針のむしろ
夜の都市は、まるで昼間の顔を捨てた別の生き物のようだった。舗道の石畳に映るネオンは、溶けたガラスのように揺れ、遠くから響く車のエンジン音や誰かの笑い声が混じり合い、一つの塊になって街を包んでいる。湿った夜風には、香水とタバコと、どこか鉄のような匂いが混じっていた。それは、人間の欲望が、物理的な質量を持ってこの街に満ちているかのようだった。
レイナは無意識に肩をすくめた。初めて踏み込むこの都市の中心は、肌に張り付くほど濃密で、息を吸うだけで胸の奥がざわめく。故郷の、広大な自然の中で育った彼女にとって、この過剰なまでの人工的な熱気と匂いは、一種の異物感を伴うものだった。
「……これが、映画じゃなくて現実の“舞台”……。」
思わず呟いた声は、自分の耳にさえ小さく響いた。横で車椅子のイオは無言のまま視線を上げ、ビルの隙間を縫う光と影を眺めていた。灰色の瞳は感情を見せず、それでも確かに“何か”を測っていた。彼女は、この街を、風景ではなく、膨大な情報の集合体として捉えているかのようだった。
巨大なネオンの門をくぐると、熱と音が洪水のように押し寄せてきた。自動ドアが閉まると同時に、外の世界は切り離され、ここだけが異質な島のようになる。スロットマシンのけたたましい電子音、歓声とため息、硬貨のぶつかる音、そしてシャンデリアから降り注ぐ微細な光の粒。すべてが混ざり合い、脈打つように空間を満たしていた。レイナはほんの一瞬、足を止めた。絨毯は分厚く、靴底が沈み込むたび、何百人もの欲望と後悔が吸い込まれているような感触があった。その重さが、物理的なものとしてレイナの身体に圧し掛かる。
「……暑い。空気が重い。」
「金と欲望で満たされると、どこもこうなる。」
イオの声は、熱を拒むように冷たかった。車椅子の肘掛けに手を置きながら、天井の監視カメラを一瞥する。その目は観光客の好奇心ではない。センサーの赤外線、電子ロックの周波数、配線の流れ、情報の軌跡──全てを等価交換の魔術の視点で読み取っていた。
「セキュリティが硬い。物理的な侵入を防ぐだけでなく、内部のネットワークも強固に構築されている。だからこそ、ここで試す。」
イオは、レイナに、今回の目的を淡々と告げた。彼女にとって、このカジノは、ただの賭博場ではなく、等価交換の魔術の限界を試す、格好の実験場だった。
「魂へのアクセス権限の等価交換に比べれば、この程度の情報操作は容易い。データは質量が軽い。魂という巨大な情報塊に比べれば、砂粒にも満たない。」
イオは、自身の魔術の理論を簡潔に説明した。等価交換の魔術は、物質だけでなく、情報やデータも操作できる。しかし、その操作には、質量に応じた負荷がかかる。魂の入れ替わりという、人類史上最も重い質量を扱う魔術に比べれば、電子データは、取るに足らないほどの負荷でしかなかった。
二人はルーレット台に近づいた。ディーラーの手元でボールが跳ね、金属の盤を叩く音が空気に伝わる。レイナは緊張で掌にじわりと汗を感じた。イオの意識がレイナを介して盤面を撫でる。微細な空気抵抗、盤面の傾き、ボールの軌跡。全てが重さの数字に変換され、イオの脳内で完璧なシミュレーションが展開される。
「そこに賭けろ。」
イオの指示は、一言だった。レイナは、言われるがままにチップを置いた。ボールがポケットに落ちる。赤。ディーラーがチップを払い出す。周囲の客が驚きの声を上げる。次も赤。三度目も赤。イオの指示は、一度たりとも外れなかった。歓声が上がり、周囲の視線が二人に集まる。レイナは無言でチップを積み上げた。心臓の鼓動が、ルーレットの回転音に重なる。
「次は……勝負そのものを消す。」
イオの言葉に、レイナは息を呑んだ。
「……え?」
ブラックジャックのテーブル。配られたカードは、どう見てもレイナが負ける展開だった。イオは淡々と囁いた。
「等価交換は物だけじゃない。“事象”も動かせる。これはその実験。」
