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花林糖に思い出ひとつ

作者: MonoCarky

雀色時、かりんとうを食む。

冷たい雨が上がり、空気が凍みる。雪と変わるには、そう日を要しないだろう。

窓際には三面鏡、その元には皿に盛られた花林糖。


傍らから篤子が膝に擦り寄る。わたしは「こんな話があってね」と呟く。

普段はこんなこと、話さないのにと考えながら。



今日みたいに朱に焼けた空の日のこと。とあるところに少女が住んでいた。空気に散る冷たさを感じ、少女は窓を開けた。

なぜそうしたのだろうか? 氷るような底冷えだということはわかりきっていたのに。いわば好奇心――だろうか。

身を切るようなつらさを感じると予期していても、なにかが起こるかもしれない、なにかが違うかもしれない、なにかが期待を裏切るかもしれない、なにかが――


そこには男がいた。

雨宿りでもしていたのだろう、軒先に佇んでいた。少女が男に目を向けて暫くしてから、男は少女に気づいた。

顔を出した少女と男の顔は、ほぼ同じ高さだった。男が会釈するのに応えて、少女は頭を垂れる。なにげなく窓を閉めづらく、そのまま少女は首をひっこめた。どこからか母親が名を呼んでいる。母の元へ向かおうとしたが、ふと雲行きが気にかかった。雨はまた降るだろうか……。玄関より傘を持ち出で、窓の縁へかけて母の待つところへ駆けた。


食事の手伝いという母からの用事を済ませて部屋へ戻ってみると、傘はなくなっていた。窓の縁下には「有難う。傘、借ります」と、少女の名に宛てた書き置きがあった。なぜ名前を――そう少女は思った。だが男が軒先にいるときに母に名を呼ばれたことを想起し納得した。


それ以来、ときおり男の姿が目につくようになった。別段、男が少女の元を訪う機会が増えたというわけではなく、少女が男の顔を覚えたせいらしかった。男が家の前を通る刻は、決まって初めの雨と同じ夕暮れ時だった。

一度、少女から声をかけた。男は柔い微笑を浮かべて答えた。どんなことを話したか、少女は詳しくを憶えていない。ときおり少女の食んでいた花林糖を共に口にした。純粋な興味からそれと気づくことなく、恋心へと変容していった。


ある日、男が来ない日があった。男も毎日、というわけにはいかないだろうと少女が考えていると、近隣の小母さんが玄関を叩いた。少女の母と暫し歓談をした後、「そういえばあの男の人だけど」と声を一段小さくした。母と小母さんは男について何度か話をし、また情報を交わしていたようだった。「いい人がいるらしいわね」小母さんが声を昏くする。それは少女の暗澹たる懐疑からすると、小母さんの興味本位と、少女の母が気遣う気持ちを察する思いと、あえて少女に聞かせて諦めさせようという故意を、総て満たしていると感ぜられた。

少女は窓から逃げた。小母さんの声から逃げた。そしてそれは小母さんの言葉が嘘偽りだと嫌ってのことではなく、男には想い人がいるということに胸が圧してのことだった。

靴も履かずなにも羽織らず、さらば戸外は寒い。くわえては滴だった。小糠雨――

柳の下にうずくまり、なにを思えばいいか考える。枝垂れから飛沫が降りる。


 白玉か何ぞと人の問ひしとき露と答へて消えなましものを


凍みる雨の足音に、幽かながら死の気配が過ぎる。いいかな、などとも思う。一時の自傷だとは知りながら、身を委ねたい気持ちに偽りはない。今なら笑って逝けると。だが少女は死ねなかった。その由が彼女には永らくわからなかった。男と結ばれぬと知りながら生きる尊きなどないとわかりながらなぜ、と。しかし今になって彼女はわかった。男と結ばれずに死ぬよりも、男を思いながら離れてでも生きることを信じたのだった。

歩み重く心沈み、闇黒が迫るころに漸く家へ差し着いた。驚いたのは彼女だけではなかった。軒先には男が佇んでいた。少女が出て行ったと聞き、探すあてもなく待ち呆けていたとのことだった。

「濡れ鼠じゃございませんか」

男の声に、不埒ながら安堵する。少女には語る言葉がない。

「ささ、ここは貴女の住家です。あがって温まりなさい」

男の手が初めて少女――彼女は今でもそれが右の肩甲骨の窪みだったと憶えている――に触れたとき、堰を切ったように泪が溢れるのを止める術を、少女は知らなかった。男があたふたしていると、母親が家内から現れた。二人の有り様を見、なぜか笑った。


湯に温まった少女を座らせると、男も母も優しく待った。しかし少女は語らず、男が言葉を切る。「今日は大変な日だった」


小母さんのいうとおり、男には女がいた。その女が今日、旅立ったのだった。行き先は伯林で、女は療養のために向かったのだ。

女は皮膚病だった。男に限らず、親に触れられたとて赤く蚯蚓が這うように腫れる。独逸の医学の高名は、遍く世に轟いている。女は生涯をかけてでも治すことを決心した――すなわち男と生涯、離れることをも厭わず。その決心を明かされた日、男は町に足を向けた。しかしどこへ行くうともわからず、足は彷徨う。ときに憂き目は重なるもので、冷たく重い雨がしとど降り始める。彼方では朱に焼ける空が身を焦がし、此方では驟雨に染められる。凍えて焦がされれば、救いはない。死ぬのもいいか――そう考えていると、ふと物音がした。少女が窓を開けたのだった。口を利く気力もなく、男は項垂れる。少女は名を呼ばれ、身を引いた。生きようか死のうか笑っていると、窓辺に傘がかけられた。屋内を覗けど、少女はいない。おろ、情けをかけられてしまったか、と思い至り、自嘲は諧謔に変容した。男は傘を手に、歩き始めた。


少女はまたも泪し始めた。男が慌てる。

嬉しかった。心には火が灯り、雨に氷った苦しみを溶かした。少女には――彼女には、今になってもその由が判然としない。ただ母はほっこりと頷き、微笑んでいた。




孫の篤子は寝息をたてている。つまらなかったかしら、と胸中呟く。

戦争でおじいさんはいなくなってしまったけれど、わたしは今でも思い出す。花林糖をひとつ、食む。甘みはじわりと、切なく仄かに、胸に沁み渡っていった。


 完

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