隠し子と隠し事
劇場を満たしていた拍手と歓声が、異様な静寂に変わった瞬間を、イオもレイナも決して忘れられないだろう。スポットライトの光が消えた舞台には、まだ温かい血が飛び散り、そして「演技」と勘違いした観客の歓声が残響のように反響していた。
「……行くぞ。」
イオの声は冷たく、短い。車椅子のブレーキが解除され、舞台袖から一気に裏口へと向かう。レイナの意識はまだ震えていた。怒りと達成感、そして抑えきれない高揚が混じり、心臓の鼓動が耳の奥で響く。
裏口を抜けると、湿った夜風が全身を包み込む。石畳に返り血が点々と落ちる音が、やけに鮮明に聞こえた。イオはその音を無視し、冷徹に、路地裏を選んで進む。どこかで誰かが叫んでいる。報せを聞きつけた警備か、それとも騒動に気づいた野次馬か。いずれにせよ、時間はない。
「撒けるか?」
「……問題ない。」
イオは短く答えたが、その瞳はすでに次の問題に向いていた。あの女――レイナの養母。舞台に居合わせ、あの光景を見た。返り血と証拠、そしてあの場の混乱。今はただ混沌に飲まれているが、治癒が終わり冷静になった時、彼女は必ず「吐く」。そのリスクを、イオは理解していた。
「……やっぱり、今のうちに。」
レイナは声を震わせる。怒りと焦燥が混じったその声は、夜の湿気を震わせるようだった。
「駄目だ。今は無理だ。証拠が残り過ぎている。」
イオの言葉は鋭い刃物のようだった。レイナは唇を噛み、押し殺した声を漏らした。
「……じゃあ、どうするの。」
イオは答えなかった。ただ、車椅子を止め、夜の路地を見渡す。街の遠くでパトカーのサイレンが響く。まだ距離はあるが、確実に包囲は狭まっていた。
「火薬が要る。派手にやる。」
「……そんなもの、どこから?」
イオはゆっくりと息を吐き、周囲を確認する。元手となる質量が、足りない。爆殺するには、ただ火薬を用意するだけでは駄目だ。「人一人」を吹き飛ばすだけの力を、誰にも怪しまれずに準備する必要がある。
「映画街のセットだ。」
その一言に、レイナの目がわずかに見開かれた。
「映画用の……?」
「舞台と同じ場所で用意される“安全な爆薬”。演出用とはいえ、量は十分だ。質量さえ合わせれば、等価交換で“本物”に置き換えられる。」
イオの声は淡々としていた。冷静であり、迷いはなかった。
夜の街を抜け、二人は倉庫街へと向かう。映画の撮影用倉庫は、見た目こそ無骨だが、中には無数の小道具やセット、そして爆薬の模造品が眠っている。イオは車椅子のまま、入り口に指先を伸ばし、小さく呟いた。
「……開いた状態と交換。」
錠前が静かに解ける。扉は音もなく開いた。
中は暗く、古い木箱と鉄の匂いが混じる空間だった。レイナは息を呑む。並べられた小道具の中に、火薬を模したケースが積まれている。イオは車椅子のブレーキを固定し、慎重にその一つに手をかざした。
「発火しないように……。慎重に。」
質量が揃い、空気が微かに揺れる。模造品の中身が、一瞬で別物に置き換わる。淡い金属の匂いと化学薬品の気配が、空間に漂った。レイナは思わず息を呑む。
「……これで、本物。」
イオの額には、珍しく汗が滲んでいた。等価交換は完璧だが、発火リスクをゼロに抑えるための調整は神経を削る。車椅子の上で、彼女は小さく肩を落とした。
「やっと……やっと、終わらせられる。」
レイナの声には、高揚と怒りが混ざっていた。イオは彼女を見上げ、冷たい声で制した。
「終わらせるためには、準備を整えることからだ。焦るな。」
レイナは何も言わず、唇を噛みしめた。その目には、怒りと期待、そしてほんの少しの恐怖が宿っていた。
倉庫の外に出ると、夜風が火薬の匂いを薄めていく。街の遠くでまだサイレンが鳴っていた。イオは視線を前に向け、短く呟いた。
「これで……始められる。」
レイナは静かに頷いた。二人の影が重なり、暗い路地に溶けていった。次の一歩が、すでに破壊の匂いを孕んでいることを、二人とも理解していた。
