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第十六章 〜創世千書〜





 ラクーンがソラクモへと派遣した調査班が無事に帰還したのだが、その労力も虚しく実を結ばなかった。自然化学調査班ではサラが封じられていた御神木から漏れていた液体の解明が出来なかったと、肩を落としながら報告した。その解明を急ぎたいラクーンではあるが、その為の施設はヒーリング・ジェイムの研究で空きがない。


 ラクーンはジルフードらと話し合いの場を設けたのだが、相手にもされなかったと言う。


 それもそうだろう。

 ヒーリング・ジェイムは、偶然とは言え樹楊に絶大な効果をもたらしたのだ。実用化されれば無敵の帝国を築くのも夢ではないのだから。例え、国の実権を王に任されているとは言え、利己的に行動する訳にもいなかい。ましてや宰相であるジルフードは反対を唱えているのだ。

 

 頭を抱えるラクーンではあったが、そこに樹楊が報告と並び自由行動の許可を申請する。

 その内容は『白鳳へ赴き、残されている古文書を拝見させてもらう』との事。

 ラクーンはその話に笑顔になった。


 そして後日。

 ラクーンの元に、樹楊と紅葉が呼ばれた。


「さて」

 ラクーンは手を叩き、二人の顔を順に見る。


「君達にお願いがあるのですが、もう解っていますよね?」

 人が良いとしか言えない笑顔を浮かべて訊いてくるラクーンに、樹楊らは頷く。


「今回も白鳳へと向かってもらいます。そしてサラさんの――木人に関する情報を得てもらいたい。どんなに小さな事でも構いません」


「解りました。んじゃ、時間も惜しいんで早速向かうとします」


 樹楊が柄にもなく急きながら背を向けると、ラクーンはそれを阻止する。それに対し、紅葉は首を傾げる。


「君達が向かう先は一緒ではありません。白鳳に向かうのは紅葉さんです」

「は? じゃあ、俺は何の為に呼ばれてんです?」

「まぁ、慌てないで下さい」


 ラクーンは戸口に視線をやると、少しばかり張った声で「入ってきなさい」

 すると、扉が躊躇いがちに開かれて。そこから一人の少年が入ってきた。

 その少年は緊張でガチガチになりながらカラクリ人形のような動きをしている。ブリキで動いているんじゃないか、と思わせる固さで。


「ツキ・ソクラーオでっす。お呼びにあじゅかり、きょーえいでっしゅ!」


 最早見てられないほどに噛みまくる少年は、ソラクモから特例として入隊させたツキだった。衣食住が与えられ、訓練にも真面目に取り組んでいるお陰か身体つきが良くなっている。


 しかし、まだ少年。

 纏う戦衣が大きくてブカブカだ。折角ラクーンの計らいで戦衣を特注しようとしたのに、ツキが「情けないからいい」と断った所為で、背伸びをしたい年頃のガキンチョみたいになってしまったのだ。

 ツキとしては大満足らしいのだが、この二人がそれに喰いつかないはずはない。


「だーっはっはっはっは! 何だお前っ。何処からやってきた小人だっ」

「ずるずるじゃない。身体を張ってウケをねらうとはっ」


 樹楊と紅葉はツキの服装を見るなり腹を抱えて笑い出した。その傍でラクーンが「だから特注にすればって言ったのに」と、しかし笑いを堪えている。


「な、なんだよっ。にいちゃん、久し振りにあったのに笑うなんて酷いぞっ」

「あー、悪い悪い。でもなーっくく。この戦衣をここまで着こなすたぁ、流石だ」


 悪びれる様子じゃないのは誰が見ても明らかだが、ツキは樹楊と久しぶりに会えたのが嬉しいのか、笑顔を浮かべていた。


「で、ツキがなんでここに?」

「ええ、それなんですがね。紅葉さん」


 いきなり話を振られた紅葉は、残っていた笑いを掻き消されて目を丸くする。そして自分を指すと、ラクーンはにっこり頷いた。


「ツキを連れて白鳳へと向かって下さい」

「え! 何で私がっ」


「ツキには今後の為にも色んな世界を見せてあげたい。それに樹楊くんには」

 と、ラクーンは視線を樹楊に移し、


「樹楊くんにしか出来ない探し方がありますから」


 その言葉の真意を理解出来たのは樹楊本人と紅葉のみ。ツキに至っては何が何だかといった様子で樹楊を見上げている。

 樹楊は馬鹿馬鹿しそうに鼻で笑うが、その申し出をあっさりと引き受けた。

 紅葉が心配そうに見てくるが、それには肩をすくめて返してやる。


「気にすんな。何も悪い事じゃない」

「うん、解ってる。だけど気をつけてね?」


「あぁ、お前こそな。白鳳までのルートは解るかと思うけど、道中には気をつけろ。ブラスク族が出没するかもしんねーし、霞狼も現れるかも知れない」


 その光景を下から見ていたツキが、嫌そうな声音でぼそっと呟く。


「鬼ババと一緒かよ……」


 

 ◆



 整備を終えたばかりのバイクに跨って、遊びに出掛けるように闇市へと向かった樹楊の背中を見送る事しか出来なかった紅葉。その姿が小さくなっていくが、完全に視界から消える前に紅葉は自分のバイクに跨った。


