オーバーロード
心はどこにあるんですかねえ。心臓ですか?
物心付いたときに感覚したのは、鉄の匂いのする車椅子と、冷たい背もたれの感触だった。私が生まれたとき、すでに足は使い物にならなかったらしい。歩くことが出来ないと母親から聞かされ、それが激しい絶望を与えるかのように深刻な表情をされたものだったが、大して私の心に生まれたものはなかった。私を囲む車椅子という空間は、狭く、だからこそ自分というものの境界線をはっきりと持てている感覚があった。私にとっては車椅子は自分の体の一部であったし、歩けないことをデメリットとも感じていなかった。バリアフリーの進んだ時代だったから、日常生活に困ることは皆無だったのだ。
そのうちに高性能なオーダーメイド型電動式車椅子が、政府からの援助を受けて格安でレンタルできるようになった。不格好なコントロールレバーで動く車椅子に、小学生だった私は素直に感動したことを覚えている。自分の世界が広がっていくような感覚とともに、私の成長に合わせた調整がされており、ゆったりと抱きかかえられているような気分で安心した。
私が中学生になって、その時は確か家で宿題をしているときだった。両親が興奮した様子で部屋に入ってきた。父親は片手に封筒を持っており、母親は目を潤ませていた。『特別義体化支援抽選』というものに、私は選ばれたそうなのだ。この、使い物にならずぶらぶらしているだけの足を切除して、人工筋肉を用いた義肢を取り付けるらしい。それに伴って、私の身体をその機械に合わせるために足以外の部分も弄りまわされると聞いた。それが、私にとってどんなメリットを生んでくれるのだろうか、と両親の顔を見た。
「歩けるんだぞ」
「車椅子が無くても大丈夫になるのよ」
「よかった」
「よかった」
『本当によかった』
ぞっとした。私は、『レイプされた』のだ。歩けることが唯一の正義であるように、両親は私を『レイプした』。そして、これから私は義体化のために、何人もの人間に『レイプされる』のだ。心がかちりと音を立てたような気がした。断ることは思いつかなかった。両親の希望に溢れた表情は、私の絶望を知らず、私もそれを気付かないように耳を塞いだ。
それからは何も感じなかった。処女を初めての相手にした童貞のように彼らは私を扱った。痛みはなかった、しかし何の快感もなかった。麻酔が切れて目を覚ましたころには、すでに私の足は鉄の匂いと冷たい感触を残した機械になっていた。
「神経接続に慣れが必要です。リハビリをしていきましょう。大丈夫ですよ、最高峰のチームであなたを支えますから」
ベッドの近くにいた黒ぶちの眼鏡をかけた男が、にこやかに言った。名札に「桂正行」と書いてあったのが見えたから、マサユキ、と呼ぶことにした。
マサユキは私の身体的な部分よりも、精神的な部分のリハビリテーションに努めた。誰もが歩けることを最大目標に強いる中、マサユキは特に何も言ってこなかった。ただ、私がなるべく一人にならないよう、傍にいた。私にいちいち指示してくるような奴ではなかったから、嫌いではなかった。何を考えているのかよくわからないような奴で、リハビリ担当の男の視線がいやらしいとか、足を動かしたときに鉄がこすれるような音がとても気持ち悪いとか、愚痴をぶつけてもニコニコして話をしてくれた。彼をサンドバックに使っているような感覚は、少し心地が良かった。
両親はあまり見舞いに来なかった。私の足を見たときに、表情に一瞬の陰りが見えたことをよく覚えている。悲しみが胸に走ったが、聞こえないように耳を塞いだ。せめて『普通の人』のように歩けるようになることが、両親に対する唯一の報いに思えて必死にリハビリに励んだ。毎日10時間に及ぶ歩行トレーニングと、私の思考パターンに合わせた調整メンテナンス。肉体の拒否反応を緩和させる何種類もの薬も、時間をきっちり守りながら飲み続けた。次第に歩くことが私の意識になって、マサユキとの会話は少なくなった。カウンセリングとして会うことはあったが、私が何も話さないのもあってマサユキは困ったような表情を見せた。ちょっと胸が痛くなったが、聞こえないようにしてしまえば、別にどうってことはない。
歩行がスムーズに行えるようになったころ、マサユキは予定に無かったのにも関わらず、私をカウンセリング室に誘った。ソファーに身を落ち着かせると、マサユキが口を開いた。
「最近、なんだか元気がないように見えるね」
「そうかな」
「そうだよ。トレーニングがつらいかい」
「つらくない。早く歩けるようにならなきゃ、お父さんもお母さんも嬉しくないでしょ」
午前のトレーニングが終わってすぐだったから、時間はそれなりにあったが早めに終わらせたかった私はなるべく冷たく答えた。
