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第十四章 〜緑眼の少女〜





 スクライドに戻った樹楊は軍法会議にて注意を受けた。それは勿論上官であるミゼリアの命令を無視し、独断でアギの救出に向かった事。本来であれば減給や停職などの懲戒処分を言い渡されてもおかしくはないのだが、アギの巧者な口添えのお陰で一番軽い罰で済んだのだ。

 アギは宰相ジルフードや上将軍らから信頼が厚い。そのアギがそこまで言うのであれば、と樹楊は一番危惧していた減給処分を免れる事が出来た。


 その樹楊は今、自宅にてミネニャに問い詰めようとしていた。その内容は勿論。

「何でここに居るんだよ。つーか何で猫になってたんだ?」


 人型となったミネニャは首をコキコキ鳴らし、見付けたベッドの上で気持ち良さそうに転がっている。


「あっちに居ても暇だったんだ。で、遊んでもらおうと思ってここまで来たんだけど、街の入口に立っているおっさんに止められたんだ。通行証が無きゃ駄目だーって」


 だから猫の姿になって侵入したという。

 確かに本城があるスクライド城下町に入るには、領政官発行の通行証が必要となる。

 それが無ければ、いくらスクライド領地内の者であれ追い返されてしまう。

 しかしスクライド領地内に住む住人には出生と共に発行されるので、領政官に申請しなくてもいい。しかし樹楊の故郷は認可されていない為、発行されてはいない。


 ともあれ、ミネニャが猫型になったのは間違いではない。スクライド内を歩いていて通行証の呈示を求められるわけではないが、それはあくまで一般人であれば、だ。

 ミネニャみたいに獣の耳を持つ者が歩いていたら、間違いなく呈示を求められるだろう。


「キヨウ、何して遊ぶ?」

「あのな、兵士なんだ。遊ぶ暇なんて無いんだよ」


 実は訓練をサボって暇を持て余しているくせに、都合が悪くなった時にだけ兵士らしい事を言う樹楊。しかし、ミネニャは嘘を見抜かんばかりに凝視してきている。明らかに疑っている目だ。


「ウソだ」

「嘘じゃねーよ」


「ウソだ。キヨウは暇なんだっ」

「嘘じゃねーっつっとろーが」


 樹楊は胡坐をかいて、ベッドに背を預けた。するとミネニャが四つん這いで近付き、膝の上に両手を乗せてくる。そして下から顔を覗いてきた。

 琥珀の猫目が揺るぎなく、じっと見つめてきている。樹楊は浮気がばれた主人の気持ちが何故か解った気がした。堪らず、視線を僅かに動かすと、


「ホラ! やっぱりウソだっ。キヨウは私と遊びたくないんだっ」


 喉を鳴らして睨んでくるミネニャの爪が膝頭に刺さっていて痛い。何でそんなに遊びたいのか解らないが、寂しいのだろう、という思いも同時に生まれた。樹楊はミネニャの肩を押し、嘆息混じりに訊いてやる。


「わーったよ。何して遊びたいんだ?」


 ミネニャは表情を一変させ、嬉しそうにベッドの上を転げ回った。

 爪からようやく解放された樹楊は、冷蔵庫からお茶を出して飲む。


「ほら、何して遊ぶんだ?」


 再度問うと、ミネニャは人差し指を顎に当てて考え出す。その隙に樹楊はまた一口お茶を飲み出す。


「んーと、よく解らなかったけど、アレがいいな」

「アレ?」


 うん、とミネニャが楽しそうに頷き、口を開く。


「寝そべった男の上で女が縦に動くやつ」


 ぶひゃっとお茶を出す樹楊。お茶が気管に強行突破してきたのだ。

 樹楊は盛大に咽ているが、ミネニャは首を傾げていた。何を言ったのか理解していないのだろう。


「どうしたんだ?」

「ど、どうしたもこうしたもねーよっ。お前、何を言ってんのか――」


 解ってんのか? と訊こうとしたが、通信機の着信音にそれを遮られた。

 また任務か、と徒労感が身体を満たしていくが、ミネニャに構っているよりはいいか。と気を取り直す。


「ハイ、樹楊っすけど」

「おぉ、俺だ。サルギナだ」


 発信者はサルギナ将軍であり、少し慌てている様子が声音で解った。


 樹楊は床を拭きながら、

「鳩愛好会になら入らねーっすよ?」


「俺も入ってねーよ、んなもん! じゃなくてだな、今俺のとこに来た任務なんだけど、お前も興味があるかと思ってよ」

「俺が興味を?」


 きっとサルギナは通信機の向こうで頷いたのだろう。一呼吸を入れたサルギナは、極めて落ち着いた口調で告げてくる。


「ソラクモが壊滅状態にある」

「壊滅? 何だそりゃ」


「今ソラクモではな、大小様々な規模の地震が連続して起きているらしい。派遣していた俺の部下から朝っぱらに報告を受けてよ、今になってやっと現場の調査の命を受けたんだ。まぁ、ソラクモの住人には避難勧告を出しておけって言っといたから、被害は最小限で抑えられるかもしれねーけどさ」


