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第十七章 〜その瞳に〜




 

 ダラス連邦の近郊にある地下墓地の地表が真っ赤に染まったのは、遠く離れた白鳳に居る紅葉が寝息を立て始めた頃だった。計六段から成る、巨大な集合墓地を照らすのは等間隔で吊るされた水銀灯のみ。その灯りは頼り無く、仄暗い世界が視界一杯に広がっている。


 何処を見回しても墓石。

 誰もお供えに来ていないのか、花一つさえ備えられていない。死臭が消えたのは、とうの昔の事だ。


 そのハズだった。

 今、ここに新たなる死体が出来上がってしまった。新鮮な死臭が漂い、今も地に真っ赤な養分が染み込んでいる。


 ゼクトは化け物を見るような目付きでその中央に立つ者から後退りしている。

 身体を支えている二本の脚は頼り無く震え、足が地に着いた感触さえない。

 妖艶に魅了してきたその顔には『恐怖』と『鮮血』がべっとりと貼り付いていた。開いていた口を無理矢理塞げば、歯がぶつかり合ってカチカチとうるさく響く。


「ゼクト……行こ」


 バケツの水をひっくり返されたかのように血で濡れる前髪の間から虚ろな目を、蓮が向けてきた。その瞳にゼクトは一層身体を震わせると、蓮は首を傾げて向かってくる。

 床に叩きつけたグラスのように、散らばる人のパーツを蹴りながら、踏みながら。


 ダラス連邦が雇った傭兵は何人居ただろう?

 少なくとも二十はいたはずだ。

 しかし、その無残にも散ったパーツを見ると、それ以上だった気もする。


 蓮の身体は、血の池から這い上がってきたばかりのような返り血を流していた。


「どうしたの? 行こ?」

「う、うん。今……行く、からっ」


 友達なはず。自分は殺されない。

 それだけは間違いない。

 なら安心だ。


 ゼクトは何度も心で繰り返し、無理やりにでも笑顔を作った。


 笑えていないかも知れない。でも、笑わなければ。いつもの自分だと言う事をしっかり認識してもらわなければ。それは強迫観念にもよく似ている。

 自己催眠を掛けるように、ゼクトは蓮との距離を覚束ない足取りで埋めていく。


 ゼクトがあと数歩で蓮の元に辿り着くという時、薄暗い世界を挟んだ向こうで物音が聞こえた。


 地下墓地の入口で、腰を抜かしていた傭兵の残党が立てた音である。

 その音が聞こえて三拍。蓮が気付かないと思ったのか、物音を立てた傭兵が胸を撫で下ろす。


 しかし、ゼクトは咄嗟に目を伏せた。

 蓮の口の端が狂気に釣り上がっていたからだ。


 傭兵が逃げようと腰を上げた瞬間。

 その身の前後左右、上下から。人間が知るおよそ全ての角度から無数の刃が放たれた矢のように飛び出してきた。


 幾多にも重なる金属の衝突音。


「ぎ――――」


 傭兵は断末魔さえも上げる暇などなく、傭兵は分解されてしまった。

 その身体は、三十以上ものパーツを組み立てる事で復元するだろう。



「もっと……、遊ぶ」


 蓮がぽつりと漏らす。

 そして生気の欠片も見当たりそうにもない瞳をゼクトに向けて首を傾げた。


「ねぇ、ゼクト? ……アナタは、ゼクト?」


 冷淡な声。


 百足に背中一面を這いずり回られるような悪寒が一気に駆け抜けた。首筋にも恐怖という百足が右往左往している。


 不味い、このままじゃ自分もっ。

 ゼクトのその瞳が細かく、激しく揺れて蓮の姿を化け物のように映す。まるで拷問を待つ囚人のような気持ちでゼクトは震える。畏怖が毛細血管のように身体中に根付いているようだ。

 

 真っ赤に塗れる蓮を捉える目、

 嗅ぎ慣れているというのに吐き気を催すほど濃厚な血肉の匂い、

 蓮のか細かった声、

 血生臭い空気の味、

 毛穴全てに針の先を当てられたかのようにチクチク痛む肌。


 五感の全てが目の前の友達から危険を察知し、爆発的にシグナルを送ってくる。


 蓮を殺せと。

 出来なければ逃げろと。


 しかしゼクトがその本能から送られる指示を無視した。その二つの選択から生まれるのは一つの終末であると、本能よりも己の『経験』が答えを出す。

 ゼクトは慌てて蓮の手を握ると、顔を覗き込んだ。この手を離してはいけない。目を逸らしてはいけない、絶対に。


「そうだよっ、蓮ちゃん。ゼクトだよ?」


 まるでワイヤーが張ったような顔の筋肉を精一杯緩ませ、即席の笑顔を作るゼクトは明るい口調で自分が誰なのか教えた。


「そう……かな?」

「うん、そうだよ。早く行こっ。任務終わらせて、樹楊のおにーさんに褒めてもらうんでしょ?」


 樹楊の名前を出すのは賭けに近かった。

 あの優柔不断の所為で蓮の歪みが完成したというのに、ここでその名前を出すのには抵抗があった。しかし、どうにかしなければ自分の末路はあの傭兵達と何ら変わらないものとなっていただろう。苦肉の策だ。


 すると蓮は少しばかり考えた後、花飾りを持つ少女のように『微笑んだ』。その頬笑みにすら、ゼクトは恐怖を感じる。


「うん、きょーくんに褒めてもらう。……頑張ったねって」

「うんうん。それなら早く行こっか」


 頷く蓮を見てゼクトはやっとの事で生きている実感を得る事が出来た。

 そして鼓動が早鐘のように鳴っている事に今更気付く。背中も首周りも汗でびっしょりだ。



 死が怖かったわけじゃない。蓮が怖かった。

 生だの死だの、そんな事はどうでも良くなるくらい蓮という存在が怖かった。

 対峙すれば解る。この場に居れば解る。

 全ての恐怖を凌駕する蓮への恐怖というのを。


 出来ればこのまま帰りたい。だが、これは任務だ。何も情報を得ないままのうのうと帰るわけにはいかない。とことこと歩く蓮の後を追いながら足元を確認する。


 散らばっている『これ』は何なのだろうか。

 少なくとも人の物である事は解るが、自分が相手にした敵がこうなる事は一度たりともない。踏み場もないくらいに散らかる部屋のような墓地を後にしながら、ゼクトは樹楊がどこからともなく現れる奇跡を願っていた。



 ゼクトは地下墓地を抜け出た後、蓮を連れて森の奥深くへと向かった。

 地図通りであれば、そこに温泉が湧き出ていたはずだと。


 敵の領地内?

 そんなの関係ない。

 今の蓮を止められる者は、紅葉くらいだろう。自分が知る限りでは紅葉以上に強い人間はいない。蓮は不服そうだったが「樹楊のおにいさんに会うなら身体を綺麗にね」と優しく言ってやると素直に頷いてくれた。


 また返り血塗れになるかも知れないが、血の匂いを漂わせたまま調査の任務なんてやってられない。出来ればダラスとの火花を散らせたくはないし、スクライドと赤麗もそれを望んではいないはずだ。だからこそ、血塗れの身体を綺麗にする必要がある。


 

 辿り付いた先には、地図通り温泉があった。

 どうやら無人のようで、誰も居ないのが救い。

 温泉は思ったよりも小さく、五人くらい浸かれる広さ。しかし、贅沢は言っていられない。


 ゼクトが服を脱ぐと、続いて蓮も脱ぐ。

 圧縮バックから着替えを用意し、熱いお湯に目を伏せながらもゆっくりと肩まで浸かった。

 下は砂でさらさらしていて、慣れればお湯加減も丁度いいものだ。


「んぅー……」


 どうやら蓮には少し熱いみたいで、小さく唸りながら、それでも身体を綺麗にしようと我慢しているようだった。その姿からは先程からの恐怖などは微塵にも感じず、今まで通りの友達として接する事が出来る。


