6.アルスティナ
アヴェニ国のステンに帰って来た頃には、アディーフの手下によって街は破壊されていた。
活気のあった街は寂れ、民家はところどころを壊されており、陛下派のサノン軍とアディーフの反乱軍が戦っていたところのようだ。
ユウには詳しくは分からないが、サノン族の中では左翼の陛下側を批判するアディーフという将軍が反乱軍を結成し、メイジェスを殺して自らが王になり、ナリュエ族と戦争する事が狙いのようなのだ。
力のほどは反乱軍の方が上だった。
ユウ達は各自に別れ、負傷者を助ける事に専念するために、各自が回復系のアイテムを持って、寂れてしまった街を徘徊した。
そんなとき、ユウは一人の少年を見付けた。
「大丈夫ですか!?」
戦いから何とか逃れてきたのか、傷だらけの少年が建物の影にひっそりと座り込んでいるのを発見した。
「ユウさん……」
茶髪、そして金色の瞳。
ユウは《カリュダ》の力で治療している中、どこかで見覚えのある顔だと思いきや、優しい兵士だと印象づけられたエルバントだった。
彼は瀕死の状態であり、ユウの《カリュダ》の力でも手を付けられないほど、酷く腹部に火傷を負っている。
「エルバントさん! 俺が必ず、治しますから……!」
そう言いながらも、心のどこかでは分かっていた。エルバントは助からない――いや、ユウのわずかな力やアイテムなんかでは助けられない。それでも諦めなかったのは、これ以上の犠牲者を出したくなかったからだ。
辺りの人々には死ぬか逃げるかした形跡が見られ、ほとんど人間は残っていない。ルクリア人は死んだら消えてしまうのだ。
「なぜ、貴方は私を助けようとするのですか?」
「助けたいから……」
「そう……ですか」
この場にアマネがいなくてよかった。いたらきっと、彼は人の死に怯えてしまうから。
大量の血が滴り、いくら治療に慣れているとは言え、至近距離でするのは少し怖い。それでも、彼の治療はやめなかった。
「アルスティナ……」
震える手でユウの頬に触れ、初めて会ったときのように、彼は金色の目を細めて穏やかに微笑んだ。
「やはり、君は優しいな。ハジメ様を、頼むぞ……我儘だが、私の望みを、聞いてくれないか……?」
触れ合う肌が温かかった。
「俺にできることなら――」
人が死ぬのは見たくないと思っていた。
「笑ってくれ、アルスティナ」
それでも、現実から逃れられる事は不可能なのだ。
ユウが静かに笑うと、金色の瞳は二度と開かれる事はなかった。
どうしてエルバントはゆうの笑顔を求めた? 何度もユウを見て懐かしそうに言った、「アルスティナ」って何なのだろう――分かってあげられない自分がもどかしく、その命を助けられなかった自分に嫌悪した。
目を閉じ、冷たくなったエルバントの身体は、ゆっくりと透明になっていった。これが死というものなのだ。
ゆっくり、ゆっくりとフェードアウトして、彼はどんどん空気と同じ色になっていく。
次に瞬きをした瞬間には、治療していた彼の身体は消えていた。周りに散った焼かれた建物の灰が共に風に流され、彼の死を告げる。
「きゅうう……」
ずっと頭の上でおとなしくしていたパプリカだったが、やはり生物の死には敏感なようで、悲しそうな鳴き声を出している。
「また、人を助けられなかったよ……」
頭から降り、エルバントが横たわっていた地面をじっと見つめるパプリカを抱き締め、こっそりとユウは泣いた。
他のみんなはどうしているだろうか。ユウのように、人が死ぬのを見てしまったのだろうか。メイジェスは見つかったのだろうか。それとも――。
「ごめん、エルバントさん、みんな……」
冷たくなった手の温度が痛いほどに伝わっていた、安らかな顔で永眠に就くエルバントを思い出し、そのまま泣き崩れていた。
立ち上がっても涙は流れる。もう後悔はしないと決めたのに、どうしてこんなに弱いのだろう。
「おーい! メイジェス陛下が見つかったぜ!」
遠くの瓦礫の山から、カイとソラ、それにアンジュが手を振っているのが分かる。辺りに人間は他にいないし、水色の髪は彼くらいしかいないだろう。
パプリカを頭に載せ、彼らがいる場所まで走って行った。
「陛下……」
見ると、高貴な印象だったそれは崩れ、メイジェスは安っぽくて貧相な布を被って震えている。
今まで皇帝陛下として戦った事もないだろうし、そうなるのも無理もないだろう。目の前で人が次々に死んで行くのだ。
「情けないだろ。国民を守るどころか、国民に守られるなんてな……こんなんじゃ、アスナ一人守れないのも当たり前だ」
違う。悪いのはアディーフだ。ユウ達が帰ってくる直前に内乱を仕掛けるなんて――せめてメイジェスが生き残ってくれた事が、国民にも喜ばしい事なのに。
「陛下は悪くないです。アスナさんだって、亡くなったのはあなたのせいじゃない」
頭を抱えるメイジェスに、言い聞かせるようにユウは言った。
荒廃してしまった街は元には戻る。しかし、死んでしまった人は元には戻らないのだ。中には逃げきれた人もいるのだし、責任が全て彼にあるとは限らないのだ。
「ユウさん、少し傍にいてあげて下さい。今からニュードイルに向かって、途中でギルウィン少将達と合流しましょう」
その様子に目を逸らしたアンジュはそう言った。
メイジェスだけでなく、カイやソラだって、人が死ぬのを見て心が締め付けられた筈なのだ。それに、ソラはまだそれを一度も見た事がないから、ショックはカイの倍以上だろう。アンジュは軍人だが陛下派なだけあり、やはり戦争は好きではないようだ。
その日はニュードイルに向かって歩き始めた。何としてもステンを離れなければ、メイジェスの命がまた狙われてしまう危険性があるからだ。
夜になった。星は綺麗だが、ユウは眠れなかった。
メイジェスは僅かな味方の兵士達に助けられ、現在はユウ達とニュードイルへ、残りのメンバーと合流するために向かっている。
アヴェニ国の首都ステンは急に攻められ、軍の準備も整っていないまま、アディーフが結成した反乱軍に圧倒されてしまったようだ。
何だろう。
闇の中、女の子の声が響く。知らない人の声で、それも頭に直接音声を流してくるような、なんとも言えない感覚である。
ソラでもアンジュでもなく、その声はユウの名前を呼び続ける。
『――ユウ』
まただ。また、誰かがゆうを呼んでいる。
(ソラ? アンジュ?)