 樹楊は通信を終えると、厚手のジャケットを羽織る。ぽかーんと見つめてくるミネニャの視線がこそばゆい。


「俺は任務で五日くらい戻らないかもしれねーから、冷蔵庫の中の物を適当に食っとけ。無くなったら床下の収納にあるものも食べていい。あと、ここから出る時は猫になるようにな?」


 樹楊が簡略的に言うと、ミネニャは頷く。任務だと解ってくれたらしく、大人しいものだ。しかし、その眼は寂しそう。扉を締めて階段を下るが、言い残した事があった。樹楊は一段飛ばしで駆け上がると扉を開ける。


「ミネニャ」


 ミネニャは耳をぴくっと動かして顔を上げた。ぱたぱたと駆け寄ってくると、服の裾ををちんまりと、申し訳無さそうに握る。


「冷蔵庫の隣の棚にチョコあるから、好きなだけ食べていいから、それと」

 顔を綻ばせるミネニャの頭を撫で、耳を触る。ミネニャは目を伏せて、弱々しく震えた。


「帰って来たら遊んでやるから、それまで我慢してろよな」

 耳を離してやると、ミネニャは耳を押さえて涙目になりながらも頷く。


「約束だぞっ」

「あぁ解ってる」

「うん、それなら我慢して待ってる」


 機嫌が良くなったのか、ミネニャはチョコを取りに棚に向かった。樹楊はその背中を見届け、扉を閉めた。



 ◇



 三日後。

 サルギナに同行の許可を得た樹楊は、ソラクモに向かっていた。

 サルギナとその部下二名に、樹楊と紅葉。

 計五人での現地調査の任務。


 ソラクモの住人は、サルギナが先手を打っていたお陰で無事に避難する事が出来た。しかし、その人数は都市一つ分。スクライドの避難施設にはそんな人数を収容する事は出来ず、近郊の街に協力を仰いで何とか全員を避難させる事が出来た。


 樹楊は先頭に立ち、ソラクモまでの道のりを歩く。そのペースは速く、サルギナらの顔には疲労が浮かんでいた。


「おい、そんなに急がなくてもいい。心配しなくても住人の避難は終えている」

「あ、あぁ。そうっすね」


 取り敢えず返事はしたものの、樹楊は早く現地に着きたかった。しかしそれは焦りからくるものじゃない。何故か引き寄せられていた。まるで恋人に会いにいくような、もどかしくて嬉しい感情が抑えきれなかった。隣で歩く紅葉は、以前のように文句の一つも溢さずにもくもくと歩いている。自分と同じで何かに導かれるように、しかし嬉しそうに歩いている。


「紅葉、何か楽しそうだな?」

「うん、何でか解らないんだけどね、すっごく楽しいの。早く行きたい。早く、ソラクモに辿り着いてこの気持ちが何なのか確かめたいのよ」


 登山を楽しむかのように汗を拭う紅葉は、そのペースを緩めようとはしない。樹楊もそれに倣い、ペースを落とさなかった。後方にいたサルギナらは苛立ったような顔で首を振る。しかしこれ以上離されるのが嫌なのか、何も言わずに歩いている。



 やっとの事で辿り着いたソラクモは、相次ぐ地震の所為で崩壊していた。

 電気が通っていなくて建物も石造りだからなのか、炎上した形跡は見られない。

 しかし自然災害の傷跡は生々しく、その恐ろしさを改めて思い知らされた。


「酷いね、これは」

 紅葉が瓦礫の山となった都市を一瞥して呟く。


 まるで怪物にでも暴れられたみたいだ。

 サルギナは二名の部下にそれぞれ指示を出し、自らも調査に身を入れ始める。そして樹楊と紅葉も自分が思う場所に向かう。しかし、樹楊と紅葉が向かう場所は同じだった。


 精霊の守護森。

 ベ・ヘルールに二人で足を踏み入れる。

 初めは歩いていたものの、次第に競うように走りだす二人。しかし、互いの眼中には森の最奥部しか映っていない。弾む心で走っていた樹楊だが、ある異変に気付いた。そして足を止めて辺りを見回す。


 森が――。


 ――枯れている。


 確かにこの森の植物が、この時期に枯れていないのはおかしい。しかし、以前に来た時は枯れていなかったのだ。その事態は異変とも言えるが、この森に限っては『ごく普通』だったはずだ。少なくとも樹楊はそう思う事にして黙認したというのに、今見ている森は枯れている。


 これは『この森』では異常な事態だ。


 樹楊の心に小さな不安がぽつりと落ち、炎のようにみるみる内に広がっていく。

 何が起きているのか解らない。


 何が起こったのか。

 答えを急くように、腕を大きく振った。

 答えは御神木にあるはずと、急いだ。

 そして辿り着いた、御神木がある広場。


 樹楊と紅葉は立ちすくむことしか出来ずにいた。

 答えが無かったのだ。そればかりか、謎が深まるだけの『結果』だけがぽつりと残されていた。



 中央にそびえ立つ、老齢の御神木の身体に穴が開いている。

 それは猫の瞳孔のように、アーモンド型の穴で成人男性の身長くらいの大きさ。

 そしてその穴から、赤茶けた液体が大量に漏れていて辺り一面に広がっている。


 樹楊は腰の鞄から鉄製の試験管を三本出すとその液体を入れた。少しだけ粘りがあり、匂いもしない。次に、御神木の中をライトで照らす。


「ちょ、アンタ毒性があったらどうすんの?」


 樹楊は振り返らずに答える。

 その声は、落ち着いていた。


「お前も……解ってんだろ?」


 それ以上は言わなくても通じると思って言った言葉。紅葉は樹楊が何を言いたいのか解ったのか「うん」と怒られた子供のように頷く。


 詳細不明・未確認物質を採取する場合は専門の調査員を呼び、現場の検証を行ってから初めて調査に出るのだが、二人は危険性がない事が解っていた。何故かは説明出来ないだろう。ただの直感なのだから。