「気持ちいいねーっ」

「……ん」


 空を仰げば、満天の星空。

 季節が四期だけに風は冷たいが、温泉に浸かっているとそれさえも心地良く思える。

 顔に付いた血を洗い流し、湯に浸かったまま蓮の身体をタオルで拭いてやる。


 小さな背中で、紅潮している肌。

 とても傭兵とは思えないくらいに綺麗な肌だ。

 傷などなく、柔らかない筋肉をしている。だけど物凄く強い。

 それがゼクトには羨ましく思えた。


 蓮は岩の上に腕枕を作り、その中央に顎を乗せて気持ち良さそうに目を瞑っていた。

 こうしていれば普通の女の子なのに。


 今思えば、あの傭兵達が弱くて良かった。

 もし強ければ、蓮は間違いなくその蓮の花が刺繍された布を取っただろう。そしてあの瞳を――。


「ゼクト?」

「え、あっ、何?」


 確実に自分も巻き添えを喰らっていたシナリオを想像していると、不意に蓮が話し掛けてきた。ゼクトは手を止めて背後から蓮の顔を覗く。


「ゼクトは好きな人……いないの?」

「いないよ。どうしたの? 唐突に」


 蓮は少しばかり視線を上げると、柔らかな風にすら消え入りそうな声で呟く。


「好きな人がいるのってたのしい。でも……辛い時もある」


 見ていれば解る。

 確かに樹楊と出会ってからの蓮は驚くほどに穏やかになった。街並みで人とぶつかっても斬ろうとはしなくなったし、表情も柔らかくなった気もする。

 そしてその反動で倍に膨らむ辛さが心を歪ませているのだろう。樹楊と蓮が恋仲になれば問題もないが、どうやら難しい問題のようだ。


「だったら、樹楊のおにいさんには笑顔でいてもらわないとね」


 子供に言い聞かせるように言うと、何故か蓮は口を尖らせる。

「きょーくんが好きって、言ってないもん」


 どうやら隠しているらしい。

 見ていればバレバレなのだが、それでも本人は隠し通せているつもりなのだろう。

 蓮は少し拗ねたようで面白くなさそうに目を細めていた。


「じゃあ誰なの?」


「……魚屋のおじさん」


 無理矢理にもほどがある。

 それでもゼクトは、蓮にも可愛らしい一面がある事が嬉しかった。これなら歪みも直るかもしれない、と淡い期待も同時に抱く。


「――の、飼い犬」

「って、人じゃないじゃん!」

「……愛は種族を超えるの」


 ゼクトは蓮の腕をタオルで拭きながら、

「超え過ぎだよ、蓮ちゃん」


 溜め息混じりで突っ込む。


 本気で嘘を吐いているつもりなのか冗談なのか、蓮からはその気持ちを汲み取れない。

 軽い徒労感が身に染みるゼクトだった。


「……うー」


 蓮はまた少しだけ拗ねてしまったようだ。



 ◆



 闇市のナーザに足元を見られた樹楊は、二日掛けてようやくダラスを目前としていた。

 詳しく言えば今日は三日目であり、白鳳の書架で紅葉が深い眠りから帰ってきた頃である。

 もうすぐ日の出。空は白み始め、最も気温が低い時間帯だ。

 樹楊は地図をダラス地域の物に変え、バイクに跨りながら辺りを見回していた。


 このまま真っ直ぐ東に突っ切ればダラスまでの最短距離なのだがすぐに国境線に当たる。そこには勿論見張りがいるはず。

 となれば、北東に進路を変えて森の下にある地下墓地から行くのが安全だ。


 もっともそこにも見張りがいるかもれないが、国境を通るよりも確率は低いだろう。

 ソリュートゲニア大陸中を回っているスネークの情報でも、地下墓地は意外と警備が薄いとも言っていた事だし。樹楊は地図をしまうと、北東へと進路を変えた。


 そして地下墓地付近にまで来ると、バイクのエンジンを切ってから手押しで森の中にまで行き、見付からないようにと隠す。


 

 地下墓地の入口は、地面を四角く繰り抜いた穴から見える下りの階段。

 吹き上げて来る風が死臭を運んでくる所為で何とも不快だ。


 樹楊はぴったりとフィットするマスクで鼻まで覆うと、意を決して石段を下る。あらかじめ足裏に貼り付けていた硬度強化ゼリーのお陰で足音が鳴らなくなっている。

 このゼリーは勿論闇市から購入した物で、使用するのは五年ぶりくらいだろうか。このゼリーのお陰で幾多の警戒線も突破してこられたのが凄く懐かしく思えた。


 そんな思いではさて置き、下れば下るほど濃度が増す死臭はマスク越しでも吐き気を催すほどに強烈。そして遂に地下墓地に辿り着いた樹楊は、風化しているようにボロボロの入口から覗き見た光景に絶句した。


 見渡す限りの死骸。

 しかし、それは人の形を留めてはいなかった。足元にあった目玉とその少し先にあるくるぶしから下の足を見付ける事が出来たから、何とか人であると解ったのだ。


 見る限り、古くはないようだ。

 これは昨日、遡っても一昨日には出来上がった人の残骸だ。

 ここで何があったのか。

 樹楊は血と肉辺の絨毯を躊躇いがちに歩き、注意深く辺りを見回す。


 どうやら鋭利な刃物でバラバラにされたと見える。しかし、人の原型がなくなるほど切り刻むとは、その神経が信じられない。

 もしかすると、このスプラッターな現場を創り上げたのは人外かも知れない。


 細心の注意を払い、五感を研ぎ澄ませて出口まで歩き、ようやく辿り着くと速まっていた鼓動を落ち着かるように深く息を吐いた。改めて振り返ってみる。

 しかし、その光景は代わり映えする事はない。これでは遺族もやりきれないだろう。


 樹楊は同情心とは別の、憐みをもって目を伏せると、見回りが来る前に素早く外へ出た。

 先ずマスクを外して目一杯深呼吸をすると、それほど澄んでいない空気でさえも美味しく感じた。


 地下墓地の出口の前は、もうダラスの首都が見える。国境も越えた今、服装さえ変えてしまえば捕まる可能性は激減するだろう。そうともなれば、森の奥で着替えようと樹楊は森の深くまで駆けて行く。近くに温泉があったハズだ。準備を整えるには最適かもしれない。

 こんな明け方から温泉に行く奴なんていないだろう。


 と、その最中。

 真新しい足跡を発見した。この足跡の主も急いでいたのか、爪先の部分が必要以上に地に跡を残している。靴底のタイプは二つ。

 どちらも小さい。女か子供だろう。

 

 多少警戒心を持った樹楊は猿のように木に登ると、木々が密集している場所を選びながら枝伝いに跳んで行く。


 流石、軽業師とも定評がある樹楊。

 その足運びは軽快なものだ。枝を足場とする度に多少揺らぐが、風に吹かれているそれと大きな違いはない。これでは普通の兵では気付く事が出来ないだろう。


 自分を褒めてやりたいとも思っていると、あっという間に温泉まで辿り着く事が出来た。

 外気との温度差で湯煙が盛大に辺りを覆い尽くし、視界は悪い。そんな中、樹楊はある物を見つけた。


「あれは……服か?」


 小さな温泉から少し離れた岩の陰に、衣類らしきものが捨てられていた。樹楊はその岩場の元まで行くと衣類らしきものを手に取った。


 てっきりそんな色かと思ったのだが、大きな間違いだった。

 赤っぽくてどす黒いそれは、血。

 裾に僅かだが白い部分があるところを見れば、この衣服は白かった事が解った。そして服には裂かれた跡も擦った跡もない。ともなれば、これは全て返り血となる。


 小さな革製のジャケット、近くには黒いスカートもある。そしてブーツも。

 これは全て血染めだ。


 必然的に、地下墓地での惨殺死体の山が脳裏によぎった。あれはこの衣服の主がやったのだろう、十中八九そうなのだろう。


 女性のモノ。

 足跡の主はこの服を着ていた可能性が高い。

 するとこの近辺に居るかもしれない。

 この衣類の主はどんな気持ちで、どのような眼であれほど残虐なストーリーを描いたのか。

 そう考えるだけで身震いがする。


 樹楊は再度木の上に登ると、そこで着替えを済ませる事にした。厄介事には巻き込まれたくないぞ、とやはりナーザに対して関わりたくないと思ったのは間違いでははさそうだ。

 圧縮バックの中から旅人らしいローブとズボン、そして二本の短剣を背面、腰の位置に携えてターバンを巻く。


 色が暗色を基調としているのは樹楊の好みなのだろうが、少しばかり怪しげに見える。

 しかし、樹楊にはとっておきのアイテムがある。それは行商人だけが持てる、ダラス連邦発行の通行証明書だ。出所を問わずとも、樹楊の軌跡を考えれば安直に解るだろう。


 これがあれば、警備の兵に疑惑の目を向けられても堂々と歩ける。いくら格好が旅人でも、証明書が樹楊を行商人にするのだ。服装も、そのまま「好みだから」とでも言えば通用するだろう。樹楊は、旅をしといて良かったと数年前を振り返りながらダラスの首都へと足を踏み入れる。



 初めてダラスを見た感想としては「普通」だった。特に目立った特徴もなく、スクライドの街並みと同じようなものだ。ここでも朝市が開かれているらしく、大通りでは様々な店舗が的屋のように並んでいた。活気も悪くはない。しかし、ここまで普通だと楽しみもなく、旅好きの樹楊としては肩を落とす事以外やる事がない。


 考えてみれば、特徴がないのは仕方がない事というのは理解してやれる。ダラス連邦は複数の国が集結して築き上げられた国家。多くの文化を取り入れた結果が、普通なだけであったのだろう。


