宰相と侍女5
朝議の準備を済ませたリディアが茶器と宰相服を片手に向かった先はクロウェルの私室。
結局昨夜マフィンを作り終わったリディアが、茶葉を片手に通用口から戻って来たのは既に日付も変わり随分経った頃だった。
早朝に姫の部屋の机に茶葉の内容と成分等の説明を添えて届けた後、昨日と同じように一日の業務を開始した。
クロウェルは既に自室の机に向かい、書類の束に視線を落としていた。
「おはよう御座います、クロウェル様。本日のお召物とお茶をお届けにあがりました。官僚様方よりお預かりしております書類は執務室の方に」
リディアはそう告げ一礼すると、茶器を置くとハンガーに宰相服をかけベッドに視線を向ける。
すると何故か昨日リディアが整えたままのベッドがそこにはあった。
「クロウェル様……昨夜はお休みになられなかったのですか?」
シワ一つ無く整えられたシーツに手を付き確かめると、思わず振り返り机に向かうクロウェルに視線を移す。
振り返り仰ぎ見たクロウェルの表情は昨日とさして変わらないものだったが、目元にはしっかりと疲労の色が浮かんでいる。
そこにさらにいつのも妖艶さに加え寝不足特有の気だるさが相まって、言葉を失ってしまう程の壮絶な色気を放っていた。
「バスティン様の書類に思いの他時間がかかりまして。ですが先程ソファで少し仮眠しましたよ。仕事を溜め込む前に私に下さいと再三申してると言うのにあの奔放なおっさんは……。それに、リディアこそ随分と寝不足そうな顔をしてますよ」
忌々しそうにバスティンから受け取った書類の束をどさりと机の上に投げたクロウェルは、そのまま視線だけをリディアに向けたのだが、無自覚ながらもそれは素晴らしく艶やかな流し目だった。
が、幸か不幸かリディアは指摘された自分の顔をぺたぺたと触り確認するや、すぐさま頭を下げた事でそれを直視する事は無かった。
「申し訳御座いません! すぐに顔を洗い気を引き締めて参ります……!」
リディアは自身の主の前でそんな素振りを少しでも出してしまった事に背筋が凍りつき、たまらず扉に向かった。
だが扉に駆け寄ったリディアの腕はぐいっと後ろに引き戻され、体勢を崩したリディアは温かいものにふわりと包み込まれた。
「寝不足になる程何をしてたのです? まさかバスティン様……」
頬に当る柔らかいシャツの感触とうっすらと香る香水。
頭上から落ちて来た声に反射的に顔を上げるとすぐそこには気だるげな表情のクロウェルの顔がある。
リディアはクロウェルの腕の中にすっぽりと納まった状態だった。
状況を理解しぴしりと固まったリディアをよそに、クロウェルはなんとも無いかのように言葉を続ける。
「私の侍女になったばかりだと言うのに、もう浮気ですか。全く……」
いつもの悪戯っ子の様なクロウェルの声色では無く、溜息交じりに呟かれた呆れるような声にリディアの顔は再び真っ青になる。
だが反論しようとリディアが口を開けた瞬間、ふわりと体が宙に浮いた。
気付けばいつも自分より大分高い位置にある紫の髪が、自分の頬にあたっている。
バスティンの様に荷物の如く肩にかけるのでは無く、クロウェルは腕の中に居たリディアをそのまま持ち上げすたすたとベッドに歩み寄ると、当たり前のようにそこに降ろす。
「そんな隙だらけの寝惚け眼ではまたバスティン様に持ち帰られますよ? 朝議の間ここで寝ていなさい」
「なっ!? だっ駄目です駄目ッ! 絶対駄目です!」
リディアは左手をベッドにつきリディアの体にシーツを被せようと伸ばしたクロウェルの右腕にしがみつき、わたわたと抵抗する。
あまり頭の回転が早い方では無いと自分で思っていたリディアとしては、すぐさまクロウェルに抵抗出来ている現状に正直驚いている。
「何故です? もう朝議が終わるまで仕事はないでしょう。それとも私の添い寝が必要ですか? まさか本当にバスティン様は良くて私は駄目と――」