 樹楊は引き続き、御神木の中をライトで照らして見る。


 下には、漏れている液体と同じような液体が溜まっていた。樹楊はその溜まっている液体をも、新しい試験管に入れる。上は二メートル辺りまで空洞になっていて、樹の内側には不可思議な液体が付着している。その証拠を取るべく、ナイフで樹の内側の皮を一枚剥がしてケースに入れた。紅葉はその間に現場の写真を撮っていてくれていた。


 一体何が起きたのか。

 そしてこの空洞の中には何があったのが。

 

 出てくるのは疑問符と溜め息だけ。

 自然科学が詳しいわけではない樹楊にとっては、これ以上何も出来る事が出来なかった。

 途方に暮れた二人は、重い足取りで森から出る。すると、既に調査を終えていたサルギナらが一服をしていた。


「おい、おっせぇぞ。何かあったのか?」


 そう言われて初めて、多くの時間を費やしていた事が解った。

 何かあった。しかし何があったかを説明出来ない樹楊は、サルギナらの調査結果を訊き返す。


「お前ね、俺が先に……まぁいい。こっちは何もなかった。逃げ遅れた人も居なかったし、おかしな点もない。ただの地震災害の跡地だ。で? お前の方は?」


 樹楊は紅葉が写真に収めた画像を見せながら簡単に説明を始めた。するとサルギナは何やら考え始めたあと、部下の一名に現場の確認を命じ、もう一人の部下に下山してラクーン領政官との通信を命じた。ソラクモは標高が高く磁場が悪い為、通信機が使えない。よって下山してからでないと通信を取れないのだ。


「サルギナ――将軍、何か思い当たる節でもあんっすか?」

「んー。まぁ、な」


 サルギナは瓦礫に腰を下ろすと、煙草に火を点ける。そして煙を吐き出したあと、頭を掻きながら話し始める。


「画像通りの現場、んでもってソラクモの地形から考えりゃ、何かが封印されていた確率が高いだろうな」

「呪縛の、か? でも一体何が……」


 サルギナは「さぁな」と呟き、また煙草を吸い始める。


「あの液体、恐らく『癒芽』だ」

「ユメ? 何っすかそりゃ」


 初めて聞く名前だ。

 それにしてもサルギナの知識の幅は広い。

 ソラクモの呪縛陣といい、今の癒芽といい、一体何処で学んだ事なのか。

 しかし、サルギナは樹楊の反応を見るなり、呆れたように咥えていた煙草を落とした。


「お前がぶち込まれていたカプセルに入っていた液体の事だっつーの」

「ヒーリング・ジェイムの事っすか?」


「あぁ、あいつはいじくり回したもんだが、間違いなく癒芽だ。と、言ってもだ。癒芽ってのは仮の名前でな、『全癒』を可能とした液体として付けられた名前だ。ちなみに芽は『芽吹き』から来ている。これで質問はねーだろ?」


 サルギナは面倒臭そうに説明し終え、また煙草に火を点す。

 樹楊としては、何故その癒芽とやらがここにあるのかを訊きたかったのだが、敢えて黙っておく事にした。訊いたとしても、サルギナとて解らない事なのだろう。と理解したからだ。そして自分の中では、何かが封印されていたと同時に保護されていた、と仮説を立てる事が出来た。



 森の調査を命ぜられた部下が返ってくるなり、サルギナは撤退をすると言う。解明されない謎が気になっていた樹楊としては、もう少しだけでもここに居たかったが、自分が居たところで何が出来るわけじゃない。そう思うと、サルギナの命令を聞き入れる他なかった。一応、将軍ではあるし。紅葉も同じ気持ちなのか、名残り惜しそうにソラクモを後にした。



 スクライドまでの帰路、派遣されてきた自然化学調査班とすれ違い、また三日掛けて自国へと帰った。


「たっだいま」


 収穫の無い調査は、疲労を溜めるだけだった。樹楊はベッドに寝転がると、目を伏せた。

 のだが、そこに思わぬ攻撃が。


「こらぁ、寝るなっ」

「ごっは!」

 

