第二十章 〜それでも想う人〜
1
ダラスから帰還して二週間が過ぎようとしていた。今年の末はもうすぐそこにある。
紅葉はある程度の自由が利くようになっていて、一人で食事も出来るし下の世話だっていらない。それでも歩くのは少しばかり辛いものもあるが。
いつも通り眼が覚めるとイルラカが朝食を作っていて、起きたのに気付いてくれるとカーテンを開けてくれた。目覚めたばかりだというのに眩しくないのは、分厚い曇天が太陽の前に居座っているからなのだろう。
「おはようございます、首領。身体の調子はどうですか?」
何度も繰り返されてきた問いに、紅葉も打ち合わせをしていたかのように返す。
「昨日よりはいいよ。いつもありがと」
するとイルラカは微笑み、暖かいフルーツティーを淹れてくれた。紅葉の好みに合わせたレモンティーは仄かに甘くて朝冷えしている身体を暖めてくれる。出される食事も勿論、紅葉好みに調理されているものばかり。
もう専属のシェフにでもなれそうなくらいだ。栄養のバランスも良い。
しかし、イルラカの料理が自分好みになったのはつい半年前くらいからで、出会った当初に出された料理は口にも出来なかった。
味が、とかそういう問題ではなく見た目がグロテスクだったのだ。
手の平サイズの爬虫類の串焼きだの、昆虫の炒め物だの、挙句の果てには猿の記憶媒体をクリーム状にしたスープだの……。
流石、文化から遠く離れた伝統を重んじる民族である事が良く解る料理だった。そんなイルラカと行動を共にして、初めて口にしただろうパスタを「何の蟲ですか?」と訊かれた時には食欲を殺がれたものだ。
まぁ、蓮に至ってはどんな料理でも無価値な目付きで平らげていたのだが。
その蓮の行方は今も知れず。
危険で手が焼ける子だったが、とことこと着いてくる様は仔犬のようで可愛いものがあった。
「首領、私が傍にいますから」
いつの間にか食事を止めていた手に、イルラカの手が添えられていた。暖かい。手が、ではなく心が暖まる。褐色の肌の中ですっと細められている瞳は、居心地の良さをくれる。イルラカが居なかったら自分はどうなっていたのか。
荒れ狂っていたのか、それとも魂が枯れた廃人のようになっていたのか。どちらにせよ、今の自分で居る事は出来なかっただろう。そう思えば、イルラカには感謝しても感謝しきれない。だが、その思いは決して口にしない。それをイルラカは絶対に望まないから。
食事を摂り終えて、寝巻のままベッドの上から外を眺めた。街は雪に覆われ始めていて、灰色の空が世界を暗く染めていた。
紅葉は外をぼーっと眺めながら肩掛けで身を包んだ。暖房が効き始めた部屋だから寒いわけではないが、そう錯覚させるものがあったのだ。
キッチンには、鼻歌交じりに食器を洗うイルラカが居てのんびりとした時間が過ぎていこうとしていたが、不意に扉がノックされた事に驚く紅葉。ここにはイルラカ以外近付こうとはしない所為で、他の訪問者の事など微塵にも考えていなかった。
あまりにも唐突で戸惑っていると、もう一度ノックをされるが今度は躊躇いがちで弱々しい。紅葉がそれに対して返事をすると、中を覗くように部下が現れた。
「どうしたの?」
「え、と。首領にお客様がお見えになっているのですが」
折角、部下がこうして来てくれた事は嬉しく思ったが、生憎赤麗以外の誰かに会う気などなかった紅葉は首を振るだけの仕草で拒絶する。
部下は申し訳無さそうに頭を下げ、その横に居るだろう来客にも頭を下げていた。
しかし紅葉は、帰ろうとした部下とその客の顔を見ると慌てて部下を引き止める。
ベッドの上に座ったままだが、
「ちょ、ちょっと。やっぱり入れてもいいわ。今日は調子がいいの」
「しかし、そのようなお身体で」
「調子がいいのっ」
「ですが」
「調子がい・い・の」
部下はぽかんとした後、二度も言葉を被せた紅葉に「そ、そのようですね」と笑顔を引き攣らせて居なくなった来客を呼び戻しに行った。
あの真っ黒な髪で微かに見えた横顔は、間違いなくあいつなのだろう。その顔を思い出すだけで鼓動が高鳴り、胸を手で押さえないと心臓が飛び出してきそうだった。
何も知らないイルラカの鼻歌は盛り上がりを見せているが、そんな事どうでもいい。この歌どうでしょうか? と訊かれても、どうなんでしょうか。
紅葉は頬を膨らませるイルラカを本気で無視して扉の一点を見つめている。
そして、遂にその来客が顔を見せると顔が熱くなっていくのがハッキリと解った。自分達が置かれている状況、スクライドにおける赤麗の立場を考えると夢見る少女ごっこなんてやっている暇などないのに、どうにもならない。
