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Hikaru  作者: tori
第一部
4/30

May Be

 校門を出たときには夕暮れが押し迫っていた。部活帰りの生徒たちが門から吐きだされていく。帰宅部の私にとってはなじみのない光景だった。

 スポーツバッグの波に紛れて国道沿いの歩道を駅に向かった。ひとりで下校するのは久しぶりだ。駅までの道のりがこんなに遠いとは思わなかった。いつもはおしゃべりに夢中で気づかなかっただけなのだろう。或いは森島碧が語った話が足取りを重くしたのかもしれない。西日の差すホームで電車を待ちながら私は森島碧の話を思い返していた。


 中学生になると碧は家に寄りつかなくなった。まあ当然だ。父親が酒を飲んではくだを巻き、母親に暴力を振るう。狭い文化アパートに身の置く場所などあるはずもない。しかし、それよりももっと彼女を家から遠ざけたのは、二つ違いの妹が足を引きずる姿だった。

 二人がまだ小学生の時だ。飲んだくれた父親が些細なことに腹を立て、母親と口論になった。いつものことと碧は耳目を閉じてテレビに集中した。よけいな口を挟めば火に油を注ぐ、知らないふりをしているのが一番なのだ。そうやっていれば嵐は過ぎ去る。一通り暴れたら父はそのまま寝入ってしまう。それまでの辛抱なのだ。

 しかし、その日の父は執拗だった。逃げた母を部屋の外まで追いかけた。

「おねえちゃん、お母さんを助けて」

 妹が訴えた。

 それでも碧はテレビの前から動かなかった。

 呂律の回らない父の罵声が開け放たれたドアから聞こえてきた。妹が飛びだしていくのを見て、碧もしかたなく部屋を出た。

 父は階段のところで母の髪をつかみ、叩いていた。妹はそれを引き離そうと、父の足にすがりついた。

「うるさい!」

 父が足を振り払った。妹の軽い体はそのまま階段を滑り落ちていった。

「なんてことをするんだい!」

 母が血相を変えて怒鳴った。 

 父は階段の上で青ざめて震えていた。

「救急車を呼ばないと」

 そう言った碧を母が止めた。

「いいかい、そんなことをしたら父さんが警察に連れて行かれるかもしれないんだよ」

 それから妹に向かって、明日の朝、病院に連れて行くから余計なことを話してはならないと釘を刺した。

 そのとき碧は自分にはもう頼るべき存在はなにもないのだと確信した。


「お母さんはそうまでして何を守ろうとしてたんですか?」と、私は訊いた。

 壊れてしまった夫と家庭、そんなものはさっさと捨てて、子供たちと一からやり直せばいいはずだ。

「お酒さえ止めれば元の優しい人に戻ると思っていたのかもね。でも、それはあくまでも想像、母がどう思っていたかなんてわからない。結局、夫婦のことは夫婦にしかわからないのよ。ただそれが悲劇を招いたのは事実。妹の足には障害が残った。よく注意しないとわからない程度で済んだけど、本人が負った心の傷は見た目以上に深かった。故意ではないとは言え、実の親に階段から突き落とされたんだもん」


 両親からも妹からも逃げだした碧は夜遅くまでコンビニに屯したり、終夜営業のゲーセンで夜を明かすようになった。そのうち似たような境遇の仲間と連むようになり、学校をさぼることもしばしばだった。

 そんな彼女に転機が訪れたのは中二の時だった。同じクラスの田所仁美という小柄な女生徒との出会いが人生を大きく変えた。


「その頃の私はクラスじゃお客さん。教師もクラスメイトも腫れ物を扱うみたいに接していた。髪も染めてたし、世の中の何もかもが憎らしくて、相当危ない目つきをしていたと思う。でも仁美だけは違ったんだ。たまに学校に顔を出すと、子犬みたいに寄ってきて、休んでいる間の授業のノートを手渡していく。こっちは授業なんてどうでもよかった。卒業したら、就職して家を出るつもりだったからね」


 碧は田所仁美の好意を無視し、時には邪険に振り払った。しかし、仁美はけしてあきらめなかった。手渡すのを拒まれると、碧の机の中にノートを入れておいた。碧はそれを見つけると、激しく詰り、本人の目の前でゴミ箱に投げ捨てた。さすがに諦めただろうと思って、次に学校に出てきたとき机の中を探ると、ノートはあった。ふと顔を上げると、田所仁美が自分の席から微笑んでいた。


