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Justify Paragon  作者: 伊阪証
7/11

曲がった柱

映画街の夜明け前。カジノの光がまだ消えず、灰色の空気の中でだけ異様な熱を帯びていた。街の喧騒はすでに夜を越えており、もはや“早朝”ではなく、“夜が剥がれきらない朝”という方が正しい。

レイナはその空気の端を歩いていた。高級車の列を迂回しながら、通りすがりの警備員に視線を寄越させない速度と角度を選ぶ。茶に染めた髪は首元でまとめられ、瞳には淡く光を遮るレンズ。人ごみの中にいても浮かない、だが誰にも記憶されないように仕上げられた“都市の衣装”だった。

ドレスコードを守るためのジャケットの裾を片手で押さえつつ、反対の手には廃棄紙袋に包まれた書類――そこに挟まれた地図の隅には、鉛筆で“10-21-6”と走り書きがあった。

その数字が意味するものを、彼女は十分に理解しているつもりだった。

施設番号。搬入記録。出入り業者名。倉庫照合コード。それらが三日前から交錯し始め、昨夜確信に変わった。カルヴァン・グレアム。表の顔は石油会社の顧問だが、裏ではマネーロンダリングの中継点――いや、違う。中心地だ。数字がそう語っている。レイナにとって、それは確実性を持った言語だった。

カジノの表口を離れ、倉庫街の裏通りに進む。建物はすべて一様に古びており、塗装が剥がれたシャッターにはどこか見覚えのある血痕のような赤いタグがぶら下がっていた。出入り口に設置された簡易スキャナーを横目に、彼女は迂回路に入る。

この区域のカメラ死角と警備の巡回時間はすでに調べてある。だが、それでも胸の奥が微かにざわついていた。

(……おかしい)

カメラの角度が違う。以前より、わずかに内側を向いている。死角のはずの場所が、今は“照準”になっている。

呼吸を整え直す。汗が出るほどの緊張ではない。だが、指先の温度が数度下がっているのがわかる。

やめようと思えばやめられる。だが、それは選べない選択肢だった。

このままでは何も終わらない。彼の影が次にどこへ向かうのか、それを止める機会はもう巡ってこないかもしれない。

(私は、ここで終わらせる)

自分にそう告げた声が、ひどく他人事のように聞こえた。

倉庫通路の最奥に、開いたままの扉がある。閉まっていたはずの場所。警備ルートの例外地点。

レイナは、一瞬だけ足を止めた。中から漂う空気が、冷たすぎる。人がいる気配はない。だが、人のいた気配はある。

レイナは目を伏せ、唇を噛み、そして踏み出した。背筋を伸ばし、荷物を押し上げ、深く息を吐く。

これが始まりで、そして終わりだ。

――そう思っていた。

その時点では、まだ。

レイナは建物の隙間に身を寄せ、静かに呼吸を整えた。かつての暗殺任務で歩いたルート。倉庫街のこの一角は、過去に一度だけ、血の匂いを運んできた風を覚えている。

その時、彼女は窓の存在を確認していた。入り口は重厚なセキュリティで封じられ、部外者の侵入は不可能。それでも、建物の側面に取り付けられた小さな換気用の窓――清掃や換気の管理用に開閉される、管理者向けの確認窓――だけは、外部から中を覗くことができる構造になっていた。

今、その窓から内部を見下ろしていた。

倉庫の中は、異様なまでに整っていた。照明の一部は点灯しており、壁際に並んだワインのラックには同じラベルが規則的に並んでいる。だが、監視映像で確認していた配置と一致しない。わずかに本数が異なり、並びの傾きが“整いすぎて”いる。

――何かを整えた痕跡。

隠蔽でも廃棄でもなく、“誰かに見せるために再配置された”とでも言うべき空気だった。埃ひとつなく、匂いもない。人の気配を消すために、全てが消毒されたような空間。

しかし、問題はそこではなかった。

レイナがこの倉庫の構造を調べたとき、正面のドアは生体認証によって封鎖されていた。解除できるのはトップ本人、あるいは彼と同等の生体情報を持つ者だけ。だが今、この内部の様子は明らかに“誰かが一度入って整えた”後だ。

(じゃあ……どうやって?)

