第十八章 〜髑髏の女神〜
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白鳳から意気揚々とバイクを走らせてきた紅葉は、樹楊の故郷に立ち寄る事にした。
樹楊が大好きなツキのしつこい申し出に、紅葉は仕方ないといった口ぶりで了承したのだ。
口ではそう言ったものの、紅葉も楽しみにしている。あそこにはニコが居て、久し振りに会いたくなったからだ。
任務も無事に成功したし、白鳳の皇帝にも気に入られた。そしてラクーンから手渡された軍資金もツキと山分けし、懐も一層喜んでいる。
良い事が続けば、誰でも笑顔になる。
血の色が疑われる赤麗の首領とて同じだ。
荒野から見える、既に潰れた街である樹楊の故郷が見えてくるとツキは待ちきれないとばかりに後ろではしゃぐ。今も健在だが、煤けた大型ビルがニコ達が主に集まる場所であり、紅葉がニコと初めて会った場所でもある。
もう踊る心がうるさいが、ツキの手前ではしゃぐわけにもいかない。しかしアクセルを全開近くまで開けて急く。
二日の旅の終わりとしてやっと着いたのだが、ニコが見当たらない。近くに居た子供に訊くと、街の外れにいると言う。
何でだろ? と首を傾げながら向かうと、見慣れた光景が目に飛び込んできた。
露店のようだが、雰囲気に棘がある。
「……闇市。何でこんな所に」
紅葉は近くまで行くと、バイクを止めてツキを闇市に促す。ぼけっとしていたツキは、そこが闇市である事に気付いていない様子。最も、闇市という言葉を知らないのかもしれないが。
警戒しながらも闇市の入口に近付くと、こちらに気付いたニコが大きく手を振って走ってくる。あの満面の笑み、今日も変わらない。
「ひっさしぶりーっ。いぃやっほー!」
ニコは豪快に紅葉の胸に飛び込んでいく。
「久しぶりね、元気だった?」
「うんっ。元気元気だよっ」
旧友との再会のように騒いでいると、それに気付いたスネークが眉間にしわを寄せて歩み寄ってくる。その後ろには不敵な笑みを浮かべているナーザも。
どうやら自分が来た事が気に喰わないらしい。でもまぁ、以前にも言われた事だ。
『ここに近付けば殺す』と。
こうなる事は予想していたけど、久し振りに再会に水を差されるのはやはり気分を害する。
紅葉はツキを後ろに下げ、腕を組んで近寄ってくるスネークを見上げた。実質、見下しているような目付きで。
「おい、ここには近付くなと言ったはずだ」
「私はニコに会いに来ただけよ。それのどこが悪いの? 私だって今はスクライドと手を結んでいるの。樹楊のバカが世話になっている所をどうにかしようなんて思っていないわ」
するとスネークが額に青筋を浮かばせた。それと同時に紅葉の目付きも鋭利なものとなる。
その背後ではツキとニコが、ほんわかと自己紹介し合っている。こちらの事情などお構いなしのようで、何と言うか……気楽なものである。
一触即発の空気が流れると、それに割り込んできたのはナーザ。どうやら考え方が柔軟らしく、スネークを宥めていた。
「アンタが赤麗のトップか? 噂は聞いているよ。俺はナーザだ。よろしくな」
にかっと手を差し伸べてくるナーザに、正直戸惑ってしまった。闇市の連中は自分を歓迎しない者ばかりだと思っていたから。
スネークは戸惑いながらナーザを引き留めるが、殺意全開の睨みに気圧されてしまう。
「ここの連中は警戒心が高いだけなんだ。悪い奴等じゃないんだよ」
「それは樹楊にも言われたから解ってるけど、ナーザだっけ? アナタは随分と楽観的ね」
差し伸べられた手を握り返すと、皮肉じゃなく、心からの素直な気持ちを伝えた。嫌味などない事にナーザも歯を見せて笑う。随分と男らしい性格だ。それだけに好印象を持ってしまう。
ナーザは腰に手を当てると、変わらぬ表情で樹楊と知り合いかと尋ねてくる。それに対して首肯すると、
「アイツは変わった奴だよな。結構気に入ってるんだ。お前は?」
「え、私っ?」
自分を指差すと、何故か視線が集中してくる。特に背後に居るちびっこ二人の視線がやけに熱を持っている気もするが、勘違いだろうか。紅葉があせあせとしていると、そこに思わぬ来客が来てくれた。
「首領。何故こんなところに?」
それは私服姿のゼクトだった。
棒付きの飴と、深く被るニット帽は変わらないが私服は白が基調とされていて可愛らしい。
「私は任務の帰りで知り合いに会いに来ただけだけど。ゼクト、アンタは何で?」
尋ねると、ゼクトはぐっと息を飲む。そして「任務の帰りです」と押し殺すように呟いた。
「そっか。ありがとね。報告は後で聞くわ」
「はい」
ゼクトは浮かない顔をしているが、どうしたのだろうか。顔色も悪い気がする。
紅葉に挨拶を交わしたゼクトが、今度はスネークを真っ直ぐに見詰めて口を開く。
「あの、スネークか、ナーザって人……います?」
ツキ以外の全員が疑問符を浮かべた。
恐らく紅葉が思っているように、何で名前を知っているのだろう。と同じなのだろう。
呆気に取られたようなナーザが、思考停止しているスネークよりも先に名乗り出ると、ゼクトは目を悲しそうに細めてポケットから何かを取り出す。
「これ……」
それは先端が尖っている黄金の髪飾りで、一目見ただけで高級品だと解った。しかし何故ゼクトがこれを持っていて、ナーザに渡そうとしているのか解らない。
だが、ナーザは。
「こいつは『狂婦人の髪飾り』じゃねーかっ。どうしてお前が?」
「そうだぜ。こいつはキョウに頼んだ物だ」
便乗するスネークの言葉に、紅葉は益々訳が解らなくなる。完全に蚊帳の外だ。
「樹楊のおにいさんに頼まれました……。渡せば解る……って」
ゼクトは俯く。
唇を噛み締め、肩が震えている。
「それでキョウは?」
顔を引き攣らせるスネークの問いに、ゼクトは重く口を開いた。辛そうに、悔しそうに。
「良くて……ダラスの捕虜に。最悪の場合……」
次の言葉に、耳を疑った。それは紅葉だけではないだろう。
「……死んだかもしれません」
ツキもスネークもナーザも、紅葉と同じ反応をする。ニコに至っては狼狽し、それでもゼクトに歩み寄った。
「どういう事なの……? 死んだって、意味解んないよ」
ゼクトは目を伏せると、淡々と話し出す。
ダラスで起きた全ての事を。
結果から言うと、ゼクトに同行した蓮が樹楊の仲間と思われる少女を殺害しかけ、それに憤怒した樹楊にも背後から剣を刺した。それでも何とか助けようと試みたが、迫るダラスの警備兵を見た樹楊が髪飾りを持って逃げろ、と告げてきた。
その事実にニコはゼクトの服を破れそうな強さで引っ張る。しかしゼクトは罰が悪そうな顔で目を合わせようとはしない。
「う、そだ。嘘だ、嘘だウソだぁ! 信じない、信じられない! 死ぬ訳ないもん!」
ニコは取り乱し、頭を抱えて発狂し始めた。ツキはよろよろと後退りすると、ぺたんと尻餅を着き、身体を震わせる。
「いやだ! 嫌だイヤだぁ! うわあぁぁぁあああぁぁぁぁあっ!」
「ニコ、落ち着いて。まだ死んだって確定したわけじゃないの! だから、ね?」
自分も取り乱しそうだった。だけど、言い方は悪いがニコが先に発狂してくれたお陰で何とか抑える事が出来たのだ。
紅葉が泣き叫ぶニコを抱き締めて頭を撫でていると、ツキもすがるように抱き着いてくる。必死に泣くのを堪えようとしているのが解るだけに、胸が苦しかった。
「首領、すみません。私が居ながら……」
「相手が蓮じゃどうしようもないわ。自分を責めないで」
肩を落とすゼクトだったが、ナーザから渡された本を見ると「こんな物の為にっ」と歯を食い縛り始める。
それは『創世千書』の第二十三巻の片割れ。
ゼクトはその本を叩きつけようと振り上げるが、樹楊が命を掛けて得た本だ。やり場のない怒りを堪えて本をしまう。
それから一時間後、心が空になったようなニコをスネークが預かる事になり、紅葉らは一旦スクライドに戻る事にした。スネークは目を真っ赤に充血させた小さなニコを抱き、憐れんだ目で頭を撫でていた。そこにナーザが気負った面持ちで現れる。
「スネーク、お前はここに残るんだろ?」
「あぁ。ニコがこんな状態じゃな。少しばかり残らせてもらうよ。お前はどうするんだ?」
「俺か?」ナーザはサラシだけの上半身にレザーのジャケットを羽織ると、
「ダラスに行ってくる」
双剣を背に掛けて傷だらけのバイクを運び出してきた。その姿は『骸の女神』と恐れられる凶悪な賊だった頃を思い出させる。交差している剣が邪魔で見えないが、レザージャケットの背には腕の刺青と同じ紋章が刺繍されている。
「俺が行くしかねぇだろ。あのガキが死ぬなんて思えねぇ。髑髏の刺青に誓って助けだしてやんだよ」
そう吐き捨て、エンジンを掛けると一気に疾駆していった。残されたスネークはニコに「安心しろ」と不確定な安堵を与えて、既に姿が見えなくなったナーザの残影を見る。
「アイツに盗めないモノはないからな」
その時、微かにニコの眼に生気が宿った。
◇
スクライドに戻った紅葉はゼクトを連れてラクーンの元へ訪れた。そこにミゼリアとサルギナも呼んでもらい、長テーブルを挟んで対峙すると紅葉は真っ直ぐな瞳で事の始終を告げる。
聞いたミゼリアは両手をテーブルに強く叩きつけて前のめりになるが言葉が出てこないようで、サルギナに身体を支えられながら席に座らせられていた。ラクーンでさえも、暗い面持ちで法衣の袖の中に両手を入れ合って険しい表情になっている。
そんな重苦しい雰囲気の中に招集を掛けられた赤麗の面々も訪れてくる。銀髪を後ろで縛ったイルラカはその中でも表情が暗く、取り乱したニコを思わせるものがあった。
蓮の反逆行為に加えて、英雄だと思っている樹楊が死亡したかも知れないという事実が重く圧し掛かっているのだろう。
テーブルの中央に置かれた、遺品だと思われる一本の短剣を震える指先でなぞると眉が下がった。イルラカは口を固く結んで紅葉の隣に小さく座ると、震える拳を両膝の上に乗せる。紅葉の呼びかけにも、遅い反応でしか返せない。
誰一人として言葉を出せない状況の中、空気を読まないサラが元気よく現れる。
「やっほー。皆さんおっはよーっ」
肩に赤褐色の猫――ミネニャを乗せて満面の笑みで挨拶をして回り、ラクーンの隣に座った。ラクーンは、元気よくコーヒーを催促されると偽物の笑顔で対応する。
紅葉にはそれが気に喰わなかった。確かにサラは自分が従うべき存在に思っていたが、ここまで楽観的な態度を見せられると、ふつふつと怒りが込み上げてくる。
樹楊が死んだかもしれないのに……。
ゼクトは甘いコーヒーを満足気に飲んでいるサラを横目に流し、紅葉に問う。
「蓮ちゃんの処分はどうするのですか?」
紅葉はぐっと息を飲むが、揺るぎそうにもない表情で赤麗全員に言い聞かせるような口ぶりで話す。
「蓮は……見付け次第殺すわ。と言っても、アンタ達は手を出さないでね。相手が蓮となれば敵う相手じゃない。私がやるから」
その決断に赤麗の面々はざわつくが、スクライド側であるミゼリアとサルギナは表情を変えない。当り前だとばかりの態度で紅葉を見ている。
「首領っ、蓮様がいなくなったら赤麗の戦力が落ちてしまいますっ」
赤麗のメンバーである者が代表して反論すると、紅葉はギロッ睨んでからゆっくり立ち上がり、赤麗のメンバーを見回して声を荒げる。
「蓮がした事はスクライドに対する裏切りなのよっ。内輪揉めならまだしも、雇い主である国の兵士を殺害しようとしたの! この処分は当たり前だし、最終決定よ!」
怒号は赤麗のメンバーを黙らせた。紅葉が下した処分が適切だと解ったのか。それ以上は何も言えなくなっていた。しかし、一人だけ。スクライドでも赤麗でもないサラが口を開く。
「蓮ちゃんを殺しちゃ駄目だよ? それは許しません」
ニコニコと、まるで状況が読めていないようにおっとりとした口調。それが紅葉の神経を逆撫でした。紅葉は身を乗り出すと、サラの胸倉を掴んで荒っぽく引き寄せる。一度だけ額が触れ合うと、その距離を保ったまま鋭い眼光でサラの瞳を射抜く。
「アンタが口を出す問題じゃない!」
その眼光にはミゼリアも身体を強張らせたが、当てられたサラの穏やかな表情には変化がない。しかし、強い口調で言い返す。
「紅葉ちゃんはいつから人を裁けるほど偉くなったの? 蓮ちゃんの気持ちを考えてはあげないの?」
……それくらい、解っている。自分が人を裁く権利を持たない事くらい解っている。
だけど。
「それじゃあ示しがつかないのよ! アンタが思っているほど、お気楽な問題じゃないの!」
「それでも蓮ちゃんの生死を決定するのは紅葉ちゃんじゃないのよ」
歯をギリッと噛み締める紅葉の目付きは轟々たる怒りに燃え始める。肩を震わせて無言でサラを睨むが、返ってくるのは柔らかな笑顔。
水に釘を刺しているような、どうにもならない怒りのやり場に爆発しそうだった。
すると、ミゼリアが口を挟んでくる。
「それじゃあ犠牲になった樹楊が浮かばれないのではないのですか。理不尽な結末に樹楊だって」
やや強めの口調に、サルギナも手振り見せながら加担してきた。