 これから向かう先は白鴎。

 一人なら気兼ねなく向かえるのだが、後ろに乗せるのはツキだ。

 未だ見習いの兵士だけに頼りない。


 そのツキの頭には大きなコブが出来ていた。

 それは勿論、紅葉が鬼ババ発言を聞き逃すわけもなくその結果として現れたものだ。


「アゲハのねえちゃん、白鳳ってどんなとこ?」

 ツキがタンデムシートによじ登りながら訊いてくる。


「さぁ。私も行った事ないからハッキリとは言えないけど、歴史を感じさせる国とは聞いてる」


「何だ、行ったことないんだ。案外頼りないのな。大丈夫か?」


 子供というのは思った事をストレートに、しかも何も恐れずに言う。

 紅葉は赤麗という、その名を大陸中に轟かせた傭兵集団の首領だと言うのに。しかし、世事に疎い少年からすれば背も高いわけではないし、厳ついわけでもない。

 その美貌を抜けば、何処にでもいる女性。くらいにしか見えないのだろう。

 

 同じく戦闘を生業としている者に言われるならタダじゃおかないが、相手は子供だ。

 紅葉とて、怒る気にもなれないのだろう。

 特に目を尖らせるわけでもなく、いつも通りの調子でエンジンを掛ける。


「アンタは黙って着いてくればいいのよ。バイク走らせるから掴まってて」

「え、うん。ってどこを掴めばぁ! わ、たぁぁぁっ」


 ツキが掴まってくる前にバイクを走らせた紅葉。その額には薄っすらと青筋が浮かんでいて、ほくそ笑んでいる。

 どうやら『頼りない』と言われた事にプライドが傷ついたようだ。紅葉は子供相手にも腹を立てる、子供っぽい性格をしているみたいだった。


 ツキは後ろでばたばたするが、振り落とされたくはないが為、無我夢中でしがみつく。

 

「ちょっと、アンタ! どこ触ってんの!」

「ん? あ、あぁ。ねえちゃん、意外に胸でっかいのなっ」


 最早お約束である。

 ツキは手の平にある、柔らかな山をしっかりと掴んで感心している。そこに下心はないのは明らかなのだが、紅葉は身体を捻って拳骨をその頭に見舞う。


「痛っ。なにすんだよっ」

「それはこっちのセリフ! 気安く触るんじゃないっ」


 掴む位置を変えたツキは口を尖らせると、目を潤ませながら本日二つ目のコブを撫でた。


「いいじゃねーか、別に。男が触る為にあるんだろー」

「何か言った!?」


 殺気塗れの眼光に、ツキは背筋を伸ばして「何でもありませんっ」と兵士らしく答えた。

しっかりと敬礼する事も忘れてはいない。

 すると、紅葉の顔にも僅かだが笑顔が戻る。

 

「本当にもー。アンタって樹楊にそっくり」


 その横顔を後ろから覗いていたツキは、言葉を失いながらも惚けた目をしていた。

 その瞳には、真紅の色彩しか映っていない。

 燃えるような髪を幻想的に流す、紅葉の顔と一緒に。 


「ねえちゃん……」

「ん? どうしたの?」


 ツキは俯きながら訊いてくる。


「にいちゃんの事、好きなのか?」

「だ、誰がっ」


 カッと頭に血が昇るが、あのバカの顔が脳裏に浮かんだ今、自分の気持ちが向き合ってきた。


 こんなにも鼓動が暴れるのは何故だろう。

 あんな弱っちい男に。自分は護ってくれる男が理想なはずだ。

 でも……。

 サラと唇を合わせようとした時、凄く苦しくなった。それは誤魔化しようのない事実。

 

 紅葉はツキの視線を感じると、我に返る。

 目の前に広がるのは荒れ果てた荒野。

 こんな旅路の中で必要なのは、強さじゃない。強さなら自分が持っているから。

 そんなモノよりも必要なのは、たった一つ。


 安らぎ……。


 紅葉は見える景色に目を細めると、

「そう……かもね」


 それっきり、何も喋らなくなったツキは流れる景色を遠い目で眺めているが、その光景を見ているようではなかった。紅葉は認めざるを得なかった自分の気持ちに息苦しくなりながらも、白鳳への方角ただ一点を見据えたまま口を固く結んでいる。


 樹楊は大丈夫だろうか。

 ラクーンから与えられた任務は、明らかに闇市との関係が結ばれている。

 それでも、樹楊は闇市の者から歓迎されているだけに安心ではあるが、深い所まで堕ちなければいいと、思わずにはいられなかった。


 道中、白鳳でも通信機が使用できるように基地局が建てられていた。それも完成間近で、白鳳とスクライドから派遣されたメカニックがコーヒーを片手に、親しそうに話をしている。


 このように、国同士がお互いを認め合えば戦など起こりはしないのだろう。紅葉はその光景を横目に、平和っていいものね、と思ったのだが、そうなると自分の存在意義がなくなるような気もして悲しくも思った。



 ◆



 樹楊と紅葉が揃ってスクライドから出掛けた事を知らない蓮はベッドの上で伸びした後、遅い目覚めに目を擦っていた。窓の外を見れば太陽はすっかり昇りきっており、今から落ちようとしている頃で、そうともなれば蓮のお腹は必然として鳴き声を上げる。


 まるで子を宿した母親のようにお腹を撫でる蓮は、マイペースで出掛ける準備を整えた。


 腹が減っては戦も出来ぬ、ではなく『腹が減っては安眠も出来ぬ』という蓮の頭の中では、既に様々な昼御飯のメニューが手を繋いで輪を作って回っている。準備が整うと、一旦姿見で自分の全身をチェックする。そして抜かりはない事を確認すると、仕上げとしてリップを唇に塗った。


 蓮は化粧などには興味がない。

 元々する必要もないのだが、このリップだけは樹楊と白鳳から帰ってきて以来、毎日続けている。スクライドに来る前に、イルラカが漏らした一言「唇に艶があった方が男性も喜びますよ」を思い出しての事だ。