イルラカは硬直する紅葉を見ると首を傾げてバスルームの掃除へと向かった。
あいたっ、という悲鳴に次いで謎の衝突音がバスルームから聞こえたが気にしている余裕など自分にはなく、代わりに樹楊が驚いていた。
「誰か居るのか? 痛そうな音したけど」
「あ、うん。イルッカが居る、の」
「イルカ? キュッキュ鳴く、海の?」
「ううん、山の」
会話の何かがおかしい。
山にそんな生き物居たっけ? と首を捻る樹楊だが、紅葉は何も答えられない。ベッドの傍に置いてある椅子に座られた所為で近くなった距離を意識してしまう。
「身体、大丈夫かよ。動けんのか?」
心配そうな瞳に、紅葉はコクコク頷く。しかし、会話がぶっつりと切れてしまった。頷くだけじゃなくて何かを言葉を返せば会話が繋がったかもしれないのに。と、紅葉は自分を情けなく思う。それと同時に、らしくないな、とも。
緊張していても仕方ない。何かが変わるわけでもないし、いつも通りにすればいい。
紅葉は胸を張って、視線を向けてみた。
「ん? どうした?」
「えへっ? い、いや、その。今日はいい天気だねって言おうと」
樹楊は外を眺めて「どこが?」
外は雪が降っていて風も少しばかり強い。こんな日に外で遊ぶ子供は風の子ではなくて、馬鹿の子だろう。
紅葉はあがりまくっていた。
五歳児であれば、恥ずかしがらずに「だーい好きっ」と、天真爛漫で無垢な告白も出来るのに、と思ったが相手も五歳であれば真剣に聞いてはくれないわけで、しかし五歳であれば例え結婚の約束をしたとしてもそれはタダの口約束でしかなく、数年後バッタリ再開した時には相手には恋人がいて、ただれた三角関係に――。
「こ、紅葉? どうした?」
妄想真っただ中で控えめなゼスチャーをしている紅葉は、独り言をぶつぶつと呟いていて、それが呪いに見えていた樹楊は少しだけ怖がっていた。しかし、そんな事はつゆ知らず。紅葉は勝手に妄想に入っている。
そして出た結論は。
「好き」
「………………………………、え?」
◆
頭に乗せた手を兎の耳みたいにぴこぴこ動かしたり、ひよこみたいに羽ばたいてみたり、綱を引くような動きをして誰かを呪う言葉を呟いていたような紅葉が哀愁漂う瞳を向けてきて、突然。
「好き」
樹楊は大分間を置いたにも関わらず、え? としか返せなかった。
隙? 数寄? ……好き?
自分が知っている『すき』という言葉を頭の中に並べてみたが、今の状況と、紅葉が見せた不可思議なゼスチャーからは答えを出す事が出来ない。
間抜けに彫られた石像のような顔をしていた樹楊だったが、それは何の『すき』なのか確かめようと口を開く。
「えーと、それはどういう意味だ?」
すると紅葉の顔が真っ赤になっていき、鼻がぷくっと膨らんだ。滅多に見ないその表情に、樹楊は椅子を鳴らしながらびくっとした。
紅葉は焦りながら理解に苦しむゼスチャーを披露した後、取り繕うように捲し立てる。
「ホ、ホラ、あれよっ。櫛みたいなやつで穂を挟んで揉み落とす――ホラ、脱穀用の農具! アレよっ」
樹楊はドでかい疑問符を頭にぶっ刺したが、紅葉の言葉を上手に咀嚼すると、答えを見つけて後頭部をポリポリ掻いた。
「それ、千把扱きだから」
「せんばこき?」
「あぁ。鋤ってのは、土を掘り起こす為の農具だっての」
紅葉は物知り博士を見るように感心する。
それはいいのだが、
「で、何で鋤が出てくるんだよ」
「はえっ?」
「いや、蠅じゃなくて鋤だっての」
今度は土を掘り起こす仕草をする紅葉。勿論顔も真っ赤になっていた。
樹楊は紅葉がどんな奴か解らなくなりつつある。本当に赤麗という傭兵団の首領なのかも疑わしい。少なくとも、人を喰ったような言葉を並べると記憶していたのだがそうでもないらしい。
「い、いや。あのねっ、その……。今度、武器を鋤に変えようかなってさっ。ど、どうかなーって思って」
「武器を!? 何でっ?」
あははっ、と苦しげに笑う紅葉が遠くなった事を確信した。その考えを理解するには何年の歳月を費やせばいいのだろう。
そんな事は解らないが、言える事はあった。
「ま、まぁ、相手の意表を衝けるとは思うけど」
そんなので戦場に立つ兵士の命を奪う事は相手を侮辱しているようなもので、殺された日には成仏出来そうにもないとは言えず、何故かやけくそ気味に笑う紅葉を遠い目で見る事しか出来なかった。
紅葉が農具を持って暴れ倒す姿を想像すると、寒気が走った。そして切に思う。
絶対敵にはしたくない、と。
普段とは異質な会話をしていると、バスルームの掃除を終えたイルラカが頭にコブを作って帰ってきた。どうやら謎の衝突音はイルラカがコケてバスタブに頭をぶつけた音らしく「バスタブは思った以上に固い」とは、身体を張って体験したイルラカの談。