「そうだぜ、サラちゃん。蓮という子がやったのは反逆だ。その反逆者に何の裁きも与えないとなると、赤麗との関係が悪くなる。いくら仲が良かったとは言え、死んだかもしれないキョウだって同じ思いだろ」
サラは紅葉に胸倉を掴まれたまま、くりっと振り返るとぽかんとした表情で当然のように言葉を発する。
「アナタ達は何で戦を前提に関係を保とうとするの? 赤麗とスクライドの関係がどうなろうと私が知る事ではないけどさ、キオーが蓮ちゃんを恨むわけないじゃない。それに」
サラはニコッとし、
「キオーは死んでないよ?」
全員、何も言えなかった。ただ一匹、赤褐色の猫が退屈そうに欠伸をして尻尾を振っているが。
「どういう意味? 何でそんな事解るの?」
ゼクトがサラに聞く。
「私はキオーの為だけに生まれてきたの。キオーが死んじゃったら、今の私はいらなくなる。そうなれば自然と枯れちゃうんだよ、私は」
いえいっと親指を立てるサラだが、その言葉には不思議な説得力があった。そしてサラは紅葉の手を優しく払うと、席に戻りラクーンに手を合わせてお願いする。
「この問題をさ、こう考えてくれないかな? キオーと蓮ちゃんだけの問題って。スクライドと赤麗の問題じゃなくてさ。ね?」
「そんな事!」
ミゼリアが椅子を鳴らして立ち上がるが、それをラクーンが制する。至極真面目な顔でサラの瞳を覗いていた。
「蓮さんは反乱因子です。不安定にもほどがある。このまま何の咎めもないとなると、いざという時に事を起こされては困るんですよ。そこはどういう考えを?」
「大丈夫っ。私が正して見せようじゃないかっ。まーまー、泥船に乗ったつもりで安心してちょうだいなっ」
泥船に乗ったら安心出来るわけないし、必然的に沈むのだが……。しかしラクーンは笑顔を取り戻し、それを承諾した。
それに不満を持ったのか、ミゼリアが反論しようとするが今度はサルギナが制する。
だが紅葉は。
「首領、どこに行かれるのですかっ」
踵を返して去ろうとする紅葉にイルラカが問うと、不機嫌そうにぽつり。
「部屋に戻る」
そう言って去る紅葉の後をイルラカが追う。部屋を出る際には低頭する事も忘れないイルラカは赤麗の中で唯一の常識人でもある。ゼクトはサラを睨むように見つめると、薄く口を開いた。その言葉は刺々しいのだが、やはりサラには通じない。
「ねぇ、樹楊のおにいさんが生きてるならどうするの? このままダラスに居たんじゃ結果は変わらず、死、よ?」
「大丈夫っ。私が助けに行くからさっ」
どんっと胸を叩くが、少々強すぎなのか咽るサラ。頼りないにもほどがあるが、不思議な説得力にゼクトは反論出来ずにいた。
「任せてよろしいのですか?」
ラクーンがいつものような笑顔で訊くと、
「勿論。蓮ちゃんの事も任せてっ」
そう返して弾む足取りで部屋を出ようとする。その後を追う猫がサラの頭の上に乗り、くるっとミゼリアに向って振り返り「あにゃ」と、一鳴き。
その鳴き声はまるで「心配するな」と言っているかのよう。ミゼリアは深い溜め息を吐くと、悲しそうに目を細めた。
ラクーンは場に集まる者を解散させ、
「さて、こちらは創世千書とやらの解明に力を注ぎますか。サルギナ将軍も手伝って下さい」
サルギナはあからさまに嫌そうな顔をするが、しつこく「ね? ねっ?」と詰め寄るラクーンに仕方なく協力をする事にした。
ミゼリアは最後まで席を立たず、樹楊の短剣を胸に抱いて思いに更けている。
◇
赤麗が有するビルの最上階にある自室に戻った紅葉は荒々しくテーブルを蹴飛ばして怒りに身を火照らせていた。ボールのように吹っ飛んだテーブルの重量は成人男性一人分はある。硬度もあり、破損する事はなかったが紅葉の足にも怪我はない。
ギリギリと歯を食い縛り目に映る剣を叩き折ろうとするが、イルラカに背後からそっと押さえつけられる事で、それを止めた。
しかし怒りが収まったという訳ではない。むしろ当たる物がなくて膨らんでいくばかりだ。
「イルラカ!」
「はい」
八当たりのような怒号にイルラカは冷静な口調で返した。
「私の決定は間違いなの!? 他にどうしろってのよ! そう言わなければスクライドとの間に亀裂が入るっ、なのにあの女は! それに部下達のあの顔はどうなってんのよ! 人を軽蔑したような目で見てさ! 私がどんな思いで下したと思ってんのよ! どんな思いで蓮を!」
「首領」
イルラカは背後から紅葉を抱き締めた。
胸元に紅葉の後頭部をそっと埋めてやり、首に優しく腕を回す。
「私がどんな思いで……、蓮をっ」
紅葉の眼からは強さが消え失せ、奥に潜んでいた弱さが浮き彫りになっている。悲しみが口を震わせ、辛さが涙となって膨らむ。
泣いてはいけない。自分はイルラカの上に立つ者。弱さなど自分には不必要だ。
だから……、
……泣いてはいけない。
「私は解っていますから。首領がどんな思いで決断したのか、私には解っています」
きゅっと抱き締めてくるイルラカは、自分の思いを解ってくれている。我儘な自分の傍にずっと居てくれて、誰よりも自分を。
そう思うと限界だった。
堪えていたのに、我慢していたのに。
「ふぇっ……」
紅葉はイルラカの腕を掴むと、口を埋める。
イルラカの優しさが痛かった。
イルラカの優しさが嬉しかった。
赤麗のトップだからこそ、今まで弱さを見せずに泣かずにいたが、イルラカには甘えてしまう。
「首領、泣いて下さい。私の前では我慢しなくていいんです。私はアナタの為にも生きています。ですから我慢しないで下さい」
紅葉は腕の中で身体を反転させると、イルラカの胸に強く顔を沈めると大声で泣き出す。
いくら剣の腕が化け物並みでも、冷酷残忍と言われていても、心はまだ十六年分の強さしか持っていない。それはどんなに強気で固めていても、それを超える悲しみにはあっさりと砕けるもの。
蓮に下した苦渋の決断。瀕死の樹楊。
それは紅葉にとっては今までで一番、心を苦しめるものだった。
「イル、ラカぁ。ごめんね? ごめっんね? 弱くて……ごめっ……」
イルラカは子供のように泣きじゃくる紅葉の真紅の髪をそっと撫でながら「大丈夫です」と、言い聞かせるように呟く。
悲しみを全て吐き出した紅葉は気持ちを切り替えると、メンテナンスを終わらせた深紅のバイクに跨ってサラの元へ向かった。サラは樹楊のお古であるスクライドの戦衣を着て出掛ける準備をしていた。ぶかぶかの恰好はどう見てもふざけているようにしか見えない。
「アンタ、ダラスまで行くんでしょ?」
「うんっ。で、紅葉ちゃんはどうしたのかな? その格好は」
紅葉の格好とは、丈の短いスカートに紅いバイカージャケットを羽織った姿。赤麗の象徴である長衣は着ていない。
「私もダラスに行くの。ついでだから乗せてってあげる」
太々しく言うが、サラには通じず嬉しそうに抱き着いてくる。この人には邪気というものがないのだろうか。
「助かったぁ。一人だったら歩きだもんねっ」
「歩っ……」
本気でない事を祈りたい。
ここからダラスまで、バイクでも二日は掛かる。それを徒歩で向かおうとするなんてバカとしか言えない。
紅葉は敢えて突っ込まず、サラをバイクの後ろに乗せた。抱き着かれると森の香りがして、やはり落ち着くものがあった。
この女は本当に何者なのか。そして自分はこの女の何なのだろうか。募る疑問はあるがそれは今ラクーン達が解明していると言うし、今は樹楊の事が心配だ。
「ねーねー。何でゴーグルをしてるの?」
「そ、それはっ。バイクを走らせるからよっ」
紅葉はバイカーのゴーグルで目を隠していた。それは単に、充血した眼を腫れた瞼を隠す為であり、それ以外の意味はない。しかし威厳を大事にする紅葉としては、泣いた事を誰にも知られたくはないのだ。
サラは「ふーん」と納得したような返事をするが、何故か頭を撫でてくる。
「よしよし。紅葉ちゃんは強い子だねっ。よく頑張りましたっ」
まるで母に慰めてもらっているかのようで、紅葉の目頭がまた熱くなる。
「……ふんっ、何の事だか」
水なんて飲むんじゃなかった。
紅葉は涙を浮かべると、震えだしそうな唇を噛んで堪える。そしてそれを気付かれないように、アクセルを全開に開ける。
◆
同時刻、クルード王国。
城内にある訓練施設を扉からこそっと覗くオルカはにんまりとしていた。
訓練なんてかったるい事、そんなのやってられない。
「今日は何をして遊ぼうかなっ」
厳密に言えば『今日は』ではなく『今日も』ではあるが、過去を振り返らない(都合が悪い事に限り、振り返ろうとはしない)オルカは昼食を控えた今、どんな事で暇を潰そうか悩んでいた。部下の訓練を邪魔するのは飽きたし、ネルボルグで食い倒れするのにも飽きた。同世代の友達はいないし、と後頭部で手を組んで蕾のような背丈に合う足でトコトコ。
やらなきゃいけない事もあるが、今はまだ様子を見ていなければならない。そんな事より、いい玩具でもあればと考えていると、
「オルカさま」
「にえっ!」
背後からの声に、全身の毛を逆立てるほど驚いていしまった。気配などなかったハズ。
恐る恐る振り返ると、自分の側近が真面目な顔で突っ立っている。いつも迷惑を掛けるが、名前なんか覚えていない。
暗い灰色の正装をしていて、短い金髪碧眼の側近は腕を後ろに組んでいる。湿った目線がやけに怖い。オルカは飛び出したかと思った心臓を服の上から抑えていた。
「や、やるね。気配なんか感じなかったよ」
すると側近は遠い目を地に落とす。
「えぇ、まぁ、いつもの事ですから。そりゃ気配も消せるようになりますよ」
悲しそうに、そしてやけくそのように笑みを溢し「その内存在も消えるんじゃないですかね」と、吹っ切れたいじめられっ子のように妙な威圧感を出し始める。
この側近はいつもオルカの放浪癖に悩まされ、それでも追い掛けていくと逃げられるという、苦労が絶えない男である。だからこそなるべく気付かれないようにオルカに近付こうとしている内に、気配を消す事を覚えてしまったのだ。
オルカは、まーまー、と苦笑いをしながら慰めた。ついでに飴玉をあげてみる。
「で、どうしたの? 訓練はやりたくないよ?」
側近は、上司の前だというのに貰った飴玉を口の中に躊躇なく放り、コロコロと転がし始める。それを見たオルカは、自分に似てきたな、と冷や汗を一つ流した。
側近が極めて真面目な顔付きをするが、飴玉で頬が膨らんでいる所為でおちょくっているかのように見える。
「ここでは話しにくいので、二人きりになれる所に移動しましょう」
「愛の告白?」
飴玉をぶっと吐き出す側近。
「違いますよ!」側近は脊髄反射のごとく否定するなり飴玉をオルカに催促し「お兄様の事です」
潜めた声にオルカは目付きを変えた。側近はまたもや飴玉を口で転がし始める。美味しいのか、少し嬉しそうにしている。側近はオルカの手を取ると、頬を飴玉で膨らませた。
「ですので、二人きりに」
「愛の告白?」
「はい、楽園の百花繚乱にも勝る貴方様の笑顔に私は……」
側近がそこまで言ってから顔を真っ赤に染め始めると、オルカはにへっと笑うと側近の腰を弾むように叩いた。
「ノリが良くなってきたね、クサイ台詞だったけどっ」
遊ばれた側近は城の壁に手を着いてがっくりと項垂れる。少女に仕えてはいるが、二十五歳で出世頭。それでいて可愛らしい彼女もいる。
「いいんですけどね、もう。いいんですよ、はい。もう、もう……慣れてるんだからッ」
呪詛のように呟き、しかし飴玉を転がすのは忘れていない側近にオルカは申し訳なく思った。いつもいつも迷惑を掛けてばかりで。だが、これからも迷惑を掛けるだろう。その度に国王の雷が彼に降りるのだが、それは彼の趣味としておこうじゃないか。
しかしこれ以上苛めるのは流石に可哀想に思えたオルカは、側近を引き連れて自分の書斎に入った。その書斎の棚は魔術に関する書物に九割を占められていて、四角い部屋の三面の壁に立ち並んでいる。
残りの一割はオルカの好きな花に関する書物であり、目は全て通してある。
葡萄ジュースで口を湿らせて机に座ると、側近が半透明フィルムを片手に事務的な口調で報告をし始める。
「ダラスに派遣していた者からの報告を述べます。『ダラス内における排他地域であるアシカリにスクライドと思しき者が三名潜入。内二人は逃走。一人は行商人の証を持っているが、オルカ様の兄である可能性が高い。よって、私達が捕虜という名目で保護。しかし、瀕死の重傷を負っている為、死する可能性も否めない。画像を同封するので、確認次第、報告を』……だ、そうです」
側近に同封されていた画像を手渡されたオルカは眉を一跳ねさせ、低い声音を漏らす。
「これは誰がやったの?」
画像の樹楊は酸素マスクを当てられ、最低限の治療しか施されていない。それでも死にかけているのが解った。側近はフィルムを捲ると、落ち着きはらったように返してくる。
「報告によれば、逃げた内の一人である『片目を布で覆っている白髪の少女』ではないかと」
「片目……。あぁ、あの時の。多分蓮ちゃんだね」
「お知り合いで?」
オルカは足をぶらぶらさせてジュースを口に含むと「まぁね」
