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蟹の脱皮士(仮題) 10

 鐘の音と共に作業へ向かう脱皮士達を横目に、キコは今日の予定をたてる。

 歯磨きをしながら窓の隙間を改めて覗いてみる。

 脱皮士達がどこか神妙な面持ちで通り過ぎていくのが、何故だか面白い。

 意外にも脱皮士を見ても平気だった自分にも驚くが、事故があったからか陰鬱さを隠すように表情を引き締める脱皮士の姿に共感も出来る。

 脱皮士達が通り過ぎたのを見計らい家を出る。

 ポケットにノートを突っ込み、とりあえず蟹歩きに向け歩き出す。

 しかし、歩き出すとふと昨日の祠を思い出し、道を反れる。

 蟹歩きに寄ってからでも行けるが、今日は違う道で行ってみたかった。

 一本向こうの通りに昨日寄った本屋を見付け、どこか嬉しくなる。

 開店前のカフェや服屋、総菜屋などを横目に突き進むと、昨日より随分早く祠に着いてしまった。

 しゃがみ込み祠に手を合わせ、ポケットからハンカチをとりだし拭っていく。

 何も考えず家を出てしまった。掃除用具を持って来なかったのが悔やまれる。

 明日は持って来よう。また訓練をはじめるまでここに来るのを日課にしよう。

 そんな事を思いながら、ハンカチの端を細く撚り、祠の隙間に詰まった埃も出来るだけ綺麗に拭っていく。

 一通り作業を終えるとうっすらと額に汗が浮かぶ。

 一日で随分汚れるのだなと、黒くなったハンカチをポケットにしまいこむ。

 しゃがみ込み、忘れないようにノートに掃除用具と書き記すと、すぐ後ろで足音がした。

 振り返れば、昨日の老夫がバケツを手に嬉しそうに目尻を下げていた。

 

「おはようお嬢さん。今日は本はいいのかい?」

 

 雑巾を絞りながら、老夫はにこにこと微笑む。

 一緒に水拭きをしながら、キコは照れ臭そうに眉を下げた。

 

「洗濯女中も歴史書も、細かい事まで載ってなかったんです。この後図書館か本屋に行って、色々調べようかと思ってます」

 

 昨日、何度も読み返した本を思い出し、キコは小さく舌を出す。

 キコの返答に軽快に笑っていた老夫だったが、うーんと唸ると、何やら考え込んでしまった。

 老夫はざりざりとまばらな髭を撫でながらしばし唸っていたが、ふと思い付いたようにぱっと顔を上げた。

 

「中央だけの仕事だから本は無いかも知れん。実際やってみた方が早そうだ。わしの知り合いに洗濯女中が何人かおる、話だけでも聞いてみるかね?」

 

 老夫の申し出に、キコは勢い良く立ち上がってしまった。

 そこまでして洗濯女中をやりたいと思ったわけでは無い。

 しかし、目の前にぶら下がった良いきっかけを蹴る必要も無い。

 キコのそんな様子が分かったのか、老夫は満足そうに何度か頷くと、バケツを持って立ち上がった。

 ついてくるよう手招きし、歩き出す。

 思ったよりしっかりとした足取りで歩く老夫に驚かされたが、それ以上にわくわくした気持ちを抑えるのに必死だ。

 ただでさえ土地勘の無い第一脚。

 主要の道から一本反れただけでもキコには未知の領域だ。

 老夫は地元民しか通らないような、民家の庭先とも思える場所を迷い無く進み、一度蟹の脇へとでる。

 開けた場所に出た時、一隻の漁船をみつけた。

 大きく船首がへしゃげ、船体が傾いた見るも無惨な漁船。

 その脇で、男が三人網を直したり船の破片を片付けたりと作業に追われていた。

 

「殻が落ちてあの程度で済んだのは奇跡だの」

 