「違っ……! 違、誤解です誤解っ! えっと、駄目じゃ無いですけど駄目で! って、駄目駄目そうじゃ無くって、駄目本当に寝ちゃ……うぅ」
クロウェルの腕を押し胸を押し必死に抵抗していたリディアだったが、突如クロウェルを見つめていた目を蕩けさせ抵抗していた手がズルリと落ちた。
ふにゃりと力が抜けたリディアに流石のクロウェルも驚き固まったが、必死で眠気にあらがうリディアの姿にたまらず吹き出してしまった。
正直、リディアのベッドと比べると格段に快適なクロウェルのベッド。しっかりと体が沈み包み込まれる体験した事の無い最高の寝心地に、健気に眠気を押し殺していたリディアはまさに陥落寸前。
「ほらほら、その顔。このまま寝てしまいなさい」
まだ弱々しい力でクロウェルの腕に手をかけるリディア。クロウェルは目の前に居るのにどこか遠くから声が聞こえてくるような感覚に襲われ始めた。
すると柱時計の針がカチッと音を立てた。
その瞬間リディアははっと目を見開き起き上がると、ベッドの横から自身の上に半分身を乗り出しているクロウェルの左肩を力の限りベッドに向かい押す。
すると全く予期していなかったクロウェルは体勢を崩しベッドにどさりと崩れ落ちた。
倒れ込むクロウェルの体をさっと避けて立ち上がったリディアは、今度はクロウェルに問答無用でシーツを被せると机に駆け寄り書類を掴み取る。
「これっ、このっバスティン様の書類! バスティン様にお渡ししてきます! 朝議の前にまたお伺いしますので、それまでクロウェル様はお休み下さい! そんな寝惚け眼、誰かに持ち帰られますよっ」
「ちょっと待ち――」
クロウェルの言葉を聞くこと無くリディア一目散に出て行ってしまった。
「持ち帰られる? 男の私が? 一体誰にですか……。全く、まだまだ思い通りになりませんね」
先程自身が言った言葉をそのまま言い放ち逃げ出して言ったリディアの姿を思い出し、クロウェルはベッドに突っ伏し思い切り一人で笑い転げた。
*
「お? 早いなリディア……そんな髪ぼさぼさにして急いで届けなきゃならん書類でも無いんだけどなぁ、これ」
「おはよう御座いますバスティン様。早朝からお見苦しい姿をお見せした上に大変失礼な物言いなのですが、私の懺悔を聞いて頂けませんでしょうか?」
バスティンの私室の前で、書類を手渡しつつ拗ねたような膨れっ面を元宰相に向けるリディア。
本来ならば侍女の振るまいとしては絶対にあり得ない事で、昨日半日接しただけのバスティンでも、リディアの侍女としての能力の高さは重々理解している。
バスティンは、そのリディアが見事な膨れっ面で開口一番自分に言った言葉にどうにも興味をそそられた。
「なんだぁ? まーたクロウェルにいじめられたのかぁ? あいつまだ昨日の恨み引きずってんのか」
バスティンはリディアの頭をぽんぽんと叩きながら、シャツの上から鎖骨の辺りをかきつつ明後日の方向を見ながら呆れた声を上げる。
実際昨日クロウェルが【躾】と称してリディアをからかっているのを目撃しているバスティンは、話は大体そんな所だろうとあたりを付けていた。
立ち話もなんだと部屋に入るよう薦めたが、リディアはそれに答える事無く口を開く。
「私、どんなに姫様が我が儘を言ってもどんなにパワフルにおいたをしても、どれ程甘えられ実の妹のように大切に思い愛していても、決して頭の芯の冷静さは失わず侍女の一線は越えず、侍女らしい振る舞いを崩す事は無かったのです。ですが……」
そこで言葉を句切ると、スカートの裾をくしゃりと握り今にも泣き出しそうな顔で、バスティンの喉元に視線を移し呼吸を整える。
ただ静かにリディアの話に耳を傾けているバスティンは顔には出さないものの、こんな状態でもバスティンの顔を決して直視しないリディアに脱帽していた。