 ミネニャのダイビング・ボディプレスである。

 ミネニャは樹楊に圧し掛かると、肩を掴んでガタガタ揺らし始める。


「帰って来たら遊ぶって約束じゃないかっ。それなのに寝るとはどういう事だっ」

「お、おまっ、疲れてんだよっ。明日にしてくれっ」


 ミネニャは喉を鳴らして不機嫌をアピールしてくるが、とても遊ぶ元気などで出ない。

 ただ首を振って断りを入れると、ミネニャは力の限り頭に噛みついてくる。


「いっだぁぁぁぁぁ!」

「何だよっ。嘘吐きは嫌いだっ」


 そう言って猫になると、窓の隙間から軽やかに飛び出していく。釣られて家を飛び出しそうになったが、よくよく考えると追いかけるような間柄でもない。

 ミネニャは猫型だし、そもそも気紛れな猫だ。その内ひょっこり帰ってくるだろう。

 樹楊はシャワーを浴びると、上半身裸のままベッドに寝転がった。うつ伏せになり、枕に突っ伏す。


 そう言えば、ソラクモで採取した液体を提出するのを忘れていた。慣れない事だからなのか、自分の任務遂行までの流れに組み込まれていなかった。


 今から行くのも疲れる。

 夜も更けてくるし、明日でいいだろう。

 そっと目を伏せ、舞い降りる睡魔に身を委ねた。


「ねぇ、遊んでくれないの?」


 しつこい。

 ちょっと頭にきた樹楊は、無視している。


「寝てるのー? つまんないーっ」


 足をバタバタさせているのか、ベッドが不快な揺れ方をした。それでもまだ無視を決め込んでいたが、ふと違和感に気付いた。ミネニャにしては、やたら甘えるような声音だ。我儘っぽくて甘えるようで子供っぽいけど、どこか色気がある声。


「お腹も空いたぁっ。ねぇ、ねぇってばぁ」

 明らかにミネニャじゃないその声と態度に、樹楊は弾かれるように振り向く。


「きゃっ、な、何っ?」


 同時にナイフを押しつけながらベッドに倒す。その顔を見た樹楊は声を失った。白いワンピースを着ている女の子。


「乱暴は嫌だよ?」


 肩の下まで伸ばされた白銀の髪。

 艶のある、粉雪のようにサラサラして白い肌。触れた瞬間に心地良さが広がった。

 そして細い輪郭は儚くも美しい線を流し、くっきりとした目鼻立ちは芸術家の遺作のようだ。そして、その中でも――。


「どうしたの? 遊ぼうよっ」


 ナイフを首に当てられても、怯えないで見つめてくる目に心臓を根こそぎ奪われた感じがした。


 本来であれば白目である部分が淡いグリーンで、虹彩は深いグリーン色。黒い部分は虹彩の縁取りと、真ん中の瞳孔だけだ。樹楊は一目で人外の生命体だと解った。しかし、恐ろしさなど感じない。むしろ、心が安らいでいく感覚に包まれていた。


 声と同じく、我儘っぽくて甘え上手そうな顔立ちは幼さを残した色気を感じる。

 それはまるで、おとぎ話から出てきた女神のよう。


「ねぇってば。どうしたの?」


 樹楊は我に返ると、身を引きながら女の子の手を引いた。すると、その緑目の子は「わーいっ」とはしゃぎながら抱き着いてくる。


「ちょ、お前誰なんだよ?」

「えー、ひっどいなぁ。解んないの?」


 頬を膨らませて睨んでくるが、迫力はない。子供っぽい大人が睨んでくるように、可愛らしさはあるが。


「私はサラ。ソラクモにある森の樹の中に居たんだよ?」

 そう言うと、手の平を合わせてくる。


「アナタ、私を封じていた樹に手を添えてくれたでしょ?」


 にこっと微笑んでくれる顔には愛らしさが広がっていた。樹楊は少しばかり見とれたが、訊かれた事を思い出すとぎこちなく頷く。あの時、御神木の中に感じていた事は間違いじゃなかった。だとすれば精霊? いや、違う気もする。精霊独特の嫌な雰囲気がない。


「でもよ、何でここに?」

「そんなの決まってるじゃない」


 サラはベッドの上に立つと、挙手をして明るく声を張る。


「この度、私、サラは封印を壊してアナタに会いに来ちゃいましたぁっ」

「…………なんだって?」

「だぁかぁらぁっ」


 サラは腰に手を当てて、腰を曲げると顔を近付けてくる。


「アナタに会いに来たって言ってるじゃない。初めてアナタを感じた時ね、ぜーったい会いに行かなきゃって思ったのっ。封印を壊す時に凄く頑張ったんだよー? 身体が壊れちゃうーって思ってたけど、ていていって暴れてやっとの事で出られたぁって思ったら、壊れてたのはソラクモの街でしたぁっ」


 てへっと頭を小突くサラはとても無邪気だ。

 しかし、樹楊にとっては聞き捨てならない言葉があった。


 サラは『壊れてたのはソラクモ』とか言った気がする。聞き間違いだろうか。


「な、なあ」

「うん? なになにっ? 遊んでくれるの?」


 サラは飛び跳ねて正座をすると、距離を詰めてきた。緑色の眼は輝いていて、宝石のよう。


「い、いや。ソラクモが……何だって?」

「壊れちゃった」


 あっさりと言うが、それだけに樹楊の心に重く圧し掛かる言葉だった。

 何故なら、サラは自分に会いに来たいが為に無茶をして封印とやらを壊してきた。しかし、同時に壊れていたのはソラクモ。つまり、自分の所為になりはしないだろうか。

 一気に血の気が引いていくのが解り、堪らずベッドへ倒れた。サラは首を傾げるが、すぐに笑顔を取り戻して上に乗っかってくる。


 ふわりと、ウッド系の香水の香りがしたような気がした。嫌味など無く、優しい香りに目を閉じると大自然に囲まれる感じがする。樹楊が上体を起こすと、サラは後ろに転がって行く。しかし、むくっと起き上がると両手を着きながら前のめりに目を輝かせた。