ユウは混乱し、知っているルクリアの女性の名前を頭の中で挙げた。
『違うの。私はアスナ』
何がいいたいのだろう。
(誰?)
そう念じた後、ある事に気付いた。
アスナ――ハジメの姉である女性の人格が、ユウの中で目覚めたのかも知れない。
(アスナさん……ハジメさんのお姉さんの?)
ユウは必死に問い掛ける。
『そう、私はハジメの姉。あなたはやっぱり賢いね』
アスナの顔は見えないが、そう言うと同時に彼女が笑ったような気がした。
ユウに何の用があるのだろうか。彼女が会いたい人と言えば、生前一度も会った事のないユウではなく、実の弟のハジメや恋人のメイジェスなのだ。
まさか、似ているユウの人格を欲しがっている? 似ているこの姿ならメイジェスとも結ばれて、ハジメの信用も得られるから――。
(俺はあなたじゃない!)
最低だと思いながら、ユウは必死に彼女を否定した。アスナを素直に受け入れてしまうと、きっとハジメもメイジェスも彼女を選んでしまう。信じていない訳ではないが、本物の姉や恋人には敵わないだろう。
自分を奪われてしまうのが怖かった。
『違うの。私はあなたの人格を奪うつもりはないんだよ。それに、ハジメはあなたが大切だから、あなたを見捨てることはない。ただ、もう一度だけ……メイジェス様と二人でお話しがしたいの』
性格の良さ言えば、ユウはアスナに勝てはしないだろう。似ているのは外見だけで、ひとつも優しくなんかない。勝手な被害妄想をした事を深く反省する。
死んでもまだ意識があるとして、まだ生きているアマネに出会ったとしよう。もし自分の人格がその身体の中で目覚めたら、きっと自分の欲が出てしまう。ユウはハジメが言うような、優しい子なんかには到底なれやしない。
(ごめんなさい、アスナさん)
愛する人に一度だけ会いたいという、アスナの気持ちは分からなくはなかった。ユウだって、会えるのならば両親にもう一度会いたいからだ。
ユウは自らの意思でアスナを信じ、意識を彼女に預ける事にした。
ユウに頼んで身体を貸してもらったと同然のアスナは、暗い夜の中で身体を起こした。
久し振りの自分の身体。アスナにはユウの感情が流れ込んでくる。アスナがユウより少しだけ大人だから、彼の人格を奪わないだけ――実際なら、油断すれば欲が働いてしまうだろう。
死んでからすぐに、魂だけがルクリアで目覚めたときからすべてを見て来た。メイジェスはアスナが死んで以来、民のためにずっと頑張ってきた。今だからこそ、話をしたいのだ。
カイもソラも、アンジュも眠っている。
ただ一人、メイジェスだけは起きていたのだが――。
「ユウ。どうした? エルバントの事が気になるか?」
愛する人の姿だ。だが彼は、自分のせいで多くの民が死んだと思っている。すごく優しい人だと知っているユウには、メイジェスが感情を隠しているのが分かるのだ。
「ルイ・エルバントさん……彼はハジメを理解してくれて、お世話してくれた兵士ですからね……」
エルバントは優しい人だ。それだけはアスナにも分かった。
「そうだ。ユウ、こっちに来てくれないか」
「はい、メイジェス様……」
「ユウ、そう呼ぶもんじゃない。アスナを思い出すだろ?」
メイジェスはまだ知らなかったのをアスナは忘れていた。
「私、あなたの婚約者だったアスナ・ルティ・ギルウィンです。今夜だけ、ですけどね」
愛する人の目に、アスナはどう映るだろうか。少なくとも、今は可愛らしいユウの姿である。
「アスナ……信じていいのか?」
久し振りに夜の大地の冷たさに触れた、小さな身体を丸めてメイジェスの隣りに腰を下ろした。
「はい。十五年前からずっと、今までの経緯を見てきました――今夜だけ、あなたと話したくて」
知らない人に連れて行かれ、身体を弄ばれた挙げ句に殺された日、メイジェスやハジメには何も言えないままに死んで行った。
「お前との約束……平和を守って、戦争をなくしていくことだったな。それを守れなかった俺には、お前を愛する資格はない」
明るい性格で表には出さないが、責任感のあるメイジェスはずっと引きずっているようだった。
「……陛下は最善を尽くした筈です。それに、私は死んだのですから、陛下は私を忘れて幸せになるべきですよ」
死んだ恋人のことを忘れて、新しい好きな人を作り、幸せになってほしかった。
今回の事はメイジェスのせいではない――アスナの言いたかった事は、たったそれだけだ。
「こんな事を言うとハジメみたいだが……アスナ以上の女はいないんだ」
そう言えば、ハジメも同じような事を誰かに言っていた気がする。それだけアスナを慕っていてくれたことなのだろうが、弟に言われるのと恋人に言われるのとでは、随分と感じ方が違うものである。
「陛下もハジメと同じように、ユウに私を重ねましたね」
ふと、思い出したようにアスナは言った。
「あぁ。ユウはお前の生まれ変わりかと思ったくらいだ……」
