Old Love
挿絵は九藤朋さんよりの戴き物です。
ヒカルは二十歳の誕生日に死んだ。
報せてくれたのは高校時代の友人だった。お通夜の席で私を見かけなかったことを気にして、わざわざ連絡の労を執ってくれたのだ。彼女は葬儀の場所と時間を伝えると、もし良ければどこかで待ち合わせて、一緒に行かないかと訊ねた。私は就活の真っ最中で、明日は大事な面接が控えているから葬儀には出られないと答えた。友人は電話の向こうで少し間をあけて、大切な面接があるなら仕方ないねと言った。私は手短に礼を述べて電話を切ると、たった一本残っていた缶ビールを冷蔵庫から取り出した。
こんな形でヒカルの消息を知るとは思わなかった。三年前、彼女は私の前から忽然と姿を消した。理由も前触れもなくポンとdeleteキーを叩くように。
プルタブを引くと、一気に喉に流し込んだ。ほろ苦さはヒカルの味だ。私は手の甲で口の泡を拭った。
担任の森島碧から綾瀬ひかるの面倒を見てやって欲しいと頼まれたのはもうすぐ高二の夏休みに入ろうとする頃だった。私と綾瀬ひかるの間にはクラスメイトという以外、接点はない。家が近いわけでも、同じ中学出身というわけでもなかった。
「面倒って、具体的に何をすれば良いんでしょうか?」
私は内心の戸惑いを抑えながら訊ねた。
「難しいことじゃないのよ。綾瀬さんはクラスですこし浮いてるでしょ? だから友達になってあげてほしいの」
冗談のつもりではないらしい。
綾瀬はたしかに浮いた存在だ。クラスの誰とも話さない。話しかけられたとしても(今ではもうそんな奇特な人間はいないが)、黙殺を返すだけ。グループで活動する行事に彼女の姿を一度も見かけたことはなかった。一言で言えば変人である。しかし、幼稚園児じゃあるまいし、なぜ担任が友達の世話までしなければならないのだろう。本人だって迷惑なはずだ、私だったら間違いなくそう思う。
「綾瀬さんが先生に頼んだのですか?」
そんなことは絶対にないとわかっていたが、私は訊ねた。
「いいえ。きっと彼女は独りでいるほうが気が楽だと思っているでしょうね。でも、それってさみしいことでしょ。今、あなた達はとても貴重な時間を生きているの。利害もなく人と付き合える、そんな機会は社会に出たらめったにないのよ」と、彼女は言った。
私は森島碧が苦手だった。善意でやることは必ず相手のためになる、そう信じて疑わない真っ直ぐさが煩わしかった。大学を出て三年目、初めての担任で必要以上に張り切っているのかもしれない。くたびれた中年教師の多いこの女子校で彼女の情熱は異彩を放っていた。気さくで快活で、教師らしくないカジュアルなファッションを軽々と着こなす彼女は、生徒達の目に憧れのお姉さん的な存在に映った。
クラスの初顔合わせのとき、彼女は黒板に自分の携帯番号を大きく書いた。
「愚痴でも恋の悩みでも相談したいことがあれば遠慮なく電話して。ただ誰かと話がしたい、そんなのでもOKよ。こっちの都合が許せば深夜でも付き合うから。でも早朝だけはかんべんね」
森島は茶目っ気たっぷりに片目をつぶった。
周りが黒板の番号を写しはじめたのに気がつき、私はシャーペンを取った。そしてノートの端に「うざい奴」と、書いた。
「それはわかるけど、なぜ私なんですか? 他にもっと適任者がいると思いますが」
私はなおも食い下がった。
夏休みを前にして、厄介ごとを抱えたくはなかった。私は社交的な人間ではないし、友達を作るにしてもいつだって受け身だ。ほんとうのところ自分が友達を必要としているかどうかすら怪しかった。
「私なりに考えた結果、二人の組み合せがベストなのよ」
森島碧は謎めいた笑みを浮かべた。
