蟹の脱皮士(仮題) 6
無事に引き上げられ、怪我人を運びだそうと脱皮士達が準備を始めると、何かが弾けたような軽い音が響き渡った。
作業の手を止めた脱皮士達の視線の先には、頬を押さえるキコと手を振り上げている総士長の姿があった。
頬を叩かれたキコはそうなると覚悟していたのか、真っ直ぐ目の前に立つ総士長を見上げる。
「自分が何をしたか分かっているんだな」
「はい」
新人を介抱していた士長が慌てて二人に駆け寄るも、総士長は何も言うなとばかりに士長を手で静止する。
「本来なら規則に従い候補生資格を剥奪する。だが此度の活躍により減刑し、第三脚の脱皮作業中の訓練棟への出入りを禁止しとし、第四脚での採用は無いとする」
「総士長! 今回の件には責任者の俺にも――」
総士長の言葉に士長が声を上げるも、総士長は話は終わったとばかりに背を向け歩き出してしまった。
キコは何も言わず総士長の背に一礼すると、悔しそうに拳を握り締める士長の肩を軽く小突く。
そんなやり取りを見ていた脱皮士達は、気まずそうにぽつりぽつりと己の作業に戻って行く。
布に寝かされ四人がかりで運ばれていく新人は、額に布を当てられ軽く処置をされている。
人払いがされたのか、いつの間にか野次馬達の姿は無くなっていた。
隣を運ばれていく○○がキコに軽く手を振り、そのまま診療所へと姿を消す。
一気に収束した事態に、先程までの緊張が解けたのか、キコは突如足に力が入らなくなりその場に崩れ落ちてしまった。
慌ててキコに手を伸ばす士長の向こう側で、総士長が振り返ったのが見えた。
「お前は自分は女だから私が採用しないと思っているようだが、この際はっきり言っておく。女だ男だ等とそんな事以前に、お前は脱皮士として重要な事が決定的に欠如している。最も重要なそれがないお前を、私は断固として脱皮士にしてやるつもりは無い。幸い第四脚の作業が終わるまで十分に時間がある。それまでにそれが何か見付ける事だな。事故の元凶に成り得るやつはこれ以上必要ない」
総士長はそう斬り捨てると、一度も振り返らず診療所へと行ってしまった。
今回の活躍で、もしかしたら脱皮士に採用されるかも知れないと言う思いはあった。
規則違反だが、自分の力を存分に見せ付ける事が出来ると。
規則違反だが、それを補ってあまりある評価を貰えると。
何処かでそんな事を考えていたのかも知れないと、キコは自分の愚かさを呪った。
確かに飛び降りた瞬間こそは、○○が怪我をしたと聞いて咄嗟にとった行動であり、そんな考えなどには至らなかった。
診療所へ行くという士長を見送り、キコは一人家路についた。
ベルトを抱え坂を登りながら見渡してみれば、あれ程の騒ぎが嘘のようにすっかりいつも通りの日常に戻っている。
これから出勤だと思われる一人の母親が、泣きじゃくる子どもを育児士に引き渡している。
片や視線を坂道の上へと滑らせると、これから学舎に向かう子ども達が、割れんばかりに声を張り上げ我先へと坂を駆け上がっていく。
世間的には今日はまだ始まったばかり。
路地裏に目を向ければ、開け放たれた窓から目を擦りながらゆっくりと朝食をとる人の姿も見える。
第三脚の作業は今日は無いのか。それとも○○達の見舞いが終わったら再開されるのか。
ふとそんな事が気になり振り返りかける。
しかし体を半分捻ったところで、キコは俯き再び坂を上りはじめた。
「あらおかえり。随分早いわね。忘れ物?」
玄関を開ければ、意外そうな声で母が玄関に顔を出した。
「第三脚で何かあったみたいだけど、確か○○君も参加してるのよね? 大丈夫かしら……」
「ちょっと怪我して診療所に居るけど、士長達も居るし大丈夫だよ」
ブーツを脱ぎ靴箱の奥へと仕舞い込むキコを訝しげに見ていた母だったが、○○が怪我をしたと聞いた瞬間、お父さんお父さんと声を上げリビングへと駆け込んでいった。
「おかえり。○○君、大丈夫なのか?」
ブーツをしまいリビングを覗くと、丁度話を聞きにリビングを出ようとした父と鉢合わせた。
「うん。足にノミが刺さったけど、意識はあったし軽口を言う気力も残ってたみたいだから多分平気。まだ治療中だから、お見舞いに行くならもう少し待ってから行ってあげて」
キコの言葉を聞いてもまだ不安が残るのか、両親は無言で顔を見合わせる。
脱皮士達の使うノミがどんな物かは大体知っているが、実際見た事無い人の方が断然多い。
そして両親もそうで、ノミが刺さったと聞かされそれがどれ程の事なのか、落ち着いた様子のキコを信じるべきか悩んでいるようだった。
キコは踵を返すと、二階への階段を上り自室を目指す。