そのイルラカが樹楊を見るなり、背筋を伸ばしてぎこちなく歩いている。口は戸惑いの線を固く結んでおり、動きがカクカクしている。
人付き合いが苦手なのだろうか、と樹楊は思ったが、背が高くて褐色の肌に銀髪という独特な外見の一族の事を思い出す。
そしてどこかで見た事のある顔だ。
今こそ強張った顔をしているが、森のハンターとも言うべき切れ長の眼には知力の高さをも兼ね備えている。反対に薄い唇は艶めいて色香を感じさせるも、気性の穏やかさを表しているかのように柔らかな線を持つ。
樹楊はじっとイルラカを見続けた後、
「なぁ、もしかしてイリリールの一族?」
「え! そ、そそそうですが!」
「人違いなら謝るけど、お前って俺に会った事あるよな?」
年下のクセに生意気な口をきく樹楊。
緊張していたイルラカだが、その言葉を聞くと花咲く笑みになって椅子に座る樹楊の前に立て膝を着く。その様は教祖に諭される従者のよう。
「はいっ。以前に一度っ」
「すると……魔女?」
何言ってんの、こいつ。というような顔をする紅葉だがイルラカの笑みは更に輝きを増していく。
「そうです!」
「やっぱりな」
「うそ!?」
綺麗に連なった三者三様の反応だが、紅葉だけが仲間外れだった。しかしそうだろう。イルラカは他民族に断定的な民族ではあるが、魔女ではない。そのイルラカが魔女である事を認めたのだ。しかし、その誤解をイルラカが解く。
「首領、私が村の皆に魔女と言われて牢に閉じ込められていただけで、魔女ではありませんよ」
「そ。俺が魔女って言ったのは、出会った時にこいつが魔女として閉じ込められていたからだ。牢に俺がぶち込まれた時にその正面に居たのがこいつだ」
樹楊がイルラカの説明に補足。
イルラカは子供の頃から微弱な魔法を使えた。それだけでも畏怖なる存在だというのに、加えて外界にも興味を持ち、村全体で崇めていた神をも信仰していなかった為、十六歳の時に牢へと入れられたられた。そこに偶然、村の秘宝を狙ってやってきた樹楊が捕まり、正面の牢に入れられた。
と、樹楊とイルラカは懐かしむように紅葉へと説明をする。しかも二人だけで盛り上がっているから性質が悪い。
すっかり蚊帳の外になっていた紅葉はいつの間にか不貞寝を初めて寝息を立てていた。余程面白くなかったのだろう。二人に背を向けて毛布を頭まで掛けている。
そんな事はお構いなしの二人の談笑はまだ続いていた。イルラカは普段、赤麗の中でも年上で身勝手なメンバーを纏める事で表情をあまり緩めないが、自らの英雄としている樹楊を前にした今はまるで少女のような笑みを見せている。
最も、樹楊に向けている瞳に色恋などはなく、純粋に今一度出逢えた事を喜んでいるだけだった。しかしその喜色満面の笑みは、紅葉にとって心を揺るがすものだったのかもしれない。
「本当に樹楊さまに再開する事が出来て嬉しい限りです。ここに来てからというもの、アナタに出逢える事をどんなに楽しみにしていた事か」
「そんな礼を尽くされる事なんかしてないだろ。それよか、その樹楊さまっての止めてくんないか? どうも……ガラじゃなくてよ」
樹楊は蔑まれる事は多いにあったが、敬われる事などなかったのだ。それだけに、イルラカの対応はこそばゆいものがある。
しかしイルラカは頑なに拒否。
「私は樹楊さまに命を救われたのです」
イルラカは自分の胸の中心に重ねた両手を添えて、思い出すかのように目をそっと伏せて続ける。
「それと同時に私を村から連れ出してくれました。私にとってそれがどんな事かお解りでしょうか? もしあの時、樹楊さまに見捨てられていたのなら私はここにいないでしょう。そして」
樹楊の眼を見つめてから、不貞寝をかます赤髪の少女に目を移す。そして頭まで被っていた毛布を肩までずらして髪を撫で始める。すると紅葉は寝返りをうってこちらに顔を向けてきた。
その寝顔は、戦場で見せる修羅の欠片などなく、年相応のありきたりな寝顔だった。
その寝顔を見たイルラカは優しく鼻で笑うと、ようやく言葉を繋げる。
「この人に仕える事も出来なかったでしょうし」
本当に紅葉の事を大事に思っているのだろう。目には見守る優しさと護り続けようと決意めいた強さが浮かんでいる。
「首領はこの乱世を正そうとか、そんな立派な考えを持っているわけではないのです」
「なら何でそこまで……」
理解に苦しんだ。
イルラカが身体を張って護ってきた所を見たわけでもないし、聞いたわけでもない。だけど、そうしてきたのだろうという事を確信させる雰囲気があった。