暗い部屋に、古いモニターの青白い光だけが揺れていた。イオは無言で車椅子を前に進め、埃を被った端末に手をかざす。指先が触れた瞬間、凍りついたデータベースが軋むように動き出した。古い電子音が低く鳴り、過去の記録が一枚ずつ浮かび上がる。
「……ここだ。」
スクリーンに映し出されたのは、養母の名が刻まれた入退室ログ。病院の廊下、深夜の時間帯。そこには確かに彼女の痕跡があった。だが、次に再生された監視カメラ映像には、誰も映っていない。空っぽの廊下と、静かに閉じるドアだけ。
イオは一度目を細めた。指先でデータを繰り返しなぞり、数秒間の「空白」を確認する。魂ではなく、質量でもなく、ただ存在そのものが一瞬だけ抜き取られたような痕跡。
「……薬か。」
低く呟き、別のファイルを開く。そこには病室のメモ、投与リスト、そして暗号のような短い通信記録。規則的に打たれた文字列が、イオの脳内で意味を形作っていく。
「神経安定剤……依存性……。」
読み進めるうち、断片が繋がった。精神不安定な兄弟たち、繰り返し投与された痕跡、そして隠されていた現金の動き。全てが一本の線になる。
さらに深部へと進むと、別の記録が現れた。文章ではなく、音声ファイル。再生ボタンを押した瞬間、低くかすれた声が部屋に流れた。
『……あの子は……産んじゃいけなかった……でも……離れさせるしか……』
言葉は途切れ途切れだった。だが、十分だった。イオは背筋をわずかに強張らせ、再生を止める。耳に残った声は、冷たさではなく、必死さを孕んでいた。
「……離れさせるための虐待、か。」
端末の光の前で、イオの目がわずかに揺れた。情報を整理するたび、レイナの憎しみと、この記録の乖離が鮮明になっていく。彼女が求める「復讐の正当化」は、今この瞬間に崩れかけていた。
長い沈黙の後、イオは小さく息を吐いた。
「……見せるわけにはいかない。」
カーソルが動く。削除の確認ウィンドウ。彼女の指が一瞬だけ止まる。それは逡巡ではなく、罪の自覚だった。そして、静かにキーを押した。
画面が暗転する。記録は音もなく消え、残ったのはわずかな余熱と、胸の奥に沈む重みだけ。
背後でレイナの足音がした。振り返ったイオに、彼女は無邪気な笑みを向けた。
「……何か分かった?」
イオは一瞬だけ目を閉じ、無機質な声で答えた。
「記録は……壊れていた。機械の故障だ。」
レイナは首をかしげただけで、それ以上は追及しなかった。彼女の中では、復讐という炎がまだ真っ直ぐに燃えていた。何も知らないからこそ、迷いなく進めるその背を、イオは黙って見つめていた。
消えたデータの断片が、頭の中で何度も再生される。削除したのは情報だけ。罪は、残ったままだった。
舞台の裏側に潜む倉庫は、ひどく静かだった。古い木材と鉄の匂い、舞台で使われる小道具の甘い塗料の匂いが混じり、重たい空気を作り出している。レイナは、埃をかぶった木箱をどかしながら、火薬セットを詰めたケースを見つけた。
「……これ、映画用のダミーだよな?」
イオの声は低い。車椅子のブレーキを軽く押し、箱の重さを確かめる。
「ダミー。けど、質量はある。本物と等価交換するには十分。」
レイナは振り返らずに答える。灰色の髪が肩にかかり、微かな光を反射する。
「元手は? 何を差し出す?」
「……それが問題。」
イオの目が暗闇に慣れ、倉庫に積まれた物たちを一つ一つ測る。古びた照明、錆びた鉄パイプ、舞台装置の残骸。どれも軽い。足りない。
レイナは木箱に腰を下ろし、短く息を吐いた。
「……私の国じゃ、こういう準備をしてるだけで死刑だからね。」
冗談めかした言葉に、イオは笑わなかった。ただ、その声の奥にわずかな震えを感じていた。
「レイナ。」
「なに?」
「……お前がこうしてるのは、あの人のためだけじゃないだろう。」
レイナは答えなかった。だが、その沈黙は肯定だった。憎しみだけではない。解放への渇望。支配からの離脱。彼女はそれを言葉にできないまま、火薬ケースに指を伸ばした。