「それは違います。でも、光の力を持った清い子だったので、話し掛ける事が出来たのです」
「そうなのか。だが、俺はハジメがあの子を連れてきて嬉しかったぞ……あの姉さんべったりだったチビガキが、俺の身長越しやがって」
アスナのよく知っているハジメは、今のように凛々しい青年ではなかった。五歳離れた姉からなかなか離れようとせず、その恋人のメイジェスによく反発していたものだ。
「ハジメ、あんな風になるとは思いませんでした。一人のひとをあんなに大切に思うなんて……」
アスカから帰って来た彼を見て、昔の弟からは想像出来なかった姿に感激した。ハジメがユウを誰よりも必要としていると言っても過言ではない様子なのだ。
ふとした瞬間に、メイジェスに抱き寄せられる。
ユウがまだ生きていた十五年前、確かな幸せを見付けた、声に出せないような嬉しい瞬間だった。
「……アスナが死んで十五年、か。色々あったが、お前だけに言わなければならない事がある。……ショックを受けるなよ?」
「私にはもう、色々な覚悟ができていますから」
現にアスナは、もうこの世にいないのだから。
「お前はマモルの子じゃない。チェリシュと……エルバントの子なんだ」
アスナは当時の出来事を回想した。
まだ五歳の頃だった。母親のチェリシュは原因は何かは分からなかったが、ハジメを産んだ直後に心の病気で自害した。
チェリシュは生まれた直後のハジメを『悪魔』だと言っていた。奇型で生まれ、紅い瞳になってしまったのもあるが、心に異常があったためか、『悪魔』を意味する名前を息子に付けたのだ。
チェリシュは数日後に自害し、軍人だった父親のマモルはその一週間後に帰って来たのだが、彼女が死んだのを確認してからどこかに出て行った。
それからマモルも帰ってくる事はなく、本名を隠して似た発音だった『ハジメ』と呼ぶようになったのだ。
「――そうですか。でも、それでもいいです。貴族じゃなくても、エルバントさんは優しくて立派だったから。ハジメはお父様との子ですよね?」
ユウと一緒に見ていた、エルバントの最期の姿、それと言葉。思い出せば、確かに彼は「アルスティナ」――よく分からない言葉を残していた。
「その通りだ。お前らは父親が違う。貴族に気に入られたチェリシュも、その婚約者のエルバントも、マモルには逆らえなかった」
話している最中、メイジェスに頭を撫でられる。
「だから彼女はギルウィン家に嫁ぐ事になったんだ。チェリシュはエルバントの子『アルスティナ』を身籠もっていた――それがお前なんだ、アスナ」
自分がどうであれ、本物の両親が哀れに感じてしまう。好きな人との婚姻を許されなかったエルバントは、きっとマモルを恨んでいただろう。
「お母様、寂しかったのかな。だから私、ギルウィン家の子供なのに、明るい茶髪だったんですね……」
父親のマモルがいない時に生まれた、紅い瞳の赤子に『悪魔』を意味する名を付け、放置したチェリシュを、当時のアスナは良く思っていなかった。
だが、きっと母親は辛かったのだろう。好きでない人との子供で、その上奇形として生まれてきたのだ。
チェリシュが心の病になった原因が、今頃になって分かったのだ。
「アスナ……いいか?」
メイジェスを見上げると、それとほぼ同時に顎を持ち上げられた。
「いけません。この子はハジメの大切な人です」
自分の身体だったら、何の迷いもなく捧げているのに。
「そうだった、すまない。つい、ユウをお前と重ねてしまうからな……」
「こうしてそばにいるだけなら、大丈夫です」
アスナは目を閉じ、溶け合う体温を感じた。
もう二度と、自分の身体で、こんなふうに愛情を感じる事は出来ないのだ。
アスナはもういない。存在しない人物である――受け入れがたい事実に混乱するが、それでもメイジェスやハジメが幸せならいいと思った。
だが、ルクリアはまだ平和どころか戦争の問題も改正されておらず、メイジェスは追われる身、ハジメは若いながらも戦いざるを得ない状況だ。
「アスナを殺した奴が、たとえ民でも憎い。二度とお前に触れられないんだぞ? どんなに愛していても、愛してると言う事しか出来ないんだ……」
目に焼き付く炎が妙に生々しい。
「私はそれで十分ですよ。前みたいに触れられなくても、私はあなただけを愛しています……だから、もう恨まないで下さい。貴方には幸せになってほしいから」
たとえそれが誰で、どんな事をした相手であっても、人を恨む事はしてほしくない。愛する人にだから言える言葉だった。
「アスナは昔から優しいな。初めて会った時から、俺を惚れさせただけある」
「私は五歳、貴方は十五歳だったじゃないですか……あの頃は仕事を探してたから、貴方に気に入られてラッキーかなって思ってましたけど」
