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Justify Paragon  作者: 伊阪証
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並行と垂直

夜明け前の街は、まだ人の気配が薄かった。冷たい空気の中で、街灯だけが淡い光を残している。レイナはその光の下を軽やかに歩きながら、手に抱えた古びた資料の束を何度も読み返していた。五話のあの爆殺劇から一晩しか経っていないはずなのに、彼女の顔には妙な高揚感が浮かんでいた。

「……ねぇ、イオ。今回のは面白そうだよ。いつもよりずっと。」

車椅子に座ったイオは、横目でレイナを見上げる。その灰色の瞳はいつも通り冷静だが、目の奥にだけほんの僅かに興味の光が宿っていた。

「面白い、ね。お前がそんな言い方をするとは。」

レイナは笑って肩を竦める。普段なら皮肉混じりの返しにすぐ不機嫌になるのに、今日は違った。彼女の足取りは軽く、声にも珍しく弾みがある。

「だってさ、今度のターゲット、あの石油会社のコンサルでしょ? パパの役員席に噛んでる。ってことは……」

「父親への道が、開けるかもしれないってわけか。」

「うん。今までのよりずっと“大きい”気がする。」

イオは小さく頷き、車椅子のハンドルをわずかに動かした。レイナは歩幅を合わせる。二人の間に流れる空気は、これまでの緊張した逃避行とはまるで違っていた。

「それに、イオと一緒なら何だってできる気がするんだよね。」

ふと、そんな言葉が零れる。レイナは自分でも照れくさそうに笑った。イオは答えなかった。ただ、その声を一度胸の奥に沈めるようにして、視線を前に向けた。

古びたオフィスビルの一角に潜り込み、二人は薄暗い廊下を進む。埃っぽい匂いと、時折聞こえる機械の低い唸りが、ここがまだ現役で使われていることを告げていた。イオは無言で扉を開き、仮設の調査室へ入る。

「じゃあ、始めるか。」

レイナは机の上に資料を広げ、イオはノートパソコンを起動する。スクリーンに走る光が、薄暗い部屋を一瞬だけ照らした。

「……この感じ、好きだな。」

レイナがぽつりと呟いた。

「何がだ?」

「こうやって、二人で計画立ててる時間。なんか、普通の仕事してるみたいじゃない?」

イオは口元だけで微かに笑った。

「普通の仕事で爆殺の計画を立てる奴はいない。」

「細かいことは気にしないの!」

レイナは笑いながら資料を捲った。その指先が止まったのは、古い会計データの中に紛れ込んだ一枚の暗号化ファイルだった。

「……これ、何?」

無邪気な声色のまま、レイナはイオにモニターを傾ける。イオは一瞬だけ目を細め、そのファイルにカーソルを合わせた。

カチ、という軽いクリック音。数秒だけ、画面に奇妙なノイズが走った。医療用語。出生時。遺伝情報。瞬間的に流れ込んだ単語の断片を、イオは即座に理解して、同じ速度で閉じた。空気が、微かに重くなる。

「イオ?」

レイナが首を傾げる。まだ声は明るい。だが、その奥にほんの少し、不安の色が滲んだ。

「……今は、ターゲット優先だ。」

イオの声はいつも通り冷静だった。だが、その“間”だけが、普段と違っていた。

「ふーん……。じゃあ、後でね。」

レイナは軽く笑って、また資料に目を落とした。明るさを取り戻そうとするかのように、わざと声に弾みを乗せる。

「ほら、これ。コンサルとパパの繋がり、やっぱり濃いよ! もしここを潰したら、絶対に……」

その声を、イオは黙って聞いていた。背筋を伸ばし、無機質な画面を見つめるその横顔に、感情は一つも浮かんでいなかった。レイナは気づかないふりをした。気づきたくなかった。部屋の中に、パソコンのファンの音だけが流れる。

夜明け前の映画街は、まるで息を潜めた獣のようだった。華やかなネオンはほとんど落ちて、街灯だけが淡い光を路面に伸ばしている。昨日までの熱狂が嘘のように消え、代わりに、どこか湿った匂いと金属の音だけが漂っていた。

「……静かだけど、なんか、生きてる。」

レイナは無意識に呟いた。足音が石畳に吸い込まれていく。横で車椅子のイオが無言で頷く。

「金が動いている街は、昼より夜明け前の方が呼吸している。」

その声は、事実だけを切り取る刃物のようだった。二人が歩く路地は、表の映画街とは別の顔をしていた。巨大な映画館の裏手、搬入口。剥がれかけたペンキ、軋む鉄扉、無骨な男たちが無言でケースを運び込む姿。夜明けの冷気に混じるのは、火薬とも塗料ともつかない重たい匂い。

