蟹の脱皮士(仮題) 7
翌日はいつもより早くそっと家を出た。
ぼんやりと歩いていたら無意識のうちに訓練棟の近くに来ており、さすがに膝から崩れ落ちそうになった。
店についた途端トトコは異変を察知したのか、キコを店の奥の椅子に座らせると、キコが話し出すのをただ静かに待った。
野菜も肉もバゲットもそのままにし、自分に気を使って貰うのが申し訳なく、キコはぽつりぽつりと事の次第を話し始めた。
時折相づちを挟む以外質問もせず黙って話を聞いていたトトコは、しばらく何も言わずバゲットを見つめている。
「しばらくさ、しばらく店は良いから、何か今までやった事無い事に挑戦してみたら?」
トトコの言葉に、キコは呆然と顔を上げた。
「いや、店に来るなとかじゃ無いよ!? ただ、総士長が言った足りない物は私には分からないし、多分このままキコちゃんをこの狭い世界に押し込めてたら、答えが見付からないかもって思って。そりゃお店に居てくれたら私はすっごく嬉しいけど……何て言ったら良いんだろ」
トトコは言葉を選びながら、必死にキコに向き合おうとする。
トトコの言わんとする事は分かる。
むしろ、キコは親やトトコなどに今回の事を知られるのを避ける為何事も無く普段通りの生活をしようとしていたが、本心は何処か知らないところでゆっくりしたいとも思っていた。
「やった事無い事……。パン屋の手伝いとか?」
「多少目先は変わるだろうけど、折角ならもっともっと行った事ない所とかさ。そうね、毎日無駄に蟹の頭まで登山するとか」
無駄に登山と真顔で言ってのけたトトコが何故か面白く、お互い徐々に顔がにやけていく。
「トトコさん。またどうして良いか分からなくなったら愚痴、聞いてくれる?」
「勿論! 朝でも晩でもいつでも! あ、でも、今までみたいに週に一回は手伝いに来てくれると嬉しいなぁ」
踏み込み過ぎず突き放しもしないトトコの程よい距離の取り方に、キコは心底救われたように頭を下げた。
早速今日から行って来なさいとトトコに尻を叩かれ、サンドイッチを片手に当ても無く歩き出す。
本当に毎日蟹の頭まで登ったとして、あとはどうしようか。
何となく言われた通り蟹の頭を目掛け歩きながら、好きにすると言うのは意外に難しいのだとため息をつく。
折角なら仕事もしてみようか。
やった事も無くすぐにはじめる事が出来る仕事。
あれこれ考えていると丁度良い所に本屋があり、ふらりと入ってみる。
右の大三脚に住むキコは、登ったとしても第二脚の蟹歩きまでで、第一脚第四脚と左半分へは行った事が無い。
飛び込んだ本屋も始めて来る所だが、ぽつりぽつりと見える人影に少しばかり緊張が解れていく。
入り口近くの新刊と雑誌のコーナーは素通りし、棚の案内を見ながら奥へ奥へと歩いてみる。
程なくし「資格・転職」と書かれた棚を見付けると、キコは迷わずそこを折れた。
意外にも公務員である脱皮士に関する書籍が少ない事に驚きつつ、そう言えば脱皮士を目指しているのに書籍を買ったことが無かったと今更ながら気付いた。
調理師、脱皮士、刑務官等、その職業についてまとめられた書籍が山と並ぶ棚にさっと視線を這わせ、一先ず「職業大全」と書かれた一際分厚い本を手に取る。
ずっしりと重く漬け物の重石に出来そうな本を手に、これを読むのかとキコはほんの少しだけ気が遠くなる。
棚の端に置かれた椅子に腰掛けると、ぺらぺらとページをめくってみた。
最初の公務員の章は飛ばし、二章から読み始めたキコは不意に笑ってしまった。
どうにも今自分が嫌な事から逃げ現実逃避をしているような気になり、急ぎ自分に足りない物探しだと言い聞かせるも、何が違うのだろうと同じ事を何度も考えそうになる。
こんな事をしている場合では無いのにという思いと、今出来る事を何でもやっていこうと言う気持ちの間で揺れる。
やはり一人になると色々と考えてしまう。
まだ蟹歩きを離れるべき時期では無かったかも知れないと、底の見えない不気味な不安に押し潰されそうになると、ふとあるページで手が止まった。
それまでは一ページに一つ職業が記されていたが、このページからは一ページに五つ。
そこまで書く事が無いか、その職業に就くにあたって細かな規定が無いのか、一つずつの記載が異様に少ない。
その一番上に書かれていたのは「洗濯女中」
クリーニングかと思われたがそのすぐ下にクリーニングの文字を見付けもう一度洗濯女中の欄に視線を戻す。
概要はほんの一行「中腹の人達の為の洗濯代行」とだけ書かれていた。
クリーニングではなく洗濯の代行。しかも蟹の背の真ん中辺りに住む人限定の。
随分隙間産業的な、限定された職だと思いつつ、そんな事が仕事として成り立つのかと、すぐ隣の棚から極薄い「クリーニング・洗濯女中の始め方」という本を手に取り、膝に乗せる。