義理深そうなイルラカが、何故そこまでして善人とは言えない紅葉に仕えようとするのか解らない。樹楊の率直だが、途切れた問いにイルラカは答える。それはあまりにも拍子抜けする答え。
「不器用なんですよ、首領は」
「……は?」
イルラカは樹楊の反応を見ると、待ち構えていたかのようにクスクス笑う。そして言葉が足りない事を謝ると、笑みを含んだ表情で続けた。
「不器用で、我儘で……それでも必死に生きているんです。決して弱音を吐こうとはせず、頑張って頑張って……。それなのに泣いてしまう姿を見た時、私は誓ってしまったんです、誰にでもなく自分に」
微かに首を斜にして微笑むイルラカは、
「この人の強さの支えになりたい――と」
何て単純な思いなのだろうか。でもそれは理解出来ないとは言えない樹楊だった。
自分も、ニコ達に笑顔になってほしい。それだけの為に何でもしてきた。近くも遠くもない、同じ質の思いに樹楊はやっと笑えた。
「こいつが伸び伸び出来るわけだな」
やんちゃな小娘を撫でていたイルラカは、お手洗いにと恥ずかしそうに席を立ったと同時に、紅葉はもにょもにょと寝言を呟く。
イルラカは苦笑すると、その長身が様になる綺麗な歩き方でお手洗いに向かった。
「樹楊……」
紅葉に寝言で名前を呼ばれた樹楊は一瞬驚いたが、
「お前の夢に勝手に出すな」と、頬を軽く突いてやる。思った以上に柔らかくて面白かったが、不意に流れてきた雫に指先を濡らすと反射的に引いてしまった。
紅葉は寝ながら涙し、そしてまた樹楊の名を呟く。
実は起きているのでは? と疑いの眼で顔を覗いてみるが、やっぱり寝ている。
「樹楊……」
「まーた寝言かよ。一体何の――」
「好き……」
またその言葉か、と樹楊は嘆息し呆れながら椅子に背を預ける。紅葉は農具を欲しがっているとイルラカに教えてやろうと決めた、その時。
「樹楊……好き」
ぽろぽろと涙を流し、
「大好きなの」
「紅葉……」
息と言葉が膨らんで喉に詰まった。
こんな時は何を言えばいいのか、聞かなかった事にすればいいのか、それとも受け止めてやればいいのか。
何も解らない。明らかに告白なのだが、もしかしたら聞き間違えかもしれないと自分に言い聞かせるも、心は取り乱していた。
理不尽に殴ってきた事もあったし暴言を吐かれる事も多々あった。その紅葉が弱々しく、涙を流しながら想いの丈を伝えてくる姿はた弱い少女。
樹楊は知らず知らずの内にその頬を撫でていた。ほんの少し紅潮していて暖かい。生きている。人の血が流れている暖かさ。
「紅よ――」
「止めてよ、不細工」
「不さっ……」
ぺちっと手を払って、またむにゃむにゃ。樹楊が言葉を失っていると、紅葉は寝返りをうって背を向け、
「だから駄犬なのよ……」
たかが寝言。されど寝言。
いや、寝言だからこそ怒りがふつふつと沸き上がってくる。本当に本当は起きてるんじゃないか、と確かめるべく肩を揺さぶる度胸もない樹楊はやり場のない怒りに歯を食い縛る事しか出来ない。
拳骨を喰らわしてやりたいが、後が怖いし。
やっぱり自分が可愛いのだ。
一人で頷いていると、帰ってきたイルラカが隣に座って声を潜めてきた。紅葉に聞かれたくないのか、視線をちらちらと送りながら。
「樹楊さま、今晩お暇はありますか?」
それは愚問だ。
樹楊は任務が無ければ訓練をする、という立派な兵士ではない。幸か不幸か、相手をしないとうるさいサラは寝込んでいる。高熱は引いたものの、まだ本調子でないらしいのだ。
樹楊が即、頷いて返すとイルラカの表情が少し緩む。しかしまた強張った表情を見せた。
「お話があるのですが、よろしいでしょうか?」
何やら軽い話ではなさそうだ。こういう重々しい話が得意ではない樹楊だったが、イルラカの真剣さを無下に出来るわけがなく、流されるようにまた頷く。
頼むから厄介な事に首を突っ込ませるなよ。
そんな事を切に思いながら。
◇
日が沈むと、一旦帰宅していた樹楊は私服に着替えてイルラカが待つ店へと足を運んだ。服装を気にしているわけじゃないが、それでも久々に腕を通す私服に違和感を覚えて何度か着替えもした。
元々暗い色を好んで着る性格からか、私服のどれも暗色。
結果、傍目で見ればいつとも変わらないような服装になってしまった。
指定された店に行くと、既にイルラカが待っていてマフラーで口をも覆っており、鼻の頭を赤くしていた。待ち合わせの五分前のはずなのだが、イルラカを見ればそれよりも早く来ていた事が解る。大方、待たせたくないとでも思ったのだろう。
イルラカは樹楊に気付くと軽く頭を下げ、
「遅いです。と、言っても私も今来たところなんですけどね」
気を使わせない為か、誰にでもバレる嘘を吐く。