「……あれ、見て。」

レイナの視線の先で、男の肩から滑りかけたケースの蓋がわずかに開き、中から灰色の包み紙が覗いた。その一瞬をイオは逃さない。

「火薬だな。演出用に見せかけた“何か”。」

イオが低く呟いた瞬間、レイナの口元に笑みが浮かんだ。恐怖ではない。昨日の爆殺劇と同じ“重さ”を嗅ぎ取った確信の笑み。

「……これ、昨日の匂いがする。」

「だが同じではない。質量が違う。……別口だ。」

イオの声は冷たかった。“足がつかない”という言葉を出さずとも、二人とも理解している。昨日の火薬とは違う供給源。国家か、それ以上の“誰か”が背後にいる。レイナは無意識に街全体を見渡した。華やかな看板の残光、搬入口を行き交う影、遠くで聞こえるトラックのブレーキ音。そこに自分の過去の断片が重なった。……そして、視界の隅に焼け焦げたポスターが映る。

レイナは足を止めた。指先が震える。壁に貼られた古びた宣伝用ポスター。色褪せた紙に、まだ幼さを残した自分が笑っている。

「……あの頃の……」

イオが視線を向ける。レイナは乾いた声で笑った。

「母さんが死んだ後の映画のやつ。……あの時、“可愛い”って言われた。」

声がひどく遠かった。母の死と同時に、泣くことも怒ることもできなくなった。だから「喜び」だけを過剰に演じた。それが演技力として評価され、“堅実”と呼ばれた。

「……変わった、んじゃない。あの時は、“無理やり”だったの。」

レイナは自嘲するように肩を竦めた。その表情に、イオは一切の感情を出さず短く記録するように言った。

「質量の変化だ。母親の死が、お前の“表現”を変えた。」

「表現じゃない、“演技”だよ。……生き残るための。」

言葉は冷たく、街の空気に溶けた。搬入口でケースを運ぶ男たちの姿が、過去と今を無理やり繋ぐ。イオは一度だけ目を細めた。運ばれていくケース、その質量、その匂い。昨日の爆薬と似て、しかし違う。

「……別口だ。昨日の火薬とも、薬物とも。足がつかない量。」

レイナは息を呑み、それから笑った。笑みの奥に、高揚と恐怖と快感が同居していた。

「これを追えば……“誰か”にぶつかる。」

「……お前の父親も含めて、な。」

イオの声が静かに落ちた。レイナの瞳がわずかに揺れる。昨日の爆破で揺らいだ感情が、再び形を持つ。

「……やっぱり、面白くなってきた。」

レイナはポスターから視線を外し、搬入口に目を向けた。可愛いと評された自分。堅実と称された自分。全部、この街と、この裏金の流れに繋がっている。イオは答えず、車椅子のブレーキを静かに外した。朝の冷気に、火薬の匂いが微かに混じっている。その匂いは、昨日の残滓ではなく、これから暴くべき“誰か”の存在を告げていた。

マネーロンダリングといえば一般企業だ。犯罪の獲物ではない。99.9%は「普通の金」を通すための管にすぎない。その流れは税制と投資の隙間を縫い、合法の皮を被ったまま社会に溶け込む。……だが今回の数字には、異物の匂いがあった。

映画街の地下整備区画は、表の華やかさとは別の呼吸をしていた。薄い蛍光灯が油膜を照らし、金属と古い塗料の匂いが低く漂う。遠くでケースが床を擦る音が響いた瞬間、レイナは反射的に足を止めた。

「……この匂い、昨日のと……。」

横で車椅子のイオが短く目を細める。

「似ている。だが同じじゃない。」

端末に走る数字の列は、一見すればただの映画制作費だった。だが桁の揺らぎ、取引間隔の妙な均一さが自然ではない。イオは無言で画面をスクロールし、わずかに息を吐いた。

「アメリカ本土じゃ、この量は書類で即バレる。……これは海を通ったな。」

ログに滲んでいたのは、断続的な波のリズム。少量ずつ、何度も繰り返された輸送の痕跡。オフショアから運び込まれた火薬の軌跡だった。レイナはスクリーンを覗き込み、唇の端をわずかに上げる。