 少し離れた所から聞こえて来た老夫の声に、キコは自分が立ち止まっていたと気付いた。

 そして先日、士長が言っていた漁船はこれかと、キコは身震いをする。

 奇跡と老夫は言った。

 確かに殻が直撃し命があったのは奇跡かも知れないが、目の前に残された大破した船を見ると心が締め付けられる。

 蟹の背は当たり前だが然程広いとは言えない。

 押し固めたように密集して住宅街があり、半分から下、尻の辺りに農場やフジツボ鉱山がある。

 船体を組み立てる木も貴重な物。

 破片をつなぎ合わせ補強しているが、以前のような漁は出来ないだろう。

 気にもとめなかったが、蟹にまつわる仕事は、意外にも身近なところに影響を及ぼす。

 立ち止まった事で、改めて脱皮士として必要な物は何かと考えさせられた。

 老夫が歩き始め、キコもそれに続く。

 意外に起伏が激しく、額に汗が滲む。

 キコの住む辺りは街の外周に近い為か、そこまで目立った坂は無い。

 しかし、中央に近付くにつれ、不規則に隆起した甲羅に習うように、家と家の間に縄ばしごが渡されていたり、家自体が斜めに建っていたりと、同じ街の中でこれ程変わるのかと驚かされる。

 異国に迷い込んでしまったかとさえ錯覚する街の作りに、キコは口を開けたままただただ通り過ぎる家々を見上げていた。

 気付けば密集した家々は横にでは無く縦に積み重なり、マンションとは別な、家の上に違う家が建っているような建物が何軒か現れた。

 ここまで来るとキコは探究心を抑えられなくなっていた。

 何故もっと早くに蟹の背を探検しなかったのか。

 狭い街とは言え、まだまだ知らない見た事の無い景色がすぐそこにある。

 先を歩く老夫に窓から顔を出した人が何人か声をかけている。

 親しげに手を上げ挨拶を返す老夫の後ろで、キコも微笑み軽く会釈しながら通り過ぎていく。

 そのまましばらく歩き進めると、狭い通り沿いに積み重なった家で空がパスタ程しか見えなくなってきた。

 日も高い時間だと言うのに通りは暗く、気を付けなければ敷き詰められた不揃いな石に足を取られそうになる。

 そんな狭い通りの先から、何やら賑やかな声が聞こえてくる。

 徐々に近付いてくる声の主は、更に狭い脇道から体を横にし二人の前に這い出して来た。

 

「せんたくーせんたーく。おばさーん、今日は洗濯物無いのー? せんたくーせんたーく。パンツ一枚でもあったら出しなー。せんたーく、おじさんそろそろそれ洗いなよー」

 

 歌っていると言うより、子どもに洗濯物を出せとせっつく親のような雰囲気の女性は、声を張り上げながら家々の窓を叩いていく。

 

「リコリスー。シーツお願いしても良いかしらー?」

「はいよー。落としなー」

 

 三軒上の家の窓から顔を出した女性が、その声に反応し声をかける。

 リコリスと呼ばれた女性は、見せ付けるように抱えていたカゴを両手で持ち上げた。

 その直後、上からどさっとシーツが降って来た。

 リコリスは慣れた手付きでシーツをカゴで受け止めると、軽く手を振り再び声を上げ歩き出した。

 

「あれ、じいちゃんもう掃除終わったのかい? 洗い物は?」


 老夫に気付いたリコリスは、カゴを手にしたまま老夫の服を上から下までじっとりと確認する。

 

「相変わらずやかましいヤツだな。狭いんだから、そんな大声出さなくてもみんな聞こえてるわい」

「で、これ洗うかい?」

 

 老夫の小言など聞こえていないのか、リコリスは老夫の上着を引っ張り質問を重ねる。

 早々と折れた老夫は、上着を脱ぐとリコリスのカゴへ突っ込んだ。

 

「リコ、この娘さんが洗濯女中に興味があるらしくてな、無理にとは言わん、出来ればで良いんだが手伝わせてやってくれんか」

 