イオはその横顔を見つめる。彼女は協力者であると同時に、加害者でもある。レイナのために動く、それが全てだ。だからこそ――本当の情報を削除した罪が胸に重くのしかかっていた。
「……さっきの記録、どうだった?」
レイナの問いに、イオはわずかに間を置いた。
「監視カメラは……なかった。病院にいた形跡だけ。だが映像は欠けている。」
「……そう。」
レイナはそれ以上聞かなかった。イオの胸が痛む。真実を言えない。
(お前を守るためだ……俺が決めたことだ……)
沈黙の中、二人は舞台の設置場所に視線を向けた。イオは車椅子を進め、床に図面を広げる。
「ここに爆薬を仕込む。舞台中央、観客席に背を向けた瞬間に起爆できる。……ただ、火薬の量が多すぎる。」
「いいじゃない。派手に吹き飛ばしたい。」
レイナの声には迷いがなかった。その無邪気な残酷さが、イオの胸を締めつける。
「……お前のためにやってるんだ。忘れるな。」
「分かってる。だから私は迷わない。」
そのやりとりが、奇妙に優しく響いた。憎悪と救いが同居する空間で、二人の影が重なり合う。
イオは静かに告げた。
「……これで、もう後戻りはできない。」
レイナは頷いた。目の奥に宿る光は、恐怖ではなく決意だった。
倉庫の外、夜の街がざわついていた。遠くでサイレンの音がする。だが二人は動じなかった。舞台は整い、復讐は始まろうとしている。
イオは思った。
(これは彼女のため……でも、俺の選んだ罪だ。)
舞台裏の空気は、異様なほど冷えていた。客席から漏れ聞こえるざわめきとは対照的に、この狭い空間だけが切り取られたように静まり返っている。金属の棚、古い木箱、埃を被った大道具。その隙間に、イオとレイナは身を潜めていた。
イオの膝には、軍用規格の金属ケースが置かれている。ロックを外すと、中から鈍く光る灰緑色の塊が姿を現した。C4爆薬。そしてその横に、透明な液体が封じられた細長いチューブ。ニトログリセリンのブースターだ。揮発した微量の匂いが、冷たい舞台裏にじわじわと満ちていく。
「……本当にやるんだね。」
レイナの声は低いが、その奥にわずかな期待が混じっていた。
「もう、やるしかない。」
イオは短く答え、ケースからC4を取り出す。手袋越しでも、質量の重さは確かに伝わってきた。
設置する場所を選びながら、イオは車椅子のキャスターをわずかに動かした。鉄と床の擦れる音が、やけに大きく響く。彼女はその音に一瞬だけ目を細めた。失敗は許されない。ここでの一手は、すべての決着に直結する。
「派手にいけるよね?」
レイナは舞台の中央を指差した。その目は、恐怖ではなく、むしろ高揚感に濡れている。
イオは答えず、まず一点にC4を押し付ける。指先で固形の感触を確かめながら、ニトロのチューブを慎重に繋げていく。わずかな衝撃でさえ致命的になるそれを扱う手は、普段の冷徹な動きからは考えられないほど繊細だった。
「……量が多い。」
呟きは思考の漏れだった。C4の比率、ニトロの濃度、どれもが“破壊”ではなく“消滅”に近い値を示している。質量を計算するイオの頭の中で、数字が赤く警告を放っていた。
「これじゃ……壊すだけじゃ済まない。」
自分で口にした瞬間、その言葉が胸を締めつけた。
「何が?」
レイナが振り返る。その無邪気な声が、イオの心を突き刺す。
「……いや、問題ない。」
平静を装って答える。しかし、彼女の指先はわずかに震えていた。
二つ目、三つ目とC4を設置するたび、舞台裏の空気が重くなる。ニトロの匂いが濃くなるたびに、イオの胸に罪悪感が沈殿していく。これはただの暗殺ではない。彼女は知っていた。この一撃が、人を、関係を、そして自分たちの“形”さえも壊しかねないことを。
「イオ、早く。舞台、もうすぐ始まる。」
レイナの催促に、イオは最後の配線を繋ぎ終えた。
赤い非常灯が起爆装置を照らす。冷たい金属のスイッチは、指先に小さな冷たさを残した。
レイナがその光景を見て、満足げに息をつく。
「これで……終わりだね。」