誰が開け、誰が閉じたのか。今この瞬間、自分は入ることができない。

ならば――封鎖されたこの倉庫に一度入れた者がいた。

それは、入れたのではない。入ったのではない。等価交換。

人と人を交換し、中身だけを差し替える。

あのとき、トップは死んだはずだった。だが生きていた。ならば、どこかで“誰か”が入れ替わった。

レイナはその可能性に背筋が冷えるのを感じながら、視線を窓から外した。

ここに来たことは記録されない。誰も彼女を見ていない。だが、ここで何かが“終わった”のは確かだった。

その終わりのあとに、何が始まったのか。それを知るためには、もっと深くまで踏み込まなければならない。

だが今はまだ、その扉は閉ざされている。

――彼の名前を知る者は多い。だが、彼の“本当の仕事”を知る者は極端に少ない。

カルヴァン・グレアム。表向きは石油会社のコンサルタント。だが、その本質は、“触れたら終わり”の裏側の仕掛け人。

映像は突然切り替わる。どこかのプレゼン映像、あるいは企業PRの冒頭のような淡々としたリズム。声は柔らかく、背景には青と白の無機質な空間が広がっている。

「――こんにちは、カルヴァン・グレアムです」

フレームインしてくるのは、紺色のスーツに身を包んだ男。顔は曖昧で印象が残らない。だが声だけははっきりと脳に焼き付く。

「今回は“ある場所”で、新たな価値の再編成を行います」

カットが切り替わる。

映し出されるのは、マフィアの本拠地の一角。記録用カメラに残された短いシークエンス。幹部の一人が部屋に入り、タブレットを操作し、退出。数秒の間に何かが変わる。

――これが始まりだった。

カルヴァンは表向きの仕事を通じて、組織の財務を「再定義」する許可を得ていた。それはつまり、“誰が組織の中でどれだけの価値を持つか”を、書き換える権限を得たということ。

「価値とは、定義に過ぎません」

その声は柔らかく、まるで常識を教える教師のようだった。

「私たちが一人の人間を“トップ”と認識するのは、その者が持つ役職、発言権、承認フローに従っているからです。ですが、もしその定義を書き換えられるとしたら?」

――トップの“生体情報”は、徹底的に管理されていた。だが、その情報が“交換”された場合、システムは本人と判断する。

カルヴァンはある日、何の前触れもなく一人の幹部を訪ねた。

「トップの座を譲っていただく……それが今回の目的です」

幹部は笑って断った。次の瞬間、記録は暗転。

次に映ったのは、トップの机に座るカルヴァン。

「無理に譲っていただく必要はありません。こちらでご用意いたします」

書類が一枚だけ置かれる。サインは既に完了していた。指紋認証、網膜、声紋、全て一致。

映像はフェードアウト。

――等価交換。それは“人を人として扱わない”契約。

システムはカルヴァンをトップと認識した。物理的な身体も、権限も、帳簿上の記録も、すべてが“置き換えられた”。

本物のトップはどこへ行ったのか?今どこで、誰と、何と等価になったのか?