「何の組み合わせですか?」
「綾瀬さんにあなたを加えてできあがる化学反応よ」
「私と彼女を混ぜ合わせればなにができると先生は期待してるのですか?」
「そうねぇ、とんでもない劇薬になるのか、それとも未知の有益な物質ができるのか、私にも解らない。でも、やってみる価値はあるんじゃないかな」
いったいこの女は何を言ってるのだろう。
その劇薬とやらになったらどう責任を取ってくれるつもりなのか。私の見立てではそうなる確率の方がはるかに高い。そんなリスクのある思いつきに巻き込むのは勘弁してほしかった。
しかし、私たちは職員室の注目を集め始めている。これ以上押し問答を続けるのは分が悪かった。担任の頼みを拒み続ける生意気な生徒という印象を与えかねない。学校での私の仮面は品行方正、成績優秀な優等生だ。私は結局、森島碧に押し切られた。
教室に戻る道すがら、私は綾瀬ひかるの姿を思い浮かべてみた。概ね美人といって良い。但し幾分中性的な色合いの差した美人だ。
スラリと伸びた手足、膨らみの乏しい胸、短く切り揃えたまっすぐな髪は少年のような印象を与える。やや茶色がかった瞳を持つ切れ長の目は誰も信用していないように冷ややかだった。細く通った鼻筋は彼女を幾分傲慢に見せている。薄い唇は必要なことを口にする以外は硬く閉じられていた。実際のところ私は彼女と会話したこともなかったし、挨拶すらかわした記憶はなかった。
たいていの顔立ちの美しさがそうであるように、彼女は人に強い印象を残すタイプだ。私のように見過ごされてしまうようなその他大勢ではない。もう少し愛想良く振る舞えば、人気者になれたことだろう。
しかし、彼女は自ら孤高であることを選んだ。いったいそんな人とどうやって友達になればいいのだろう。難攻不落の要塞を前にした気分だ。
教室に足を踏み入れるなり、親友の深町渚と遠藤夢乃が駆けよってきた。病院の待合室で、診断の結果を待っていた患者の家族のような表情だ。無理もない、朝のホームルームの後、職員室に呼び出されることなんてめったにあることではない。
「森島先生、何の用事だったの?」
夢乃が小声で尋ねた。
「うん、ちょっと進路のことでね」
私は笑顔で返した。
「進路? 玲於奈、進路変えるの?」
渚が声のトーンをあげた。
彼女は私と同じ四年制の大学の文学部を志望している。
「第一志望は変えていないよ。ただ他に受験するところを少し見直そうかなと……その確認かな」
自分でも驚くほどすんなりと嘘が出た。
「でもそれって別の大学に行く可能性があるってことでしょ。私、玲於奈と同じ大学じゃなきゃ嫌だ」
「本命に落ちれば、そういうことになるかもね」
「玲於奈だったらそんな心配は無用でしょ。それより渚、あなたこそ頑張らないと今の成績じゃ厳しいわよ」
夢乃が窘めるように言った。
「がんばるもん! 夏休みは玲於奈に家庭教師してもらうんだ」
渚は甘えたように私の腕に抱きついた。
「ほんとに玲於奈は渚に甘いんだから」
夢乃があきれ顔で笑った。
二人に調子を合わせながらも、私の意識は窓際後方の席で文庫本に目を落としている綾瀬ひかるに向けられていた。彼女は朝の喧噪など何処吹く風と、頬杖をつき読書に耽っている。
私はこの一件に二人の親友を巻き込むつもりはなかった。彼女たちの協力があれば少しは楽に事が運ぶかもしれない。しかし、自分ですら納得できない森島碧の頼みを彼女たちにどう説明すれば良いかわからない。穏和な夢乃なら深く理由も尋ねず承知してくれるかもしれないが、渚は絶対に反発するに違いない。自分の交友関係に波風を立てたくはない。
「さあ、授業が始まるよ」
渚の手をほどくと席に着いた。