「演出用の匂いじゃない……。施設一つくらい、軽く吹っ飛ばせる。」

イオは頷かず、ただ質量を測るように数字を見つめていた。その目は分析の冷たさの奥に、微かに沈んだ影を落としている。

「……なんで映画街にこんなのが混ざってるの?」

レイナの声は抑えきれない高揚を帯びていた。答えは返ってこない。代わりにイオが指先で示した先、スクリーンの末端に“顔”が浮かぶ。投資家の名義。俳優のタグ。表の華やかさと裏の血の匂いを繋ぐ線。レイナは息を詰めた。知らない名前と、知っている名前。その中に一つ、見覚えのあるものがあった。胸の奥が冷え、同時に熱を帯びる。言葉にならない感覚が喉を塞ぐ。

父親。

頭の中でその単語を形にした瞬間、数字がただの記号ではなく“血”のように見えた。街の空気が一瞬だけ重くなる。火薬の匂いと金の重さ、そのすべてが過去と現在を繋ぐ線に変わっていく。途中で途切れた取引記録がいくつも並んでいた。同じ金額の繰り返し。一定のリズム。全体を束ねていた“手”が消え、慣性だけで動いている残骸。計画が延び、崩れ、最後に残ったのはただの火薬の山。崩壊の痕跡を見ているだけなのに、胸の奥で何かがざわついた。レイナはスクリーンから目を離し、薄暗い地下の空気を吸い込む。昨日の爆破の残り香。母の死を境に変わった自分の演技。数字に刻まれた父の名。全部が、重なり合っていく。

地下倉庫は冷気と鉄の匂いに満ちていた。コンクリートの壁が湿気を吸い、古びた木箱の表面がわずかに汗ばんでいる。地上の映画街からは想像もできない、光を拒絶した空間だった。イオの車椅子が静かに床を擦る。壁際に積まれたケースに手を伸ばした瞬間、空気の重さが変わる。レイナが息を呑み、慎重に蓋を開けた。灰緑の塊が並んでいた。演出用の模造火薬と同じ形状、しかし匂いが違う。金属と薬品の刺すような香りが一気に広がり、狭い空間を支配する。イオは言葉を出さず、指先で質量を測るようにそっと触れた。重い。演出ではなく、現実を吹き飛ばすために積み上げられた質量。

「……施設一つなら、軽く。」

レイナの背筋が震える。昨日の爆破を越える重さが、映画街の地下に眠っていた。資金の数字が現実の形になった瞬間、世界が別の色を持つ。ケースの脇に貼られたタグにイオの目が止まる。企業名、制作ライン、投資家。地上の華やかさと、この破壊の山が一本の線で結ばれる。レイナはタグに目を落とし、無意識に呟いた。

「……あの野郎だ。」

倉庫の静けさが重く沈む。イオは何も言わなかった。否定も肯定もなく、沈黙が全てを答えに変えた。イオの視線が火薬の山を横切る。整いすぎた比率。揺らぎのない均衡。自然ではありえない精度で積み重ねられた“重さ”。まるで見えない誰かの手が、意図的に均したように。レイナもその異様さを感じ取ったのか、低く呟いた。

「……誰かが、合わせた……?」

返事はない。イオの瞳はケースの中身から逸れない。重すぎる沈黙が答えを示していた。レイナは火薬に視線を落とし、奥歯を噛み締めた。ここで止まればまたイオを巻き込む。この重さを動かすのは自分の役目だ。守りたい言葉は喉で消え、残ったのは短い決意だけだった。

「……私がやる。」

倉庫の空気がわずかに震えた。イオは目を閉じ、わずかに頷いた。遠くで街の音がかすかに届く。地上の華やかさと、この破壊の質量は、皮一枚隔てただけで同じ街に存在していた。

映画街の明かりがまだ消えきらない時間帯。夜と朝の境目の空気の中、レイナは建物の陰に身を寄せた。眼前にあるのは表通りから一歩外れた無骨な構造体。外観は倉庫のように地味だが、夜の熱気をまだ纏った街の空気に、この場所だけ異質な重さがあった。

「……ここだ。」

イオの声は低い。カジノの監視カメラと資金フローを突き合わせて、映画街近くのマフィア拠点を割り出した。表向きは古い倉庫、だが出入りの影を見れば違うとわかる。金属製のドアを見上げたまま、レイナは息を整えた。中からかすかに響く多国籍の声。英語、フランス語、時折混じる別の言語。その混ざり方に、レイナは違和感を覚えた。