幼いながらにして両親を失い、生まれたばかりのハジメの面倒を見てくれて、その上生活援助までしてくれたのはエルバントだった。彼に返金したいと思って行った城での仕事で、まさか王子だったメイジェスとこんな関係になるとは思っていなかったのだ。
「チェリシュに似て可愛かったからな。あれからだ、他の女など気にならなくなったのは」
大きな身体で、アスナの心が宿るユウに甘えて。
昔の光景を思い出させるそれに、心が少し揺れていた。ずっと分かっていた。アスナは優しくなんかない。本当は、このままずっと生きていたい。
これが本当の最後だと思うと、手放したくなくなるから――。
「そろそろ、ユウに戻らないと……私の気持ちが強くなるから」
アスナの我儘が許されないのは分かっていたし、もう覚悟は出来ていた筈なのだ。
「アスナ、愛してる。お前以外はもう――」
メイジェスが言いたかった事は、わざと最後まで聞かなかった。
夜の闇の中、ユウは二度と戻らない意識を手放したのだ。
昨夜、ユウはアスナに身体を貸したと同然の行いをした。彼女だった時の記憶は全くない。あれから彼女からの連絡は一切ないが、メイジェスは少しだけ元気を取り戻したようだった。
しかし、このメンバーでは旅に慣れている男がカイくらいしかいないため、野営をするのにも一苦労だ。ユウはひ弱なために獲物を捕る事もままならず料理のみ、メイジェスは料理も狩りも全く慣れていない。ソラも料理が上手くないし、アンジュも野営は未体験な様子だった。
早くハジメやキラと合流しなければ、ニュードイルに近くなるに連れて強くなっていく魔物たちと戦っている、カイの身がもたないのだ。
ユウの《カリュダ》でも治せる事は治せるのだが、いくら使ってもきりがない。それに、《カリュダ》もあまり使い過ぎるとユウが疲れてしまい、重症の時の対処が遅れてしまうのだ。
魔術が使えるといっても、ソラの魔術は魔法陣を組まなければならないため、どうしてもカイの守りが必要なのだ。そして、軍人であるアンジュも元々は事務の方を専門としているのもあり、男の力にはやはり勝てないようだ。
「カイさん。大丈夫ですか?」
そんなカイの心配を、アンジュはしていた。
というより、魔物から守ってくれるカイを彼女は気に入ってしまったようで、おとなしいながらにアプローチにはすごいものを感じた。
「ん、あぁ。平気平気!」
それに気付いていないカイは愛想よく返事をするのだが、端から見るとお似合いのカップルのようだ。
「あいつらってばデキてるのか? いいなー、羨ましいなー」
わざとらしくメイジェスがニヤニヤと笑い、ソラの闘争心に火を付ける――かと思いきや、ソラは平然と一番後ろで歩いているのだ。
ソラもカイが好きな筈だ。このままでいいのだろうか、とユウは彼女を見た後、メイジェスを睨んだ。
「陛下のばか!」
感情的になってしまい、つい礼儀というものを忘れてしまう。
「……ユウ、お前ってカイが好きなのか?」
「そりゃ、好きです、けど」
「そ、そうか。その、なんだ……あぁいう熱血男が好みなんだな?」
そういう意味じゃないのに、と言い返そうとしたが、その解釈に言い返す気も失せる。
「メイジェス陛下。ハジメさんも言ってたけど、ユウちゃんをからかわないで下さい!」
脱力していると、後ろからソラがフォローしてくれた。
彼女は口には出さないが、カイが他の女性と仲良くなっているのを見て、少し気が立っているようだ。
「陛下、ユウの背後にはハジメとキラという最強コンビがいるから、からかうのはやめた方がいいぜ? 特にキラは怖いからな!」
ちゃんと聞いていたのか、明るく笑ったカイがユウ達より幾分か離れた場所から振り向いた。だが、彼の言った事は間違いではない。ハジメは怖いと言えば怖いが、根はまだ優しい。だが、キラの方は逆に、優しいのは表面だけで中身は恐ろしいほど腹黒いのだ。
特にキラの事は、彼の授業を受けた生徒しかその怖さを知らない。カイには人を見抜く力があるようだ。
「キラってそんなに怖いのか? お前らの中でも一番紳士的じゃないか」
「陛下はまだ知らないんだ。アイツはすげぇ腹黒で、説教には鞭まで装備してくるんだ! しかもハンパない変態タラシ野郎なんだぜ!」
遠くの方まで聞こえてしまいそうな大声でカイは言っていた。
しかし、彼はつくづく運の悪い男だ、と前を見て歩いていたユウは苦笑いした。
「誰が変態タラシ野郎なんでしょうねぇ?」
ユウ達よりも向こう側で、後ろを向いて歩いていたカイだったが、ばったりと出会った三人――よりによってキラにぶつかってしまったようだ。
よく見えないが、ハジメが一歩引いているのだけは確認出来る。
「お前ら面白いな」
メイジェスは笑っているが、実際カイからすると笑い事ではないだろう。ユウもクラスメートがキラからお仕置きを受けるのを見てきたから、その怖さは分かるのだ。
「さて、君には前よりきついお仕置きが必要なようですね」