誰も知らない。

画面の奥で、カルヴァンの声だけが残響する。

「この世界では、“証拠”の価値は移動可能です。人と同じように、簡単に」

――あの日、会議室には二人の人間しかいなかった。

カルヴァン・グレアムと、マフィアの幹部の一人。

だが、外から見れば三人目が存在したことになっている。帳簿上の記録、監視映像、入退室ログ。すべてが「トップ本人がそこにいた」と語っていた。

実際には、トップは現場に現れていない。現れたのは“その肉体情報”を持つ誰か。幹部と“交換”された存在だった。

カルヴァンは幹部に手渡した。

一枚の書類、わずかな金、そして彼が用意した“もう一人分の空間”。

「安心してください。あなたが必要だったのは、“認証されること”だけです」

幹部の皮膚、網膜、指紋、声紋。それらをそっくり交換できる精度で、彼はもう一人を用意していた。

等価交換。

この手段は、身体の価値、データ、識別、存在の定義すら書き換える。

結果、システムはそれを“トップ”と認識した。アクセス権限、財産権、指揮権、すべてが“交換された先”に移動する。

そして元のトップは、認証を持たない“別人”となった。

「彼は、存在しないまま倉庫にいましたよ」

カルヴァンはそれだけ言って席を立った。すでにマフィアの中枢サーバーは、彼の名前を“トップ”として記録している。手動で変更されたわけではない。自動更新だ。

契約時に仕込んでおいたバックドアが発動した。マフィアの中枢コードに潜んでいた“交換前提の値渡し”が、すべてのアクセスプロトコルに波及した。

それが可能だったのは、彼が“コンサル”という立場でログインできる唯一の外部契約者だったからだ。

演算上、交換は問題なく通る。だが倫理的には破綻している。

誰もそれを指摘しなかった。交換が終わった時点で、すべてが“正常”になっていた。

倉庫のセキュリティログも、履歴も、すべて“中身が入れ替わった後”で生成された。

痕跡はない。あるのは、すでに変更された事実だけ。

カルヴァン・グレアムは、それを“成功”とは呼ばない。

「不正な取引ではありません。記録上、誰も傷ついていない」

唯一の例外を除いては。

第七話 パート5

幹部会が開かれたのは、それから数時間後だった。

議題は「トップの所在確認」――建前上はそれだけだった。だが、出席者たちは全員、薄々気づいていた。いや、わかっていた。

その中央に座っていたのが、カルヴァン・グレアム。

「ご安心ください。すでに全資産の保全は完了しています」

彼はそれだけを告げた。

動揺はなかった。むしろ、予測していたとでも言うように、幹部たちは誰一人反論を口にしなかった。理由は単純だった。

アクセスできないのだ。

本部サーバー、海外資産、武器ルート、マネーロンダリング用の暗号資産口座、それらすべての認証が「トップ本人の生体情報」でのみ解放されるように設計されていた。そして今、それに一致する存在は“カルヴァン”しかいなかった。

ログはすべて更新されている。旧トップの名義はすでに削除済みだ。

「外部との接触は制限させていただきます。疑似コードが一部誤作動を起こしており、影響が出ていますので」

その言葉に、誰も異を唱えられなかった。裏金の流れが止まり、暗号通貨の認証が回らず、武器のルートが凍結されていたからだ。

たった一晩で、グレアムは組織全体を“握った”。

それは乗っ取りでもなければ、侵略でもなかった。

ただの“更新”だった。

彼が最初に着手したのは、口座の順番と照会システムの初期化だった。その後、幹部の承認フローを一段階ずつ“自動的に”書き換えた。

誰も気づかないうちに、幹部の決済は「カルヴァン・グレアムの確認」を通さないと実行できない仕組みになっていた。

「順序通りに処理しているだけです」

彼はただ微笑む。

“本人ではない”という指摘は意味をなさなかった。等価交換によって、トップ本人と同じ情報を持つ存在が残っている。見た目も、声も、署名も、網膜も、すべて一致する存在が――この席にいる。