「うん……君は、歩かなきゃいけないの?」
「どうしてそんなことを言うの?」
思わず顔をあげた。今まで、こんなことは言わなかったのに。
「いや……君は歩きたいの?」
「そんなこと……」
「確かに、時が進んだ今でさえ、人の感覚からすれば歩けることや見えることや聞こえることは『普通のこと』にされている。でも、君がそうある必要はどこにあるのかな」
「お父さんもお母さんもそれを望んでいる。私もそうなりたいから」
「ルールは選ぶことができる。もちろん社会が規定した方向でしかないけど、それには『君が歩かなくてもいい』ルールだってある」
「言ったでしょ……私は、歩く方を選んだの」
「そうか、それでいいなら」
そう言って、マサユキは私にあったかいココアを差し出した。砂糖が大目に入っていて少し甘ったるかったけど、泣きそうな気持ちになった。ぐっとこらえて、半分残ったココアをマサユキに渡した。
「飲んで」
「君の分だけど…」
「いいから」
マサユキは困惑しながらもそれを飲んだ。不思議な感情だった。私とマサユキに、繋がりができたような気がした。あったかいものがお腹の中に入ってきて、それをどちらも互いに与えあった、何とも言えない気持ちよさがそこにあった。
午後のトレーニングに向かうと、それまで順調に進んでいたはずの歩行運動が出来なくなっていることに気付いた。胸の奥でチリチリしたものがあって、機械の足と生身の私が別のものであるような感覚を呼び起こした。その感覚はどうやっても取れず、急遽メンテナンスを始めたが、理由はわからなかった。それから、私はまったくと言っていいほど歩けなくなってしまった。両親は悲しんだ。それに対して申し訳なさはあったし、歩こうと努力は続けていた。しかし、もうそれが『正しいこと』には思えなかった。
マサユキが行ったカウンセリングに問題があったと両親が訴え、マサユキがチームから外されたことを、高校の入学式のときに知った。怒りとか、悲しみとかはなかった。だが、私にとって最も大きなものを失ってしまったような感じがして、耳障りな心臓の音が体内に響いた。マサユキの代わりに来たカウンセラーは女で、「女同士でしか話せないこともあるでしょ?」なんて平気で言うような奴だった。自棄になって、私は歩くことだけを考えることにした。もうそこには『両親』とか『自分の意思』なんてものはなかったし、息を吸ったら、当然次は息を吐かなきゃいけないような気分でしかなかった。その間も心臓は私が生身の人間であることを主張するように鼓動を体内に響かせていた。
トレーニング室の横の更衣室に雑然と置かれていた電子新聞で、人間の臓器の機械化に成功したというニュースを読んだ。人工血管と人工血液を用いることで、さまざまな臓器の活動とバランスを電脳に管理させるといった、病気という概念を覆すことができるかもしれないほどの発明だという。人間はロボットになってまで、生きていたいのだろうか。そんなことを思いながら、私はその記事を外部メモリーツールに保存した。
私が大学生になるころには、足は普通の人間以上に駆動するようになった。成長とともに部品を組み換え、より硬質で軽量な合金を用いることで肉体への負担を緩和させた。鉄臭い足の面影はもう無く、デザインもより人間に近い形へとリファインされたことで、多少機械らしさを残しながらも人間の生身の足と遜色なくなった。しかし、その足に触れると驚くほど冷たく、自分の足が作り物であることを痛感させられた。機械と生身が合わさったキメラ的な自分は、はたして人間と呼べるのだろうか。そんな気持ちが起こって、カウンセラーに相談した。
「何を言ってるの! やっと歩けるようにもなって、『普通の女の子』になれたのよ?」
心臓がぞくっと冷える感覚があった。そうですか、と返し私はすぐにカウンセリング室を飛び出してトイレに駆け込んだ。その日の朝に食べたものが吐瀉物として吐きだされる。
その時、私は泣いた。
「私は、私は一体何なの?」
その問いに答えてくれるはずの人は、どこにいるかわからなかった。
義足を作るにあたって知り合った先生に連絡し、私は人体の完全機械化を願った。まだ安定的ではないものの、眼球などの生体組織も完成しつつあることを私は知っていた。しかし、それはもともと視力障害者などのために開発された技術で、足以外は健常である私には必要ないはずのものだった。しかし、私はどこもかしこも機械になりたかったのだ。機械に『レイプされ尽くして』、もうどこからも心臓の音が聞こえないようにしたかった。機械でも人間でもないなら、私は機械でいたいと思った。両親からの大反対を受けても、その意思は変わらなかった。実験材料が欲しかった開発部からは大喜びされ、試験的手術として私は、その身体のすべてを冷たい機械に浸すこととなった。
