元侯爵家の“便利な婿”、凡人なりに領地を救います
「勘違いなさらないでくださいませ、クリストフ。あなたを愛することなど、ありませんわ」
夜、広すぎる寝室に揺れる蝋燭の炎。侯爵令嬢アリアンヌ・ド・モンタルベールは、俺を一瞥しただけで、まるでゴミでも見るかのように言い放った。
背筋が凍りつくような声だった。人が、ここまで人に冷たくなれるものかと、むしろ感心してしまうほどだった。
いや、違う。冷たくされるだけなら、まだマシだ。この声には、それすらもない。
ただの無関心。まるで土の上を這う虫でも見るような、あるいは、はるか雲の上から見下ろす神の視点。そんな絶対的な、心の通わない声だった。
「……心得ております」
そりゃそうだ。侯爵令嬢と伯爵家の次男坊。身分の差は歴然だ。解っていたことだ、と自分に言い聞かせる。
歓迎されていないのが誰の目にも明らかな婚礼だった。豪華絢爛な式場で、隣に座る花嫁は一度たりとも俺に笑顔を見せなかった。こちらを向こうともしなかった。
義父母も参列者も、それぞれが談笑するばかりで、俺に杯を傾ける者など一人もいない。こちらに来たかと思えば、隣の花嫁に話しかける。
まあ、こんなものだ。婿養子、それも格下の次男坊なんて、誰が喜んで迎え入れるだろうか。
それに比べて隣の花嫁はどうだ。白磁のような肌に、星空のように輝く長い金髪。夜目にもはっきりと解るほど、整った顔立ち。漂う香気と隙のない身体に誰もが振り返る、まさに完璧な花嫁だった。
彼女を知る者は皆、口々に彼女のことを王国一の美女だと誉め讃える。
微笑むだけで周囲の息を呑ませ、その洗練された立ち居振る舞いは優雅そのもの。
そんな女神のような美しさを持つ彼女の婿に迎え入れられたのが、クリストフ・ド・クレルヴァル――今はクリストフ・ド・モンタルベールとなった、地味で目立たない容貌の俺だ。
「それと私、あなたに抱かれるつもりもありませんの。好きにお遊びなさいませ」
彼女は俺に背を向け、寝台の奥へ移動すると、厚手のケープを羽織ったまま横になった。
蝋燭の灯りが、彼女の横顔を赤く照らす。白い頬に差した赤みが、まるで彫像に生命を吹き込んだかのような、生々しい美しさを際立たせていた。
「…………」
だよな。蟻に触られたいと思うやつがいるか。どうせ俺なんか眼中にはなく、他に本命がいるのだ。そいつとよろしくやって、そいつの子供を産み、育てるのだ。
俺の居場所は、せいぜいこの椅子くらい。
椅子に座り、実家から持ってきた本を手に取る。正直、ほんの少しだけ期待していたが、やはり現実はこんなものだった。
ジジ、と蝋燭の燃える音がする。なんて虚しい夜だろう。
そもそも、この縁談を望んだのはそっちだろうに。領地経営に失敗し、財政難に陥ったからこそ同格か、それ以上の婿を取れなかったのだ。
もしも格上の家から婿を取れば、その家に支配され、吸収される可能性が高い。だから、まだ影響下に置ける伯爵家を選んだ。そうすれば、対外的にも見栄を張れるからだ。
「伯爵家ごときの次男坊が、侯爵家に婿入りできるんだから感謝しろ」
「侯爵領を治めさせてやるんだ。ありがたく全力を尽くして、どうにかしろ」
そんな声が聞こえてくるようだ。
そりゃ、やれと言われれば、全力を尽くすさ。
だが、もし希望通りの結果が出せなかったら?
俺は、伯爵家の次男だ。家は兄が継ぐ。俺に分け与えられる領地もなく、こうして侯爵家にしがみつくしかないのだ。
どちらにせよ、万が一放り出された時のために、備えておく必要があるだろう。
「……眩しくて眠れませんわ。油もタダではありませんのよ」
豪華な天蓋付きのベッドの奥から、不機嫌そうな声がした。
やれやれ。俺は蝋燭の火を消し、腕を組んでそのまま目を閉じた。
翌朝、目が覚めると、寝台には誰もいなかった。
それほど寝坊したつもりはなかったのだが、彼女が休んでいた布団に手を入れると、ひんやりとしていた。
「ほぅ……」
意外だった。布団が冷たいということは、アリアンヌはまだ外が明るくなる前に起きたということ。
こういったお嬢様はてっきり昼まで寝ていて、身支度も全て侍女に任せてうだうだ言っているものだと思っていたのだが。
果たして彼女は早起きをして何をしているのか。
侍女を呼び、王国一美しい奥様の行方を尋ねる。返ってきた答えは、街の劇場の若い歌い手が迎えに来て、一緒に馬車で出かけたのだと。
「これは……」
完全に打ち砕かれた。王国一の美女が清らかなままだと誰が決めた? そんな都合の良いことを願うのは現実を知らない愚かな男だけだ。……つまり、俺か。
昨晩から現実を突きつけられてばかりだ。俺が一体何をしたっていうんだ。くしゃくしゃと頭を掻きむしる。伯爵家の次男に生まれたことが、そんなにも悪いことなのか。
婚礼の翌日に愛人と街へ繰り出すことを、家の者は誰も咎めない。
今までもそうだったようだし、両親ですらそうなのだから、誰が咎められるだろう。
さてこれからどうすべきか。彼女が堂々と寝室に愛人を呼び込めるよう、俺は気を利かせて別の部屋で眠るべきだろうか。
格上の家に婿入りした知り合いはいないから、どのように身を縮めて生きていくべきか俺は知らない。
そりゃぁ、探せばいるのかもしれないが、それをどうやって探す?