その他人事のような答えに一拍置いた側近は蓮を抹殺させる事を仄めかすと、オルカは首を振る。
「蓮ちゃんは殺しちゃダメだよ」
「ですが、オルカさまのお兄様を手に掛けたのですよ?」
「うん。だけどね、ボクはこうなると思っていたんだよ。初めて会った時からね」
オルカは机から飛び降りると、本棚を眺め始める。どうやら何かを探しているようだ。側近が理解に苦しんでいると、オルカは見付けた分厚い書物を手渡す。
「蓮ちゃんはボクの部下にする」
「部下……ですが危険では?」
「大丈夫だよ。『樹楊を手に入れたくない?』ってそそのかせば味方になってくれるよ。きっと今はどこかで身を潜めていると思う。まぁ、ボクとしては兄さんに王位を継いでもらえればいいんだ。蓮ちゃんは王妃にでもなればいい。ボクが欲しいのは暖かい家族だからね」
側近は呆気に取られながら渡された書物に目を落とす。書物は漆黒の皮で覆われていて、奇怪な紋章が大きく刻まれていた。
オルカは再度机に座ると、
「それ、何の本か解る?」
「はい。これは呪術を記した書物ですよね。ですが、これがどうかされたのですか?」
オルカは頷くと笑顔を見せる。
「これはボクの憶測にしか過ぎないけど」
一呼吸置くと、
「蓮ちゃんは呪刑者だね」
その言葉を聞いた側近は危うく本を落としそうになった。しかし、しっかりと胸に抱くと恐怖の色彩が宿る眼をオルカに向ける。
「そ、そのような者を招き入れるなんて、正気ですか?」
「もっちろん、正気だよっ。大丈夫だいじょーぶっ。蓮ちゃんの鍵は兄さんだと思うし、手に入るまで裏切りはしないよ。それに」
オルカは微笑んだまま薄く眼を開けて側近を見る。その瞳は側近の動きを止めた。
「ボクに勝てはしないよ」
オルカの自信に溢れた笑顔を受けた側近は模範的に片膝を着くと深々と頭を下げた。二人は絶対の信頼で繋がれているかのよう。
「では、数名を蓮の捜索に向かわせます。お兄様の方は――」
「ボクが行くよ。ダラスに居る間諜にもそう伝えておいて。あと、スイを呼んでもらえる?」
「スイ……でよろしいのですか? オルカさまが出向くのであれば私が同行致しますが」
机から飛び降りたオルカはペットに接するように側近の頭を撫でると、優しく微笑む。
「キミが出向くまでもないよ。スイで十分。キミは蓮の捜索の指揮を取ってもらえる? 見付けたら近寄らないで見張るだけでいいから」
「はい。仰せのままに」
この側近はオルカが一番信用している者だ。国王に内密にしている事でも、この側近には話している。裏切られるなんて思ってはいない。
早速ダラスに出向こうとしていると、側近の控えめな声が肩を叩く。書斎の扉を開くと同時に振り返ると、側近はもじもじしていた。その様は好きな子に告白をしようとする思春期の男の子のよう。
「オルカさま、私の名前――って、何で逃げるんですかっ」
オルカは決死のダッシュをかます。
それは勿論、側近の名前を覚えていないからだ。背後から自分の名前を叫ばれたような気もするが、頑なに無視。
名前も覚えてくれないオルカの側近である彼は、この王国で一番の苦労人だろう。その背中に髑髏の刺青がある事はオルカ以外、誰も知らない。
◇
打倒ゼクトを目指して訓練に励んでいたスイを無理矢理同行させたオルカは、やっとの事でダラス近郊にまで辿り着いた。クルード王国の旧ネルボルグより南、ソリュート大河は国境線。そこを抜けると通信機が使えなくなる為、細心の注意を払う必要があったのだが、オルカは気にせず爆睡していて今に至る。
バイクで移動の為、自分の身体とスイの身体をベルトで縛り付けて寝ても振り落とされないようにしていたのだ。 と、言うよりも寝る事前提だったのかもしれない。背中合わせの時点でおかしい。
スイはまるで子守りをしている母のようだが、それは見た格好からの印象であり、目付きは母親のそれからかけ離れている。
「オルカさま、いい加減に起きてくんねーか?」
口の悪さは上官に対しても変わらないらしい。しかしオルカは気にした事はなかった。
オルカは背中合わせに縛られたまま大きく伸びをすると、しょぼしょぼする眼を擦った。
「あり? スイ、どこにいるの?」
スイは溜め息を吐き「後ろだっての」
そうだった。自分が背中合わせに縛ったんだ。
すっかり忘れていたオルカは、目を開けると誰もいなくて少しばかり焦っていた。しかし状況を把握したからにはもう安心。スイがバイクから降りると、オルカの足は必然的に宙ぶらりんとなる。大きめの人型バックと言えばそれで通じそうなのが怖いところだ。
「スイ、ここはどこ?」
「ダラス近郊だよ。目の前の地下墓地を抜ければすぐにダラスだ」
「目の前って、一面荒野だよ」
スイは二度目の溜め息を吐くと身体を反転させる。そして投げやりに「ホラ、あんだろ?」
視界が真後ろに変わったオルカの眼には地下墓地の入り口が映った。すると足をばたつかせて喜び出す。
「暴れんなって。今降ろしてやるから」
「ん? まだ背負ってていいよ」
背負いたくないんだけど、とスイが漏らした言葉を優雅にスルーしたオルカは辺りをきょろきょろする。
地下墓地への入口より北の林の中。
誰かが居る。
あの様子じゃ仕掛けて来ないだろうけど、体中の毛穴がピリピリと痺れる。間違いなく、自分と互角に戦える者が潜んでいて、しかもこちらを見ている。……獣のように。
「オルカさま?」
どうやらスイは気付いていないようだ。でも無理もない。この気配の消し方は尋常じゃない。恐らく、気配に敏感な小動物でさえも勘付ないだろうし。
オルカがにへらっと笑うだけで応えると、スイは疲れたような足運びで地下墓地へと向かう。その時、吹き上げてきた風に、少しばかり血と死の匂いが混じっていたのに気付く。
オルカは嫌そうに両手で鼻を覆うと、足をぴーんっと伸ばして苦悶を訴える。しかしスイはそれを無視するかのようにずんずんと下っていった。
そして誰も居なくなった地下墓地への入口に、林の中から一人の少女が現れる。
真紅の髪を揺らす、赤麗の首領だ。
紅葉は額に浮き出た冷や汗を拭うと、地下墓地への入口を睨みつける。
「さっきのはスイ……だっけ。って事は、あのバッグみたいなガキもクルードの?」
深く息を吐くとダラスの方角を見やる。
「サラ、大丈夫かな? それにしてもあのガキ……」
服の上から心臓を押さえて、
「殺されるかと思った……」
オルカが既に見えなくなった入り口を見上げていると、地下墓地に到着したスイは足を止めた。オルカは、どうしたの? とは聞かない。今の状況が解っているからだ。
地下墓地はダラスが雇った傭兵達が占拠していた。その数は三十人。
蓮が赤く染めた地表は赤茶色に変色していて、その匂いも大分薄れている。
その地面に傭兵達はどっかりと我が物顔で腰を降ろしていたのだが、スイが来るなり一斉に視線を地下墓地の入口に向けた。剣を握る者もいたが、大半はスイを見て下劣な目付きをして汚らしい笑みを浮かべる。そして一人の傭兵が重そうに腰を上げて歩み寄ってきた。
「ねーちゃん、困るなぁ。ここは立ち入り禁止なんだ」
ぎひひ、と下心全開の笑みがスイの眉を大きく跳ね上げる。
「知ってんよ、ボケ。死にたくねぇなら退け、ニワトリ頭。脳みそ引き摺り出すぞ」
持前の悪い口調で言い返す。するとニワトリのような髪、モヒカンの男は一瞬目を丸くしたが、仲間達と視線を合わせると大声で笑い出し始めた。
「ねーちゃん、強気だな? 何だよ、遊びてーなら先に言ってくれや。けど、その細い体で」
モヒカン男はスイの身体を舐めるように見回し「この人数に耐えきれるかな?」
スイが拳を強く握ると、バックのようになっているオルカが割り込んだ。
「スイ、武器持ってる?」
モヒカン男は何処からともなく聞こえた声に驚くが、スイは当然のように無視して視線をオルカが居る背に向ける。
「オルカさまが持つなと言ったんだろうが。目立つからってよ」
鉄扇だから目立つも何もねぇだろ、とぶつぶつ言うスイに、オルカは溜め息を吐いてやる。
そこでようやく、ニワトリ男がスイに背負われているオルカに気付いた。
命を受けて、くるっと振り返ったスイの背に結ばれているオルカに、傭兵達は爆笑。腹を抱えて苦しそうに笑う者もいた。
「だーっはっはっは! 何だこのガキはっ。バックじゃねーか、だっはっはっは!」
するとオルカも、
「あっはっはっはっ。いいでしょー? 楽ちんなんだよ、これっ。あっはっは!」
追従で笑い始める。
スイ、三度目は長嘆。頭を痛そうに抱えている。
オルカは満足するまで笑うと懐に手を入れて、その手を抜く際に、ニワトリ男に向って払うように引き抜いた。
「へ?」
トンっと軽やかな音がすると、ニワトリ男の眼が上を向き、横にばったりと倒れた。
その眉間にはスローイングナイフが深々と突き刺さっている。
「スイ、面倒だからボクがやるよ」
「はいはい」
仲間が突然倒れた事で傭兵達は驚愕の音と共に立ち上がる。そしてその事態を把握するなり、一斉に剣を抜き払った。頭の悪そうな言葉が雪崩のように襲ってくるが、オルカはそれを全て無視し、小さな胸の前で両手を合わせて形を組む。
そして詠唱と共に、その両手を合わせた形――印――を素早く組み変える。
『我招く風の竪琴の序曲に慈悲はなく、汝等は吹く琴音から逃れる術なし』
オルカは掌を傭兵達に向けると無垢な笑みを浮かべた。その桜色の唇が殲滅の言の葉を紡ぐ。
「ハープ・ディザスター」
オルカの五指から風の弦が無数に放たれ、傭兵達に向って飛んで行く。そしてそれは蛇のように身体に巻き付くと傭兵達の自由を奪い、一人残らず地にひれ伏させた。
「よっし。馬鹿だね、この人達。スイ行こっ」
スイは頷くと、出口に向って歩き出す。見えない糸に巻き付かれて地面に横たわる傭兵達が助けを求めるが、スイはそれを無視しオルカは笑顔で手を振っていた。
毛虫のように這いずり回る傭兵達はオルカの魔法に怯えていたが、その中の一人がぽつりと言葉を漏らす。
「こいつらが居なくなったら効力が切れるまで待てばいい」
それが彼等の救いの言葉となったのか、次々に笑みを溢し始めるが、聞き逃さなかったオルカが言ってやる。
「ボクの詠唱聞いてなかったの?」
にっこーっと笑うと、風の弦が傭兵達の身体をきりきりと締めあげていく。纏っている鉄の鎧をも物ともせず、切れはしない。
「風の竪琴の序曲に……『慈悲はなく』って言ったじゃん。バッカだなー」
地下墓地内に、竪琴の弦をしなやかな指先で奏でる音が柔らかに響き渡った。その音は赤子を泣き止ませるかのように、穏やか。
しかし、刹那。
「ぎぃひやぁっぁぁぁぁあぁあ――」
巻き付いた弦が、傭兵達を締めて切断。断末魔もそこそこに一斉に絶命した。
オルカは、いやんっと目を覆う。
地下墓地に転がるそれは、蓮が作り上げた物と、そう大差がないものになった。ただ、小間切れか輪切りかの違いはあるが。
スイはその光景に眉一つ動かさずに「どこまでも汚ぇ連中だ」と吐き捨てて出口の階段を昇って行く。地下墓地の地表は更なる朱に染め上げられ、血の匂いも濃くなる。ここには血肉を好む猛獣でさえも、染み付いた死の誘いを恐れて近寄りはしないだろう。
◆
スクライド王国・ラクーンの書斎
木人という種族を『創世千書』で解明に勤しんでいるラクーンと、それに付き合わされているサルギナ。政治やら法律に関する書物がびっしりと本棚に並ぶ書斎はサルギナにとって息苦しい場所でしかなかった。
こんな牢獄よりも環境が悪い中、徹夜で書物と向き合っているサルギナの下瞼にはどす黒いクマが広範囲に広がっていた。
ラクーンに差し出されるコーヒーが、炭鉱で働く労働者を叩く鞭にしか見えないのは気の所為なのだろうか、と、それでも眠気にはカフェインだと詰まる喉に流し込む。
「古代文字っていうのは中々手強いですねー。樹楊君は読めると言うじゃないですか」
ラクーンはニコニコしながら「ねぇ?」と訊いてくるが、どんな答えを返していいものやら。取り敢えず、はぁ、と頷いてみるも、
「何ですか、その適当な感じは」
怒られてしまう。
サルギナはラクーンが嫌いなわけではないが、得意な相手でもない。能天気そうだが、その歳にして領政官官長にまでのし上がったキレ者であり、穏やかな口調と人が良いとしか言えない笑顔の裏には何かありそうで警戒せざるを得ない。
そして何より樹楊を欲しがっている。ミゼリアの小隊が壊滅間近と解っていながら隊の補給をしないのも、樹楊を引き抜く為だとサルギナは憶測を立てていた。
冗談じゃない。
樹楊は政治ではなく、間諜や裏の情報を掴ませる為に自分の隊に引き抜くつもりだ。
ミゼリアには悪いが、樹楊にはそれだけの魅力がある。
それがサルギナの真意だけに、ラクーンとは距離を保ってきたのだが、まさか二人っきりで共同作業をする羽目になるとは思ってもいなかった。
ラクーンに深入りしないように警戒しながらも訳の解らない文字と睨めっこしていると、書斎の扉が二度ほど乾いた音を立てた。どうやら来客らしく、ラクーンが返事をすると中を伺いながら一人の少年が入ってくる。
「失礼します。今、よろしいでしょうか?」
「これはこれは。珍しいですね」