「遊んでくれるのっ?」

「いや、遊ばん」


 樹楊は考えた。

 サラをどうするべきか。本当の事を報告するべきか。隠し事は得意ではあるが、これはもう隠し事で済ませられる問題でもない。そうなればサラをサルギナの元に連れて行く必要がある。


「なぁ、サラって言っ――」


 振り返れば、サラは片目の下瞼を人差し指で下げ、舌をべーっと出していた。

 あっかんべーとやっているのだろうか。


 だとすればガキっぽすぎる。


 サラはしまったとばかりに後頭部を掻くとソファーまで移動する。

 そして深く座ると、わざとらしく大袈裟に足を組んで髪を掻き上げた。


「何かしら? このわたくしに質問でもありまして?」


 演技臭いマダムのようだ。

 しかも似合っているから余計に顔が引き攣る。言葉を失っているとサラは表情を一変させ、また無邪気な笑顔になった。


「ねぇねぇ、似合ってた? 一度やってみたかったのよねっ」


 ニコもきゃーきゃーうるさいが、サラにも同じ類の匂いがした。ニコよりも身長が高くて断然大人っぽいが、それだけに可愛らしさが溢れている。


 しかし樹楊は長嘆。

 もう嫌だと呟くと、ベッドの中に潜り込んだ。


 今日はもう疲れた。何が、とは言わないがとにかく疲れた。

 そっとしといてほしい。


 切に願うも、サラは隣に寝転がってくると「くふふっ」と意地が悪いような笑みを投げ掛けてくる。しかし。


 サラは自分の胸に樹楊の顔を引き寄せて後ろ髪を優しく撫でた。

 そして秘境に流れる清流のように澄みきった声で歌い始める。その声は砂漠の砂に水が染み込むように、樹楊の身体の深くまで浸透してきた。

 樹楊は導かれるように目を閉じ、その香りと優しさに包まれながら夢路を辿る。



 翌日、樹楊はサラを連れてラクーンを訪ねた。案内されたのはラクーンの自室で、防音は勿論、盗聴防止も施された部屋だ。とは言っても、見た目は普通の部屋。

 真っ白なフローリングが清潔感を引き立て、観葉植物が部屋の隅にあった。


 同席してくれたのはサルギナ。朝早い所為で寝不足ではあるが。

 ラクーンはホットコーヒーを人数分用意すると、当たり障りのない笑みをする。


「それで、その少女がソラクモの――」

「ねぇ、私甘いのがいい。それに私はサラだよーっ」

 

 サラはブラックのコーヒーを置くと、不満をぶちまけて話の腰を折る。我儘なのはデフォルトのようだが、棘がなく見えるのは持前の容姿と声のお陰だろう。何も美がつくからではなく、無邪気であるからだ。


 ラクーンは「ハイハイ」と、すぐにコーヒーを下げてココアを用意するとキッチンに向かった。するとサラも仔犬のように着いて行った。


「なぁ、ずっとあんな調子なのか?」


 サルギナがコーヒーをすすりながら訊いてくる。興味があるって言うよりも、呆れている色が強い。


「まぁ、起きてからハイテンションっすよ。起きるなり身体を揺らしてくるし、起きなければ起きないで枕で叩いてくるし」


 でも寝不足ではない。昨日の子守歌で深く、ゆったりとした眠りにつけたのだ。起きた時は心地良くてずっと包まれていたい気分だった。


 ココアを持ってきたラクーンの後ろを着いてきたサラは嬉しそうに隣に座ってくる。


「さぁ、話の続きをしましょうか」


 ラクーンに促され、樹楊は事の全てを包み隠さず、全てをさらけ出した。

 兵の募集任務に感じた事。ソラクモの地形の事。

 そして昨夜、サラが言っていた事の全て。


 樹楊はソラクモの崩壊は自分の責任だとも思ったが、ラクーンとサルギナは声を揃えて「それは違う」と言ってくれた。ラクーンは珍しく重々しい顔つきで考え事をし始め、無言の時間が流れた。サラだけは鼻歌を歌っているが。


「サラちゃん、一つ、質問いいかな?」


 サルギナが切り出す。


「どうぞっ。訊いて訊いてっ」

「じゃあ。……サラちゃんは何者だ? 見た感じ、俺達人間を変わりはないようだけど、その眼だけじゃない。樹木の中に閉じ込められているなんて常識じゃ考えられない」


 サラはココアを置くと、にこっとする。


「んとね、私は木人」

「コジン?」


「うん。自然を母とし、父とする……まぁ、アナタ達の定義では亜人種というのかな。獣人目やエルフがこの世界を支配していた時、中立を貫いたたった一つの種族なの。私達は自然の創造種と言われ、何処に居ても宝物のように扱われていた」

 