 

 まぁ、それを聞いた蓮が興味本位で木材の艶を出す為に塗る仮漆を塗ろうとした時は、イルラカも全力で止めたという過去もあるが。ここまで疎い蓮にイルラカが与えたのはリップだった。その時に貰ったリップの事を思い出して、今では感謝もしている。


 リップからはほのかに甘いストロベリーの香りがする。それを嗅ぐと、腹の虫が鳴り始めてしまった。蓮はいそいそと部屋を出ると、紅葉か樹楊、またはイルラカを探しに街中へと繰り出す。しかし財布は部屋にある。


 勿論うっかりしていたわけではなく、ご飯とつくものはタダで、というのが彼女なりの、そして傍迷惑な決まり事なのだ。その心情を曲げる事がないよう、敢えて財布は持って行かない。タダ飯が得られないのであれば、空腹と戦ってみせる。そういう決意だ。しかし、それだけは回避したい蓮は必死になって探しまくる。

 つまりは意地でもタダ飯を、という事だ。


 だが蓮の必死の決意も虚しく、今日に限ってイルラカさえも見当たらない。いつもであれば紅葉かイルラカが手早く見つかるのに。地球爆発級の只ならぬ危機感を覚えた蓮の頬には、敵に追い詰められた兵士のように、一筋の汗が伝って顎先へと向かっていく。


 歩幅も自然と大きくなり、眉も吊り上がってくる。しかしどんなに急ごうが、昼食時ともあり街中は人でごった返していた。


 焦りは苛立ちを誘い、いつもなら気にもしない人混みが鬱陶しく感じた。

 いっその事皆斬り伏せようかとも考えたが、そんな事をしようものなら樹楊に怒られそうなのでしぶしぶ堪える事にする。身長が低いというのが初めて苦痛に感じた。


 しかしそんな事を後悔している暇などない。

 このまま誰も見付からないのであれば……、


「餓死……する」


 人間、一食抜いた程度では死ぬ事は十割の確率でないのだろうが蓮にとっては一大事だ。

 スクライド国民に例えるのであれば、城が炎上するほど一大事である。


 それなら自分のお金で食えよ、というのは大衆から得られる意見なのだろうが、そんな事が思いつく蓮ではない。こちとら必死なのだ。そこを解ってもらいたい。


 しかし時間は待ってはくれない。緩やかだが、一秒一秒を確実に刻んでいく。

 蓮の腹の虫も待ってはくれない。猛々しく、一声一声を確実に伝えてくる。


 遂に世の中全てに見捨てられた仔猫のような気持ちになった蓮は、最終手段を取る事に。


「……で、蓮ちゃんはここにきた。と?」


 ウエイトレス姿で呆気に取られるゼクトの言葉に、蓮は仕方なくといった感じで首肯する。

 ゼクトは食事を終えた客の会計を済ますと、蓮を店内の奥の席に連れていく。

 すると、ゼクトはメニューを見せずに「何でもいいでしょ?」


「……うん」


 誰よりも付き合いが長いゼクトにはお金を持ってきてはいない事が伝わっているらしく、何とも頼もしいと思った。そして厨房に向かっていくゼクトの背を見て、困った時はここがいいかも。と、これまた迷惑な事を閃く蓮。それを感じたのかそうではないのかは知る術もないが、ゼクトは足を止め、引き攣った顔で振り返った。


 しかし、お決まりのように首を傾げる蓮を見ると頭を掻きながら厨房へと姿を消す。


 蓮は、立て掛けてあるメニューの片端に載っているハンバーグに目を煌めかせ、腹の虫と仲良く料理を心待ちにしていた。



 ◇



 目の前に出された特盛りのスパゲティーを平らげた蓮は、口を拭きながら満足そうにお腹を撫でる。ハンバーグではなかった事には肩を落としたが、何せタダ飯だ。文句も言ってはいられなかったのだろう。


 実のところ、ゼクトが裏で立て替えていたのだが蓮はそれにすら気付かない。

 何とも良心的な店だ、とばかりにしか思っていなかった。

 目的を果たした蓮は席を立とうとしたがゼクトが紅茶を運んできた事で、それを止める。

 ゼクトはバイトを終えたらしく、私服に着替えていた。


「紅茶、飲むでしょ?」

「うん」


 ゼクトに出された紅茶を大事そうに両手で包み、一口飲む。すると、暖かい中からリンゴの香りが口いっぱいに広がった。

 目を瞑ると、その香りは大自然の中で宝物のように扱われたリンゴの姿を想像させる。瑞々しく、朝露に輝く姿が何とも似合っている。それを食べる狼の顔は、とても嬉しそうだった。


