ブン太
調布に引っ越してきたのは八年前で、猫のブン太が家族になったのはそれから一年後、私が中学二年生になったばかりの頃だ。
五月のある土曜日、中学校から帰ってきたら、えらく器量の悪いブチ猫が、うちの庭で日向ぼっこをしていた。それが出会いだった。
首輪をしてたし人懐っこかったから、最初は飼い猫だろうと思った。
だけどうちに居ついて、一向に帰る気配がない。よく見たら痩せているし、パパとママに内緒でツナ缶をあげたら、ものすごい勢いでがつがつ食べた。
「ねぇ、ママ。あの子、おうちがないんじゃないの。可哀そうだよ。飼ってあげようよ」
猫が来て一週間後の土曜日、朝ごはんを食べながらそう言うと、ママは首を傾げた。
「あの猫、首輪してるでしょ? 心配しなくても、ちゃんと飼ってる人がいるわよ」
「もしかしたら捨てられたのかもな。ずっとここにいるし」
新聞を読んでいたパパが、ぼそっと呟いた。
「一緒に暮らしている動物を、そんな簡単に捨てる人なんている?」
紅茶を飲みながら、ママが言った。
「深大寺で猫とか犬の里親譲渡会をやってるくらいだし、いなくはないだろう」
「ああ。そういえば、深大寺の動物霊園でやってるって、お隣の奥さんから聞いたわね。確か、毎年お彼岸の日って言ってたっけ」
「じゃあさ、じゃあもしもあの子におうちがないってわかったら、飼ってもいい?」
ふたりの会話に割り込むように勢い込んで訊くと、パパとママは顔を見合わせた。
「まぁ、本当に捨て猫だったら……」
それまでマンション暮らしだったから言い出せなかったけれど、本当はずっと猫が飼いたかった。
想像していたのはもっと愛らしい子猫だったけれど、そのブサイクな猫に、すっかり情が湧いていたのだ。
その日の午後、学校から帰ってきた私は、猫の身元を探す、にわか探偵になった。
中学生の行動力を、馬鹿にしてはいけない。
まず付近の交番と動物病院に行って、迷い猫の届けがないか調べた。
それから近所を一軒一軒回って、聞き込みをした。もはや探偵というより刑事だ。
「毛が白と灰色のブチで、青い首輪をしている、カギしっぽの猫なんですけど。どこか、飼っているお宅はありませんか」
「ああ、あの目つきの悪い猫。ほら、あの角にアパートあるでしょ? あそこに住んでた人が飼ってたんだけど、引っ越した時に置いてかれちゃったみたいよ」
足が棒みたいになった夕暮れ時、買い物袋をぶら下げたおばさんが教えてくれるまで、同じ質問を何度繰り返したことだろう。
帰宅後、夕ごはんを食べながら両親に調査結果を報告し、その夜から猫は我が家の一員に加わった。
翌日連れて行った動物病院の先生は、もう十歳くらいになっているけれど、健康面にはなんの問題もないと太鼓判を押してくれた。
名付け親はパパだ。
「こいつの人相……いや、猫相の悪さ、カタギじゃないな。その筋のモンにしか見えん」と言って、ブン太と命名した。真面目な会社員なのに、意外と任侠映画が好きなのだ。
ブン太はたしかに強面だったけれど、賢い猫だった。毎日たくさん食べて、いいウンコをした。猫トイレもちゃんと使えた。粗相をしたことは一度もない。
家族の誰かが帰ってくると、のそのそ玄関までお出迎えに来て、足にすり寄ってきた。
私が友達とうまく付き合えなくて悩んだり、テストの結果が悪くて落ち込んでいるとき、ずっと寄り添ってくれたのもブン太だ。
地獄のような受験勉強の真っ最中でも、私のベッドの上ですやすや眠っているブン太のまるい背中を眺めると、気持ちが和んだ。
冬や肌寒い季節、ブン太は私の布団に潜り込んできた。猫とは思えない大イビキには閉口したけど、信頼しきった寝顔が嬉しかった。
ブン太はなんにも言わない。
ただ柔らかく暖かな身体でそばにいて、たまにニャアと鳴いたり、ゴロゴロ喉を鳴らすだけだ。
たったそれだけなのに、どれほどブン太に救われたことだろう。
高校二年生の冬、一年近く付き合っていた人に振られた。初めての彼氏だった。
「他に好きな人ができた。別れよう」
泣いて引き留める弱さも彼を責める強さも、私にはなかった。一方的な別れの言葉を、ただ頷いて受け入れた。
家に帰って自分の部屋のドアを閉めた瞬間、こらえていた涙があふれだした。