 サラが一旦言葉を区切ると、コーヒーにミルクを入れて混ぜ終えたラクーンが続きを促す。

 普段と変わらぬ表情だが、その眼は好奇心で彩られている。


「ずっと昔……どの位前か分からないけど、冷戦とも言える膠着状態を続けていたエルフと獣人目の戦が大陸全土で狼煙を上げた。だけど双方の実力は五分。戦は数百年にも及だんけど決着がつくよりも先に、双方にとって絶望的な現象この星に起きた」


「サディズム・ミスト」


 唐突にサルギナは口を挟む。

 ラクーンはカップに口を付けながらサルギナを見た。勿論、樹楊も。

 サラは不意を衝かれたように顔を上げた。


「何すか、そのサディズム・ミストって」

 樹楊はサラにではなく、サルギナに訊いた。


 するとサラは頬を膨らませ、樹楊の足を踏む。しかし痛くはない。ムキになったサラはぐりぐりと足を潰すように踏みにじるが、樹楊はビクともしない。


「サディズム・ミストってのは自然現象の一つで、その名前の通りだよ。対象に苦痛を与えて快楽を得ているような霧の事だ。だけど、サディズム・ミストってのは『三つある霧』の総称なんだよ。この先は知らん。だからサラちゃんにでも話してもらおうや」


 樹楊とラクーンは頷き、サラを見た。

 しかしサラは不機嫌そうにココアをすすっている。


「おい、サラ?」


 樹楊が声を掛けると「ズズズズズッ」と、わざとらしく音を立てるサラ。そしてちらっと樹楊を冷めた目で見る。


「おい、サ――」

「ズズズズズビョッ! ――ぐひゃっ」


 どうやらココアが気管に入ったらしい。サラは隠すように咽込むと、鼻からココアを垂らしながら樹楊を睨む。やはり迫力はない。

 

「何で怒ってんだよ」

「私の事、無視した」


「してねーよっ。さっきのはサルギナに、将軍に訊く流れだったろうがっ」

「ち、違うもんっ。あそこで、滝を登ってくるお魚の勢いで私に話が流れてくる的な勢いだったもんっ」


 サルギナらの存在が消え失せたかのように、樹楊とサラは言い合いを始める。その隙に、ラクーンはコーヒーのお代わりを注ぎ、サルギナもそれに乗じていた。


「全っ然、そんな流れじゃねーっつーの! 大体何だよっ、その魚って。どこから出てきたっ」


「お母さんの口からに決まってるじゃないっ」

「ばっ、お前は馬鹿か!」


「酷いっ。私は馬鹿じゃないもん。昔から『サラちゃんは天才じゃにぇ』っちぇ、言われちぇきっちぇててゅえっ」


「お、お前なぁ。噛みまくったくせに、何で誇らしげな顔なんだよ……」


 サラは胸を張っていた。それはもう、さも偉業を成し遂げた科学者みたいに。頬には薄っすらと朱が差しているが。しかし、益々機嫌が悪くなったサラは話してくれそうにもない。それを危惧したサルギナは樹楊の隣に座ると、こそっと声を掛ける。


「おい、今は謝っとけ。続きが聞けんだろう?」

「なっ、何で俺――、まぁそうっすね」


 樹楊は溜め息を堪えてサラを見る。目を合わせてくれたのは一瞬で、すぐに逸らされた。

 少し腹が立つが、謝らなければ先を聞けない。


「悪かったよ。俺が悪かったから教えてくれ」


 樹楊が素直に謝ると、サラは勝ち誇ったように、フフンと笑う。そして髪を掻き上げた。

 昨夜のマダムを演じた時の仕草だ。


 サラはふんぞり返り、大きな動作で足をバッと上げ――ようとしたのだが、その振り上げた足がテーブルを蹴り上げてしまう。厳密に言えば、スネがテーブルの角に直撃した。


 しかもこのテーブルは床に打ちつけてある固定式。これを取り付けた時、ラクーンは「これならどんな筋肉馬鹿でも外せませんね、あっはっは」と心底楽しそうにしていた。

 と、言う事で、サラの華奢な足ではテーブルはビクともせず、でんっと構えている。

 サラは涙をぽろぽろ流しながら、強く打ちつけた足を必死に撫でまわしている。


「うぅー、いったぁい……」


 流石に同情した樹楊はその惨めなサラの頭を撫でてやった。ラクーンは「面白い子ですね」と、クラッカーをサクサク食べている。


「大丈夫か?」

「……うん、何ちょか足はついちょるけぇ」


 落ち着きを取り戻したサラは、訛り口調で痛めた足を撫でながら説明に入った。

 先程の怒りなど、足をぶつけた悲しさに上書きされたらしい。


「ん、とね。サディズム・ミストはね、『ブラッディ・ミスト』と『マッド・ミスト』と『ラスティ・ミスト』の総称なの。エルフと獣人目の戦を終わらせたのは『マッド・ミスト』。これを浴びた者は一人残らず狂いまくったわ。本当に……この世の終わりだと思った」


 サラの表情には、当時の凄惨な光景が影として落ちていた。余程残酷な世界を見てきたのだろう。


「世界が終ろうかとしていた時、私はね、空を支配していた獣人目『ララア』……ソラクモの先祖にね、拉致されてあの樹木の中に封印されたの」


「やっぱり、あの地形は呪縛陣だったんだな。でも何で……」


 サルギナが訊くと、サラは惜しむ事もなく事実を話してくれた。


「獣人目っていうのは、自然がなければ生きられない。ミストが届かないのはあの山の頂上だけだったんだけど、植物が生きていける環境ではなかった。だから私が植物たちの母として封印されたの」


