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蟹の脱皮士(仮題) 2

 額から汗が流れ、器具を握り締めると手袋に染み込んだ汗が滲み出す。

 ふと気付けば、嫌と言う程耳についていた脱皮作業の音が聞こえなくなっていた。

 昼食かと天を仰いでみれば、日は中点をやや過ぎた程。

 中点まで待てず早飯をしてしまう脱皮士達にしては珍しく遅い休憩だと、空を見上げたまま思い切り伸びをする。

 集中力が切れたからか、どっと体が疲れを思い出したように重くなる。

 キコは縄を緩め降りると、そのままどさりと座り込んだ。

 縄を外しベルトを外すと、滞っていた血が急速に体中に巡っていくのが分かる。

 キコが別段ベルトを強く締めすぎていると言うわけでは無く、やはり長時間ベルトで宙吊りとなると、誰しもが血流が悪くなり足が浮腫む。

 異様に怠い足を伸ばし、足首からふくらはぎへ、更に太ももから腰へと揉んでいき、もう一度足首からもみ上げていく。

 何度か同じ事を繰り返し、ようやく怠さが取れた所で、キコはそのまま後ろへと倒れ込み大の字で寝そべった。

 寝そべれば背中越しにゆっくりと歩く蟹の存在を感じる事が出来る。

 確かに蟹は動いているが、不思議と生活している上ではその事を忘れるほど、振動も無く驚くほど穏やかだ。

 何処かで昼食の仕上げをしているのか、油を熱した匂いと共に、甘い匂いが風に乗りキコを取り囲むように辺り漂う。

 キコは目を閉じ匂いに意識を集中させると、この匂いは豆のスープだろうか、それともシチューの匂いだろうかと、見知らぬ家の昼食に思いを馳せながら腹をさする。

 程よい倦怠感と暖かな陽気、それに背中を伝う優しい揺れと昼食の匂い。

 腹が減っていなければこのまま寝てしまえただろうが、今はこの空腹に感謝していた。

 以前同じ状況で気付いたら日が傾いていた、と言う経験をした事があったのだ。

 食べてしまったら夕方まで訓練出来るかどうかと言った心地だが、脱皮士を目指すキコは明日の体作りも仕事の内。

 昼食に行こうと体を捩ると、訓練棟の窓の向こうを足早に歩いて行く士長の姿が見えた。

 自身を不採用にした士長とはしばらく会いたく無い。

 昨日無理矢理抑え込んだ苛立ちが再び心の中で膨らみ力をつけるのが分かり、さっと視線を反らす。

 しかし、ふとある違和感を感じもう一度視線を戻すと、もう既にそこに士長の姿は無かった。

 昨日から始まった現場。二日目にして士長が休みを取るとは思えない。

 午後の作業をせず士長が姿が訓練棟に、更に早飯の脱皮士がこの時間に休憩を取っている違和感。

 蟹が比較的動かない午前中に殻に切れ目を入れ切り出し、午後に切り出した箇所を剥がしていく。

 切り出し作業は予めその日切り出す区画を決め行われる為、然程大変でも無く難しくも無い。

 むしろ本番は殻を剥がす作業だと言っても良い。

 その剥がす作業を行っているはずの時分に、こんな所に何故士長が。

 いくら考えてもそれらしい理由が見付からず、意外にもただ単純に昼食が遅くなり、たまたま昼食時に士長が総士長の所にでも行ったのだろうと、キコは突如興味を失い考えるのを止めてしまった。

