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蟹の脱皮士(仮題) 9

 老夫に別れを告げ帰路についたキコは、自分の目指すものが何か良く分からなくなっていた。

 総士長の過去をほんの少しだけ聞いただけでも、今の自分との思いの落差に足取りが重くなる。

 親と兄も脱皮士だった総士長が、脱皮士を目指したのは理解出来る。

 だが、ただそれだけの思いで壊滅状態だった脱皮士達を育て上げ復活させた訳ではないだろう。

 それに比べ自分は。

 何度も何度も同じ事を考えは頭を振り考えまいとしたが、ついにキコの足は止まってしまった。

 キコは何故自分が脱皮士を目指しているか、何がきっかけなのか自分でもよく分かっていなかった。

 覚えているのは小さな頃、夢中で読んだ脱皮士の絵本。

 その時は憧れや将来の夢などではなく、絵本の内容も殆ど理解していなかった為、ただただ美味しそうだとしか思わなかった。

 しばらくしその美味しそうという感想は、大変だなというものに変わった。

 列を成し大量の荷物を抱え家の前を通る脱皮士達を眺めては、雨の日も風の日も毎日毎日大変だと他人事だった。

 そこまでは覚えているが、そこから先が思い出せない。

 脱皮士を目指すと決めた時。

 一番新しいであろうその記憶だけが、何故かすっぽりと思い出せないのだ。

 思い出せないが、ただ漠然とそうなるであろうと思い込み、ここまで来てしまった。

 キコは立ち止まったまま、通り過ぎていく人達をぼんやりと見送っていく。

 買い物を済ませた主婦が重い足取りで第一脚の方へと上って行く。

 夜勤なのか、これから出勤と思われる男性が靴音を鳴らし足早に通り過ぎていく。

 手を振り友達と別れる子どもに、洗濯物を抱え路地裏に消える女性。

 目の前にいる全ての人が、何かに向かい常に歩き続ける中、自分だけが取り残されたような気分になる。

 何人か通り過ぎる人と肩がぶつかる。

 通りに立ちつくすのは迷惑かと、キコはふらりと端に寄ったが、それ以上どこに行ったら良いのか分からなくなってしまった。

 端に寄れば、たまたま路地裏に小さな看板が見えた。

 路地裏に吸い込まれるように折れてみれば、古めかしいカフェが、家々に押し潰されるようにひっそりと奥まった所にあった。

 何も考えず扉を押すと、からんと小さく鐘が鳴る。

 来客を知らせる金に初老の店主が一度カウンターから顔を上げたが、キコを確認するやすぐに顔を下げた。

 店内はキコの他には二人ほど客がいた。

 どちらも一人でテーブル席に座り、仕事帰りと思われる男性は本を読み、老婆は編み物をし過ごしている。

 どこか時間が止まったようなその光景に、キコはようやく呼吸が出来た。

 メニューを持った店主が、窓側のテーブル席でキコを手招きする。

 まるで孫を呼ぶ無口な祖父と言っても良いその所作に、キコは何故か嬉しくなった。

 店主はキコをテーブル席に通し、メニューと水を置くと、何も発しないまま下がっていった。

 無愛想なようにも見えるが、メニューや水を置く所作、椅子を引くタイミングなどを見る限り、とても丁寧で洗練された人なのだと分かる。

 今のキコにとっては、下手に馴れ馴れしく話し掛けてくる店は好ましくない。

 新たな店の発見に、キコは胸を躍らせてメニューに手を伸ばす。

 至ってシンプルなメニューに目を通し、一先ずコーヒーとサンドイッチのセットを注文する。

 注文してから、今日はサンドイッチしか食べてないなと気付き、小さく声をもらす。

 少しだけ店主がその声に振り返ったが、笑顔で会釈し誤魔化す。

