【番外編・前編】帰れない国と、深くなる力
アメリカに来たのは、旅行だった。
ただの、よくある家族旅行。
父さんは仕事の都合で休みが取りづらくて、だから無理をしてでも――って、母さんが言っていた。
それでも父さんは笑っていたし、ぼくも楽しかった。
空が広い。
道路が広い。
人も車も、全部が大きい。
日本と違って、夜でも街が明るい。
「また来ような」
父さんはそう言った。
その“また”が、もう二度と来ないかもしれないなんて、思ってもいなかった。
ダンジョンが出現したのは、観光地の真ん中だった。
最初は地震だと思った。
足元が揺れて、遠くでガラスが割れる音がして、悲鳴が連鎖する。
でも、地面が割れた。
割れ目は裂け目じゃなくて、穴だった。
まるで最初からそこに入口があったみたいに、整った形の“口”が開いた。
黒い風が吹き上がった。
風の中に、匂いがあった。
湿った土。
鉄。
そして――何か、生き物の体温みたいな匂い。
父さんが母さんの肩を掴み、ぼくの手を引いた。
「走るぞ!」
その瞬間、後ろで叫び声が上がった。
振り向きたかったけど、父さんの手が強すぎて振り向けなかった。
視界の端で、何かが動いた。
人より速い。
獣より大きい。
影みたいに――でも、確かに“生きている”もの。
父さんは迷わず、ダンジョンの入口へ向かった。
「中に入るの!?」
母さんの声が裏返る。
「外は無理だ!」
父さんの声は、震えていなかった。
判断が早すぎた。
あとから考えれば、それが“正解”だったのかもしれない。
でも、同時に――それが“帰れなくなる入口”でもあった。
ダンジョンの中は、静かだった。
外の悲鳴が嘘みたいに遠い。
空気が重くて、息を吸うたびに喉がひりつく。
壁は石で、床は土で、どこかの地下鉄よりずっと野生だった。
「落ち着け。ここなら……」
父さんが言いかけて、言葉を飲み込んだ。
その先を、ぼくも分かってしまったから。
ここなら、外の“あれ”は来ない。
でも――ここから出たら、外の“あれ”がいる。
母さんは泣いていた。
泣き声を殺して、肩だけが揺れていた。
ぼくは泣けなかった。
泣いたら、本当に終わりみたいな気がした。
しばらく歩くと、何かが近づく音がした。
足音。
複数。
湿った呼吸。
暗がりから出てきたのは、犬みたいな怪物だった。
犬よりずっと大きくて、歯が長くて、目が黄色い。
母さんが小さく叫ぶ。
父さんが、前に出た。
「……来るな」
父さんの声が低くなる。
次の瞬間、父さんの動きが――速かった。
速いとか、そういうレベルじゃない。
目で追えない。
気づいた時には、怪物が地面に転がっていた。
首が、不自然な角度に曲がっていた。
父さんは、息を乱していなかった。
「……え?」
ぼくの声が、かすれた。
父さんは自分の手を見て、眉をひそめる。
驚いているのは父さんの方だった。
「なんだ……今の」
母さんも、泣くのを止めて父さんを見た。
「あなた……今、どうやって……」
父さんは答えられない。
ただ、言った。
「……分からない。でも」
視線が、ダンジョンの奥へ向く。
「ここにいると、身体が軽い」
次の階層に降りた。
階段みたいな石の段差を降りるだけで、空気が変わる。
温度が少し下がり、音がさらに吸い込まれる。
そして――父さんが、さらに強くなった。
今度は、怪物が二体来た。
父さんは、一歩で距離を詰めて、片方を壁に叩きつけ、もう片方を蹴り飛ばした。
信じられない。
父さんは、普通の父さんだった。
筋トレもしてない。
格闘技もやってない。
なのに。
「……深くなるほど、変だな」
父さんが呟く。
母さんが震える声で言った。
「強くなってる……?」
父さんは頷いた。
「地下にいるときだけだ」
それは、直感だった。
でも、父さんの言い方は確信に近かった。
三階層。
四階層。
父さんはもう、怪物を“敵”として見ていなかった。
邪魔なものをどかすみたいに、淡々と処理する。
その一方で、父さんの顔はどんどん硬くなる。
強くなるのが嬉しいわけじゃない。
むしろ――怖い。
「……上に戻れるか?」
父さんが急に言った。
母さんが、はっとしてぼくを見る。
ぼくは首を振った。
上に戻ったら、外の“あれ”がいる。
そして、外がどうなっているか、もう分からない。
戻る勇気がない。
父さんも、それを分かっていた。
休憩のために壁際に座った時、ぼくは父さんの背中を見た。
背中が大きく見えた。
強くなったから、じゃない。
父さんが、決めてしまったからだ。
ここで生きる。
そして、いつか――帰る。
その覚悟が、背中を大きくした。
ぼくは小さく言った。
「……日本、帰りたい」
父さんは、すぐに振り向かなかった。
でも、声は優しかった。
「帰るぞ。必ず」
母さんが涙を拭って頷く。
「帰ろう。絶対」
その言葉だけが、今のぼくたちの家だった。
それから、さらに深く降りた。
深くなるほど、父さんは強くなる。
深くなるほど、ぼくは――奇妙な安心を覚える。
怖いのは、怪物じゃない。
怖いのは、上だ。
地上。
外の世界。
帰りたいのに、帰るのが怖い。
そんな矛盾が、胸の中で育っていく。
夜がないダンジョンで、時間の感覚が壊れていく。
ぼくは眠りかけながら、ぼんやり考えた。
父さんは、地上から遠いほど強くなる。
じゃあ。
ダンジョンがもっと深くなったら、父さんはどうなるんだろう。
どこまで強くなるんだろう。
……上限って、あるのかな。
父さんが、ぼくの頭に手を置いた。
「寝ろ。体力を温存しろ」
ぼくは小さく頷く。
目を閉じる前に、最後に一つだけ思った。
ここが、地下なら。
ここが、地上から遠い場所なら。
――この先にもっと遠い場所があるなら。
父さんは、そこではどんな存在になるんだろう。
そして、ぼくは。
ぼくの中にも、同じ“何か”がある気がした。
まだ言葉にできない、
でも確かに受け継がれている感覚。
地上から遠いほど――
強くなる。