その間にユウ達も彼らに近付く事が出来たので声を聞けたのだが、やはりキラの目は笑っているどころか冷酷である。
きついお仕置き、と言ったが、一体何をしようとしたのだろうか。
「それよりキラ、何故ここにカイ達がいる? ステンで合流ではなかったか?」
「そうでしたね。陛下までいらっしゃいますし、やはりアディーフに……?」
キラは掴んでいたカイの腕を離し、再び真剣な顔に戻った。
「そ、そうなんだよ。ステンがアディーフの反乱軍のせいでほぼ壊滅状態だったから、陛下連れて迎えに来てやったんだ」
これから何処に行くかは定かではない。メイジェスとその護衛役を含めた九人で旅をするのだろうか。
この面子だと、何かとごたごたが起きそうな気がしてたまらないが――。
「あー、ミカエル大尉ぃ! おひさですぅ」
かなり耳につく喋り方をするレイル族の女の子が中にいるが、恐らくニュードイルの方にいたディーブルだろう。
しかし、ハジメ達がいない間に色々あって、話したい事が山積みだ。本当なら真っ先にハジメにアスナの事を話したかったのだが、どうやらそれも無理なようだ。
「久し振りです、ルシフェル少尉。ギルウィン少将は初めましてですね。わ、私、ファンなんです……」
先ほどまではカイにべたべたしていたアンジュだが、ハジメが現れるなり態度を豹変させる。さすがゼルの姉、と心の中で呟くが、当事者のカイは何とも思っていないようだ。
「ソラ、怒ってる?」
「ううん。カイが幸せならいいの」
こっそりとソラに聞いたが、彼女はそれだけ言って微笑んだ。応援してやりたいとは思うが、カイもソラもお互いのそういう気持ちには鈍感だ。
「……それより、今後俺はアディーフ将軍を追い掛けなければならんが、ユウ達はどうするつもりだ?」
「俺は付いて行きます。ニュードイルに残るのも不安だし、陛下の力になりたいですし」
ナリュエ族がレイル族を諦めたという情報が入らない限り、アマネをニュードイルに帰す訳にはいかないのだ。
「ボクもついて行く」
珍しくアマネも本気の様子を見せる。
「陛下。アディーフが行きそうな場所を特定出来ませんか?」
「スタイト大陸じゃないかと思う。このマイター大陸から東に向かって、船に乗れば行けるぞ。軍の養成地も向こうにあるしな」
「では、そこに向かって行きましょうか」
軍を養成する場所と言えば、ハジメやアンジュらもそこで暫く活動していたのだろうか。少しだけそんな事を考えたが、周りの迅速な行動に打ち消される結果になる。
予想外の大人数になってしまったメンバーで、アディーフがいるであろうスタイト大陸を目指して行った。
スタイト大陸を目指して歩くには、西側に向かっていたために、ステンからよりも少し時間が掛かってしまうようだ。ルクリアにはベヒケルがない分、歩いて行かなければならないのが辛い。アマネはそれで疲れてしまうし、彼を背負うキラの体力にもさすがに限界はあるのだ。
大陸を移るには、港へ行って船を借りなければならないようだ。そこに行くには、今歩いている割りと小さめのホアの丘を越えなければならないのだ。
季節は春と夏の間頃だろうか。晴れた上りの道は厳しく、その上パプリカを抱いているためか、体力の消耗も大きい。しかし、男性陣や軍人の女性はまだしも、か弱そうなソラまで倒れないとなると、体力がないユウも懸命に歩く他になかった。
とは言え、暑くて死にそうなのはユウだけかも知れない。先頭を歩く集団は仲良くお喋りをしているのだ。
「なぁキラ。お前って何でアマネに甘いんだ? ロリコンなのか?」
昨日、カイがキラの事を吹き込んだからか、メイジェスが執拗にそんな質問を繰り返している。
思えば、アマネだけは本当に男か女か分からない。せめて髪を切れと言っても「このままでいい」と言って聞かないし、声は高く背は低い。年齢も、実年齢よりかなり幼く見えてしまうのだ。
「アマネは十七歳ですよ。僕は主人には手を出しませんし、彼は男です。」
「嘘だー。ユウ、アマネと風呂入った事あるだろ?」
しつこいな、この皇帝は。と半ば呆れつつ、ユウはだるさの入った声で答える。
「ありますよ。兄弟二人共母さん似だから、あんまり男っぽくないだけなんです!」
アマネを女みたいと言う、というのをイコールすると、ユウも女みたいという訳だ。さすがにここまで来たら、何度もあった分もうどうでもよくなってくるが、それでも心の中のどこかではそれを否定している。
先頭組はキラとメイジェスと背負われているアマネを含めた三人の他にも、カイがその会話を聞いて笑っていた。
そして、メンバーの中の美形な男達を見て一番後ろに並ぶ女性陣が、事あるごとに騒いでいるのが伝わってくる。
「カイさんってかっこいいですよね、ソラさん」
悪気はないのだろうかどうかは分からないが、アンジュがそれをソラに振っている。
「は、はい、そうですね」