 しかしそれはただの想像で、

「……まずい」

 蓮は口直しに水を飲み始める。


「あ、ごめん。蓮ちゃんはストレートでしか飲まなかったんだっけ」


 二度ほど頷く蓮。

 フルーツティーというのは、どうしても苦手なのだ。辛うじてレモンのティーが飲める程度。ゼクトは蓮を見て笑うと、自分のカップの口をつけて紅茶を聞くように堪能する。

 そしてゆっくり唇を離したところで蓮が待ち構えていたかのように口を開いた。


「ゼクト、アゲハ……いない」

「ん? 首領なら出掛けたよ?」


 首を傾げる蓮に、ゼクトは続ける。


「何でも任務らしくてね、白鳳に向かったって。見習いの子供連れて。ついでに言えばイルラカさんも私用で出掛けたみたい」


 だから見付けられなかったのか、と蓮は汗をかくグラスに視線を落とした。氷が頷くように崩れ、寂しげに音を鳴らす。


「樹楊のおにいさんも任務らしいよ? あの……何だっけ、サラっていう女に関する事らしいけど。その件で首領も動いているみたい」


 サラ。

 その単語が小さな胸を締め付けた。

 今まで見てきた中で一番綺麗な女性であり、魅力的だった事を思い出す。

 同じ白い髪だが、向こうの髪は揺れる度に美しさを流していた。そして緑が広がるあの眼。

 誰がどう見ても普通の眼ではない。しかし畏怖なるものは感じさせず、穏やかな心地さえもくれた。


 対して自分の右目は白濁していて、まるで厄が彩っているよう。抉り出したい衝動に駆られ、樹楊が言ってくれたこの眼に対する好意の言葉さえも嘘なんじゃないかとさえ思ってしまう。サラの傍に居れば心が休まる事は確かなのだが、同時に自分がコンプレックスの塊であるという事実を突き付けてくるのも揺るがない事実。


 込み上げてくるこの気持ちはなんなのだろうか。底のない沼のように深く、溶かされた鉄のようのどろどろしていて熱い。そして真っ黒くて血の匂いがする。


 蓮の腹の奥底では、禍々しく残酷な感情が渦を巻いていた。そしてその渦の中には人影が一つだけ蠢いている。その人影は断末魔を上げて蓮に助けを求めていた。しかし、それが誰なのか分からない。


 元凶であるサラ? それとも必要のない事を教えてきたゼクト? 違うのであれば、自分と同じく樹楊に想いを寄せるアゲハ? 

 その後も知っている人全てを当てはめてみるが、どれもこれもしっくりこなかった。しかし、最後に当てはめた人物に対しては違和感がなかった。

 

 まさか、とは思う。

 だけど、自分の性格を考えると納得も出来た。


 アンティークは好きだ。

 一点モノだから。他の誰も持っていないから。自分だけのモノだから。

 もし自分が見付けたアンティークが他人の手に渡るのであれば、それを壊してしまえばいい。そうすれば、もう欲しいとも思わない。

 だって一点モノじゃなくなるから。

 この世に存在しなくなれば誰のモノでもなくなる。


 そう。

 壊してしまえばいい。

 バラバラに、ぐちゃぐちゃに。


 何も……、

 ……悪い事じゃない。


 ズキン、と痛む右目を布ごしに押さえると目の前のグラスが軋む音を立てた。それに気付いた蓮は小さく首を振り、心に手を添えた。


 感情が昂っている。不味いな、落ち着かせる為には……と身体を震わせていると、ゼクトが絶妙なタイミングで話し掛けてきた。


「これから任務に出掛けるんだけど、蓮ちゃんも行く?」

「任務?」


「うん、ダラス連邦の調査。何でも最近不審な動きをしているらしくてね」


 ダラス連邦……。その国名には覚えがある。

 傭兵を多く抱える下らない国だ。

 蓮は右目を一層強く押さえると、口角を僅かに吊りあげた。


「うん、行く」


 丁度いい。

 誰かを殺したかったところだったし……。


 それ以上は何も言わずに席を立つ蓮を、ゼクトは胸を撫で下ろしながら見つめていた。

 そしてゼクトが立ち上がると一拍置いて、蓮の前に置いてあったグラスが真っ二つに分かれた。まるで、誰もいなくなる事を待っていたかのように。



 ◆



 スネークの所に来ていた樹楊は、闇市の雰囲気を久しぶりに堪能していた。

 ならず者が集まり、違法な品々を売買。そこにはスクライドとは質の違う、荒っぽい活気があって何とも心地がいい。


 つくづくはみ出し者だな、と周りの店舗に目を配っていると売り物の剣の手入れを終えたスネークが隣に座ってきた。相変わらず、いや、今更変えようもない二つに割れた舌先が口の中に見える。


「今日は何の用で? 見るところ、ビジネスには関係なさそうだけど」


 スネークは何も持たずにいる樹楊を見ると、顔を綻ばせた。金にもならない物を買い取らずに済んだ、とでも思ったのだろう。


「まぁ、ビジネスじゃねぇな。任務ってとこだ」

「ほー、任務。任務ねぇ。……お前が?」


 珍しい事もあるもんだ、とスネークは髭もない顎を撫でて樹楊を一瞥する。その眼は不思議な生き物を見ているかのよう。


「俺だって正式な兵士なんだけど」

「あれほど嫌っていた任務の為にお前がここまで来るとは思えねぇっつーの」


 ここまで、とは闇市がある場所の事だ。

 毎回出店場所を変える闇市は、勿論人目が着きにくい場所に開かれる。山奥だったり、ゴーストタウンの一角だったり。果ては、使われなくなった地下坑道の奥だったりと、目まぐるしく場所を変える。


 そんな神出鬼没な闇市の場所を知るには、裏の世界の者と疎通していなければならない。

 一国に仕えている兵にはおとぎ話に出てくる楽園より遠い世界だ。

 しかし樹楊はその裏世界の者と通じている。樹楊を見た闇市の店主が気さくに話し掛けている事から、その馴染みの深さが解るほどだった。


 それで、今回の出店場所というのは。


「キョーちーんっ。いぃぃやっほーい」


 樹楊の故郷である。

 ニコは樹楊を見付けると、餌を見付けた猛獣よろしく飛び掛かってくるが、その顔は向日葵のような笑みで満たされている為怖くはない。

 ニコは樹楊の背中から首に腕を回してべったりと貼り付く。きゃーきゃー騒いでいて、とてもとても嬉しそうだ。


 樹楊はスネークの言う通り、ここには来たくなかった。任務の為とは言え、ニコ達に闇市に関わっている事を知られたくないからだ。


「ニコ、お前ね。ここがどんな店か解ってるのか?」

 訊くと、ニコの弾むような声が背中を越えて届いてくる。


「移動店舗っ。スネークさんが教えてくれたもん」

 威張りくさる声を聞いて樹楊は安心した。


 何でよりによってここに闇市が開かれるのだと徒労感にも襲われていたのだが、器量がいいスネークに感謝してしまう。肩をすくめてくる仕草は勘に触るが、どこまで頼りになる奴なんだか、とスネークに対して目を伏せた。