マフィアの“上層部”はその時点で全員が理解していた。反発しても無駄だと。

「これより、全プロジェクトは新たな指揮体制で進行します」

誰も頷かない。だが、誰も否定しない。

カルヴァン・グレアムは、確かに“そこにいた”。

彼こそが、証明された“トップ”だった。

カルヴァン・グレアムは、夜のオフィスに一人でいた。

カーテンは閉ざされ、照明は点いていない。だが部屋は明るい。壁一面に設置されたモニターが、都市の財務と裏社会の動きをリアルタイムで映し出しているからだ。

椅子にもたれたまま、彼は目を閉じていた。

――計画は完了した。組織の中枢は抑えた。権限、金、構造、すべてが手の中にある。

だが、ここが終点ではない。

「……まずは、ロンダリングの回線整理からだな」

呟きは、誰に向けたものでもない。だが明瞭だった。

オフショア企業のルートは、すでに30カ国以上に分散されていた。だがそれでは遅い。今後はもっと“瞬時に”“隠れて”“通過する”経路が必要だ。

――オンラインカジノ。

資金の出入りが不定期で、金額の変動も激しい。税務処理の抜け穴は多く、通信国籍さえ操作できれば追跡も困難。

「石油も、ギャンブルも、本質は同じだ。価値を掘り出し、見えない場所で流通させる」

彼の言葉は、どこか楽しげですらあった。

銀行よりも早く、法律よりも巧妙に。組織の下部に“合法”を演出し、実際には“中間処理層”として運用する。

――洗浄された金は、合法の顔を持つ。

――合法の顔は、次の投資を引き寄せる。

――投資は、“信用”という名の疑似資産を生む。

「これが“拡張”だよ。トップに立つっていうのは、そういうことだ」

カルヴァンは椅子を軋ませ、ゆっくりと立ち上がった。

モニターには、都市の地下ネットワークが表示されている。光の点が、蜘蛛の巣のように広がり、繋がり、そして静かに点滅を始めた。

「次は、“信用の裏側”にあるモノを、見せてもらおうか」

彼は歩き出す。光の中へ、次の市場へ。

グラスの縁を指先でなぞりながら、カルヴァン・グレアムはゆっくりと息を吐いた。

夜明け前の静けさが、部屋の空気を凍らせている。まるで、何かの終わりを祝うような空間。

机の上には、どこにでもあるようなワインボトルが一本だけ。ラベルは剥がされ、瓶口は封印されている。

「毒だったよ、あれは」

ぽつりと、彼は呟いた。

「最初から、そう作っていた。誰が飲んでも問題ないように、でも特定の酵素にだけ強く反応するように設計してね」

モニターには過去の記録。倉庫の中で飲み交わされる、あの夜の映像。

「幹部の一人が、それを“持ち込んだ”ことになってる。記録上は、ね」

カルヴァンはファイルを一つ開く。セキュリティログ、搬入記録、人物動線。すべて編集済み。

映像のタイムスタンプには加工が施され、ワインの運搬経路は“消されている”のではなく、“書き換えられている”。

「追跡不可能だよ。だって最初から、“なかった”ことにしてあるから」

彼は笑わない。ただ事実を淡々と述べるだけ。

「誰がどこに何を持ち込んだのか。そんなもの、記録と“信用”さえ操作できれば簡単に消せる」

ボトルを一度、傾けて見せる。中身は空だ。だがその空は、殺意が通った空だった。

「……これはね、“信用”に毒を混ぜたって話なんだ」

そして彼は瓶を静かに棚へ戻す。

「だから、もう誰もあの夜の真実に辿り着けない。あれは、ただの事故だ。誰が死んだかすら、正確には分からない」

淡々と処理されていく死。

それは記録の中で静かに崩れ、誰の記憶からもこぼれ落ちる。

カルヴァン・グレアムは、そんな“痕跡の消滅”すら楽しんでいるようだった。

都市の金融圏に、異変が走ったのはほんの数日後だった。

ある投資家が気づいた。「資金が動かない。いや、止まっているんじゃない。吸われている」

影で動いていたのは、カルヴァン・グレアムが仕掛けた新たな流通モデルだった。

複数のカジノ事業、マネーロンダリングを隠蔽する合法ベンチャー、暗号通貨による即時決済――全てが並列に起動し、圧倒的な資金流を築き上げる。

その影響は、国債市場すら揺らがせた。

通貨が“信用”を基に成り立つなら、その信用が一夜で偏った方向に流れ始めたのだ。

――これはただの拡大ではない。

もはや“貨幣経済への侵食”だった。

そして、ある男が気づいた。レイナの父。俳優、資産家、そして裏社会とも微かに繋がりを持つ存在。

彼は知っていた。これは偶然ではない。

「奴は、通貨そのものを武器にしている」