 何色もの色を混ぜ合わせれば、黒っぽくなるそれと同じようなもの。期待を抱く方が馬鹿だった。だが、多種多様な文化を交えたお陰で、特殊三系統魔法が生み出された国である。


 五系統である、火・水・地・風・雷。

 聞こえは単純だが、魔法を操るには才能と努力が不可欠で、この大陸に魔術師という存在は数えるほどしかいない。


 スクライドには魔術師という存在は皆無であり、ミゼリアがそよ風を起こす程度の魔法を使えるくらいだ。一番有望視されているのは、退化したとは言え獣人目ララアの血を濃く継ぐツキではあるが、それも明確ではない。


 その五系統魔法でさえも使いこなせる者が少ないと言うのに、ここダラスには時・重・鉄といった特殊な魔法が存在している。それを特殊三系統と呼び、クルード王国でさえも解明出来ていない『異常』な魔法だ。


 あの強国クルードはこの国を落とさないのではなく、落せないのだ。強くはないが厄介なのだろう。そんな一面を持つ国なのだが、今の樹楊は偽物の行商人であるからして、国の勢力はどうだっていい事だった。


 ダラスには行商人も多いようで、樹楊が暗色を決めていても浮いた存在にはならないらしい。少しばかり目を向けられるが、すぐに興味を失われて目を逸らされる。きっと晩御飯の時でさえも話題には出さないのだろう。それくらい、普通のオーラを出していた。


 樹楊は大通りを抜け、噴水がある公園に辿り着いた。待ち合わせと散歩を兼用しているらしく、人の行き来が盛んだ。その中を鬱陶しく感じながらも抜け、街案内の地図とナーザから渡された紙切れを照らし合わせる。


 紙切れに記された番地を指先で追いながら探していると、そこがアシカリという地名で分類されている事が解った。


「アシカリねぇ……。草みてーな名前だな」


 ぼそっと言っただけだった。

 それなのに、その一言を聞いていた中年の男性はぎょっとしたような顔付で見てくる。

 樹楊が首を傾げると、その中年の男性は誤魔化すようにだが、明らかに逃げた。


 何かあるな。とは樹楊がビシビシ感じた事。すんなりいかない事をある程度は予想していた。


 全く、運がいい。

 その運はいわゆる不運と呼ぶモノではあるが、幸運と不運、どちらも同じ運だ。


 だからこう思う。

 全く、運がいい。と。


 樹楊は紙切れに地図を手早く写すと、手っ取り早く済まそうと向かった。



 ◆



 樹楊がアシカリを目指し始めた頃、年頃の少女の服装をしていたゼクトと蓮は大通りの露店にいた。ゼクトは蓮の興味が食に傾ききっている事に安堵をし、独自の調査をしていた。

 先程、暗色の行商人が後ろを通った事など気付いてはいない。


 蓮が蜂蜜を染み込ませたクッキーをコリコリかじっている傍で、ゼクトは街並みをそれとなく自然を装って見回している。荒れていると聞いていたのに、ここは平和そのもの。まぁ、要塞みたいなダラスの城に潜入しなければ深い情報は得られないのだが、そこまでの許可は貰っていなかった。


 しかし、ここは行商人が多い。

 これは聞いていた通りだ。その大半が他国のものである事は容易に解るが。


 ダラスは鉄が豊富に取れるが、言い換えれば鉄しか取れない。特産品もないし、山岳地帯に面している為に水産品は仕入れのみ。

 かといって、その山では品質の良い山の幸が取れるわけでもない。そして頼みの綱である鉄に至っては品質粗悪で大した利益を生み出してはくれない。


 結果、ダラス出身ダラス国籍の者は貧困に悩み、他国出身で何かしらの事業(主に行商)で成功した者がこの大通りに近い場所に家を構える事が出来ているのだ。


 肝心のダラス出身の者は、と言うと。

「アシカリ……か」


 ゼクトは独りごちた。

 これは不確かな情報だが、アシカリの治安は悪く、ある種の無法地帯だとか。

 そんな所に行くのは気が進まないが、この国の状況を確かめるには最適の場所だ。

 蓮も今は落ち着いているようだし。


 ゼクトは樹楊が来ない事を願った。

 一時は樹楊が来る事を切に願ったが、今の蓮を見るとあの存在は危険以外のなんでもない。


 お願いだから来るな。

 ゼクトは再度強く願いながら、棒付きの飴を咥えて帽子を深く被った。

 レモン色の髪をなびかせ、蓮に行き先を促す。調査という名目上、武器は太腿に括り付けたスローイングナイフ五本しかない。


 面倒な事にならなければいいけど。


 指先に付いた蜂蜜を舌先で舐める蓮の手を取ったゼクトはアシカリへと向かう。

 調査くらいで手古摺っては、部隊を持つという夢すら叶わないと自らを叱咤し、人混みを縫うように駆けていった。



 

 そして辿り着いた場所、アシカリ。

 ここは大通りがあった街並みに比べ、廃れたものだった。店舗など無くゴーストタウン一歩手前で、家を持たぬ人々がちらほら目に付く。木の板を敷布団代わりにしていたり焚火で寒さを凌いでいたりと、貧困の底辺が惜しみなく見渡す事が出来る。

 着ている服もボロボロで、随分と通気性が良さそうだ。


 こんな汚れた場所に小奇麗な少女が居るともなれば、当然目立つ。強奪や強姦を目揉んでいる目で捕まえられるのは当たり前であった。ゼクトはその視線に威圧的な眼光を向けるが、怯む様子もない。そればかりか、活きのいい女だとばかりに舌舐めずりする者もいた。


 訓練もまともに受けていない男共に負ける気はしないものの、居心地は最悪。もう引き返そうかと後ろを見たが、帰路は既に塞がれていた。だが囲まれているわけじゃない。こちらの様子を伺っているようだ。


 さしずめ、獲物を狙う猛獣気取りなのだろう。

 過小評価されたものだ。


 蓮はそんな雰囲気とは無縁で、さっきからゼクトのポケットを漁り、飴を探していた。

 何度か取り出したが、目的の味が見付からないのだろう。徐々に探し方が荒くなり始めている。


「蓮ちゃん、何を探してるの?」

「んー、サラダ味」


 え? と呆気に取られたが蓮の顔は真剣そのものでポケットを破りそうな勢いで探している。


「ごめん。私、そこまでベジタブルじゃないから持ってないよ」

「そう? ゼクトは肉派?」

「い、いや。飴に甘味以外を求めた事はないから」


 蓮は残念そうに俯くと、手に取った葡萄味の飴を仕方なく舐め始めた。そしてやっとの事で周囲を見回す。集まる視線を不快に思ったのか、少しだけ目を尖らせた。


 何らかのアクションを起こそうというのは、長年の付き合いだから解る。大方地下墓地の時と同じで、得意の魔法を駆使して幾千もの剣を無差別に引き出そうとしているのだろう。


 だが、今ここでそんな事をやられるのは困るゼクト。蓮の手をきゅっと握って首を振った。

 すると、蓮は少しばかり考えた後に頷いてくれた。どうやら火照りは収まったらしく、人の言葉を受け入れてくれる余裕があるらしい。


 蓮を押さえたものの、ゼクトとて舐めまわすような視線は逆鱗に触れられるくらい不快だった。今すぐにでも斬り伏せたい。しかしそうもいかない状況だ。このジレンマに苦しむゼクトは思う。


 最近は面倒な事が多いな、と。





 一方、同じアシカリに来ている樹楊。


「どこだここは」


 本気で迷っていた。

 方向感覚には自信があったし、東西南北が解らないわけじゃない。しかし、確認してきた地図はあまりにも大雑把すぎて役に立たなかったのだ。


 今現在歩いている所も路地裏かと思うほど狭くて暗い。人気などなく、独り、ゴーストタウンに残された気分にもなる。


 樹楊はペンで書き映した地図をしまうと、勘だけを頼りに歩を進める。ナーザから渡されたメモには番地も記されているが、肝心の現地には番地が記されているものなど皆無。

 余計な情報は混乱を招くだけだった。


 出口のない迷路を彷徨うように進んでいると、少しだけ広くなった通路に出る事が出来、見通しも良くなる。それと同時に、自分が何者かに囲まれている事が解ってしまった。しかし今気付いた素振りを見せれば面倒な事にもなり兼ねない。逃げるならアシカリのメインの通りに出た時だ。


 乱雑に重なる足音は一つ二つと増えていく。

 それでも樹楊は迷ったふりを続けて歩き続けた。そして十字路に差し掛かった時、囲んでいる奴等の動きが変化した。


 自分と同じだった歩調が速くなっている。それは後方から。そして左右からも人の足音が聞こえてくる。微かに聞こえるのは、金属がぶつかり合う音。


 どうやら荒っぽい事が好きならしい。

 樹楊はふっと鼻で笑うと、十字路の真ん中で足を止める。そして腰に携えてある短剣を一本手に取った。


 それが制止の合図となったのか、迫り来る足音がピタリと止まる。

 今は旅人の服装をしていて行商人のふりをしているが、真の姿は兵士だ。その戦闘力は民間人よりも上回る。


 ところがどっこい樹楊は腕に自信がない。

 しかも相手は多数だ。三対一でもやり合いたくないのに、十を超えたら逃げろと言っているようなもの。


 と言うわけで、樹楊は振り返りもせず、脱兎の如く走り出す。意表を突かれたアシカリの者達は呆気に取られながら互いを見合うと、ようやく事態を理解し慌てて樹楊を追い始めた。


