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蟹の脱皮士(仮題) 8

 あまりの事に言葉も出ず、キコは本を取り落とした。

 しかしすぐに老夫がさっと受け止めると、キコを見てくしゃりと目を細めた。


「いやぁ、すまんすまん。何度も声をかけたんだが。相当集中していたようだ」


 老夫はからからと笑い声を上げると、本をキコの膝の上に乗せ立ち上がる。

 ゆっくりと痛そうに腰を伸ばす老夫を見、次に太陽の位置を確認する。

 本を読む前とは大きく太陽の位置が変わっている事に気付き、少しだけのつもりが随分長居してしまっていたらしい。

 本を抱え立ち上がると、隣で未だに痛そうにゆっくりと腰を伸ばす老夫を覗き込む。


「その、すみませんでした。随分長居してしまったみたいで……」


 腰を伸ばしそのまま後ろに転がって行きそうな老夫の背を撫でながら、キコは恐る恐る声をかけた。


「いやいや、わしこそ驚かせてすまないね。お嬢さんがいつ気付くかとちょっとした悪戯心で座ったんだが……いやぁ、久し振りにゆっくり本を眺めたよ」


 ようやく腰を伸ばし終えた老夫は、キコの腕に掴まりながら思い出したようにまた笑い出した。

 その言葉からずっと隣に居たのだという事が分かり、キコは笑っていいやら悲しんでいいやら複雑な気持ちだった。

 老夫はキコから離れ祠に両手をつくと、ささっと数度祠の屋根を手で払い、おやと首を傾げる。


「お嬢さんが綺麗にしてくれたのか? そうかそうか。あぁ、ありがとう。洗濯女中になろうって奇特なお嬢さんと会えただけで驚きだと言うのに、こんなうらびれた祠の掃除までしてくれるとは。いやぁ今日は良い日だ」


 老夫は顔を皺だらけにしながら何度も頷くと、ごほごほと咳をしながら祠の前にかがみ込む。

 老夫が持って来たのか、祠の脇には水の張ったバケツが置かれていた。

 老夫はバケツに手を入れると、中に沈めてあったたわしを拾い上げ、ゆったりした動作で祠の周りを磨きはじめた。

 

「手伝わせて下さい」

 

 祠の中の石を磨こうとかがみ込んだ老夫を制したわしを取り上げると、キコはするりと祠の中に体を滑り込ませる。

 すると、後ろからカッカッと軽快な笑い声が聞こえてきた。

 

「いやぁ、活発なお嬢さんだ。わしもまだまだ若いつもりだったが」

「すみません、出過ぎた真似を――」

 

 はっと息を飲み顔を上げるが、祠の角に頭をしたたかぶつけ蹲る。

 老夫はまだカッカッと笑っているが、蹲るキコの頭を撫で、その手からたわしを受け取る。

 あまりにも勢い良くぶつけたからか、祠の中は未だに音が反響しガタガタと震えている。

 ただでさえ古ぼけ建て付けの悪い祠をと、キコは頭を押さえながら祠をひと撫でする。

 

「この祠はな、先の大脱皮の直後に作られたんだが、もう随分と傷んでしまったな」

 

 老夫はキコの頭をひと撫でし、続いて祠もひと撫でする。

 その、大切な物を労るような、触れてはならない物に触れるような穏やかな仕草に、キコは自然と老夫を見上げていた。

 キコの視線に気付いたのか、老夫は祠から手を引くと、照れ臭そうに白髪混じりの髭をざりざりと指でかく。

 

「大脱皮から五十年以上経ったが、あれ程厄介なのは初めてだったらしい」

 

 そう話し出すと、老夫は祠を背に腰を降ろし、キコも座るようにと手招きをする。

 吸い寄せられるようにキコが老夫の前に座ると、老夫は満足そうに目を細め何度も頷く。

 

「大脱皮。何十年何百年かに一度の蟹の背中の脱皮は、足と同じように少しずつ進めるのは知っているかな?」

 

 老夫の言葉に、キコは一度だけ頷いた。

 毎年脱皮する脚とは違い、背中は何十年単位出脱皮をする。

 蟹の背に住む人達は、それを大脱皮や大地震と呼び、文字通り今までの生活が一変する出来事だ。

 一度にまとめて脱皮をしてしまえば、住むところは疎か避難も出来ない。

 その為、一年かけて徐々に避難と脱皮をしていくのだ。

 持ち出せる限りの家財を抱え、後世に残すべき土や種はフジツボの残骸に押し込む。

 ただでさえ窮屈な蟹の背が、その年だけは更に狭く身動きが取れなくなるが、全員が団結し肩を寄せ合い暮らす。

 脱皮士の学科だけでは無く、語り継がれるべく子ども用の絵本にもなっているその話は、キコもよく知っていた。

 