「ですが、何故かクロウェル様には上手くそう言う振る舞いを貫き通す事が出来ないのです。先程も失礼な事を言って暇乞いもせず飛び出してきてしまい……姫様の時は当たり前に出来た事ですのに……。しっかりやっているつもりなのですが、やはり私にはまだ宰相付き侍女の自覚と実力が無いのでは無いかと。ですからああやってクロウェル様は私を躾直そうとしてくれてるのではと。そうでしたら私はご多忙なクロウェル様に余計な仕事を増やしているだけでは無いかと思ってしまい、そう言えばクロウェル様は私にとても気を使ってらっしゃる様にも思えますし……」
「……は?」
大きな黒い瞳にたっぷりと涙をたたえ小さく震えながら必死の懺悔をするリディアだったが、想像の遙か斜め上を行く話を聞かされたバスティンは思わず前のめりになり素っ頓狂な声を上げた。
もう少しでも触れれば溢れ出しそうな涙を前に、バスティンはたまらず廊下に誰も居ない事を確認する。
「あ……あー……リディア? お前さんは良くやってると思うぞ?」
「ですが実際はこんな不甲斐なく……もしかしたらこのチョーカーはクロウェル様にお返しした方がよろし――」
「待て待て。そんな事したらお前の主の仕事が増えるだけだぞ? それこそ本末転倒だ。それにー……」
そこで言い淀むと、バスティンは改めてリディアに視線を落とす。
だが、しばし考えたバスティンは話は終わったとばかりに盛大な溜息をつく。
そしてバスティンの視線に鉢合わせないよう、バスティンの動きを察知し目を伏せたリディアの頭を豪快に撫で回すと、子供を抱えるように抱き上げ背中をぽんぽんとあやすように叩き、扉の近くにかけてあった外交官のコートでリディアを隠すようにかけると、どかどかと大股で歩き出した。
早朝から立て続けに宰相と元宰相相手に失礼な事をした罪悪感からか、リディアは抵抗する素振りも見せずただされるがままバスティンに持ち運ばれていた。
「おや、おはよう御座いますバスティン様。朝議の時間にはまだ早……早朝から何を運んでるのです?」
その声にリディアの体はビクリと硬直した。
バスティンのコートと体に遮られ周りの様子は一切確認する事は出来ないが、姿を見なくともリディアにはその声の主が誰かすぐに分かった。
だが小柄なリディアの体はすっぽりとコートに包まれている為か、外部からはバスティンが荷物を運んでいる様に見えるようだ。
「おー坊主、良いところで会った。これやるわ」
バスティンは挑発するかの様な口調でそう言うと、コートごとリディアをその声の主の腕の中に落とす。
それでも有り余る大きさのコートに隠れたリディアの姿は見えていない様子。
「坊主……。人に面倒臭い仕事よこしておいて何です? 昔から変わらず自由奔放ですね」
「お前は何か変わったなー。今日の朝議、気が向いたから俺が宰相業務引き受けてやるよ。なぁに、つい五、六年前までやってた事だし元々出席予定だったしな」
バスティンはそう言って目を丸くするクロウェルの頭をぽんぽんと叩き、くるりと振り返ると元来た道を戻りはじめる。
「えっ、はい? いきなりな――」
「今日は張り切ってすっっっげぇ長い朝議ぶちかますから、それが終わるまでそれと自室に居ろー分かったなー坊主ー」
ひらひらと手を振って去って行くバスティンに呆気にとられつつ、クロウェルはふと手渡され腕の中の物に視線を落とす。
何か温かく柔らかい物がコートに包まれ、ついでに小刻みに動いている様な……持った感覚から伝わる情報に首を傾げつつ、クロウェルはコートを少しだけめくる。
「……リディア!?」
「っ……! 申し訳御座いませっ……すぐ降ります、ので……」
ふるふると小刻みに震えていたリディアは、クロウェルの顔が視界に入ると目に溜めるに溜めた涙をほろっと溢し、必死に声を振り絞りそう伝えると目を伏せわたわたと動き始める。
はっと息を呑んだクロウェルは人が居ない事を確認し、すぐさま自室に引き返していった。




