【番外編・後編】 地上から、遠すぎる場所
父さんが「おかしい」と言ったのは、
六階層に降りた時だった。
それまで、父さんは強くなっていた。
明確に、分かりやすく。
怪物が来れば、倒す。
数が増えても、問題ない。
息も切れない。
でも、六階層に降りた直後――
父さんは、立ち止まった。
「……戻る」
母さんが驚いて振り向く。
「え?」
「一度、上に戻ろう」
父さんの声は、低くて、硬かった。
一階層、上に戻る。
それだけで、
身体が重くなった。
父さんは、無言で拳を握り、開いた。
「……弱くなってる」
それは、錯覚じゃなかった。
さっきまで簡単に倒せていた怪物に、
少しだけ、力が要る。
たった一階層。
それだけで、差が出る。
さらに、もう一階層上。
父さんの肩が、わずかに上下した。
「……はっ」
息が、荒くなる。
母さんが、父さんの腕を掴む。
「大丈夫……?」
父さんは、答えなかった。
答えられなかった。
三階層まで戻ったところで、
怪物が現れた。
前なら、問題にならなかった相手。
でも――
父さんの一撃は、浅かった。
怪物が、よろめきながらも立ち上がる。
「……っ」
父さんが、歯を食いしばる。
次の瞬間、
母さんが叫んだ。
「危ない!」
父さんが、庇うように前に出る。
その動きは――
普通の人間のものだった。
何とか倒した後、
父さんは、膝に手をついた。
「……分かった」
息を整えながら、言う。
「これは……
地下にいる間だけだ」
母さんが、震える声で聞く。
「強くなるのは……?」
「そうだ」
父さんは、はっきり言った。
「地上に近づくほど、
俺は……元に戻る」
その事実は、
希望でもあり、絶望でもあった。
地上に戻れば、
父さんは“普通”になる。
でも――
今の外の世界で、
普通は生き残れない。
その夜、
父さんは決めた。
「……下に行こう」
母さんが、黙って頷く。
ぼくは、
少しだけ安心してしまった。
怖いはずなのに。
危ないはずなのに。
下に行く方が、安全だと思ってしまった。
七階層。
八階層。
父さんは、
また強くなる。
いや――
“戻る”と言った方が正しい。
身体が、
本来の位置に収まっていくみたいに。
八階層で、
奇妙なことが起きた。
怪物が、
父さんを見て――
避けた。
威嚇もしない。
襲ってもこない。
ただ、
距離を取る。
「……何だ、これ」
父さんが呟く。
ぼくは、その時――
初めて、はっきり感じた。
ここは、
“近い”。
何に、かは分からない。
でも、
地上より、
ずっと。
九階層。
空気が、変わる。
音が、吸い込まれる。
壁が、妙に“整いすぎている”。
ここは、
ダンジョンの中なのに、
どこか“別の場所”みたいだった。
父さんが、
立ち止まる。
「……ここは、やばい」
母さんが、聞く。
「強すぎる……?」
父さんは、首を振った。
「違う」
「強さの話じゃない」
「……ここは、
地上から遠すぎる」
その言葉が、
胸に残った。
その時、
ぼくは、気づいてしまった。
自分の身体が、
軽い。
怖くない。
それどころか――
落ち着いている。
怪物の気配がしても、
心臓が速くならない。
視界が、妙に澄んでいる。
「……父さん」
声が、
自分でも驚くほど、落ち着いていた。
「ぼくも……
なんか、変だ」
父さんが、
ゆっくり振り向く。
その目が、
ぼくを真っ直ぐ捉えた。
一瞬で、理解した。
「ああ……」
父さんは、
苦い顔で笑った。
「……そうか」
「遺伝、か」
母さんが、
息を呑む。
「そんな……」
父さんは、
ぼくの肩に手を置いた。
その手は、
優しくて、重かった。
「まだ、
表に出てないだけだ」
「でも……」
父さんは、
周囲の闇を見る。
「ここまで来ると、
隠しきれない」
その時だった。
壁の奥から、
“気配”がした。
怪物とは違う。
もっと――
大きくて、遠い。
ぼくは、
なぜか分かった。
これは、
“空の上”にいるものと、
同じ種類だ。
怖いはずなのに。
ぼくは、
一歩、前に出ていた。
父さんが、
慌てて腕を掴む。
「待て!」
でも、
その瞬間。
気配が、
一瞬だけ――
引いた。
逃げた、
というより。
様子を見て、
距離を取った。
父さんと、
目が合う。
父さんは、
何も言わなかった。
言えなかった。
その夜、
ぼくは眠れなかった。
頭の中に、
一つの考えが、
何度も浮かぶ。
地上から、遠いほど強くなる。
それが、
父さんの力。
そして――
ぼくの力。
もし、
このダンジョンが、
もっと深くなったら。
もし、
地上から、
もっと遠い場所があるなら。
そこでは。
ぼくは、
どんな存在になるんだろう。
それでも。
それでも、
ぼくは思う。
「……日本に、帰りたい」
地上に戻れば、
弱くなる。
普通になる。
それでもいい。
だって。
強くなる場所に、
居続けるってことは。
帰れなくなる、
ってことだから。
闇の奥で、
何かが、
こちらを見ている。
遠くて、
大きくて、
完成しすぎた“何か”。
でも。
ここなら。
ここなら、
手が届く気がした。
(番外編・後編 了)