「……普通じゃない。」

マフィアというものは、大抵が一国の人種で固められた保護組織だ。血縁や土地、文化を共有する者たちが互いを守るために作る閉じた網。それが常識だ。だが、ここは違う。壁の向こうで交わる声は統一感がなく、それでいて奇妙に規律を保っている。人種や血ではなく、金と情報だけで繋がる「銀行」の匂い。イオは無言で端末に指を走らせた。ドアのロックが一瞬だけ軽く鳴り、質量が揺れる。レイナはわずかに肩をすくめ、狭い隙間から内部を覗いた。薄暗い廊下の奥、整然と並んだ端末と換金用の機材。現金の山ではない。そこにあるのは数字とデータの塊だった。

レイナは思わず呟いた。

「……本当に“銀行”みたい。」

足を踏み入れた瞬間、空気が肌に貼りつく。金の匂いはない。だが、確かに重い。物ではなく、数字そのものの質量。昨日見た火薬のデータと同じ線が、ここでも脈打っている。イオの目が鋭く光った。端末の画面に映る資金ルートが、火薬の数字と重なる。演出用ではない量の破壊が、ここを通して動いている。

「……やっぱり。」

レイナは小さく息を吐いた。街の表と裏、カジノと映画と火薬、その全てがここで繋がっている。タグの中に俳優の名前が浮かび、胸がわずかに疼く。父親の影が、この空気に混ざっている気がした。イオは沈黙を崩さないまま、車椅子を前に進めた。内部を一つ一つ測るように視線を走らせ、目的の部屋を探す。

重たい扉の前でレイナは立ち止まる。手のひらにじわりと汗が滲んだ。これを越えた先に、標的がいる。昨日決意した言葉が再び胸に蘇る。

「……私がやる。」

その声は小さかったが、倉庫の冷気を震わせるには十分だった。守るための意図は喉の奥で潰れ、言葉にはならない。ただ硬い決意だけが残った。イオは一瞬だけ視線を上げ、無言で頷いた。遠くで聞こえる多国籍の声と、機械の低い唸りが重なる。映画街の華やかさとは別の世界。その扉の向こうで、次の幕が開こうとしていた。

倉庫の壁は夜の湿気を吸い込み、冷えた空気が肌に張り付く。外の街はまだ眠らない熱を持っているはずなのに、この場所だけは息を殺していた。レイナは壁際に身を寄せ、耳を澄ませた。低い声が幾重にも重なっている。護衛は外にもいる。声の響きから推測して、人数は五。動きに統一性がない。血や家族では繋がっていない、金だけで結ばれた人間たちの気配。

「……今。」

耳の奥にイオの声が落ちる。短い指示。レイナは息を止め、足元の小石をそっと蹴った。石と壁のわずかな摩擦。次の瞬間、外にいる護衛の視線が一斉に逸れる。イオが等価交換で“音の重さ”をずらしたのだ。レイナはその隙に入り口へ滑り込む。扉の前に立つと、わずかな圧迫感が全身にかかる。質量の均衡を崩すようにイオが囁く。

「……三、二、一。」

重たいはずの扉が、羽のように軽く開いた。音は一切しない。レイナは無言で中へ踏み込んだ。倉庫の中は、金の匂いではなく酒の香りで満たされていた。重厚な木箱が整然と並び、そのほとんどに深紅の封蝋が貼られている。レイナは一歩近づき、ラベルを指でなぞった。年代物のワイン。一本で都市の小さな劇場が買える額。これだけの本数が一度に動けば、金の流れは桁を変える。ラベルに刻まれた輸送ルートと年代が、数字の網を形作っていくのが分かる。

「……これ。」

言葉は息に近かった。ワインの質量が、マネロンの金額を正確に測るための“計算式”になっている。これを掴めば、金の全貌が見える。耳の奥でイオが短く言った。

一瞬、視界が揺れた。意識が沈み、冷たい水に落ちる感覚。次の瞬間、レイナの身体を動かしているのはイオだった。指先の動きが変わり、息の深さが違う。ポケットから細い瓶が取り出される。透明な液体がわずかに揺れた。イオはワインボトルの口元に触れ、音もなく中身を揺らす。毒ではない。神経を麻痺させ、しばらく動けなくするための調整。護衛たちを“使い物にならなくする”だけの正確な量。液体が赤に混じる瞬間、イオの目が細くなった。ワインの中の質量を測り、その値を頭の奥で金額に置き換える。静かで、冷たい計算。