この家の者に頼んで探してもらうのも気が悪いだろうし、かといって友人を頼るにしても、手紙が検閲される可能性がある。直接会うにしても誰かがついてくる。立場を利用したスパイが聞き耳を立てるのだ。
「……つまらんな」
そこまでのリスクを負ってまでやることではないだろう。大人しく、やるべきことをやればいい。それが一番だ。
この家から追い出される、その日まで。
***
冷めきったパンと、固く塩漬けにされた肉。
それが、俺の朝食だった。執務室でそれを齧りながら、執事の報告に耳を傾ける。
聞けば聞くほど、胃が重くなる報告ばかりだった。
簡易ベッドをこの部屋に置いたのは、いつからだっただろうか。
思い出したくもない。ここで寝て、起きて仕事をしてまた寝る。こんな生活を送る方がよっぽどマシなのだ。
ちっ、思い出してしまった。いつだったかの夜、仕事に疲れて寝室に戻ると、アリアンヌが男を連れ込んで酒盛りをしていたのだ。
俺はその光景に何も言わず、くるりと踵を返して執務室へ戻った。ソファーは寝心地があまり良くなかった。
だから執事に頼んで、この部屋にベッドを設置してもらったのだ。さすがに、愛人と楽しんでいる横で眠れるほど、俺は器が大きくない。
「やることはやっているんだから、これくらいはワガママ言わせてくれ」
これがワガママになるのかどうかは人によるだろうが、とりあえずワガママだと主張して、俺は執事にベッドの設置を認めさせた。
執事もあっさり了承し、その日のうちに簡易ベッドが運び込まれた。彼も俺が仕事はしていると認めてくれたのだろう。
そう。俺程度でも仕事をしているように見えるほど、この侯爵領はひどい有様だった。
財政は真っ赤な赤字。侯爵領で赤字なんて、信じられないだろう? 税収や商売の利益、謎の献金。いくらでも収入はあるはずだ。しかし、書類を読むと意外に税収は少なく、商売も上手くいっていない。謎の献金だけが頼りという状況だった。なんでだ?
だが、 当代の侯爵、つまり義父様は、そんな現状を放置してただ金を浪費するばかり。王宮で政治をせずに、屋敷で贅の限りを尽くした宴会に明け暮れている。提供される料理や器の材質は、王族をも凌ぐとさえ言われるほどだ。
もちろん、俺はそんな宴会になんぞ呼ばれることはない。なにせ俺は、“他人”だからな。
“他人”の俺は、あちこちから夜通し響く歓声や嬌声を聞きながら、ひたすら事務仕事をこなす。少々筆圧が強くなって、ペン先の消費が多くなっても、許してほしいものだ。
「嘘だろこれ……」
知れば知るほど、侯爵領の政治はひどいものだった。
緊急の決裁が必要な書類であっても放置され、陳情や問題点の報告は山積みとなって埃を被っている。執事を見上げると、彼は何とも言えない表情で目を逸らした。
どうしてこんなになるまで放っておいたんだと問いただしたかったが、視線を合わせないことで、すでに答えは出ていた。
確かに昔から侯爵夫妻は羽振りがよく、身なりも派手に着飾っていた。そして令嬢のアリアンヌは、さらにその上を行く。
まあ、単純に使いすぎなのだろう。収入より支出が増えれば、そりゃ赤字にもなる。普通なら、支出を減らすのが一番手っ取り早いのだが、それは到底期待できない。
なら、収入を増やすしかない。頭を捻ろうと思うまでもなかった。なにせ侯爵が内政を顧みなかったせいで、この領地には伸びしろしかなかったのだから。
これなら、経験のない俺でもなんとかなる。学んだ通りにやれば、ひとまずは回復するだろう。
ただ、回復したとしても支出にはまだ足りないため、さらにプラスに持っていく必要がある。
そこは少し工夫が必要なところなので、後回しだ。
まずは陳情を丁寧に聞き、実際に現地を視察し、民との信頼関係を築くことから始めよう。
そうすることで、堂々とこの家を空けられる。
「あら、田舎娘がお好きなのね。楽しんでらっしゃいな」
などとアリアンヌに皮肉を言われても、退廃的な空気が漂う侯爵邸から離れられるのだから、むしろ気分は晴れやかだ。
「御家のためでございます」
そう言って恭しく頭を下げるのも、喜んでやった。
「ふん。つまらない男ね」
どれだけアリアンヌに蔑まれようが、気にならなかった。
外の空気だけが疲弊した俺の心を清めてくれるのだ。まるで水を求める魚のように、俺は何度も現地視察に赴いた。
そのおかげかどうかは解らないが、大小様々な町や村の統治者の多くに顔が知られるようになった。
「いや、まことに助かります。こうして回ってくださるだけで、我々は見捨てられてはいなかったのだと……」
多くの、特に村は不安を抱えていた。それも当然だろう。陳情しても梨のつぶて。どれだけ待っても中央からの助けは来ず、状況は悪化する一方だ。
これが町なら自力で立て直せる可能性もあるが、村となると余裕もなければ地力もない。
一度転べば、あとは下り坂を転げ落ちるだけなのだから、代理とはいえ支配者側の訪問は神の降臨のように迎え入れられた。
困っている村から手を入れる。降臨した神が困りごとを解決しようとしてくれるのだから、その恩は山よりも高く、海よりも深い。
俺の行動は、仁政であると周囲に伝わった。末端の民を見捨てないと、人々に安心感を与えたのだった。
本家の評価が地に落ちていたというのもある。侯爵側の人間として、地道な活動で信頼を取り戻す必要があった。
彼らが困っていることに対して現状、俺にできることは限られていた。金を渡すだけのこともある。それでも、わざわざ足を運んでくれて、話を聞いてくれた、という事実が何よりも大きかった。
「もし、よろしければ……」
中には、休憩中の俺に娘を差し出そうとする村もあったが、それらは全て丁寧に断った。
侯爵家の血族であれば、うまく落胤をもうけて、その子を口実に補助金をせしめる、なんて方法も古くからある。だが、残念ながら俺は婿だから、俺自身にそんな価値はない。村に俺の子どもが誕生したからといって、たいした金は出せないだろう。これがアリアンヌの生む子どもであれば、アリなのだろうがな。
そもそも、下手に手を出して子どもができた日には何を言われるか解ったものではない。不義不貞は、まずあちらからお願いしたいものだ。
ふむ。アリアンヌの子か。もしかしたら、間男との間にできてしまうかもしれないな。そうなったら、俺の子として認知させられるんだろうか。
やれやれ。何が楽しくて、他人の子どもを自分の子と認めなきゃならないんだ。