イオは答えなかった。視線は爆薬ではなく、レイナの横顔に向けられていた。彼女の目に宿る期待と高揚感。それは今のイオには痛烈すぎた。
「……ああ。終わらせる。」
最後に呟いたその声は、誰にも届かないほどの小ささだった。
揮発したニトロの匂いが、静かな舞台裏に満ちていた。それは破壊の予兆であり、彼女たちの未来の行方を示す匂いでもあった。
重苦しい沈黙の中で時間だけが流れていた。舞台上では開演のざわめきが高まり、観客たちの期待が会場全体を包んでいた。しかし舞台裏では、全く別の「幕開け」が始まろうとしていた。
イオは車椅子に身を預けたまま、起爆装置を見つめていた。冷たい金属の感触が指先に重く残る。レイナはその横で、まるで舞台に立つ役者のように息を整えていた。彼女の表情には恐怖はない。代わりに、長い年月を経てようやく掴む「終わり」への期待が宿っていた。
「……準備はできた?」
レイナが小さく問いかける。声は震えていない。
「……ああ。」
イオは短く答えた。しかし、その声の奥には、誰にも知られてはならない迷いがあった。
その時だった。イオの耳に、わずかなノイズが混じった。爆薬の設置時に仕込んだ盗聴機が拾ったのは、舞台から少し離れた部屋での微かな息遣い。掠れた声が、電子ノイズに混じって届く。
「……足りない……また……薬が……。」
それは養母の声だった。虚勢を張り続けてきた彼女の、剥き出しの弱さがそこにあった。薬の不足で、声はかすれ、呼吸は荒い。
イオの胸に、鈍い衝撃が走った。脳裏に浮かぶのは、ここに至るまでの断片。精神の均衡を失い、虐待という形でしか手放せなかった女。産んではいけないと知りながらも、離婚して娘を産ませた決断。そして――今、薬物に縋ることでやっと生きている現実。
「……イオ?」
レイナが不思議そうに覗き込む。イオはとっさに装置のノイズを操作し、盗聴の記録を消去した。
「……機械の故障だ。拾った音が歪んでる。」
「ふぅん……まあ、もう関係ないよ。」
レイナは微笑んだ。彼女の目は迷いなく、舞台の方向を見据えている。その高揚感が、イオの胸をさらに締め付けた。
起爆装置のスイッチに、イオの指が触れる。ニトロの揮発した匂いがわずかに濃くなった。指先は冷たいが、心臓だけが異様に熱い。
「イオ、やろう。」
レイナの声は、まるで合図のようだった。
「……分かった。」
その一言と共に、スイッチが押し込まれた。
刹那、舞台全体が白い閃光に包まれた。音は遅れてやってきた。轟音、振動、そして観客の悲鳴。熱風が舞台袖まで吹き抜け、ニトロの鋭い匂いが焦げた木材の匂いと混じり合う。
客席が混乱の渦に沈む中、レイナは微動だにせず、その光景を見つめていた。頬には恐怖ではなく、確かな満足が浮かんでいる。
イオは目を逸らさなかった。轟音と炎の中で崩れ落ちていく舞台。その奥で、確かに何かが終わった。そして同時に、取り返しのつかない何かが始まった。
「……これで、解放されたんだ。」
レイナが小さく呟いた。その声は震えておらず、ただ静かに、深く沁みとおる。
イオは答えなかった。爆風の余韻と罪悪感が、胸を満たしていた。彼女の瞳は、崩れた舞台ではなく、レイナの横顔に向けられていた。
「……ああ。解放、だな。」
その言葉だけが、炎と煙の中で、重く響いていた。
爆音が消えた街は、まるで息を止めたかのように静かだった。ガラス片がぱらぱらと落ちる音が、夜気の中で異様に大きく響く。
イオは車椅子の上で固まっていた。C4を起爆した指はまだ冷たい。耳の奥で爆風ではない“声”が残っている。
「……足りない……薬が……」
盗聴器が拾った最後の音。爆発前、養母がかすかに吐き出した声。その一言が、イオの胸に重く沈んでいる。
薬……治療じゃない、維持だ。精神を繋ぎ止めるための……
イオの呼吸が浅くなる。背筋を伝うのは恐怖ではない。正当化したつもりの行為が、一瞬で“ただの殺人”に変わる瞬間だった。
「……イオ?」