 今はそんな事より自身の昼食が先だと、キコは大欠伸をすると昼食へと向かった。


 翌日も相変わらず訓練棟に人の姿は無い。

 勉強熱心、と言うより懇意になりどうにか取り入ろうとする候補生は、脱皮作業が始まると現場に張り付く。

 熱心に声をかけ質問し差し入れをし、どうにかその目に止まろうとするも、そんな分かりきった下心に気付かない脱皮士など居ない。

 殆どの場合、脱皮士達にただ都合良く使われて終わる。

 壁に向かいながらふとそんな事を考えていたキコは、ふと以前○○が遅くに自宅まで差し入れを持って来た奴が居て恐怖だったと言っていたのを思い出し、思わず顔がにやける。

 すると上手く力が入らず壁が器具を弾いた。

 気を取り直そうとぶら下がったまま天を扇ぎ深呼吸をすると、また士長が訓練棟に入って行くのが見えた。

 しばらくし廊下に姿を現した士長は、総士長を捕まえ熱心に時折大きく身振り手振りを交え何かを訴えている。

 昨日に続き今日も、しかも今日はまだ作業が始まったばかりの時分だ。

 ぶら下がったままそんな総士長達の様子を眺めていると、士長は総士長に宥められるように部屋の中へと入っていった。

 不信に思っていると、総士長達が入って行った部屋の前に候補生達が集まりだした。

 どうやら総士長と士長にお茶を持って来た事務員を捕まえ、お茶を持って行くのは自分だと揉めているらしい。

 現場に詰めたり目ざとく士長の動向を追ったりと、ここまで来ればその執念と行動力に感心してしまう。

 どうやらお茶を持って行く人が決まったらしく、二人を残し他の候補生達はばらばらと解散する。

 しかし、その一部が訓練用の壁を目指していると分かったキコは、不満そうに一度舌打ちをすると、縄を伝い壁を登っていく。

 壁を登りきり縄を回収し所定の位置に置く。

 まだ浮腫みもしていないふくらはぎを擦っていると、思った通り先程の候補生達が訓練場へと降りて来た。

 キコは手袋を外しながら、候補生達が来た扉とは反対に位置する扉へと歩き出す。

 扉を潜る直前に一度だけ振り返ってみると、候補生達は首を伸ばし総師長達の居る部屋を気にしながら、見せ付けるように大袈裟な動きで壁を降下し始めた。

 訓練棟の階段を上りながら、今日の訓練はこれでお終いかとキコは不満げにため息をつく。

 士長が現場に戻ればあの候補生達も訓練を止めついて行くかも知れないが、そうなった場合きっと使った縄はそのままだろうと考えると一気にやる気が失せる。

 ふと、切り出しの訓練が出来ないなら、剥がす訓練はどうだろうかと思い立ち、キコは階段の中腹で足を止める。

 開いていれば好きに使って良い切り出し用の壁と違い、剥がす訓練は場所も少なく手入れの手間も有り、事前予約が必要だ。

 しかし、予約が無ければその場で予約をとり使う事が出来る。

 普段は遅くとも二週間前には全て埋まってしまうが、今なら予約の空きかキャンセルがあるかも知れない。

 滅多に自主練が出来ない剥がし作業がもしかしたら出来るかも知れない。

 キコはそう思い立つと、踵を返し浮き足立った足取りのまま軽やかに階段を降りていく。


「ああキコ、丁度良かった」


 階段の上から呼び止められたキコは、足を止め顔を上げる。

 折り返した階段の手すりの上には見慣れた顔。

 キコが振り向いたのを確認した○○は、足早に降りながら、ひらひらと手を振って見せる。

 ベルトを着けたままの所を見る限り、現場を抜けてきたと言うことが分かる。

 キコは緩やかに手を振り返しながら眉根を寄せる。

 右脚の士長に左脚の○○。

 一日の作業が終わるまで現場を離れない脱皮士が二人。しかも担当は別の脚。

 右脚だけで無く左脚でも何か起こっているのだろうかと、キコは○○の言葉を待つ。

 ○○は手首に通したままだった器具の落下防止ストラップを外すと、心底面倒そうにキコの肩に腕を回す。


「朝から左脚と右脚と訓練棟を行ったり来たりで、もうヘトヘトだ。ちょっと肩貸してくれ」

「その辺の椅子に座りなさいよ。飲み物くらいなら買って来てあげるわよ」


 キコを見付けた時の丁度良かったと言う言葉は、寄りかかるのに丁度良いと言うことだったらしい。

 しかし、○○の今の言葉からやはり何かあったと確信する。

 階段を降りた先の廊下に並べられた椅子に○○を残し、キコは飲み物を買いに一度その場を離れる。

 売店から飲み物を二つ買い戻ってくると、○○は座ったまま士長と話をしていた。


「何だ、まさかお前まで取り入ろうなんて考えてるんじゃ無いだろうな?」


 士長はキコの姿を見るなり一瞬驚いたように目を見張ったが、すぐ眉間に皺を寄せ深くため息をつく。

 キコは一体何の事かと首を傾げつつ二人の元まで駆け寄ると、士長に視線を合わせたまま○○に飲み物を押し付ける。

 ○○はそんなキコの疑問に答えてくれるつもりは無いらしく、飲み物を受け取るとストローと蓋を外し、直接容器に口をつけ一気に煽った。


「飲みます? 売店の葡萄ジュースですけど……」

 

 未だ眉根を寄せたままキコを見下ろす士長に声をかけたものの、言葉は尻つぼみに。

 気心知れた○○ならまだしも、随分と年上の男性に売店で一番安い飲み物を差し出すのがどうにも気まずい。

 お互い何も言わず気まずい空気が流れ始めた時、○○がキコの手から飲み物をひょいと摘まみ上げると、一杯目と同じように一気に中身を飲み干してしまった。


「……○○。あまり飲み過ぎると午後の作業が辛くなるぞ」

「勘弁して下さいよ、もうへとへとですって。俺の代わりにそこのキコ持ってっちゃって下さいよ」


 空になった容器を二つまとめながら、○○はキコの肩を押し士長に差し出す。

 

「無い無いそれは無い。だってここに居るのは女に第三脚は無理だって言った張本人よ? ジュースを奢ったくらいで脱皮士になれたら苦労しないわよ」

 

 キコは○○の手を払い除け振り返ると、士長を指差しながら明らかに棘のある言い方で○○の意見を否定した。

 自分でも大人げなく思いの外苛立った声が出てしまったと思い、これ以上は駄目だと沸き上がる不満を抑え込むように深く息を吸う。


「何だぁ? お前まさか、俺が不採用にしたって思ってんのか? ふざけんじゃねぇよ。あんな使えもしない奴ら、俺が好き好んで採用するかってんだ! あぁクソッ! おい、売店行くぞ!」


 キコの言葉に声を荒げた士長だったが、両手で頭を掻きむしると、顎をしゃくり二人に着いてくるよう指示を出す。

 候補生や総士長の目もある訓練棟では、極力態度や言葉を乱さないように努めている士長なだけに、今の言動には二人とも驚きを隠せない。

 頭から煙を噴き上げんばかりに大股で歩いて行く士長に、キコと○○は一度顔を見合わせると、急ぎその大きな背中を追い掛けた。

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