そんなわけで、俺から先に隙を見せるわけにはいかない。どんなに好みの娘であろうと、笑顔で断り続けた。
「私は、あなたたちを助けるのに対価は求めない」
そんな耳当たりの良い言葉で彼らの思惑をかわし、時には後ろ髪を引かれる思いをしながら村々を巡った。
「村より感謝の手紙が届いております。若旦那様のご活動が実を結んで参りましたな」
執事が安堵の声を上げる。それまでは怨嗟の手紙ばかりだったのだから、手渡す側とすれば、嬉しいに決まっている。
しかし、侯爵夫妻やアリアンヌは、そんなことなど気にも留めない。
一年経っても収支が上がらないことに腹を立て、俺を責め立てる。小さな町や村が滅びようと知ったことかと。
「巡視して問題を片付けるなら、もっと大きな町にすべきではなくて?」
その方が大きな利益に繋がるんだとさ。俺がどれだけやりくりしてあんたらの贅沢費を捻出しているか、知りもしないくせに。
言ってやりたいのを我慢して、俺は頭を下げる。
「数年お待ちください。必ずや、赤字を解消してご覧に入れます」
一年も経つと情も湧いたのか、執事は俺について、失政はないと証言してくれるようになった。
あとは、頼りになる部下を得たことか。
とある町の居酒屋で酒を飲んで愚痴をこぼしているのを見つけ、少し話をしたところこれは使えると思い、雇用した。
ティエリ・ド・ルソーという男だ。まだ二十歳になったばかりだというから、俺よりふたつ年下になる。ダークブラウンの髪を肩より少し長く伸ばし、毛先が少し跳ねている、軽薄そうな男だ。いつもヘラヘラしているが、時折、ヘーゼル色の瞳を鋭く光らせることがある。
体つきは俺より一回りほど小さい。だが、革鎧を着込んだ体は、鍛えられていると容易に解る。実際に手合わせしてみたところ、俺より強かった。
腕っぷしだけではない。頭も切れる。俺のやっていることを少し説明しただけで理解し、巡察する町の順番を独自で考え、理由まで添えて俺に提案してきた。それは、俺が考えていた予定と少し違う部分があったものの、比べてみるとティエリの案の方が理に適っていたので、彼ごと採用した。
「あらあら。クリストフは男色でしたの?」
嘲笑するアリアンヌに、俺は当然否定した。しかし、行く先々で差し出される女性を断っているので、俺の否定は説得力を持たなかったのだろう。
まあ、別にどうでもいいことだ。好きに言えばいいさ。
だがさすがに、ティエリを寝室に連れ込もうとしたことには驚きを禁じ得なかったが、さすがとしか言いようがない。本当に見境ないのだと思った。
ちなみにティエリは酒に酔い潰れた演技をして逃れたらしい。
「化粧臭ぇアマだぜ。勘弁しろってんだ」
何度も唾を地面に吐いていた。あの美女を化粧臭いと真っ二つにするのは、変わっている。異質だと思った。
異質だろうが何だろうが、彼を得たおかげで仕事をこなすスピードは格段に速くなった。
彼と協力して問題を解決し、収支を回復させ、さらに新たなシステムまで作り上げた。
なんと俺が婿入りして三年目で、収支が黒字に転じたのだ。
喜びより驚きの方が大きかった。だが、もっと収入は増やせるはずだ。これからも頑張ろう。そう思っていたのだが。
「もうあなたはいらないわ。帰っていいわよ」
俺は、アリアンヌから唐突に離婚を言い渡された。
***
モンタルベール家から離婚を言い渡され、俺の名前は再びクリストフ・ド・クレルヴァルに戻った。
それなりに顔見知りも増え、別れを惜しんでくれる人もいたので正直もったいない気もしたが、あの美しき侯爵令嬢からお役御免を言い渡されてしまえば、逆らえるわけもない。いくばくかの手切れ金を持たされ、あっさり実家へと追い返された。
「つまらない男だったわね」
それが、彼女の評価だった。別に異論はない。事実だからな。
そして、出戻った俺を実家の者たちは、やっぱりなと大きなため息で迎え入れてくれた。ありがたいことだ。
「やはり、お前のような唐変木では無理だったか」
親父は仕方なく、次の婿入り先が見つかるまでの間という条件で、俺に小さな町を任せてくれた。
顔だけは良い自由奔放な人間や、贅沢三昧な人間がいない場所であればどこでもいい。そう思って頭を下げ、すぐに実家を飛び出した。
「流浪の民じゃねぇか」
今日は東、明日は南。この一月でどれだけ旅しただろう。ティエリはダークブラウンの髪を揺らしながらからかう。
彼は普段から軽口が多くて賑やかだが、時折冗談めかしながらも核心を突いたことを言うので侮れない。
適当に返事をしているとすぐに言い負かされてしまうので、俺は少し考えてから反論する。
「仕方ないだろ。長男がいて、長男にはすでに子どももいるんだから、次男に出る幕はないさ」
遅いか早いかはともかく、俺は二十四歳にしてすでにおじさんであり、甥が二人もいる身だから、伯爵家を継ぐことなどまずありえない。
成人した次男などは、家にとって邪魔でしかないのだ。邪魔者はさっさと家を出て、本家に迷惑をかけないのが習わしだし、迷惑を掛けている俺は、悲しき親不孝者だった。
「これから良い出会いがあるかもしれねぇからよ。希望を捨てるなって」
「お兄様とは立場が違いますわ。一緒にして差し上げないでくださいまし」
フォローに入るのは、ティエリの妹であるデルフィーヌだ。馬の歩みとともに、まっすぐなダークブラウンの長い髪が緩やかに揺れる。
彼女も武官兼侍女として、兄と共に俺に仕えてくれている。爽やかな話し方で交渉事を円滑に進め、気が付けば誰もが気分よく譲っているという、異才の持ち主だ。
この二人のおかげで、俺はどこに行っても統治を楽に進められる。執務室から指示を出していれば物事が進むのだから、こんなに楽なことはない。
つまり、町を治めるにあたってそれほどやることがない。しかたなく俺は、町の兵士たちの訓練に付き合った。
小さな町なので、目を見張るような兵士はいない。だから、まずは隊列を崩さずに動ける訓練をひたすら行った。
戦争は集団で行うものだ。個の力は確かに大きいが、世の中強い者ばかりではない。ならば、その他大勢の弱い者たちは固まって動くことで大きく見せるしかないのだ。
大きく見せれば、たとえ相手が強い者でも、追い返すことだってできるかもしれないのだと一糸乱れぬ行動、というやつを目指して頑張った。
「――どうも王都がおかしい」
二年ほど経った頃、ティエリがそんな情報を持ってきたのは、麦の刈り取りを終え、これから暑くなる時期だった。