背後でレイナが呼ぶ。その声にはまだ高揚感が宿っていた。復讐を果たした安堵、解放の喜び。その全てが、イオの罪悪感を強くする。
「……機械の誤作動だ。録音はノイズ混じりで、何も……」
自分でも驚くほど平静な声。だが、肘掛けを掴む指先は白くなっていた。レイナは気づかない。気づかせてはいけない。
「これで……全部終わったんだよね?」
レイナの声は震えていなかった。
「……ああ。終わった。」
その一言が、刃のように心臓に突き刺さる。終わらせたはずの行為が、まるで新しい罪の始まりのように響く。
廃墟となった建物から離れる途中、イオは何度も振り返った。爆煙が夜に溶けていく。そこには何も残っていないはずだった。それでも耳の奥で「足りない……」が繰り返される。
「イオ? もう行こう。目立つ。」
レイナが車椅子を押しながら囁く。
「ああ……分かってる。」
分かってる。だからこそ、消した。証拠も、声も。全て。
だが、罪悪感は消えない。自分の魔術でさえ置き換えられないものがあると、イオは初めて理解した。
夜風が頬を撫でる。街灯の下、レイナの影が長く伸びる。その横でイオは思う。
私達は正当化した。だが――その正当化は、いずれ私達自身を呑み込む。
爆発から数日後。街はまだざわついていた。夜ごとに更新されるニュースは、どれも同じ写真を繰り返し流す。瓦礫と煙、そして“偶然”巻き込まれたとされる名士の名前。
レイナは、タブレットを手に笑っていた。
「……やっぱり、動いた。」
指先でスクロールする度に、各メディアの記事が目に飛び込む。ニュースの文面は違えど、全ての根底には彼女が仕掛けた「仮説」が潜んでいた。
「舞台装置会社の内部抗争」「SNS上での株主操作」「報復の可能性」
どれも事実ではない。けれど、疑うには十分な匂いを持たせてある。
「……本当に楽しい。」
声に出してしまうほど、胸が高鳴っていた。怒りと復讐だけでここに来たはずなのに、今の彼女は違う。人を動かす。世界を揺らす。その感覚が、全身を痺れさせていた。
「レイナ、やり過ぎるな。」
背後でイオの声がした。車椅子のブレーキが静かに鳴る。
「やり過ぎ? むしろ足りないくらいよ。」
振り返りもせず、レイナは軽く笑った。彼女の指は、既に次のメディアへとメールを送っていた。
今度はラジオ局のパーソナリティ。次はオンラインの匿名掲示板。その次は投資家向けの非公開フォーラム。
「全部繋げるの。全部、同じ方向に。」
指先が踊る度に、情報は増幅し、形を変え、疑念として膨れ上がる。レイナはその流れの中に、自分の心が高揚していくのを感じた。
「……楽しんでるな。」
イオの言葉には皮肉が混じっていたが、レイナは否定しなかった。
「うん。楽しい。」
正直すぎる答え。その瞬間だけ、イオの瞳にわずかな陰りが宿った。
この感覚は、いずれレイナを壊すかもしれない。
だが、今は止めない。止められない。
夜、ホテルの一室。レイナは窓際でタブレットを置き、静かに息を吐いた。街の灯りが遠くに瞬いている。
「……これで、もう戻れないね。」
声は小さかったが、笑みは消えていなかった。彼女は復讐者ではなく、もう別の何かになりつつあった。
イオはその背中を見ながら、心の奥で呟いた。
お前は今、影を動かす者になったんだ。
レイナの仕掛けた情報は、静かに、だが確実に家の内部を侵食していた。豪奢な屋敷の一室、重苦しい空気の中で兄弟たちが顔を揃えている。テーブルの上には父の財産目録、そして複製された出生証明書のコピー。
「……どういうことだ、これ。」
長男が紙を握りつぶすように掴み、低く唸る。
「知らないわよ、私だって初めて見た!」
次女が声を上げた。その目は、兄弟ではなく敵を見る目だった。
きっかけは小さな種だった。
レイナはその種を撒いた後、ただ静かに観察していた。「自分は養母の子じゃないかもしれない」──その疑念は、兄弟たちの間に瞬く間に広がった。
さらにレイナは、その仮説に「別の兄弟もそうかもしれない」という火種を加えた。情報源は曖昧でいい。疑う視線と、声のトーンだけで十分だった。
