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Justify Paragon  作者: 伊阪証
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大海に挑む

慈善団体を装った売春組織の代表、ヴォルペが消え去ってから数日。街には、目に見えない疑心暗鬼の霧が立ち込めていた。表向きは病死と発表されたヴォルペの死は、あまりにも唐突で、そして不自然だった。彼女が築き上げてきた鉄壁の信用と、それを覆い隠すための欺瞞の構造が、ほんのわずかとはいえ、崩れ始めた兆候だった。街ゆく人々は、隣人を、あるいは社会の「善意」の象徴を、以前よりも警戒の眼差しで見るようになっていた。レイナは、その変化を肌で感じていた。偽りの仮面が剥がれ落ちた後の、剥き出しの不信感。しかし、それはイオの「本質を暴く」という目的にとっては、望ましい変化だった。

剥き出しのLANケーブルが天井を這い、使い古された木製のデスクに並んだ三台のモニターは、相変わらず薄暗い画面で数字の羅列や世界のニュース速報、そして古い地図を映し出していた。しかし、今日の空気はいつもと少し違った。レイナが、普段は決して口にしない、個人的な願望を口にしたからだ。

「ねぇ、イオ。どうしても、どうしても行きたい場所があるの。」

レイナの声には、普段の冷静さとは異なる、切実な響きがあった。それは、抑えきれない衝動にも似た、強い希求だった。イオはモニターから目を離さず、淡々と応じた。

「場所と目的を言え。無駄な行動は避けたい。」

「映画街よ。あそこに、私が行かなきゃいけない場所があるの。」

イオは、レイナの言葉にようやく視線を向けた。その無機質な瞳が、レイナの感情の揺れを正確に測ろうとする。しかし、レイナの瞳に宿る熱は、イオの計算を超えた、強い意志の輝きを放っていた。

「私の過去と関係がある場所。そこに行かなければ、前に進めない気がするの。」

イオは数秒の沈黙の後、小さく頷いた。彼女にとって、レイナの「個人的な感情」は、本来であれば効率性を阻害する要素でしかなかった。しかし、レイナの成長が、イオの計画にとって不可欠であることも、彼女は理解し始めていた。レイナの過去に触れることで、彼女の「美しさの搾取構造を打ち壊す」という目的がより強固になるのならば、それは「正当化」のプロセスの一部になり得る。

「準備はいいな。移動する。」

イオは立ち上がった。その瞬間、レイナはイオの背中に回り込み、当然のように手を伸ばす。イオは、その細い腕が自分の首に回されるのを、何の抵抗もなく受け入れた。レイナは、車椅子に乗ったイオを、その背中に背負い、自身の足で歩き出した。イオの体は、見た目以上に軽かった。まるで、その存在自体が情報の塊であり、物理的な質量は最小限に抑えられているかのようだった。

「お前は本当に、体力があるな。」

イオが、レイナの背中で呟いた。レイナは苦笑した。この数週間、イオの体を借りて様々な任務をこなしてきた結果、身体能力は格段に上がっていた。

「これくらい、どうってことないわ。むしろ、こうして自分の足で歩けることが、私にとっては……贅沢なの。」

レイナの言葉には、深い意味が込められていた。彼女の過去、美貌ゆえに与えられた不自由な生活。その束縛から解放され、自身の足で歩くことの喜び。その喜びは、イオという存在によって与えられたものだった。そして、この「動ける身体」こそが、彼女が今後、巨悪に立ち向かうための、何よりの武器となる。イオの等価交換の魔術が、彼女に与えた最大の贈り物だった。レイナの口元に、微かな笑みが浮かんだ。

地下鉄の駅から地上に出ると、一瞬にして空気の質が変わった。これまで滞在していたエリアとは全く異なる、強烈なエネルギーが街全体から放たれている。ネオンサインが煌めき、巨大なスクリーンでは華やかな映画の予告編が流れている。通りには、流行の最先端をいくファッションに身を包んだ人々が溢れ、彼らの放つ熱気が肌を刺すようだった。

「これが、都会の……映画街か。」

イオが、レイナの背中で呟いた。彼の声には、僅かながら好奇心のようなものが混じっていた。イオは、人間社会のあらゆる情報を収集し、分析してきた。しかし、実際にその場に身を置くのは、初めてのことだった。

「空気の密度が違う。呼吸一つで、これほど多くの情報を取り込んでしまう。田舎の、あの淀んだ空気とは全く異なるな。人間も、光も、音も、全てが過剰に存在している。」

イオの表現は、常に論理的だったが、その言葉の裏には、彼なりの「都会」に対する分析と、ある種の驚きが垣間見えた。レイナは、その言葉に小さく笑った。イオは本当に「都会」というものを、文字通り「見て」いるのだ。ただの風景ではなく、情報とエネルギーの塊として。