「キコ、お母さんちょっと裏のお家に行ってくるけど、あなた今日はどっちに行くの? 仕事? 訓練棟?」
「しばらくは仕事かな。昼に店のサンドイッチ持ってくから、裏のおばさんによろしく言っておいて」
取り急ぎ上着を羽織った母が、階段下から大声で呼びかけてくる。
どうやら裏の○○の家へ○○が怪我をした事を伝えに行くらしい。
母なら上手く伝えてくれるだろうと、キコは階下の母を覗き込みながら、訓練棟へ出入り禁止になった事は伏せ、○○の真似をするようにひらひらと手を振ってみせる。
その仕草で母の顔色が少し良くなったように見える。
母も真似するように手を振り返すと、出掛けるなら戸締まりお願いねと、玄関も閉めず駆け出して行ってしまった。
訓練着を脱ぎ仕事用のシャツとズボンに着替えたキコは、再びリビングへと顔を出す。
丁度父も家を出る所だったらしく、仕事鞄を片手にキッチンで火の元の確認をしていた。
「お父さん今日は早上がり出来そうなんだけど、キコは何時まで仕事だ?」
「えっ珍しい! じゃあ私もお父さんに合わせようかな」
仕事用のエプロンを鞄に詰めながら、キコは父の言葉に声を弾ませる。
普段は気にならないが、やはり蟹に背負われている為か震動は常にあるらしく、家を建てて数年もすると壁に亀裂が入り屋根がずれたりしだす。
建材会社に勤める父は、蟹に適応した耐久性のある建築材の開発を行っている。
しかし、一度仕事にのめり込むと家に帰るのを忘れるほどの人だった。
閑散期でさえあまり早い時間に帰って来ない父が早上がりなど、年に一度あるか無いかの話だ。
「ああ。しばらくはこの前完成した壁材の様子を見るだけだからね。多分お父さんのが早いから、迎えに行くよ」
壁の時計を見上げながら父は穏やかにそう結ぶと、キコと一緒に家を出た。
坂道を下っていく父に手を振り、その先に見える第三脚を視界の端から必死に追い出す。
候補生は学生とは違い、訓練を行おうが通常通り各々出勤しようが、候補生の自由となっている。
第三脚の作業が終わるまで訓練棟に出入りできなくなったキコだったが、両親にその事を言わないで済む事に少しだけ安堵していた。
自宅からしばらく蟹の頭へ向け登って行き、第一脚の付け根辺りにキコの働くサンドイッチ屋『蟹歩き』がある。
殆ど持ち帰り専門店のようなものだが、一応店先と店内で食べていく事が出来る。
店内はその名の通り蟹のように横歩きでもしないと入れない、店主一人で切り盛り出来るこぢんまりとした店だ。
そんな店だからこそ、唯一の店員のキコも色々と融通がきく。
本当なら今日くらいは一人になりたい。
そんな気持ちを押し殺し、キコは気合いを入れると店の扉を開けた。
ふらりと店に顔を出したキコに、店主のトトコはあらと小さく声を上げた。
「朝からキコちゃんの顔が見れるなんて、今日は良い事ありそう!」
「いつも気まぐれ出勤ですみません……」
ベーコンを焼いていたトトコは、フライパンを放り出しキコの元へと駆けてきた。
申し訳無さそうに頭を下げながらエプロンを着けると、すぐにキコは野菜をまな板の上に並べはじめる。
「あ、来たばっかりで悪いんだけど、バゲットがまだ届いてないの。悪いけどちょっと取りに行ってくれる?」
ナイフをキコの手からすっと引き抜いたトトコは、申し訳なさそうに眉を下げるとキコと場所を代わる。
「すぐ行って来ます。パンはいつものですか?」
「それと追加で試作用のが一本。新メニューがなかなか行き詰まってるから、思い切ってパンを変えたら何か思い付くかなって」
ベーコンの様子を確かめながらリズミカルにトマトを切り出したトトコは、大袈裟にため息をついてみせる。
新しいオープンサンドの店が出来たからか、トトコは最近新メニューの開発に力を入れている。
しかしどうにも上手く行っていないらしい。
キコは困ったように笑いながら、分かりましたと努めて明るい声を上げ店を出た。
蟹歩きにパンを卸してくれているのは、同じく店主が一人で切り盛りしている小さな小さなパン屋。
聞いた話によると、一人で切り盛りしている為とてもじゃないがパンを卸すなんて出来ないと断られたところ、トトコがどうしてもと惚れ込み通い詰めて首を縦に振らせたらしい。
近所の人が買いに来る程度しか焼かず、店名も無い。
しかし、この辺でパン屋と言えば誰しもがああパン屋ねと言う。
第三脚の方に住むキコは、最初の頃は慣れない第二脚周辺で迷子になり苦労した。
その度に、何処からか漂ってくるパンの匂いを頼りにどうにか危機を脱する事が出来た。