入ってきたのはアギの部下である、弱虫と定評のネルトだった。少し癖のある髪で、碧眼。
弱虫と言われるだけあって、その瞳は小動物のようにくりくりしている。
「あ、サルギナ将軍もいらしたんですか、それでは改めますね」
ネルトは颯爽と引き返そうとするが、犯罪者のような眼つきをしたサルギナがその華奢な肩をがっしりホールド。
「俺が居ちゃ悪いのか? あぁん?」
ネルトは悪魔に憑依されているかのようなサルギナの眼を見ると「あわわわわわっ」と口に手を添えて異常なほどに怯える。
「そ、そんな事はないですよっ。ただ、お取り込み中のようなので僕の話は後でいいかと思いましてですね、決してサルギナ将軍の事を煙たがっているわけではないです」
「ほー。お前の話ってのに俺は関わっちゃいけねーってんだな? そーかそーか」
すっかり荒んでいるサルギナに困り果てたネルトは目線でラクーンに救援を請う。
もう自分ではどうしようもない様子だ。
「サルギナくん、もう勘弁してあげて下さい。ネルト、こちらに来て話しみて下さい」
サルギナはじろっとネルトを見た後、くしゃくしゃと頭を撫でて背中を押してやる。
ネルトは結構好きな部類に入る。弱虫だが素直で礼儀が正しい。そこからアギの教育も正しい事が良く分かるほどだ。
サルギナは席に着くとコーヒーを飲んでラクーンに話しをするネルトを見ていた。
椅子には浅く座り、背筋を伸ばしている。出されたコーヒーに入れた砂糖を混ぜた後に置く、スプーンの音も立てない。そしてラクーンという、この国の権力者を前にして対談している。
違和感があった。
確かにネルトは礼儀が正しい。それは解っているが、兵士としては未熟であり弱虫なネルトだ。しかしそのネルトがラクーンを相手に『談笑』混じりの対談をしているのだ。
領政官官長という高位に居る人物を相手にこんなにも自然と話しを出来るのは、宰相であるジルフードや将軍以上の位置を持つ者だけだ。それ以外は身を縮ませて言葉もままならないはず。まぁ例外として樹楊というバカも居るが。
会話をそこそこに、ネルトが一息入れたところでサルギナが口を挟む。
「なぁ、ネルト」
笑顔で振り返ってくるネルト。
やはり、違和感がある。
「お前、育ちは?」
極めて情報が少ない質問にネルトは一瞬首を傾げだが、すぐに口を開く。
「街外れの時計店を営む両親の元に、ですがそれがどうかしましたか?」
「そうか。時計屋の両親の元で――か。俺ぁてっきりよ」
サルギナはコーヒーを合間に挟むと、突き刺すような視線をネルトに投げ掛ける。
「どっかの良家に生まれたかと思ったよ。由緒正しい……いや、権力者の元に、な」
的を射た言葉だったのか。
ネルトは目を見開くと少しだけ身体を強張らせた。そしてあれほど気を付けていたカップの音を立てながら置いている。
やっぱりな。
サルギナはネルトが何者かまでは知らないが、経歴を詐称している事を確信した。
だからどうしよう、という訳ではない。ただの興味、そう、些細な事だ。
「あ、あのっ。僕は……」
火を見るよりも明らかに動揺しているネルトの視界は忙しく右往左往し、何だか悪い事をした気分になる。しかしサルギナは攻撃的な気質の持ち主であり、相手が困っている顔や恥ずかしがっている顔を見て楽しむ傾向が少々ある。
現対象が女ではない事はつまらないが、こうやって苛めるのも楽しい。
そうやってネルトが困るのを見ていると、ラクーンが困った笑顔のまま目線で訴えてくる。
サルギナはその意をくみ取り、口の端を持ち上げるとと頷いて応えた。
「言わなくていいぞ、ネルト。俺はそんな小っせぇ事は気にしてねぇから」
「う……。はい、すみません。だけどいつかは、その、あの」
「解った解った。そこまで考え込むな」
ネルトは低頭すると逃げるように戸口に向い、扉を開く前にもう一度低頭してくる。
最後まで礼儀が正しい奴だ。
ラクーンが一難去ったのを見送るような目で扉を見つめていると、入れ違いで宰相のジルフードが入ってくる。
傭兵気質であるサルギナはジルフードが苦手、というよりも嫌いだ。口には出せない、というのは国に仕えている者としては辛い。傭兵の時は気に喰わない事はすぐに口に出してきたから、余計辛く感じる。
厄介な奴が来たな、とラクーンに視線を向けると。
「ようこそ、ジルフード様」
笑顔が完璧に引き攣っていた。
どうやらラクーンも苦手な相手らしい。
ジルフードはサルギナを一瞥すると、自慢の白い顎鬚を撫でた。そして突っ立ったまま、座っているラクーンに問い掛ける。
「最近耳にしたんだが、樹楊という者が自分の故郷の権利を買おうとしているらしいな?」
今更かよ、というのはサルギナだけではなくラクーンも同じ思いだろう。ラクーンが首肯すると、サルギナはぷくっと鼻を膨らませた。
「何故、私に知らせないのだっ。そもそもスクライドの領内権利がいくら掛かるか、あの馬鹿兵士は解っているのか!」
ラクーンは笑顔を止め、すっと立ち上がる。
「領地内の政治を取り締まるのは私の仕事です。ジルフード様は国王の右腕。しかし、領地内の事は私が国王から直々に命を受けております。『好きにやれ』と。そこに不満がおありですか?」
サルギナは素直に感心した。
ラクーンはへらへらしているだけじゃなく、目上のジルフード相手にも啖呵を切れるらしい。ジルフードは肩書き上、宰相であり王族を抜けば一番上に立つ者である。ラクーンはその下の地位。しかし国を一任されているのは才色兼備であるラクーンなのだ。
ジルフードはまだ若輩であるラクーンに国政を握られているのが気に喰わなかったのだろう。
肩書きだけで満足してりゃいいのに、とサルギナはその思いをコーヒーで喉の奥に流す。
吠える事しか出来ない上官というのは、この上なく目障りだ。
拳を震わせて今にも爆発しそうなジルフードにラクーンは続ける。
「それに樹楊君は賢い子です。私の後を継いでもらいたいくらいに。そして彼が故郷にスクライドの領内権利を買い与える日は遠くありません」
「なっ、何故ただの兵士が権利を買えるほどの金を持っているのだっ」
「さて、何故でしょう? 旅に出た時に稼いだのではないですか?」
すっとぼけるラクーンを見ると、思わず失笑してしまいジルフードに睨まれたサルギナ。
どうやらジルフードは樹楊の何も知らないらしい。とんだ能無しだ。これじゃあ、国王が何も任せるはずもない。肩書きをやるから黙って座っとけ、という事なのだろう。
ジルフードは青筋を浮かべながらラクーンを睨むが、ふんわりとした笑顔の前に何も言えずにいる。そしてその柔らかな表情に気圧されて舌打ちをすると、荒っぽく退室する。
「やれやれ、怒りっぽい方だ」
肩をすくめてサルギナを見る。
それには同意のサルギナ。
「ま、仕方ないでしょう」
疲れてきた眼を擦って本を閉じようとすると、
「さーて、頑張りますか」
ラクーンが弾んだ声で仕事を促してくる。
こっちの気持ちを知った上で言うから性質が悪い。しかし上官であるが故、
「頑張ります」
としか言えなかった。
◆
「入れてくれたっていいじゃん、ケチ!」
ダラス城を目の前に、サラは門番の前で悪戦苦闘していた。
取り敢えず、スクライドの戦衣は行商人から買った、スクライドの物とは知らなかったで通ったようだが、この槍をもった坊主頭の筋肉男は城には一歩も入れさせてはくれないらしい。
ずっと粘ってきたのだが、この門番も手強い。
睨んで怯えさせようと試みるも、迫力皆無ではそうもいかないらしい。
「俺ってば大陸一の魔術師なんだぜっ」
と大嘘を言うも、馬鹿を見るような余命幾日の病人を見るような憐れんだ目でしか見られない。しかし、この門番も暇なのか、怒りもせず相手をしてくれる。それなら友好的にと接してみても結果は変わらず。門番にとってサラは珍しい芸をする犬のようなのだろう。
「何をしようと城には入れれん。通行許可証がなければ駄目だ」
しっしっと手を払われるが、ここで引き下がるサラではない。戦衣の前を大胆に開けて熱っぽい目を向けてウインクをする。
「どうした? 色気ならないぞ?」
「何ですって! このハゲ!」
つい本音が荒く出てしまった。
門番は青筋を額に浮かべるが、それでもまだ怒ろうとはしない。女子供には優しいタイプなのだろう。最も、笑顔が引き攣っているが。
サラは一唸りをし、俊敏な動きで左右にフェイントをかけて隙を見付けて強行突破。
の、つもりだったのだが、
「ぷおっ」
鮮やかなフェイントで翻弄したはずの門番が目の前に立ち塞がり、勢い任せに激突してしまった。どうやら俊敏だと思っていたのはサラ本人だけだったらしく、門番としては一歩横に動いただけにしかすぎなかった。
サラは尻餅を着くと、うーっと唸りながら門番を見上げる。
「やるわね、宿敵と書いてハゲと呼ぶおっちゃん」
「やかましいわ、誰がハゲだっ。どうみても坊主頭だろうが!」
「でもおでこ広いし。寝る頃には毛がなくなってるかもよ?」
「そんな恐ろしいスピードで浸食されてたまるか! それに俺は二十八だ! おっちゃんじゃないっ」
サラは「嘘っ」と失礼な反応を見せると門番の顔をまじまじ見上げる。
門番は真っ赤な顔をして怒っている。
暴言を吐き過ぎたらしく、余計に入り辛くなったこの状況。サラは腕組みをして考えるフリをしながら何気なく侵入しようとするのだが、それも通らず、門番に立ち塞がれてしまう。
「ねー、いいじゃん。ちょぺっと入るだけだってば。見学に来たの」
「ちょぺっとでも駄目なものは駄目だ。何度も言うように通行許可証が無ければここは通せん」
サラは口を尖らせ「大した仕事してないくせに」
ぼそっと漏らした言葉は今日で一番のダメージを与えたらしく、門番は半泣きになり始める。流石に言い過ぎたかと謝ろうとしたサラだが、顎を落としそうな勢いで口を開けて門番の奥を見上げた。
「今度は何だっ。いい加減にしないと俺の怒りも爆発するぞっ」
と、その言葉が合図のように、城の壁が耳をつんざく轟音を立てて爆発で吹き飛んだ。
「んなっ!」
当然驚く門番。
サラは門番の裾を引っ張り、
「おっちゃんの怒り、見事に爆発したね」
「するかぁ! 俺の所為にするなっ。っと、お前に構っている暇はない、何が起きたのだ」
悔しそうに歯を食い縛っているのは、きっとここを離れられないからなのだろう。門番の足は城に走り出しそうに震えている。
悪評が目立つダラスの兵とて、国に仕える者。国を愛するのは当たり前の事らしい。
サラはそれを見ると笑顔になり、門番の腰を軽く叩く。
風が吹き、サラの髪を揺らした。その緑色の瞳は優しく光り、門番の心を優しく包む。
澄んでいるとはお世辞にも言えない汚れた空気が、サラの笑顔で浄化されたかのように透明になる。
「行ってもいいよ? 私は大丈夫」
純粋な笑顔で首を斜に言ってあげると、門番は鼻頭を赤くして「すまないっ」と目を擦り、鎧をガチャガチャ音立てながら城に向かって豪快に走り出す。
「ん? 何かおかしいぞ?」
門番は十歩ほど走った後に疑問符を浮かべて振り返ると、サラは忽然と姿を消していた。
「あ、あのガキャア!」
左右を見渡すも、サラは既に城に侵入した後。いるわけがない。
この門番は少しばかり流されやすく、バカの部類に入るらしい。しかし、それがサラにとっては嬉しい事でしかなかった。そしてまんまと城内潜入を成功させたサラは、慌ただしく走り廻る兵士の眼に触れないように注意をしながらこそこそとしていた。
スクライド王国の城内の廊下は大半が石畳で構成されているが、ダラス城の通路は鉄板で構成されていた。壁も鉄板で覆われていて冷たいイメージが植え付けられる。
その鉄板を兵士たちは走り回るものだから、鉄製の鎧と激しくぶつかり合って不快な金属音が響いている。この暖かさの欠片もない音が、サラは嫌いだった。石畳を踏み鳴らす音よりも嫌い。
侵入者はサラだというのに何故か八つ当たり気味にぷんすか怒り、樹楊が居る部屋を目指す。しかし先程の爆発の所為で至る所に兵士がうろついていた。
サラが着衣しているのはスクライド王国に仕える兵士が着る戦衣であり、この格好で見つかるのは不味い、と流石のサラでも解る。
どうにかしないと、と今更ながら焦っていると白衣を着た女性がこちらに近付いてきた。
細いレンズで縁なしの眼鏡を掛けていて冷たい雰囲気が漂っている。
サラは閃いたすると、その医療関係に携わっていると思われる女性の前に躍り出た。
藪から棒に出てきたサラに、思わず手に持っている書類を落としそうになった女性だったが、間一髪のところで持ち直したようだ。鉄の女っぽいこの人の可愛い一面が見る事が出来て、ちょっぴり楽しかった。
「すいません、本日ここに配属になった者ですが、どこに行けばいいのでしょう? 何か慌ただしくて誰に聞けばいいのか……」
サラは取り敢えず、頭を掻きながら困った顔で嘘を吐いてみた。すると女性は首を傾げて瞬きを二回。そしてサラの緑色の瞳をじっと見つめてくる。虹彩が緑の人種でさえも珍しいというのに、白目までも緑色というのが彼女に不信感を与えたのだろう。
あれ? もしかして、マズった?