 樹楊は多少なりとも癇に障られた感じを覚えた。何も正義を振りかざすわけじゃない。

 何となく気に入らない。その程度だが。

 そんな樹楊の心中を察したのか、サラはクスッと笑う。


「樹の中で得た情報ではね、そのミストの牙に掛からなかった獣人目やエルフが居たらしいわ。何とか逃げ延びて、そこで戦は幕を閉じたの。それで、数百年後」


 サラはラクーン、サルギナ、樹楊を次々に指差し、

「エルフと獣人目の混血であるアナタ達人間がこの世界に誕生したのよ」


 樹楊は勿論、ラクーンも驚きを隠せなかった。しかしサルギナは微塵にもその素振りを見せない。恐らく、その事は知っていたのだろう。


「それで我々人間は魔法を使えたり武術に優れていたりするわけですか」

「そう言う事だね」


 ラクーンは半透明のフィルムに、特殊なインクのペンでメモを取る。興味深い話だったのだろう。顔が綻んでいる。満足気にココアを飲むサラだが、樹楊は気になる事があった。それはこの話に関係のない事だが。


「他の二つのミストってどんなんだ?」

「んー? ラスティ・ミストってのは、万物を錆びさせるミストでマッド・ミストよりも性質が悪いって本に書いてたな。なんでも生物は急速な老化状態に陥って、鉄やらなにやらボロボロになっちゃうらしいよ?」


「随分と悲惨だな」

「うん。でもブラッディ・ミストだけは解らない。呪われた霧って本には書いていたけど、詳細は不明のまま。一説では存在しない霧とも言われてたし」


 サラは椅子の上で膝を抱えながら座り、無関心気味にココアを飲む。しかし樹楊らにとっては初めて聞く話なのだ。サルギナとラクーンは押し黙り、それぞれ何かを考えている。述べられた事実を咀嚼して呑み込むには、それなりの時間を要するのだろう。


 樹楊も例外なく考え込んでいた。


 自分たちが誕生する遥か昔に起きた惨劇になどは興味がない。雑学として覚えておく程度にしか留めていないし、壊滅したソラクモなどの事はもうどうでもいい。自業自得だし、サラに非はないのだから。


 そんな事よりも、木人という種族が気になっていた。自分が旅をしていた中でも知り得なかった種族。同年代の誰よりも知識があると自負していたが、どうやらまだまだ未知なる部分が世の中には溢れていたらしい。そう考えると、これからの事が面白くなってきた。そして旅に出たいという欲求にも駆られる。


 それにサルギナ。

 この傭兵上りの男も、相当な知識をその頭に詰め込んでいる。自分よりも豊富な知識を持っている。樹楊のサルギナに対する興味は膨らむばかりだった。酒を飲みながらでも語り合いたい。


 しかし、今はそんな事は二の次だ。

 問題はサラをどうするか。


「ところで、サラはどうします?」


 と、問い掛けると、サルギナやラクーンは何も言わずに自分を見てきた。

 何言ってんの? とばかりの視線。


 樹楊は自分を指差してみると、二人は当然の如く頷く。二度も。

 面倒を見ろ、と言いたいのだろう。樹楊は仕方なく了承の意を込めて頷き返す。


 ラクーンはおもむろに立ち上がると、

「今日はこれで終わりにしましょう。サラさんへの対応は、自然化学調査班の報告と検証が終わり次第、決めるとします。それでいいですね、樹楊くん」


「まぁ、キョウが事の発端のようだしな」


 ラクーンの人当たりの良さそうな笑顔と、サルギナの人を馬鹿にしたような笑みに、樹楊は再度頷く。それを聞いていたサラは、ココアを置くと首を傾げた。そして樹楊を指差す。


「これはキョウじゃなくて、きおーだよ?」


 その瞬間、三人の表情が一変した。和やかな雰囲気が一瞬で張り詰め、ピリピリとした空気が流れる。ラクーンの柔らかい表情は強張り、サルギナは腰の剣に手を掛けている。樹楊に至っては面食らった表情でサラを見ていた。


 その三人の反応に、サラはまた首を傾げる。

 樹楊はサラの眼を見ながら口を開く。


「何で俺の本名を知っている? 教えていないはずだ」


 ラクーンは勿論、サルギナも樹楊の本名を知っている。そしてクルード王の血を継いでいる事も。サラは取り繕わない笑顔で、やさしく微笑んだ。向けられる眼差しに愛しさを感じる。


「ずっと前から知ってるよ」

「ずっと……前?」


「うん、何千年も前から知ってる。アナタは私に子を授けてくれるただ一人の……」


 サラは樹楊の首に腕を回すと、優しく近付ける。そして……。


「ロア・ラズラートゥ・ミア」

 呪文のような言葉を呟きながら、そっと、誓いのように慈しむように唇を重ねた。


 樹楊は目を伏せていなかった。

 それなのに、目の前には大自然が広がっていく幻覚をハッキリと目の当たりにする。

 サルギナやラクーン、唇を合わせていたサラでさえ目の前から消え失せていた。くだらない孤独感など感じる暇さえ無い。


 エメラルド色に染まる草原の穂先の上を走りまわる風は、緑の香りを届けてくる。草原の息吹がここにはあった。太陽は黄金色に微笑み、世界を惜しみなく照らしている。

 まるで人類が世を汚す前とも言っても過言ではない世界の中心に、自分が居る。

 