今日も路地を一本曲がればすぐ、香ばしい香りがすぐ鼻を刺激する。
先程まで気が滅入り、無理に笑っていたキコだったが、この匂いには心の底から笑顔が沸き上がってきた。
「おはようございます!」
蟹歩きに引けを取らない、人一人分しかない細長い建物に、小太りな男が詰まっている。
キコはその背中に声をかけると、すぐ脇の持ち帰り用の窓から見を乗りだし中を覗き込む。
「おお、キコちゃん久し振り」
店主は首を捻ると、肉で埋もれた細い目を更に細めて笑う。
そういう人形のようにその場で足踏みをしキコに向き直った店主は、足元のショーケースから紙袋に刺したバゲットを何本か取り出す。
「トトコちゃんのお使いだよな。いやぁ助かった、窯の調子が悪くて、今焼けた所だったんだ」
別の紙袋にバゲットを差し替えると、表面の皮がぱりぱりと音を立て、数枚剥がれ落ちる。
カウンターに落ちたパン粉を指で押さえると、キコはそのまま指ごとぱくりと口に入れた。
「んー! パン粉だけでも最高!」
「それじゃ俺がパン粉しかやんないみたいじゃないか。ほら、おまけでもう一本持ってきな。トトコちゃんによろしくな」
まるっきり子ども扱いだが、キコも慣れたものでその扱いに甘えている。
まだ熱々のバゲットを抱え、キコは店主に挨拶すると、元来た道を走っていった。
客足はいつも通り。
昼頃は二人で忙しく立ち回り、日が傾く頃には自然と店じまいの雰囲気になる。
昼過ぎに約束通り○○の家へサンドイッチを持っていくと、見舞いに行ってるのか留守だった。
訪問時間と簡単な挨拶を手紙にしたためドアノブに下げてきたが、診療所へ持って行った方が良かったかと今更悩む。
目まぐるしく働き、気付けば朝の出来事など忘れていた。
出入り禁止なと、もうずっと昔の事のように思え、充実した一日だった。
父が迎えに来るまで、キコは新作の試食をしていた。
「果物とクリームを入れてみたんだけど、これじゃないね」
「そうですね……。もし果物を入れるなら柔らかいパンの方が良いような」
「うーん。うちの客層的にも、果物は無いか」
バゲットからはみ出したクリームまみれの果物をフォークで突きながら、トトコは大きくため息をつく。
硬く酸味のあるバゲットに果物はあまり合わず、噛むと果物が押し出されてしまう。
更に店の立地的に、客層は男性が多い。
苦肉の策とも思われるフルーツサンドを、キコは残さず最後まで食べきった。
父と共に家路につくと、丁度帰って来た母と出会した。
母は朝跳び出して行った格好のまま、両手に買い物袋を下げていた。
夕食はキコが持ち帰ったサンドイッチと、母が作った簡単なサラダとスープ。
それでも久し振りに三人でゆっくり過ごせる時間が心地よかった。
「キコ、無理に脱皮士にならなくても良いのよ? そのままサンドイッチ屋になるのも」
キッチンでサンドイッチの試作をしていると、母が真面目な声で話し掛けてきた。
顔を上げるとソファに座り眉を下げる母と、不思議そうに母の顔を覗き込む父の姿が見えた。
「○○君、動かず曲げず安静にしていれば、元通りになるって。でも少しズレて筋が傷付いてたり、無理に動いたりすれば駄目かもって。それに、今回は小さなノミが刺さっただけだけど、もっと大きなノミもあるんでしょ?」
不安げに声を上げる母を見つめていたキコは、きっと診療所で○○の容態だけで無く、今朝の事を聞いたのだろうと察した。
バゲットに乗せた生ハムとマッシュルームに視線を落としながら、母の言葉に耳を傾ける。
「お母さん反対はしないけど、キコは女の子なんだから無理に脱皮士にならなくても色々あると思うのよ。別に家計が苦しいから働いてくれって訳じゃなくて、脱皮士以外の道もそろそろ考えたらどうかなって。公務員なら他にもあるし、ね?」
キコはサンドイッチを紙に包むと、何も言わずリビングを出て階段を上った。
リビングからは母が父に何か声を落とし相談しているような声が聞こえたが、今は一刻も早く部屋に閉じこもりたいと、聞こえないふりをする。
サンドイッチを乱雑に机に放り投げ、ベッドに倒れ込む。
危険だから、女の子だから、公務員だから。
そんな理由を並べ他の道を示唆する母だが、きっとそんな事を言い出した根底には出入り禁止と次回も不採用と言う事があるのは分かっている。
母からすればそこまでしてなぜ脱皮士を目指す必要がある。これを気に諦めても良いんじゃ無いかと、優しさを込めた言葉だったかも知れない。
しかし、真剣に取り組んできたキコには朝の出来事だけでも耐えられない事だったと言うのに、更にとどめを刺されたようで何も考えられなくなってしまった。