一先ずその本は置いておき、視線は再び職業大全へ。
漁師のページは見開き二ページある公務員よりも多く、類似の職業として搾油士も同じ位ページをさいている。
蟹から外海へ降りる漁師は規約や条件が事細かく、同じく外海で作業する搾油士も条件が厳しい。
今度は棚から搾油士の本を取り再び膝に乗せ、大全のページを捲っていく。
植林や養殖農業などもページ数が多く、とりわけ採掘のページは一番多いとみえる。
蟹がまだ海中に身を沈めていた頃の名残で、殻には幾つかフジツボなどの欠片が付着したままになっている。
何度も脱皮をしたと思われるが、不思議とその欠片は剥がれることが無い。
風化し鳥の糞に運ばれた種や生物が欠片に根を下ろし、一つの鉱山のような特殊な地形となっている。
そこから特殊な鉱石を採掘してくる仕事だが、脱皮士同様特殊なルールが存在するらしい。
大全には詳しくは該当資料を参照と書かれ詳しくは載っていないが、顔を上げその該当資料の厚さを見る限り、一日や二日でどうこう出来る物では無いと判断した。
公務員では無いにしろ特殊な仕事が多く、キコが求めるような今すぐバイト感覚で出来る物は少なそうだ。
まだまだ大全のほんの数ページだから仕方が無いかと背中を伸ばすと、カウンターからこちらを覗く店主の姿が視界の端に映った。
図書館でも無い書店で長時間の立ち読みは失礼かと、キコは急ぎ大全を捲り、気になった職業を記憶していく。
大全を棚に戻し洗濯女中と搾油士の本、それから蟹に背負われる事になったこの街の歴史の本を手にキコはカウンターへ向かう。
こう言った書籍は意外に高い。
思いの外出費が嵩み苦笑いのキコとは対称的に、店主はニコニコと本の入った紙袋を手渡し、つるりと光る頭をひょいと下げる。
トトコから貰ったサンドイッチを紙袋へ入れ、胸に抱えながら何処か本が読めるところと更にキコは蟹を登っていく。
公園でもカフェでもどこでも良い。座れて静かに本が読めるところ。
途中図書館を見付け入ろうとしたが、買った本を抱え図書館に行くのはどうにも憚れる気がし、ここはまた明日と素通りする。
どれ程歩いただろう。
頭に近付くに従い傾斜はきつくなり額から汗が流れ落ちる。
額から流れた汗がこめかみを伝い顎から滴り落ち、キコの足元を濡らす。
立ち止まり振り返ると、遮る物も無く蟹の脚が全て見渡せた。
左右の第三脚では作業が行われているだろうが、キコの位置からだと人影すら見えなかった。
気付けばトトコに言われた通り蟹の頭にまで来てしまったらしい。
キコの家のある大三脚から半日ほど歩きつめ、ようやく目の前には切り立った蟹の頭と目が現れた。
いつの間にか辺りには家は無くなり、頭の端には行けないように縄が張られ、その真ん中に小さな祠のような物が静かにあった。
遮る物が無い為街中より風が強く吹き付ける。
キコは祠の前に屈むと、縄や祠に挟まっていた葉やゴミを軽く取り除いてやる。
やり出したらあれもこれもと気になり始める。
キコはポケットからハンカチを取り出すと、祠の屋根を軽く拭いてみる。
すると案の定、軽く一拭きしただけでハンカチは煤で真っ黒になってしまった。
次ぎ来る時はしっかりした掃除用具を持って来ようと決心し、今日の所はこれで許してくれと、キコは祠を綺麗に磨いていく。
一通り拭き終え外れかけていた扉の留め具をはめ込むと、キコは大きく息を吐き祠の隣に腰を降ろす。
ふと、昼食を食べていなかった事に気付き紙袋を持ち上げたが、煤で汚れた自分の手が視界に入り、そっと紙袋を降ろした。
「ちょっとだけここで本を読んでも良いですか?」
キコは祠を覗き込みながら誰に言うでも無くそう呟くと、買ったばかりの本を膝の上に取り出した。
吹き抜ける風と、風に揺られる扉の金具の音以外聞こえない。
○○を助けに蟹から飛び降りた時の風と似ているような気がし、何故だか顔が緩んでいく。
脱皮士を目指しているからか元々そうであったのか、キコは自分がこんな風が好きだったのだとはじめて自覚した。
読み始めれば、薄くぺらぺらだと思っていた洗濯女中の本は意外に読み応えがあり、キコはすっかり夢中になった。
洗濯女中という職業を知ったのがついさっきという事もあるだろうが、洗濯女中だけでは無く、自分は蟹の事もこの街の事も何も知らなかったのだと改めて気付かされた。
じっくりと時間をかけ、時折一緒に買った歴史の本をめくり読み進めていく。
するとなんだか突如視線を感じたような気がした。
集中が切れただけかと顔を上げると、いつの間にか隣に見知らぬ老夫が座り込み、一緒に本を覗き込んでいた。