「そうよ。ここは、夢と欲望が渦巻く場所。光と影が、表裏一体になっている。」

レイナは、人混みを縫うように進んだ。彼女の灰色の肌と髪は、この華やかな街並みの中では、どこか異質な存在に見えた。しかし、彼女の瞳には、揺るぎない決意が宿っていた。

映画街の中心部に近づくにつれ、人々の熱狂はさらに高まった。巨大な映画館の壁には、これから公開される大作映画のポスターが所狭しと貼られ、まるで街全体が巨大な舞台装置のようだった。その喧騒の中をしばらく進むと、レイナは不意に立ち止まった。

彼女の視線の先には、痛々しいほどに焼け焦げた、巨大な廃墟があった。かつては華やかだったであろう劇場の建物は、黒焦げの骨組みを晒し、ガラスは砕け散り、壁には無数の亀裂が入っていた。まるで、誰かの激しい怒りや悲しみが、そのまま形になったかのようだった。その廃墟の周りだけが、街の喧騒から切り離されたかのように、冷たい沈黙に包まれていた。

「ここが……」

レイナの声が震えた。イオは、レイナの身体を通して、彼女の心臓が激しく脈打つのを感じていた。その感情の波が、イオの論理的な思考回路に、微かなざわめきをもたらす。

「ここが、私が初めて舞台に立った場所。そして、全てを失った場所よ。」

焼け落ちた劇場。その光景は、レイナの過去を、そして彼女の「美しさ」がどのように搾取されてきたかという因縁を、静かに物語っていた。イオは、レイナの記憶の断片から、この場所が持つ意味を瞬時に読み取った。次なる「断罪」の対象が、この場所と深く関わっていることを、彼女はすでに予感していた。その予感は、確信へと変わる。

レイナは、じっと焼け落ちた劇場を見つめていた。その瞳の奥には、憎悪と悲しみ、そして、それら全てを乗り越えようとする強い決意が宿っていた。彼女の指先が、無意識のうちにイオの肩を強く掴んだ。

「さあ、行こう。今回のターゲットは、この場所の因縁と深く関わっている。」

イオは、レイナの背中で淡々と呟いた。その声は、次の戦いの幕開けを告げる、静かな号令のようだった。

焼け落ちた劇場の廃墟を後にし、レイナはイオを背負ったまま、すぐ近くに建つ別の、しかし歴史を感じさせる重厚な劇場へと足を向けた。その建物は、かつての栄光を保っているかのように、周囲の華やかな映画館とは一線を画していた。その一角に、控えめながらも確かな存在感を放つ古びたアパートがあった。レイナは、そのアパートの一室のドアの前に立ち止まった。彼女の鼓動は、再び速くなっていた。

「ここが、私が唯一、心から尊敬していた人の家よ。」

レイナの声には、憧憬と、そして深い悲しみが入り混じっていた。イオは、レイナの記憶の奥深くへと意識を潜らせた。レイナの人生に深く影響を与え、彼女の「美」に対する価値観を形成した人物。その記憶は、鮮明な映像としてイオの脳内に展開されていく。

かつて、レイナがまだ無垢な少女だった頃。彼女は、その「灰色の肌」ゆえに、芸能界において異端視されていた。誰もが彼女の美貌を称賛する一方で、どこか冷たい視線を向け、本質的な部分で彼女を受け入れようとはしなかった。そんなレイナにとって、一筋の光となったのが、ある女優だった。彼女こそが、レイナの「マドンナ」だった。

マドンナは、この煌びやかな映画街において、異質な存在だった。彼女は、決して誰もが振り返るような「美人」ではなかった。すらりとした体躯や、整った顔立ちとは無縁の、どこにでもいるような容姿。しかし、彼女の舞台は、観る者の魂を揺さぶった。彼女の演技は、天賦の才によるものではない。それは、血の滲むような日々の鍛錬と、舞台への、そして演技そのものへの、狂気的なまでの「努力」と「精神性」によって磨き上げられたものだった。

マドンナは、誰よりも早く稽古場に現れ、誰よりも遅くまで残った。彼女の身体は傷だらけで、声は枯れ、それでもなお、舞台に立ち続けた。彼女が演じる役柄は、その容姿からは想像もつかないほど、力強く、そして繊細だった。観客は、彼女の「美しさ」ではなく、彼女の「魂」に魅了された。彼女の舞台には、偽りのない本質が宿っていた。

レイナは、そんなマドンナの姿に、真の「美しさ」を見た。外見に囚われ、美貌を搾取される自身の境遇の中で、マドンナは、内面の輝きと努力こそが本質的な価値を持つことを教えてくれた。マドンナの存在は、レイナにとって、美醜の価値観が逆転したこの世界で、唯一の希望であり、指針だった。レイナは、マドンナの付き人として、彼女のそばで多くのことを学んだ。彼女の言葉は、レイナの凍てついた心を溶かし、温かい光を灯した。