 樹楊が剣を抜いたのはただのフェイントだったのだ。相手してやる、と虚像を見せつけて戸惑わせるのが狙い。相手になんかするもんか、と本気のダッシュを披露した樹楊。顔は物凄く真面目だった。こんなにも真面目な顔をミゼリアは訓練時に見た事はないだろう。


「捕まえろォ! 逃がすな!」

 アシカリの強盗軍団は互いを鼓舞し合い、鬼の形相で追い掛けてくる。


「バーロォ、捕まるかっ。この強盗野郎ども!」

 しっかり中指を立ててやると、何人かの顔が真っ赤に変色した。


 解るよ、その気持ち。片思いの相手が逃げるなら追い駆けたくなるのが男だよな? と、何度か頷くとチラリと後方を確認する。


「げっ! 増えてんじゃねーか!」


 追われるのが慣れているとは言え、ここはアウェイ。数じゃ話にもならないくらいに負けていると言うのに土地勘もない。そして逃げる方向を間違えようものなら、間違いなく退路を塞がれてしまう、と、樹楊は向かう先を左か右か悩んでいた。


 後方は追っ手で埋め尽くされている。

 前方は壁。残されたのは左か右か。


 どちらの方向にもゲームオーバーが待ち構えているかも知れないし、どちらもゲーム続行となる道かも知れない。


 あっはー、と決めあぐねていると右の通路の壁、下部に大人一人が通れるくらいの穴が開いた。


「こっちだよ、早くっ」


 幼い声と同時に、その四角い穴から招いてくる手が伸びてきた。樹楊はスライディングをするようにその穴に滑り込む。


「どわっ」


 ここが人に知られざる逃げ道だとはすぐに予想出来たのだが、まさか段差になっているとは思わず、樹楊は気取ったスライディングのポーズのまま床に墜落した。

 背中と頭をしたたかに打ち、しかし声を出す事も出来ずに転げ回っていると、頭上からは強盗どもの荒っぽい足音が響き、やがて通り過ぎていく。


「ごほっ……助かっ、助かっ、たすっげほっ」

 

 想像以上のダメージに樹楊は咽たが、呼吸を落ち着かせて身体を起こす。そして気を取り直して、もう一度。


「助かったほっ!」

「だ、大丈夫?」


 どうやらまだ咳き込むらしい。決め台詞も台無しのようだ。元々、決めるような台詞でもないが。


「ホラ、水だよ」


 樹楊は手渡されたコップを受け取ると勢い良く喉に流し込んだ。しかし、それが第二のトラップだったとは誰が想像出来ただろう。


「ぶっはぁ! 不味っ、つーか鉄臭ぇ!」

「あ、ごめっ……なさい」


 心底申し訳無さそうな声に、ようやく目を向けるとまだ幼い少女が居た。ツキと同じくらいだろうか。樹楊が水を噴き出した所為であたふたしているようだ。

 豆電球だけの光ではハッキリと見えないが、身体も酷くやつれていて身体中に汚れが付着している。


 ボロボロのワンピースを着ていて、腰まで伸ばされた髪もボサボサだ。

 捨てられた人形――それが第一印象だった。

 おずおずと正座をする樹楊は口の中の不快さを感じながらも口を拭い、少女に頭を下げる。


「いや、ありがとうな。お陰で助かった」

「いえ、私は……何も」


 人見知りが激しいのか、少女は控えめに頭を下げると距離を取った。そしてチラチラと樹楊を見る。


「あの、その、怪我は……ないですか?」

「あぁ、大丈夫だ」


 そう言い切ってしまったからには、後頭部でジンジンと痛みを広げるコブを撫でるわけにもいかなくなった。


 強気に胸を張ってみるも、所詮は情けなくも逃げてきた貧弱な男。少女の眼には、自分が『叩き潰されそうになったが、頑張って逃げてきたゴキブリ』と映っているようにも見える。

 これは樹楊の思い過ごしでしかないが。


 しかし樹楊はゼクトと紅葉に駄犬と呼ばれた男だ。決してゴキブリではない、解ったか小娘。と、無言で根も葉もない疑いを吹っ掛けてみた。


 明らかに怯えている少女を見やり、そう言えばここは何だ? と、入ってきたところを見る。そこには、こちら側に開ける小窓のような扉が樹楊の身長くらいの高さにあった。

 その下に立て掛けてある梯子から、この少女が日頃から使用していた事が解る。


 室内は使用価値の無くなった物置のように埃臭く、しかし殺風景なものだった。

 大人が三人雑魚寝を出来るくらいの狭いスペースに、釘が飛び出た木箱と綿を寄せ集めて縛った敷物があるくらい。これじゃあ、まるで――。


「私の、その……家、なんです」


 少女は樹楊の心を読んだかのように告げてくる。振り返れば、少女は部屋の片隅で膝を抱えていた。虐待を続ける親を見るように、目が合うと弾かれるように視線を反らす。


 何もそこまで怖がらなくても、と軽くショックを受ける樹楊。自分の人相が悪いとは思っていないが、それは単なる素敵な勘違いなのだろうか。


「助けてもらったんだ。いじめたりしないっつーの。色々と聞きたい事があるからここまで来いよ」


 少女は物分かりがいいらしい。

 コクリと頷くと、躊躇いがちだが樹楊の傍まで来る。そして物珍しそうな目を樹楊に向けた。


「俺は樹楊。スクライドから来たんだ」

「わ、私はシィです。スクライドって、やっぱりここの人じゃないんですよね?」


「あぁ。ちょっと頼まれ事をされたからここまで来たんだ。つーかよ、思ってた以上に荒いところだな、ここは」


 頭を掻くふりして痛むコブを撫で、扉を見上げる。するとシィは申し訳無さそうな顔で、やっぱりビクビクしながら話す。


「アシカリの住人にとって、迷い込んだ他国の人達は獲物のようなものですから。アシカリの名前の由来もそこから来てるんです、よ?」

「地名の由来って事だよな?」


 シィは頷き、

「アシカリって『足を狩る』って事らしいんです。迷い人が逃げて帰れない事から、ダラスの人達が付けた名前らしいです、です」


 です、を二度続けた事は流すとして、アシカリというのは変な地名だとは思ってはいた。しかしそれは異文化が混ざり合ったからだと思っていた。しかしそれは思い違いらしく、実際は自分にとっては好ましくない由来。


「つー事は、シィちゃんも俺の足を狩るの?」

「いえっ! それは、ないですっ。本当に」


 両手を前に突き出して、首と一緒に振るシィ。

 その必死さに思わず失笑してしまう。するとシィの顔に朱が散り、恥ずかしそうに俯いた。


 懐かしい想いが心に刺さってくる。

 この子は自分と同じ、親が居ない子供なのだろう。ロストチルドレンと呼ばれる、どの生物よりも死が間近に存在する人種。死神の鎌が常に喉に触れている脆弱な存在だ。


 思えば、この錆の味がする水も懐かしい。

 子供の頃によく飲んでいた。当時はこんな水すらも貴重で大事に飲んでいたんだ。それが今の自分ときたら。


 きっとシィにとっても貴重なのだろう。

 それを不味いだなんて吐き出して……。


 スクライド王国に兵として仕える内に、自分がどれくらいつまらない人間になったのかを思い知らされた。樹楊はポケットから携帯食料としている、断熱紙で包装された一口サイズのチョコレートを出した。それを不思議そうに見ているシィに渡す。

 

「これは……なんでしょう? 見たところ防腐剤、でしょうか? 私って、腐りかけっぽいですか?」


 冗談のような言葉だがシィの顔は真面目だ。チョコレートの上下左右をじっくり見回している。


「いやいや、腐りかけってどんな人間だよ。それはな、チョコレートっつって笑顔になる魔法の食い物だ。食べてみろ」


「チョコレートってあの高価な食べ物じゃ! そ、そんな私のような者がっ」


 そう言うも、甘い香りに誘惑されているシィに、ニコとミネニャを足して二で割ったような不思議な面影が重なる。目が爛々と輝いている。


「た、食べていいでしょうか?」

「勿論。俺はあまり好きじゃないからな」


 頭を撫でてやるとシィは包装紙を不器用に開き、チョコレートと初対面する。そして生唾を呑み込むと勇気を振り絞るように口に放り、中で転がし始めた。

 

