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Justify Paragon  作者: 伊阪証
8/11

君が為

崩壊は静かに、しかし確実に始まった。

マフィアという巨大な“影”が潰れた時、その余波は一部の裏社会だけに留まらなかった。

──富裕層。

投資家、経営者、大口の金融関係者。

これまで“関係のない顔”で蓄財してきた彼らは、突如として市場の異常に直面した。

流動性の蒸発。

信用の失墜。

“金”そのものの行き場が失われたのだ。

最初に動いたのは、機関投資家だった。

ポートフォリオの再構築。

即時損切り。

だが遅かった。


既に市場には、カルヴァン・グレアムが仕掛けた“情報の地雷”が撒かれていた。

利回り不明の不良債権。

経由先不明の資金移動。

仮想通貨に偽装された不正利益。

帳簿上は健全。

だが、どこかで必ず“繋がっている”。

金融機関は動きを止めた。

内部監査が優先され、一般市民への融資はストップ。

給与支払いも遅延し、雇用契約の再編が相次ぐ。

トリクルダウン理論は、いつだって起きない。

だが──負債と責任だけは、しっかり“下へ”流れる。

都市全体が“緊縮”を始める中、真っ先に切り捨てられたのが映画街だった。

「文化」「芸術」「娯楽」。

いずれも、“生きるため”の優先度は低い。

上下水道の保守に予算が回され、電力供給のルートが再編される中、

映画街には一つの通達が下された。

──一部公共サービスの停止。

──補助金の凍結。

──再開時期は未定。

ネオンはまだ灯っている。

だがそれは、過去の残光に過ぎない。

数日もすれば、電気代の未納で、すべてが闇に沈む。

まるで誰かが、等価交換で“街の存在”ごと捨てたかのように。

レイナはその通達を壁に貼られた紙越しに見つめ、何も言わなかった。

彼女はもう、この街を“見捨てる側”の人間になってしまっていたから。


レイナは通達の紙に背を向けると、無言のまま歩き出した。映画街の舗装はすでに補修が止まり、下水の逆流跡が乾いてまだらに残る。傾きかけた電柱、釘の外れた標識、仮設のまま放置された排気フィルター。全てが「不要」と判定され、切り捨てられた痕跡だった。彼女は路地を一つ、また一つと抜け、地下鉄の旧構造を迂回しながら南の外れへ向かう。目的地は明言されない。だが、足取りには迷いがない。

その動きを、正確に“読み取っていた”者がいた。数ブロック先、壊れたモニターの死角に潜みながら、イオは視線だけで情報を走査する。明確な指示は受けていない。通信も一切行わない。だが、レイナが次に向かう経路は予測できた。暗殺者たちも、同じようにそれを予測していた。正面からは来ない。彼らは列をなし、街路の隙間から網のように“待ち伏せ”ていた。

一人目は電源修理を装った作業員。信号制御盤の上に手をかけた瞬間、背後の高圧タンクが爆ぜ、風圧だけで骨を砕かれた。気づいた者はいない。二人目はホームレスに化けた狙撃手。瓦礫の影に潜んでいたが、誰かに仕掛けられていた赤外線トリガーに引っかかり、上から鉄骨が落ちてきた。イオは視界の隅でそれらの“結果”を確認しながら、車椅子の移動軌道を少しずつ調整する。レイナはヘッドホンに夢中らしい、屋敷一つ消し飛ばした女にとっては些細なことなのだろう。

レイナに接触してはならない。姿を見せてはならない。彼女の決断に、自分の存在が影響してはならない。イオが壊すのは、あくまで“余計な手”だけだ。街には空港が一万九千存在する。だがその中で、彼女が向かうのは“個人所有の滑走路”の一つ。過去に物資の運搬で使われていた無人区の空港。イオはすでに、そこへ向かう全ルートを確認し、危険度の高い箇所に即席の罠を仕込んでいた。偶然ではない。すべては“意図のない誘導”によるものだ。