麦が異常に売れる。思わず倉庫を開けて全部売ってしまおうかと思ったが、ティエリもデルフィーヌも強く反対したため、思いとどまった。
だが、この町に出入りする商人は民から多くの麦を高く買い付け、南へ向かったらしい。
町の民たちは、冬越しの食料だけを残し、余った麦を全て売り払ったとか。中には、欲に目がくらんで冬越しの分まで売り払った者もいるらしい。
「王家もこぞって麦を売っている。こりゃあ、臭いな」
「そうなのか?」
「王家の倉も空にする危険性は、この前言ったよな?」
「ああ、覚えている」
この町の倉を開こうか検討した時に、散々説明されたからよく理解している。
行政府の倉まで空にしてしまえば、急な天災で民が持っている食料がなくなった時、誰が彼らの食事を保障するというのか。民の生命を危険に晒す為政者を、誰が支持するというのだ。
それなのに、王家ですら目先の金に釣られている。天災に備えるための麦は、腐らせてしまうくらいでちょうどいいのだ。あるいは、その寸前で家畜の餌にするくらいが適切だ。
それすら理解せず売り払ってしまうのであれば、それは……。
「つまり、王宮には馬鹿しかいねぇってことだ」
「おいおい」
あっさりとそう言い放つティエリ。だが、そういうことなのだろう。何のために貯蔵しているのか理解していない者が管理しているのか、それとももっと上が命令しているのか。どちらにせよ、危ないことは確かだ。
「外国は笑っているでしょうか」
「息を潜めて、機会を狙っているだろうよ」
「高く買い取っている国は、組んでいると見ていいかもしれませんね」
「ありえるな。一国だけでやるには、ちょいと厳しい」
「どういうことだ?」
「そのうち攻めてくるってことだよ」
「あっ!」
やっと理解した。周辺の国が我が国の麦を買い漁り、食料をなくさせてから攻めてくる、ということか。
「それ、どうするんだ?」
「どうにもならねぇな。麦がねぇところから食い潰されていく」
「それって王都も……」
王都は麦がない。包囲されたらすぐに陥落するだろう。
「王都まで何もねぇわけじゃねぇよ」
「それはそうだが……」
王都までの道のりで、各諸侯が麦を売り払わず、蓄えていることを祈るしかないのか。今から注意喚起して回っても、もう間に合わないだろうし。
「ま、南はラヴェル公爵がなんとかするだろうよ」
南部の諸侯では最有力の公爵であり、聡明なお方だ。
最近、理由は解らないが、公自身が領地に帰ったと聞く。ならばそこで食い止められるか。
「いずれにせよ、備える必要はある。クリスも兵士に緊張感持たせておけよ」
そんな相談をしてから数日後。俺は親父から呼び出しを受けて、領都に来た。
親父の執務室に一歩足を踏み入れた俺は、驚愕に目を見開き、思わず口を押さえてしまった。本気で吐きそうだ。帰りたい。
「お久しぶりです。クリストフ様」
ふわりと、甘い香りが部屋を支配した。
新雪と見紛うばかりの白い肌。長く艶やかな髪は、光を受けて輝く滝のよう。少しやつれたようにも見えるが、それは儚さという新しいスパイスとして、彼女の美しさを一層引き立てていた。マイナスに働くことなど、決してないだろう。
百人、いや、一万人に尋ねても美人だと答えるその容姿に吐き気を覚えるのは、世界広しといえども俺だけだ。
容姿が良くても性格が良いとは限らず、むしろ反する――そんな例を体現する、世界第一位の人物がそこにいた。
「どうしたクリストフ。早く入ってこい」
父に促され、重い足を引きずる。何の罰を受けているんだ? 婿でいられなかった罰を、ここで払わせるつもりなのか?
「……ご無沙汰しております。ご健勝のようで何より」
頭を下げ、できるだけ視線を合わせないようにする。もっとも、すでに視線は外されている。
世間ではいつまででも見つめていたい、などと称えられても、俺にとっては一秒たりとも見たくない顔だ。父に向き直り、用件を尋ねる。
「うむ。お前には、兵を率いてモンタルベール侯爵の救援に行ってもらいたい」
「救援?」
すでに他国からの侵攻が始まったのかと思いきや、反乱鎮圧の手伝いらしい。
東で反乱が起きたと思えば、今度は西で。一揆も起きているし、山賊の出現も確認されている。まさにお祭り騒ぎの状態で対応する手が足りないと言う。
そこで、直接の配下ではないが、政治的にも地理的にも影響下にある俺たち伯爵家に声がかかったと。
「ご活躍次第では復縁も……誤解もあったと思いますし……」
「なんと! これはありがたい。愚息も反省しております。名誉挽回に勤しむことでしょう!」
などと、親父は枯れた花が再び咲いたかのように大はしゃぎし、俺に必ず成し遂げろと圧をかけてくる。誤解なんてあるものか。
……ものすごく面倒くさい。断れないのが、さらに面倒だった。
当然ながら、それを知ったティエリが俺に同情するはずもなく。
「なんだアイツ。まるでお前に取りつく幽霊だな」
ギャハハ、と品のない笑いとともに、ティエリは自分の太ももを何度も叩いた。デルフィーヌが制止しても聞かない。
むかついたが、事実なだけに上手い返しが思いつかなかった俺は、要請は受けねばならんと言い捨て出兵の準備に取りかかるのだった。
数日後。およそ三百の兵を集め、俺たちは北のモンタルベール侯爵領へと出発した。侯爵令嬢も、すでに戻ったらしい。
「基本的な方針は、話し合いだ」
反乱も一揆も、首謀者たちは俺の顔見知りである可能性が高い。ならば話し合いのテーブルには着けるはずだ。話し合いで原因を探り、妥協できる点を探る。
たった三百の兵しかいないのだ。馬鹿みたいに連戦すればすぐに消耗して撤退せざるを得なくなる。できるだけ無傷でいるに越したことはない。
モンタルベール侯爵の兵に鎮圧された民たちには気の毒だが、俺は神のように長い手は持っていない。だからせめて、手が届く範囲だけはどうにかしたい。
山賊などは知らん。さっくり踏み潰しながら進み、町や村を回った。果たして、町の代表などは俺だと知るや、喜んで話し合いに応じてくれた。
そして、俺は頭を抱えた。
「……もしかして、原因、俺?」
「クリフだなぁ」
「悪政を敷いた者が原因ですので……あまりご自分をお責めにならず……」
俺がいなくなって、政治が元通りになったのだ。
せっかく、俺が色々やって便利になったり困りごとを解決したりしたのに、また仕事をしない役人ばかりになってしまった。そりゃあ、不満も出るってもんだ。
だが、だからといって、そんな短時間で爆発するか?