サラが冷や汗を掻いて愛想笑いをすると、女性は資料を開いて目を通すと視線だけを向けてくる。
「リーウェイさんですか? 配属は明日からでは?」
天がくれた偶然にサラの眼は輝き、話を合わせる為にリーウェイとやらを演じる事にした。
「あっはははは……。すいません、明日からでしたっけ? 私ってばおっちょこちょいで、昔からよく待ち合わせの時間を間違えるんですよ。いやー、困ったな。やる気が空回りしちゃいましたっ」
「そ、そう。まぁ、遅れるよりはいいと思うけど。でも大丈夫なの? 弟さんの事とか」
「へ? 弟?」
いるんじゃないの? と訊いてくる女性に対し、何処にですか? と返してしまったサラ。すると女性の眼差しに疑惑の念が入り混じり始めて資料を捲る。
「確か『弟さんの身体が弱いから傍に居たい』と、一年前から決まっていた配属を遅らせていたはずよね」
サラは胸の前で手を合わせて音を鳴らすと、いかにも忘れていました、という感じを取り繕って捲し立てる。
「あーっ。そうですそうです! でも先週元気になって『迷惑掛けた分、父ちゃんの手伝いをするんだっ』って、薪割りをするくらいにまで回復しましたっ。ですから平気です」
「え? お、弟さん、今二歳じゃないの? に、二歳児が斧持って流暢に喋るの?」
サラは後退りをし、
「わ、我が家では……男は強くあれ、と。に、二歳児でも、ケっ、ケケケツをぶっ叩かれます」
口は災いの元。
たった今、それを学習したサラに不信感を募らせた女性はポケットから小型の通信機を取り出す。兵士を呼ばれると察知したサラは心を鬼に、そして視線が自分から外れた隙を見逃さず、獲物を上空から狙う鷹のような素早い動きで白衣の女性との距離を詰める。
手刀のイメージは一振りの刀。
打ちつけるイメージは幾人の屍を眼下にしてきた剣豪。
狙いは一点。
そのか細い首筋。
「隙あり!」
サラの手刀は風を切り裂く。ドッと鈍いを音が女性の首筋から鳴り、そしてそのまま糸が切れたように気絶する。
「痛っ、何すんのよ!」
はずだった。イメージでは。
「ありゃ?」
確かに女性には隙があったが、サラには力がなかった。付け加えれば武道の心得もない。
白衣の女性はズレた眼鏡をくいっと上げると、痛む首筋を撫でながら繋がった通信を始める。今度は隙を見せないようにサラを睨みつけながら。
「不審者を発見したわ。至急警備兵をお願い。……えぇ、場所は――」
女性は通信を終えると、また眼鏡を上げて勝ち誇った笑みを浮かべる。
「残念だったわね。緑目のお嬢さん」
「……おばちゃん、嫌い」
「おばっ! 私はまだ二十九よ!」
どうやらサラはダラスの者を年齢の事で怒らせる才能があるらしい。手をわなわなさせる女性に涙眼を浮かべて唸ってみるが、迫力がない睨みではどうにもならなかった。
そうしている内に、一人の警備兵が現れる。坊主頭でがっしりとした身体つきの男は、
「あー! 爆弾魔のおっちゃん!」
ダラス城前で警備をしていた男だった。
「小娘! きさま、こんな所までっ。それよりも俺が爆発させたんじゃねー! あと、俺はまだ二十八だって言ってんだろうが!」
互いに指を指し合い、再会の時を叫び合う。
それを見ていた白衣の女性が咳払いをすると、坊主頭は気を持ち直してサラの拘束に入る。
「触んないでよ、ハゲ! 残り少ない毛ぇ引っこ抜くわよ!」
「きさまこそ頭に触るな! 暴れるな騒ぐな!」
サラは軽々と担がれて地下の捕虜施設に拘束される運びとなった。この日を境に白衣の女性が化粧品を変えたのは、どうでもいい余談だ。
2
サラが連行された地下捕虜施設も全面鉄板で構成されていて、地下という響きは一層冷たい雰囲気を演出するのに一役買っていた。ここに来るまでの間でサラが騒ぐ事はなくなり、担がれたまま大人しくしていた。
「本当に今日は何なんだ。爆破されるわ、きさまのような不審者が現れるわ」
「ん? 爆破『された』の?」
意識して強くしたアクセントに坊主頭は頷き、賊が侵入したと言う。賊という言葉は紅葉を連想させたが、本人は地下墓地前で待機しているはずだし、この坊主頭は二人組だとも言った。
そうなれば誰なのだろうか。蓮は単独で行方不明中だし、あり得るとしても紅葉とゼクトくらい。それも樹楊奪還を前提としてだ。もし樹楊に関係のない事であればこちらには何の意味もない事だが。
頼りない頭を働かせていると、坊主頭は鉄製の扉を開けた。
その中は牢屋が左右に設備されている部屋で、天井には切れかかった電球が等間隔で吊るされている。 空気は一層冷たくなり、生ゴミのような何とも言えない悪臭が漂っている。サラが顔をしかめて鼻を手で覆うと坊主頭もしかめっ面をしていた。
いくらダラスの者でもこの部屋の匂いには不快を感じるらしい。そしてそんな部屋に閉じ込めようだなんて、サラにとっては許せない事だった。しかし、ここで騒げば状況を悪化させかねない為、サラは煮え湯を飲まされる気分でも堪えるしかない。
だが、不満は言っておきたい。
「おっちゃん、臭い」
ふごふごと籠った声に坊主頭は視線を向けてくる。
「俺が臭いみたいな事を言うな」
「うー。何でこんなに臭いのー?」
ずんずんと進んでいく坊主頭は無言で適当な牢屋を指差す。そこには捕らえられた者が生気を失った眼でこちらを見てきている。中には薄ら笑いを浮かべる者も。
「ここには簡易便所しかないし、風呂なんてモノもないからな。臭くて当たり前だ」
「そ、そんなの可哀想じゃないっ」
「仕方ない事だ。ここに捕らえられている者は逆賊や他国の間諜ばかりの重罪人だからな。恩恵を与えるはずもない」
サラは憐れんだ目で左右に視線を走らせて「可哀想……」とぽつり。その瞳は少しだけ潤んでいる。しかし坊主頭は深い溜め息を吐き、
「きさまもだ」
「あっ、そっか」
いよいよ悲しくなってきたサラは何とかして脱出をしなければ、と頭を使い始める。こんな所に収容されていては樹楊どころじゃない。あの人だけは何としても助けなければ。
「まず、このハゲを倒して……それから、それから」とぶつぶつ呟いている所為で、坊主頭には脱出を企てている事が筒抜けだ。坊主頭が何故馬鹿を見るような目で見てきているのか解らずに首を傾げると、その頭の向こうでは石で出来たベッドの上に横たわる男を発見した。
「キ、キオー!」
その男は今にも死にかけている樹楊。
サラは坊主頭の肩の上で手足をバタつかせて樹楊の名前を何度も叫ぶ。制止の言葉にも耳を傾けられずに、兎に角必死だった。
「コラ、大人しく――おわっ」
「んくっ」
大木のような腕からするりと抜けたサラはバランスを保てずに、上半身から床に落ちた。肩から落ちて酷く痛むが、そんな事はどうだっていい。目の前の樹楊が心配でならなかった。
「キオー!」
サラは四つん這いで樹楊が収容されている牢屋に向かうと、鉄格子を荒っぽく掴んで壊そうとするが、そんな力はなくビクともしなかった。
「大人しくしろ! 殺されたいのか!」
坊主頭が震える肩を掴むと、サラは涙で満たされる瞳を向けた。そして肩を掴んでくる手を両手で包むように挟み、頭を下げる。
「お願いっ、私もここに入れて!」
「だ、ダメだ! ここは」
「お願い!」
強く手を握ってサラはありったけの声を振り絞る。その声に反応した囚人が何事かと鉄格子に張り付いてこちらを見始める。
「おっちゃん、お願い。キオーが……キオーが死んじゃう! お願い、大人しくするから!」
坊主頭は何も言わずに手を振りほどくと、鎧の中からフープで括られた鍵を取り出した。
そして樹楊の牢屋を解錠し、サラを荒っぽくその中に押し込む。
「おっちゃん、ありがとう」
「……ふん、きさまを入れるはずだった牢屋の鍵が壊れているのを思い出しただけだ」
ぶすっとした顔で施錠すると、サラはもう一度頭を下げる。その姿をみた坊主頭は少しだけ顔を綻ばせた。サラは急いで樹楊の元へと駆け寄る。
「キオー……」
樹楊は荒っぽく息を吐いているが、それも弱々しくて顔色も悪い。腹に巻かれた包帯は赤黒く染まっていて思わず目を反らしたくなる。
汗を掻いている顔をサラは優しく拭いてやり、樹楊の手を宝物を扱うように握り締めて唇を押しつける。そしてサラが目を伏せると、儚げに輝く緑色の粒子が樹楊を包み込んだ。その光は暖かく、慈愛に満ち満ちている。
「こ、小娘……きさまは…………」
坊主頭はそれ以上何も言えずに鉄格子を震える手で掴んでいた。目を見開き、呼吸すら忘れている。光に包まれた樹楊の呼吸は時間が経つごとに落ち着いていき、顔色にも生気が戻る。しかし未だ眼を開けてはくれない。
「よし、次ねっ」
サラは額の汗を強く拭う。
今度は腹を巻く包帯を歯と手で切り破り、その傷口を空気に触れさせる。傷口に包帯が貼り付いていた所為で、樹楊は苦悶に顔を歪めるが堪えてもらうしかない。
心をちくちくと痛めながら包帯を取る事で現れた傷口は酷いものだった。
まともな消毒もされておらず、縫合も太い糸で適当にしただけ。傷口は化膿していて、もうすぐでウジ虫が湧くだろう。
「キオー、今助けるからね?」
愛しいその頬を一撫でしたサラは意を決した面持ちになると、両腕を羽のように広げて掌を上に向ける。そしてこの場にいる誰もが理解出来ない言葉を呪詛のように呟くと、その手に濃緑の光の粒子が集まる。
坊主頭が奇跡を目の当たりにしているかのように生唾を呑み込むと、サラの手が、
「っくぅ! 痛っ……」
ゴキゴキと折れるような音と共に骨が変形し始める。両手の掌が木の幹のように武骨に変わり果てると、十指は木の根のような形に変わり、伸びていく。
「はーっ、はぁっ……」
サラは汗だくになりガックリと項垂れる。そして坊主頭の方に振り返ると激痛に顔を歪ませながらもニコッと微笑んだ。
「おっちゃん、手伝ってくれる?」
「あ、あぁ。解った」
坊主頭はぎこちなく頷くともう一度解錠して中に入り、そしてサラの横に立つ。
「手伝うって何をすればいいんだ?」
「ん、とね。足をベッドに括りつけて」
坊主頭は疲労困憊のサラを心配そうに見た後、皮製のベルトで足をベッドに固定。
「あとは、キオーの口に布か何か入れて腕を押さえててくれるかな?」
それにも従う坊主頭にサラは小さく礼を呟くと樹楊の腰に跨り、深呼吸を始める。
言われた通りにした坊主頭は樹楊を強く押さえつけて手が奇形となったサラを見る。
「何をするんだ?」
「治癒だよ。でもね」
サラは木の根のような十指の先を樹楊の傷口を囲むように当てた。そして伏せていたい目を頑張って開けながら、つんとする鼻の頭を赤くする。
「多分、死にたくなるくらい……痛いから」
サラは下唇を噛んで十指を樹楊の腹に刺していく。その瞬間に樹楊の身体はサラを弾こうと激しく仰け反ろうとするが、力づくで押さえられている為にどうにもならなかった。
「んんー! んっ、んー!」
ぶちぶちと皮膚を突き破っていくサラの指に、樹楊はまなじりが裂けそうになるまで目を見開いて暴れる。布のお陰で絶叫とまではいかなかったが、この部屋中の囚人たちは何が起こっているのかと恐怖に身を縮め始めていた。
サラの指全てが根元まで深々と突き刺さり、樹楊の傷口を中心として皮膚の下をボコボコと根を張っていく。まるで無数の虫が浸食していくような光景に坊主頭は歯を食い縛って顔を歪ませる。
「キオー、頑張って! お願いっ」
「んんんん! んっ、んん!」
恐らくは聞こえていないだろう。眉を下げて血走った眼を虚ろに剥き出しにしている樹楊の顔を見ると、サラは涙を流し始める。
こんなに痛い思いをさせたくはない。だけど、放っておいたら間違いなく死んでしまう。仕方がない、仕方がないんだ。
サラが噛み締める下唇からも血が滲んでいて、その辛さが坊主頭にも伝わっていた。
しかしサラの指の浸食が止まると、樹楊は意識が途絶えたように静かになっていく。あれほど暴れていたのは演技なのか、穏やかな寝息をも立て始めていた。
「やっと繋がった……。おっちゃん、もう大丈夫だよ。ありがとうね」
「あ、ああ。どうって事ない」
坊主頭も汗を拭い、まるで子を見つめる母のような眼差しをしているサラに目を奪われた。
「キオー、もう大丈夫だからね?」
サラの指は鼓動するように樹楊の皮膚を持ち上げ始める。それでも樹楊は痛がる事はなかった。気付けば、樹楊の上半身は本当に木の根が張り巡らされているようで、どう見ても異常な光景。
「何なんだ、こりゃ。小娘、きさまは一体……」
樹楊を見てからサラに視線を向けた坊主頭だったが、ここでまた言葉を失う。
サラの顔の血管も、木の根のように浮かび上がっているからだ。その根は緑色の眼にまで達していて、まるで化け物。それでも恐ろしさがないのは、サラが持っている優しい雰囲気と慈愛に満ち足りた瞳をしているからなのだろう。
「大丈夫なのか、小娘」
「ん……ちょぺっと辛い。もし許してくれるなら、水を貰えないかな? 出来るだけ澄んでいる水……」
「お、おう。ちょっぺと待ってろ」
ガチャガチャと鎧の音を立てながらも慌てて駆けていく坊主頭にサラは失笑。
「ふふ……『ちょっぺと』じゃなくて『ちょぺっと』だってば」
自分の口癖が間違って伝わっている坊主頭に感謝しきれないくらいだった。施錠もしないで、逃げられたらどうするつもりなのだろうか。ダラスの悪評が嘘に思えるくらい、坊主頭の男は優しいとサラは思う。
◆
サラの願いを聞いた坊主頭は重量感たっぷりの足音を立てながら大きく腕を振って食物庫まで走った。急げ急げ、と口にしている所為で余計に息を切らしている。だが、彼なりに必死なのだろう。
やっとの思いで食物庫に着くと、呼吸も整えずに身の丈を僅かに超える重厚な鉄の扉を開ける。倉庫内では、都合の良い事に食品衛生管理者が食物のチェックをしていた。
ノートを片手にしていて、深緑の作業着を着ている新米らしき若者は驚く事無くこちらを見てくる。
「バリー様、どうかされたんですか?」
その様子じゃ城内で爆破が起こった事など知らないのだろう。まぁ、音を遮断されているこの倉庫内に居たのでは仕方がない事だが。
呑気に近寄ってくる少年に事態を説明する暇などない坊主頭のバリーは、その武人とは掛け離れた細い肩を両手で掴む。
「水をくれ! この中で一番綺麗水をいっぱいくれっ」
「水、ですか? それは構いませんが、一体」
「早く! 急ぐんだっ」
バリーの恐喝とも思える迫力に、少年は背筋を伸ばすと慌てて水がある方へと走っていく。
しかし、その足をピタリと止めて振り返ってくる。そして怒られるのを待つ子供のように、ビクビクしながら訊いてきた。
「あの、いっぱいって……どのくらい必要なんでしょう?」
「バカ者! いっぱいと言ったら……」
そこまで言っておいて、はて? どのくらい必要なのだろう? と考えてみるバリー。少年は『ウソっ、自分でも解ってないの?』といった顔でバリーを見つめる。
その視線に気づいたバリーは恥ずかしさを隠すように憤怒した表情をすると、びしっと指差して大口を開ける。
「いい具合の量だっ!」
「えぇ!? それが解んないんですってば!」
「う、うるさい! 兎に角いっぱいだ!」
拳骨を喰らった少年はすんすん泣きながら袖で目を擦ると、木箱を開けて中からプラスチック容器に入っている水を取り出す。それを五本、倉庫の前で待っているバリーに渡すと、微かに聞こえる慌ただしい声に気付いたようだ。
ここ、食料保管庫の前は人通りが極端に少なく、その周囲もまた然り。食糧に関する緊急の用がある時のみ人が通るくらいだ。
今のバリーがいい例だろう。
少年は恐る恐るバリーを見上げ、
「バリー様、一体何が……」
「まだ俺のところまで報告はきてない。恐らく賊かと思われるが、未だ接触していないのだろうな。全く、ちょこまかと逃げ足の早い奴等だ」
鼻を鳴らして教えてやると、聞き慣れない声が肩を叩いてくる。それは女性の声。
「なんなら全滅させてやってもいいんだぞ?」
振り返ると、背丈が少しだけ背が高い金髪の女性が偉そうに腕を組んでいる姿が映った。縛られた後ろ髪は孔雀の尾のように広がっている。