「最初は頭が緩いのかと思ったよ。そのうちにあの子は私のことが好きなんだって気がついた。好きだからこんなに一生懸命なんだって」

「気味が悪くなかったですか? その……同性からそんなふうに見られるのって」

「小学校の高学年のとき、はじめてクラスの女の子から告白付きのバレンタインのチョコをもらった。それから、そういうことが何度かあった。女の気を惹きやすいタイプなのかな。もっとも綾瀬さんほどではないけどね」

 耳が熱く火照るのを感じた。

「結局、ノートを読んだんですか?」

 私はあわてて話の矛先を変えた。


 ある日、仁美が風邪で学校を休んだ。その日はなぜか一日落ち着かない気分を碧は感じた。休憩時間のたびにまとわりついてくる仁美が面倒くさかったが、さて居ないとなると、なんだか物足りない。こんなことなら学校に来なければよかったと思った。

 気がつくと、今まで一顧だにしなかったノートを取り出していた。

 表紙には「連絡ノート 七月」とマジックで書かれていた。気がつかなかったがこのノートは月ごとに更新されているらしい。頁を繰ると、細かい文字でその日の授業の内容が教科ごとにまとめられていた。色とりどりのマーカーで重要事項にはハイライトしてある。さらに頁をめくると、鉛筆で描いたマンガがあった。へたくそな絵だ。学校で起こったことや、自分と仁美とのやりとりを描いた四コマ漫画だ。オチも何もない。

 それでも彼女がこれを毎日書いていたのだと思うと、目頭が熱くなった。そしてそれをゴミ箱に投げ捨てた自分を恥ずかしく思った。仁美は三日間学校を休んだ。碧はその間の授業をノートにまとめ、マンガに一つづつコメントを書き込んだ。


 それをきっかけに二人は友達になった。それから碧は学校を休まなくなった。どんどん危ない方向に走り始めた不良仲間との付き合いが怖くなったことも理由の一つだった。高校に進学することができたのも仁美のおかげだった。碧は家庭の事情を洗いざらい話した。卒業したら就職するということも。仁美は進学すべきだと強く勧めた。自ら可能性を閉ざしてはいけないと粘り強く説得した。お金がない家庭の子でも進学する方法はある、二人でその道を探ろうと励ましてくれた。

 それから二人で奨学金の手続きについて調べ、遅れた勉強を取り戻すために仁美の家に泊まり込み勉強した。


「高校に受かったとき、母が泣いて喜んでくれたのは正直意外だったよ。父は何も言わなかったけど、母に暴力を振るうことはなくなった。相変わらず飲んだくれてはいたけどね。高校に行くなんて今時、当たり前のことだけど、その当たり前のことが、傷ついた私たちの家族に変化を与えるきっかけになったんだ」

 森島碧は話はこれでお終いというように、椅子の背に深くもたれかかると、大きく息をついた。

「それで先生はめでたく真人間になったんだ。でも、私とその田所さん、ぜんぜん似てないと思いますよ?」

 置かれた立場も、相手に対する想いもまるで違う。私はつい昨日まで綾瀬ひかるのことをただの変人くらいにしか思っていなかった。

「中身はともかく顔が似てるのよ」

「ただそれだけで私を選んだのですか?」

 呆れてものも言えなかった。

 自分と境遇が似ている綾瀬と、親友と顔が似ている私を掛け合わせて、いったいどんな化学反応を期待していたんだろう。こっちはファーストキスまで奪われて、散々な目にあったというのに。

「わりといける組み合わせだと思ったんだけどな。小柄でグラマラスな淺香さんと、スレンダーでボーイッシュな綾瀬さん。ちょっと感傷に走りすぎたのかな」

 怒る気も失せてしまった。この人は別な意味で天然なのかもしれない。それでも森島碧の無邪気な顔を見ていると、田所仁美がお節介を焼き続けた気持が少しわかる気がした。きっと彼女もこの笑顔に魅せられたのだろうって。

「それでその田所さんとは今も?」

「亡くなったよ。大学四年のとき、卒業を前にした冬にね。ガンだった。あっという間。家族の前では気丈に振る舞っていたけど、二人きりになると私に取りすがって泣き喚いた。『死にたくない! やりたいことがいっぱいあるのに。なんで私なの』って。今でも耳にこびりついているよ」

