第十章 〜チカラ〜
〜 チカラ 〜
1
ミゼリアは、同姓に力の差を見せつけられた。いくら心に炎を宿そうにも、この実力差は埋まらない事が嫌でも解る。
スイと名乗る鉄扇使い。サイと名乗る棒使いの双子の姉という、クルード兵だ。
殲鬼隊の噂は聞いていたが、ここまで実力差があるだなんて思っていなかった。
ミゼリアは、背後をちらっと見る。
そこには、頭から流血して気を失っている樹楊がいる。自分が負ければ、樹楊は……。
「アンタもしぶといね。そんなにその男が大事なの? それだったら大人しくしてれば、一緒に逝かせてあげるけど?」
鉄扇をひらひらさせながら、スイはミゼリアを見下す。後ろでは暇そうなサイが欠伸をしていた。
「姉ちゃん、ボク暇だから兎狩り行っていいかな?」
スクライドもナメられたものだ。兎呼ばわりされるとは。
スイに、虫を相手しているかのように手で払われたサイは、肩をすくめるとやる気のない走りで駆けて行く。
「さ、いい加減に死のうか。ゴミを相手してるほど暇じゃないしね」
「やれるものならな。私とてただでは死なん。その腕の一本くらいは貰うぞ」
ミゼリアは無駄のない足運びで制空権を握るが、攻撃の予備動作に入った途端に間合いを離された。ミゼリアの攻撃はコンパクトで遅くはない。しかし、スイの動きはそれすらを上回るのだ。スイは嘲笑うと、踊るような動きで鉄扇を振り回す。適当に振られているかのようだが、その攻撃は的確でトリッキー。ミゼリアはかろうじて四合まで防ぐが、荒れ狂う乱舞の餌食となった。
動きが読めない。左を防いだと思えば、右にくる。しかもそれは防ぎ辛い角度で。それを防いでも追撃が津波のように襲ってくる。
「くあっ!」
ミゼリアは吹っ飛ぶが、すぐに剣を杖の代わりにして立ち上がる。
鼻血が出ている所為で呼吸が乱れやすく、十分な酸素が身体中に回らない。
唾を飲むのも苦しい。卵を丸ごと飲み込んだ方がマシだ。
「アンタ、ミゼリアとか言ったな?」
「それが、どうっした?」
スイは意地が悪い笑みをその顔に張り付けると、樹楊に視線を移す。
「この男、気絶する前に言ってたっけ。『ミゼリンを助けなきゃ』って。はっ、助けるもなにも、気ぃ失ったら何も出来ないだろってーの! あっはっは! クソはクソみてぇな事しか言えないのかよっ」
愉快そうに嘲笑うスイを見て、ミゼリアの胸の奥。心臓のど真ん中で何かが動いた。強く、強く。熱く。
「お前! その口を閉じろッ!」
身体中の力を掻き集め、一瞬で爆発させた。紛れもなく、最高の一撃である。
眉間に縦筋が深く刻まれ、犬歯が剥き出しになっている。
剣は追い風をも切り裂き、風に悲鳴を上げさせる。
それは護る剣でもなれば闘う剣でもない。ただの暴力的な剣だった。
しかし。
「そーれーで?」
スイはその一撃を鉄扇の先で流し、身体を回転させて鉄扇を振りかざす。
遠心力で威力が増した攻撃は、ミゼリアの肋骨を二本砕き、その細い身体を軽々と飛ばした。
「う、がっ」
転げ回ろうとするミゼリアの右腕を、スイは踏み潰す。
鈍い音と鋭利な音が重なり、身体中に響き渡ると、ワンテンポ遅れてミゼリアの悲鳴が木霊した。
「うぁああぁぁぁぁぁあああああああ!」
骨が折れた利き手は剣を離した後、激痛だけを身体に残す。
スイは悦に入った表情で、ミゼリアの腕を踏みにじっている。その足を退けようと、残っている手で押すが、力が入らない所為かビクともしない。
「あっはははははははははっ。きゃわゆい声で鳴くのね、ミゼリン?」
「う、くっ。黙れ、アバズレ」
ミゼリアは激痛にも負けず、汚い言葉を贈ってやった。スイの表情が怒りに変わっていくと、ざまあみろ。そう思う。
スイは無言でミゼリアの剣を取ると、上に振り被った。
「アンタ、勘に触るんだよ。さっきからさ」
「私も同じだ。腐った臭いを嗅ぐのは不快で堪らない」
スイの額に青筋が入ると、剣が鈍く光り、一直線に向かってきた。ミゼリアは歯を食い縛る。だが、目は閉じない。兵たるもの、最後まで臆さない。