ディーラーがカードをめくろうとした、その瞬間。イオの魔術が発動した。世界がわずかに軋んだ。レイナの手札は、まるで最初から存在しなかったかのようにテーブルから消えた。ディーラーの目が一瞬止まり、喉が小さく鳴る。彼は、目の前で起こった超常現象を理解できなかった。勝負は成立せず、賭け金だけが残った。
「……今の、何?」
レイナの問いに、イオは淡々と答えた。
「存在の重さをすり替えただけだ。カードという物質、そして勝負という事象。その両方の『存在』を、等価交換で無に帰した。」
チップは雪崩のように増えていったが、イオは金には興味を示さなかった。
「金はついで。これは実験だ。」
「その程度なら、大丈夫でしょ。」
レイナの肩の力が少し抜けた声に、イオはわずかに笑った。金に執着しないその無頓着さは、時に無防備で、時に強さだった。それは、美貌という、金に換算される価値に囚われて生きてきたレイナが、金銭という概念から解放された証でもあった。
ふと、イオの視線が止まった。カードを扱う仕草が僅かに不自然な男。空気の重さがそこだけ違っていた。その男は、他の客よりもわずかに濃密な、欺瞞の空気を纏っていた。
「……イカサマ師だな。」
「見えるの?」
「質量の揺らぎは隠せない。カードの裏に特殊な分子配列のインクを使っている。等価交換でインクの分子配列を変化させ、炙り出す。」
イオは、レイナに、その男のイカサマを暴くよう指示した。レイナは、イオの指示に従い、男の背後に音もなく回り込む。車椅子のイオの冷えた声が、男の耳元を刺した。
「次の一手、そのまま警備に渡すか……情報で払うか。」
男の肩が小さく震えた。額に浮かんだ汗が、一筋落ちる。彼は、自分のイカサマが、一瞬にして見破られたことを理解した。
「ま、待て……金じゃない……情報だ……!」
震える手から渡された小さなメモリーカード。イオは指先で転がしながら瞬時に解析する。株価、資金の流れ、舞台、スポンサー。いくつもの線が一つの名に収束する。
「……舞台俳優。そして、その後ろにいる重役。これが繋がりか。」
レイナが息を呑む。イオの指がカードを軽く弾く。
「金はもう十分だ。だがこれは別格。“次”の鍵になる。」
熱気と光に満ちたカジノの中、レイナだけが一瞬冷たい風を感じた。イオの言う“重さ”が、わずかに胸に落ちた気がした。彼女にとって今夜の賭けは金じゃない。世界の「重さ」を暴くための、最初のテストだった。それは、カジノのルールを破る、イオ自身の「正当化」の道でもあった。
カジノを出た瞬間、あの空間に詰まっていた熱と音が背後に吸い込まれていくのを、レイナは肌で感じた。自動ドアが閉まると同時に、外の空気が一気に冷たく思えた。湿った夜風が頬を撫で、喧騒の残り香が耳の奥でかすかに震えている。さっきまで全てを圧迫していた光と音の海は、今や遠くで滲む幻のように思えた。レイナは、まるで深海から浮上してきたかのように、身体が軽くなったのを感じた。しかし、その軽さは一瞬で、すぐに別の、もっと重い空気が彼女の身体を包み込んだ。それは、都市の夜が持つ、不穏な静けさだった。
イオは車椅子を軽く押しながら、人通りの少ない路地裏に入った。アスファルトの匂いと、どこか古びた鉄の香り。遠くで車が走る音と、時折響く笑い声だけが、まだ都市の夜が続いていることを示していた。コンクリートの壁に沿って、イオの車椅子は音もなく進んでいく。レイナは、その静かな動きに合わせて歩きながら、さっきまでの喧騒が嘘のように感じられた。ここだけが、都市の舞台から切り離された、別の世界のように思えた。
「……静かだな。」
レイナが吐き出した声は、自分でも驚くほど小さかった。さっきまでの騒音に慣れた耳には、ここがまるで別の世界に感じられた。しかし、イオは答えず、代わりにポケットから取り出した小さなデータ端末を指先で弾いた。淡い光が彼女の顔を照らし、冷徹な灰色の瞳がそこに浮かんだ情報を読み取る。彼女の目は、文字や数字の羅列を追っているのではない。その背後にある、膨大な「情報」と、それが持つ「質量」を分析しているのだ。
