第56話 天秤の目が映すもの
退院は「勝利」ではなかった。
ただ、次の戦場へ戻るための手続きに過ぎない。
右肩の痛みはまだ残っている。
深呼吸すると、肺の奥がきしむ。
……銃弾が貫通した場所は、身体より先に“常識”の方だった。
病室の窓から見える空は青い。
青すぎて、腹が立つ。
「……ニュース、見ますか?」
エルフの医療師が端末を差し出す。
俺は首を振りかけて、やめた。
見なくても、分かるからだ。
見たら――動けなくなる。
それでも通知は止まらない。
ニュース。切り抜き。分析。炎上。断定。
《地下マスター、人類を裏切りエルフと契約》
《魂を売った“異端”》
《他種族の分断戦略に加担》
……最悪のテンプレが、完璧な速度で完成していく。
俺が拒んだ“役”は、別の形で押し付けられた。
責任から逃げた。人類を見捨てた。媚びた。裏切った。
「……岩龍、倒したんだけどな」
声に出した途端、自分でも笑えた。
頑張ったから認められるほど、世界は優しくない。
認められるかどうかは、結果じゃなく“物語”で決まる。
そして今、俺は“悪役”の席に座らされている。
廊下の向こうで、アリシアが誰かと言い争っている声がした。
普段の彼女は冷たいほど整っているのに、今日は刃が剥き出しだった。
「……あなた達、何を恐れているのですか」
「恐れているからこそ、説明が必要でしょう」
「説明ではない。断罪だ。あなた達は最初から結論を持っている」
足音。扉。アリシアが入ってくる。
金の髪は結ばれ、目だけが鋭い。
「……起きていましたか」
「起きてる。むしろ寝られない」
「当然です。あなたの代わりに、世界が“あなた”を作っていますから」
その言い方は容赦がない。
でも、正しい。
「日本の状況を確認しました」
投影された映像の中で、誰かが演説していた。
旗。拳。歓声。
《人類至上――我々の国土は我々のものだ!》
《他種族に譲るな!》
《地下マスターの裏切りを許すな!》
「……早いな」
「早いのではありません。“準備されていた”のです」
アリシアの声が冷える。
「あなたが引き金を引いた。正確には、あなたが引き金にされました」
映像が切り替わる。
日本の前線。ゾンビダンジョン。
押し返していた線が、じわじわ押し戻されている。
「あなたの拠点構造は距離で微細に劣化する。あなたは言いましたね。
“世界の反対側くらいでないと分からないレベル”だと」
「……そうだ」
「分からないレベル。ですが、戦場は“分からない差”で死にます」
継続戦闘。じりじり削る。
そこへ、ほんのわずかな防御低下。判断遅延。補給遅れ。
結果は簡単に崩れる。
そして、その崩れを“物語”が利用する。
《ほら見ろ。地下マスターが日本にいないから防衛が落ちた》
《つまり日本を見捨てた》
《だから人類は一つにならなきゃいけない》
「……こんなことで一致団結できるなら」
俺は思わず苦笑した。
喉が乾く。
「俺は何のために、ここまで……」
言い終わる前に、アリシアが机を叩いた。
派手じゃない。研ぎ澄まされた衝撃。
「目的を見失わないでください」
「見失ってない。……ただ、笑えるだけだ」
「笑う必要などありません。あなたが笑えば、あなたが壊れる」
その言葉が、剣より痛い。
「あなたの目的は何ですか!」
逃げ道を許さない問い。
俺は一瞬言葉を探して――見つからなかった。
「龍を――皆殺しにする」
自分でも驚くほど冷たい声が出た。
「……最終的に」
付け足した声が、少し震える。
「何のために?」
二度目の問いは、さらに深い。
俺は答えられない。
言えない。
言った瞬間、全部が軽くなる。
十年分の“かっこつけた理由”が幼稚に見える。
「……大切な人のため、だ」
それが限界だった。
曖昧で、逃げで、卑怯で。
でも、本当だ。
アリシアは息を吐いた。呆れではなく、決断の呼吸。
「では、来てください」
「……どこに」
「あなたが見ないようにしている場所へ」
外は冷たかった。
護衛が増えている。
エルフ側の警戒。人間側の視線。互いに互いを疑っている。
「これが、“和解”の始まりです」
車で町外れへ。
整った建物が途切れ、仮設の壁が増える。
鉄板。木材。魔法の布。
急いで作った形。
門の前の検問。
立つエルフ兵の目は疲れていた。
「……難民集落?」
「他種族の避難区画です。ここは“街”ではありません。“生存”の箱です」
中に入った瞬間、匂いが変わる。
土、汗、薬、焦げ、そして薄い血。
子どもが走っていた。
人間じゃない子どもだ。耳が長い。肌の色が違う。角が小さい子もいる。
