蟹の脱皮士(仮題) 5
「怪我人はどこだ。士長はどうした」
「士長はまだ下です。滑車で引き上げようにも、怪我をした二人の縄が絡んでしまい……士長が今縄を解きに行っています」
転がった反動を生かしすぐに立ち上がった総士長は、あたりを見渡しながら近場の脱皮士に声をかける。
「一人で行かせたのか!」
「あまり多いと絡みやすく作業の邪魔になるかと思いまして……」
総士長は受け答えをしていた脱皮士の胸倉を掴み、まさに殴りかからんとする勢いで迫る。
遅れて起き上がったキコが総士長の元へ駆け寄ると、総士長は掴んでいた手を離す。
「士長と、あと二人下に居る怪我人は誰だ」
垂れ下がる縄が確かに三本なのを確認した士長が、地面に転がる縄を拾い上げながら問うと、脱皮士達はえーとと顔を見合わせ口を開いた。
「失神したのは新人で、すみません名前は失念しました。それと助けに入ったのは○○です」
○○の名前を聞いた瞬間、キコは何も考えず総士長の手から縄を奪い取るや、自身のベルトにつけ躊躇いなく甲羅から飛び降りた。
「キコォオ!!」
総士長の叫び声が確かに聞こえた気がしたが、飛び降りた瞬間キコの耳に届くのは吹き抜ける風の音だけ。
今日は一際風が強く、体重の軽いキコは大きく揺さぶられる。
一気に脚まで降下すると、一度確実に脚に貼り付き体勢を整える。
息を整え下を見ると、赤黒い脚と真っ青な海との境目に、黒い塊がはっきりと見えた。
キコは大きく息を吸い込み息を止めると、殻の凹凸を避けながら真っ直ぐに滑り降りていく。
風が強く更に訓練用のブーツと言う事で、体は時折激しく揺さぶられるが、キコは決して脚から体を離さなかった。
「士長……!」
「馬鹿野郎てめぇ何しに来やがった! 脱皮士以外の降下は禁止されて――」
「今そんな話したくない!」
怪我をした二人に覆い被さるように脚に貼り付く士長は、キコの顔を見るなり声を荒げた。
しかし、キコはそんな士長の言葉を遮ると、士長の背中に貼り付くようにし、二人の顔を覗き込む。
「ようキコ、士長とのあつーい抱擁羨ましいだろ。代わってやるよ」
失神している新人は額から血が流れ、顔色も真っ青。
新人を抱きかかえる○○は軽口こそは叩いているが、その太ももには新人のノミが深く突き刺さり、ズボンは血で染まりきっている。
ブーツの先から滴り落ちる血とズボンの染まり具合を見ると、怪我をしてからかなり時間がたっているらしい。
笑みを浮かべる○○の顔は、新人以上に色味を失っている。
「今上に総士長も来てます」
キコは士長にそう伝えるや、○○の脚に貼り付き、自身のベルトに巻き付けてある革切れで○○の脚の付け根を縛り上げる。
「絡んだのを何とかしないと上げられねぇが、こうも風が強いと二人を押さえておくだけで手一杯だったんだ。お前、手伝えるか?」
「勿論、そのつもりです」
士長の言葉にキコは端的に答えると、士長と二人の間に体を滑り込ませる。
キコが押さえ込んだのを確認した士長は、一人その場を離れると、もつれ合った二人の縄の所へと上がっていく。
「クソッ! 二人がくっついてたら解けねぇ! 抜かなくていい、ノミのストラップ外して二人を離……ああクソッ! 人手が足りねぇ!」
二人を引き離すと、それぞれ二人を押さえる要員と、もつれた縄を外す指揮をとる要員の、最低三人必要な事になる。
士長再びキコ達の元に降りて来るや、新人のストラップに手をかけ動きを止めた。
「もう少ししたら総士長が――」
「いや無理だ……。これじゃ引き剥がせねぇ」
キコと○○が揃って視線を落とすと、士長の手には縄に繫がったノミが握られていた。