雰囲気でだが、アンジュはソラの気持ちを知っているようにも思える。女というものは恐ろしい、と再び心の中に教訓としてしまい込んだ。
その中でも割りとギスギスしていないのがディーブルで、喋り方を除けばアンジュよりは怖い女ではないように見える。
「大尉たちもかなりアレですねぇ〜。でもぉ、男って色々面倒じゃないですかぁ。陛下が言うには、ユウ様もカイが好きなのよぉ?」
平然とした声で、それもこちらは悪気のない大声で言うのだ。
まだいい印象があったのに、とユウは心の中で嘆いた。いや、この場合はメイジェスが悪いのだろうか。とにかく、下手すればカイ達にまで聞こえていそうな声の大きさだったし、ユウの近くを歩くハジメには当然聞こえているだろう。
このままでは勘違いされたままでまずい、とは思うが、女性陣が怖くて反論出来ないのは確かだ。
「……ユウ。それは本当か?」
何故かすごく怖い顔で、ハジメにまで言われてしまう始末だ。
「好き……って言ったらそうなんですけど、それはちが――」
「何かされたのか? ユウ、答えるんだ!」
飛び付いてきた彼に肩を揺さぶられ、至近距離で騒ぎ立てられる。パプリカも驚いたのか、腕の中で羽をばたつかせる。
言い方が悪かっただろうか。だが、意味は違えどカイが好きなのは事実なのだ。
ハジメにはすぐ後ろでソラが否定しているのも聞こえていないようで、一体何があったのかこちらが訊きたいくらいである。
「だから、何もされてません! カイは友達として好きなんです!」
あの二人揉めてるよ、とディーブルが笑いながら言って通り過ぎて行くのが聞こえ、感情的になっていたユウは冷静になって目を逸らした。
「……それを言うなら、兄さんやキラ先生も、ハジメさんだって……好きです、よ?」
面と向かって言うのは恥ずかしかったが、それで彼の誤解が解けるなら、という考えだった。
単なるコミュニケーションのひとつなのに、顔が熱くなってしまう。どうしてだろう。ただ、「友達として好きだ」という気持ちを伝えただけに過ぎないのに――。
「そうか」
不意を突かれるように頭を撫でられ、一瞬だけ身体を強張らせる。
見上げると、彼はあまり見せない微笑みを見せていた。キラにも見せないのに、どうしてユウにだけ――。
思えば、ハジメとまともに打ち明けたあの夜から、ほぼ初対面にしては最初から優しくしてくれた。彼が決してキラやアマネに最初から優しい訳ではなかった。
そんなハジメを、ユウはどう思っていた? 怖い? それも違う。よく分からない。でも本当は――。
「おいお前ら、イチャついてないでこっち来いよ!」
いつの間にか頂上まで辿り着いたメイジェスの、ユウ達を呼ぶ声で我に返った。
何を考えていたのだろう――いや、それよりも、今はアディーフを追い掛ける方が先である。
「パプリカ、走るから掴まっててね」
「きゅう!」
パプリカに走る許可を得た後、すぐに体力を振り絞り、ハジメと一緒に走って行った。その途中、彼には憧れているだけだ、という答えを改めて知り、一時的に変な気持ちになっていた自分を嫌悪する。
丘の頂上まで着くと、辺りの景色を見渡す事が出来た。ここからは下りの道で、草木ばかりの行きとは違って花もたくさん咲いている。
青い海も遠くに見える。写真や絵でしか見た事がないものだが、水平線からそれだというのが断定出来るのだ。
その少し手前には、何やらアスカのスタンデで見たような、工場か研究所らしき建物が窺える。
「あれは何だ?」
ハジメも同じ建物に気付いたらしく、息も切らさずにそう呟いている。
「陛下の元に着くまで、私はこの辺りの巡回を担当していましたが……あんな物は二年前にはありませんでした」
別人ではないかと疑ってしまうくらい、まともな喋り方をディーブルはしている。あれは一種のキャラ作りというやつだろうか。
「という事は、最近だな。行ってみようぜ!」
先頭をきり、再びメイジェスが歩き始め、先ほどの配置で九人は進み出した。
何故だか皇帝陛下である彼が一番張り切っているように思える。久し振りに城から出られたから、少し楽しんでいるのだろうか。だとしたら気楽な王様だ。
下りの道はかなり楽に進めた。日差しは強めだけど気にならないくらいで、足も疲れる事はないのだ。
道端には様々な色をした花が咲いており、アスカでは見掛けなかった色の花や、まるで水晶のように透き通った花など、種類は様々である。
「綺麗ですね」
花を見渡していたら、隣りにいたハジメと目が合った――偶然と言うよりは必然的で、彼がユウを見ていたから目が合ったのだ。
やはり、男が花に見取れるなんて変だろうか、と言った後に考えてしまう。変だから見られていたのだ。前言を撤回してしまいたい恥ずかしい気持ちに、せっかくの少し楽しかった時間が台無しになってしまう。
「あぁ。お前にはアルスティナの花が似合う」