「ニコ、みんなは?」

「んー? みんなは来ないよ。遠いし」

「そっか。まぁ、いいけど」


 闇市の場所が樹楊の故郷ではあるが、ここは無駄に広くて端から端までは流石に歩く気もしない。これがもし、賑わいを見せる普通の街であれば別だが、ここは捨てられた街だ。死んだ景色を見ながらでは気分も萎えるというもの。


 それでもニコは来てくれた。

 それはただ単純に会いたかったという気持ちからなのだろう。

 樹楊はニコを抱えるように膝の上に乗せると、スネークに目を向けた。

 するとスネークも、いよいよ任務に戻るのか、とばかりに正面を向いてくる。


 割れた舌先に興味を持ったニコの視線が鬱陶しいのか気恥かしいのか、スネークは口を固く結んでいる。


「なぁ、ここに古書の類はないのか? 出来るだけ古いほうがいいんだけど」

「古書? ガーデル時代のやつか?」


 何を今更、と首を傾げるスネークに樹楊は首を振る。それを真似するニコ。


「それよかもっと前のだ。一般に知れ渡っている事なんかに興味はねぇっつーの」

「もっと前……って、創世期目録しか知らねーぞ、俺は」


「そりゃどっかの学者の憶測だろうが。千ギラも出せばどこの書店でも買えるってーの」

「無茶言うなよ、お前。ガーデル時代以前の古書っつってもなー。第一ガーデル以前ってのが何なのかさえも解ってねーんだぞ?」


 スネークは呆れ顔で椅子に背を預けると頭を掻く。やはりサラの言うエルフや獣人目が存在した時代の書物は数えるほどもないらしい。過去の旅路で見た文献には獣人目の事しか記されていなかった。最後の数ページにはエルフが何とかかんとか。

 獣人目の事とは言え、種族の種類を記しただけの情報に乏しい文献。その時代に何が起きていたかなど記されてはいなかった。


 ニコは何がなんだかの様子で、ただひたすらスネークの舌先を懸命に見つめているだけ。その蛇のような舌が見える度にほんわかとした笑顔を浮かべる。

 スネークは困った顔で腕を組むと、唐突に閃いた顔を見せてくる。その表情は、樹楊が求めていた結果に導いてくれるものである事に間違いないだろう。



 目線で促されるままその後を着いていくと、汚らしい装飾品や宝石を扱う店の前に辿り着いた。店主は焦げ茶色の髪をした女性であり、布を頭に巻いていた。どことなく賊っぽく見えるのは、サラシを巻いただけの身体に映える髑髏の刺青があるからなのだろう。その入れ墨は二の腕に刻まれていて、禍々しさを強調しているようだった。


 そして向けてくる眼は強気。

 樹楊はその姿を紅葉と重ねてしまった。


「何だ、スネークじゃないか。何も買わないなら来るな、ボケ。商売の邪魔になんだろうが」


 口もすこぶる悪いらしい。

 男よりも男っぽい性格。それがここの店主であるナーザだ。


 ナーザは木製の椅子に片足だけ上げて膝頭に肘を置いている。口には煙草。正直関わりたくない人トップスリーに入る。


 スネークが溜め息混じりに樹楊を指すと「ナーザ、客だ」とだけ発した。

 するとナーザは樹楊を一睨み。客にガンを飛ばすという、商売人としては失格なスキルをしっかりと習得しているらしい。紹介された樹楊は気が乗らないにしても、切り出さないわけにはいかなかった。そこでスネークに言った事を、簡略的にだがナーザに言う。


 すると、ナーザは不敵に口の端を上げ、

「あるぜ」


 頼もしげな一言を発した。

 そして足元の木箱から荒っぽく一冊の書物を取り出してテーブルに放り投げる。その書物には意味不明な文字が表紙に記されていて、茶色く変色していた。


「これは……?」


「俺がそのきったねぇ本と同時に得た情報では『創世千書・第二十三巻』って本の下巻らしい。何だか偉そうなタイトルだけどよ、これにゃガーデル以前の事が記されてるんだと。まぁ、文字が意味不明だから俺には解んねーけどな」


 男らしく笑うナーザの言葉に、ページを一枚捲ると覚えがある単語が目に飛び込んできた。

 獣人目の事が記された文献も同じ文字が使われていた。


「獣人目とエルフ。そして……何だ? こ、じん? 木人かっ。本モンかよ……」

 次々とページを捲る樹楊に、スネークとナーザは言葉を失っていた。


「お前、読めんのかよ」


 見かけによらず弱々しい声で訊いてくるナーザに、樹楊はぎこちなく頷く。するとナーザはとびっきりの笑顔で本を取り上げる。


「読めるならこっから先はビジネスといこうじゃねーか」


 流石は商売人。

 タダで見せてくれるわけがない。

 値段を尋ねると、ナーザは煙草の煙を悠長に吐き出しながら三本の指を立てて見せた。

 その奥の瞳は凶星の如く、悪々しい輝きを見せていた。


 まさか、とは思うが「三万?」


「アホか、てめーは」

 拳骨が飛んでくる。


 樹楊は納得しながら頭を擦った。いくらなんでも三万は安すぎる。闇市はどれもこれも値段が高い。気安く衝動買い出来るほどの品は滅多に置かれていないのだ。


「三十万でいいのか? それだったら」


 樹楊はラクーンに手渡されていた金を全て握り締めると切なく思い始めた。ラクーンが用意した金は三十万ギラきっかり。余ったら使っていいよと言われて喜んでいたが、どうやら余る見込みはないらしい。