両親はちょうど法事か何かで家を空けていたので、心置きなく泣くことができた。
もう彼の隣にいられない。
眠る前におやすみってメールを送ることも、手を繋いで歩くこともできない。
そんなことを考えると、内臓が腐ったんじゃないかと疑うくらい苦しくなって、吐き気すら覚えた。
恋を失うというのは、自分の生活から相手が消えてしまうことだと、初めて理解できた。
ベッドに突っ伏してわんわん泣いて、どれほど時間が経った頃だろう。カリカリとドアを引っ掻く音がした。
起き上ってドアを開けると、ブン太はいつもどおり、ゆっくりした足取りで部屋に入ってきた。そして私の足にすり寄ってきた。
私は条件反射のようにブン太を抱き上げて、ベッドの上に座り込んだ。
泣きすぎて目はぱんぱん、髪はぼさぼさの私の顔は、ブン太の目にどう映るんだろう。
もしかしたら、私だとわからないんじゃないかなと思った。
だけどブン太にはもちろんわかっていた。
私が私だということも、死ぬほど傷ついていることも。
ブン太は私の目をじっとのぞき込んだあと、頬を舐めてくれた。まるで涙を拭ってくれるかのようだった。
ブン太の温かさが染みて、また泣けた。
よく考えたら、ブン太だって捨てられて、一度は一人ぼっちになってしまった。
だけどめげないで、新たに自分の家族を見つけ出した。
そして過去にとらわれず、新しい環境で、自分なりにできることをしている。
たとえば失恋した私を慰めるとか。
「そうだよね、ブン太。アンタにだって、ツラい時期はあったんだよね。ブン太に乗り越えられて、私に出来ないはずないよね」
ブン太は私の腕の中で目を閉じて、ただゴロゴロ喉を鳴らしていた。
ブン太がいなくなって、もう一年近く経つ。
別れはあまりに突然だった。ある朝、ブン太は急に立ち上がれなくなった。
大学を休み、慌てて病院に連れて行ったけれど、その日のうちに亡くなった。
病院のベッドで点滴をしているブン太のそばにいて、ずっと手を握っていた。
それなのに、いつ逝ったのかわからなかった。気付いたらピンク色だった耳がだんだん白くなって、肉球は冷たくなっていった。
本当に穏やかな、眠るような最期だった。
老衰だと、獣医さんは静かな声で言った。
「猫の平均寿命はだいたい十五歳程度です。この子は、一生懸命頑張ったと思います」
たしかに、亡くなる数か月前から食べる量が少しずつ減って、体重も落ちていた。
だけどいきなりいなくなるなんて、考えたこともなかった。
それから数日間、どれほど泣いたことだろう。正直、彼に振られたときの数百倍悲しくてツラくて、意味が分からなかった。
どうして家に帰っても、ブン太がいないんだろう? どうして眠るとき、あの柔らかい身体がそばにないんだろう? どうしてブン太がいないのに、私は生きているんだろう?
毎日そんなことばかり考えて泣いていた。
それなのに、時間が経つとともに、ブン太は自然と過去になって行った。
もちろん忘れたわけじゃない。だけど、ブン太のいない日常が当たり前になった。
ちょっと大袈裟だけど、どんなことがあろうとも、人生は淡々と続いていくのだ。
芍薬の咲き乱れる神代植物公園のそばを歩きながらブン太の思い出話をしている間、大輔は黙って聞いていてくれた。
そして話し終えた私の手をぎゅっと握った。
大輔は、今お付き合いしている人だ。両親に挨拶をしたいと言って、今日初めて私の家に来る。
客観的に見ると、たぶんそんなにかっこよくはない。
人によっては大輔の切れ長な眼を怖いと感じるらしいし、無口でぶっきらぼうだから、お世辞にも親しみやすいとは言えない。
だけど私が悲しいとき、大輔はそばにいてくれる。どうしても会えないときは、短くて不器用な、優しいメールをくれる。
特別なことなんか何も言えなくても、大輔がいてくれるだけで幸せで、安心できる。
私は一人じゃないと、理屈抜きでわかる。
そういう意味では、大輔とブン太は、ちょっとだけ似ているのかもしれない。
そういえばブン太と出会ったのは、ちょうど今くらいの季節だったな、と思った。
深大寺には縁結びの神様がいるという。
神様、ブン太と大輔に会わせてくれて、本当にありがとう。
心の中でそっと感謝をささげながら、私は大輔の手を握り返した。