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蟹の脱皮士(仮題) 1

データ破損シリーズ☆

 一つ鐘が鳴った後、更に続けて三つ。

 鐘の音に揃って顔を上げた住人達は、誰とも無く右の三本目かと独り言ち、干したばかりの洗濯物を取り込み始めた。

 鐘が鳴り終わるとすぐ、上層から大荷物を抱えた一団がゆっくりと下ってくる。

 右の場合は鐘は一度、左は二度。続けて打たれる鐘は爪から数えて何本目の脚か。

 一つと三つ鳴った今日、右の三本目の脚の脱皮作業に入ると言う事になる。

 

「半月ばっかり辛抱してくんな」

 

 一団の先頭を歩いていた男が、洗濯物を取り込む住人に声をかけてまわる。

 

「本当に半月で終わるんだろうな? 先に始めた左脚は苦労してるって噂だぜ」

「俺を誰だと思ってんだ。なぁに、うちの隊にかかればあっと言う間に終わらぁな」

 

 冗談めかした軽口を言い合い、住人達は一団の為に場所を空ける。

 

 巨大な蟹に背負われるように暮らす人々は、数ヶ月おきに訪れる脱皮作業に協力的だ。

 歩脚と言う呼び名がこれ程しっくりと来る蟹は他には居ないだろう。

 移動する大陸、移動する街、移動する国家であるこの蟹は、そのあまりにも長大過ぎる脚で体を支え海を歩き渡っていく。

 太く逞しい脚でしっかりと一歩ずつ進む蟹の甲羅の端は、物を干すのにうってつけの、良い風が吹き抜ける。

 

 二列に並び行進する男達は、長大な一本の縄を数人で担ぎ、適宜持ち場へと向かう。

 住人により場所を空けられた甲羅の端には凹凸が無数にあり、その幾つかにはすでに穴が開けられ、縄の端に付けられた金具を穴に通せば固定出来るようになっている。

 降ろした縄を固定する音だけが響き渡り、しばらくすると示し合わせたようにぴたりと静かになる。

 全ての作業員が縄を甲羅と自身のベルトに繋ぎ終わったのを確認すると、先頭を歩いていた男の号令に合わせ、全員が一斉に蟹の脚を伝い垂直に降下していく。

 遠巻きに子ども達がその光景に目を輝かせ、近くの家では老婆が慣れた様子で作業員にとお茶を沸かし始める。

 そして、その全てが見渡せる一際高い建物の一室で、キコは目の前の男を睨み付け机を両手で叩きつけた。

 

「何故私では無く、次点以下の人が採用されたのですか!」

 

 キコが机に叩きつけた紙には、実技筆記健康診断適正など全てにおいて、次点以下を大きく引き離す、優秀すぎる結果が記されている。

 しかし、その優秀すぎる通知の最後は、何故か不採用の文字で結ばれていた。

 キコが握りつぶしたであろう、くしゃくしゃに折れ曲がり皺が寄った紙に視線を落とした男は、気まずそうに、だが確かに煩わしそうにため息をつくとすぐに視線を外してしまった。

 

「今回は爪に次ぐ硬度の第三脚。女の力では難しいと士長が判断した。私では無い。第四、第五脚の時は選ばれるだろう」

「今回は硬度ですか。第一脚の時は良く動くから危険、第二脚の時は強風が吹き荒れるから危険と、そうやって何だかんだ理由をつけて結局採用しませんでしたね。いい加減、はっきりと『初の女脱皮士を排出した責任を負いたくない』と言ったらどうですか」

 