──レイナは、知らず知らずのうちに最も安全なルートを歩いている。

だがその先に、最後の“本命”がいる。

次に仕掛けるのは、イオの側だ。

それも、レイナに気付かれないまま。


暗殺者は十二名。潜伏、待機、追尾の三層に分かれ、うち三名が“銀行の外”に集まりはじめていた。無人ATMにエラーが発生し、通りは職員と警備員を装った人間で騒然としている。だが、その“エラー”は偶然ではない。電力系統の遅延、監視サーバの再起動、入り口ゲートの開閉不良──それぞれがイオの仕掛けた“ズレ”だった。

その隙を縫うように、レイナの動線が変わった。通りの角で、彼女は不意に目を閉じる。陽光が反射しただけか、それとも疲労の一瞬か。だが、イオにとっては唯一のチャンスだった。交差点の信号が一瞬同期を失い、交通誘導が遅れる。その間に、レイナの居場所が一ブロック先へ“すり替え”られる。あらかじめ等価交換で取得していた通りの“風景”が、彼女の背後にわずかに重なり、誰もその変化に気づかない。

続けて、カフェ通りに潜伏する四名へと対応を切り替える。イオは裏路地に身を隠し、携行した空砲をひとつ、廃棄された鉄扉の内側で炸裂させた。乾いた破裂音と共に、通りを歩いていた二人が即座に銃を抜く。だが、標的はいない。そのかわり、石畳に落ちたのは──灰色のウィッグ。

映画街で使われていたもの。照明焼けし、カツラ台の跡が残った“本物の舞台道具”。等価交換で取り寄せた複数個のウィッグは、通りのベンチやゴミ箱の影、タクシーの屋根にまで分散されていた。狙撃手たちは混乱し、次第に焦りを見せる。

「報酬は一体どこに?」

どこかで誰かが呟いた。それが引き金だった。誤認。誤射。疑心と焦燥が交錯し、銃声が走る。裏路地から、イオは一歩も動かずにその騒ぎを聞き取る。銃声は六発、七発、十発と連続し、やがて一つの怒鳴り声が飛ぶ。

「レイナは俺がやる──お前らは邪魔だ!」

空気が“報酬奪取戦”に切り替わった。イオはトリガーを引かず、戦いの理由だけを用意する。どこにも姿は見せない。ただ、すべてを設計し、混乱に変えただけだった。


群衆が騒ぎ始めていた。銀行の外で起きた銃撃騒動が波紋のように広がり、周囲の通行人がスマートデバイスを握ったまま警戒し、ある者は走り、ある者は立ち止まる。逃げる者の多くは視線が下を向いており、肩をすぼめている。だが──一人だけ、逆だった。人の流れに逆らいながら、視線を上げて“探している”。


その男が誰かを探していたのか、誰かに近づこうとしていたのかは関係ない。イオの中で、既にその判定は下されていた。銃口はジャケットの内側に隠したまま、車椅子のひざ裏に固定された補助アームから、静かに自動で持ち上がる。実弾。照準は首ではなく、脇腹の奥、出血を最小限に抑えながら確実に沈黙させる部位。


一発。男はその場でよろめき、誰にも気づかれぬまま、傘の列に吸い込まれるように倒れた。誰かがつまずき、怒鳴り、流れは再び騒ぎへと変わる。

イオは端末を操作しながら、手元のインターフェースに表示された匿名ログを並べ直す。

依頼元がディープウェブ経由なら、特定の中継ノードを通過した際に発生する“接続誤差”が残る。そこから指紋を抽出し、デバイスを媒介に位置を特定、等価交換で物理的な位置にアクセスすることは不可能ではない。だが、SNS経由──いわゆる“サーフェスウェブの殺意”は話が違う。既製の暗殺テンプレート、ツール共有、名指しの報酬。そこにあるのは精度ではなく、単純な“数”だ。

暗殺が発生する理由の平均は、誰かの失言か、ただの投稿だったりする。レイナは既に、そういった群れの標的にもなりつつある。

数が多ければ、どれか一つが当たる。

数が多ければ、どれか一人が“正面から来る”。

その瞬間、通りの北端で誰かが立ち止まった。黒のジャケット。口元を押さえ、目線だけが不自然に定まっている。イオはその動作にわずかに迷いを感じた。市民か、暗殺者か。だが──それは“判断すべき項目”ではない。

