02 美少女ペット、ぽち
オッサンの前に突如現れた美少女は、和服の上からでもわかる豊かな胸に手を押し当て、『ぽち』と名乗った。
そして再び、夢見るようなキス顔を作る。
その名乗りだけで全てが伝わったと思っているのか、「もう言葉はいらない」とばかりに迫ってくる。
「……ちょ!? ちょっと待ってくれ! 君はなにを言って……!」
オッサンは、華奢な肩のわりにグイグイ来る少女を押し返していたのだが、途中で絶句した。
彼女の、流れる水のようだったポニーテールが、犬のしっぽのようにパタパタと左右に動いていたのだ……!
それだけではない。
さっきから彼女の腰のあたりで何かがチラチラしていたので、気になっていたのだが……そこにはどう見てもしっぽにしか見えないフサフサしたものが、結い髪と同じようにせわしなく揺れていたのだ……!
「……い、犬っ!?」
思わず叫んでしまうオッサン。
そうとしか言いようがなかったのだ。
すると、ぽちは閉じていた瞼をこれでもかと見開き、瞳の全面にオッサンの顔を映していた。
「ま、まさか……ぽちのこと、覚えていないのですか? 前前前前前前前世で、あんなに可愛がっていた、最愛犬のことを……!」
少女はかなりのショックを受けているようだった。
買ってもらったばかりのソフトクリームを、一口も舐めずに落としてしまった幼子のように……深い海のような眼をウルウルさせている。
オッサンは事故にあってからの状況変化があまりにも急激だったので、気後れしていたが、ようやくいつもの自分を取り戻しつつあった。
とりあえず、少女を落ち着かせることにする。
なにせ20年もコンビニの店長をやっていたので、こういうネジの外れた輩の相手ならお手の物なのだ。
「……君、落ち着いて。僕はたしか、家に帰る途中で車に轢かれたんだ。そして、気がついたらここにいた……。君が助けてくれたのか? それに、ここはどこなんだい? 君の知っていることを、ひとつずつ順を追って教えてくれないかな? もしかしたら僕の記憶は事故で混乱していて、君の話を聞いたらなにか思い出せるかもしれない」
オッサンが諭すように言うと、ぽちと名乗る少女は素直にこくんと頷き、これまでのことを教えてくれた。
……ここは、幻想界と呼ばれる世界。
オッサンがいた現実界で、最近話題になっている『異世界』にあたる場所であること。
ぽちは異世界どうしを繋ぐアイテムである『異界の卵』を使って、現実界にいるオッサンをずっと視ていたのだという。
「……剣阿久斗さん……あなたが次の転生で子孫を残さないと、あなたの家系は途絶えてしまうと『異界の卵』が教えてくれたのです……」
胸に手を当て、切々と語るぽち。
フルネームを言い当てられたオッサン……アクトは仰天した。
「なんで、僕の名前を……!?」
「ぽちはご主人様のこと、生まれたときからずーっと視ていましたから、名前くらい知ってて当然です! ご主人様のおそばにいるのが、ペットの役目なんですから!」
ぽちはムッとした表情で、ずいと顔を近づけてくる。
それをいちいち押し返しながら、アクトは思った。
この子はスキあらば寄ってこようとするな……本当に犬みたいだ……と。
しかも近づいてくるたびに、彼女のいい香りがさざ波のように漂ってくる。
海のように敷き詰められた花の中でもハッキリとわかる、みずみずしい女の子の香りだった。
アクトは今更ながらに自分の体臭のことを思い出し、彼女との距離をこれ以上縮めてはならないと、心の中に釘を刺す。
「お、落ち着いて……そう興奮せずに、ちゃんと座って。君はずっと見守ってくれていたんだね。僕が子孫を残さないと家系が途絶えるというのもわかったよ。……ということは、君は僕の守護霊かなにか……」
「ペ・ッ・ト・で・す・っ!!」
ぽちは今にも飛びかからんばかりに目を三角にしていたので、アクトは慌ててなだめた。
どうやらこの少女は、自分が飼い犬であるということにかなりのプライドを持っているようだ。
そこだけは刺激しないほうがいいなと学習しながら、アクトは話を続けた。
「そうそう、君は僕が前前前……世で飼ってた犬なんだよね。でもなんで、死んだ僕が今ここにいるのかな? 君がこの世界に呼び寄せてくれたの?」
すると「わんっ」と鳴き返してくるぽち。
どうやらそれが彼女の返事のようだ。
「ご主人様は前世で恋人どころか女の子のお友達もいませんでしたよね。その有様ですと、次の転生でも結婚は絶望的かと思い……お亡くなりになったタイミングで、ぽちが『異界の卵』を使ってこっちの世界……幻想界に転移させたのです」
アクトが別の世界に転生してしまうと、前世と同じように独身ロードを邁進してしまう。
それをかつてのペットに心配されてしまったというわけだ。
可愛い美少女に非モテをズケズケと指摘され、オッサンのハートにちょっとヒビが入る。
しかしこの不可思議な状況を、おおまかには理解することはできた。
アクトはうつむいて、少し思案する。
……目の前にいるこの子が、残念美少女のフリをした美人局である可能性は多分に残されているけど……それはいずれわかることだろう。
たとえ正体がその通りだったとしても、僕はもう仕事すら辞めてしまったから……失うものなんて命くらいしか残っていない。
だから少々面倒なことに巻き込まれているとしても、別にいいじゃないか。
それに僕は、『本気を出す』って決めたじゃないか……!