これも性格なのだろう。
樹楊はイルラカの意を受け入れ、何も言葉にしなかった。
ここまで気を使ってくれる人に「嘘を吐くな」と言えるはずもない。
「さ、入りましょう」
イルラカの後に続いて店に入ると、上品な雰囲気が待ち構えていた。
樹楊にとっては初めての光景でもあるが、例えこの店相応の俸給を受け取っていても、もう一度足を運ぼうとは思わない店。
単純に、樹楊にとっては嫌いな雰囲気をしているという事だ。しかし、イルラカはそれを知らないのだろう。気分良さそうに肩を揺らしている。
まぁ、仕方ないか。
樹楊は諦めてその後に続く。
入ったのは人一人が住めるくらいのスペースを持つ個室であり、完全に密室だった。その部屋の扉を閉めれば、他の音など気にもならない。裏を返せば音を気にせずに談笑出来るということだ。
樹楊とイルラカは寒さを凌いでいたコートを脱ぐと、部屋の中央にあるテーブルに正面を向き合って座った。天井には淡いオレンジ色の光を放つ円系のライトが埋め込まれているのだが、その光では部屋の隅々まで照らす事は出来ず、仄暗さだけが目立っていた。温度も第四期という寒々しい季節を忘れてしまうほど暖かく、しかし熱いわけではない。適切な温度、という事だ。そして微かに聞こえる緩やかな音楽が身体をリラックスさせる。
「ここは私が持つので安心して食事をして下さいね?」
きょろきょろ部屋を見渡す貧乏根性丸出しの樹楊に対し、イルラカが柔らかく微笑む。男が奢らないと格好がつかない、とは言えそうにもない。自分の俸給ではこんな高級そうな店の支払いは出来ないだろう。
「ああ。そうさせてもらう」
用意された水で渇いていた喉を潤すと、早速料理と酒が運ばれてきた。しかしコース料理ではなく、多種多様な料理がテーブルに並べられる。酒は葡萄酒で、綺麗なワイン色。グラスに注いだだけで、その芳醇な香りが漂ってくる。
卓上にあったランプがイルラカの横顔を照らす事で、この部屋を仄暗くしている意味がやっと解った樹楊だが生憎ロマンチストではない。女性を魅力的に演出してくれるのは嫌いではないが、ギザったらしい台詞が言えるほど自分の顔に自信があるわけでもない。
「樹楊さまのお身体はもう大丈夫なのですか? 部下の話を聞いた時は、正直最悪の状況が思い浮かんだのですが」
「まぁ、何つーか。俺もよく解らないんだけどな。サラは治療したからだ、とは言うけど……あれは死んだな、って自分でも思ってたくらいだ」
樹楊の記憶にサラが治癒してくれていた事などない。ただ、形容しがたい激痛が身体を蝕んできた事は朧げに覚えているだけで。しかし、瀕死の重傷をこうも早期に治療する技術などスクライドにはない。ヒーリング・ジェイムであれば効果は実証済みであるが、あれにぶち込まれた記憶もなければそんな話も聞かない。そう考えると、何故今の自分があるか不思議に思える。が、事実は後からでも知れるとの考えを持つ樹楊にとっては今考えるべき事ではなかった。
回復出来た事は喜んでいい事だし、周りのみんなが心配してくれたという聞かされた事実が嬉しかった。ゼクトは柄にもなく心配そうな面持ちをしてくれたし、ツキに至っては泣きじゃくって中々離れようとはしなかった。少しだけ鬱陶しかったが、それ以上に嬉しく思う。
思っていた以上に自分を想ってくれる人がいるんだな、と同時に改めて考えると、この一年は死にかけた事が二度もあった事に気付く。
一度は霞狼との一戦。
あの霞狼にも何かを護る気持ちが無ければ間違いなく殺されていただろう。何を護っているのかなど教えてはくれなかったし、聞いてもいなかった。だけど、アレは間違いなく何かを護る、または背負う眼をしていた。
二度目は蓮に刺された時だ。
蓮の歪みについては以前から知っていた。自分に気がある事も……知ってはいた。しかし応える事なく無視してきた結果が蓮の感情を壊したのだ。それを思い出すと、治ったはずの傷が、痛みが蘇る。まるで痛覚が残留しているように。
そう言えば死にかけた事に蓮が関わっている。これから先にも死にかける事があったとして、その時はまた蓮が関わっているのだろうか。
「樹楊さま? どうかされました?」
「ん? あ、ああ」
どうやら思いに更けすぎていたらしい。口に運んだはずのグラスが唇の前で止まっていた。イルラカに声を掛けてもらう事で過去の思いから抜け出すと、店自慢の葡萄酒を喉に流し込む。香りを堪能してから、と教えてもらったが、樹楊は自分が飲みたいように飲む性格だ。そんな飲み方をしなくても、美味いものは味を損なう事はない。
「なぁ、イルラカ」
樹楊は店自慢の葡萄酒を褒める言葉も紡ぎ出さずに、ふと感じた疑問を言葉にしようと口を開いた。イルラカの返す丁寧な言葉を耳にすると、