 樹楊が金を全て出し終える前に、ナーザは鼻で笑った。


「おいおい。三十万で売るって誰が言った? こいつは三百万だ」

「さ、三百!? ぼったくりじゃねーか!」


「そうだぜ、ナーザ! そいつはいくらなんでもっ。限度ってもんを知らねーのかよっ」


 スネークも便乗して驚くが、それが悪かったのかナーザは不機嫌な面持ちとなった。

 創世千書に咥えている煙草の火種を近付ける。


「俺ぁこの本がどうなってもいいんだぜ? 買わないってんなら、ここで燃やしちまってもな」


 ニヤッと浮かべる笑顔は悪徳商人そのものだ。ナーザは樹楊が三十万を出せる事が解ると、国がらみである事が解ったのだろう。元々違法売買の店だ。

 ふんだくれるなら骨の髄までといったところなのだろう。


「でも三百は出せねーよ。どうにかならねーのか?」


 足元を見られた樹楊は何とかナーザに喰らいつく。木人の事が記されているのは明らかだったからなのだろう。これがもし、信用に足らないものであれば三十万も出そうとはしないのだが。ナーザはふんぞり返りながら値踏みをするように樹楊を見ると、太々しく鼻を鳴らす。その笑みは嫌な予感しかさせないのは気の所為ではないのだろう。


「代用品……ってのはどうだ?」

「代用品? 何か持ってくればいいのか?」


 ナーザはチラつかせるように本をしまうと、肩を組んできた。石鹸のように爽やかな香水が全くもって似合ってねーっすね、とは言えない。

 相談するように、または脅迫してくるような押し殺した声で提案してくるナーザ。


「俺ぁ今な、狂婦人の髪飾りが欲しいんだ」

「それって、呪われてるんじゃ」


「お、解ってるねぇ。それなら話は早い。そいつを持ってくればタダでやろうじゃねーか。大丈夫だ、持ってるだけじゃ呪われねーよ。ギブアンドテイクといこうぜ」

「持ってくればって、どこにそんなもんが」


 ナーザはふふっと笑うと、一枚の紙切れをサラシの中から取り出して渡してきた。妙に生暖かくていい匂いがする。

 何つーとこにしまってんだ、と思いながらその紙切れに目をやると、ある店舗名が記載されているのが解った。


「どこだよ、ここは」

「ダラス連邦にある質屋だ。特徴のある店だから行けばわかる。そこの店の裏にある倉庫に保管されているから盗んでこい」


 狂婦人の髪飾りの写真も手渡され「期待してるぜ」と肩を叩かれる。スネークは可哀想な人を見るような目付きで見てきていた。


「スネーク、ここに居るのはいつまでだ?」

「あと五日が限度だ」


 ダラス連邦までは二日掛かる。

 手早く済ませれば余裕で帰って来られる。

 しかし問題はその国がダラス連邦だという事。あそこは治安が悪く、殺人も日常的にあると聞く。生きる上で関わりたくない国だ。


 背は腹に変えられないと気落ちしていると、ニコが不安そうな瞳を向けてきていた。手を胸の前で組んで、行かないでとアピールしてきている。

 

「キョーちん……」


 流石に気付かれたらしい。

 ここがどういう場所なのかも理解しただろう。それを考えると胸が苦しくなるが、今更引き返せない。


「平気だ。これも任務の内だし、上のモンから『多少の事は目を瞑る』って了承を得てるしな」


 納得がいかないのか黙って俯くニコの頭を撫でて笑顔を向けてやる。すると、か弱い笑顔が返ってきた。それでもニコの手は樹楊の裾をぎゅっと握り締めている。その微かな震えが心を締め付ける。任務とは言え、裏切ってしまう事には変わりのない事。どう取り繕っても、それは変わらない事だと樹楊は思う。


「大丈夫……。大丈夫だから」


 樹楊は自分に言い聞かせるように繰り返した。



 ◆



 スクライドを出て二日目の夕暮れ。

 白鳳に辿り着いていた紅葉らは、書架への出入りの許可を皇帝から得られたところだった。


 白鳳の皇帝はへそ曲がりだと聞いていたが、そんな所など見受けられなかった。最も樹楊の働きがあってこそなのだろうが、紅葉としては拍子抜けもいいところだ。

 交渉に必要であれば、とラクーンから渡されていた大金も使わずに済んだ事で、今夜の晩御飯を豪華に出来る事は嬉しいのだが。


 ツキは異文化に触れるのが初めてらしく、物珍しそうに辺りを見回しては書架までの案内人に尋ねている。恥ずかしいから止めてもらいたかったのだが、自分も白鳳に来るのは初めてで興味があった為放っておく事にする。


 長く、迷路のような宮殿の廊下を歩き続け、いい加減に飽き始めた頃、金色の装飾が悪趣味な門の前に辿り着いた。


「ここが書架でございます。何か御用がありましたら、中に固定通信機が設置されていますので、それで申しつけ下さい」


 極めて業務的に述べ終えた案内人は軽く低頭すると、歩を巡らす。

 