それがミゼリアの心を強くする。
その思いが届いたのかどうかは解らないが、止めの一閃は途中で止められた。
何者かが受け止めたのだ。ミゼリアはそれが誰か解らなかった。
裾がボロボロの長衣は深紅で、その膝まで伸びたレモン色の髪。
帽子を被っているのだろうか。寝転んでいる所為で、その者の背しか見上げる事が出来なかった。
しかし、この深紅の長衣は確か……。
赤……麗。
その赤麗らしき者は、スイを力で弾き飛ばすと振り返ってきた。
「大丈夫?」
心配しているのか、そうじゃないのか。すんごく迷惑そうに訊いてくる。
その瞳は深く被った帽子で見え辛いが、冷たく光っていた。
口からはプラスチック製の棒が出ている。飴……だろう、多分。
「あ、ありがとう。……すまない」
「別に。ついでだし」
本当に迷惑そうである。
助けてもらって何だが、嫌なら助けなければいいのでは? と訊きたい。
「お前はゼクト!」
突然、スイが叫んできた。
どうやら知り合いらしい。
「あぁ、スイさんでしたか」
何やら怒りの炎を見せるスイとは温度差の激しい態度のゼクト。
その険しい視線を無視して、樹楊に近付く。
そして軽々と抱き上げると。
「じゃ、頑張って」
まるで「関係ないですから」
と言わんばかりに退散しようとする。
流石にミゼリアは戸惑った。
自分を助けたのは、本当についでだったのか。とも同時に思う。
「待てよ! クソが!」
スイが汚い言葉で怒号を上げる。眼は狂気に歪み、先程よりも大きな殺意を纏っていた。
ゼクトは何歩か歩くと、何? と無愛想に振り返る。
「裏切り者のゼクトが! 何を無関係な顔で帰ろうとしてんだよ!」
「あー……。後でにしてくれない? 私、このおにいさんを連れて行かなきゃなんだよね」
「調子くれてんじゃねぇよ!」
ゼクトの言葉を起爆剤としたスイは、疾風の如く襲う。
ゼクトは鼻から溜め息を逃がすと。
「めんどいなー」
樹楊を、ぽいっと捨てた。
本当に助けにきたのか不明である。いや、最初から迷惑そうだったし、本当は助けたくないのかもしれない。樹楊はゴロゴロと転がっている最中、スイとゼクトは鍔迫り合いを始める。
ゼクトの眼には、迷惑そうだがしっかりと闘志が宿っていた。
スイは鉄扇を返してゼクトのバランスを崩そうとするが、上手くはいかないようだ。
ゼクトは軽やかに前宙し、その大鋏を分解して回転する。
その切っ先はスイの前髪を奪っただけ。
しかし、ゼクトの追撃が襲い掛かっていた。
足をガードに突っ込み、短剣でスイの足を狙う。それをスイはジャンプで避けるが、ゼクトの更なる追撃。長剣の刺突。
ミゼリアは決まったと思った。
しかし、スイは空中で上体を反らしでその刺突を避け、反動を使って爪先でゼクトの顎を跳ね上げる。ゼクトは一瞬浮かぶが、バック宙で体勢を整えて着地。そして長剣の峰でスイの脇腹を叩いた。
その攻防は、ミゼリアの驚愕を買うのには十分だった。
過去にサルギナとグリムの打ち合いを見た事はある。その時には、何とも力強いのだろう。と、感心した。この力強さは男性ならでは、だと。その時から、力ではなくテクニック・スピードを磨き上げようと決めて訓練しまくってきた。それは時間が経つと共に、己の身体に染みついてきて実感さえも得ていた。それは、自分が誇るべきスキルだと思いさえもした。なのに、それなのにこの二人は。
自分の力を遥かに凌駕し、目指してきたものすらも超えている。
一つ一つのアクションが、ミゼリアの自信を砕いていく。アイスピックに端から砕かれる氷のように。自分はスイに遊ばれていたというのに、ゼクトは喰らい付いている。いや、今も繰り広げられている攻防では、ゼクトが押している。双方トリッキーでありながら的確な攻撃。そして防御の技術。全てが自分の上を行っている。
殲鬼隊とは、赤麗とはこんなにも強いのか。桁が違い過ぎる。今の今まで訓練に没頭してきたというのに、何故こんなにも差が出る?