「蓮ってどうしたんだ?」
その質問にイルラカの食事の手が止まり、悲しげに視線を落とした。そして口をナプキンで拭くと薄く唇を開く。
「蓮さまは……行方不明です」
充分、重々しい口調だったが樹楊は大して驚かなかった。予想の範囲内だった事だからだろう。いくら歪んでいる蓮だとしても、仲間を傷付けてまで平然としてはいられないだろう、と思っていた。
「捜索はしないのか?」
「してます。部下が三名で動いていますが、例え見付ける事が出来ても赤麗には戻れないでしょう」
「戻せない……の間違いだろ?」
間を置かずに返す樹楊にイルラカは歯を食い縛ると、自分の言葉が間違いであった事を認めるように首肯する。
「蓮さまは見つけ次第、首領自らが裁くとの事です」
首領自らが裁く。
それは殺すという事なのだろう。殺されかけた自分が思うのもおかしい気がしたが、それでも蓮に死罪を与える事には賛同しかねた。元々ああいう気質であった事は紅葉だって知っていた事だろうし、何もせずとも放っておく事が最善である気もする。しかし雇う者と雇われる者との間には『示し』という厄介な概念が存在する。
被害者である自分が許せば別にいいだろ。と、樹楊は言いたい。
だが、蓮という不安定要素をどう抱えていけば良いのか、と訊かれたら何も言い返せない。つまるところ、下された決断は、国と傭兵という噛み合っている歯車を今まで通り回す為の潤滑油である事に間違いはないという事になるだろう。
それが解らないほどに、紅葉も馬鹿ではない。
だけど……。
「紅葉も辛いよな」
ぼそっと呟いた独り言のつもりだったのだが、イルラカには聞こえていたようだ。テーブルの料理を薙ぎ倒さんとする勢いで身を乗り出してくると、驚愕めいた目付きで樹楊の顔を見ている。
樹楊は思わず上体を引き、それでも足りないと思うと椅子まで引いてイルラカとの距離を開ける。同時に床に落としてしまった柔らかい肉の事も気になっている。何せ、数年振りに口にした上等な肉だ。今食べられなければ何時食べれるのだ、と。
「樹楊さまっ、今何と仰いましたか?」
「へ?」
「屁じゃないですっ」
どうやらイルラカは興奮しているらしく、樹楊の答えを急いていた。何故これほどの反応を見せたのか解らない樹楊は、正直焦りまくっている。
「いや……紅葉も辛いよなーって」
するとイルラカはシャボン玉を初めて見たガキンショのような笑顔を浮かべると、テーブルを一度だけ強く叩いて「その通りです!」
過剰ともいえる反応に樹楊はまた少し椅子を引こうとするが、イルラカに手を取られて阻止される。イルラカは何やら嬉しそう。
「そうなんです、その通りなんです樹楊さま! 首領とて身を引き裂く思いで下した決断なんですよっ。赤麗のトップに立つ者として、組織の為友好の為に下した決断なのです! それなのに赤麗の部下達ときたら、やれ『冷たい』だの、やれ『悪魔』だの陰でコソコソコソコソコソコソ!」
「そ、そうか」
「そうですっ。しかしやはり樹楊さまは違う! 首領の事を解っていらっしゃる!」
そんなに嬉しい事なのか、鼻息を荒くして落ち着きのある大人なイメージをボロボロと崩している。強く思う所があるのか「くっはぁ!」と、握った拳をぷるぷる震わせてもいた。そしてやっと解放してくれたかと思っていたら、今度は葡萄酒を男らしく呷ると、紅葉について熱く語り始めた。
それは別に構わないのだが、肉料理を食べている時に『首が千切れるように飛んでいった』などというような、紅葉の強さのエピソードは控えてもらいたい。この後も、イルラカの紅葉についての熱弁を余す事なく聞いた樹楊だが、自分にとってはどうでもいいことばかりのような気もした。口に運ぶ肉料理の味も美味しいのかそうでもないのか、解らなくもなっていた。
そうしている内にすっかり夜は更け、今日という時間もあと僅か。なるべく抑えて飲んでいた酒とはいえ、長時間に渡って摂取していれば大分酔いも回っていて心地よい気分でもある。夜風が冷たく、少しばかり酔いも醒めたが。
イルラカは酒豪なのか、頬の色も染めずに背筋を伸ばして歩いている。それでも上機嫌なのは終始見せている笑顔からよく解っていた。
「樹楊さま、本日はお時間を頂き誠にありがとうございます」
どこまでも礼に正しいイルラカに樹楊は苦笑。紅葉を大切に思っている事は解った。だが、気になる点が一つ。
「蓮はどうするんだ?」
訊くと、イルラカは一瞬だけ顔を強張らせるが取り繕うように笑顔へと変換させる。樹楊がそれを見逃すわけもない。
「蓮さまの事は首領の決断通りです。それが最善でしょう」