 視線を外したまま黙り込む男に、キコはそれ以上何を言っても無駄だと、暇も告げず部屋を後にする。

 早足で歩くキコを見るなり、すれ違う人は皆壁際に寄る。

 普段なら、道を空けてくれたただの親切だと思えるその行動すら、今のキコには倦厭されているように思え苛立ちが募るばかりだ。

 これでは駄目だと、キコは頭を振り立ち止まる。

 冷静になろうと窓を開け深呼吸すると、垂直降下の訓練をしている人の姿が見えた。

 蟹の脚を模した、切り立った小山の様な棘のある壁から縄一本で降下し、壁を蹴り反動をつけて手に持った器具を踏み付け壁に突き立てる。

 本番を想定したトレーニングは毎日繰り返し行われ、脱皮士候補生は隊に配属されるその日まで、バランスの取り方から体重移動、殻の剥がし方から縄の扱いまで徹底的に体に叩き込んでいく。

 上手く行かなかったのか、縄を緩め地上に降りた一人が苦笑いを浮かべ座り込み、一緒に訓練していた数名が笑いながら肩を叩いている。

 人が居なくなった夕方から一人で訓練するキコには、そんな光景が新鮮でいつも思わず顔が緩んでしまう。

 あまり見ていてはあちらも気まずかろうと思いつつ、人の訓練を見るのも勉強だといつもと同じ言い訳を繰り返す。

 

「また駄目だったって聞いて来てみれば、苛立ったりにやけたり、不審者かよ。ついに頭おかしくなったのか?」

 

 その声にキコは顔を上げると、いつの間にかキコの顔を覗き込んでいた男と目が合った。

 

「……いつから見てたの。無言で後ろに立たないで」

「いつからって、キコが総士長の部屋から飛び出して来たあたりから。手を振ってずっと声掛けてたの、気付かなかったのか?」

 

 しゃがみ込み窓枠に掴まり隠れるように外を眺めていたキコは、そんな男、○○の言葉にしばし記憶を探ってみる。

 

「いや、気付いてなかったって分かってるから。そんな真剣に考え込まなくても、はなから期待してないから」

「期待してない……」

 

 期待してないという言葉に露骨に落ち込むキコに、○○はしまったと顔を顰める。

 誤魔化すようにキコに手を差し伸べ立ち上がらせると、子どもをあやすように数度頭を撫で、軽く背中を押し歩き出す。

 落ち込んでいるのには変わりないが、そんないつも通りの○○の仕草に、キコも過ぎた事をいつまでも気にしているのが馬鹿らしくなって来た。

 先を歩く○○に小走りで追い付くと、髪を結い直しながらわざとらしいため息をついてみせる。

 

「士長がさ、第三脚は硬いから女の力じゃ無理ーだって」

「あ? 何、硬い? そりゃそう言われればそうかも知れないって程度の話で、やってみたら結局爪以外全部同じだろ。何言ってんだ」

 

 キコが今まで採用されなかった理由にも納得出来なかったが、脱皮士なら誰でも知っている常識を覆す、今回のあまりにも無理がありすぎる理由に、さすがの○○も声が大きくなる。

 すっかり気を取り直したキコとは対称的に、今度は○○が眉間に皺を寄せ廊下の真ん中に棒立ちになってしまった。

 

「総士長じゃなくて現役の士長様のご意見なんだから、きっとそうなんでしょ」

「現役の脱皮士の俺が違うって言ってるだろ」

「大丈夫。私も本気でそんな事思ってないから。でもそう言う事なの」

 

 この話は終わりだと○○の肩を小突くと、キコは再び窓の外に視線を向ける。

 これ以上何も言ってくれるなと言いたげなその後ろ姿に、○○もそれ以上言葉を重ねる事も無く、窓枠に寄りかかりキコと同じように外に視線を這わす。

 先程思うように出来なかったと思われる男は、今は縄を外し地上に座り込み、皆の訓練の様子を眺めていた。

 休憩か、キコと同じように訓練の様子を見て学んでいるのかと思いきや、その男が縄を固定するベルトを外しているところを見ると、今日はもうやらないつもりだと推測できる。

 皆が飛び上がり壁に器具を突き立てる度に、甲高い音が響き、剥がれた破片が降り注ぐ。

 座り込んでいた男は煩わしそうに振ってくる破片を払い除けると、投げ出していたベルトを掴み、そのまま何処かへと行ってしまった。

 