「株価の操作。資金効率だけで見れば、確かにこれが一番だ。だが……」
レイナは息を整えながらその言葉を聞いた。金額や利益という言葉がまだ現実味を持たない。だが、イオの声の奥には、数字以上の“何か”が含まれているのが分かった。レイナは、イオが金銭的な利益だけでなく、その先に存在する、より本質的な「欺瞞」と「悪意」を追っていることを理解していた。
「……でも、それだけじゃないんだろう?」
問いかけると、イオはわずかに口角を動かした。笑ったわけではない。ただ、情報の奥にあるものを示すように。彼女は、手の中の端末をレイナの目の前に差し出した。画面には、カジノで得た情報が、複雑なフローチャートとなって表示されていた。
「その裏に、もっと重い繋がりがある。」
イオが路地裏の壁に端末の光を映した。そこに現れたのは企業の重役の名。そして、その横に、複数の線で結ばれた一つの顔写真。舞台の幕の下で完璧な笑顔で微笑む男の横顔。彼の笑顔は、完璧に訓練されており、そこに嘘や偽りは一切見えなかった。しかし、その完璧さこそが、イオにとっての最大の「歪み」だった。
「……俳優?」
レイナの声が少しだけ揺れた。イオは短く頷く。
「レオン・ヴァンダイン。若くして天才と呼ばれ、舞台では常に主役を張ってきた。だが、裏では演劇を隠れ蓑にした殺人鬼だ。」
その言葉は淡々としていたが、路地の空気を一気に重くした。都市の喧騒から切り離されたこの細い道は、まるでその名を告げるために存在しているかのように静まり返った。レイナは、レオン・ヴァンダインという名前を、頭の中で反芻した。完璧な俳優。だが、その裏には、狂気に満ちた殺人鬼が潜んでいる。その事実が、レイナの胸を冷たくした。彼女の過去を苦しめた「美しさの欺瞞」は、今、殺人という名の狂気と結びついていた。
レイナは唇を噛んだ。血の味が微かに広がる。
「……本当に……殺してるの?」
「そうだ。そして、彼の殺人は、演劇そのものだ。被害者を舞台上の役者だと錯覚させ、最後の舞台を演じさせる。それが彼の狂気の核だ。」
イオは、レオンの殺人の手口を詳細に説明した。それは、彼が演じる役柄と、殺人の方法が、まるで共鳴しているかのように一致しているという、異常なものだった。彼の狂気は、舞台と現実の境界を完全に消し去っていた。
「証拠はある。だが法廷には出せない。あまりにも“揃いすぎている”。」
イオは端末を閉じ、低く続けた。
「証拠不十分を装うには完璧すぎる。背後には有力なスポンサーがいて、事件のたびに彼の人気は上がる。被害者が嫌われ者ばかりだったせいで、世間はむしろ彼を“正義”として祭り上げた。彼の殺人は、この街の歪んだ倫理観に、完璧に合致していた。」
レイナは一歩だけ後ずさった。胸の奥が冷たくなる。この街の「正義」が、殺人鬼の狂気と結びついている。その事実が、彼女の心に深い絶望を植え付けた。だが次の瞬間、イオの声が鋭く切り込んだ。それは、レイナの絶望を、怒りへと変えるための、冷たい刃だった。
「そして……お前の養母が、彼の“恋人”だった時期がある。」
その言葉は、刃のようにレイナの胸を突き刺した。呼吸が一瞬止まり、足元の世界がぐらりと揺れる。イオが言った「養母」とは、レイナの心を深く傷つけ、彼女の人生を歪ませた、あの冷酷な女のことだ。彼女の脳裏に、養母の顔が鮮明に蘇る。決して優しさを向けられることのなかった、あの冷たい瞳。
「……嘘。」
声はかすれていた。否定というより、恐怖に近い響き。養母と殺人鬼が繋がっている。その事実は、レイナの心の奥底に封じ込めていた、過去のトラウマを呼び覚ました。彼女の美しい顔を嘲笑し、存在そのものを否定したあの女が、今、殺人という名の狂気と結びついている。