 そう言うと老夫はキコの背中をぐいっと押す。

 いきなり矢表に立たされたリコは、とりあえず頭を下げようと顔を上げた。

 しかし、丁度上からキコの頭に二枚目のシーツがどさりと降って来た。

 

「ごめーん!」


 老夫とリコリスが見上げれば、先程シーツを投げた女性が申し訳なさそうに小さく手を合わせていた。

 

「どういう意味のごめんなんだい全く。ささ、時間が無いよ。 それ持ってついて来て! あ、そうだじいちゃん。煮付けた芋がいっぱいあるんだ。仕事終わったら持ってくねー」 

 

 リコリスは女性に小言を言った後、流れるようにキコに指示を出し更にそのまま老夫に別れの挨拶をし歩き出す。

 思った事を一気に言い歩き出したリコリスに呆気にとられていると、老夫がキコの肩をそっと押す。

 

「早うついて行かんと迷子になるぞ。悪い奴じゃ無いが、合わなかったら無理せずわしに言うんだぞ」

 

 老夫は満面の笑みで小さく舌を出すと、更にキコの肩をぽんっと押す。

 

「何から何までありがとうございます! 明日も祠に行きますから!」

 

 色々言いたい事はあったが、それだけを言うので精一杯だった。

 リコリスは荷物を抱え狭い道をするすると進んで行ってしまう。

 キコは再び老夫に頭を下げると、シーツを手にリコリスの後を追う。

 大きなカゴを抱えたエプロンドレスのリコリスは、身軽に狭苦しい脇道に反れていく。

 大柄な体に似合わずキビキビと動くリコリスについて行くのは意外に大変だ。

 ジャージにデニム姿で、荷物はシーツのみ。しかもキコは女性の中でも小柄な方。

 そのキコが、前を行くリコリスに追いつけないのだ。

 体を斜めにしないと進めないような曲がりくねった路地を進み、角を曲がると突如街が切れたように大きな通りに出た。

 突如開けた視界に、そう言えばまだ昼間だったのだとキコは目を細めた。

 

「おーいこっちこっち! 乗ってー!」

 

 大通りに出てすぐ、リコリスの声が響く。

 少し坂を下った所に大量の洗濯カゴの乗った荷車が置かれ、リコリスはその荷台から大きく手を振っていた。

 

「これで一気に農場まで降りるんだ。私はリコリス」

「あ、キコです。よろしくお願いします」

 

 疑問よりも咄嗟に体が動き、気付けばキコは荷台に体をねじ込み乗り込んでいた。

 今更ながらの自己紹介に戸惑っていると、ふと近くで声が聞こえた。

 リコリスの他にも三人ほど女性が乗り込んでおり、みんな楽しそうに笑い声を上げていた。

 

「あの、仕事の事何も知らなく――」


 荷車がガタンと動き出し、キコは言葉を区切る。

 蟹の背はなだらかな斜面になっている為か、荷車は一度動き出すと徐々に加速していく。

 荷車を曳いている犬達は、舌を出し徐々に加速する荷車に合わせ更に速度を上げる。

 お世辞にも平らとは言えない道に、荷車は大きく飛び跳ね、キコは強か体を打ち付ける。

 振り落とされまいと必死に荷車にしがみつくと、洗濯カゴの隙間からリコリスの笑い声が聞こえた。

 

「ホント、この車ボロだからやんなっちゃうよ。洗濯物に座ると痛く無いよ」

「そんなとこ平気で座れるのはあんただけだよ。子どものおねしょまみれになっちまうよ」

「それよりカゴごと外に放り出されちまう」

 

 リコリスの言葉に、すぐに近くから反論する声が二つ。

 飛び跳ねるカゴを押さえ付けながら、その隙間から見える女性達は、呆れたような事を言いながらも満面の笑みで笑い声を上げる。

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