俺がいなくなって二年くらい。少し短い気がする。俺が色々とやったと言っても、侯爵領にある全ての町や村に手を入れたわけじゃないし、大したことができたとは思っていない。
「優先順位が低かったところも反旗を翻しているな」
ティエリは地図で複数の町を指差した。よく覚えているなと感心する。
「回れなかった町もありますね」
二人ともかよ。すごい記憶力だな。
はらりと下に落ちるダークブラウンの髪を後ろにかき上げたデルフィーヌは、困ったような顔をしていた。侍女服から鎧に着替えても、いつもと同じで柔らかく、ゆったりとした雰囲気だ。内面は解らないが、この兄妹が緊張することなんてあるのだろうか。兄に至っては、いつも以上にヘラヘラしている。
「急いだ方がいい。のんびり話し合いをしている場合じゃねぇぞ」
「どういうことだ?」
ティエリはモンタルベール侯爵領北部を指でぐるりと囲む。その辺りは訪れた覚えがない町ばかりだ。
優先順位が低かった場所。それらの多くも反乱を起こしている。元から悪政に不満を持っていたのが溜まりに溜まって爆発したのかもしれないが、ティエリには何が見えているのか。
「北の国の介入だ」
「なんだと……」
モンタルベール侯爵領は元来、この常冬の国に対する守りの要としてここに位置している。
しかし、当代の侯爵がアレだし、食料も予想通り売り払っているらしいので、防壁の役割などとても果たせそうにない。簡単に飲み込まれてしまうだろう。
「この地が陥ちたら、次は俺たちじゃないか」
「そうだよ」
「即答かよ」
「偽っても仕方ねぇだろ。さっさと反乱を収めるのが一番だ。無理なら、残存勢力を糾合して北に対抗する」
「糾合って言っても、ここは侯爵領だろ。俺がどうにかできるもんじゃない」
隣の領地の次男坊が侯爵領の兵を集めるには、ちゃんとした理由が必要だ。侯爵に許可を得るとなれば、使者の往復だけでも時間がかかる。急ぐべきだと言ったのは何だったのか。
ところがティエリは、俺の考えを見透かしていたかのように、その端正な顔に不敵な笑みを浮かべた。
「ひとつだけ方法がある」
俺の前に人差し指を立てて見せる。
「何だ?」
「あの令嬢に、再度婿入りするんだ」
「やめてくれ!」
思わず叫んでしまったが、聞けば確かにティエリの策は有効だと思えた。
すなわちこうだ。
形だけでも夫婦となる。そうすれば侯爵の許可を得ずとも侯爵領の兵士を指揮する資格は得られる。
一連の説明と交渉はデルフィーヌに任せればいい。簡単なものだ。
だが、だがしかし、あんな思いは二度とごめんだ。何度も何度も不快な思いを払うべく首を振った。
そればかりは勘弁してくれと見上げると、ティエリは不敵な笑みを浮かべたまま、静かに頷いた。こいつ、俺を試したな。
「だとすると、ゆっくり進むことだな」
「……?」
また混乱する。急ぐべきではなかったのか?
「あと途中の町や村には、誠意を見せることだ」
それ以上詳しく語らなかったのは、後ろめたい思いがあったからだろうか。それとも……。
***
できるだけ急ぎつつも、話し合いで反乱を収めながらゆっくり進む俺たちを、優しく待ってくれる者などいない。待たないからこそ、彼らは“敵”なのだ。
北の国の攻勢が始まったと報せが入る。とんでもなく強い騎士がいるらしく、巧みな槍さばきで次々と我らの騎士がやられているらしい。
向こうは捕虜を取らない。こちらの戦い方は、名のある騎士を捕らえて多額の身代金を要求し、それによって敵国に経済的打撃を与える。だが、あちらにそんな常識は通用しない。
いやいや、作法とかあるだろうと呆れるが、考えるまでもなく相手がこちらに付き合う義理などないのだ。
「となると、そいつにぶつからないよう気を付けないとな……」
たった三百しかいない兵力でそんなすごい騎士とぶつかったとしたら、まともな戦いになるまい。
むしろ、適当なところで伯爵領へ退却して、地の利がある故郷で迎え撃った方が有利だ。この侯爵領の地理など、充分には解らないのだから。
説得した民たちは、いっそ俺たちの領地に避難させてもいい。見捨てるのは忍びないし、民はいくらいても困らないからな。
そんなことを考えていると、今度は侯爵が討ち死にしたと報せが入った。
知らせてきたのは、俺が婿入りしていた時に執事として仕えてくれた初老の男性だった。彼は侯爵に従軍していたそうで、こと細かに経緯を教えてくれた。
「リュン……なんとかという騎士が、とてつもなく強く、我らが軍は彼一人にずたずたにされてしまいました……」
やはりか。とんでもない化け物だな。ティエリを見る。彼は静かに首を横に振った。
「ところで……」
執事が言葉を続けた。嫌な予感がする。
「お嬢様を、お連れしております」
「……何?」
「どうか、保護を……」
「チッ」
背後で、ティエリの舌打ちが聞こえた。
俺は、思わず天を仰いだ。これが運命というなら、俺はどれだけ運命の女神に嫌われているのだろうか。
「他力本願はやっぱりだめだな。俺もヤキが回った」
唾を吐き捨て、ティエリは地面を踏みならした。いらついている時によくやるクセだ。
彼の戦略は、侯爵家に連なる者を全て、北の国に討ち取らせることだった。それが前提だった。
だからこそ、その前提を北の国に達成してもらうためにゆっくりと進んでいたのだ。
そうすることで、焦れた侯爵が出陣し、北の国の軍とぶつかり敗北する。彼らのやり方に則るなら、侯爵家の人びとだけ捕らえられ、身代金を要求されるということはあるまい。必ず討ち取られる。
平地で侯爵軍を撃破した北の国の軍はその勢いのまま、領都を陥落せしめ、侯爵家の非戦闘員は色々な処遇を受ける。
それを聞いた俺は義憤にかられ、侯爵家に縁があるからこそ、敵討ちの旗頭を務めさせてくれと演説をぶり、侯爵領の町や村の支持をとりつける。という算段だ。
