魔獣牧場1
拙作「お仕事は繁殖させる事?」のプロトタイプです。
全く違うプロットで登場人物の名前も何も違いますのでご注意を。
もうかれこれ5年近く前の物ですのでひっどいです←
牧場の朝は早い。
動物が嘶くより早く起き、まだ夜も開けやらぬうちから両手に息を吹きかけ擦り、申し訳程度の僅かな暖をとりながら仕事を始めるものだ。
遠くで聞えたかすかな水音で目を覚ましたリディアは、布団の温もりを惜しみゆっくりと時間をかけ窓に視線を向ける。
薄暗い中に浮かび上がる木製の窓枠は結露で潤い、まだ大地に根ざしていた時のような輝きを放っていた。
布団を被ったまま木製の突き出し窓を少し開ければ、木の軋む音と共に朝の冷気が部屋の中に入り込んでくる。
寒さに震えつつ開けた窓の外を見れば、すでに朝の支度を終えた父が木製のバケツを両手に、白い息をはきながら自宅裏の牧場に向かう後ろ姿が見えた。
先程リディアが聞いた水音は父が顔を洗う音だったのだろう。
リディアの仕事は父が動物の餌と水を準備している間に厩を開け放ち、ウェルド馬が放牧地に向かった事を確認してから隣の小屋のウルルとラダを外に追い立てる。全ての動物を外に出してからようやくピッチフォークと台車を用意し掃除を始める。
一先ず動物達の糞や敷き詰めてある寝藁の掃除は後回しにし、父が準備を終える前に餌箱と水瓶だけでも掃除しておかなければならないのだが、去年、十五で成人を迎えたリディアは、料理や洋裁をはじめとする家事全般から、家畜の世話から近所付き合いと同じ年頃の娘に比べたら頭一つ分抜きん出る程気立ては良いのだが、残念な事に寒さだけにはめっぽう弱い。
ただでさえ第一層と違い、ここ第二層は日照時間が短く冬も長い。
もう氷塊となっていた雪もさらさらと小気味良い音を立てる小川へと姿を変え始める頃だと言うのに、朝晩は呼吸する度に体の内側から凍り付いてしまうのではないかとさえ思える程に冷え込む。
その為普段なら父と同じ時間に起き、父と一緒に牧場に行くというのに、毎年この時期は日に日に起床時間が遅くなっていくばかりだ。
単に自分が寒いのが苦手と言う事だけでもリディアにしたら布団から起き出すのを躊躇う理由の一つであるが、問題はもう一つ。
寒さで凍りついた厩のかんぬきや錠前、寝藁や水瓶の他に用具一式。
凍りついた井戸の氷を壊す事から始まる父の冬の仕事も大変ではあるが、凍って厩の床に張りつき重くなった寝藁や糞の処理、力の入れ方を間違えたら氷どころか水瓶も壊れてしまうような面倒な仕事がこの時期は毎日繰り返される。
少し待てば登りきった日の光で氷も溶けるが、そこまで待っていられないのが牧場の仕事。
リディアはもう少ししたらもう少ししたらと布団の中で最後の悪あがき試みるが、早く放牧をしてくれと催促するかの様な動物達の声に意を決し起き上がり、寝巻きをさっと脱ぎ捨てウルルの毛を硬く編み込んだ作業用の服を着込み、チェスゴ蛇の腹部の革で作ったしなやかで軽いのに刃も水も通さないブーツを履き手早く準備を済ませる。
一通り準備が終わり部屋から駆け出そうとしたリディアだったが、ふと思い出したように布団に駆け寄ると脱ぎ散らかしたままだった寝巻きを掴み、結露で濡れそぼった窓をそれで軽く拭う。
ガラスの無い、木枠に木の板をはめ込んだだけの突き出し窓。多少とは言え濡れたままにしていたらすぐに腐り果ててしまう。
リディアの寝巻きも作業着も同じウルルの毛を織った物だが、ウルルの毛は織り方や織る際の水の含ませ方で好みの柔らかさに仕上げる事が出来る。