雑草は所詮雑草なのか?
ミゼリアが絶望に呑み込まれようとしている最中、勝敗は決まろうとしていた。
あのスイが、膝を着いて肩で息をしている。
それを見下ろし、剣を突き付けているのはゼクトだった。
ゼクトとて足がフラつくほどのダメージを負っているが、スイほどではない。
「クソがぁ、裏切り者に負けて堪るかよ」
「しつこいなぁ」
裏切り者? どういう事だろうか。
顔も知っているようだし、もしかしてゼクトは元・クルードの兵?
そうも訊けずにいると、ゼクトは長剣を突き付けたまま短剣を振り被った。
最後まで隙のない少女である。剣を突き付けられては動けるわけがない。その上で、もう片方の剣を振られたら終わりだろう。
決まった。誰もがそう思った瞬間。
今度はスイが救援を受ける。
短剣は銀色の棒で遮られた。
その者はスイと同じ顔の男、サイだった。
サイは鞭のようにしなる蹴りでゼクトを吹っ飛ばすと、スイの頭を撫でる。
「姉ちゃん、大丈夫?」
「助かったよ、サイ」
ゼクトは嘔吐するも苦悶の表情で立ち上がる。その表情は「面倒だ」と語っていた。
スイは座ると、ゼクトに向かって勝ち誇った笑みを投げつけた。
「サイは私よりも強い。ゼクト、お前も終わりだよっ」
サイは肩をすくめ、やれやれと首を振る。
その銀色の棒には血がベットリ付着している。恐らく、それはスクライドの仲間の血。
「ボクはお腹が空いてるんだ。さっさと終わらせようか?」
「はぁ……。おにいさん、護らなきゃなんないってのに」
ゼクトはぶすっと吐き捨て、近くに転がる樹楊の頭を軽く蹴った。
反動で血がぶしゅっと噴き出したが、見なかった事にする。
「こら。死んだら蓮に怒られるよ?」
薄暗い闇の中から、とても澄んだ声が聞こえてきた。規則的に足音を鳴らし、近付いてくる者は……。ミゼリアはすぐに解った。この澄んだ声はあの人の。
勿論、ゼクトもすぐに解ったようだ。心なしか、安堵の表情を浮かべているようにも見える。
しかし、サイとスイだけは解らないらしく、闇を食い入るように見つめていた。
その静寂を破って現れたのは、紅葉。
「や、ミゼリア。元気――そうじゃないわね。ゼクトもボロボロ。ご苦労さんだったわね」
ゼクトは道を譲ると低頭する。
「お、お前は紅葉!」
スイが声を荒げるが、紅葉は聞く耳も持たずに気絶している樹楊をつんつん突いていた。
「すみません、紅葉さま」
「別にいいって。生きているようだし」
にこっと笑う紅葉。完全に無視をされているスイは、獣のような瞳で睨んでいる。サイは何か納得した表情をしていた。
「紅葉! 殺してやる!」
「あれ? 確か……スーだっけ? 何よ、いきなり吠えて。馬鹿っぽいわよ?」
「サイ! 殺せ! あのクソ女、ぶち殺せ!」
スイの怒号を仰いだサイは溜め息を吐くと、仕方なくといった感じで棒を構える。
対して紅葉は剣も抜かず。後頭部をポリポリ掻いて、極め付けに欠伸。
いくら赤麗のトップでも、アレは油断しすぎだろう。スイの実力はゼクトと五分と言っても過言じゃない。サイはその上を行くと言う。
せめて構えるくらいの事をしなければ。
「紅葉さん! そいつは強いです!」