迷ったときは撃て。

不満があるなら、消せ。

次の一発も、周囲の誰にも気づかれないまま終わった。弾は背後の駐車車両に吸収され、倒れた者は口元を抑えたまま、地面へ沈んだ。ジャケットの内ポケットには、未使用の合成ピストルが隠されていた。

判定は正解。だがイオは一切の感情も浮かべず、手元の表示を更新する。

残り、六名。

既に市民の中に“潜み”ではなく“溶け込んでいる”者もいる。

この作戦は、まだ終わっていない。


群衆の動きが散っていた。通りに残っていた暗殺者たちは、目立たぬよう位置をずらし始めている。イオはそれを“逃走”とは解釈しなかった。あまりにも数が多すぎた。現場の混乱に乗じた即席の殺意では説明がつかない。むしろこれは、一度“立て直している”。

思考の切り替えとともに、イオは一人の男を選んだ。すでに脳に酸素が行き渡っていない。骨盤から下が砕けており、命は秒単位で消えていく。だが構わない。イオはその男を廃工場の搬入口に引きずると、隣に倒れていた別の負傷者と内臓を入れ替えた。等価交換。血液と肺を丸ごと交換し、一方の命を延命、他方を完全に絶命させる。

拷問は簡潔だった。喉は潰さず、視覚と聴覚だけを隔離し、文字を見せて情報を取る。イオは一切喋らない。必要なのは確定だけだ。「誰が指示した」「どこから指令が来た」「いつまで続く予定か」。答えは早かった。すべて、想定通り。だが、最後の項目──「誰が利益を得ているか」に関する答えだけが、別の重さを持っていた。

スマートフォンのメモリを、指ごと切断して取り出す。通信用の暗号レイヤーを剥がし、表層では見えない通信ログを等価交換で直接閲覧する。文字列の中にあったのは、監視会社の名義、保険取引の報告、そして──俳優の署名だ。

イオはしばし、黙って画面を見つめた。

レイナの父親。

現在も複数の生命保険と医療ファンド、個人資産管理口座を利用し“紛争発生による保険リターン”を収益化している。その動員数、その精度、そして“自分が殺されることすら前提に入れた設計”──納得できた。これでさえ、想定の範囲内というわけだ。

イオは拷問対象の男の脳幹にピンを一本、差し込んだ。生体反応が断絶する。

迷いはない。

これは仕事ではない。判断だ。

その直後、北通りを一台の車両が暴走した。フロントに改造された突撃用ガード。防弾フレーム。車内には一名、カバンに詰められた火薬。方向は──レイナ。

イオはその車体の熱量と進行速度を確認し、数秒後には都市部から離れた金属リサイクル施設を選定。

等価交換。

車両の存在そのものを、その場から“消した”。

北通りで突如現れた車両が、歩行者の群れを分けるように突進してきた。フロントには増設された強化バンパー、防弾処理された窓、後部には圧縮された火薬が詰まっている。レイナに向けて最短距離を選び、蛇行もせず直進。イオはすぐに判断を下す。

──交換対象:都市部の不法駐車車両一台。

放置されたまま税未納のステーションワゴン。

車体番号は既に行政記録から削除済み、盗難車としてリストアップもされていない。

等価交換。

対象を“入れ替え”。

突撃車両は、その瞬間、何もない空気に吸い込まれるように消えた。

その場に現れたのは、サビに覆われた旧型の乗用車。動力もなく、キーすら刺さっていない。市民の目には、ただ単に“事故を起こしそうな車が消え、壊れた車が現れた”ようにしか見えない。

交換された本来の突撃車両は、郊外のスクラップヤードの中心に出現。

停止できぬまま、金属回収レールを滑り、圧縮ラインに乗る。運転席では暗殺者が叫んでいたが、誰の耳にも届かない。プレス機が作動するまでの猶予は十秒もなかった。

そして圧壊。

証拠も記録も、何も残さない。

イオは一言も発さず、ただ監視デバイスの通信を切った。


次に確認されたのは、巨大プレス機に挟まれた残骸の中、扉を蹴り破ろうとしていた男の断末魔だった。何一つ説明されることなく、ただ潰されて消えた。情報の流れは残さない。記録も残さない。イオの目的は、“レイナが気づかないまま安全に抜ける”ことだけだ。