 樹楊はその幻覚の中を歩きだした。

 幻だと解っている。だけど、何故か懐かしい感情が身体を満たしていく。


 嬉しいような、寂しいような。

 それでも溢れてくる愛しさに包まれる全ての感情は頭を現すだけで、表だって出てこない。


 そして随分歩いた先に、老齢で堅牢な樹木が一本立っていた場所を見つけた。

 そしてその隣には空を鏡のように映す湖がある。太陽の光を眩く反射してキラキラと、キラキラと。湖の先の水面は、大きな樹の傘に影を落とされ、涼しげに揺れている。

 そこに辿り付き、水面を覗くと自分の顔が映し出された。


 良く見慣れた顔だ。

 などと、どうでもいい事を確認していると、後ろから柔らかな衝撃が襲ってきた。

 樹楊は勢い良く吹っ飛ばされる。


 それは湖の中央まで。


 必然と湖に落ちた樹楊が何事かと振り返れば、サラの顔が目の前にあった。

 優しく見つめてくる緑色の目に、変わらぬ愛を広げている。


 樹楊はサラに頬を両手で挟まれたまま、湖の深くへと沈んでいく。

 しかし苦しくない。怖くもない。

 見上げる水面は光で輝きながら揺らめき、液体の宝石みたいだった。


 サラは水中であるのにも関わらず、言う。


「……ロア・ラズラートゥ・ミア」


 その言葉を贈られた瞬間、樹楊は現実に落ちてきた。それと同時にサラの唇が離れていく。サラはゆっくり離れていくと、悪戯っぽく舌を出す。ラクーンとサルギナは呆気に取られながら見ていた。鳩が豆鉄砲を食らった上に、餌を横取りされたような顔だ。


「あの、俺……何分くらいキスしてました?」


 心ここにあらず、といった面持ちで樹楊はサルギナに尋ねた。すると、我に返ったサルギナは羨ましそうに睨んでくる。


「二、三秒じゃね? 何分にも感じるくらい天国だったのか、こんちくしょー!」


 サルギナは脱力して剣を離し、ラクーンは「いいですねー」とニコニコしていた。

 しかし、樹楊は喜んでなどいない。

 何十分にも感じたあの幻は、やはりただの幻だったのか。妙に現実味があったけど。


 ふとサラを見ると、ウインクしながら人差し指と唇で十字を作っていた。

 あれは……現実?



 ラクーンに手をひらひらされながら「お幸せにーっ」と、ほんわかに見送られ、樹楊はサラを連れて城下町を歩いていた。樹楊としては『面倒事』を持ち歩きたくはない。しかし、その面倒事に興味があるのも変わりようがない事実。

 何も下心があるわけじゃなく、木人という未知なる生命体についてだが。


「ね、キオー。何か食べていこー?」

 サラが腕を組んできて、グリーンの瞳を向けてくる。恋人気分なのか、声と笑顔の煌めきが弾んでいる、この瞳は木人にだけ許された特徴なのだろうか。それとも、サラだけなのだろうか。虹彩がグリーンというのも珍しい。しかし白目の部分に色があるというのは初めて見る。遠くから見れば、眼球全てがグリーンと勘違いするだろう。


 この瞳を見たとき、恐怖などはなかった。反対に安らぐ自分が居た。知的好奇心など置き去りに、ただただ安らぎが身体を満たしていた。


「別にいいけど、寒くないのか?」


 なんたってワンピース姿だ。見ている方が寒い。と言うか、頭が悪そうに見える。

 サラは周囲の人々を見回し、自分の姿をじーっと見つめる。そして細かく震えると、自分の身体を抱き締めて顔を上げてくる。


「寒い……」

 と、涙をぽろぽろ溢し始めた。


「ちょ、泣くなっての。つーか気付くの遅くねーか? 俺もだけど」


「キオーのばかぁ」

「俺の所為かよ」


 行き交う人達は、めそめそ泣くサラと隣にいる樹楊を交互に見る。朝っぱらから彼女を泣かせる最低な男にしか見えていないのだろう。

 樹楊はジャケットを脱いでサラに被せると、手を引いて自宅へと向かう。確か身体が小さい頃の服があったはずだ、と。


 樹楊は思う。

 これ以上面倒な事にならなければいいけど、と。


「あっははははははは。キオー、早いよっ。そんなに急いでどこに行くのっ」


 ついさっきまで「寒い」と泣いていたくせに、今はもう楽しそうに笑っているサラ。

 樹楊はこんなにも天真爛漫な女の子は見た事がなかった。ニコも同じ類だが、少し違う。

 どこがどう違うとは言えないが。


 そして繋いだ手を離したいと思えなかった。

 面倒な奴だと思うのに、何故だろう。

 ずっと繋いでいたい。


 素直にそう思った。


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