、と強く柄を握った。
「そこに居る者、姿を見せろ」
バリーが口火を切ると、扉は静かに開かれた。そこに現れる者は鬼か悪魔か。一層柄を強く握ったのだが、その者の姿を見るなり目を疑った。
髪が真っ白で背丈も低い、少女。片眼を紫の布で覆っているが、表情からしてぼーっとしているように見える。手には凶器らしき物は握られていないし、先程まで感じていたどす黒い狂気も感じない。アレは勘違いだったのだろうか。
「ん? 蓮ちゃんじゃない。どうしたのー?」
蓮と呼ばれた少女は僅かに首を傾げてサラを見る。その眼に殺意などない。サラに危害を加える者ではないらしい。それが解っただけでバリーの警戒心は薄れてしまった。虚無的とも言えるその視線がサラに向いていたのだが、一度目を伏せられて再び開けられたその眼には先程感じた禍々しさが蘇っていたのだ。
そして眼を向けられているのは、自分。
蓮の姿が残影を残しながら右に移動したかと思えば、その姿は既に目の前。
くりっと向けられる瞳は自分の命に価値など見出してはいない。そして不可解な事が起きた。
何も持っていなかった蓮の手に漆黒の剣が握られているではないか。
その剣先がバリーの喉を目掛けて迫るが、身体ごと捻る事で回避する。勢い余った蓮の身体が流れていき、背中に隙を見付けたが、その背中から剣が飛び出してくる。
まさか自分の腹を貫いたのか、と悪寒に襲われながらも後方へ跳んで目を凝らすが振り返ってきた蓮の腹には剣など刺さってはいない。幻覚じゃない。あれは間違いなく本物の剣だった。
「邪魔しないなら殺さない」
か細く呟かれた一言は、風でも吹いていれば聞こえないだろう小声。バリーは剣を構えて重心を落とす。
「邪魔とは何だ? 何が目的だ」
蓮はバリーの問いを受けるとサラに視線を流す。サラはきょとんとして自分を指差した。目的は自分の抹殺ではなく、サラを拉致する事なのだろうか。だが、サラの言動から察するに蓮はサラの知り合いだろう。それならスクライドの者のはず。ダラスにこんな少女はいないし、クルードからの差し金とも思えない。それなら何故拉致する必要性がある?
バリーが蓮の動きを警戒しながら考えるも、考えている事を見抜く事が出来ずにいた。蓮も構えてはいないものの、隙を見せない。こちらの返答を待っているようにも見えるが。
「蓮ちゃん」
膠着状態が続くと思われた雰囲気を破ったのは、また別の少女。帽子を深く被り、レモン色の髪を流している。その少女は部屋をざっと見回すと樹楊を訪ねたが、居ないというサラの答えに疑問符を浮かべた。蓮は小さく溜め息を吐くと、誰もが見せ合った隙を衝くように動きを見せる。
一瞬でゼクトの目の前に現れると、その頭に手を添えて跳び越える。最後に強く推されたゼクトは転がるように部屋に入ってきたが、すぐに態勢を整えて戸口に向かった。しかし蓮の姿はもう消えていたのだろう。悔しそうに舌を打って壁を殴っていた。
「ねぇ、そこのおっさん」
不機嫌を露わにした少女がバリーを指差し、刺々しい口調で問う。
「蓮ちゃんはここに何しに来たの?」
「サラが目的らしいが、詳しい事は知らん。お前こそ何だ」
「うっさいわね、私の事はどうでもいい」
無礼極まりない態度で去る少女をバリーは呆れながら見送るが、やはりここにサラを残すのは危険だと思った。何が起きているかは解らない。だがそれを知るよりも先にサラの身に危険が迫るだろう。何としてもダラスへ連れて行きたい。
「なぁ、サラ」
「ん? 何?」
バリーは剣を壁に掛けると、真剣な面持ちでベッドの傍の椅子に座る。サラは相変わらず棘の見当たらない顔を綻ばせていた。
「ダラスに来ないか? ここに居ては危険だろう」
サラはきょとんとした後、申し訳無さそうに笑みを浮かべる。その顔が答えを表しているのはすぐに解ったが、それでもサラの言葉を待った。
「ごめんね。私、キオーの傍にいたいから」
「その男は兵士だろう? もうじき大戦が起きる。スクライドはダラスに勝てないどころか、その男も死ぬだろう。その時、サラお前も……」
「いいの。もしキオーが死ぬなら私も一緒に逝くから」
ふざけて言っているようには見えない。そして軽々しく言っているわけではない事が容易に解った。覚悟とも違うサラの心。決意、と言うのだろうか。
「私はキオーだけのもの。そのキオーが居なかったら私は存在する意味、ないしね」
あの男の何がサラにそこまで思わせるのか解らない。何の取り柄もない普通の男に見えるが。しかしサラにとってはそうではないのだろう。命の全てを誓わせるほどの男なのだ、そいつは。
バリーはこれ以上食い下がるのも無粋だろうと思い、ただサラが幸福に生きていける事だけを願いつつ、立ち上がる。釣られて見上げてくるサラが本当に妹のように愛おしい。この少女が戦乱の世に生まれ落ちた事は良き事だったのか、と考えざるを得ない。
頭を撫でられたサラは笑いを含んでバリーに手を振る。受けたバリーも、その姿を目に残して部屋を出た。そして階段を下り終えると丁度そこに戻ってきた樹楊と眼が合った。
「なあ、お前。ダラスに来ないか?」
「は? 何言ってんだ?」
ただ訊いてみただけだ。何も期待していない。
バリーは鼻で笑い、何でもないと呟くと背を向けるが訊き忘れていた事を思い出して樹楊と正面を切る。腕を組んで太々しい態度の樹楊に強張った表情を見せるバリー。
「お前、階級は?」
「速突兵。アンタは?」
速突兵と言えば、大戦中は最前線を持ち場とする捨て駒だ。この男が生きて帰って来れる確率はゼロに等しいだろう。そうなればサラも……。
バリーは思う事を必死に噛み締めて言う。心から。
「俺は総隊長だ。勝ちたければ俺の首を獲れ」
樹楊がどう思おうが知った事ではない。しかし自分が倒れる事は戦で負けを意味する。当然負けるつもりもなければ、スクライドを打ち滅ぼすつもりでもいる。出来る事ならこの男がどれほどの器かを見届けてみたい。その器が大きく、尊敬に値するのであればサラの末路にも納得が出来よう。