その肩には少年と思しき子供。
「バ、バリー様。もしかして、この人達って」
「慌てるな。落ち着け」
あたふたする衛生管理の少年の頭に手を乗せて落ち着かせてやると、一歩前に出る。
「お前等が賊か? ダラスに何の用だ」
「賊じゃねーよ、スクライドのモンだ。預けてる奴を返してもらうだけだ、ハゲ」
この女は口が悪いようだ。
全く、最近の女ときたら人の気にしている事を平気で言うものなのだな。
バリーは置きっ放しにしてきた槍の代わりに、背に携えてあったショートソードを抜くとどっしり構えた。そして扉に縋る少年に耳打ちをする。
「地下牢の重罪人を収容している牢屋の一番奥に水を届けろ。緑色の眼の小娘がいるはずだ。そいつに渡すんだ。急げっ」
少年は呆気に取られていたが、バリーの真剣な眼差しに口を固く結ぶと両手に抱えた水を落とさぬように走り出した。バリーは後方に走っていく少年を見送ると満足そうな面持ちをし、口悪の女が居る正面を向く。
「オルカさま、きっとそこに居るぜ?」
オルカと呼ばれた少年のような……よく見れば少女だ。その少女は屈託のない笑顔をして頷く。
「じゃあここはスイに任せるね?」
「あぁ、解った。すぐに行くからよ」
背丈もまだ蕾の少女であるオルカは肩から軽やかに跳び降りると、口が悪いスイという女に手を振ってからバリーに向って走り出す。
しかしバリーとてここから先に通すわけにはいかず、剣を構えて怒号。
「舐めるな! ここは俺が――」
「はいはーいっ。ごめんねー?」
オルカは跳躍するとバリーの右肩を踏み台にして通り過ぎようとしていた。
バリーは、
……動けない。
トンっと、心地良い反動が右肩を叩く。
何も油断していたわけではない。何らかのアクションを見せれば斬り伏せるつもりだった。
しかし、それが出来なかった。
『自分が踏み台になって跳び越えられる』という結果が、当たり前のように感じてしまったのだ。それは、バリーとオルカの間にある実力の差が突き付けてきた答え。
いくらもがいても、
血を流し、汗を流し、
涙を流して努力しても、
埋める事が出来ない実力の差を、
オルカと交わる一瞬で感じ取った。
身体中に悪寒が走り回り、冷や汗が噴き出てくる。にゃはははっと笑い声を上げているオルカの背中は無邪気な子供そのもの。それはバリーにとって屈辱よりも絶望を与える後ろ姿だった。
「へぇ、おっさんにもオルカさまの力が解るんだな?」
「な、何者なんだ、あの子供は」
スイが嘲笑うように手を叩く。そして背中のホルダーから剣を抜いた。それはダラスの兵の物。
「言ってんだろ? スクライドの兵だってよ。追い掛けなくて正解だぞ? オルカさまに勝てる奴なんざいねーだろうしよ」
スイは矢を引くように剣を構えて腰を落とす。
「まぁ、私が相手でも結果は同じだけどな」
ビシビシと伝わってくる殺気は尋常じゃなかった。スイが実力者である事は解るが、そんな事で命を請うほど自分が可愛いとは思えない。今の自分が出来る事をする。
バリーは戸惑いを断ち切るように虚空を薙ぐと、戦士の目付きになる。屈強な身体の力を抜いてどっしりと構える。
「俺を見くびるなよ?」
「ハッ、ゴミが吠えてんじゃねーよ、ボケ」
摺り足でバリーが距離を詰めようとすると、スイは上半身を揺らめかせ一気に距離を詰めてきた。そのスピードはバリーの予想を遥かに上回っていた。
足の裏で小爆発が起きたかのように跳んできたスイは、既に真横にいる。
「遅ぇよ、クソが!」
その罵声混じりの怒号と共に横薙ぎの一閃。
バリーはこれを寸前のところで受け止め、スイの手首を握り締めると壁に向って振り回す。
「砕けろッ!」
しかし、スイはバリーの手首を掴みながら身体を捻る。腕が曲がらぬ方へ捻られたバリーはその手を振り払って逃れたが、スイの刺突のような踵に額を重く弾かれてしまった。
バリーは正直、ここまで身体能力が高い者と戦った事がなかった。そればかりか、戦闘は雇っている傭兵達に任せられている所為で実戦の勘が酷く鈍っている。
しかし、この戦闘能力。
本当に弱国と言われているスクライドの兵なのか。最近雇ったという噂の赤麗かとも思ったが、シンボルである深紅の長衣を纏っていない。それでは本当にスクライドの一兵士なのか。
バリーの首が折れそうなほど上に曲がっていると、その視界にスイの邪悪な笑みが割り込んでくる。
「っらァ!」
放たれた兜割りの斬撃を剣の柄元で受け止めると、今度は振り子のような蹴りが顎を更に跳ね上げてくる。
「うがっ」
巨体のバリーは軽々と壁に叩きつけられ、がっくりと膝を着いた。
「おいおい、ダラスってのはこんなにも弱ぇ連中の集まりなんか? 興醒めもいいところだな」
剣を肩で跳ねさせながら見下してくる笑みには余裕が溢れている。
我ながら情けない。こんな小娘に遊ばれるとは……。バリーは口に溜まった血を吐き捨てると、呼び出し音を鳴らしてきた通信機を握り潰した。
「いいのかよ、あん? 仲間の助けが必要なんじゃねーのか?」
「舐めるなよ、小娘」
バリーは立ち上がって胸を張ると、肩幅くらいに足を広げる。そして剣腹に手を添えると口籠るように呟き始める。すると剣の周りに歪みが出始めた。
「何だァ? 魔法かよ」
「あぁ、そうだ。お前はこれで終わる」
バリーは鉄板の床を抉る勢いで蹴ると、巨体に似合わないスピードでスイに迫る。しかしスイには遅く見えているのか、口の端を吊り上げて目線を合わせてきていた。
これが限界のスピードだというのに、このスイとやらは余裕で見切っている。大した奴だ。
だが称賛を贈るのはこの一撃を防いでからだ。
「ぬおぉ!」
バリーの真上からの重い一撃をスイは軽々と剣で受け止めた。
「つまんねぇ剣だなぁ、ハゲ!」
嘲笑うスイに対し、バリーも嘲笑う。その余裕が命取りだ。強者の驕りは弱者の牙を見落とす。バリーは柄を強く握り締めると、目を猛々しく光らせた。
「ぬん!」
「ん、がっ!」
突如、スイの身体に重い何かが圧し掛かった。いや、スイの身体にだけじゃない。
スイの身体を中心として、床が円系に陥没したのだ。鉄板と一言で言っても、その厚さは人が殴ったりしたところで跡をつける事など出来ないくらいに厚く、固い床だ。
「これでもつまらないか?」
膝を折るスイは何とか手で上体を支えてバリーを見上げた。そして荒くなった呼吸を整えようとしている。
「なるほどな。これが特殊三系の魔法かよ。重の魔法か?」
「そうだ。重力を変動させる事が出来る魔法だ」
バリーがまた剣を振り下ろすが、その目標はまだ素早く動けるらしく、捉える事が出来なかった。しかし、重力をまともに受けたダメージは少なくはない。あれほど偉そうに胸を張っていたスイがまたしても膝を折っている。
だがスイは床を陥没させる剣を見ると、含み笑いを含み始めた。そしてよろめきながら立ち上がると、その笑い声は徐々に大きくなっていく。
「おもしれぇなァ、おい! ぶっ殺してやるよ、このクソハゲが!」
「ちっ、戦闘狂が」
スイは殺意のあまりに虚ろになった目を向けて途切れる笑いを口から漏らす。その姿は人の皮を被った化け物のようで、優勢なはずのバリーも足を退いた。
冷や汗が一粒、床で弾けた時。
スイの眼が狂気に乱れた。
3
樹楊の身体の上でぐったりしていたサラは、深緑の作業着を着た少年に身体を揺さぶられる事で目を覚ます事が出来た。頭が割れそうなほど痛く、音も籠って聞こえてくる。視界は歪み、吐き気を催していた。
「あの、水……バリーさんに頼まれて持ってきたんですけど」
少年は、奇形化して顔中の血管が浮き出ている緑目のサラに怯えながら水を差し出してくる。サラはバリーという名に疑問を持ったが、すぐに坊主頭の人だと解った。どうしてそのバリーが水を持って来ないのか解らなかったが、今の状態では気に掛ける余裕もない。
「水……、かけてくれる?」
「え? かけ、る?」
サラは戸惑いがちの少年をこれ以上怯えさせないように微笑む。頬の筋が張っていて動かす事すら痛みに繋がるが、それでも怖がられたくなかった。
「うん、頭からいっぱいかけて」
少年はサラから目を逸らさずに頷くと、警戒する野良犬のように近付く。上半身を大きく引いて手を目一杯伸ばして水をかけてくる様子に、サラは少しだけ心を痛めた。解ってはいた事だけど、驚かれはしたがそれでもバリーは怖がらずに接してくれただけに、少年の行動は現実を突き付けてくる。
プラスチック容器から出てくる水を頭から浴びるサラは、聖水を浴びる聖女のように心地良さそうな表情をし始めた。
無邪気。
無垢。
サラは身体――いや、その存在全てで至純を表現しているかのよう。
弾ける水滴は砕けた水晶。
命の権利など持てない牢獄だというのに、水はサラを祝福して命の芽吹きを与えている。
その幻想的な一面を目の当たりにした少年の眼からは恐怖の感情は消え失せ、芸術的な絵画に目を奪われる者の目付きになっていた。少年はこの時初めて、女神という存在を真実だと確信しただろう。サラが微笑めば、少年は耳まで真っ赤にして視線を逸らす。
「もっとかけてくれる?」
「は、はいっ。今すぐにっ」
微笑ましく、そして嬉しく思ったサラが「ごめんね」と謝れば少年は必要以上に頷く。
少年の態度が何故変わったのかは解らなかったが、細かい事は気にしない。暖かい気持ちというものは心地良いものだ。それだけでいい。
五本全ての水をかけてもらったサラの身体は、ほぼ元通りに戻る事が出来た。頬の血管が少し浮き出ているが、目を凝らしてみなければ分からない程度。
「あの……。何で水をかけたら戻ったのですか?」
「ん? 私が木人だからだよ。治癒をすると枯れちゃうんだ」
少年の当然の疑問に軽く答えるサラ。少年は拭えない疑問に首を傾げるがサラはそれ以上説明しない。一から説明するとなると、時間が掛かるからだろう。
治癒をしたとは言え、樹楊の身体が完全に回復したわけではなく、治癒前よりもマシになった程度の応急処置程度の効果しかない。それでも樹楊の顔からは苦しみが消えている。
死ぬ事はないだろう。
「ね、バリーとかいうおっちゃんは?」
「あ……バリーさんは」
少年の答えを切ったのはスイ。
「私がぶっ倒したよ」
牢屋の入口に手を掛けるスイに、少年とサラは身を強張らせた。バリーを倒したというスイの身体はボロボロで支えがないと倒れてしまいそうだが、その凶悪な眼光がサラ達の動きを封じている。スイは腕で身体を支えながら牢屋内をきょろきょろ見回して舌打ちをする。
「んだよ、まーたどっか寄り道でもしてんのか? あのガキ」
目頭を押さえながら嘆息し、まぁいい、と剣をホルダーから抜いて近付いてくるスイに、少年は怯えきっていた。この少年は戦闘経験がないのだろう。身体つきもそうだが、雰囲気からして弱々しい。しかしサラとてそれは同じ事だ。人を殺そうと思った事などない。
そのサラが、少年を庇うように立ち塞がった。両手を広げるその様は、身を挺して子供を護る母親のよう。だがそれを面白く思うスイではないらしく、元々鋭い瞳を不機嫌に吊りあげる。
「女ぁ、退けよ。じゃねぇとテメェから殺っちまうぞ、あぁ?」
「こ、殺したいなら殺しなさいよ。好きにすればいいじゃない。こ、怖く、なんかないもん」
カタカタと震えてギッと睨むサラ。スイが何気ない動作を入れる度に身体を震わせている。
怯えているのは誰が見ても解るほどだった。それでもサラはスイの眼から視線を逸らそうとはしない。
「上等ォじゃねぇか、クソ女ぁ。せいぜい泣くなよ?」
悪染みた嘲笑と共に剣を振り上げるスイだが、その剣が振り下ろされる事はなかった。
引っ掛かったように攻撃動作を止めたスイは、苛立ち混じりに振り返る。
そこには、スイの剣を指で挟むオルカが居た。
「スイ、その女の人を殺しちゃダメだよ」
「は? 目的はあの男だろ? こいつは――」
「スイ? ボクの言葉聞こえなかったのかな?」
重い殺意を乗せた視線にスイは言葉を飲むと、剣をホルダーに戻す。納得出来ないのか、サラの事を睨んだままだが。
「オルカさま、何処に行ってたんだ?」
オルカは元の子供らしい無邪気な表情に戻ると頭を掻いて誤魔化すように言い始める。
「あのねー。そこの作業着の男の子追ってたんだけどね、三人の兵士さんに立ち塞がれたんだよ。お陰で見失うし、戦わなきゃだし。ボク、疲れたよ」
オルカの言葉に逸早く反応を見せたのは、作業着の少年だった。サラの前に出て血相を変えている。
「メルト中隊長とコロラダ将軍っ、そればかりかギリードル上将軍だったんですよ! 逃げてきたんですよね? そうなんですよね!?」
「うんにゃ。全員殺してきたよ? その何だか将軍とか名前は知らないけど」
ダラスもクルード同様、実力主義の国家であり、少年が上げた名前の者は全員実力でその地位まで登り詰めた人達だ。その実力者を、オルカは傷一つない身体を見せて『殺してきた』という。少年の顔は絶望色に染まり、尻餅を着くと歯を鳴らし始めた。それでもまだ信じられないのだろう。嘘だ、嘘だ、と何度も繰り返している。
スイは少年に見下した笑みを送り、オルカは首を傾げていた。しかしサラは怒りに眉を吊り上げていた。サラはオルカの前に立つと、大きく手を振り被って平手打ちを見舞う。乾いた音は地下牢内によく響き渡った。
叩かれた頬を押さえるオルカは怯えた目をしてサラを見上げる。
「てめぇ! 何しやがんだ、コラ!」
怒声を張り上げて剣を抜こうとするスイをオルカは手で制してサラをまた見つめているが、サラに肩を掴まれると、母親に怒られている子供のように目を強く伏せた。
「命を何だと思ってるの? 戦だから殺めなきゃいけないのは解る。でもね? 命には平等の重さがあるの。アナタが殺した人達にとんでもなく悪い人もいたかもしれない。だけどね、その殺められた人を大切に思っている人だっているのよ? それなのに、アナタは……アナタ達はっ」
サラはオルカの両肩を掴んだまま片膝を着くと下から目線を送った。その眼には悲しみと慈愛が反発し合う事無く入り混じっている。
「いい? 私は戦乱の世に人を殺めるなとは言わない。そうでもしなければ生きられない事だってある。だけどね、自分の命の次には他人の命を重んじなさい」
オルカはどうしようもなく線を歪めてしまう唇を噛み締めると、
「ごめんなさい……」
その謝罪の言葉にスイは驚きを隠せなかったようだ。別の生き物を見るかのようにオルカを凝視している。
サラはオルカの頭を撫でると、優しく抱き締めてやり安堵の言葉を呟いた。そして「素直な子でお母さんは嬉しいよ」と言う。オルカが嬉しそうにサラを抱き締め返した時、遠くから重い金属音の重なりが響いてきた。
スイは身構え、その方角を見る。
「何としても拘束するんだ!」
その声はダラスの兵のものであり、怒りに満ち溢れているのはサラでも解った。へたり込んでいる作業着の少年は安堵の表情を浮かべる。
「オルカさま、この足音……。ちっと厄介だぞ」
「うん、そうだね。結構な数だし、早く引き上げないとちょっと面倒になるかも」
オルカはサラの後ろ、ベッドに横たわる樹楊を見ると迷った瞳をする。サラはそれに対して首を振ってやると、オルカは戸惑いながらも頷き返す。
「スイ、ここは一旦引き上げるよ」
「おい、アンタのにいさんはどうすんだよっ」
「今回は連れて行かない。無事だって確認出来たし、それににいさんの意志を無視してまで連れて行きたくはないんだ。にいさんには自分の意思で選んでほしい」
スイはオルカの決断に舌打ちすると、つまらなそうにサラを睨む。そして先導するように走り出す。オルカは牢屋を出る時、振り返った。
「名前……教えてくれる?」
「サラよ。アナタは?」
「ボクはオルカ。また逢えるかな?」
サラが間髪入れずに頷くと、オルカは笑顔を見せてスイの後を追った。どうやらスイはダラスの兵と接触したらしく、勇ましい声を張り上げている。
オルカ……。
やっと見つけた。最後の子供。
あとは蓮を見つけなければ。
◇