ミゼリアは痛みを忘れ、紅葉に注意を促した。紅葉は笑顔で返してくれたが、構える様子などない。
サイは含み笑いをして、
「ボクをナメちゃ痛い目を見るよ?」
「解ったから。早くしてよね」
その途端、サイは高速の蛇行で間合いを詰めると、一瞬で紅葉の背後を奪う。
そして渾身の一突きを紅葉の後頭部に見舞おうと、回転させていた鉄棒を振り被る。
しかし、その一撃は難なく避けられた。
僅かに首だけを動かしただけで、後ろも見ずに、あっさりと。
「嘘っ」
サイは驚くが、流れる動きで棒を振る。だが、その横薙ぎもあっさり避ける紅葉。
そこでやっとサイと正面を切る。
「で? 何なの、何がしたいの?」
紅葉はつまらなそうに訊くが、サイは答えられない。言葉ではなく、攻撃でと言わんばかりに突きの連打を繰り広げる。紅葉はそれを眼で捉えながら、最小限の動きで避ける。決してガードはしない。何本にも見える突きを、紅葉は完全に見切っているのだ。
あんな連撃、自分には避けられない。第一、見えない。とはミゼリアの率直な感想。
スイよりも強いサイの攻撃を、いとも簡単に避けている。
「くそ! ボクの攻撃が!」
「るっさいわね」
紅葉は棒を掴み、力任せに引き寄せると固く握られた拳を鳩尾にめり込ませる。
サイの身体は折りたたまれたかのように曲がり、次いでインパクト音が遅れて聞こえた。
「――――――っぐ」
サイは堪らず棒を手放した。腹を押さえ、膝を折り曲げて地面に突っ伏す。
口からは唾液が流れ、異常なくらいに震えていた。
チアノーゼなのだろう。顔が紫色になっていく。
紅葉はボールを蹴り飛ばすように、うずくまるサイを蹴飛ばすと欠伸をして目を擦る。
あれは……サイは生きていられるのだろうか。紅葉の一撃は、見るからに重い。重すぎる。きっと最初の一撃で勝負は決まっていた。
「サイ! サイ!」
スイはよろめきながらサイに駆け寄った。
しかし、壊れた人形みたいなサイは動かない。
「っと、殺してやろうかと思ったけど、そうはいかなくなったわね。逃げるよ、ゼクト」
「はい」
ゼクトは紅葉に対しては迷惑そうには返事しなかった。
紅葉は樹楊を抱え、ゼクトはミゼリアを抱えて走り出す。クルード兵が来たらしい。
それも殲鬼隊のようだ。
流石の紅葉でも、三人を護りながら戦うのは骨が折れるのだろう。
旧ネルボルグを抱えられながら脱出する際に、ミゼリアはサイを見た。その傍らに居たスイの眼は怒りに染まり、こちらを睨んできている。
対してミゼリアの瞳は、虚ろで負に淀んでいた。
◇
スクライドの旧ネルボルグ侵攻戦を失敗に終えてから一か月が過ぎようとしていた。
あの日、生き延びられたのはミゼリアと樹楊。それにサルギナとその部下三名のみであり、皆重傷を負っていた。
肝心の間諜の件だが、目星はついていたものの、生憎捕まえる事が出来なかったらしい。
そいつが居た部屋はもぬけの殻になっており、後を追おうにも手掛かりの一つもない。
犠牲者を出しただけの侵攻戦は、悲しみとクルードの強さを見ただけに終わってしまった。
それでも季節は過ぎ行く。
空からは雪が降ってきており、足首が埋まるくらいにまで積もっている。