 綺麗な会釈を残し、去って行く店主にほっと胸を撫で下ろした。

 ガリガリと音がししばらくすると、コーヒーの香しい香りが漂ってくる。

 こだわりもなく、家では豆を挽くなんてしない。

 しかし、どこかほっと懐かしいようなこの匂いは、こり固まったキコの肩の力を抜いてくれた。

 テーブル席の隣は大きな窓になっているが、立地が悪くすぐ目の前は壁。

 時折、一段下がった路地を通り過ぎていく人の頭が見えるくらいで、あとは何の変化も無い。

 時間が止まってしまったような、非日常が心地よかった。

 そうこうしているとコーヒーとサンドイッチが運ばれてきた。

 サンドイッチは気まぐれと書かれていたが、出て来た物は予想に反した物だった。

 てっきり、昔懐かしい玉子サンドや、きゅうりとトマトとポテトサラダあたりを挟んだ物かと思っていた。

 しかし出て来たのは、鶏と野菜をゆず胡椒で和えた物と、アボカドやトマトがごろりと入った物など、思いの外お洒落でボリュームのある物だった。

 さっとコーヒーをソーサーに戻すと、キコはメニューを確かめる。

 ページをめくりサンドイッチの項目に目を通すと、具材は勿論のこと、パンの種類までも選べるようになっていた。

 あれこれ頭の中で自分好みのサンドイッチを組み立てては身悶えする。

 お気に入りの店になると確信し、キコはサンドイッチにかぶりついた。

 気付けば皿は空。

 あれだけモヤモヤとしていたキコの心も、いつの間にか綺麗さっぱり晴れ渡っていた。

 キコは自分の単純さに呆れつつ、新しい発散方法を見付けたと心を躍らせた。

 いつの間にか店内に会社員風の男性の姿はなく、老婆はカウンターに移動していた。

 心が晴れ気分も良くなったキコは、改めて今日買った本を取り出しテーブルに広げる。

 洗濯女中と搾油士、蟹の歴史書。

 すぐにどうこう出来ない専門職の搾油士は一旦別にし、再び洗濯女中の本を捲る。

 服毎の干し方洗い方などが色鮮やかな挿絵付きで詳しく紹介されているが、肝心の仕事内容はごく僅か。

 洗濯女中の一日の流れという見出しには、朝から昼まで洗濯物集めと洗い、昼から干す作業と取り込み、宅配としか書かれていない。

 宅配以外は至って日常的な、当たり前の洗濯の流れである。

 搾油士の本は専門書しか無かったので詳しく書かれていたが、洗濯女中と歴史書は子ども向けの簡単な物を買ってきていた。

 ここに来て判断を誤ったかと眉根を寄せるも、そもそも洗濯女中の本はこれ位しか無かった事を思いだした。

 明日、図書館に行くか他の本屋を巡るか。

 しかし、そこまでして洗濯女中を調べる必要が果たしてあるのか。

 どうでも良い些細な事で悩みはじめ、いっその事痛い出費になるなら大全を買ってくれば良かったかと、キコは更に首を傾げる。

 すると、店主がそっとコーヒーのお代わりを持って来た。

 頼んだ覚えも無く、間違いかと顔を上げると、店主は柔らかく一度微笑み行ってしまった。

 温かな湯気が上がるコーヒーに、再び心が落ち着いていく。

 洗濯女中の本も一度よけ、今度は歴史書をめくる。

 この街の成り立ち、歴史と言っても、実はあまり良く分かっていないのが現状。

 絵本のようなこの歴史書も、今言われている仮設を何個か紹介した物だった。

 大陸が無くなり蟹の背に逃げた。蟹そのものが大陸だった、突如現れた蟹が人間を摘まみ上げ自分で乗せた等、学校で習うような事がとても簡単に書かれている。

 久し振りに見る蟹の歴史に、キコは懐かしさを覚えページをめくっていく。

 その歴史書の一部に、脱皮士のような絵が描かれていた。

 縮尺はおかしいが、蟹の脚に張り付き棒のような物を持っている。