ダラス兵はスイとオルカを逃したらしく、指揮をとっていた者は大目玉を喰らう羽目となったようだ。負傷者は多数出たが、オルカが殺めた三人以外の死者が出なかったのは唯一の救いだろう。
牢屋内に詰め寄ってくるダラスの兵達に、サラは樹楊を抱き締めながら警戒をする。樹楊はまだ目が覚めないらしく、穏やかな顔だ。サラの匂いに、いい夢でも見ているのだろうか。
「この緑目の女、あいつらの仲間か?」
「そうかも知れん。拘束して別の牢に入れておけ」
簡単な相談の後に、ダラスの兵はサラを荒っぽく掴むと樹楊から引き離そうとする。しかしサラは樹楊を抱き締めて頑なに離そうとはしない。髪を引っ張られたとしても。
「離してよ、ばかっ。一緒に居たっていいじゃない!」
「いいわけあるかっ。大人しくしろ! さもないと」
「何よ! 殺すって言うわけ!? やればいいじゃんっ」
頑固に抵抗していると、牢屋の外に居た兵達が何者かの為に道を開け始める。その者の身体を気遣う声が追って掛けられるが、その言葉を返す事はないようだ。
「その小娘の望み通りにしてやれ」
サラを掴む兵が振り向くと、そこには傷だらけで満身創痍のバリーが部下の肩を借りて立っていた。鉄の鎧は所々砕けており、左腕があらぬ方向に曲がっている。
「おっちゃん、大丈夫っ?」
サラはバリーに駆け寄ると、仔犬のような瞳を向ける。バリーは傷だらけでもなお、太々しい笑みを浮かべた。心配ない、という事なのだろう。
「しかしっ」
サラの腕を掴んでいた者が反論を試みるが、バリーの一睨みでその言葉を呑み込んだ。
「小娘、良くなったようだな?」
「うん、水のお陰で良くなったよ。おっちゃん、ありがとうね」
バリーは何者なのか問い詰めようとはせずに部下達を引き揚げさせると、涙ぐんでいたサラの頭をぽんぽん叩いて牢屋の鍵を閉める。
水をくれた少年は最後まで気に掛けた目線を送ってくるが、サラが微笑んであげるとやはり顔を真っ赤に染めて視線を逸らす。
頭でもぶつけたのだろうか。
◆
地下墓地前。
日が暮れてもサラが戻ってこない事に、紅葉は焦りまくっていた。やはり自分が行くべきだったのかと、深く反省する。地下墓地に入ろうとするが、サラの言葉を思い出すと待っていた方がいいのか、と、同じ事を何度も繰り返していた。
サラは「信じて」と言った。
頼りないが、妙に説得力があった。ここで待つという約束もしてしまった以上、破るわけにもいかない。それならイルラカに連絡を取ろうかと考えていると、地下墓地から駆け上がってくる音が耳の端に引っ掛かったが、その足音がサラのものではないと気付いた紅葉は闇に溶け込むように森の中に消えた。
実際、出てきたのはオルカとスイであり、少しばかり息を切らしているところを見れば逃げてきたのだろうと予測が付く。
二言三言話していたスイが森に隠していたバイクの元に行くと、オルカはこちらを見て弾んだ声を出した。
「ずっと隠れてたの? 頑張るねー」
気付かれているらしい。
だけど驚きはしない。初めて見た時から気付かれていると思ってはいたから。
紅葉が木々の間から姿を現すと、オルカが目を丸くした。
「もしかして赤麗の?」
「だとしたら、何?」
「へぇ、初めて見るよ。真っ赤な髪……紅葉アゲハ、だよね? ボクはオルカ。よろしくーっ」
ヘラヘラとしているが、攻撃する隙もなければ逃げる隙もない。中に秘めている殺気がビシビシと身体を突き刺してくる。その質がここに来る前のものと変化したような気もするが、それでもオルカが敵意を持っている事は解る。
紅葉が爪のように伸ばした指を鳴らすと、気を引き締めて対峙した。オルカは頭の後ろで腕を組んでいるだけだが、こちらの様子を伺っているのだろう。
ふざけた奴。
強さは天と地の差があるのだろうが、このふざけようはどこぞの馬鹿そっくりだ。
棘を持つような空気の中、オルカが腰を落とした瞬間。
紅葉はオルカの動体視力を僅かに上回るスピードで、二人の距離をゼロにした。オルカの眼下、地上スレスレまで低くした体勢で手を着いている。
紅葉は舌先を可愛らしくぺろっと出し、
「飛びなよ」
「――え?」
完全に虚を衝かれたオルカだったが、突き上がってくる蹴りの軌道上に、何とか交差させた腕を被せる。しかし、そのガードは紅葉の暴風の如く蹴りを受け止める事は出来ずに呆気なく弾かれた。紅葉は蹴り上げた反動を殺さずに、もう片足でも蹴り上げる。
二段目の蹴りはオルカの顎を捉えて、その小さな身体を宙に放ろうとするが、それで終わらせる紅葉ではなかった。
宙で身体を独楽のように回転させると真紅の髪は後を追うように円を描く。紅葉は、完全に無防備になったオルカの腹に三段目の蹴りを打ち込んだ。
「がうっ」
インパクト音が闇に重く響くと、オルカは吹っ飛んで地下墓地の中へと転げ落ちた。
オルカを吹っ飛ばした三段蹴りを見たスイは、化け物のように見える紅葉に後退りをしたが、我に返るとバイクが倒れた事も気にせずに紅葉の前へと躍り出た。
「スイだっけ? 死にたくないなら退いて。今は久しぶりに手加減を忘れてるから」
「るせぇよボケ。好き勝手させてたまるか」
「そう……」
スイでは紅葉の動きを捉える事など出来るわけもなかった。瞬時に距離を詰められている事も、側頭部に蹴りが迫っている事にも気付いてはいない。
その頭を砕いてやる。
紅葉の瞳にはスイの末路が鮮明に写っている。
空気を破りながらスイの側頭部を襲う紅葉の蹴りだったが、その動きが固められたように止まってしまった。
「困るなー、それは」
自分で止めていたのではなく、オルカが蹴りで止めていた。スイの目の前を横切るように、紅葉の足を目掛けて跳び蹴りをして。柔らかな声とは違い、獲物を見据えた狩人のような瞳で紅葉を睨みつけ、頭から流れる血を舌先で舐める。
目の前に伸びるオルカの脚が見えた事で、ようやく紅葉の蹴りにも気付いたスイ。しかし次の瞬間には、オルカの膝蹴りで紅葉が片膝を着いていた。
紅葉は間髪入れずに迫ってくる肘打ちを、片膝を地に着いたまま上体を大きく反らす事で避ける。剃刀のような肘は空を突き刺しながら紅葉の鼻先をかすめた。
鼻の先に細く浅い切れ目が出来き、同時に背筋に戦慄が駆け巡る。首筋がぞわぞわと寒気が貼り付き、命の灯火に風が吹いたのがハッキリと解った。
これは紛れもなく、命の奪い合いだ。
紅葉は起き上がる事無く、バランスの悪い姿勢のままオルカの後頭部に蹴りを見舞ったのだが、それでも吹き飛ばないオルカは体重を乗せた肘を額に強く落とす。
一瞬だけ意識が途切れたが、耐えきれないほどの威力ではない。
「っく、このっ」
紅葉は素早くオルカの背後に回ると、襟首を掴んでブン回し始めた。
「わわわわわっ」
最大の遠心力でぶん投げると、オルカは流星のように森の中へと消えていく。どこかの大木にぶつかったのか、大きな木鎚で叩いたような音が森から響いてきた。
あれで死ぬような奴なら苦労はしないだろう。すぐに転じて反撃に出てくるはず。
紅葉はオルカが出てくる前に得意とする密林戦に持ち込むべく、自らも森の中へと入っていった。
目で追う事しか出来なかったスイはオルカの援軍に行こうと、落ちていた腰を上げたのだが空を切り裂く音に気付いて身を低くした。
金色の髪を何本か切り落としたのは、スローイングナイフ。
「誰だっ!」
身体を起こし、剣を横にして胸の前に構えると、その剣腹に尖った爪先が乗っかった。まるで木の葉が乗ったような感覚にスイが目線を上げると、サラシを巻いた身体にレザーのジャケットを纏う女が、もう片方の足を天を突くように高々と上げていた。
「な、んだっ」
気配すら感じ取れなかったスイは、剣に片足を乗せて半月を背負う女に驚愕する事しかできないようだ。
その女はスイを生をも許さぬ冷やかな目で射抜きながら、しかし答える事はせずに振り上げていた足を脳天目掛けて落とす。
鉄槌のような踵落としは岩を割ったような音を立てた後、スイの意識を奪った。
スイは頭から血をドクドク流すと、覚束ない足取りで二、三歩前進してから地に倒れる。
目を合わせてから一瞬でスイを下した女は、その敗者を見る事無く地下墓地へと消えていった。
◆
夜になると凍てつく寒さがダラス城の地下牢を支配し、囚人たちは粗末な毛布で身をくるめて一夜一夜を堪えながら過ごす。しかしサラは樹楊という抱き枕があるお陰でそれほど寒くは感じない。少しの間離れていただけだというのに『寂しかった』という気持ちが、今溢れてくる愛しさに認識させられる。
こんな時に、とは思うが嬉しさが喉から込み上げてきて含み笑いをしてしまう。度々囚人の数が減っていく、明日は我が身の牢獄の中で不気味に笑うサラに、見廻りの兵は掛ける言葉を失っていた。
しかし、その気味の悪さに限界が来たのか通信機を取り出して上部と連絡を取ろうとしている。見廻りの兵が、通信開始の四角いボタンを押そうとした時、その機体が手から離れていった。
まるで矢のように飛んでいく通信機を見送る兵。その背後には猫目を輝かせる女が一人。
通信機にはナイフが刺さっており、最早使用も修復も不可能だろう。
サラはその通信機にナイフが刺さる音で目を覚まし、しょぼしょぼする眼を擦りながら上体を起こした。ガラステーブルの上にスプーンをそっと置いたような音がすると、見廻りの兵とは違う足音がこちらの牢屋に向かってくる。
その足音は自分が居る牢で止まると、その主の姿が古くなった電球の明かりに照らされる。
焦げ茶色の髪に、すらっと整ったスタイル。レザージャケットの中に見えるのは、胸を隠すだけのサラシで背には剣を二本携えているように見える。薄っすらとしか見えないが、女性だろう。
サラは咄嗟に身構えた。
その女性の眼は多くの命を無下に奪ってきた者の眼をしていたからだ。凄惨に輝く猫目は自分を映してはおらず、隣の樹楊を映している。
「何か用なの?」
潜めた声を出すと、その女性は頷いて樹楊を指差した。そして闇に溶け込む声で尋ねてくる。
「それ……樹楊って奴?」
サラは樹楊を毛布で隠すと拳を作って眼で威嚇を試みるが、猫目の女性は怯む事無くこちらの回答を待っていた。
頷いたら何かするのだろうか。だが、嘘が通じる相手にも思えない。その問いは疑問ではなく、確認の為のものに思えた。
どうすればいいのか分からずにいると、不意に猫目の女性が笑った。理解出来ずにキョトンとしていると、女性は懸命に声を押さえながら牢の鍵に手を掛ける。
そして三度ほど手元を動かすと、解錠。
「安心しなって、俺は樹楊を助けに来たんだよ。何だかおまけが付いているようだけどな」
牢の扉は軋む音を立てながら開き、そこから入ってくる女性の瞳には棘が消えていて勝ち気な性格だけを思わせる。
「俺はナーザだ。そこでぶっ倒れている男の知り合いなんだよ」
自分を俺と人称するナーザに性別を疑ったが、膨らんでいる胸が女性である事を証明している為、荒っぽい性格なんだと判断した。
「私はサラだよ。助けてくれるの?」
距離が近くなると、ナーザは湖の深層のように緑色の瞳に魅入ったようだが、首を傾げるサラにニッコリと目を細くする。
「あぁ、助けてやる。だから行こうぜ?」
サラは差し伸べられる手を握ると大きく頷いた。バリーの困った顔が脳裏に浮かぶが、ここに居ては何も変りないばかりか死を待つだけだ。迷う事などない。バリーには迷惑を掛けっ放しだが、仕方ないだろう。蓮の事も気になる。
ナーザは樹楊を軽々担ぐと、サラの手を握った。男らしい力強い笑みが心強い。
サラの歩幅に合わせて駆けるナーザの足音はまるで無音。こういう事に慣れているのか、目を瞑れば闇に手を引かれているようにも感じた。
脱出の際、十字に交わる通路の左方に作業着を着て水を持った少年に姿を見られた。その少年はサラに水を持っていった者だ。
ナーザは背の剣に手を掛けるが、少年に争う気持ちがない事を悟ると何もなかったように走り出す。
少年は脱走をするサラを見て大慌てで通信機を取り出すが、背後から現れたバリーの手によって制される。
「バリー様、何故っ」
「放っておけ」
「見逃すと言うのですか?」
バリーは十字路の奥を見つめながら目を細めると、固定された折れている腕を撫でる。
「今、争いが起きればダラスにとって大きなダメージとなる。外にはあの小さな子供もいるだろう。今はその時ではないのだ」
オルカやスイの力を見せつけられたバリーは歯を食い縛って震える。己の無力さ、ダラス連邦の統率の無さを嘆いているのか。
バリーは身を翻すと、ぽつりと呟く。
「近々『砂嵐』を徴集する」
「砂っ……まさか、バリー様」
少年は通信機を床に落として後退る。しかし通信機を拾おうとはせず、震える身体でバリーを見つめていた。
「そのまさか、だ。俺達ダラス連邦は――」
険しい目付きを少年に向け、
「スクライド王国に戦争を仕掛ける」
バリーはスイやオルカをスクライドの者だと信じて疑わなかった。それはスイが「スクライドの兵だ」と告げてきた事もあり、クルードの兵が樹楊を助けに来るとは思っていなかったからだった。
スイがバリーを殺さなかったのは、スクライド王国とダラス連邦を争わせる事を通過点とし、スクライド王国の戦力を殺ぐ為であった。
その真意はバリーも少年も、サラもナーザも……誰も知る事が出来なかった。
バリーの中に燃えるスクライドへの怒り。それは、既に燻ぶっている争いの火種を業火へと変えるものであった。
◆
紅葉は森の奥の温泉に肩まで浸かっていた。何も息抜きをしているわけではないのは、着衣したままの姿から解るだろう。頭からは血が大量に流れており、顔に血のペイントが施されている。
「温泉、気持ちいいでしょ? ボクってば優しいよねー」
オルカは温泉の縁で腕を組んで悠長に紅葉を見下ろしていた。身体中のあちこちに傷はあるのだが、元気いっぱいだ。子供独特の無邪気な笑みも健在。
「そ、うね。久しぶりの温泉だか、ら……気持ちいいわ。礼を言うよ」
冗談じゃない。
この大陸中に名を轟かせた最強傭兵団である赤麗の首領である自分が、こんな年端もいかない子供に片膝を着かされている。確かにその実力は拳を交える前から解っていた。それでも負ける気はしなかった。驕りではない。油断でもない。
自分は『負ける事は許されない』のだ。
得意の密林戦だった。
しかし密林戦での戦闘を得意としていたのは自分よりもオルカという子供の方だった。
オルカは身のこなしが軽快で、木々を味方とし闇を下僕としていた。翻弄される中で見舞われた雨霰の連撃は重く、身体にダメージを残す。
唯一の救いは、オルカが刃物を所持していなかった事。もしナイフの一本でも持っていれば、既に息絶えているだろう。
オルカは止めを刺すつもりなどないのか、先程から腕を組んで考え事をしている。
「うーん……殺したらまた怒られるかなぁ? でもやらなきゃボクが危ないし」
独り言なんて、馬鹿にするにも限度ってものがある。
紅葉はオルカの隙を窺いながら慎重に身体を起こそうとしている。その動きにオルカは気付いてはいない。
「オ、オルカっさま……」
突然、スイが木の陰からよろよろと現れてオルカの傍で倒れた。誰にやられたのか解らないが、オルカの注意が自分から反れた。
紅葉は力を振り絞って一度の跳躍でオルカの元にまで辿り着く。オルカは制空権内に現れた紅葉に目を見開いた。
捉えたっ。
紅葉は、一撃をオルカの眉間に打ち抜こうと爪先を奥にまで流す。
「余所見なんて――」
「してないよ?」
紅葉の渾身の蹴りが目標の半分にも到達しない内に、オルカは背後に姿を現した。勝ち誇った笑みを浮かべながら、両手の指を絡ませ合った岩のような塊を大きく振り被っている。
「あちゃっ」
間抜けな掛け声とは裏腹に、その威力は岩石で殴られたかのよう。紅葉は視界を揺さぶられると、声を出す暇もなく温泉の縁としている岩に側頭部を弾ませた。
オルカは岩で弾んだ紅葉の頭に、蹴りの追撃。
無価値に吹っ飛ぶ紅葉は水面を何度か切ると勢いを失い、温泉の中へと沈んでいく。薄く開けられた口から気泡が幾つも吐き出され、頭から流れ出ている血は温泉の湯と喧嘩する事無く、綺麗に混じり合っていた。
死ぬ……のだろうか?