こんな日の夕食はシチューだと、必要な食材を買い揃える主婦もちらほら見える。
ミゼリアは右腕を固定し、騒がしい酒場などではなく、一人で静かに飲めるバーに来ていた。
ここ一か月、ミゼリアの様子がおかしかった。いつも通り、怪我をしても可能な訓練に勤しんでいる。それ自体は悪い事ではないが、ミゼリアの落ち込みぶりは兵の間でも話題になるほどであった。
何もかも嫌になっていた。
築き上げたものが、するりと手から抜け落ちたような気がする。いや、元々手にしてなかったのかもしれない。空に浮かんだ雲を掴んだ気をしていて、自信を持っていただけで実は何も掴んでいなかった。それだけなのかもしれない。
酔いが増す毎に、嫌気も膨らんでいく。
頬には朱が差し、目が据わっていた。
バーのマスターが「飲み過ぎでは」と気を使ってみるものの、ミゼリアは一睨みして御代りを要求する。
最早肩肘を着かなければ上体を支えられなくなっていた。
そんなミゼリアの元に、来たのは樹楊。
「今晩はっす。どうしたんすか? 最近様子がおかしいですよ?」
「……別にっ。どうでもいいだろう?」
カクテルをやけ酒のようにあおり、もう一杯。
樹楊は適当なカクテルを注文すると、ミゼリアの横顔を見ていた。
「一人にしてくれないか?」
「俺も一人で飲んでるんすよ。気にしないでもらいたいっす」
他の席が空いているというのに、隣に座っている樹楊。説得力がない。
しかし、一言も声を掛けてはこなかった。
ただ静かに飲みながら、店内に流れる音楽に耳を傾けているだけ。視線すら合わせてこようとはしない。この男は人の心を掴む術を持っているのだろうか。今の自分は言葉を必要としていない。微かに腕が触れ合っているのは、樹楊が身体を寄せてきたから。
でもその腕から伝わる体温が、何とも心地良かった。
気付けば樹楊の肩に頭を乗せて身体を支えてもらっている。それに気付いても姿勢を変えようとは思えない。
このまま甘えていてもいいのだろうか?
疲れた……。何もかも、疲れた。
でも休んではいられないだろう。
隊も編成しなければならない。自分の腕も磨かなければならない。何をどうすればいいのか解らないが、止まっている場合じゃない。広がるのが暗闇だけでも、手探りで探さなければ。転んでも這いつくばってでも進まなければ。
だけど、何を探せばいい?
何処に進めばいい?
それすらも解らない。宛てのない未来は、こんなにも暗いものなのか。
落ちているのか、歩けているのか、自分が笑えているのかさえも解らない。
なあ、どうすればいい?
何をすれば、何処に進めばいい?
教えてくれ…………。
ぼーっとしながらもたれ掛かっていると、樹楊の肩が微かに揺れた。
「俺にはサルギナ――将軍のような上官があっているんです。適当で、部下の態度も気にしない傭兵気質の上官が合ってるんすよね」
ミゼリアは肩に頭を乗せたまま樹楊の横顔を見た。樹楊はこちらを見ずに、カクテルグラスを傾ける。
「ミゼリア小隊長は厳格で軍人気質で、正直疲れるんすよ。俺にとっては」
何故今になってそんな事を言う?
お前も消えようと言うのか?