「……うむ!」


 まるで嫌味が得意な上司のような言葉を漏らすシィの顔には驚愕が浮き出てくる。目を見開き、樹楊を見ると口を綻ばせた。


 やっぱりニコに似ている。

 シィも純粋なのだろう。それが樹楊にとっては嬉しいような、悲しいような複雑な思いを与えたのだった。


「美味しいです! 溶けちゃいましたっ。私、こんな食べ物、初めてですっ」


 樹楊は指先でシィの頬を突っつき、

「笑顔……なれたろ?」

「はいっ」


 シィは天使の落とし子みたいだ。

 このような汚れきった世界に住まうべきじゃない存在。樹楊にはそう思える。


 俄然明るくなったシィにこのアシカリの詳細を聞いた。シィはダラスに詳しく、色々な事を教えてくれる。ここの地理は全て把握しており、そればかりかアシカリの外の事にも詳しい。最近雇われた傭兵の軍団名や人数さえも把握している。


 そしてアシカリの住人の大多数がダラスの純国民である事。ここにはロストチルドレンが多く存在し、それぞれで徒党を組んでいて、その子供達は人を死に至らしめる事を何とも思わない事などを細かく教えてくれた。


 何より驚いたのはシィが十五歳だという事だった。見た目が幼く見えたのは、栄養不足が成長を妨げたからなのだろう。シィはどのロストチルドレンの徒党にも属してはおらず、独りで生き延びているらしい。曰く、どんくさいから仲間に入れてもらえなかった、らしいのだが。


 それについては納得出来る。

 しかし仲間に入れてもらえないのはどんくささとは別に、恐らく、シィは他人に対して非情になれないからなのだろう。今の自分に接してくれているように。


 幼い頃の樹楊達はどんなにどんくさい奴でも、甘ったれな奴でも仲間だと思っていたし、実際一緒に生き延びてきた。しかしダラスではそうじゃないらしい。生き伸びるのに邪魔な存在は切り捨てられている。


 地域が違えば考える事も違うのか、と樹楊は残念に思う。同じロストチルドレンとして。

 話を聞き終えた樹楊はそのような事を考えている内に、無言になってしまった。すると、シィがまたおずおずと口を開く。


「あの、不躾だとは思うんですが……」


 樹楊が目で問うと、

「チョコレート、いっぱい頂けませんか?」


 本当に不躾だった。

 思わず笑ってしまうが、シィの気持ちが解らないわけではない。シィにとってチョコレートは大好きなおやつというものじゃなく、生きる為に必要な食糧なのだ。

 生きる事を諦めない、立派な懇願だ。

 しかし樹楊は首を振る。もうあげられない、と添えて。


「そう、ですよね。ごめんなさい」


 がっくりと肩を落とすシィ。

 その頭に手を乗せて視線を上げさせる。


「任務が終わったら、お前も俺の国に来るか?」

「……え? くに、あ、え?」


 唐突な申し出に、シィの頭の上に疑問符が躍り始める。樹楊が何を言っているのか解らないらしく、それでも理解しようと必死だ。しかし、どうしても解らない様子を見せるシィに樹楊は質問を変える。


「お前はダラスに詳しい。その様子じゃ、ダラスの国政の何かを掴んでいる。違うか?」

 戸惑うが、諦めたように首肯するシィ。


「俺達スクライドはダラスの不審な動きを察知している。だけどそれが何なのかは掴めていない。そればかりか、ダラスの戦力や思惑もだ。何に弱くて何に強いのか、依然として不明だ。だから上の連中もその情報を欲しがっている」


 そこまで言えば、シィにも解ったようだ。


「ダラスを売るなら、スクライドに移住させるって事ですか?」

「言葉は悪いが、そういう事だ。だけど、ここに未練があるのか、シィちゃんは」


 シィは俯くと、首を振る。

 

「俺には権限がないけど、口添えは出来る。国政の権限を握る奴が話の解る奴だから、機密情報を握るシィちゃんを受け入れるハズだ」


 現にスクライドは武力が乏しい。それ故、何よりも情報を欲しがっているのは事実だ。それは赤麗を雇ったからこそ、次に欲しているのは情報、という事だ。


 武力という剣を納めるのは、情報というホルダーだ。あとは引き抜く為の愛国心があれば、クルードに勝てるかも知れない。しかしスクライドは土地柄か、愛国心が薄い。それは寄せ集めが多い所為もあるのだろう。赤麗だって金で囲った部隊であり、サルギナも傭兵上り。自分に至っては愛国心ゼロの半端者。


 それを思えば、勝てる気がしなくなってきた。

 しかし今はそんな事よりも、目先の事の方が大事だ。


 解りやすいクルードよりもダラスの動きを把握する必要がある。真正面ばかり見ていたら横から飛んでくる矢には気付けない。その為にはシィが必要と言えなくもない。こんな荒れた国に調査員を派遣したとて、粗末な情報しか得られないだろう。


 最もそんな任務を命ずる馬鹿はいない。と、樹楊は白鳳に派遣されている真っ赤な髪の鬼娘を知らず知らずの内だが馬鹿にした。


 シィはしばらくの間考え込んだ後、真っ直ぐな瞳を向けてくる。


「……行きます。私だって死にたくない。可愛い服だって着たい。チョコレートも食べたいです」


 その言葉を、屍のようには生きたくない。そう解釈する。樹楊は腰を上げると大きく伸びをし、首の骨を鳴らす。


「そうと決まったら、さっさと任務を進めますか。面倒だけど」

「あの、任務任務って、樹楊さんは一体……」


 答えずに錆味の水を飲み干すと、シィは驚いた表情を見せた。当然の反応だ。しかし樹楊は飲み干した後、懐かしむように目を細める。


 この味は初心を思い出させてくれた。

 生きる事に必死だった幼い頃を。色鮮やかに通り過ぎる今をないがしろにしがちな自分を叱咤してくれた。本当はニコ達をスクライドに招き入れたい。だけど、何も持っていないニコ達がスクライド国民になれるはずもない事は痛いほど解っている。


 だから今は目の前の、同じ運命を准えるように歩いてきたシィを救いたい。それが偽善でも構わない。一人を救えば、そこから数は増していくのだろう。

 それをないがしろに出来る非情さはないが、救えるだけの力もない。だからと言って、救える事が出来ない人にまで目を背ける事が自分に許されているわけじゃない。


 自分は多くの、故郷にいるみんなの救いを得てここに居る。だから今出来る事はするつもりだ。樹楊にとってそれは、任務よりも大事な事。法を踏みにじってきた自分だからこそ、救いたい護りたい人達。その為なら国だって裏切る。大丈夫、自分は間違えてなんかいない。



 それがロストチルドレンだ。



 まぁ、アシカリに住まう、仲間を切り捨てる奴等を救いたいと思うほど酔狂でもないが。


「あの、樹楊さん?」

「ん? あぁ、俺が何者かだよな?」


 シィは「そうじゃないです、水……」と言うが、樹楊はその頭を撫でると、ニッ笑う。


「俺はスクライド王国の兵士だ」

「え! だ、ダメですよ、兵士さんがこんな所に来たら殺されます! アシカリから出たら間違いなく――むにっ」


 樹楊は、やかましいその小さな口にチョコレートを二個ほど押し込んだ。すると、シィは言葉と引き換えに笑顔を見せてくる。全く、解り易いやつだ。


「水、だけどな。俺にとっては懐かしい味だ」

「な、何でですか?」

「俺もお前と同じ、ロストチルドレンなんだよ」


 樹楊の顔は綻んでいたが、その眼には生き延びる事に必死だった頃と同じ光が宿っている。

 全ての甘さを押し潰す、貪欲な光。しかし、優しさに満ち足りる光でもあった。


 この眼を見た者は今までニコのみだったが、今ここに二人目が存在する事となった。


 シィに自分がどんな風に映ったのかは解らないし、どうだっていい。自分がすべき事は、何も変わらないのだから。



 ◇



 シィの先導を受けて比較的安全なルートを進む樹楊。その道々には確かに気配はないが、油断は出来ない。比較的安全なだけで、危険がゼロになったわけではない。そして眼の前をちょこちょこ歩くシィが裏の顔、つまり本性を見せていない可能性もあり得る。


 ここまできて疑うのはどうかとも思ったが、以前の旅で思い知らされたのが『一番怖いのは見知らぬ人の事を信用する事』だったからだ。それでも、このシィには裏がないように思えてしまうのはニコの面影が重なるからなのだろう。騙されたとしても、悪い気分にはなれそうにもない。


 身体を横にしなと通れないスペースの道やら、四つん這いで通る道をシィは迷う事無く突き進む。そして今は使われなくなったと言う、地下水路を通る。常備している携帯ライトを片手に、肩を並べて歩いた。