背後の扉がきしんだ。護衛が戻ってくる。イオは動じない。ワインを元の位置に戻し、瓶を袖に隠した。レイナの身体がわずかに息を吐き、そのまま壁際の影に溶ける。数秒後、倉庫に足音が響いた。重い声。コルクが抜かれる音。グラスが触れる乾いた響き。その直後、低い呻きが重なった。膝が床を叩く音。グラスが転がり、ワインが石床に赤い筋を描く。イオは振り返らない。視線はただ、揺れる液体と数字の線を追っていた。

「……これで、分かる。」

呟きは感情を持たない。ワインはもう計算式に変わった。金と血の匂いが同じ重さで倉庫に漂う。外の声が静かになる。標的の息が止まったかどうかは、確認する必要すらなかった。目的はすでに果たされた。レイナの意識が奥から浮かび上がる。視界が一度揺れ、身体が自分のものに戻る。足元の赤を見ても、彼女は一言も発しなかった。胸の奥で決意だけが固まる。

「……私がやる。」

その言葉は、守りたい想いを隠したまま、倉庫の冷気に溶けて消えた。

倉庫の空気がわずかに揺れた。入れ替わりの深い水底で、レイナは意識の奥から周囲を覗いていた。視界は遠いが、確かに見える。外の気配。暗闇の中、低いエンジン音。倉庫脇の通路に停まる黒い車両。護衛用の無骨な装甲。レイナは一瞬で違和感を掴んだ。

「……違う。」

胸の奥で声が漏れる。倉庫に入れるのはトップただ一人。そのルールは事前に把握している。だが、そのトップはさっきの時間に確かに帰宅したはずだ。では、あの車両は何だ。

「……多分、その幹部……裏切ってる……!」

水底の意識が揺れ、イオの冷徹な操作にわずかな乱れが走る。倉庫の外から足音が響く。複数の声、互いに押し殺した低い囁き。イオは瞬時に状況を読み、無言で退路の計算を始めた。組織の空気が変わる前に離脱する、それしかない。その時、レイナの意識が別の光を捉えた。倉庫の隅に置かれた古い端末。わずかに点滅するインジケーター。イオの指先が動く前に、レイナはその存在を強く意識した。

あれ……監視カメラ?

遠くの視界が一瞬で近づく。複数の映像が並ぶ。街角、倉庫の外、そして——ひとつ、異質な映像。画面の端に、人影。顔は見えない。ただ、歩き方、肩の傾き、輪郭。その一瞬で、レイナは背骨を冷たくした。

「……撮る……!」

意識の奥で叫び、遠隔でスクリーンをキャプチャする。画像が端末に落ちる瞬間、外の声が近づいた。扉に手がかかる音。イオが全てを察知し、レイナと同時に動く。データを隠し、毒の残滓を消し、退路の空気を一瞬で“軽くする”。入れ替えの回路が静かに反転し、レイナは自分の身体に戻った。

足音を殺し、倉庫を抜ける。車椅子の微かな音も、夜気に紛れる。黒い車両の影が通路に沈む中、二人は一言も交わさずに街の奥へと消えていった。背後で短い怒声が飛ぶ。組織内で何かが崩れ始めていた。レイナは胸の奥でデータの重さを確かめながら、低く息を吐く。誰に向けた言葉でもなかった。ただ、その囁きは倉庫の冷気よりも鋭く、夜を裂いた。

路地は湿った夜の匂いに沈んでいた。倉庫からの逃走の余熱がまだ肌に残っている。足音は出さない。出す必要もない。イオの車椅子は暗闇の奥で止まっていた。振り返らない。それでもレイナは、その背中に自分の言葉が届くことを知っていた。

演技だった。徹底した、女優としての顔。感情は一滴も表に出さない。ただ冷たい視線だけをイオに向ける。――なのに。頬から顎にかけて、わずかな震えが走る。怒りじゃない。恐怖でもない。悲しみだった。これ以上は、巻き込めない。ここから先は、私が前に出なきゃ。そのためには……。

「……ここから先は、私がやる。」

それだけ。声は硬く、冷たい。守りたいという本当の意図は、喉の奥で潰れた。イオの方を見ない。振り返らず、影に溶ける。背を向けて初めて、目尻が熱を帯びた。涙が頬を伝い、顎を震わせる。ごめん。その言葉は声にならず、夜に飲まれた。

冷たい路地の空気が胸を締めつける。車椅子のブレーキを握る手に力が入らない。レイナは何も言わない。ただ立っているだけなのに、圧が重い。息を吸おうとして、肺が拒絶する。声を出そうとして、喉が潰れる。彼女の目を見た。無機質なはずの視線に、かすかな揺れ。