そして今もそれは、完璧に実行されている。


空港内の照明は、夜間対応の半減モードに落ちていた。搭乗ゲートは一部閉鎖され、誘導灯とLED看板だけが点滅を続ける。レイナは搭乗手続きの必要がない個人滑走路のカウンターに向かっていた。誰とも会話しない。誰にも視線を向けない。

──その存在を、遠くから“偶然”発見した者が二人いた。

レイナを直接追っていた者ではない。街の混乱で撤退を決めた狙撃班の残りだった。ひとりはガラス越しに、もうひとりは滑走路側の監視塔から、同時に銃口を向ける。使い捨ての精密弾。発射タイミングは、完全に一致していた。

イオはそれを見ていた。モニター上、クロスラインが重なった瞬間──等価交換。

二人の放った弾丸を、軌道の中間点で“入れ替える”。

銃口から発射された一発は、交換された直後に“撃った者”の側頭部に着弾し、もう一発も、同様に逆方向から心臓を貫いた。

ガラスに血飛沫が散り、監視塔の通路に倒れた影が崩れる。

だがレイナはその音にも気づかない。誰かが携帯を落としたような、些細な衝突音にしか聞こえなかった。

そのまま制限区域へ歩く彼女を、今度は地上の“列”が狙う。

搭乗口に並ぶ観光客の間に紛れて、二人の男がわずかに腕を下ろした。

それぞれの袖に、折り畳まれたナイフが仕込まれている。

一人は背後から、もう一人は斜め前方から、タイミングを合わせて接近する──その直前、二人の座標が交換される。

等価交換。

人混みの中、互いの視界が入れ替わり、敵を探していたはずの身体が、次の瞬間“正面にいた誰か”を反射的に突き刺していた。

刃は迷わず胸骨に達し、骨の摩擦とともに肉を裂く。

それが“同業者”だったと気づいた時には、どちらも既に遅かった。

倒れる音だけが重なり、周囲の人間は悲鳴を上げた。だが、レイナの歩みは止まらない。

彼女はまだ、“守られている”ことに気づいていない。

それこそが、イオにとっての完全な成功だった。

空港内でも、イオは警戒を緩めなかった。滑走路の照明が切り替わり、管制区域のドアが開閉を始める頃、レイナはすでに誘導経路に入っていた。表向きには整然とした空港だが、監視端末の奥ではまだ数人の暗殺者が“やる気”を捨てていなかった。武器を手に持ち、最後の接近機会を狙っていた。

イオは一瞬だけ視線を宙に浮かせ、目的地を指定する。等価交換。

ターゲットの数人が、同時に別の乗客と入れ替わる。場所は発着ロビーの中央──保安検査の直前。

入れ替えられた暗殺者たちは状況が把握できず、手にしたままだった武器をその場で露出させてしまう。

周囲の乗客の悲鳴、監視カメラの検知、そして警備員の視線。

「銃だ!」

最初の叫びで、警備網は作動した。

イオはその混乱の中、乗客として混ざっていた偽装スタッフの一人のポケットから、同じ系列の小型拳銃を無人スキャン端末に転送。そこから再び等価交換を用いて“発見された場所”と“持ち込んだ経路”に接続するよう仕組む。証拠の生成。痕跡の再配置。現場再現はイオの手の内にある。