「ここを抜ければ目的のお店に着くはずです」


 その言葉には微塵の迷いも見当たらなかった。

 地下水路はライトもなく、腐敗臭だけが漂って不快指数は増すばかり。恐らく、到るところには腐った死体があるのだろう。


「シィちゃんは――」

「シィでいいですよ? 呼び捨てで構いません」


 前方を照らすライトの欠片がシィの微笑みを薄く照らす。その顔は儚さだけを見せた。

 樹楊は目を細めて頷く。


「シィは何でこんなに詳しいんだ?」


 シィはくりくりした目を向けてくるとくすくす笑い出す。

「生きる為ですよ、何を言ってるんですか」


 何とも切ない答えだ。

 仲間が一人としていないシィにとって、全ての道を覚える事は生きる事に直結しているだなんて。それにアシカリは狭くはない。細道がごちゃごちゃと入り組み、方向感覚には自信があった樹楊でさえも迷ってしまうほどだ。


 この道を把握する為に、シィはその靴底をどれほど鳴らしたのだろうか。所々破けていて、みすぼらしい靴。だけどそこに集約されているのは貧しさではなく、生き伸びる勇気だ。


 樹楊はシィの頭を撫でると、スクライドに着いたら靴を買ってやろうと心に決める。

 万が一、スクライドに移住させられないとしてもニコの元に預けよう。貧しい事には変わりはないが、今よりは命の危険性はなくなる。そして何よりも、家族がそこにはある。


 大小、二つの足音が重なり合うが、その小さな音がピタリと止まると大きな方も続くように鳴り止む。


「ここの梯子を登れば店の前に出ます。私が先に行くので」

「いや、俺が先に行く」

「え、いいですよ。私が周りを確かめに行きますよ」


 シィは目を逸らす樹楊の顔を下から覗き込む。それを避ける樹楊だが、シィの目線はしつこく追ってきている。樹楊は咳払いをすると、罰が悪そうな面持ちとなって頬を赤く染めた。


「その、何だ……、シィ、は。何つーか、下着履いてねー……だろ?」


 ごにょごにょと語尾が小さくなるが、音が反響する地下水路ではしっかり聞き取れる大きさではあった。シィは目を丸くすると、ワンピースの裾を押さえる。今更だが、雪が降る四期にその恰好は寒くないのだろうか。


「な、何で知ってるんですかっ」

「何でって、四つん這いの時に……あ、でもずっと見続けてたわけじゃねーぞ!? ちらっと見えたからちゃんと目を逸らしたしよっ」


 どう弁解するも、シィの耳には届かないようで恥ずかしそうに震えている。

「樹楊さんは馬鹿たれです……」


 一言だけ呟くと背中を押して、先に行けと無言で告げるシィ。樹楊は言うべきじゃなかったと、ぽりぽり頭を掻くと梯子に足を掛けた。


「だぁ!」


 しかし梯子は老朽化していて、掴んだそれは腐り落ちてしまう。樹楊は全体重を前方に掛けていた事もあり、当たり前の結果として壁に顔を打ち付けてしまった。


「ざまーみろ、です」


 シィがぷぷっと笑い、鼻血を出す樹楊を見下ろしていた。してやったり、の顔に少しばかり腹が立つ。全く、女ってのは厄介な生き物だ。


 樹楊は、つんっとする鼻を押さえて切に思う。

 しかしシィの他の一面を見る事が出来て嬉しくもあった。



 老朽化していた箇所は下の部分だけで他は何ともなかった。シィは先に登ると言ってたしな、と、しかしビクビクしながら登り、天井となっている石板を少しだけ持ち上げると隙間から周囲を見回す。


 気配も音もない。聞こえるのは風が通り過ぎる音のみ。

 樹楊は石板を大きくずらすと軽快に地上に出た。シィに手を貸して、改めて周囲を見回す。

 ここもアシカリらしい、路地裏のような一本道。その奥に、レンガで構成されている小さな建物が見えた。


 シィはその建物を指差し「あそこです」


 ナーザが言っていた店か。

 脇には小道があり、店の傍まで行くと、その小道の奥に小さな小屋を見付けた。


 都合がよく、レンガの店には窓がない。店内からはこちらが見えないが、裏を返せばこちらも中の状況を確認出来ないという事だ。


「考えても仕方ないし、さっさと行くか」

「行くって……何か買うんですか?」


 樹楊は堂に入る態度で首を振り、

「いや、盗むだけ」


「そうですかー、って、いいんですかっ?」

「ま、任務だし」


 どう考えても人様のものを盗む事は悪い事だ。例えそれが任務であろうと、許される事ではない。しかしナーザは『盗んでこい』と言った。

 それは、目的の品である『狂婦人の髪飾り』が非売品である事を意味している。

  樹楊はそう解釈している。

 

 呆然とするシィを放っておき、目的の品がある小屋に向かおうとしていると近くから悲鳴が聞こえた。樹楊は咄嗟にシィを抱きかかえて物陰に身を潜める。そして眼を閉じると、全神経を耳に集約させた。


 悲鳴の数は一つじゃない。

 そして全て男のもの。


 樹楊はシィに「ここで待ってろ」とは言わず、

「俺の代わりに盗んでこい」とだけ告げて『狂婦人の髪飾り』の写真を手渡す。


 シィは「そ、そんなっ」と捨てられた子猿のような顔をしたが、樹楊はさっさと悲鳴が発せられている現場に向かう。


 何が起こっているのかは解らない。

 だからこそ確かめる必要がある。事によってはこの場を離れなければならない。


 しかしここまで来ておいて目的の品を持たずに引き返す気にもなれなかった樹楊は、シィにその一任を託したのだ。きっとシィなら盗んでこられるだろう。シィにとっては酷な仕事かも知れないが、後手に回るのだけは避けたい。


 樹楊は悲痛な声だけを頼りに音もなく駆けていく。瓦礫に躓かぬよう、足元にも注意をしながら。


 そこは遠くない場所だった。

 息を切らすほどの距離ではなく、建物を挟んで隣の通路で惨劇は起きていたのだ。


 樹楊の眼が先に捉えたのは、袈裟切りに両断された男の上部。服や身体を見ればアシカリの住人である事が容易に解る。眼はぴくぴく動いているが、既に死んでいるだろう。ただ、恐怖の名残が目の動きになっているだけだ。


 前方を見ると、鮮血の幕。


「んなっ、何が起こってんだよっ」


 そう呟き、一歩足を踏み出そうとした瞬間。

足元で違和感を捉えた。樹楊は弾かれるように横跳びをすると、突然地表から大剣の刀身が突き出てくる。しかしそれは地表からではなく、樹楊の足元だった時空から突き出てきていた。


 樹楊は半身を壁に打ちつけながら、それが何なのかすぐに理解出来た。

 これは蓮が得意とする技で、以前にも一度見た事がある。この魔法を使えるのは他に知らない。


 そう思いながら前方に視線を投げると、鮮血の幕が下りると共に現れた蓮の横顔が見える。

 その名前を声にしようとしたが、それよりも早く頭上から鉈が振り子のように迫ってきていた。どうやら蓮はこちらに気付いていない。

 

 きっと自分も、斬り伏せているアシカリの仲間だと思われているのだろう。


 鉈の斬撃を屈んで避け、次に迫ってきている背後の刺突を腰の剣で受ける。そして前方からの刺突には身体を捻り、ギリギリで避けた。

 だが、続けて前方からの袈裟切りに樹楊は死を彷彿させられる。刀身は長剣だ。バランスを崩した身体では避けられる長さじゃない。腰から剣を抜いている暇も……ない。


 蓮が気付いてくれる事を願いながら目を強く閉じる。

 

 時空から突き出てきた長剣がその終着点を樹楊の身体を通過点とし、固い地表として空気を切り裂きながら向かう。成す術もなく目を伏せるだけの樹楊の前に、美しい長髪がレモン色を流して立ち塞がった。


 ガギ、と鈍い金属音。


 尻餅を着いた樹楊がその不快な音に片眼をそっと開けると、そこにはナイフを交差させて剣を受け止めるゼクトの姿があった。


「ゼクト、何でここに」


 樹楊が問う。

 しかしゼクトはその問いには答えずに、真っ直ぐ蓮を、やや睨みつけるように視線を向けている。


「蓮ちゃん! 樹楊のおにいんさんだよっ。殺していいの!?」


 ゼクトの叫び声は蓮の耳に吸収され、その瞳をこちらに向けさせる事が出来た。蓮はゼクトの後ろに倒れている樹楊を見るなり、主人を見付けた仔犬のように走ってくる。しかし血塗れの全身からは、仔犬のような可愛らしさの欠片も見付けてやる事すら出来ない。


 樹楊は、地下墓地に今も散らかる肉片を作り上げたのは蓮である事が解った。誰に問わずとも、今、目の前に広がる『それ』と同じ物が地下墓地にもあったからだ。


 蓮は樹楊の前にしゃがみ込むと、少しだけ瞬きの後、首を傾げる。その仕草を送られた樹楊が思い出したかのように頭を撫でてやると、蓮は気持ち良さそうに目を伏せる。


「い、今の内に逃げようっ……」

「あ、うっ、そうだな」


 物陰でこそこそと身を潜めていた三人が、耳打ちをするように話し合うと、蓮に気付かれないように身体を起こす。それに気付いたゼクトは息を呑んで蓮を止めようと肩に手を伸ばすが。