硬く丈夫な服に仕上げる事も、汗を拭う為にひたすらに柔らかく吸水性に特化した様に織る事も意のままに可能で、リディアは柔らかく織り込まれた寝巻きを無造作に雑巾代わりにしたと言う事だ。
一通り結露を拭き取り満足したリディアは、すっかり濡れてしまった寝巻きを片手にようやく自分の部屋を後にした。
窓の無い廊下は自室以上に薄暗く寒い。
一歩踏み出す毎に人恋しくなるような音を立て軋む木の床を、隣の部屋の弟が目を覚まさないようになるべく慎重に、しかしなるべく急ぎ気味に進む。
慎重に進みつつふと居間に視線を向けると、父がつけて行ったであろう暖炉の火が煌々と燃え上がり暖かな空気を作り出していた。
弟が起き出し揃って朝餉をとる頃には部屋中が暖まっているだろう。
寝巻きを洗濯用のたらいに放り投げるついでに、台所でククルの実で作った素朴なパンを一つだけ失敬し、父の後を追い牧場を目指す。
足元では朝露を纏った草がブーツの汚れを洗い去るかのようにリディアの足に懐き、木々の上ではまだ寝ぼけ眼な小鳥達は練習なのか寝言なのか、いまいちな歌声を披露している。
遠目に牧場の奥で井戸の氷と格闘している父の姿を確認してから厩に駆け込むと、浮き足立った馬達の熱気で仄かに厩全体が暖かいような気がした。
朝の挨拶とばかりに濡れた鼻先をリディアに近づけてくる艶やかな茶色の雌の馬の首を一撫でし、挨拶を返す。
すると隣に居た少し気が短く勝ち気な性格の黒い雄馬は、早く外に出せとばかりに前足で厩の床を掘るようにかき始めた。
更に奥に視線を向けるとまだ年若く遊びたい盛りの二人の仔も、早く走り回りたいのか厩の中を行ったり来たりと忙しなく歩き回っていた。
リディアは少し微笑みつつも、いつもより遅くなった事を馬達に詫びると、放牧地と連なる扉のかんぬきを取り去る。
すると待ってましたとばかりに駆けて行った雄馬と仔馬。それと先程までリディアに懐いていた雌馬も、放牧地がその視界いっぱいに広がったらまるでリディアの存在を忘れ去ってしまったかの様に一目散に駆け出して行ってしまった。
少し寂しくも思うが、聡い馬達は毎日放牧の指示を出さなくとも決まりごとのように自分達で外に行き、終わったら戻って来てくれるので楽な事この上ない。
が、ここからが少し厄介な物で、冬毛を蓄えもこもことしたウルル達は動くのも億劫なのか、追い立てなければ外に出ようともしないし、ラダに至っては寒さに弱くこの時期はウルル以上に動こうとしない。
馬達が遠くまで気持ちよさそうに駆けていくのを見送り、厩の隣の小屋の扉も同じように開け放つも、案の定ウルル達は眠そうに一瞬視線をこちらに向けたかと思うとすぐにそらし、ラダ達はウルルの暖かい毛の間に埋もれまだ夢の中にいた。
だがそんな事は承知の上であり、更にリディアは一頭一頭追い立てて放牧するなんて面倒なやり方もしない。
リディア少し誇らしげな表情でポケットから先程のククルパンを取り出すと、少しだけ千切りウルル達の鼻先に落とした。
それで初めて一斉に視線を上げたウルル達の目に飛び込んで来たのは、普段は絶対に貰えないククルの実の香ばしい香りがするパン。
ウルル達が目を輝かせ重い腰を上げたらもうこっちのもの。
そのままリディアは見せびらかせるようにククルパンを振りながらゆっくりと放牧地に出て行く。
するとどうだろう。
何十頭と言うウルル達がぞろぞろと行進しながらリディアの後をついて行くではないか。
皆一様にククルパンが欲しいと言う事なのだろが、驚く事に我先にと暴れたり駆け出す者は無く、皆が示し合わせたように上品に焦らず後を付いて放牧地に出て行くのだ。