「もう一度訊く。蓮の事はどうするんだ?」
「ですから……その事はもう…………」
樹楊の見透かすような眼差しに、イルラカは目を逸らして引き攣った笑みを見せた。イルラカは蓮への処罰に対して誰よりも納得がいっていないのだろう。それは紅葉の決断を否定しているわけではなく、何も出来ずにいる自分への苛立ち。それを垣間見た気がしていたから、訊いてみた。ただ『気がした』だけだ。
樹楊は鼻から重い溜め息を逃がしてやると、一度だけ夜空に視線を移した。冬の星空が綺麗だとは言うけれど、今日は生憎の曇り空。ただ一つの星が輝いている程度だ。それでも、
「蓮の右目……。あんなんだったな」
樹楊の独白はイルラカには届かず、行き先を失って吹かれた風に身を寄せて流れる。
無表情の中にある右目は、漆黒の夜空に瞬くただ一つの星に見えた事を思い出した。初めて蓮と会ったあの日、故郷から帰る時に見送ったあの日。蓮が見せてくれた右目は凄く綺麗だった。だけど蓮はその右目を嫌って隠している。
呪刑者。
それが何なのかは解らないが、イルラカに訊く気もしない。
蓮だって、自分以外の口から伝えられる事は望んでいないだろうし。
「イルラカ、本当に蓮の事は」
「樹楊さま、その事に関してはもうっ」
樹楊の言葉を遮ったイルラカは、ハッとすると罰が悪そうな顔をして「決まった事なのです」と、言葉を地に落とした。左腕を押さえる右手が震えているのは寒いからではないのだろう。ぐっと堪えている、その感情が零れ落ちないように。
しかし樹楊はそんな気持ちなど知った事じゃない。
イルラカの本当の気持ちが知りたい。きっとその気持ちを紅葉も共有していると、何となくだが解っているから。
「言い方を変えるよ」
「え? 言い方……?」
樹楊は少しだけ首を斜に、罪の告白を待つ神父のような穏やかな口調で訊く。
「蓮をどうしてほしいんだ?」
イルラカは樹楊の言葉に表情を奪われたが、その意味を解釈すると泣き出しそうに顔を歪めた。そこには強気も何もない。ただ自分の無力さを悔やみ、助けを請うだけの弱者の顔だった。
大きく膨らむ思いをどうする事も出来なかったイルラカはヨロヨロと樹楊の元まで行くと、胸倉を掴んでその間に見える胸に顔を埋めて誰にも聞こえぬような声を漏らす。
「……蓮さまを助けて下さい」
その上擦った声は情けないほど震えていたが、イルラカの心の全てが込められていた。辛かったのだろう。イルラカの立場は、首領である紅葉の意見を受け入れて部下からの不満も聞かなければならない。紅葉の決定を絶対なものにする為に率先して受け入れ、部下達の見本となる。しかし押し付けが過ぎれば部下達の反乱もあり得る。そうならないように、日々緊張の糸を緩めずにいたのだ。言葉を選び、部下達や紅葉を説き、赤麗という部隊を纏めてきたのだろう。
樹楊はその全てを解っていたわけではない。今のままでは良くないと、漠然に思っただけの事。
「蓮に関しては俺にだって責任がある。出来る範囲の事はするから、蓮を見付けたら紅葉よりも先に俺に教えてくれ」
「はい。そのように手を打ちます」
「お前は俺の事を英雄だって言うけど、そんなに出来た人間じゃねーし、立派な志だって持ち合わせてねぇ」
イルラカの肩を正面から支えてやり、不敵に口の片端を吊り上げると、
「けど、英雄のフリなら出来るかもな」
そこにある笑顔はやっぱり英雄のそれとは掛け離れていて、人を騙して欺いて嘲笑を上げる詐欺師みたいな捻くれたものだった。しかしイルラカの瞳には英雄にしか見えないのだろう。
◆
クルード城の地下、密林をイメージした訓練施設。
スイは乱雑に群生する雑草を隠れ蓑とし、蓮の隙を窺っていた。荒かった呼吸も整い始めてはいるが満身創痍の身体。満足に動ける状態ではないが、降参の旗は振りたくもない。スイは極度とも言える負けず嫌いなのだ。
しかし、こうやってこそこそ隠れながら隙を衝くやり方は好きじゃない。だが、こうでもしなければ蓮とは張り合えそうにもなかった。オルカが蓮の実力を見たいから、と実戦形式の模擬戦を提案し、自分を指名してくれたのを嬉しく思っていた。しかし、いざ剣を合わせると実力差がハッキリ出るほど自分は弱かった。
一年前に殲鬼隊に選ばれて浮かれた事もあったが、ゼクトに負けて以来、ずっと訓練に訓練を重ねてきたのだ。そしてナーザとかいう女にも一瞬で負けた。もう負けるのは耐えきれない。だからこそ、この一戦は勝たなければいけない。
蓮は草木を嫌うのか、眉根を寄せながらトコトコ歩き、乾いた倒木の上に置き物のように座っている。周囲を警戒する気などないのか、眠たそうにもしている。