ストラップを外すとなると一度縄を外さなければならない。
しかし、今この場で縄を外してしまえば新人の命は無い。
ノミを見下ろしたまま、三人は言葉を失った。
しかしすぐに、吹き付ける風により三人の意識は現実へと引き戻された。
「士長……私の案、聞いてくれますか?」
ストラップを千切ろうと試みる士長に、キコはそっと落ち着いた声で話し掛けた。
その落ち着きはらった声色に、士長は冷静になったのか、無言で一度頷いた。
キコは士長が頷いたのを確かめると、ゆっくりと腰に付けた鞄から器具を二つ取りだし、士長に差し出す。
それは短い縄の両端に引っかける器具がついた物だった。
「私の縄にこれでこの方を繋げます。その間にストラップを外して下さい。そうすれば○○とこの人は離れます」
「お前、押さえ付けておくのと、自分の縄につけるのじゃ、バランスの取り方が」
「分かってます。ですが、この状況です。意地でもやり遂げます。二本ありますし、多少はマシだと思います。ですが二人を外したあと、どうやって縄を解くか……」
辿々しく言葉を落とす士長に、キコは更に冷静な言葉を重ね、最後に疑問を託す。
誰も口を開かず、ただただ風に堪え忍ぶ。
しばらくし○○が小さく呻き声を上げると、士長は意を決したようにキコの肩を抱き寄せた。
「お前には苦労をかけるが、今は耐えてくれ」
士長はそれ以上何も語らず、キコの手から器具を二つ受け取ると、自分のベルトとキコのベルトに一つずつつける。
「意識がある分○○のがバランスがとりやすいだろう。お前は○○、俺が新人。二人で一人ずつ引き取れば、上で俺達の縄を巻き取れば回収完了だ。ただし器具は一つずつ。○○の髪の毛鷲掴みにしてでも抱き付いて、絶対離すなよ。お前なら大丈夫だ、いける」
難しいが今出来る最善はそれだろう。
大丈夫だと励ます士長の何とも言えない言葉選びに、キコも○○も顔がにやけてしまう。
キコは○○に一度確かめるように視線を向けてから、士長に頷いてみせる。
それぞれを器具で固定し息を整える。
もう一度確かめるように三人は顔を見合わせると、まずは新人の縄を外した。
一度大きく士長の体が煽られ、ノミが引っ張られる。
直ぐさまキコが縄からストラップを外すと、士長は新人を抱きかかえ無事に脚へと貼り付いた。
次は自分達だと、キコは○○の顔を見る。
ノミが引っ張られ痛みがあったのだろう、○○は歯を食いしばり俯いたままその時を待っているようだった。
○○の縄に手を伸ばす。
○○の重みでぴんと張られた縄はそのままでは外せない。
一度○○の体をほんの少し持ち上げるようにし、縄にかかる負荷を下げ、慎重に外す。
途端、自身の縄に○○の体重がのしかかり、一気にバランスを崩す。
風で煽られる面積が格段に増し、更に二人分の体重を理解しバランスをとる。
何度か脚と空を行き来し、言われた通り○○の髪を毟らんが如く胸に抱いたまま、蟹の脚に体を叩きつけどうにか貼り付くことが出来た。
一度○○に視線を落とし無事を確認してから士長を見やる。
士長もどうにかと言った具合でバランスを保っているが、もう大丈夫だと判断したのか、片手を離しキコに拳を握ってみせる。
キコも○○を抱き締めたまま、どうにか拳を握り返し、ほんの少し口角を上げてみせる。
今更になって足が震えてきたのが自分でも分かる。
足の震えが徐々に上へと伝染し、気を抜けば歯ががちがちと音を立てそうになる。
しかし士長に気付かれまいと、あと少しの辛抱だとキコは己を鼓舞し、バランスを取ることに集中する。
すぐ隣で士長が引き上げの合図を出す。
もう少しもう少しと己に言い聞かせるキコの背中を、○○は静かに撫でてやった。