 翌日もいつもと変わりなくキコの一日は始まった。

 昨日から始まった右の第三脚の脱皮作業は、候補生の訓練棟からほど近いせいか、朝から殻に器具を突き立てる音が異様に響き、建物内に居ても嫌と言う程耳につく。

 採用試験が行われたばかりと言う事もあり、次の試験までかなりの時間がある。

 昨日まで熱心に壁に向かい訓練をしていた候補生達は、いったいどこへ消えてしまったのかと思う程、訓練棟はがらんと静まりかえっていた。

 そんなものも試験後の光景としてはもう見慣れた。

 むしろ、キコはこれ幸いとばかりに日の高い内から思い切り壁を一人占め出来ると、機嫌良く壁に向かっていた。

 縄を固定するベルトは、下着のように足を通し腰で締める革製の物で、男性向けとして作られている為、キコには些か大き過ぎる。

 限界まで腰回りを締め上げてもまだ余裕があり、更に太ももに至っては、子どもが大き過ぎる短パンを履いているような、あのどうにも可愛らしく不格好な姿を思い起こさせる。

 太もも周りはいくら緩くともベルトが脱げてしまう事は無いが、やはり作業の邪魔になる。

 キコは余ったベルトを締める為、ベルトの上から革の切れ端で縛り上げ、毎回自分の体に合うように調整していく。

 唯一の救いは、革の手袋は指定が無く、キコの手にも合う物があった位だ。

 ようやくベルトの準備が完了し、足を上げたり開いたりと動きに支障が出ないか確認していたキコだが、ふとある事に気付き動きを止めた。

 革を巻きつけた太ももをさすり、次に腰をさする。

 何度かその二カ所を往復するようにさすり確かめると、最後に恐る恐る脇腹を摘まんでみる。

 

「ちょっと太った? 昨日のヤケ食いがいけなかったのか、ヤケ酒で浮腫んでるのか……」

 

 昨日はお互い一日のスケジュールを終えた後、キコを励まそうと○○が食事に連れ出した。

 酒は日付が変わった辺りで打ち止めにしたが、その後もだらだらと明け方近くまで飲み食いしていた。

 昨日は休みだったと言っていた○○は、今日は左脚の脱皮作業を行っているはずだ。

 ○○も酒はそうそうに止めたが、朝まで飲み食いした体はさぞ重かろうと、キコは自身の腹を摘まみ揺らしながら、一人吹き出しそうになる。

 壁の裏側の階段を上がり壁の上に立つと、早速キコは縄を壁とベルトに固定する。

 昨日最後まで訓練をしていた人達の仕業か、壁の上の固定穴には、幾つか縄が繫がったまま放置されていた。

 使わない縄を放置しておくと、予期せぬ事が起こりかねない。

 実際、以前も似た状況で縄を放置し訓練をしていたキコだったが、器具を打ち込んだ拍子に縄が次から次へとキコ目掛け落下し、危うく縄についた金具で怪我をしそうになった。

 こうして片付けを面倒がり、またどうせ使うからと放置する候補生が日に日に増えていく。

 最初に誰かがやれば、次々に楽な方へと流れ真似していくのは重々理解出来るが、それとこれとは話が別だ。

 キコはつながったまま壁の上でとぐろを巻く縄を、下に人が居ない事を確認し蹴落とし垂らしていく。

 初めからこうして垂らしておけば頭上に注意する必要も無く、わざわざ片付けてやるなんて手間も無い。

 更にこうしていくつも縄を垂らしておく事で、不規則に揺れる縄を避け絡ませないようにする、所謂団体行動の真似事まで出来てしまう。

 全ての準備が整った所で器具をひと撫でし腰に差すと、慎重に素早く壁を降り訓練を開始した。

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