空港警備は数分で“テロ未遂”の想定を立て、滑走路の一部を封鎖。

警察との連携が始まり、通信帯域が制限される。

一部の職員が事情聴取の対象となり、内部協力の疑いも含めて捜査が拡大。

すべてが、イオの“無言の構成”によって動いていた。

その結果、空港は選別モードに切り替わった。

危険因子と見なされなかった数名が、例外的に別ルートでの通行を許可される。

レイナはその中に含まれた。

“優先”されたわけではない。ただ、邪魔者がすべて排除されたというだけの話だった。

イオは彼女の背後に現れることなく、再びロビーの監視端末から視線を外した。

彼の任務は、まだ終わっていない。

だが、レイナはもう十分遠ざかった。

残るのは“後始末”だけだ。


搭乗ゲートが閉まる音が遠くで聞こえた。視界の端で、レイナが境界の向こうに消えていく。支援は完了した。追跡者は全て排除し、空港の封鎖も誘導済み。誰にも気付かれず、彼女は脱出に成功した。ただ、それでもイオは立ち上がれなかった。

こわばった指が震えていた。関節が自分のものではないように重く、視界の端では端末の残光が滲んでいる。等価交換の連続使用で自律神経は限界を超えていた。もう一歩、あと一歩──その距離に体が応じなかった。

背中に、ごくわずかな圧を感じたのは、直後だった。

何かが触れた。風でも手でもない、刃物の“意図”だけが、皮膚を通して肺の奥に届く。思考よりも先に身体が反応し、だが遅い。刃は胸郭の内側を裂き、息よりも先に熱が逆流した。

ゆっくりと振り返るまでもなく、そこにいたのは俳優だった。マフィアを動かし、保険取引で儲け続け、レイナを通じてイオの限界までを測っていた、あの男だ。彼の動きは正確で、静かで、そして何より“当然”だった。

空港に送り込まれていた暗殺者たちは、最初からイオを狙っていた。レイナではない。脱出を支援しようとする者、それ自体を削るための陽動だった。そして最後の一撃を下すのは、他の誰でもない。本人だ。

等価交換の最大の弱点は──自己完結である。

すべてを自分の中で制御し、他者の意志を想定しない。

予測も共鳴もなく、世界のすべてを“計算で扱える”と思い込んだ時点で、それは防げない。イオはそれを、自分の血の温度で思い知らされた。


視界の隅で、レイナの背中が遠ざかる。搭乗ゲートはすでに閉じられ、最後の隔壁が降りていく。イオはまだ地面に伏していた。背中には刃の痛みが残り、肺の奥がひりついている。だが、それでも終わってはいなかった。

這いながら空港の裏手へ進み、作業区画に停められていた軽車両とスタッフ一人を等価交換で入れ替える。次の瞬間には運転席にいた。視界が水平に切り替わり、手元のハンドルとシフトノブが生々しい金属の手触りで感覚を呼び起こす。

──マニュアル。レイナの癖。無駄に拘っていた。

彼女の身体で一度だけハンドルを握った時、やたらと細かい運転手順を押しつけられたのを覚えている。

「教えたからな」

「これが出来なきゃ飛ばせない」

「楽したいならオートマにしろ」

──うるさい。だが忘れていない。

クラッチは踏めない。だが、必要な回転数とギア比さえ合わせれば、シフトは入る。

それをレイナは、身をもって見せていた。

イオは片足でアクセルを細かく操作し、エンジン音を耳で追いながら、震える腕でシフトレバーを押し込んだ。ギアは噛み合い、車体が震えながらも前に進む。肺が圧迫されて咳が込み上げるが、血を飲み込んで抑え込む。クラッチペダルがなくても構わない。エンジンと速度が合っていれば、機械は応えてくれる。

俳優の車は視界の先で旋回していた。黒塗りのセダン。既に発車しているが、完全に加速しきってはいない。

間に合う。

イオは速度を上げながら、頭を空にした。考えていては追いつけない。感覚だけで車を操る。ギアを二速に、回転数を合わせて三速に。クラッチレスの変速。タイミングを間違えばエンストするが、身体は正確にそれを覚えている。レイナの神経と身体で、一度だけ走った記憶がここにある。

視界が揺れる。肺が軋む。両腕は痺れ、脚は反応が遅い。

それでも、ハンドルは握れている。

速度は足りている。

目標は、視界の先──俳優。

あの車に、衝突させる。

躊躇はなかった。

このままぶつける。

レイナが“見逃したくなかったもの”を、自分が代わりに止める。


滑走路の先に、別の旅客機が姿を現した。予定にはない着陸。急病人の搬送。緊急通信と管制のやりとりが飛び交い、空港の滑走プランは強制的に書き換えられた。レイナの搭乗する機体は待機を命じられたが、燃料残量は限界に近く、滑走可能な距離も圧迫されていた。離陸中止となれば、次にあるのは滑走路端──その先の鉄柵と防壁だけだ。