「脱皮具合を見て何処から剥がすか決めるのは脱皮士の腕次第。見誤れば崩れる足場に避難も出来ない大事故になる。先の大脱皮はな、見誤った。多くの犠牲が出た。目の前で地が割れ滑り落ち、家もろとも海に落ちていく人を何人も見た。わしはどうする事も出来なかった。ただただ必死に逃げて逃げて逃げて、ここから崩れる街を見ていたんだ。ほんの僅かな時間だったが、わしには永遠にも感じたよ」

 

 本だけでは知り得ない、経験した人だけが語る生々しい話に、キコは一言も聞き逃さんと前屈みになる。

 脱皮士達が手を貸さずとも、蟹は自力で脱皮くらい出来る。

 しかし、蟹任せの脱皮にしてしまえば、僅かな時間で全てを失うことになる。

 老夫はそこで重々しく息を吐くと、顔を上げ街を見下ろす。

 しばし街を眺めていた老夫だったが、ふと思い出したように指をさす。

 

「あの辺には確か肉屋とと畜場があった。第一脚の一番上なんかに建てたせいで血生臭くてたまらんと、みんな毎日文句ばかり言っていたよ」

 

 懐かしそうにそう語ったあと、次々に当時を思い出したのか、老夫はそうそうとあちこちを指差していく。

 

「あそこにあった本屋の婆さんは口うるさくてな、いつも奥の小上がりに座って客を睨み付けては『買わんのなら出てけ!』と騒いどった。まあ品揃えの悪い店でな、本も床に直置きで買いたくても買う気になれなんだ」

 

 からからと警戒に笑う老夫に、キコも釣られて顔が綻んでんでいく。

 まるで今そこにあるかのような話しぶりに、キコは今すぐにでもその口うるさい婆さんを探しに走り出してしまいそうだ。

 

「奥の菓子屋は薄暗くてな、菓子やらおもちゃやらがまばらに置かれた店の奥に、綺麗なショーケースに飾られたバターケーキが並んでてな。三種類くらいしか無かったが、それが大層ご馳走でよくねだったもんだ」

 

 楽しそうな声色から哀愁を帯びたものに代わり、声も小さくなっていく。

 

「よく遊んだんだ。敷石の数も傷も本屋の瓦の模様も全て覚えてる。雨が降れば敷石で滑って強か膝をぶつけた。まだその傷は残ってる。……先の大脱皮は、その辺りから一気に崩れた。ひび割れの向こう側へわしを押し飛ばした婆さんの顔も、逃げ出した豚を追い回す肉屋の親父の背中も、わしの手を引いて走ってくれた菓子屋の姉さんの手の温かさも、何もかもしっかり覚えてる」

 

 声が震え、老夫はそこで言葉を詰まらせた。

 大きく息をつく老夫は、気を取り直したようににかっと笑い顔を上げた。

 しかし、キコの様子がおかしいと気付くと、慌てて顔を覗き込んだ。

 老夫の話は聞いていたキコにも生々しい程に伝わり、その悲劇さえも今起きている事のようにありありと鮮明に思い描ける。

 本で読んだだけでは分からない話に、キコは自分でも知らず知らずのうちに涙を流ししゃくり上げていた。

 申し訳なさそうに眉を下げキコの背中をさする老夫に、更に涙は溢れる。

 止めようにも止まらぬ涙に、キコは手で顔を覆って声を殺して耐える。

 老夫はただただ静かにキコが落ち着くまで背中をさすり続けてくれた。

 ようやく涙が止まる頃には、キコの目は赤く腫れてしまっていた。

 

「すまなかった。変な話をしてしまった」

「いえ。貴重なお話をありがとうございます」

 

 普通に話せるまで落ち着いたキコだったが、申し訳なさや気恥ずかしさ、未だに心に残る老夫の話の衝撃など、一言では言い表せない感情にぼうっと街を見下ろす。

 

「誰も見向きもしなくなったこの祠を綺麗にしてくれて、嬉しくてついな」

 

 老夫はからからと笑うと、祠に向き直りまた小さく撫でる。

 話を聞いた後では、この祠に対する思いも変わってくる。

 キコも老夫に習うように祠を大切に撫でると、深々と頭を下げた。

 

「脱皮士の総士長。あやつは先の大脱皮で脱皮士だった親も歳の離れた兄も失い、その残酷さを誰よりも知っている。だから、壊滅状態だった脱皮士をまた一代で育て上げる事が出来たんだろうな。今もこの祠に来るのは、わしとあやつ位だ」

 

 突如として飛び出した総士長という名に、キコの背筋をひやりとしたものが撫でる。

 見上げると、老夫は再びしまったしまったと眉を下げ髭を撫でた。

 

「総士長と言われても誰の事か分からぬよな。いやぁ、すまないすまない」

 

 今日はどうにも話しすぎると、老夫は立ち上がった。

 

「いえ! よろしければ、またお話を聞かせて下さい」

 

 キコが慌てて立ち上がり頭を下げると、老夫は驚いたように目を見張りキコに頭を上げさせる。

 キコの真剣な表情に、老夫は目尻に深く深くシワを作り、満足そうに微笑んだ。

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