「――――、――っ」


 悲鳴も出せずにパズルのピースに成り果てた音を背後で聞くと、痛々しそうに目を伏せる。

 樹楊はその時、蓮の中に巣食う歪みがハッキリと見えた。どす黒く、蟻地獄のようで底なし沼のようで標的を引き摺り込む、冷酷で、しかし無邪気な歪みを。


 これまで生きてきた十七年間。こんな恐怖を感じた事はなかった。死という概念から来るモノではない、異系の恐怖。それを説明するには、自分はあまりにも若すぎ、無知だった。自分が知る言葉ではこの恐怖を誰かに教える事が出来ない。


 歯を小刻みに噛み鳴らす樹楊が得体の知れない恐怖に思考を遮断されていると、それに気付いたゼクトが肩を一度だけ揺さぶる。


「おにいさん、しっかりして。私達は大丈夫なんだから」

「ゼ、ゼクト……。あ、あぁ。そうだよな、俺達は大丈夫、なんだ」


 納得したように頷く樹楊に、蓮は疑問符を浮かべて首を傾げていた。何の事か解らないのだろう。ゼクトも敢えて樹楊にだけ解るようにいったのだ。


 しかし、大丈夫だからと言われたからと言って安心して良いものなのだろうか。次の瞬間には目は何も映さず、身体はバラバラになっているのではないだろうか。無様とも言える屍に化したアシカリの人達を見れば、そう思わずにはいられなかった。ゼクトはその光景を樹楊の眼から奪うように問い掛ける。


「おにいさんは何でここに?」

「あ、あぁ、ちょい必要な物があってな。それよか、お前や蓮は何でここに居るんだ?」


 ゼクトはナイフを太腿のホルダーに納めると、

「首領から与えられた任務で、ちょっとね」


 互いに詳細を明かさない会話は、意味を求め合わない薄っぺらなものだった。そんな事はどうでもいいのだろう。兎に角、話題を適当な方向へ向けたかった。少なくとも、樹楊はそう考えている。


 樹楊が目線のみで礼を告げると、受けたゼクトも口を綻ばせて返す。蓮は首を傾げているが、何も言わなくても良さそうだ。今はそんな事をしている場合でもない。散々騒いだからには、ダラスの警備兵が来てもおかしくはない状況に陥っている。

 

 何よりも先にここから離れる事を最優先と考えた樹楊が、ふと蓮の方へ視線を向けるとその奥には……。


「き、樹楊さん……」


 理不尽とも言える殺害現場にシィが来てしまった。そして樹楊は見る。

 蓮の眼に鈍く光る殺意を。


「蓮、やめ――――」


 遅かった。

 全てが。


 シィの小さな身体は、背後から現れた刀の餌食となる。シィの命の全てを否定するように、刀は突き刺さった。


 背から侵入し、腹を破って出てきた刀は太陽の光を受けて戦慄の輝きを見せていた。貫かれたシィはそれが何かと確認する前に血を口からだらしなく溢し、刀が消えると同時にぐにゃりと地に崩れ落ちる。

 

 広がる、血。

 動かない、シィ。

 樹楊は背中を強く打たれたように息を詰まらせ、カタカタと震えだす。

 

「シィ……? おい、シィ」


 樹楊は四つん這いでシィの元まで行き、その身体に触れようとしたが、寸前で手を止める。無情にも手折られた花が血にまどろむ姿は意味もなく横たわっているかのよう。

 目が回る。身体が熱い。


 心が、


「おにいさん、その子」

 ゼクトが申し訳無さそうに近寄ってくるが、その声など聞こえない。


 ココロ、が。

 ココロに。


 腹の底に、腹の底から!


 樹楊の肩に触れようとしたゼクトは目を見開いて驚く。触れようとした対象が消えたのだ。


「う、っぐ!」


 ゼクトがその声に振り返ると、そこには樹楊が力任せで蓮を壁に追いやる姿があった。その剣幕、悪魔をも睨み殺すが如く凶悪。

 蓮は樹楊の肘と壁に首を挟まれていて、舌を出して呼吸困難を訴えている。


「蓮、テメェは……テメェはァ!」


 心の底から、腹の底から込み上げる憎悪は樹楊の理性のリミッターを軽々とぶち破っていた。負の感情に侵された樹楊はその矛先である蓮の事が全世界で何よりも許せなく感じていた。その殺意が全て肘に込められ、その細首をへし折らんとしている。蓮は樹楊の腕を離そうとしているがどうにもならない様子で宙に浮く足をバタつかせるが、遂には唾液を口端から流し始める。


「おにいさん! 何やってるの!」


 ゼクトは慌てて、それでも苦戦する事で樹楊を蓮から離した。樹楊とゼクトは勢いで地に転がり、解放された蓮は力なく座り込むと失われていた酸素を取り込むべく、咽ながらも必死に呼吸している。


「蓮! テメェ!」

「き、きょーくん……」


 鬼の形相の樹楊を初めて見た蓮は立ち上がる事も出来ずに後退りをし、壁に背を押しつけても尚、逃げようとしている。そこに壁がある事すら忘れているかのように。 


 その態度に益々怒りを感じた樹楊はゼクトを乱暴に振り払い、強力な磁石に引き寄せられるように蓮の元へ行き、その襟首を荒っぽく掴む。


「テメェは見境ってモンがねぇのかよ! シィに殺気なんて無かっただろォが!」


 怒髪天突く勢いの樹楊は蓮を何度も壁に打ち付ける。蓮はその度に顔を歪ませ、遂には泣く寸前の子供ように口をへの字に曲げてしまった。


「きょーくん……なんで、やだよ……」

「――テ、テメェ!」


 歯が砕けるほど食い縛る樹楊は怯える蓮の眼を、殺意に任せて睨む。片方の手は震えながら腰に携えている一本の剣を握ろうとしていた。


 蓮は苛められる子供のように交差させた両腕で顔を覆い、強く目を伏せている。その気になれば樹楊など一瞬で殺せるのに、怯えからか、息苦しそうに小刻みに息を切らして小さな胸を上下させていた。


「おねがい……怒らないで……。おね、がい」


 罪もない人を殺しておいて自分だけ逃げようとする姿勢に、樹楊は自分の中の何かがキレる音を確かに聞いた。蓮が落とした言葉は、身体中を蝕む怒りの餌となる。


 砂嵐に覆われているような視界に変わり、手は震える事を止めた代わりに剣の柄を強く握り締めた。その瞬間、蓮と『母を見殺しにした精霊の姿』が重なって見える。


 そうなれば樹楊の殺意と憎悪は無限に無眩むばかり。剣を離して懐に手を入れて漆黒の銃を取り出す。闇色に淀む銃口を蓮の額に突き付けると、その時には既に樹楊の瞳からは光が消えていた。

 

 厭悪に支配され、

 怨恨に彩り、

 私怨に満たされている、


 その瞳。


 蓮はその瞳を知ろうともせず、ただひたすら両腕で顔を覆って震えている。薄い口からは「なんで?」とばかり、壊れたように繰り返されていた。

 樹楊は引き金に指を掛ける。


 


 ――死ネヨ、オマエ。




「きょーくん、きょーくん……」

 耳障りな声を殺すには、本体を。


 きりっ、と螺旋金属が伸びる音に蓮は一瞬だけ電流を流されたかのように身体をビクッと反応させて震えだした。うぅーっと唸る声は、どこまでも怯えている。

 その時、ゼクトはありったけの声を振り絞って樹楊を呼んだ。


「おにいさん、この子生きてる! 早く手当てをしてあげないと、ホラ!」


 ゼクトが一か八かで叫んだ言葉は樹楊の正気を取り戻すのには十分すぎるほどだった。目に光が戻った樹楊は、涙を溜める蓮を殺そうとしている事に気付き、しかしシィの容体の方が心配で急いでその元へと向かってしまった。


 その時、蓮が手を掴んできた。

 視線だけを投げ掛けると、蓮は悲痛な表情で首を振っている。


 行くな、という事なのだろうか。

 だがそれに応じるわけにはいかなかった。シィの容体が気になって仕方無い。

 樹楊は蓮の手を強く振り払うと、真っ直ぐにシィの元へと向かう。

 

 見捨てられたかのような蓮はへなっと座り込むと袖で涙を拭いながら、迷子になった子供が母親を呼ぶように樹楊の名前を細々と繰り返す。しかし、届かない。


 樹楊は止血するゼクトの元へ行くと、素早く圧縮バックを広げて救急セットを取り出す。だが簡易セットな為、大掛かりな道具も無ければ医療技術なんて素人に毛が生えたほどしかない。それを見兼ねたゼクトは樹楊に止血の役目を代わってもらうと、自分の圧縮バッグを広げる。ゼクトの圧縮バックに詰められているのは、樹楊でも知らない薬品や薬草と思われる植物が所狭しと詰められていた。