そんな中、俳優は何のためらいもなく走行路に乱入した。警報を無視し、車両進入禁止区域にタイヤ痕を刻みながら加速する。視線はただ一点、滑走を開始したレイナの航空機の背後に向けられていた。

離陸中止がかかれば、航空機はブレーキが間に合わず、そのままフェンスへ突っ込む。だがそれを命じるタイミングを見計らうように、俳優の車は滑走機の真後ろ、絶妙な位置に割り込んでいく。狙いははっきりしていた。

──衝突誘発。

背後からの追突で、機体の制御を乱し、機首をブレさせる。

高度が上がる直前で突き上げ、機体を“飛べないようにする”。

空港スタッフは何もできない。封鎖された情報系統、混乱した通信。旅客機も急病人の搬送で降下角度を修正できず、滑走路の片端しか使えない。全ての状況が、俳優の企みに味方していた。

だが、その瞬間──もう一台の車が、走行路の外周を切るように飛び込んできた。

イオの乗った車両だった。

血まみれの手でハンドルを握り、シフトを叩き込むように押し込んで速度を保つ。既に視界は赤黒く染まり、肺の奥では血が泡立っている。それでも操作は正確だった。クラッチなしでの変速は、速度とトルクで合わせられる。今は、その“感覚”だけで車を動かしている。

俳優の車が機体に接触しようとするその刹那、イオは側面から車体をぶつけた。

斜めに侵入、車体を滑らせながら、俳優の後輪に横から衝突する角度を取る。

タイヤが浮き、フレームが軋み、双方の車がわずかに軌道を外れる。

衝撃音。

煙。

俳優の車は機体の真下から逸れ、数メートル先で滑走路脇のバリアに激突した。

レイナの航空機は揺れもせず、僅かな隙間を残して機首を持ち上げた。

タイヤがアスファルトを離れ、翼が空気を掴む。

滑走路端、フェンスのギリギリで、飛んだ。

イオは衝撃で頭を打ち、ハンドルから手を離していた。口の中に鉄の味が広がり、眼球の奥が割れるように痛む。それでも、歪んだフロントガラス越しに、空へと昇っていく機体の後ろ姿だけははっきりと見えた。