「誰の子なのかはっきりさせよう。DNA検査を――」
「そんなことしたら……!」
「隠したいことでもあるのか?」
テーブルを叩く音、声が重なる。一度崩れ始めた信頼は、もう戻らない。
レイナは廊下の影からそれを見ていた。瞳に宿るのは怒りではない。満足に近い何か。
「……これで、あの家も終わりね。」
背後で車椅子の音。イオが静かに呟く。
「……やり過ぎだ。」
レイナは笑って答える。
「やり過ぎなきゃ、壊れないのよ。」
兄弟たちの争いはやがて「母親」の存在へと集中した。虐待、冷遇、支配。その全てが一斉に溢れ出す。
「俺たちは、道具にされてたんだ!」
「誰の子だろうと関係ない! こんな家は――!」
怒号と悲鳴。崩れゆく家族。
だが、その場を一瞬で静寂が覆った。低く響く声が、全てを止めた。
「……くだらないな。」
振り返る兄弟たち。そこに立っていたのは、数年ぶりに姿を見せた父だった。
「この程度で騒ぐなら、いっそ財産は私が回収しよう。」
兄弟たちは言葉を失った。離婚したはずの父が、まだ決定権を持っているなど誰も思っていなかったのだ。
レイナは影の中で静かに息を吐いた。
……やっぱり。
これは偶然じゃない。父はずっと動いていた。ヴォルペの件で金が揺れる前に、家の力を整えるために。
「……私はただの道具。」
声は小さかった。だがイオには十分届いた。レイナは振り返らず、ただ前を見据えた。
「……イオ、次は、もっと深くまで壊すよ。」
イオは答えなかった。ただ、その横顔を見つめていた。
夜の屋敷は、戦場の後のように静まり返っていた。先ほどまで兄弟たちの怒号が響いていた広間は、今は不自然な沈黙に包まれている。中央の椅子に座る父は、全員の視線を一身に受けても微動だにしなかった。
「……結局、全員が同じ穴の狢だ。」
低く響く声が、空気を震わせる。
レイナは廊下の影からその様子を見ていた。父の瞳には感情がなかった。怒りも喜びもない、ただ計算だけが宿っていた。
……やっぱり、全部仕組まれてた。
兄弟たちが自壊するのを待っていたのは父だ。ヴォルペの資金ルートが揺れる前に、家を「整理」するために。全てが、最初から予定に組み込まれていた。
「財産は私が預かる。」
父の声は冷たく、宣告のようだった。
「お前たちには、何も残さない。」
兄弟の一人が叫ぶ。
「……ふざけるな!俺たちは、母に言われた通りに――!」
その瞬間、父の瞳がわずかに細くなった。
「母? ……あれは“母親”じゃない。」
その言葉は、レイナの胸を刺した。誰もが凍りつく。父は立ち上がり、ゆっくりと兄弟たちを見渡した。
「お前たちは、誰一人として“実の子”じゃない。必要だったのは、器だけだ。」
息を呑む音が重なった。
「……じゃあ、私は?」
レイナの声が自然と漏れていた。影から現れたその姿に、父の瞳が一瞬だけ揺れた。
「お前は……特別だ。」
レイナの胸に、怒りとも恐怖ともつかない熱が広がった。
「特別? ……道具として、でしょ。」
父は答えなかった。ただ、その沈黙が全てを肯定していた。
イオは車椅子の上からそのやりとりを見つめていた。これが……この家の“愛”か。
レイナは、ゆっくりと前を向いた。
「……じゃあ、これで決まりね。私は、私のために壊す。」
その言葉に、父の瞳が一瞬だけ細くなり、次の瞬間には元の無表情に戻っていた。
屋敷を出た夜風は、重く湿っていた。レイナは深く息を吸い、吐き出す。
「……これで、いいんだよね。」
隣でイオが小さく呟いた。
「いいかどうかは……お前が決めることだ。」
レイナは答えなかった。ただ、胸の奥に残る冷たい決意を確かめるように、拳を握った。
…それは、隠した事実に釣り合うものだろうか、前提も何もかもが間違っている様な気さえする。自分はダメだ、自分は間違いなくクズをした。バカをやった。
・・・そして、イオは翌日、レイナに見捨てられる事になる。それを薄々察知していたのにも関わらず、唐突に起きたのだ。