もちろん、この演説はデルフィーヌが考えてくれるものだ。そしてその結果、この地の代表として俺は侯爵領軍を率いることになり、ティエリが練った作戦にて勝利する。
この勝利によって、侯爵領の領有を王家に認めさせる。認めざるを得ない。俺は晴れて領地持ちの独立貴族となる。
大まかに言うとこんな感じの戦略をティエリは考えていた。確かに侯爵家の人がいなくなったあと、一番関わりがあるのは俺だろう。うまいこと考えたものだと思ったし、そうなりそうに思えた。
なのに。
無事に脱出し、こちらに保護を求めてくるなど。勝手にシナリオを崩されては困る。
なんと悪運の強い。
そして、俺は運が悪い。
これによって俺は、彼女を代表とせざるを得なくなった。
そして、俺は北の国の軍を追い払ったあと、望まれて侯爵令嬢の配偶者となるのだろう。彼女はその悪運の強さで運命を引き寄せたのだ。勘弁して欲しい。
また、執務室で寝泊まりする日々が始まるのかと思うとうんざりだった。俺が寝室に戻る時間もないほど忙しいという形をとっているのだから、自分だけの部屋を持つわけにもいかないんだよな。
形式的には仲良くしているアピールのため、寝室はひとつにしておく必要があるんだそうな。実質的にはそれらしい名前をつけた部屋を寝室に使うケースもあるそうだが……今回はいけるかもしれんな。このままであれば、だが、この侯爵領を支配するのは俺なのだから。以前の石ころみたいな扱いではないのだ。
そんな卑屈さを持たない今の俺だから、強く意思を持てたのだ。
その晩、俺が明かりを消した頃にそれはやってきた。
天幕の入り口の布がすっと持ち上がり、そこからするりと体を滑り込ませる影がひとつ。
「クリストフ様……」
清らかな、鈴を鳴らしたような声とはまさにこのことだった。涼やかに耳へと入ってきて、そののち、蕩けるような熱量を発する。
ドロリとした感覚に、男どもは思考を奪われてしまうのだろう。
まぁ、こうなるわな。俺は長いため息を吐いた。
「お疲れのところ、申し訳ありません。ですが、私には、もう、何も……」
月明かりにうっすらと照らされるのは、金髪白皙の美女。眉を寄せ、情けを請う瞳で俺を駆り立てようとする。
俺は、何も言わない。言うことなど何もない。ただ、ゆっくりと体を起こすだけだ。
「どうか、私を助けてください。過去の過ちを、これから償わせてください。私は、貴男がいなければ、もう……」
確かに、絶世の美女だとは思う。容姿、体つき、雰囲気、香り。全てが計算され尽くされ、精巧に創られている。
こんな美女がベッドにすがりつき、自ら肩の紐を下ろすのだから、そりゃあ……な。
そう考えてしまうくらいには、俺も女郎蜘蛛の罠にかかっていたのだと感じた。
俺は、ゆっくりと手を伸ばす。
やめろ。未来を捨てる気か。
心が叫んだが、俺の手は止まらない。
俺の体は、誰かに乗っ取られてしまったのだ。そう。それこそ幽霊が取り憑き、俺の体を動かしているかのように。
侯爵の霊か?
いいや、違うね。俺の意思に決まっている。
婚礼の日、隣に座ったあの日から、どれだけこの女を手にしたかったか。
その代償がいかほどかもよく解っている。ティエリにもよくよく説明された。
眼前の女は、俺の手が自分に伸ばされるのを確認すると、抱き寄せやすいように体を近付けた。へっ、その行動なんぞは、本当に。
「まるで娼婦だな」
俺の手は彼女を抱き寄せるのではなく、突き飛ばすためのものだ。軽く突いただけで彼女はよろめき、倒れそうになる。
「なにを……!」
怒った顔も美しいとでも? バカ言え。醜い鬼ではないか。
自分の体を差し出して、それを担保に今後の贅沢三昧を保証されようという、欲望に塗れた鬼ではないか。
そりゃあな。
俺は貴様のように、運命の糸を嗅ぎつける特別な嗅覚なんて持っていない。
俺は有能な内政家なんかじゃない。単に滞っていたものを流しただけだ。
俺は優れた雄弁家なんかじゃない。女侯爵の代理人として立てたのは、デルフィーヌの演説原稿があったからだ。
俺は天才軍略家なんかじゃない。戦を有利に進めたのは、ティエリという本物の天才の助けを得られたからだ。
とどのつまり、俺は、ただの凡人なのだ。
だからこそ。
「凡人を、舐めるな」
小さな虫にだってプライドがあるんだよ。
行く宛てのないお前に、侯爵領を与えてやろう。ついでに私も抱かせてやるから、好き放題させろ――お前は、そう言いたかったんだろう?
お前を抱いたら、俺はお前という樹液を求めて飛び回る虫どもと同じになってしまう。
愛人どもと同じ位置まで落としめることで、俺に心理的な負い目を持たせたかったんだろ? そうしなきゃ今回は、俺のほうが立場は上だもんな。
それくらいは解るぜ。ティエリに言語化してもらったけど、モヤモヤしたものとして、感覚としては理解していたのさ。
だから、舐めんじゃねぇ、なんだよ。俺のちっぽけなプライドまで捨てさせようとするな。そこを失ったら、俺は俺でなくなるんだ。そのギリギリを触れたお前は、絶対に許さない。
「だが、生かしてはおいてやる。それなりの生活はさせてやるから、黙っていろ」
「伯爵風情が……っ!」
「その伯爵の次男坊に、身体まで差し出そうとしたのは、どこのどいつだ?」
心底見下げ果てた。改心するどころか、最後の最後まで自分を貴種だと思っていやがる。いや、ある意味この性根は尊敬できるのか?
二度、手を叩き、侍女を呼び込む。侍女は一瞬、ピクリとしたが、心の動揺を抑え、用件を尋ねてきた。プロだな。
「こいつは心の病だ。療養させるから護衛に連れて行かせてくれ」
「承知致しました」
見事なもんだ。刺し殺されそうな視線を感じながら、俺は侍女の仕事ぶりをのんびり眺めてる。
……正直、すっきりした。やはり俺は、何者にもなれない凡人だから、こんな気持ちになるのだろうか?