画面に映るのは、グレアムが新たに開設したオンライン金融プラットフォーム。口座、仮想通貨、資産運用、そして匿名カジノ。

すべてが合法の“顔”をしている。

だが、内部では追跡不能な回線が構築され、証券データは逐次暗号化されている。

「このままでは、資産の価値が“消える”」

レイナの父は資産避難を開始した。スイス、マルタ、そして旧来のアジア圏銀行へと。

だが、それでも足りない。

このままグレアムの拡大が進めば、次に起きるのは“紙幣と投資の崩壊”だ。

「……殺すしかない」

彼はその一言を、誰にも聞かれない空間で口にした。

ディープウェブの暗部にアクセス。暗殺依頼掲示板、実行者との仲介AI、監視回避型仮想通貨での入金窓口。

彼は、全ての条件を満たす人物を探し始めた。

――だがその顔には焦りがなかった。

むしろ、冷静だった。

レイナの父は分かっていた。このゲームに勝つためには、ただの“正義”や“私怨”では足りない。

“経済そのもの”を武器にした男に対抗するには、“物理”で殺すしかない。

彼は静かに画面を閉じた。そして、仮面を被るように、いつもの俳優の顔に戻った。

最初のリークは、匿名の掲示板だった。

『旧式の帳簿が破棄されていない』

『組織の資金ルートが未だに紙で管理されている』

『ある幹部が仮想通貨を不正に移転した記録がある』

――それらは断片的で、信用に足るとは言い難かった。だが、連続して投稿された瞬間に、それは“確信”へと変わる。

カルヴァン・グレアムの手による情報爆撃が始まったのだ。

次々と暴かれる裏金の帳簿、幹部の行動ログ、密輸ルートの通話記録。一切の出所不明。

「誰が裏切った?」

マフィア内部に緊張が走る。だが、問題は“誰が”ではない。“どこから”も“どうして”も、分からないのだ。

外部から狙われていることは明らかだった。だが、それを証明する材料はない。

なぜなら、カルヴァンが“外部”として振る舞っているからだ。

幹部たちは次第に沈黙する。疑い、萎縮し、そして何も言えなくなる。

その混乱のさなか、別のリークが同時に投下される。

火薬の製造記録。製造工場のロット番号。消えた薬物の輸送データ。

その情報は、ある程度の調査を経て、明確な“構造”を暴き始める。

――あの爆破は、偶然ではない。

――誰かが、意図して、火薬と薬物を別ルートで“使い分けた”。

そして、最後に公開されたのは、“火薬の使用記録がマフィアと映画街双方に関連している”という証拠。

火薬の出所、管理番号、搬入先。

それは、マフィアの一部と、映画街に属するとされる制作関係者の名と一致した。

火薬が“何のために使われたか”は書かれていない。だが、明らかだった。

爆破、暗殺、あるいは、そのどちらも。

――そして、その情報の発信元。

レイナ。

彼女はそれを、顔も名前も持たない仮想人格を通じて行った。

彼女にとって、それは“復讐”ではない。ただの“帳尻合わせ”だった。

誰が損をしようと関係なかった。マフィアも、映画街も、どちらも守る理由がなかった。

情報は燃え広がる。社会の中に沈んでいた罪の構造が、静かに浮上していく。

世界が、壊れていく音がした。

その建物は、最初から壊れるように設計されていた。

――拠点の柱。

外観からは分からないが、内部の数本は意図的に半壊状態で残されていた。負荷が一定量を超えれば、内部構造から崩れるように。

設計者は、元のマフィアのトップだった。

それは“等価交換”の限界を試すため。どれだけ情報や存在をすり替えても、物理の崩壊だけは覆せない。この建物は、最初から“交換不可能な罠”だった。

そのため、トップは頻繁にこの拠点を離れていた。

――そして、レイナはそれを知っていた。

イオの邪魔になるのは嫌だった。それだけが理由で、彼女は黙って観察を続けた。

頻繁な拠点離脱。計算された構造劣化。それが何を意味するか、レイナは自分の中だけで導き出していた。

そして、行動を開始する。

以前すり替えた“ワイン”。それが元から毒ワインだったなら――その中身をしまった“便”もまた、毒性を持っているはず。

「なら、それを使えばいい」

レイナは倉庫に潜り込んだわけではなかった。だが、準備は整っていた。

手に入れていた便。毒素が含まれていると仮定し、それを最大限に活用する。

拠点の複数の部屋。書類室、仮設会議室、私室、武器庫。どの部屋も重要な意味を持つ――そして、布や床材、カーペットやクッションという“吸収しやすい”物品が大量に存在する。

