プロローグ 投げかけられた提案
2023/11/20改稿済
大切な存在を作ることが怖い。
両親を亡くしたあの日から、常々そう思う。
友達にしろ恋人にしろ、家族にしろ。
大切のカテゴリーに入れてしまったら最後、失うことが怖くなる。
だから新たな関係を築けなくて、今ある関係を大事にして、あと一歩が踏み出せない。
妹のことを最優先にして、他との関係を薄く保ってきた。
でも……。
だけどもし、環境が変わったとして、状況が変わったのなら。
僕は一歩、踏み出すことができるのだろうか──
◇
──チリンチリン。
喫茶『幸』。
来店を知らせる心地良いベルの音が店内に鳴り響く。
その音を耳に入れ、ここの従業員である僕──榊原優は入り口に目を向けた。
白と黒を基調とした制服の皺を伸ばし。目にかかるくらいの黒髪を退けて、決まった挨拶をする。
「いらっしゃいませ」
「おや、今日は優くんもいるのか。ちょうど良かったよ」
「はい、始業式で早く終わったんです」
来店したのはここの常連客である七瀬誠二郎さん。誠実そうな見た目と優しい笑顔が特徴で、いつも気さくに話しかけてくれる。
まだ九月上旬だからか暑さも抜けず、ハンカチで汗を拭いながらの登場となった。
「そういえばもうそんな時期だったか。娘もそう言っていたよ」
「ああ、ご自慢の……」
「はは、そうだね。ちょうど優くんと同じくらいの歳になるかな?」
常連ということもあり、席まで案内するのは慣れた手つきだ。雑談をしつつ、いつものカウンター席に案内して、お冷とおしぼりを提供する。
ここで働いて三年近く。これまでの手順は慣れたものだった。
「そういえば七瀬さん、僕に何か用が?」
入ってきた時の「ちょうど良かったよ」と言う言葉が気になった。
「ああ、そうだね。だけどその前に玄さんと少し話がしたいんだ。呼んでもらえるかな?」
「わかりました、すぐに呼んできます」
「ゆっくりでいいからね」
玄さんとはこの店の店主である玄秀幸のことだ。ダンディな印象を与える少し伸ばした髭に、オールバックの髪が奥様方に受けているとか。
普段はお客さんと談笑しているのだが、していないということは厨房だろう。
背に暖かい眼差しを受けながら、ここには見えない玄さんを探す。
僕と玄さんは親戚という関係にある。
詳しく聞いたことはないけれど、小さな頃から交流はあった。僕と妹の佳奈も、相手をしてもらっていた覚えがある。
そして、当時のことはあまり覚えていないけれど。
僕が両親を亡くした際、一番寄り添ってくれたのも玄さんだった。多くの手続きから生活の補助まで、何から何までこなしてくれた。
中学生から雇ってくれているのも、塞ぎ込んでしまった僕への配慮だったのかもしれない。
ここまで充実した日々を送れているのは、きっと玄さんのおかげだ。
「玄さん」
「お、優か。なんかあったか?」
予想通り厨房にいた玄さんはにこやかに聞いてくれる。その温かさだけで、人の良さが滲み出ていた。
「七瀬さんが話したいみたいです」
「そういや大事な話があるんだったな……。悪い優、ちょっと変わってくれるか?」
「もちろんです」
幸い僕にでも作れる名物パンケーキ。
素早く交代して玄さんには七瀬さんの元へ向かってもらう。
そしてその去り際。
「あとで優も呼ぶかもしれないから、そのつもりでいてくれ」
「僕もですか?」
「ああ、優にも関係のある話なんだ」
それだけ伝えて玄さんは厨房を出ていく。
正直言って心当たりはない。
頭には疑問しか残らないが、何か報告でもあるのだろうと、この時は高を括っていた。
ここは自営業のこじんまりした喫茶店。
席も十席半ばと、僕が雇ってもらえるまでは玄さんともう一人で切り盛りしていたらしい。
だから、客足の少ない今の時間。僕一人で回すのも無理はなかった。
なかったのだが、
「大事な話、か……」
ポツリと呟くのは、今現在話している二人にただならぬ雰囲気を感じるからだ。
玄さんと七瀬さんが二人で話していることは多々ある。
あるが、真剣な表情で語り合っているところなど見たことはない。
元々古い付き合いであるという二人のことだからおかしくはないのだが、やはり自分が絡んでくるのなら話は変わってくるもの。
気になって意識を向けてしまうのに無理はなかった。
手は動かしながら、ぼんやりと二人の姿を視界に収める。その姿勢は話に真摯に向き合う姿そのものだ。
玄さんのこんな真剣な表情、ほとんど見たことがない。
ずっと見ていたからか、玄さんと目が合う。どうやら話はまとまったらしく、手招きまでしていた。僕にも関係あると言っていたから、きっと呼ばれているのだろう。
大事な話と言っていた。少し緊張感を持ちながら向かう。
二人の真剣な表情を見たせいか、向かう足取りは少し重い。心なしか遠く感じる距離を、気を引き締めて歩いた。
「呼びました?」
「ああ、優に大事な話があってな」
「……それで、その、話ってのは?」
いつも通り暖かくはあるが、どこか固い。その声音に緊張感が高まっていくのがわかった。
少しばかり声が上ずったのも、この雰囲気に飲まれそうになったからだ。
だけどそんな僕を安心させるように、玄さんは優しく笑って僕の肩に手をおく。
そして、七瀬さんを促した。
「誠二郎くん」
「うん。こちら側で勝手に話を進めてしまって申し訳ないと思うんだけど、これからの話は君に大きく関係のある話なんだ」
「…………」
それに対して僕は、頷くことしかできなかった。これから聞く話は僕の今後を大きく変えるような、そんな気がしたから。
七瀬さんが深く息を吐く。
そして真剣な表情で、しかし暖かみのある顔で言った。
「──優くん、うちで暮らしてみないか?」