「嘘ではない。事実だ。その時の事件で、彼女は車を運転していた。被害者の遺体が見つからない理由も、彼女の動きと重なる。……ドライバーとして関与していた可能性が高い。」
イオの言葉は冷たい。しかしその冷たさは、真実だけを突きつけるための刃だった。イオは、レイナに、当時の養母の携帯電話の位置情報や、通話記録、そして監視カメラの映像の一部を復元したデータを送り込んだ。そのデータは、養母がレオンの恋人を乗せた車で、殺害現場へと向かっていたことを示唆していた。彼女が、レオンの殺人を手助けし、その証拠隠滅にも関与していた可能性が濃厚だった。
レイナの脳裏に、養母の顔が浮かんだ。冷たい目。決して向けられることのなかった優しさ。自分の存在を否定する声。胸の奥に溜まっていた憎しみと恐怖が、今、現実の輪郭を持って迫ってくる。
「……養母を揺らせば、俳優も崩れる。証拠は揃う。」
イオは静かに告げた。その声は感情を持たない。だが、その奥に、計算された覚悟が宿っていた。イオの計画は、養母のヒステリックな反応を利用し、レオン・ヴァンダインを精神的に追い詰めることだった。養母が動揺すれば、レオンの完璧な狂気の仮面にも亀裂が入る。そして、その混乱に乗じて、彼を暗殺する。
レイナは視線を落とし、拳を握りしめた。爪が掌に食い込み、痛みが現実を繋ぎ止める。彼女は、養母という存在が、自身の過去の因縁だけでなく、今回の事件にも深く関わっていることを理解した。そして、その因縁を、自分の手で断ち切ることを決意した。
「……分かった。やる。」
イオの灰色の瞳がわずかに光った。冷たい路地裏に、二人の影が並んで伸びる。背後のカジノの光はもう遠く、これから向かう舞台の闇だけが、静かに彼女たちを待っていた。レイナの心に宿った、養母への憎しみと恐怖が、今、確固たる殺意へと変わった。彼女は、もはや過去のトラウマに囚われた少女ではない。イオと共に、自らの「正当化」の道を歩む、一人の「復讐者」となっていた。
夜の帳が降り、映画街の喧騒が最も高まる時間帯。レイナとイオは、レオン・ヴァンダインが主演を務める舞台の会場へと潜入した。観客席の華やかな熱気とは裏腹に、舞台裏は埃と汗の匂いが混じり合った、重く、淀んだ空気に満ちていた。薄暗い非常灯の光が、無数のロープや装置が複雑に絡み合った光景を不気味に照らし出している。それは、表舞台の輝きを支える、剥き出しの現実だった。役者たちが本番前の最終チェックに追われる声、スタッフの慌ただしい足音、そして遠くから聞こえる観客たちの期待に満ちたざわめき。それらの全てが、一つの巨大な「舞台」を作り上げていた。しかし、その舞台は、間もなく、イオとレイナの手によって、殺戮の現場へと変貌することになる。
イオは車椅子に乗ったまま、レイナに指示を送り、舞台裏の奥へと向かわせた。彼女の灰色の瞳は、空間に存在する全ての物質、情報、そしてエネルギーを測っていた。舞台裏にひしめく無数の装置や小道具、そしてそれを操る人々の動き。それら全てが、イオにとっては、等価交換の魔術を可能にするための、膨大なデータフィールドだった。
「舞台裏は、私にとってのデータフィールドだ。装置や小道具の質量、そして舞台上の全ての情報が、私の等価交換の魔術を可能にする。」
イオの言葉に、レイナは頷いた。彼女の役割は、イオの指示に従い、舞台裏の様々な場所に、イオの魔術を仕込んでいくことだった。レイナの心臓は、激しく脈打っていたが、その鼓動は恐怖ではなく、高揚と、そして強い決意によるものだった。