しかし、その輝きは、あまりにも唐突に、そして暴力的に奪われた。

嫉妬だった。マドンナの舞台は、常に満員御礼。彼女の演技は、批評家からも絶賛され、若手女優の中でも群を抜いて注目を集めていた。その輝きを妬む者がいた。同じ劇団に所属する、一人の女優だった。彼女は、類稀なる美貌と、芸能界の有力者とのコネクションを持つ、いわゆる「生まれながらの才能」の持ち主だった。彼女にとって、マドンナの存在は、自身の「美しさ」と「コネ」だけではどうにもならない、不可解で不快なものだった。努力と精神性で築き上げたマドンナの輝きは、彼女の虚栄心を深く傷つけた。

その夜、焼け落ちた劇場の火事が発生した。それは、単なる事故ではなかった。嫉妬に狂った女優が、マドンナが唯一の安息の場所としていた劇場に火を放ったのだ。炎は瞬く間に劇場全体を包み込み、マドンナは、その炎の中で全てを失った。

回想の映像が途切れる。レイナの身体が、微かに震えていた。その震えは、怒りや悲しみだけでなく、深い絶望と無力感に起因するものだった。

「マドンナは……全身に大火傷を負い、もう二度と、舞台に立つことができなくなったわ。医者からは、車椅子での生活を余儀なくされ、元の生活に戻ることは絶望的だと言われた。」

レイナの声が震え、その目に涙が滲んでいた。イオは、レイナの身体を通して、その感情の波を静かに受け止めていた。

「彼女の身体を修復することは可能か?」

イオが淡々と尋ねた。その言葉は、レイナの絶望に、わずかな希望の光を灯した。

「等価交換の魔術を使えば、肉体の再構築は不可能ではない。だが……」

イオの分析が、レイナの脳内に展開される。

「彼女の火傷は深すぎる。肉体の一部だけでなく、神経系、皮膚組織、骨格に至るまで、広範囲にわたる損傷がある。通常の等価交換では、その全てを補うことはできない。細胞一つ一つを完璧に再構築するためには、同等以上の、いや、それ以上の『質量』、つまり『一人分の命』が必要になる。」

イオの言葉は、冷徹なまでに現実を突きつけた。マドンナを元の状態に戻すには、誰か一人の命と、その肉体そのものを等価交換する必要がある。それは、レイナにとって、あまりにも重い事実だった。

「……でも、私には、動ける身体さえあれば十分なのよ、イオ。」

レイナは、イオの背中に背負われたまま、小さく呟いた。その言葉には、決意が滲んでいた。もし、マドンナが再び舞台に立てるようになるならば、自身の身体を犠牲にすることさえ厭わない。彼女にとって、自身の足で歩くこと、そしてイオと共に「正当化」の道を歩むことが、何よりも大切な「動ける身体」だった。その「動ける身体」があるからこそ、彼女は真の目的を達成できる。

イオは、レイナのその覚悟を理解した。彼女の「動ける身体さえあれば十分だ」という言葉は、既に二話で示された伏線であり、レイナの最終的な決意へと繋がるものだった。

レイナは深呼吸をし、ドアのノックをノックした。数秒後、扉がゆっくりと開いた。現れたのは、確かにレイナの記憶の中のマドンナだった。しかし、その姿は、かつての輝きを失っていた。顔の半分は火傷の痕でひきつり、車椅子に座り、声もかすれていた。その瞳には、深い諦めと、どこか生気のない光が宿っていた。

「……レイナ?」

マドンナの声が、か細く響いた。その声には、驚きと、そしてどこか警戒の色が混じっていた。レイナは、マドンナの変わり果てた姿に、胸が締め付けられる思いだった。しかし、彼女の瞳には、揺るぎない決意が宿っていた。この憧れの人が、再び立ち上がれるように。そのための「断罪」が、今、始まろうとしていた。

マドンナとの再会は、レイナの心に、過去の因縁をさらに深く刻み込んだ。マドンナの変わり果てた姿を見ることは、レイナ自身の「美しさの搾取」という経験と重なり、深い怒りを呼び起こした。イオは、レイナの感情の波を冷静に分析し、それが今回の任務の原動力となることを確信した。

マドンナの部屋で、レイナはイオに、今回の暗殺対象について詳しく語り始めた。彼女こそが、マドンナを破滅に追いやった張本人、つまり嫉妬に狂ったあの女優だった。彼女の名前はミレイ・ヴァンクール。かつてはレイナと同じ劇団に所属し、その圧倒的な美貌と、芸能界の有力者である父親のコネクションを武器に、瞬く間にスターダムを駆け上がった女だった。