そしてウルルの毛の間で暖をとっていたラダ達も、そのぬくもりを追いかけるようにせっせとついてくる。
自身の横を通り過ぎていく動物達を指折り数え、全ての羊が後を付いて外に出た事を確認したリディアは、強く握ればぼろぼろと砕けるククルパンを少しずつ砕いてはウルル達に向かって平等に、皆が一口位ずつ食べれる様に蒔く。
急ぎもせずなんともゆっくりとした優雅な動きでククルパンを食むウルル達を微笑ましく眺めた後、リディアはようやく仕事が始められると小さく、でも可愛らしく動物達に向かって悪態をつき小屋に戻る。
手と服に付いたククルパンの粉を小屋の入り口で叩き、無人になった小屋を見渡し気合いを入れ直す。
まずはそれ程苦では無い餌箱の中身を綺麗に出してから水瓶に取りかかろう。
小さく息巻いたリディアが、小屋の入り口に立てかけてあったピッチフォークに手をかけようとした時、すぐ近くでばしゃばしゃと水音がでした。
「おはようリディア。またククルパンをやったのか。あまりあいつ等に贅沢を教えるなよ?」
両手に持っていた水バケツを重そうに地面に置いた父が、辛そうにゆっくりと腰を伸ばしつつ背負っていた麻袋を小屋の入り口にどさっと置く。
そのまま父はリディアの返事を待つこと無く、麻袋を開け中身を確認するように少し手に取り、リディアと同じ青い双眸をリディアに向ける。
「どうにか一冬はもってくれたがそろそろ買い付けに行かないとな。このまま高山麦が底をついたら、それこそククルパンを餌にする事になりそうだ」
笑い話の様に言う父の肩越しに麻袋を覗き込むと、高山麦はもう袋の底が見える程しか入っていなかった。
高山麦は安価で栄養価も高いがあまりにも堅い為、主に家畜達の餌となっている。
決して人が食べれない程では無いが、そのまま食すにしても粉にするにしても、いずれにせよ食べられるようにする為の下拵えに相当な手間がかかる。
その手間を惜しみ人は主に粉にしたククルの実を水と塩、たまの贅沢なんかでバター等を混ぜて焼いただけの質素だが手軽なククルパンを好んで食べる。
昔リディアがあまりにも高山麦を食べてみたいとせがんだ事があり、一度スープに入れて皆で食べてみた事がある。
それは決して不味くは無かった。
水分をたっぷり吸った高山麦の表面はつるんとし、噛めばもちもちとしていて少ない量でも腹にたまったのは覚えている。
だが作る手間と味を比べたら、まだぼろぼろと砕けるククルパンを一口かじり、そこに塩気の強いスープを流し込み口の中でスープを吸ったククルパンがほろほろと崩れ、香ばしい香りを残し何事も無かったかの様に潔く消えていくククルパンの方が好ましく思えた。
リディアは目の前でかさかさと乾いた音をたて袋の中を転がる丸々とした高山麦を見ていたら、ふとそんな昔の事を思い出しつい笑みが零れてしまう。
相当な手間暇をかけて母が作ってくれた最初で最後の高山麦のスープ。
もう味わう事の出来ない母の思い出の手仕事。
父も思い出しているのか無言のまま手のひらで高山麦を遊ばせている。
が、それもつかの間、放牧地から馬の嘶く声が聞こえ二人とも暖かい思い出から寒い早朝の現実に引き戻された。
リディアは一瞬何の話だったか考えを巡らせ、目の前にしゃがみ込む父親にいかにも思い出したかのように声をかける。
「じゃあ朝餉を食べたら買ってくるよ。丁度干し肉も終わりそうだったし……って、お父さんもうこんな時間!」
寝坊していたのはリディアだけでは無かったようで、見上げれば遠くの山稜の輪郭が白く発光し、まさに夜が明けようとしていた。