「白鳳って煌びやかなんだな、アゲハっ」


 すっかり呼び捨てになった事は気にしても仕方がない事で、紅葉は、

「悪趣味って言うのよ」


 門を軽く押すと、重々しい音を鳴らしながら観音開きになる。そしてその中には広大な空間が広がっていた。


「な、何よこれっ」


 皇帝が胸を張って自慢するだけの事はある。

 白鳳の書架はスクライド城にある第二書架の十倍の面積はあり、所狭しと本が並んでいた。

 清潔感は勿論あるが、そんな事に目がいかないくらいに広い部屋。


 それを見たツキははしゃぎまくるが、紅葉は肩をがっくりと落とす。開いた口が塞がらないという言葉を身をもって知ったところだ。


「こんな中から探せっていうのっ」


 思わず、怒り気味に独りごちた。

 身の丈を遥かに超える本棚が横に十列。そして縦に三十列。更に二階もあり、挙句の果てには地下まであると言う。


 焚火したら凄そうだなー、と危険な現実逃避してみたがここから引き返せるわけでもない。

 それを見たツキは扉の傍に設置されていた通信機を取って何やら話し始める。

 何度か相槌を打って、通信を終えると笑顔でぱたぱたと寄ってきた。


「アゲハっ、オイラね、古書は何処の本棚にあるのか訊いてきたぞっ」


 その言葉に顔が綻んだ。

 樹楊に似てると言ったのを前言撤回してあげようと心に強く思う紅葉。気が訊いて行動も早い。使えるかも、と。


「で、何か分かった?」


 ツキは頷き「ここだって」

 星が煌めくような全開の笑み。

 が、しかし意味が解らない。


「ここって、何が?」


 ツキは両手を横一杯に広げる。

「ここ全部古書が収められている書架だって。ちなみに二階も地下もなっ」


 誇らしげに言いくさるツキに紅葉は落胆し、手招きで呼んだ。ツキはご褒美が貰えるのか? とばかりに弾んだ足取りで寄ってくる。

 が、その頭にぶち込まれるのは一つの星を滅ぼしかねない隕石のような拳骨。


「いだっ」

「んな事解ってるわよ、ばかっ」


 大声厳禁とされている書架に、紅葉の怒声と隕石の衝突音が刺々しく響き渡った。視界に火花が散ったツキは「星が、星がっ」とよたよた徘徊した後、痛みを堪えながら潤んだ目で紅葉を睨む。


「何だよっ。オイラ何も悪い事してないだろっ」

「喜ばせといて落とした罰よ」


 紅葉は理不尽に怒りながら適当な棚を選んで探し始めた。ツキも口を尖らせながらだが、仔犬のように着いてきて本棚に目線を流し始める。


「どんな本を探せばいいんだよ。どれもこれも同じようにしかみえねーんだけど」

「どんな本って、そりゃアンタ」


 言って考え出す紅葉。

 ツキは回答待っています、とばかりに口を強く締めて見てきている。紅葉は、うっ、と小さく唸ると手元の本を見る。これは魔法云々についての記述がされた本。


 困り果てた紅葉はツキの頭を小突くと、

「自分で考えなさい」

「解んないから聞いてんだろっ。意地悪すんなよなっ」


「あのね、自分で考える事も必要なのよ? よく解らないけど、こういう任務って単独が多いんじゃないの? アンタ、そんなんじゃ樹楊に追い着けないよ」


 いかにも当り前というような口調で説教気味に言ってやるとツキは目を輝かせる。そして力強く頷くと、やる気をみなぎらせた面持ちで本棚を睨み始めた。


 助かった、というのが本音。

 調べる事は解っている。だけど、何に分類されている本を調べ上げれば適切なのかは解っていない。こういう調べ物だとか調査だとか、細々した事は苦手なのだ。こういう任務はイルラカかゼクトが向いている。


 紅葉はツキにバレないように肩を落とすと、目の前の本を適当に取った。


「何だこれ。見掛けない文字ね」


 表紙には奇怪な文字が印字されており、本自体もやけに古い。黒ずんでいて、所々虫に食われていた。近付けてもいないのに埃臭いのは気に喰わないが、何か惹きつけるものがその本にはあった。


 その本こそ、樹楊が探している創世千書・第二十三巻の上巻である。


「ま、いっか」

 しかし紅葉は興味を持つ事無くその本を本棚に戻してしまった。汚い物は持ちたくないのである。


「アゲハ、しまった本は何だったんだ?」

「あー。害虫の倒し方よ」


「そんなのもあんのか?」

「あるの」


 ツキは「ふーん」と興味が薄れたように返し、後ろの本棚に目を配り始めた。紅葉もそれに倣い、少しは真面目になるかと腰に手を添えて目星をつけ始める。

 しかし、一度は興味を失くした本を二度も手にするわけもなく、時間だけが刻一刻と過ぎていくばかり。


 日が落ちると、交替で休憩を取りながら捜索し、日付が変わる頃になれば仮眠を取りながら何時まで続くとも解らない作業を延々と続けていた。最も、紅葉があの本と真摯に向き合っていればこんな事にならずに済んだのだが。