二階へと続く、錆びた鉄骨の狭い階段を、レイナはイオの車椅子を担いで上がっていく。イオの体は、見た目以上に軽かったが、それでもこの階段を上るには、かなりの労力を必要とした。階段の踏み板が軋むたびに、まるで何者かの小さな悲鳴のような音が響く。一段上るごとに、舞台上から聞こえてくる音が小さくなり、一階の熱気と喧騒が遠ざかっていく。二階はさらに静かで、張り詰めた空気に満ちていた。そこは、舞台上を見下ろすことができる、高所の作業スペースだった。無数のロープやワイヤーが、舞台装置を吊り下げるために複雑に配置されている。その一本一本が、この舞台の運命を握っているかのようだった。
「この吊り下げる用のロープの質量を、別の軽い物質と交換する。そして、あの照明装置の質量を、別の重い物質と交換する。」
イオの指示は、まるで芸術作品を作り上げるかのように、緻密で周到だった。レイナは、イオの指示に従い、一つ一つ、魔術を仕込んでいった。ロープに手をかざし、イオの魔術を込める。それは、物質の性質を一時的に変え、イオの魔術のトリガーとなるための準備だった。等価交換の魔術は、単なる物質の変換ではない。それは、この舞台の物理法則を、イオの意志によって書き換える行為だった。
「よし。これで、舞台上の全てが、私の支配下にある。あとは、心理戦の準備だ。」
イオは、レイナに、今回の暗殺計画の最後のピースを説明した。それは、レイナ自身が、レオン・ヴァンダインと対峙し、彼を精神的に追い詰めることだった。
「私が、お前と入れ替わっている間に、私が彼の武器を別の鋭利な質量と等価交換する。そして、お前が、彼を精神的に追い詰める。舞台は整った。あとは、お前が、彼の『演出』を、殺戮へと変えるだけだ。」
イオの言葉に、レイナは、決意の表情で頷いた。彼女の心臓が、激しく脈打っていた。舞台は、整った。あとは、本番を待つだけだった。
夜の帳が降り、舞台の開演を告げるブザーが鳴り響く。会場の照明がゆっくりと落ちていき、観客たちのざわめきが静まると、舞台上に一本のスポットライトが落ちた。その光の中に、レオン・ヴァンダインが立っていた。彼の姿は、役柄に完璧に溶け込んでおり、その渾身の演技は、観客を現実から切り離し、物語の世界へと誘っていく。しかしイオの目には、その完璧さが異様に映っていた。その完璧さは、演技の技術ではない。殺人鬼が「舞台」という口実を得て、その本性を、観客の喝采を糧にしている、その純粋な狂気だった。レオンの放つ感情は、役柄のそれではなく、今にも溢れ出しそうな本物の殺意だった。
イオは舞台袖に潜み、レイナの肉体を操っていた。車椅子に残された自分の肉体の感覚が遠くで沈んでいく。レイナの意識は深い水底に沈められ、イオを通して舞台を見ている。その冷たい水底で、レイナは、レオンの完璧な演技と、それが孕む狂気に、過去の因縁を重ね合わせていた。重く冷たい気配が舞台を包む中、イオの声が内側に響いた。
「……狂気を、終わらせる。」
舞台上のレオンは笑っていた。彼の足元には、偽物の血糊に見せかけた「本物」の痕跡。観客は知らない。今この場で、彼の狂気によって命が絶たれる役者がいることを。その無知が、この舞台の欺瞞をさらに深めていた。イオは、その欺瞞を、等価交換の魔術によって打ち砕くつもりだった。
イオの指先がわずかに動き、舞台上の小道具──レオンが手にしていた、鈍い光を放つ刃こぼれしたナイフに意識が集中する。質量の感覚が一瞬で切り替わり、ナイフが別のものに置き換わった。鋭い刃が無数に絡み合った異形の凶器。光を反射し、氷の結晶のように舞台上で輝く。それは、レオンが崇拝する「舞台」の欺瞞を打ち砕くために、イオが用意した、冷徹な「真実」の刃だった。
レオンの目に一瞬、動揺が走る。彼の完璧な演技が、一瞬だけ途切れた。その隙を逃さず、イオはレイナの肉体を駆動させた。刃は肉を裂き、観客の前で彼の身体に突き立った。鈍い音が響き、赤い液体が舞台を汚す。その光景は、観客の目には、あまりにもリアルな、演技のクライマックスに映っていた。
