第55話 投資という名の契約
意識は、波みたいに寄せては返した。
目を開けるたび、天井が違う。
白い。近い。眩しい。
石でも、岩肌でも、拠点の人工照明でもない――地上の病室の白だ。
耳の奥で、心電図の電子音が規則正しく鳴っている。
呼吸のたびに、右肩が刺すように痛んだ。
「……っ」
喉が乾いて声が出ない。
それでも、思考だけはやけに鮮明だった。
銃声。
魔法のバリア。
――貫通。
あり得ない速度で現実になった“あり得ない”が、まだ目の裏に焼きついている。
俺の右肩。
そして、あの瞬間、前に出たエルフの胸――心臓の位置。
(……生きてるのか?)
問いを飲み込んだ瞬間、カーテンの向こうから足音がした。
硬い靴音じゃない。軽い。静か。
空気の密度が、ひとつ薄くなるような感覚。
「……目が覚めましたか」
日本語だった。
訛りのない、整いすぎた発音。
人間のものじゃない、という違和感だけが残る。
視線を動かすと、白衣の医師の隣に、金色に近い銀髪の女が立っていた。
耳は――長い。
目は、夜の湖みたいに深い。
エルフだ。
その瞬間、胸の奥が妙に冷えた。
痛みじゃない。怖さでもない。
「やっぱりこうなる」という諦めに似た冷え方。
俺は、唇を動かした。声が出ない。
それを察したのか、医師がストロー付きの水を口元へ持ってくる。
一口、二口。喉がようやくほどける。
「……契約」
声はかすれていた。
それでも、言葉だけは外さない。
「これで……契約は……なかったことに、なるのか」
病室の空気が、一瞬だけ止まった。
医師が息を呑む。
看護師が視線を泳がせる。
だがエルフは瞬きひとつせず、淡々と答えた。
「なりません。破綻していません。続行です」
即答だった。
迷いがない。慰めでもない。事務的ですらある。
俺は、苦笑しかけて右肩が痛み、顔をしかめた。
「……どうしてだ」
「契約の相手は、国家ではありません」
エルフは一歩だけ近づいて、俺の枕元に視線を落とした。
「エルフという種族と、あなた個人。その二者の契約です。
第三者が撃った銃弾は、契約条項に触れません。セーフです」
“セーフ”という言葉が、場違いなほど軽く聞こえた。
軽いのに、現実だけが重い。
「……俺が、弱ったからか。戦力として価値が落ちたから切る――そういう話じゃないのか」
口に出してから気づいた。
俺は、怖がっている。
見限られることを。
エルフは、そこで初めて小さく首を傾げた。
「期待、という文化は……私たちの間では薄いのです」
その声には、長い時間を生きた者の乾いた響きがあった。
情がないのではなく、情に頼らない生き方を身につけた者の音。
「根拠がない希望に、人生を預けない。
誰かを“信じる”という言葉で、未来を誤魔化さない」
医師が居づらそうに咳払いをする。
でも、誰も止めない。
エルフは続けた。
「その代わり、根拠があるものには投資します。
努力。再現性。積み重ね。成功率。
あなたの拠点構築は、それらすべてを満たしている」
俺は、天井を見たまま笑った。乾いた笑いだ。
「投資家かよ」
「ええ」
エルフは、否定しない。
「投資です。
あなたが強いことに“期待”しているのではありません。
あなたが弱いことを含めても余りある成果を、すでに出している。
――それだけです」
心臓の奥に、変なものが刺さった。
傷口を抉られたような痛みじゃない。
むしろ逆だ。
ずっと自分で握り潰していた部分を、平然と“前提”として扱われたことで、力が抜けた。
(弱いのは、知ってる)
(知ったうえで、使う)
それは残酷なほど合理的で――妙に優しい。
俺が息を吐くと、右肩の痛みが少しだけ引いた。
痛みが引いたんじゃない。
痛みに対して、心が暴れなくなった。
「……あのエルフは?」
問いは、自然にこぼれた。
バリアを張った、あの瞬間、胸を撃ち抜かれた奴。
エルフは一拍だけ置いた。
その一拍が、答えの重さだった。
「生きています。まだ、危険域ですが」
「……そうか」
喉の奥が、きしんだ。
俺は何を言えばいいか分からず、水をもう一口飲んだ。
(守られた)
(俺が、守る側だったはずなのに)
悔しさが、遅れて腹の底から湧く。
拠点で、射線で、構造で――
どれだけ賢く立ち回っても、俺自身は“弾一発”で沈む。
それが、露呈した。
世間に。敵に。味方に。
きっともう、隠せない。
病室の端のモニターには、ニュースの字幕が無音で流れていた。
《地下マスター エルフと契約》
《魂を売った》
《反発拡大》
《排外デモ》
《土地は誰のものか》
“土地”。
あの犯人の言葉が脳内で反響する。
――この土地はお前らの土地じゃない。俺たちの土地だ。
俺は、息を吸い、吐き、ようやくエルフを見た。
「……これが理由で、お前らが引くと思ったんだ」
「引きません」
また即答。
だけど、今度はほんの少しだけ声が柔らかかった。
「裏切りではありません。
あなたが撃たれたのは、あなたが弱いからではない。
あなたが“動かしたから”です。世界を」
その言葉は、慰めに聞こえなかった。
評価だ。
冷たいはずの評価が、やけに熱を持って胸に落ちた。
「私たちは、あなたを英雄として扱いません」
エルフは淡々と言う。
「あなたに責任を押し付けません。
ただ、結果が出る構造に資源を流すだけです。
……それが、私たちの生き方です」
そして最後に、理屈とは別の一言が落ちた。
「……それに」
エルフの目が、ほんのわずかに細くなる。
「味方が撃たれたなら、私は怒ります」
その一言だけで、病室の温度が変わった。
投資家じゃない。
仲間だ。少なくとも、敵じゃない。
俺は、喉の奥で笑ってしまった。
痛みで顔が歪む。
それでも笑いが止まらない。
「……じゃあ、約束だ」
エルフが眉を上げる。
俺は、天井じゃなく彼女を見て言った。
「全部終わった後、もう一人――エルフにしてほしい奴がいる。
それを、条件に追加した。……覚えてるな」
「覚えています」
「なら」
俺は、右肩の痛みに耐えながら、息を整えた。
「一緒に一番強い龍を倒そう。
龍王の中の王――No.1を」
言った瞬間、心臓が跳ねた。
怖い。
正直、怖い。
でも逃げたら、もっと悪くなる。
土地だの民族だの、誰が先だの――
その争いが燃え広がる前に、勝ち筋を示すしかない。
俺は、自分の弱さを認めたまま言った。
「俺は強くない。だから、構造でやる。
……今度は“俺が倒れたら終わり”にならない形で」
エルフは、静かに頷いた。
「合理的です。あなたらしい」
窓の外は夕暮れだった。
赤い光が、白い病室の角を染める。
世界はもう、俺を放っておかない。
味方も、敵も、勝手に名前をつけてくる。
英雄。裏切り者。管理者。悪魔。救世主。
どれも違う。
――俺は、地下で構造を組むだけだ。
でも、その構造が世界を変えるなら。
変えた責任からは逃げない。
俺は、ゆっくり目を閉じた。
次に開ける時、たぶん戦いの形が変わっている。
拠点戦術の欠陥は、露呈した。
“直接指揮できない”。
“本体が弱い”。
だからこそ――
次は、俺がいなくても回る構造を作る。
その先にいるのは、No.1。
そして、そのさらに先に、重すぎる和解が待っている。
(第55話・了)