彼らは俺を見て、立ち止まる。
怯える。警戒する。
それから視線を逸らす。
怯えられる側に立ったことが、今までほとんどない。
胸の奥が冷えた。
集落の奥。小さな丘。
並ぶのは墓標――板切れに名前だけ。
読めない言語もある。
それでも意味は分かる。
ここにいた。ここで死んだ。
「……何があった」
俺の声が低くなる。
アリシアが淡々と答えた。
「人間の一部が言いました。“ここは我々の土地だ”と」
……銃を撃った犯人と同じ言葉。
背筋が寒い。
「彼らは避難経路を断たれました。補給を拒否されました。襲われました」
「……誰に」
「人間に。“正義”を名乗る人間に」
俺は言葉を失う。
怒りでも悲しみでもない。
理解してしまったことが嫌だった。
こうなる。
こうなるって、最初から分かっていたのに。
分かったふりをして、見ないふりをしてきた。
アリシアが俺を見る。
「あなたは言いました。龍を皆殺しにすると」
「……言った」
「なら、問います」
墓標を指し示す。
「彼らが人間ではないから。
彼らが殺されるとして。
彼らを護ろうとした人間まで殺されたとして」
一拍。
「それは、“正しい”のですか」
答えようとして、言葉が出ない。
正しいと言えば、ここに立つ意味が消える。
正しくないと言えば、これからの戦いの“理由”が崩れる。
「……考える時間が欲しい」
やっとそれだけ言えた。
アリシアは頷く。
「与えます。ですが忘れないでください。あなたが止まれば、世界は勝手に走ります」
その通りだ。
世界はいつも俺より早い。
夜。
一人で外へ出た。
星が見える場所が欲しかった。
暗い空の方が、少しだけ落ち着く。
公園。芝の匂い。遊具の影。
街灯が弱く、空が広い。
ベンチに座り、空を見上げる。
星が綺麗なのに、世界の方が歪んで見える。
「……どうすればよかった?」
誰にも届かない声で呟く。
答えはない。
「隣、いいですか?」
声がした。
制服の女子高生が立っていた。
夜の制服は不自然。
でも不自然なのはそこじゃない。
右目の虹彩に、天秤みたいな模様がある。
細い線が均衡を測るように刻まれている。
「……カラーコンタクト?」
「いえ。固有魔法……じゃなくて」
少し言い淀み、
「呪いです」
と言った。
「右目に対価を支払うほど、望んだ結果が手に入る」
「……取引、か」
「はい。でも、便利じゃない」
彼女は空を見たまま言う。
「規模が調節できないんです。“これくらい”ができない。
できるのは、“これ以上”って最低ラインだけ」
「……それだけでも十分ヤバいだろ」
「もっとヤバいのは“時間”です」
彼女は、右目を指で軽く触れた。
「時間を対価にして、時間を買うことはできます。
……でも、取引が“時間”に触れた瞬間、世界の扱いが変わる」
俺は息を止める。
「たとえば――“やり直したい”って望んだら?」
彼女は淡々と続ける。
「あなたの望む“やり直した結果”は得られます。
でもそれは、時間を巻き戻すんじゃない」
「世界が、再構成されるんです」
「……再構成?」
「はい。今の世界がいったん“消えて”、新しい世界が組み直される。
過去から現在まで、辻褄の合うように全部作り直される」
背筋が凍る。
それは、時間操作じゃない。
世界改変に近い。
「じゃあ、元の世界は……」
「消えます」
彼女ははっきり言った。
「正確に言えば、“やり直し”じゃない。
後悔を無かったことにできるだけ」
「……誰かは覚えてるのか?」
彼女は首を振った。
「元の世界の記憶を持っている人は、誰もいない状態になる」
「あなたも。私も。例外は作れません。
“これ以上”しか指定できないから。取引が大きくなれば、全部持っていかれる」
沈黙。
夜の空気が急に重くなる。
「……じゃあそれって」
俺は言葉を選びながら、吐き出す。
「世界を救うんじゃなくて、世界を別物にするってことか」
彼女は小さく頷いた。
「だから、呪いなんです。
願いが叶うほど、世界が壊れる。
壊れたことすら、誰も知らない」
彼女が、ようやく俺を見る。
天秤の目が街灯を反射して薄く光った。
「地下マスターさん」
俺は呼吸を止めた。
「あなた、今……“正しい答え”が欲しいんですよね?」
――その問いだけで分かった。
この子は偶然ここに座ったんじゃない。
そして俺も、偶然じゃないと気づいてしまった。
星は変わらず綺麗なのに、世界の方が揺れて見える。
“後悔を無かったことにできる”という甘い言葉が、
“今の世界を丸ごと捨てる”と同義だと知ってしまったから。
(第56話・了)