自分の気持ちを押し込め続けて生きてきたのを、人生の折り返し地点で変えてやるって……!
これからは親友のシエルみたいに、やりたいように生きていくんだ……!
決意とともに顔を上げると、ちょこんと正座しているぽちと目が合った。
途端、嬉しくてたまらない様子で、ポニテとしっぽをちぎれんばかりに振り返してくれる。
アクトは、吹っ切れた表情で頷き返した。
「よし……! 君に呼んでもらったこの世界で、僕はこれから生きていくことにするよ! ありがとう、ポチちゃん!」
「ポチ……ちゃん?」
そうオウム返しにする少女の髪とシッポが、電池切れを起こしたかのようにしおれる。
電力が口のほうに回されたかのように、頬がプクーと膨らんでいった。
「あっ、ちょっと馴れ馴れしかったよね! ごめん、ポチさん!」
すると、ポニテが爆発した。
「ぽっ、ポチさんっ!? いったいどこの世界に、ペットに敬称を付けて呼ぶ飼い主がいますか!? 電話で社内の人間をさん付けで呼ぶ、ゆとり社員ですか!?」
「ええっ!? え、えーっと……じゃあ、ぽち、でいいの?」
「……わんっ! 当然です、ご主人様!」
わーい! と両手を広げて抱きついてこようとするぽち。
その脇に、アクトは咄嗟に手を差し入れた。
子犬を抱きかかえるようなポーズで少女を押し留める。
彼女は思っていたよりずっと軽かった。
そのまま持ち上げるようにして、花畑から立ち上がる。
ぽちは抱きつけなかったことに少し不満そうだったが、されるがままにぶらんぶらんしていた。
それで、少女はかなりの小柄であることがわかる。
アクトのアゴが、ぽちの頭に余裕で乗るくらいの身長差があった。
ぽちの頭の上には、左右対称に三角の突起がふたつ飛び出している。
いままではポニテのインパクトのほうが強かったので、寝癖か何かだろうと気にしなかったのだが……よく見ると、犬のような耳だった。
「……これは、つけ耳なの?」
ぽちの身体を地面に降ろしながら尋ねると、それはピョコンと立った。
「本物に決まってるじゃないですか! ぽちは犬族なんですから! ちなみに犬族はここをナデナデされるのが大好きなんです! ささ、さっそくどうぞ!」
ぽちはアクトの手を、小さな両手でぎゅっと握りしめ、自分の頭の上に乗せた。
アクトは女の子に手を触られるなんて高校卒業して以来だったし、ましてや頭に手を置くだなんて生まれて初めてのことだったので緊張する。
おそるおそる手を動かすと、シルクのような触り心地のよさが、手のひらいっぱいに広がった。
耳を撫でつけてみると、ぽちは「……ふわぁぁ……気持ちいいですぅ……」と幸せそうに目を細める。
「うふふふふ……! ご主人様、ご主人様っ……! 前前前前前前前世でお別れしてからもずっと、大大大大大大大好きでした……! ご主人様にこうして再びナデナデしてもらえるだなんて……! 本当に、本当に夢みたいです……!」
一途な少女の瞳の端から、光るものが溢れだす。
千年以上もの思いを乗せた、どこまでも純粋なそれは……あたたかい夕陽を受け、オレンジサファイアのように輝いていた。
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