その時、レイナの意識が奥底から噴き上がった。イオの制御を振り切り、彼女の感情が等価交換の回路を乱した。怒りが理性を突き破る。レオンの死は、レイナの心に、養母への憎悪を再燃させた。彼女の感情は、レオンだけでなく、その背後にいる養母の幻影をも撃ち抜こうとしていた。
「今だ。あの女も、今ここで。」
レイナの感情が暴走する。舞台上に散らばる小道具、衣装、照明器具。全ての質量が揺らぎ、空間がわずかに軋む。等価交換の魔術が、レイナの怒りという、非合理的な感情によって制御不能な状態に陥っていた。
「やめろ、レイナ!」
イオの声が響いたが遅かった。彼女の怒りは、レオンだけでなく、その背後にいる養母の幻影をも撃ち抜こうとしていた。
観客は歓声を上げていた。演出の一部だと信じ込んでいる。だが舞台袖の空気は凍りつく。イオの計算が崩れ、質量の均衡が狂い始めていた。このままでは、舞台上の物質だけでなく、観客、そして観客の心すらも、等価交換の代償として消費されてしまう。
「……これ以上は戻れなくなる。」
イオは歯を食いしばり、レイナの暴走した意識を押さえつけた。全身が軋む感覚。車椅子に残された本来の体からも冷や汗が滲む。今止めなければ、観客全員が「等価交換の代償」に変わる。
「やめろ……これは復讐じゃない、処刑だ!」
その言葉に、わずかにレイナの動きが止まった。刹那、暴走した質量が元に戻り、舞台は一瞬だけ静寂に包まれた。
レオンの身体は崩れ落ちる。観客は拍手を送る。だがイオもレイナも、その音を聞いていなかった。
今、二人は理解した。この計画は成功ではない。ギリギリで踏みとどまった失敗だ。
イオは荒い息を吐きながら低く呟いた。
「……これ以上、感情で動くな。あの女を殺す時は、“必ず”正しい質量でやる。」
レイナは答えなかった。ただ、爪が掌に食い込むほど強く握りしめていた。
舞台の照明が落ち、レオン・ヴァンダインの身体が床に崩れた瞬間、会場は息を呑んだように静まり返った。観客の何割かはまだ演出の一部だと信じて拍手を送っている。その音が、逆に不気味なほど空虚に響いた。スポットライトが血に濡れた板張りを照らし、その赤が舞台用の装飾ではないと気づいた瞬間、場内の温度が変わった。ざわめきが起こり、小さな悲鳴が響き始めた。
イオは舞台袖で車椅子を止め、呼吸を整えた。返り血を浴びた舞台俳優の姿と、静まりかえった空間。その全てを冷静に観察していたが、胸の奥ではレイナの感情が渦を巻き始めているのを感じていた。イオの論理的な思考回路の中に、レイナの激情という、制御不能な「ノイズ」が混入してきたのだ。
「……今だ。あの女がいる。」
レイナの意識が、イオの肉体の奥で鋭く跳ねた。養母の姿を観客席の中に見つけた瞬間、熱い鉄棒を突き立てられたように心拍が跳ね上がる。イオの視界に、観客席の養母の顔がズームアップされる。その顔は相変わらず傲慢で、何一つ覚えていない無関心の笑みを浮かべていた。その笑みが、レイナの心の奥底に封じ込めていた憎悪を、一気に解き放った。
彼女の視界は赤く滲み、足を動かす幻覚すら浮かんだ。車椅子のブレーキを握るイオの手に、レイナの意志が重なる。レイナの感情が、イオの論理を上回り、彼の身体を突き動かそうとする。
「待て。今はまだ――」
イオは、レイナの暴走を止めようとした。しかし、レイナの怒りは、彼の言葉を聞き入れる状態ではなかった。
「今すぐ殺す……!」
その声は怒号ではなかった。凍りつくほどの冷たさと、燃え上がるほどの熱が混じった囁きだった。レイナはイオの肉体を通じて、舞台袖から飛び出そうとする。観客席にいる養母、その顔は相変わらず傲慢で、何一つ覚えていない無関心の笑みを浮かべていた。その無関心こそが、レイナにとって最大の侮辱だった。
「……落ち着け。」
イオの声が低く鋭く響く。しかしレイナは聞かない。車椅子の車輪がきしみ、舞台上の返り血を踏みしめる音がした。鼻を刺す鉄錆の匂いが、幼い日の記憶と重なる。炎の熱、焦げた天井、泣き叫ぶ自分を無視して背を向けた女の姿。