最強という漠然な夢を抱いたまま、何も成し遂げられないまま、ここで。
それでもいいか。
やれる事はやってきた。
赤麗の名もそこそこは知られた。
水面から見える半月はぼやけてはいるが、綺麗に思えた。
実際は人の座高分もない深さなのに、深い深い海の底に沈んでいるようだった。息も苦しくはない。そればかりか痛みが引いていって心地良くもある。
そういえば、何で最強を夢見たのだろう?
恐れられたかった? ……違う。
崇められたかった? ……違う。
誇りたかった? …………それも、違う。
じゃあ、何故?
温泉の底に身体がふんわりと横たわると、紅葉は目を閉じる。凄く心地いい。安らぐ。それだけが重症の紅葉を満たしていく。
だけど、何かが物足りない。このまま眠れば気持ちいいのだろうけど、満たされる気がしない。自分はこの安らぎよりも、もっと深くて優しい安らぎを知っている気がする。
それは――。
オルカはスイに膝枕をしてやると、呼吸を整えさせていた。流石に心配なのか、綺麗に顔を拭いてやると圧縮バッグの中にある救急用具で応急処置をし始める。
「悪い……。オルカさまにこんな事を」
「別に気にしないでよ。後でご飯を食べさせてくれるだろうしねっ」
ほんわかと笑うオルカにスイは疲れたように溜め息を吐く。しかし凶悪な目に柔らかさが滲んでいた。
「オルカさまは五人分食べるからな。俸給を上げてもらわなきゃ苦しいっての」
オルカは「考えておくよ」と信用のない笑みで答える。
ようやくスイの呼吸が整った時、温泉の水面から真紅の塊が浮き出てきた。
「はぁ……はぁっ」
それは沈んでいた紅葉。
オルカは呆れた眼で見やりながらスイの頭を叩く。多分、八当たりだ。スイは叩かれた傷口を押さえて涙目になっていた。
「な、なにしやがんだっ」
「だって、ムカつくんだもん」
オルカの不満も、そればかりか音の全てが紅葉には届いていなかった。自分の脈動も聞こえない。視界は揺らぎ、ゼリーの上に立っているように足からは確かな感触を得られていない。
ただ、思いだけが紅葉を動かしていた。
自分は、いつか現れる大切な人を護る為に強くなりたかった。誰にも壊される事がないように、ずっと一緒に居る為に強くなりたかった。
その相手かどうかは解らないが、サラと樹楊の顔が思い浮かぶ。それだけじゃない。蓮やイルラカにニコ、そして自分をこんな目に合わせたオルカも思い浮かぶ。
不思議だ。
訳が解らないが、ハッキリしている事はある。それは思い浮かんでいた中の一人の事を、自分は……。
紅葉は途切れ途切れの意識の中、自分の唇を指先でなぞった。すると、脳裏にあの馬鹿面が鮮明に浮かび出てくる。
アイツを護りたい。
アイツだけは護りたい。
今、生きているかどうかなんてサラが来なければ分からないが、結果を聞くまでは死ねない。もし生きてくれてるのであれば、死ぬわけにはいかない。全てに勝る安らぎと、何にも代えがたい愛しさをくれるアイツを護る為。……そして許されるのであれば傍に居る為にここで死ぬわけにはいかない。
愚かに生きてきた自分が、それでも幸せだったと死んでいけるように……、ここで死ぬわけにはいかないんだ。
紅葉はフラフラと身体を不規則に揺らしながら温泉から這い出ると、情けなくも四つん這いで木の根元まで行き、その背を預けた。
やっとの事で矯正されていく視界の中央にはオルカと思しき姿があり、近付いてきている。逃げなきゃならないのに、身体が言う事を聞かない。呼吸をするだけで精一杯だ。
オルカは紅葉の前にしゃがみ込むと、膝頭の上で腕を組んで首を傾げる。
「ボクをここまで追い詰めた力とその生命力だけは褒めてあげるけどさ、何でそこまで粘るの? あのまま沈んでいれば痛みもなく死ねたのに。わざわざ殺される為に出てくるなんて、正気とは思えないなー」
音も聞こえるようになったらしい。籠ってはいるが。
何故? そんな事、決まってる。
「……き、なの」
紅葉は力なく呟くと、濡れた頬に一筋の涙を流した。その涙を見たオルカは次の句を待つように押し黙る。
紅葉はオルカが聞いている事など関係なく思い、自分の気持ちを……ずっと喉に粘着質に貼り付いていた言葉を自然と吐き出す事が出来た。
この言葉を本人に言えたらどんなに幸せなのだろう。誰の目も気にせずに裸のままの自分、素直な自分でいられるならどんなに幸せな事なのだろうか。
「樹楊が好きなの……」
――誰に何と言われようと。
「どうしようも、ない、くらい……大好き」
――世界中の皆が祝福してくれなくても。
「だか、ら……死ね、ない」
――永遠でも生きていたい、あの人の為に……。
ずっと、永遠に、いつまでも。
その言葉を聞いたオルカは珍しく眉間に縦筋を刻んだ鬼の表情で紅葉を睨む。そしてちっちゃな手を紅葉の胸元へと突き刺すように伸ばした。
だがその手を、闇と草木を切り裂いて飛んできたナイフが突き刺して弾く。
オルカが何者かの奇襲に、後方へと素早く跳ぶ。しかし、それは先読みされていたようで背後からの蹴りの餌食となって弾丸のように吹っ飛んだ。
「テ、テメェ! まだ居たのかよ!」
スイが荒ぶる怒声を浴びせたのは、ナーザ。スイを一撃で仕留めた髑髏の女神だった。
オルカは立ち上がるが、バランスを崩してへにゃっと腰を落とす。しかし手に刺さったナイフを抜くと、消えぬ殺意の眼差しでナーザを睨む。
「久しぶりだな、オルカ」
口を開いたナーザにスイは驚くようにオルカに目をやった。オルカは鼻で笑うと、ダメージがないように立ち上がる。
「おねーさんはナーザだっけ? 死んでなかったんだねー。しぶとい人だ」
「俺ぁテメェに殺されるほどヤワじゃねぇんだよ」
「じゃあ今殺してあげようか? 前にやり合った時のボクはまだ十歳だよ? あれから三年経った今、おねーさんに勝ち目はないと思うけど?」
ナーザは眉を跳ね上げるが、余裕の態度を崩さずにオルカを見下した。そして微かに動きを見せたスイの指の間にナイフを投げる。
「テメェは動くな」
指の間、柔らかな地面に突き刺さったナイフをスイは悔しげに睨むが、オルカにも追って制された事で動けずにいた。
ナーザはオルカを一瞥し、鼻で笑い返した。
「そんな身体で俺に勝つつもりか? なわけねぇよなぁ? 紅葉の一撃は軽くないはずだ」
ま、見た限りではな。と付け足すナーザにオルカは歯を食い縛る。事実、紅葉の攻撃をまともに受けていたオルカは、ナーザの一撃で満足に動けずにいた。
紅葉はナーザとオルカのやりとりを、虚ろな目で見ている。何がどうなっているのかは解らないが、闇市で出会ったナーザが助けてくれている事だけは解る。
ぼーっとしていると、ナイフが飛んできた所からサラが現れた。いつ見ても能天気な笑顔だ。
聞きたい事がある。
樹楊はどうなったのか。
だけど口が開かない。
サラは紅葉の思いを目線のみで受け止めると、笑顔で頷く。それでも悲しげに見つめてきているのは、紅葉が重傷を負っているからなのだろう。消えてしまいそうな意識に抵抗する気力も失いかけていると、サラが頬を両手で優しく包んで額を合わせてきた。
すると、光蟲のように輝く緑色の粒子が身体を包んでくる。
暖かい。気持ちいい。
身体の痛みが引いていく。
「ふぅっ……、取り敢えずこれで安心ね」
「サラ、何したの? 身体が動くようになったんだけど」
汗を拭うサラに訊くと「愛の力よ」と、すっ恍けた顔で唇に人差し指を添える。それには思わず苦笑してしまった。何をしてくれたのかは解らないが、取り敢えず意識ははっきりした。それでも満足に身体が動くわけではない。
それを見たオルカは開いた口が塞がらない様子で、スイも同じ顔をしていた。
治癒の魔法だけは紡ぐ事が出来ない世の中なだけに、言葉も出ないのだろう。ナーザは勝ち誇ったように嘲笑うと、挑発的にオルカを見る。
「スイ……退くよ。勝ち目はない」
「オルカさま……」
オルカはスイの元まで行くと、踏ん張りながらその身体を担ぐ。
「今のボクじゃナーザには勝てない」
ナーザにも争う気が無いらしく、戦意を欠いたオルカに背を向けた。そして告げる。
「ラファエンジェロ……テメェの側近に言っとけ。必ず殺すってよォ」
伝えとくよ、と返して背を向けたオルカだったが思い出したかのように、再度振り返ってくる。しかし目線はナーザではなくて紅葉。
紅葉とオルカの目線が一本の線になった。
オルカは、にぱっと笑うと背から折りたたみの鉈を取り出して紅葉を目掛けて投げる。その鉈は風車のように鋭く回転し、緩やかな弧を描いて飛んできた。
これには虚を衝かれたナーザだったが、その鉈が紅葉には当たらずに背を預けている木を斬るように刺さった。
「じゃーね、赤麗の首領さん」
ナーザは鉈を当てずにいた事に疑問を持っているようだが、紅葉にはその意味が解っていた。それだけに、悔しさが心の底から溢れてくる。
人前では泣かないと確固たる決意をしていたはずなのに、涙腺は悔しさで破壊されてしまったようだ。嗚咽は無責任に押し出され、自分を情けなく思わせる。
ボロボロと涙が溢れ、抱き締めてくれたサラの胸ですすり泣いた。
「悔しい……、私が、見下されっ、…………うっぐ、ひぐっ」
強くなりたい。もっともっと強く。
この世の全てを壊せるくらい、この世の全てから大切な物を護れるくらい強くなりたい。
オルカが投げた鉈は、こう言っていた。
「いつでもキミを殺せたんだよ」と。
オルカは刃物を持っていなかったわけじゃなく、ただ単に使用しなかっただけだった。それはつまり、遊ばれていたという事。その気になればいつでも殺せたんだよ、という事だ。
百戦錬磨。
最凶最悪。
戦の申し子。
いくつもの畏怖なる言葉を捧げられてきた紅葉が、初めて敗北をした日。
それは、スクライド王国とダラス連邦の戦争の引き金を樹楊とした日だった。