「何やってんだ。さっさと殺せよ」
翌朝、ティエリはとんでもないことを言い出した。
「おいおいなんてことを言うんだ」
どうしてもティエリは当初の案を修正したくないようだった。そりゃあ確かに、その方が面倒はなくていい。
でも、あいつは生き残ってしまったんだ。俺は、あいつを保護しないと侯爵領を統治できない。あいつが俺の正当性を保証しているんだ。
もし、あいつを殺してしまったら統治権欲しさに殺したと言われてしまう。侯爵領の支持を失ってしまうのが解らないティエリではないだろうに。
「……お前、なんも解ってないな」
これみよがしの、大きなため息。思わずムッとくるくらいのそれは、ティエリが心底呆れていることを示していた。それに気付き、少し落ち着く。
「……どういうことだよ」
「この先、アイツにずっと吸い尽くされるつもりなのか?」
「馬鹿言え。ほどほどで満足させるさ」
「……どうしようもねぇな」
再びのため息。ティエリには、何が見えている? デルフィーネを見る。彼女も残念そうな顔をしていた。これは、解らない方がだめなやつか?
ティエリは頭を掻いたり石ころを蹴飛ばしたりその場でぐるぐる回ったりしている。名前を呼んでも返事がない。今もツバを吐いている。そんなにいらつくことなのか? だけど、俺には全く解らん。殺したら駄目だろうとしか解らないんだ。
「クレルヴァル閣下は、やはり何も解っておられません」
「厳しいな」
「厳しくもなります。侯爵閣下は、誰にでも統治権を与えることができるのですよ?」
そう言って、デルフィーヌは遠く、畑仕事する男性を指さした。
「それこそ、あの農民にも。彼女が決めたのであれば、その決定は尊重されます」
「!!!」
ようやくそこで理解した。思わず口を押さえる。その通りだ。そうだ、なぜ気付かなかった。侯爵領の統治権は彼女が与えるものじゃないか。
彼女に不満を持たせたら、彼女はお気に入りの愛人にこう囁くだろう。
「貴方こそが、この侯爵領を治めるに相応しいお方」
「アリアンヌを呼んできてくれ。あ、いや、俺が行く」
早歩きで彼女がいるはずの部屋に行く。扉を開き、止まった。がらんどうだ。
「追え! なんとしても探せ!!」
ティエリの声が響く。立ち尽くす俺にはそれが、どこか遠くで響く声のように思えた。
いつの間に。どこに行った。あの女を連れて行った侍女も姿を消していた。しくじった!
彼女は、彼女に好きなだけ贅沢をさせてくれる男のところへの奔ったのだ。
それが誰かなんて解らない。解るのは、俺がこの地を統治する正当性を失ったってことだけだ。
これからどうしたらいい? せっかく広い領地を得たと思ったのに、俺は、ささやかな復讐に満足して、大きなものを手放してしまったのだ。
***
結局、アリアンヌの居場所が判明したのは、彼女の出した声明によって、だった。
侯爵領の、南側にある比較的大きな町の代官だ。彼こそが亡き父上の敵を討つに相応しい人物らしい。知らねぇよ。
付け加えるなら、俺に乱暴されたんだとよ。粗暴には扱ったけどな。
「さて、どうするかねぇ」
俺は今、侯爵領の南側の一部分、中くらいの町を拠点に、もう二つの村を彼女が言うところの、不法占拠している。
アリアンヌの声明を聞いたそれぞれの代表はすぐに俺の所に来て、このまま軍政を続けて欲しいと希望してきた。アリアンヌの言葉と、いうより、彼らは俺を信じると言ってくれた。
泣けたね。尻尾を巻いて退散しようと思っていたんだが、敏感にもそんな気配を感じて不安になったのかもしれないな。
そうであったとしても、三人の代表が異口同音に留まって欲しいと言うのだから、意気に感じるさ。
単純? 好きに言え。俺は凡人なんだから、おだてに弱いんだよ。
村にも顔を見せるが、基本は町の執務室を借りて、政治を行っている。そこでティエリとデルフィーヌの三人で今後を話し合う。
「とはいえ打つ手なしじゃないか? 不法占拠の俺たちは、帰れと言われたら素直に帰るしかないだろう」
「ところが、そうでもない」
近くの兵士に顎で合図すると、兵士が一枚の旗を持ってくる。向かい合う応接ソファの中央に設置された机の上に広げた旗は、なんと侯爵家の旗だった。
「侯爵閣下が討ち死にする直前に、クレルヴァルに託せと言われ、執事に持たせた旗だ」
ちなみに、その執事はアリアンヌと行動を共にしている。わがままに付き合わされて、ご苦労なことだ。
「なぁ。それ、本当か?」
あの侯爵が、俺に旗を託すなんて思えないんだが。
婿として侯爵領にいた時から接点なんてほとんどなかった。顔も覚えていないし、声も残っていない。なにもかも、全て覚えていない。向こうだってそうだろう。そんなのに、家を象徴するような旗を託すわけがない。
「嘘に決まってんだろ」
「だよなぁ」
「だが、手元にあるのは確かだ。もしかしたら、譲り状でも仕込まれているかもしれんな?」
「デルフィーヌ作のか?」
ヒッヒッヒ。男二人が顔をつきあわせていやらしい笑い声を上げる。デルフィーヌは本気で引いていた。
数日後、俺たちが拠点を置くこのラフェルテの町から声明が発せられた。
この町に翻る旗を見るがいい。ラフェルテの町の旗以外に、もう二枚。
ひとつは、クリストフ・ド。クレルヴァルの旗。
そしてもうひとつは、刮目して見よ。これこそが、モンタルベール侯爵の旗ぞ。
なぜ、モンタルベール侯爵の旗があるか。
それは、モンタルベール侯爵が討ち死にされる直前、クレルヴァルにと託されたからだ。
モンタルベール侯爵の手紙に曰く――。
この侯爵領を救うのは、クレルヴァルたるべし。
志半ばで離縁してしまったことを申し訳なく思っている。
それなのに、かつての縁を恨みに思わず、我らを助けるために兵を挙げてくれた。
報恩の志こそ、立派なり。
これに報いることこそ、王国貴族のあるべき姿。
例えこの身は戦場の露となろうとも。
気高き魂はクレルヴァルの元に宿らん。
そして、勝利を。
勝利を、クリストフ・ド・クレルヴァルに。
侯爵領の皆の者よ。心あらばかの若武者に力を貸し与えよ――。