「今……今なら……!」
イオは反射的に魔術の流れを制御した。レイナの暴走で質量が暴れ、周囲の小道具がわずかに揺らぐ。証拠が散る、その最悪の未来が頭をよぎる。イオの魔術は、感情という非合理的な要素によって、制御不能な状態に陥っていた。
「レイナ。今やれば、全てがお前の罪になる。」
その言葉に、一瞬だけ彼女の動きが止まった。だが呼吸は荒いまま、肩が小刻みに震えている。理性と怒りがせめぎ合い、目の奥に涙が滲んだ。レイナの心の中では、理性的な「正当化」の道と、感情的な「復讐」の道が、激しく衝突していた。
「……あの女は……私を見ても……何も思い出さない……!」
レイナの言葉は、悲しみと怒りが入り混じった、痛切な叫びだった。養母は観客席で立ち上がりもせず、ただ状況を確認するように目を細めていた。恐怖も後悔もない。そこにあるのは、無関心という最大の侮辱だった。レイナの中で、火が弾ける。
「今殺す……今じゃなきゃ……!」
イオは車椅子のハンドルを逆に回し、彼女の身体を強引に抑え込んだ。車輪が舞台袖の壁にぶつかり、乾いた音を立てた。
「返り血が証拠になってる。ここで動けば、お前の正義はただの犯罪に落ちる。」
冷徹な声が、怒りの渦に楔を打ち込む。レイナは震える手を握りしめ、爪が掌に食い込む痛みでようやく意識を現実に引き戻した。彼女は、イオの言葉が、自分自身を救うための言葉であることを、本能的に理解していた。
「……ッ……!」
喉の奥から漏れた声は、嗚咽とも怒りともつかない。イオはそっと深呼吸を促すように言った。
「引け。今は舞台を片付けるのが先だ。」
長い沈黙の後、レイナはかすかに頷いた。涙をこらえ、唇を噛み、車椅子のブレーキに自らの手を添えた。彼女の心には、養母への憎しみだけでなく、イオの言葉によって与えられた「正当化」の道への、確固たる決意が芽生えていた。
「……必ず……殺す。必ず。」
その決意は震えながらも固く、空気に鋭く突き刺さった。イオは短く「わかっている」とだけ答えた。舞台の血の匂いと、観客のざわめきが混じる中、二人は静かに闇の方へ退いた。
レイナとイオは、舞台裏へと撤退し、着替えてから、客席へと向かった。舞台上は、既に大混乱に陥っていた。警備員が駆けつけ、観客を避難させていた。
レイナは、イオの肉体を操り、養母のいる客席へと近づいた。養母は、舞台上の惨状を見て、ヒステリックに叫び声を上げていた。しかし、彼女の目に映っているのは、レオン・ヴァンダインの死ではなく、舞台がめちゃくちゃになったことに対する、怒りだけだった。
「あの子は、こんなところで死ぬはずがない! 私の息子が、こんなところで死ぬはずがない!」
養母は、そう言って、ヒステリックに叫び声を上げていた。しかし、彼女の目は、レイナの姿を捉えることはなかった。彼女は、レイナの顔すら覚えていなかった。
「……誰だか、わからないわ。早く、この場所から離れてちょうだい。」
養母は、レイナの姿を見ても、そう言って、無視して通り過ぎていった。その無視が、レイナにとって、最も深い傷となった。彼女は、養母の心の中に、自分の存在が、微塵も残っていないことを知った。
レイナとイオは、舞台の惨状を背に、劇場を後にした。イオは、レイナの心の中の怒りと悲しみを、冷静に分析していた。
「今回の損失と収穫だ。損失は、養母を殺せなかったこと。収穫は、レオン・ヴァンダインという殺人鬼を始末できたこと。そして、お前が、養母に対する、確固たる殺意を抱いたことだ。」
イオの言葉に、レイナは、ただ黙って頷いた。彼女の心には、養母を殺すという、確固たる決意だけが残されていた。
「だが、次の標的は、もう決まっている。次の舞台は、お前の育ての親だ。」
イオの言葉に、レイナは、決意の表情で頷いた。彼女の復讐は、まだ終わらない。彼女の復讐は、ここからが本番だった。