オルカは紅葉並みに強いから、と言っていたのがよく解る。隙があるように見えてないのだ。
どうやって攻めに転じようか、などと考えていると不意に草の先を揺らしてしまった。途端、目下から剣の切っ先が突き出てくる。
「くうっ!」
ずっとこんな調子である。
今も何とか避けたが、連続で、しかも三百六十度から迫ってくる為予測が出来ない。一度攻撃を許そうものならしばらくは防戦一方となってしまう。こんな事が既に三時間も繰り返されていた。
スイは高く跳躍して大きな岩に登るが、そこに蓮が自ら攻めていく。片手には漆黒の機械剣を握り締め、片目を冷たく光らせながら。スイは鉄扇で迎え討とうとし、構えを見せたのだが迫り来る袈裟切りを跳んで避けた。
圧縮した空気を一気に放出する機械剣の斬撃に戦慄を感じたのだ。触れてはいけないと、全身が警告を訴えてきた。スイのその判断は正しかった。
蓮の機械剣は岩をも両断する。それもあっさりと。
その剣は何なのか、と思うのも束の間。蓮の身体は陽炎のように揺らめき、緩やかな幻影を連なるように引き連れ始めた。なかなか遅い、と見えるが眼で追っている蓮の身体は既に幻であり、本体は背後。かと思いきや左側に移動している。
「あれは魔光跡のっ」
二人の模擬戦を見ていたオルカが驚愕。
隣に居るラファエロも驚きながら、しかし感心するように頷いている。
「見た事ない魔光跡ですね。蓮さまは特殊三系統の魔法を使えているから、あの魔光跡も『時』の魔力を持っているのかもしれませんね」
「蓮ちゃんを仲間にして正解だったね。もし敵なら、クルードの精鋭を十隊出しても厳しいかな」
オルカはニコニコしながら一方的な模擬戦を見ている。嬉しいのか、鼻歌混じりだ。
「本当に紅葉は蓮さまと互角なのでしょうか? 蓮さまは呪刑者でもある。私でも互角に持って行くのが精一杯かと……」
「どうなんだろうね。紅葉は生粋の剣士って感じだったな。特別な力もないし。でもボクなら蓮ちゃんには勝てるよ」
「そうでしょうね。オルカさまに勝てる者など、この世にいるのでしょうか、っと、そろそろ止めに行かないとスイが殺されてしまいますよ」
「そうだね」と頷きながらスイの元へ跳んで行くオルカ。
スイは魔光跡の力を振りかざす蓮に翻弄されてどうにもならなくなっていたのだが、それでも何とか命を繋ぎ止めている。
しかし蓮が背後に回り込みんで刺突の構えを見せた事に気付けないスイは、目の前の蓮の幻影を睨んでいた。ここでオルカが止めに入らなければ、スイは間違いなく虚無の刺突の餌食になっていただろう。
「蓮ちゃん、終わりだよっ」
オルカは蓮の背中に負ぶさるように抱き着いて腕を握る。蓮はちらっとオルカを見た後「そう」と弱く呟き、早々とこの施設から出ていった。
スイは胸と肩を激しく上下させて滝のような汗を出していた。緊張の糸が切れた状態では足も身体を支えてくれやしない。鬱陶しいくらいの生え伸びた雑草の中に寝転がるのはいい気分ではないが、それでも大の字になった。
「スイ、どうだった?」
まるで風呂の湯加減を聞いてくるような口調にスイは首を振るだけ。言葉に出来ないくらいに呼吸が乱れて、どうにもならなかったのだ。
旧ネルボルグでゼクトに負けて以来、死ぬ気で訓練をしてきたのだが、その成果があるのかどうかさえも疑わしいほどに実力差を見せつけられた。誰にも負けたくないという思いでやってきた。しかし、ナーザという賊らしき女にも負け、蓮にも歯が立たない。
「まー、蓮ちゃんは異質だからね。やりにくいと思う」
「オルカさまは、紅葉と蓮のどっちが強いと思う?」
オルカは考える素振りも見せずに、
「紅葉でしょ。特別な力はないけど、一対一でやらせたら紅葉が勝つとボクは思っている」
スイは悔しそうに口を結ぶ。
そこは蓮と言って欲しかったのだ。その蓮でさえ遥か高みにいる存在だというのに、それよりも上にいる紅葉に勝つ為には何年間訓練をすればいいのか。それとも何をしても叶わないのだろうか。そう思うと悔しさだけが心を埋め尽くす。
だけど。
「上等ォだよ。私は絶対負けねぇ」
スイは勇ましく独白。
負けてたまるか。自分を見込んでくれたオルカの為にも強くならなくてはならない。そして何よりも、負けず嫌いなのだ。地に伏せるのは自分じゃない。自分であってはならないのだ。
「オルカさま、手合わせを頼む」
「しょうがないな。手加減はしないよ?」
それでいい。
手加減なんかされてたまるか。
オルカが珍しく訓練の相手をする事にラファエロは驚いたが、嬉しそうに微笑んでいる。それはスイの想いが強く伝わったからなのだろう。
強くなる。
もうこれ以上、無様な姿をオルカに見せない為に。