彼女は、それぞれに微量の毒を“流した”。

量は少ない。気づく者もいない。だがそれは“遅効性”。徐々に体内に蓄積し、判断力を鈍らせ、嘔吐、発汗、幻覚を引き起こす。

何が原因か誰も分からない。

レイナは、すべてを“偶然”に見せかけた。誰も彼女を疑う理由がない。彼女はただ、黙々と作業員に紛れて一度すれ違っただけの影だった。

その後、グレアムは異変に気づく。

部下が倒れる。資産が回らない。認証が滞る。

毒素に染まったのは、人間だけではない。書類、記録媒体、端末、現金、権限用のバッジ――組織の血液に該当するすべてが“汚染された”。

グレアムは命令を出す。

「全資産を隔離しろ。影響を受けていないものだけを抽出しろ」

だが遅い。命令を受ける人間が、もう機能していない。データは移行中に破損し、電子鍵は動かず、最終権限者すら意識が混濁していた。

マフィアは、崩壊していく。

構造的に。物理的に。人間的に。

カルヴァン・グレアムはようやく気づく。

――この崩壊に、等価交換は通用しない。

誰が、何と、何を交換したとしても。崩れた柱は戻らない。崩れた信頼も、汚れた資産も、戻ってこない。

それは、“影響力”ではなく“現象”だからだ。

拠点の一角で、レイナはただ静かにそれを見ていた。

笑わない。言葉もない。彼女は、イオのために動いた。

自分一人で、“等価交換なし”で全てをやり遂げた。


街が崩れつつある音を、レイナは遠くに感じていた。

あのマフィアの拠点が、毒と混乱に飲まれ崩壊していくさまを、彼女は実際には目にしていない。それでも、あの組織がもう元には戻らないという確信が、彼女の中に静かに根を張っていた。

レイナは一人、夜明け前の高架歩道に佇んでいた。高層ビルのガラスに自分の影が映る。肩越しに振り返るが、誰もいない。

――イオ。

名前を口に出すことはなかった。でも心のどこかで、彼の存在を感じていた。

(大丈夫、だよね……)

根拠のない自信ではなかった。あのイオのことだ、必ず何かを掴んでいるはず。それでも、彼のことを想ったのは一瞬だった。レイナは、自分が決して後戻りできないところに立っていることを理解していた。

同じ頃。

イオは旧市街の裏通りにある古いカフェの裏口から、車椅子で静かに小さな廃ビルに入り込んでいた。

そこは彼が一時的な拠点として利用している場所だった。電源は不安定で、窓ガラスは割れ、机の脚も歪んでいる。だが、そこに設置されたポータブルモニターは、いくつものセンサーと連動していた。

レイナの消息が掴めない。それが、何よりも彼の頭を占めていた。

「……無事でいてくれよ」

そう呟いたその瞬間、ニュースの速報が画面に映った。

『映画街付近の地下構造物にて、大規模な毒物による被害が確認――詳細は不明』

映像には、崩れた柱、倒れた構成員たち、そして情報が錯綜する中で動く匿名の人物。顔は映らない。だがその動き、その所作。

「……お前か、レイナ」

イオの口元が、ほんのわずかに緩んだ。

(ああ、やっぱり。君は止まらない)

だが、その直後、イオの表情は再び険しくなる。安堵と同時に、距離の深さを痛感していた。

今の自分と彼女の間に、埋まらない“溝”がある。それは、仲違いという単語では表しきれない。

(もう一度会っても、あの子は俺を拒むだろうな)

イオはそっとデータモジュールを操作した。画面に表示されたのは、無数の通信の断片。そしてその中に、ある不自然な情報の流れを見つけた。

「……俳優の影、か」

彼は即座にデータを抽出し、パターンを解析する。圧縮された映像ログ、暗号化された支払い履歴。どれも痕跡は薄い。だが、それでも“異質な何か”があることは確かだった。

「この流れ……殺し屋だな」

等価交換。情報を情報で置き換えることで、裏側の構造を見る。それは、イオが誰にも明かしていない才能の一つだった。

彼はすでに察していた。俳優が、カルヴァンとは別の形でこの混乱に乗じようとしていることを。

――殺意が来る。

イオは静かに椅子から離れ、地下の逃走経路を確認する。

(迎え撃つ準備をしなきゃな)

彼の動作に迷いはない。だがその表情には、一瞬だけ複雑な影が差した。

「ほんとは、俺が動かない方が……あの子も楽だったかもな」

声は、誰にも届かない。レイナにも、届かない。

だが、二人は確かに同じ空の下で、違う闘いを選んでいた。


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