「ゼクト、お前」

「ちょっと黙ってて!」


 ゼクトは慣れた手つきで、しかも手早く数種類の瓶に入っている薬液を一つの瓶の中に混ぜ合わせる。そして濃緑の粉末を混ぜ合わせ、ゼリー状になった液体をシィの傷口に直接流し込んだ。すると液体は炭酸のように発砲し、シィは苦痛に顔を歪める。


 顕微鏡で病原菌の変化を見るようにゼクトはシィの傷口を見続けた後、今度は赤茶の粉末を傷口に振りかけた。


「私はね、赤麗の中の医療班として動いている時もあるのよ。今は違う子がやってるけど、多少は知識があるから。でも、私の道具だけじゃどうにもならない。気休めの応急処置程度が限界よ」


 流石と言うべきか、媚薬を調合出来るだけはあるみたいで薬品の調合から処置まで、見とれるほどの鮮やかさがあった。ゼクトはふぅっと息を吐くと、何重にも重ねたガーゼを取り出してシィの止血を始める。

 完全に動脈が傷ついている所為で、ガーゼはみるみる真っ赤に染まり、止血の役目を果たしきれていない。


 このままではショック状態に陥ってしまうだろう。ゼクトが的確な圧迫止血を試みても、シィの命の灯火は消えかけていた。


「くそっ、PTTB抗液じゃ止血能力が追いつかないかっ」


 樹楊が背中にトンっという弾む音の響きを聞いた時、ゼクトは舌打ちをして違う薬品を調合するべくバックに手を伸ばす。と、その手に樹楊の手が触れてくる。


「ちょっと、邪魔――」


 結論から述べると、樹楊はゼクトの邪魔をしたわけじゃなく、背後から蓮に剣を刺されてしまい、倒れ込んだのだ。その時に樹楊が伸ばした手とゼクトの手が触れた、という事だ。


 ゼクトの私物である様々な瓶を薙ぎ倒すように樹楊は倒れ、腹の傷から血をどくどくと流れ始める。それはシィと同じ傷だ。

 蓮は樹楊の身体を貫いた剣をだらしなくぶら下げ、潤んだ眼で見下ろしていた。


「――、っは、はっ――――く、あ」


 樹楊の意識はまだあるらしく、震える手で腹の傷口を押さえていた。しかし、血は背中からも流れ出ている。口は無意味に開閉を繰り返し、不自然な呼吸をしていた。


「おにいさん! 蓮ちゃん、どうしちゃったの!? 樹楊のおにいさんだよ、解らないの!」


 蓮は「解ってる、きょーくんだもん……」

 虚ろな瞳だった。

 

「じゃあ何で! っく、おにいさんにも止血しなきゃっ。このままじゃ!」


 倒れた薬品を乱暴に漁り、調合に必要な物だけを取り出す。蓮はその背中にぽつりぽつりと言葉を漏らし始める。


「きょーくん、私のものにならないって解ったの……。だから、刺したの。手に入らないなら……壊しちゃえばいいから刺したの」


 樹楊はその言葉に瞳を向けた。

 言葉を掛けたいが、どんな言葉を選べばいいのか解らない。もし仮に的確な言葉があったとしても、声にならないかもしれない。


 だけど、

「れ、ん」


 その名前だけを呟き、


「泣く、な」

 何故か笑顔が出てきてしまった。

 ついさっきまでは殺そうとまで思っていた相手に、申し訳なさが溢れてきた。


 蓮がこうなってしまったのは、自分の所為だと解ったから。気持ちに応える事が出来なくても、真正面から向き合っていれば蓮も苦しまずに済んだと解ったから。


 だから、笑顔が出てきたんだ。笑ってほしくて……。


 蓮は止めを刺すべく剣を振り被るが、敢え無くして脱力すると剣を地に降ろした。

 そしてがっくりと両膝を着いて樹楊の頬に手を添える。


「何でかな……? わたし、わたし……、きょーくんが大好きなのに」

 小さな氷が溶けたように蓮の眼から涙が流れ落ち、むずむずと動く唇を強く噛み締めた。


「大好きなの……。私はこんなにもアナタの事が……」蓮は崩れるように、

「なんで? なんで怒ったの?」


 伝えるように、しかし諦めたかのように。

 そしてココロのない人形のように、


「 ……私は、きょーくんを護りたかっただけなのに」


 笑っていた。


 蓮は何も見境なく攻撃していたわけではなかった。アシカリの者、つまり自分達に害を成す者を狙って攻撃していた。それはシィも例外ではない。

 樹楊の名前を呼んだ事は蓮にとって驚きの対象となっていたかも知れないが、手元で光る物体を持っているシィが樹楊に害を成す者と判断しての事だったのだ。


 行き過ぎかも知れないが、シィを攻撃した蓮にとっては樹楊を護りたい一心だった。大好きな樹楊を護りたくて護りたくて一生懸命だったのだ。


 シィが持っていたのは樹楊に頼まれて盗んだ『狂婦人の髪飾り』で、それは先端が鋭利になっている黄金の髪飾り。蓮にはそれがナイフに見えたのだろう。


 聞き耳を立てながらも止血を試みるゼクトは、シィの手から離れている髪飾りを見て納得した面持ちを見せている。


 蓮は、ふぇっと嗚咽を漏らすと俯いた。

 そして何かを呟くと、逃げるように走って行く。

 

「蓮ちゃん、どこにっ」


 ゼクトが叫ぶも、蓮は振り向きもせずに時空から引き出した剣の上を跳びはねていく。それは空へと続く階段を駆けるように。

 蓮の姿はあっという間に上空へと消えてしまった。それと同時に、それほど遠くない場所から重々しい足音が聞こえてくる。


 樹楊は髪飾りを手に取り、ゼクト血に濡れた手に渡した。


「こ、れ。俺っ、の故郷……。スネ、クか、ナーザ……。解、るから」

「おにいさん、何をっ」


 樹楊はゼクトの手を赤子のように弱々しい力で握ると、薄っすらと微笑む。

「逃げ、ろ。頼む……たの、む、よ。逃げて、くれ」


 足音の主はダラス連邦の警備兵の物だった。大方、騒ぎを聞きつけてきたのだろう。手には剣や槍などを握っている。


「おにいさん……」


 ゼクトは樹楊の手を自分の手でそっと挟む。

「何か言う事、ある?」


 それは辞世の句を求める意味を持っていて、樹楊にもそれくらい解っていた。

 だからこそ、最後の言葉を残す。


「オ、レ……かっこいー、だろ?」


 ゼクトはにこっと微笑むと、

「そうね」


 樹楊とシィを残してゼクトは警備兵から逃げていく。髪飾りをしっかりと握って。そして、樹楊の腰に携えてあった剣を一本引き抜いて。それはまるで『遺品』を表しているかのよう。


 樹楊は横目でゼクトが居なくなった事を確認すると、疲れたように目を閉じた。

  色んな顔が思い浮かぶ。


 怒りっぽいミゼリアや親友のアギ。

 サルギナや紅葉やサラ、ミネニャ、ツキ。

 だけど、最後に思い浮かんだのは蓮の泣き顔だった。


 蓮が置いていった言葉。

『その瞳に映りたかった』


 それがやけに耳に痛く、傷口よりも心を痛めつけてきている。


 樹楊は暗転する世界の中、自分の行先はきっと地獄だろうと皮肉に笑った。近付いてくる足音は、さしずめ魂の運び屋でもある死神。

 樹楊は最後に呟く。


「結構楽しかったかもな」


 それが声に出ていない事すら解らず、そのまま意識が途絶える。雨が降り出した凍えそうな空の下でシィの手を握りながら。

 ザァザァと振る雨は、誰かの涙なのだろう。



 ◆



 ソリュートゲニア大陸の某樹海の奥。

 その木々の中でも一際幹の太い大木の根元に蓮は居た。

 膝を抱えて丸くなり、ぼろぼろと涙を溢しながら堪えていた嗚咽を漏らす。その合間には、やはり樹楊の名前が挟まれていた。


 血塗れの小姫は、後悔と報われぬ愛情に押し潰されそうになっている。


 だけど。


 誰もいない。

 誰も頭を撫でてはくれない。


 樹楊の暖かい手も笑顔も、何もかも。

 全て自分が壊してしまった。

 蓮は膝を強く抱き締めて、その中に顔を押しつけて咽び泣く。


「きょーくん、きょーくん……」


 もう全てが蓮の中で終わりを告げていた。

 それでも、終わってほしくなかった。


 いっぱい……、

 いっぱいいっぱい大好きだから。


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