微笑ましそうに優しく目を細めて見つめていたので、思わず心臓が飛び出てしまいそうなほどに驚いた。
彼があんな顔をするなんて。考えただけでも息が詰まりそうだ。いつも対等に話していた、キラやカイにも同じ顔をするのだろうか。
照れくさい顔を見せないように、腕まで降りて来たパプリカを抱き締め、ユウは話を続けた。
「アルスティナ……? そう言えば、亡くなったエルバントさんも、俺を見てそう言ってました」
ユウが花に似ていた、なんてことはさすがにないだろう。
「エルバントには小さい頃から世話になっていて、父親同然だったな……死んだ娘がいて、その娘の名前がアルスティナだったと聞いた事がある。ちょうど十五で死んだようだ」
十五で亡くなったから、ひょっとしたらまだ子供っぽさの残るエルバントと同じ茶髪をしたユウが、そのアルスティナという娘と重なったのだろうか。
「アルスティナは、古代ルクリア語で『清く優しい心』という意味を持つ。透き通っている花で、ユウによく似合う」
いつもは寡黙なハジメがユウに優しく話してくれる。わずかな笑顔も見せてくれる。それが何より嬉しいのだ。
「ありがとう。なんだか嬉しいです」
ハジメをそんな風に表すなら、まさに『強くて凛々しい人』だろう。それを意味する花は知らないので、心の中に置いておいた。
アスカにはないような、透き通ったアルスティナの花。ハジメのおかげか、それだけでその花が大好きになった。
暫く歩くと、花が植えられた道は終わり、普通の平地に戻ってしまった。少し寂しいが、アディーフやナリュエ族と決着を着けた後にもう一度行きたい。パプリカも花を見れなくなって残念そうだ。
「また来ようね」
自然に笑い、腕の中で残念そうに鳴くパプリカを撫でる。
これから何があるか分からないが、ルクリアで生き続けたい。その夢が叶った後なら、何度でも訪れる事が出来るのだ。
間もなく、例のアスカのものらしき建物の付近まで歩いて来た。
コンクリートで造られたようなそれは、スタンデにあったシアンの『ルクリア研究所』を連想させるくらい大きい建物で、ユウの身体の何倍もある大きさだ。
ここで何をするのだろう。アスカの時と同様、ルクリアでもアスカの事を研究しているのだろうか。
「これは……」
見上げていたカイが、ある一点の場所を見つめて眉を顰めた。
「どうしたんだ?」
張り切っているメイジェスが同じ場所を見つめるが、彼にも何があるのかは分からない様子である。
「あれ、メリア家の家紋だ……」
見ると、建物の上位には狼のシルエットのような形をした紋章が刻まれている。カイの装飾品には描かれていないデザインだが、本人が言うのなら間違いはないだろう。
「シアンは確か、あるルクリア人と契約していたと言っていたな」
「あぁ。それが誰だったか、ようやく分かるみたいだ」
ハジメとカイはちゃんとそれを思い出していたが、肝心の契約内容の詳細は言わなかった。考えれば誰だか一目瞭然なのに。
シアンはアスカの女王を殺し、自分が王になるためにルクリア人に手を貸してもらった。だが、そのルクリア人の方はどうだっただろう。確か、そのルクリア人の方も、ルクリアの王抹殺に協力する事をシアンに要求したのだ。
ルクリアに来て、王は主に三人いる事が分かった。
アヴェニ国のメイジェス、ニュードイル国のアマネ、それにナリュエ族の国の王である。
シアンはアマネには会っている筈なので、もし会っていたら真っ先に契約内容を守るために殺していただろう。だから、アマネの命を狙っている人物の仕業ではない事が分かる。
一方で、ナリュエ族の王の命を狙っている者としても、アスカまでアマネを追って来る分、彼らに内乱は見られない。それに、今は戦争が起こっていないので、サノン族にはその王を殺しても利益はないのだ。
だとしたら、内乱があり、批判する者が一番多いメイジェスの命を狙っている者と解釈するのが自然だろう。
「陛下。ここ数年のアディーフの行動に、不信感はありませんでしたか?」
キラは腕を組み、何かを考え込んでいる様子で言った。彼も同じ事を考えていたのだろうか。
「アイツが将軍まで上がって来たのが、確かハジメをスパイに任命した年だったな……とにかく、前将軍よりも不在期間が多く、それも長かった」
何とか思い出した、という仕草をメイジェスは見せる。
「そうですか。……では、カイに訊きます。シアンが頻繁にスタンデに通うようになったのは、具体的にいつ頃ですか?」
「やっぱり五年前くらいからだ! じゃあ、アディーフは親父と……」
「まだ確証はありませんけどね」
確証はない代わりに、両者の不審点は十分に発覚した。条件から考えても、シアンと契約したのはアディーフだと考えるのが普通だろう。
中は機械が作動しているのか、僅かながらに機械に似た音が聞こえてくる。
「今の、機械音だ!」