残された部下はお前しかいないと言うのに。
ミゼリアは堪えるように目を伏せるが、樹楊は構わず続けた。
それはミゼリアに対する不満ばかり。
このように思われている事くらい解っていた。気付かなかったわけじゃない。
だけど、今このタイミングで聞かされるのは辛かった。
全てを失った。率直にそう思った。
この男も自分の元から消えようとしている。だがそれを咎める気など起こりはしなかった。弱い自分に着いて来ようとする部下など居るはずもない。
黙って見送るのも上官である自分の務め。
失えばいい、全て。
何もいらないんだ。もういらない。
ミゼリアは伏せた眼を薄っすらと開けた。アルコールの過剰摂取で視界が歪でいる。情けない。
「解りました?」
「あぁ、十分に解った。私は厳しすぎたかもしれない。お前にとってはうるさかっただろう」
「その通りっすね。いつも訓練ばかりしてるミゼリア小隊長には着いていけないっす」
ミゼリアは樹楊の肩から頭を離し、カウンターに肘を着いた。シャンパングラスに入った微炭酸のカクテルに自分の顔が映った。底から気泡が上がってきては弱々しく弾ける。
これで本格的に一人だ。
今まで部下を支えているものばかりだと思っていたが、支えられていたのは自分だったのだ、と今更ながら解る。目頭が熱くなり、鼻腔の奥がツンとしてきた。
ミゼリアは下唇を少しだけ噛み締めた。せめて労いの言葉を掛けようとしたが、口火を切ったのは樹楊の方だった。
「だから、たまには訓練休んで下さい。そんなんじゃ、俺のサボり癖が目立つんすよ」
「……え? お前、私の隊から抜けたいんじゃないのか?」
「まさか。俺の上官は」
樹楊はミゼリアの頭を撫でると、馬鹿にしたような笑みを向けてきた。
「ミゼリンだけっすよ」
時が止まった感じがした。店内に流れる心地良いBGMも、見知らぬカップルの愛を奏でる会話も何もかもが消え失せる。
樹楊の言葉を引き立たせるように。
樹楊の言葉に消滅させられたかのように。
樹楊の顔は憎たらしく、腹が立つ。
いつもなら。
だけど、今だけは優しく見えた。柔らかくて、母の温もりが蘇る。
何もかも、無償の愛で包んでくれた母の優しさが、頼り無い部下から溢れていた。
ミゼリアは俯くと、下唇を噛み締める。
肩が弱々しく震えていた。
声もそれに倣うかのように震える。
「なぁ、樹楊」
「何すか?」
「肩……借りてもいいか?」
樹楊は言葉の代わりに、頭を撫でる事で応えてきた。それだけじゃイエスかノーか解りはしないが、自分がしたいままにする。ミゼリアは樹楊の肩に頭を乗せると、震えを大きくした。
辛かった事が、悔しかった事が全て涙になって出てきた。その中には樹楊の優しさに触れた感動も含まれている。
ミゼリアは声を上擦らせるが、それを隠そうとしているようだった。
「私は、強く……なりたい」
「なれますよ」
「だけど才能がないっ。いくら頑張っても、何も……」
「努力を上回る才能なんてないっすよ。ミゼリンは強くなれるっすよ。誰よりも」
フォローをしてくれているのだろうか、とも思いもしたが、この男は変に気を使う者ではない。それだけに、その言葉は力強くて、遥か長い道のりを前に立ち止まる自分の背を押してくれたような気もした。
「泣いてもいいか? 泣いてもっ」
「もう……強がらんで下さい」
小さく頷いたミゼリアは、樹楊の肩に顔を突っ伏すと声を殺して泣いた。
「もういいんですよ」
その穏やかな言葉が嬉しい。悔しい。本当は泣きたくない。だけど、止められなかった。
泣くのは何年振りだろうか。
泣きたい時もあった。だけど、自分には泣いている暇など無いと、泣いてはいけないと強迫観念を受け入れて堪えてきた。それなのに、何でだろうか。
こんなヘタレの肩で、何でこんなに落ち着いて泣けるのだろうか。
答えは――今はいらない。
ただ、甘えておこう。
「ミゼリンの泣き顔、そそるモンがあるっすね」
「馬鹿か、お前はっ。それにミゼリン言うな」
樹楊はカクテルを一口飲むと、溜め息を漏らし、
「ハイハイ」
その生意気で無礼な言葉が、嬉しく思えた。