 その絵の下には『守ろう。みんなのおうち。おうちも生きている』と書かれていた。

 絵と見出しの意味合いをしばし考え、キコは思わず吹き出した。

 これは是非士長達に見せたいと、キコは笑いを堪えコーヒーを口に運ぶ。

 そこでふと、キコは『生きている』という言葉に疑問を感じた。

 勿論蟹は生きているし、だから動き脱皮もさせなければならない。

 しかし、正確な歴史は分からないが、生物はそれ程長く生きていられるのか。

 蟹に背負われてどれ位かと言うのも曖昧で、まだ五百年とも千年とも、この世が出来た頃からとも言われている。

 大脱皮で過去の情報が紛失し定かでは無いが、何にせよ生物としてはあまりにも長寿。

 今更ながら蟹とは何かと、キコは自分の生きる世界を何も知らなかったのだと気付いてしまった。

 自分に欠けた物とは、脱皮士に必要な物とはから始まり、気付けば思考は蟹とはに飛躍した。

 本を閉じたキコは深く深くため息をつくと、指先をコーヒーにつけると、テーブルに備え付けられた紙ナプキンに、今日気付いた事や疑問に思った事を走り書く。

 ぼんやりと滲むが辛うじて単語は読める。

 帰ったらまとめなくてはと、キコは紙ナプキンを本に挟み、大切に紙袋に仕舞い込んだ。

 

 いつの間にか外は薄暗くなり、老女もいつの間にか居なくなっていた。

 

「一人になりたい時は、また是非いらして下さい」

 

 会計を済ませると、店主が落ち着いた声色でそう呟いた。

 それまで静かだった店内で人の声を聞いたのがどうにも不思議で、キコは曖昧に頷いてしまった。

 入り口から見送る店主に軽く会釈すると、重い本を抱え帰路につく。

 何か状況が進展したわけでは無いが、どこか足取りが軽い。

 悩みに悩み答えも出ず散策しただけだが、そんな時間も無駄では無いのだと、改めてキコは立ち止まる事の大切さに気付いた。

 家に着く頃はすっかり辺りは暗く、母が心配したと玄関に顔を出す。

 キコの荷物に気付いた母は、興味深そうにキコの周りをくるくると回る。

 袋の口を開けちらりと中を見せながら、キコは自然と笑みが零れた。

  

「色んな仕事の資料、買っちゃった。もう大出費も大出費」

 

 意外に明るく答えた自分に内心驚いていると、母も同じだったのか目を丸くし見上げて来た。

 しかし、キコが脱皮士以外の道も視野に入れはじめたのだと気付くや、母の顔はみるみる綻んでいく。

 

「そう。何か食べる? って、随分良い匂いがするけど何処行ってたの?」

 

 上機嫌にキコの手を引く母は、キコから漂うコーヒーの匂いに首を傾げる。

 

「古ーい渋ーいお洒落なカフェ見付けたの。ご飯も食べて来ちゃったから大丈夫」

 

 今度はお土産買ってくるよと付け足し、二階へと上がっていく。

 脱皮士以外の仕事を調べだしたと知った時の、明らかに安堵した母の顔。

 胸を押し潰されそうになりながらも、一日ゆっくりしたからかそこまで落ち込まずにどうにかやり過ごせた。

 しかし、『今度一緒に行こう』では無く『お土産を買ってくる』と言ってしまった辺り、まだまだ心にわだかまりが残っているのかも知れない。

 部屋に紙袋をベッドに逆さまにし、中身を出す。

 メモを抜き取り机に向かうと、ノートにメモを写していく。

 足りない物など分からない。総士長の理想も思いも何も分からない。

 だが、自分の気付きや考えは絶対いつか役に立つ。

 そう信じて、何も進展の無かった事への焦りを誤魔化すように、丁寧に考えをまとめていった。

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