――拒絶。

そう思った瞬間、心臓が沈む音がした。自分の罪が関係を壊した。それ以外の解釈は出てこない。なのに。これでいい。これで、レイナは自由になる。都合のいい言葉で、自分を縛る。それが唯一の支えだった。視界が滲む。心が折れる音を、自分で聞いた。手を伸ばそうとした。動かない。ただ、雫が落ちる。声は出ない。泣き声だけが、自分の存在を証明した。レイナの姿はもうない。空っぽの路地で、涙だけが夜に落ちた。

街の奥、別の路地で。レイナも泣いていた。互いに互いが見えない場所で、同じ夜に泣き続けていた。誤解したまま。都合よく、優しく。それでも、それを受け入れるしかなかった。

夜はまだ重かった。街の灯りは落ちきらず、映画街の外れでレイナは一人、足を止めていた。湿った石畳に靴底が吸い付く感触が、やけに現実を強調する。思考の中に浮かぶのは養母の顔だった。怒りに満ちた目、吐き捨てるような言葉、手の感触。擁護できる余地などない。あの家で過ごした日々は、確かに地獄だった。

――それでも。

耳の奥にあの声が残っている。倉庫の中で拾った、かすれた呼吸。『……あの子は……産んじゃいけなかった……でも……離れさせるしか……』真実がどうであれ、その声音は虚勢ではなく、崩れかけた人間の必死さだった。虐待と憎悪の中に、わずかな「守りたい」が混じっていた可能性を否定できなかった。

「……憐れな人。」

声は小さく、夜気に溶けた。守るために壊し、壊すために支配し、そして全てを失った。どれだけの理由を並べても、彼女は加害者でしかない。だがその奥にあったものを、完全に無視できるほどレイナは冷たくなれなかった。

足元の石畳に視線を落とす。反射的に思い浮かぶのはイオの顔だった。あの路地で、彼女を追い込んだ瞬間。演技のはずだった。徹底して感情を殺したつもりだった。けれど頬が震え、喉が詰まったのは隠せなかった。

「……私が、やったんだ。」

言葉は硬く、逃げ道を潰す杭のように落ちた。イオの目に映ったのは、きっと“拒絶”だ。自分の罪で壊した。だから全部背負う。胸の奥がひどく痛むのに、涙は出なかった。深く息を吐く。考えるべきは次だ。情報を繋ぐ。影響力を掴む。これ以上、イオを巻き込まないために。頭の中に浮かぶ名前。石油コンサル。資金の流れに混じっていた最初の偽情報の発信源。父親の座に近い椅子。全てを繋ぐ線。

「……ここからは、私がやる。」

呟きは誓いだった。誰に聞かせるでもなく、夜の底に沈んでいく。足を踏み出すたびに、過去が遠ざかるようで、同時に重さが増していく。養母への憐れみも、イオへの負い目も、全て抱えたまま。それでも進む。この道を選んだのは自分だ。街の遠くで風が鳴った。冷たい空気の中、レイナは顔を上げた。目の奥には決意しかなかった。

静まり返った部屋に電子音だけが響いていた。端末の画面には倉庫の取引ログ、火薬の動き、そして崩壊しつつある組織の資金フローが並んでいる。イオは無言でスクロールし、最後の線を見つめた。数字の終端は、映画街近くのマフィア拠点。ここを潰せば、この街を覆っている全ての線が途絶える。火薬、資金、養母の件——すべてがこの一点を通っていた。

「……ここを断てば、証拠は消える。」

声は冷たく落ちた。頭の奥でレイナの顔が浮かぶ。追い詰められた路地、震えた顎。その一瞬に見えたものが拒絶だったのか、別の何かなのか、イオにはまだ答えが出せない。それでも計算は明確だった。この組織を潰せば、レイナの問題は“片付く”。全ての矛先は消え、彼女は自由になる。そう結論づけるしかなかった。端末の横に置かれたワインの小瓶に視線を落とす。赤い液体の重さが、資金の桁を示していた。推定された金額は常軌を逸している。演出のための数字ではない。倉庫で感じた“整いすぎた重さ”が、胸の奥で再び疼く。あれは偶然か、それとも——。イオは目を閉じ、深く息を吐いた。

「……これで、終わる。」

呟きはあまりにも小さく、そして空虚だった。その瞬間、誰もいないはずの部屋の空気が微かに揺れた。まるで、見えない誰かが耳を傾けているかのように。

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