目覚めは快適だった。生まれ変わったような気分、とはこのようなことを言うのだろう。私を構成する要素は私ではない外部の部分で出来ている。脳みそだけは私が私であることを認識しているが、それ以外は私のことなんてお構いなしに動いているようで、満足だった。感情は必要ない。ずっとこのまま、冷たい海の中で息もしないまま沈んでいたいと思った。
機械化された身体での生活というのは、世界の見え方がまるで変わってしまったかのようだった。何も感じない、生きている実感がない。私はもう人間ではないんだという実感はあった。でも私にとってはそれが幸せだった。私の意識は希薄化していって、機械の身体という殻に包まれて無くなってしまえばそれでいい。
身体の慣らしをトレーニング室で行っている時に、外で怒声が聞こえてきた。トレーニング担当医師の声と、それに混じっていつか聞いたことのある声があった。扉を開いて隙間から見ると、そこには少し年を取ってしわが出来た、マサユキがいた。担当医師と取っ組み合いをしていたが、私を見つけると大声で私の名前を呼んだ。そして自分の身体の倍はありそうな医師を跳ね飛ばして、マサユキは私の手を取って走りだした。そしてそのまま屋上へと連れて行った。
汗ばんだ手を離すと、マサユキはその場で肩で息をした。握った感触の残る私の手には、仄かな温もりがあった。
「年甲斐もなく、張り切るもんじゃないな……」
「何しに来たの?」
「……君が、全身義体化なんてことをしたと聞いてね」
「私が望んだことよ」
「どうして望んだんだ?」
「……私は、私じゃない生き方をしたくなったの……全部機械になっちゃえば、私は私じゃなくなるから……」
「馬鹿なことを言うもんじゃない」
「なによ、馬鹿って!」
「君はどこまで行っても君だ。たとえ心臓を機械にしようが、君は君以外の生き方はできない。身体は熱を失って冷たくなっただろう。心は冷え切ってもう叫ぶこともなくなったろう。だがそれは君がセンチメンタルになるのを恐れただけだ。神経が繋がって、触覚もあり痛みも感じられるこの義肢は、君の心そのものではないのかな」
そう言ってマサユキは、私の足を触った。マサユキの手の暖かさがダイレクトに神経を伝って、私の脳髄に訴えた。
「心と身体は切り離せないものだ。その細胞が電子と合金の複合物になったとしても、それは一つになって君を支える柱になる。君自身がその気持ちを疑ったり、否定してはいけないよ。そんなことをしたら、結局人は死んでしまうだけだ」
「私が、私が望んだのよ! 私以外の生き方をしたいって!!」
「それが全身を機械に染めることだったのかい? そうして君が得たものはなんだ?」
「それはっ……」
自分が得たもの、それをイメージしようとしたが、目の前に大きな壁が現れたような気分がした。
「言ったろう、それは君がセンチメンタルになるのを恐れ、逃げた結果だ。そこには何もない。君が望むものは、何もないんだよ」
「じゃあ、私が望んでるものって何? 私は私がわからないの……」
「……それは僕にもわからない。だが、それは君自身が見つけなければならないもののはずだ」
「駄目、駄目だよ。私……もうわからない……」
涙が出そうになって、こらえながら俯いた。自分が望むものって一体何だろう。心臓の音も聞こえない体内から、何か答えが出るとは思えなかった。ならば、きっと私には見つけらないのだろうと思う。実験材料みたいな身体で生きていくなら、感情も何もかも殺してしまった方が生きやすいに決まっている。でも、なぜ私は生きていたいのか、それさえもわからなかった。
「誰も、一人で生きているわけではないことを知りなさい」
顔を上げると、マサユキは私を抱きしめた。温もりが一気に身体を駆け巡った。驚きとともに、何か言葉を出そうとしたが、代わりに大粒の涙がこぼれた。我慢していた分が爆発したようで、どうしても止められなかった。
「思う存分泣くといい。君は君自身の感情のままに生きることをこの一瞬だけ選択したんだ」
マサユキは強く私を抱きしめてくれた。私が私として生きることを望んでくれる人がいる。それはとても美しいことのように思えて、ただただ私は彼の胸の中で泣くしかできなかった。心臓の鼓動が優しく響いた。
「心ってなんだ」「生きるってなんだ」というテーマだけで書いては見ましたが、自分の表現力の無さを痛感しました。見直しとかもしてないので、微妙に違和感のある書き方とかありそうです。気が向いたら書き直ししますが、現時点での完成品ということにさせてください。