急にカイは走って飛び出して行き、その建物の扉を強引にこじ開け、一人で中へと入って行った。突発的な行動に、周囲はついて行けない状況だ。
「カイ、勝手な行動は謹みなさい!」
キラが言ったのも聞こえなかったカイがほぼ無理矢理開けた扉は、彼の身体が建物の中に入ったのを確認するかのように、すぐに重さで閉まっていった。
「仕方ない奴だ。俺達も行くぞ」
どちらにしろ、カイ一人では敵がいても立ち向かえないだろう。
ハジメを先頭に、ユウ達も中に入った。扉はハジメが開けてくれたのだが、女性や子供、一般の男の力でも開けるのは難しいくらい重い扉のようだ。彼が軍人で、鍛えているからこそ出来た事である。
中には誰もいない。半透明の硬い水色の床の上に、何台かの機械が作動している。純粋に無人で機械が動いているだけの場所か――或いは、どこかに収容されているかも知れない。アスカの時もそうだったからだ。
しかし、突き当たりの道まで走って行くと、右と左に分かれた通路に足を止める。
「カイ、どっちに行ったのかなぁ」
どちらの通路を見渡しても、既にカイの姿は見えなくなっている。二手に分かれるとしても、どちらかに力が偏るのも問題なのだ。
カイを除いたメンバーが悩んでいると、パプリカがユウの腕から飛び降り、コツコツと床を鳴らし、右側の通路まで歩いて行った。
「きゅう! きゅきゅっ!」
褒めてほしい時に鳴くのと同じような鳴き声を出し、嘴に何かを咥えてユウの脚に擦り寄ってくる。
「パプリカ、だめだよ。どこに繋がってるか分かんないんだから……」
再び抱きかかえると、パプリカが何を咥えているのかが分かった。
水色の床だったから、少し見渡したくらいでは気付かなかったのだ。
パプリカが咥えていたものは、たった十センチ前後のロボット――パジフィック三号機だったのだ。カイの髪と同じ水色をしているので、床の色が保護色のようになっていたのだろう。
「パジフィックだわ。でも、カイが落とすなんて変よ。まさか……」
異変に気付いたソラが走ろうとするのを、今度はディーブルが止めた。
「ソラさん、ダメです。カイは何者かに連れて行かれた可能性が高いんですから――長い道のりかも知れませんが、焦らず全員で行きましょう」
まともな口調で言うだけあって、彼女の言う事は正しい。
「そう、ですね。ごめんなさい」
ソラも冷静さを取り戻し、再びディーブルの隣りで右側の道へと歩く事にしたようだ。
そんな時、パプリカが腕の中で騒ぐ。
「うん、パプリカは偉いね。いい子だよ」
目先の事に褒めるのを忘れていたから、彼は褒めてほしいと主張していたのだ。
しかし、そう言って頭を撫でてやるだけで、すぐに可愛らしい鳴き声と共におとなしくなる。まだ小さなファウだから仕方のない事だ。
「ユウはお世話好きだね」
そんなパプリカを見つめて、アマネがぽつりと呟いた。いつも通りの無表情なのに、何故か笑っているような感じがする。
「そうかな。でも、可愛いだろ?」
「ボクも触りたい……」
アマネが自分からそんな事を申し出るなんて、こんなに珍しいものはない。
「いいよ。まだちっちゃいから、落としちゃだめだけどね?」
兄の変化につい嬉しくなり、そう言い聞かせてパプリカを預けた。
パプリカは誰にでもよく懐いて、甘えん坊な性格だ。だからこそ威嚇したり噛んだりする事はなく、安心して預けられるのだ。
「かわいい……ふわふわしてるね」
細い腕で抱いたアマネは、パプリカの羽毛に頬擦りして気持ち良さそうにしている。
いつか、こんな日々を続ける事が出来たら――アマネが少しでも喜ぶ度に、そんな風に願ってしまう。
「あー、俺も俺も! そいつ、ルクリアにはいない魔物だよな?」
いつもとは違う人物に抱き締められているパプリカを見て、メイジェスがそれに駆け寄り、指でつつき出した。
呑気だなぁ、と思いつつも、許してしまうのは何故だろう。
「なぁハジメ、お前も触れよ」
何も知らないメイジェスは、パプリカをハジメに勧めるというとんでもない事をしでかした。それも命令形でだ。
出会ってすぐの事だっただろうか。ハジメがユウに何かをしようとした時、パプリカがそれを防ぐために噛み付いたのだ。
やれやれ、と彼はパプリカの前まで歩いて来たが、ハジメ自身は最初の出来事は気にも掛けていないようだ。
「これでいいですか」
半分棒読みでパプリカの頭を撫で、呆れたように手を離した。しかし、パプリカはあの時のように噛み付く事はなく、気持ち良さそうに鳴いている。
「ユウは可愛いペットを飼ってるな」
嬉しそうにそう言って肩を叩いてくるメイジェスが、今一番緊張しているべき人物なのに、一番緊張がないのは何故だろうか。
早くカイを助けなければならないが、道が色々と分かれており、前に進むのが困難な状況である。
今歩いている道を更に行くと、また二つに分かれた道に遭遇してしまったのだ。