 時間が経つに連れ二人の口数は減っていき、捜索二日目の夕暮れになった今は一言も発してはいない。


 まだ幼いツキに至っては疲労困憊の様子で、目に力が無くなっていた。


「アゲハぁ、地下も二階も……、何処にもないぜ? あったとしても学者の偉そうな卓上の空論ばっかだ」


「それを言うなら机上の空丼でしょ」

「そーだった」


 正解は机上の空論であるのだが、些か勉学に乏しい二人なだけに多少間違っていても意味は通じ合えているようだ。

 紅葉は通路に腰を下ろすと、本棚に背を預けて傍にあった本を手にする。それは古代文字の読み方を記した本であり、丁寧に解説が付いていた。


 古書専用の書架なのに、真新しい本ではあるがそれは解析用として置かれているのだろう。

 その本の適当なページを捲ると、古代書物の中で一番多くの情報が記されているのは『創世千書』という、千巻の本である事が解った。


 そして木人に関する巻は、二十三巻。これは上巻下巻とあるらしいと言う事もすぐに解った。


 紅葉は何気なく視線を前方の本棚に向けた。

 すると、あの汚らしい本に目が行く。


 まさか、いや。違うよね、うん。

 などと思いながらも、創世千書の読み方を手にしている本で確認してみた。そして汚らしい本の背に印字されている本を見る。


 冷や汗が頬をつつっと。

 いや、嘘よ。と、読み方を確認してまた目をやる。


 ツキが本を捲る、パラパラと乾いた音がこの広い書架に響いている中で紅葉は言葉を失った。そして古代文字の読み方を記した本と汚らしい本を無言で手にすると、ツキの元へ行く。


「アゲハ、休憩か?」

「ふっ、違うわよ。喜びなさい、小僧。私が見付けたわ」


 私が、のところに強くアクセントを置き、二冊の本を見せつけてやる。顔は勿論誇らしげ。

 ツキは尊敬の眼差しで紅葉を見たが、すぐに表情を変えて首を傾げる。


「これって、害虫の倒し方じゃねーの?」

「ち、違うわよっ。あれは別の本棚でしょ」


 気が遠くなるほど探しまくった後だと言うのにも関わらず覚えているという、ツキの記憶力には驚かされるものがあった。しかし紅葉は自分の面子を保つのに必死らしく、あれこれとこじ付けがましい言葉を並べて強引に納得させるのだった。


「まー、あと下巻を探せばいいんだな?」

「そうだけど、この本と同じくらい汚い本に見覚えは? 同じ時代のものだから、これくらい汚いと思うのよね」


 ツキは険しい顔で考えると、悩ましげな顔で首を振った。紅葉もこんな汚い本は他に見掛けてはいない。


「ここにはないのかもね。千巻の内の一巻、それも片割れしかないんだもの。言い方を変えれば、この一巻があっただけでも上出来よ」


 やっと任務を終えられるというのに、ツキの表情は暗いままだった。じっと創世千書を見つめては眉を悲しそうに下げている。

 どうしたというのか。


「ホラ、早く持ち出しの許可を貰ってきなさい」


 そのツキに二冊預けて背を押してやる。

 しかしツキは二、三歩歩くとその足を止めた。

 何が不満なのかよく解らない。そんなにここから出るのが嫌なのか。紅葉は理解に苦しんでみた。


「どうしたのよ、さっきから。何かあったの?」

 ツキは振り返りもせず、落ち込んだ声音で答えてくる。


「オイラ、何の役にも立たなかった。これじゃあ何しに来たのか解んないよ」


 そういう事か、と紅葉はようやく納得出来た。

 ツキは自分に与えられた任務を自分の手でしっかりと遂行したかったのだろう。

 こんなに幼いくせして、責任感だけは一人前らしい。


 紅葉は微笑み、ツキの前まで行くと小さな頭に手を乗せた。身長差こそそんなにないにしても、年はまだ十歳。紅葉にしてみれば弟みたいなものだ。


「これはね、私達二人の任務なの」

「……二人?」


「そっ」紅葉はツキの髪をくしゃくしゃすると、


「アンタは音も上げずに真剣だった。これは凄い事なのよ? 何を見つければいいのか分からない状況で、一つの事を最後まで諦めないでやり遂げる。それは立派な事。だからもう落ち込まないの」


 言う紅葉の顔は穏やかだった。必然的に目も柔らかくなり、口も緩やかな線を流している。

 ツキはぐしぐしと目を擦ると、それでも落ちてくる涙を堪えながら深く頷いた。これがスリをやっていた子供なのか。


 いい子なんだな、と紅葉は感じた。

 やっていた事は褒められる事ではないが、その心は歪んでいなくて真っ直ぐだ。いや、歪もうとしていたのかも知れない。そんな時に樹楊と出逢えたから、今のツキがあるのかも知れない。


 あのバカ……。しっかりと人を救ってるじゃないの。ホント、訳の解んない奴。


 紅葉はツキの前髪をあげると、

「え、アゲハ、何――」


 その小さな額に優しくキスをした。

「これからも頑張りなさい」


 再度頭を撫でてやると、額を押さえたツキは子供らしい無邪気な笑顔を見せてくれて頷き、弾む足取りで戸口まで向かっていく。そしてその扉の前で振り返ってきて、偉そうに胸を張った。


「オイラが大きくなったらアゲハの事恋人にしてやるっ。その時のオイラ、絶対にいちゃんよりも格好良くなってるから!」


 随分ませた事を言う。

 余程自信があるのか、笑顔に一点の曇りもなく、少しばかりだが大きく見えもした。


 紅葉は首を斜に微笑むと「期待してるわ」とあしらうような、それでも優しい言葉を掛ける。するとツキは楽しそうに笑い、持ち出しの許可を得に向かった。


 紅葉はそれを見送ると、本棚を背に座って首を鳴らす。目も疲れた。

 少しだけ眠い。


 紅葉はぼーっとしていたが、やがて静かな寝息を立て始める。しばらくして意気揚揚に戻ってきたツキはその寝顔に見惚れて顔を赤らめると、何故か慌てて自分の上着を掛けてやり、躊躇いがちに隣に座った。


 そして紅葉と同じく夢路を辿り始める。

 二人は本棚に背を、互いに肩を寄せ合い、異国の書架でそれぞれの夢を見る。



 



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