もう、何も届かない高さ。

あれは、自分のいる世界とは違う空だ。

だが──

少なくとも、墜ちることはなかった。


視界の片隅で、何かが爆ぜた。

レイナは思わず振り返る。

搭乗機が離陸する、そのすぐ後ろ──滑走路の端に、二台の車が衝突していた。

煙。火花。

歪んだボディと、崩れたフレーム。

そして、見覚えのある車体の色。

彼女の目が、その中に一つの答えを見出してしまうまで、そう時間はかからなかった。

「イオ……」

喉が震え、声にならなかった。息が詰まり、涙が一滴、視界を滲ませる。

操縦室へ駆け込み、パイロットに懇願する。

「お願い、戻って。今なら、まだ──」

だが、操縦士は首を横に振った。

「戻れば巻き込まれる。君を守るために、我々は飛んでいる。今ここで止まれば、君も死ぬ」

その言葉は、決して冷たくはなかった。

むしろ、温かすぎた。だからこそ、拒絶だった。

レイナは何も言えず、ただコックピットの外に崩れ落ちた。

背後に残された滑走路、燃える車。

そして、煙が立ちのぼる街。

あれは、イオが守った光景だ。

誰にも知られず、誰にも褒められず、それでも確かに自分のために差し出されたもの。

嗚咽を堪えきれず、彼女は泣いた。

──だがその時、イオはすでに次の手を打っていた。

車内で意識を失いかけながらも、等価交換を発動。

自分の端末から、匿名化されたデータパスを経由し、一台のラップトップへと重要な内部記録を送り込んでいた。

レイナが手にしていた小型PC。航空機内に持ち込んだそれに、イオは事前に接続認証と転送ルートを仕込んでいた。

都市の金融構造、俳優の保険取引、裏社会のマネーロンダリング、暗殺者の雇用リスト。

すべてが、そこに記録されている。

彼の生きた証でもあり、彼女に託された「続き」でもあった。

だからこそ、泣くだけでは終われない。

レイナは静かに、涙を拭った。

イオが全てをかけて残した“告発”は、いま彼女の手の中にあった。


通知は止まらなかった。

飛行機が揺れるたびに、また一通、新しいメッセージが届く。

「さっきの補足だけど」「あともう一つ思い出した」──その内容は、どこか間延びしていて、妙に軽い。

その通知は、イオからだった。短く、一言で済むような文面はなかった。どれも長かった。丁寧だった。余計な話ばかりで、何が言いたいのかはっきりしないものも多かった。けれどそれは、あまりにも“彼らしか知らない内容”に満ちていた。

最初は泣いていた。けれど何度目かの文面で、レイナは思わず苦笑していた。

「血糖値落ちてるだろ?機内食に甘いのがなかったら、ナッツでも探せ」

「この時間、君は絶対に窓の外を見る。だから、見えてる景色の話もしとく」

飛行中、レイナの端末には途切れなく通知が届いていた。無機質な着信音が、静かな機内に断続的に鳴る。誰もそれを気に留めない。彼女が何を抱えているかなど、誰も知らない。

「君の手元にある小型端末、ストレージの2階層目に“隠してある”画像ファイル、今は消していいよ。あれは予備の証明だったけど、今はもっと決定的な証拠を送り込んだ」

「この前、空港で立ち食いしてたチキンラップ、あれまずかっただろ?あれは俺じゃない。俺は本当は向かいの店を指定したつもりだった。予約の伝達がうまくいかなかった。たぶんあれ、わざとだよ。誰かが“情報を改ざん”してた」

「あと、お前、寝るとき靴脱がないのやめろ。におう」

レイナは画面を睨んでいた。怒っているのか泣いているのか、わからなかった。目を開けているのに、視界が安定しない。言葉の一つひとつが、胸に刺さるというより、背中に置かれていくようだった。急所を突かれるわけでもなく、ただ、重たい想いが積み重なる。彼の言葉はそういう類だった。

真剣で、間が抜けていて、誰にも代わりがきかない。

レイナは思った。なんでこんな、死にかけのやつが送ってくるようなメッセージじゃないんだ。

なんでこんなに回りくどくて、うざったらしい。

どう考えても、余裕がある。どこかに隠れて生き延びてて、回復しながらゆっくり文章打ってるに決まってる。

だから涙が止まって、だから少しだけ、息ができる気がした。

彼は大丈夫。

きっと大丈夫だ。

──それが間違いだとは、知らなかった。

通知は、事前に仕込まれていたプログラムによるものだった。イオは最後の力で全てを書き上げ、時間差で解放されるよう設定していた。レイナが絶望しないように。疑わないように。信じ続けられるように。すべて“先に送ってあった”。

今の彼は、どこかの暗い空間にいる。動けない。話せない。

通信端末は押収され、身体は拘束こそされていないが、外部との接触手段は封じられている。

レイナは何も知らない。彼女は、安心している。あの性格だ。今ごろ泣き疲れて眠っているかもしれない。誰かに見られないように窓の下に顔を埋めて、鼻声で「うるさい…」とか呟きながら、目を赤くして──そして、画面を抱いたまま、眠ってしまう。

イオはその光景すら想定していた。

そうなった時、何を彼女に託すべきか、どの順で通知が届くべきか、それも全部プログラムに入れていた。何を知られ、何を知られないままのほうが良いのか──最期の思考で、すべてを構成した。

彼女が受け取っているのは、“希望”ではない。

“疑似的な安心”だ。

だがそれがあれば、次に進める。だからこそ、イオは騙した。

レイナは今も信じている──彼は生きていて、どこかでこの通知を送ってきているのだと。

でも、真実は違う。

この希望は、すでに囚われている。


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