偶然にもこの手紙を発見したクリストフ・ド・クレルヴァルは、感動の涙を流し、立ち上がることを決意した。
志ある者は我の元に、いや、モンタルベール侯爵の旗の下に集うべし。
「あんまり出来のいい文章を書くと、バレるぞ」
「十分ほどで考えたものです。これで充分でしょう」
「いやいや……」
十分で考えた文章と同程度の文章作成能力を持つと評されたモンタルベール公に、少しだけ同情した。例えば俺と同じくらいなら何分か、と聞く勇気はなかった。
この檄文は、十分という時間にしては上等すぎる効果を現した。
アリアンヌが選んだ男に不安を持つ者が多かったのも手伝っただろう。南部の町は村の多くがこちらに来てくれた。
「クレルヴァル様が率いられるなら、喜んで」
こう言ってくれる人のなんと多いことか。本気で泣いたね。俺がやったことは、間違っていなかったって。
簡単なことしかできなかった。話を聞いて励まし、資金を提供する程度だったのに。
それだけでも助かったと言ってくれた。
わざわざ足を運んでくれた。
話を聞いてくれた。
頂いたお金で飢えをしのげた。
塞がれていた道が通れるようになった。
川の水を使えるようになった。
今まで生きて来られたのは、クレルヴァル様のおかげ。
こんなことを言われたら、涙が止まらないぜ。あんまり凡人を褒めるもんじゃない。
残念ながら、北部からの参加はなかった。
なぜならこの時すでに、北部はほぼ、北の国の軍に征圧されていたからだ。
だが、南部の町は殆どが仲間となり、アリアンヌの選んだ男は戦わずして俺に降伏した。
「今度こそ殺せよ?」
「いや、みなの目があるのにそれは無理だろう」
「お前、まだそんなこと言うのか!?」
「いや、アリアンヌの選んだ男から託された、という形にすればいいだろう?」
侯爵家の将軍、みたいな形を取ればいいんじゃないか。我ながら良い考えだと思った。
アリアンヌは、自分から貧乏くじを引いたんだ。勝てない男を自分で選んだのだから、そいつと一生過ごせばいい。見る目のなさを後悔しながら、な。
だが、ティエリは納得しない。甘いと言う。
「あいつは、毒を仕込むくらいするぜ?」
負けた男には興味がない。さっさと殺して、次の男へ。それくらいの行動力があると。
俺には、そこまでの思い切りがあるとは思えない。
だが、万が一ということもある。
「俺が背を向けている間に、頼む」
「……そうかよ」
少しの沈黙の後、彼は黙って部屋を出て行った。
そして、北の国の軍との戦いが始まる。
北の国との戦いで問題となったのは、やはり例の騎士だ。
何度か槍の騎士と対峙したが、目にした彼の槍はまさに神の業だった。
槍を一振りするごとに兵が怯える。彼が一人突撃するだけで、部隊は真っ二つに切り裂かれ、兵が浮き足立つ。そこを、待ち構えていた敵に襲われる。
一度体験したが、半壊するのはひとつの部隊なのに、恐怖が連鎖して、総崩れになるのだから本当に恐ろしい。
運がいいことに、彼はときおり戦場から姿を消していた。
別の戦線に移ったわけでもなく、忽然と姿を消すのだ。そして一、二週間後に再び姿を現す。
「ヤツがいなけりゃ、どうとでもなる」
ティエリが豪語する通り、かの騎士がいない戦場ではほぼ連戦連勝だった。まるで自分たちが無敵の軍団になったかと錯覚するほどに。
そして、彼が現れ、現実を思い知らされるのだ。
しかし、彼への対処法も、時を置かずにティエリが考案した。
大盾を並べ、その後ろから弓で射る方法だ。盾を並べて彼の動きを止め、弓で狙う。その間に、別の部隊が動いて残りの敵を制圧する。
結果として、それはうまくいった。だが、盾部隊の兵士たちは、生きた心地がしなかっただろう。盾ならさすがの彼でも、と思っていたら、何人かは彼の槍に刺し貫かれてしまったのだ。
盾をしっかりと構えているのに、安全ではない。自分の持つ盾がしっかりとした造りであることを神に祈るしかないなど、どれほどの恐怖か。
ただでさえ戦場に立つこと自体が恐怖を伴うものなのに、あのような化け物が存在するなど理に反している。俺なら色々撒き散らすね。
本当に、皆がよく耐えたと思う。
「この戦いが終われば、盾部隊の奴らが第一の功績だぞ」
諭すようにティエリが言う。そう。それはまるで、置き土産のようだった。彼がそんなトーンで話すたびに俺は、後悔と寂寥感でいっぱいになった。
「まあ、この辺が潮時だろ。あとはゆっくりやれや」
北部の三分の一くらいを取り戻した時、ティエリは告げた。
食料が不足しつつあった。
人々も戦争が続くと疲れや倦みが出てくる。動きに精度が失われ、作戦が潤滑に進まなくなる。
だから、いったん終わり。
味方してくれた騎士たちへ、感謝とともに説明する。
騎士たちも、疲れていた。反乱もしたし、町や村も荒れている。早く復興にとりかかりたかったのだ。もっと戦いたかったとうそぶきながらも、俺の言葉に頷いた。
北の国の軍にも使者を送った。その使者が、ティエリであり、文書を書いたのがデルフィーヌだ。最後の最後まで面倒を見てくれる。本当にありがたかった。
「すまなかったな」
使者に発つ早朝、俺はティエリとデルフィーヌを陣の外まで見送った。
感謝の気持ちを伝えるべきだと思ったのだが、口からこぼれ出たのは謝罪だった。
正直、何がいけなかったのか未だに解っていないが、失望されたのは理解していた。だから、これが別れだと知っている。
「……まぁ、仕方ねぇよ。これも運命だ」
しんみりとするティエリも珍しいなと思う。
俺は、彼らが見えなくなるまでそこで立ち尽くしていた。
「勘違いなさらないでくださいませ、クリストフ。あなたを愛することなど、ありませんわ」
どこからか、あの声が聞こえてきた。
思えばその言葉が全ての始まりだった。
そこから四、五年後に、ここに立っているだなんて思いもしなかった。
すっきりとした一区切りじゃないが、凡人としては、よくやった方じゃねえか?
なぁに。なんとかなるだろ。
これからも、やれることを、やるだけさ。