 深い沈黙が漂った。

「もうこんな時間ね」

 森島碧は腕時計を見た。そしてリモコンに手を伸ばすとエアコンの電源を落とした。

 なぜなのかわからない、自分でも不思議だった。胸の中に溜まったやるせなさを吐きだしたかったのかもしれない。

「もう少しだけ時間をください。うまくやれるか自信はないけど」

 戸口に向かう森島碧の背中に向かって言った。


「夕食の用意ができているからさっさと着替えてきなさい」

 リビングに入るなり母が不機嫌に言った。帰宅が遅くなると電話しなかったことに腹を立てているのだ。

 とても食事を取る気分ではなかったけど、食べなければ色々と詮索されるのが面倒だった。車庫には車はなかった。父の帰りは遅い。そうなると母はいよいよヒステリックの度合いを強める。うんざりした気持で食卓につき、砂を嚙むようにごはんを食べた。食事の間中、母は小言をまき散らした。私はそれを適当にあしらいながら、私は食べ残したお弁当の言い訳を思案していた。

 私は家にいるときは四六時中、母への言い訳を考えている。母は私のすることなすことすべてが気に入らないのだ。きっと私たちの相性は最悪なのだろう。私が愛想良く素直な子なら、母の態度も違ったかもしれない。残念ながら私はそのどちらでもなかった。

 掛かってきた電話の応対に母が出たのを幸いに私はすばやく食器を片付けて、浴室に逃げ込んだ。熱いシャワーを浴び、体を丹念に洗った。汗と一緒に嫌な気分もすっかり流して、下着のままベッドに転がり、ようやく人心地付いた。

 スマホの点滅に気づいて、取り上げてみる。渚からのメッセージがずらりと並んでいた。


『今日は玲於奈を困らせてごめんなさい。まだ怒ってる?』

『返事くれるまで、ずっと待ってる。何時なってもかまわないから』

『電話してもいい? わたしたちずっと親友だよね?』

 全部開けずに途中で放り出した。

 

 体が熱ぽく気だるい。理由はわかっている。綾瀬のせいだ。

 あのとき、なぜ私はもっと激しく抵抗しなかったのだろう。本気で拒否するなら、腕に噛みつくなり、大声を出すなりできたはずだ。それなのに魅入られてしまったように易々と唇を許してしまった。突然のできごとに思考停止してしまった? いや違う。確かに動揺はしていたが、綾瀬の声も息遣いも匂いも唇の感触だってはっきりと思い出せる。

 綾瀬が私に覆い被さり、舌舐めずりをしたとき、私は次に起こることを予感していた。彼女は私にキスしようとしている。綾瀬の目が物語っていた。

 ほんとうに頭の中が真っ白になったのは綾瀬の唇が触れ、そして舌を絡めてきたときだ。それは今まで体験したことのない快感だった。身も心も蕩けてしまいそうな甘くせつない時間だった。人に見られたら困る、そんな思いから形ばかりの抵抗はしたけれど、もしあんな場所じゃなかったら、胸にのびた手さえ受け入れてしまったかもしれない。 

 今まであんなシーンを想像しなかったわけじゃない。具体的な対象すら思い浮かべたことがある。でも相手はいつも男だった。女をそんな対象に選んだことは一度もない。それなのに私は綾瀬にキスされて感じたのだ。いや今だってそれについて考えているだけで、体が火照ったように熱い。

 自分で気づかなかっただけで、そういう性的傾向が私にはあるのだろうか。それとも相手が綾瀬だったからだろうか。私は今まで彼女を特別に意識したことはない。顔立ちが綺麗な子だとは思っていたが、それは夢乃が美人であると思うのと同じように客観的な判断に過ぎなかったはずだ。

 ではなぜ? 答えは見えている。私は綾瀬ひかるという女に惹かれたのだ。あの不思議な儀式の時点からもうすでに虜になっていたのだ。あのとき、綾瀬の口ずさむメロディに私の心の何かが共鳴した。記憶の中に埋没していた私の原初ともいえる光景、そして次に映しだされた宇宙船のコックピット、銀色の機体、そして恐らくそのクルーであろう青い影。あれは綾瀬の記憶なんだ。

 あの瞬間から私と綾瀬の心が触れあった。彼女が特別になった瞬間だったのだ。目を閉じてみたが、眠りが訪れる気配はなかった。体は疲れているのに神経は異様なほど高ぶっている。今日という一日の中にあまりにも多くのことが凝縮されていた。深く感動した映画を観た後の感覚に似ている。

 映画と違うのはそれが現実の体験として自分の中に組み込まれてしまったことだ。それは私という人間がこれからの人生で描ていくストーリーに確かな変化を与える体験だ。

 エンディングは自分で見つけなければならない。



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