「ミレイは、私なんかよりずっと恵まれていたわ。天賦の才能と、何よりもあの顔。そして、彼女の父親は、映画業界に絶大な影響力を持つプロデューサーだった。だから、彼女は努力なんてしなくても、何でも手に入れることができた。」

レイナの声には、過去の苦い感情が滲んでいた。彼女の「灰色の肌」が、美しさを重んじる業界でいかに異端視され、疎外されてきたか。その中で、ミレイのような存在は、レイナにとって、理解しがたい「不平等」の象徴だった。

「ミレイにとって、マドンナの存在は、まるで理解できないバグのようなものだったのよ。顔もコネもないマドンナが、純粋な努力と演技力だけで、あれほど観客を魅了すること。それが、彼女の築き上げてきた『美貌とコネこそ全て』という世界観を、根底から揺るがしたんだわ。」

レイナは、ミレイがマドンナの輝きを妬み、あの劇場に火を放った経緯を語った。その放火事件は、表面上は事故として処理されたが、レイナはそれがミレイの仕業であることを直感的に理解していた。そして、その裏には、ヴォルペの『光翼慈善会』、ひいては『影椿』との繋がりがあることも、イオの調査で明らかになっていた。

「ミレイの父親が、ヴォルペの『光翼慈善会』に多額の寄付をしていて、それが今回の放火事件の隠蔽にも利用された疑いがあるわ。」

イオがモニターに表示されたデータを指し示した。ミレイの父親と、『光翼慈善会』の間の不審な資金の流れ。それは、ヴォルペが、自身の慈善活動を隠れ蓑にして、様々な悪事を隠蔽してきた手口と酷似していた。一つの悪意が、別の悪意と繋がり、互いに利用し合う。それが、イオの見る「悪意の原液」の姿だった。

今回の暗殺の舞台は、ミレイ・ヴァンクールが開催するチャリティ講演会だった。彼女は今や、自身の美貌と巧みな話術で、「真の美しさとは内面から生まれるもの」だとか、「努力こそが成功の鍵」だと、偽りの言葉を世間に向けて語っていた。その欺瞞に満ちた講演会の会場が、イオとレイナにとっての戦場となる。

会場の準備は、イオの指示のもと、レイナが行った。通常の舞台装置とは異なり、イオの等価交換の魔術を最大限に活用するための、特殊な準備だった。

「レイナ、会場のスピーカー全てに、この『重り』を仕込んでおけ。」

イオが差し出したのは、ぬいぐるみに使うような、手のひらサイズの小さな金属の重りだった。見た目はただの玩具のようだが、イオの指示に間違いはない。レイナは会場のスタッフに紛れ込み、一つ一つ、スピーカーの内部にそれを仕込んでいった。

「これは、等価交換の『準備』だ。スピーカーの質量と、この重りの質量を一致させておくことで、いざという時に、スピーカーを別の物質に変換できるようになる。」

イオは、レイナの脳内に詳細な指示を送る。スピーカーだけでなく、照明器具の特定のパーツ、舞台袖の小道具、そしてミレイが立つ演台の内部にも、同様の「重り」が仕込まれていった。これらは、全てイオの魔術の「触媒」となるものだった。彼らの目的は、単なる暗殺ではない。ミレイの「欺瞞」を、完全に暴き、破壊することだった。

「会場の配置図だ。監視カメラの死角と、ミレイの動線を記憶しておけ。特に、彼女が講演中に唯一、手元に置くものがある。」

イオのモニターに、講演会場の詳細な配置図が映し出された。そこには、小さな赤い印で、舞台の脇に置かれた一匹の可愛らしいぬいぐるみが示されていた。

「このぬいぐるみが、ミレイの唯一の弱点。精神的な拠り所だと、エヴァの記憶から割り出した。常に手元に置き、講演中に触れることで、自身の精神を安定させている。」

イオは淡々と説明した。その情報は、エヴァ・シュナイダーから得られたものだった。ミレイのような、完璧な自己を演じている人間ほど、些細なものに依存しているものだ。その「弱点」を突くことが、イオの断罪の鍵となる。しかし、この「ぬいぐるみ」がどう使われるのかは、まだレイナにすら明かされていなかった。ただ、それが重要なものであることだけが、示唆された。

レイナは、会場の準備を進めながら、芸能界の不平等や、その中で美しさやコネといった「遺伝」がどれほどの価値を持つかを改めて考えていた。彼女自身が経験してきた、理不尽なまでの「美」の搾取。そして、マドンナが受けた「努力」が報われない現実。

「この世界って、本当に不公平よね。努力したって報われない人がいる。生まれ持ったものだけで、何でも手に入れられる人がいる。金、コネ、容姿……全部、平等じゃない。」

レイナは、イオに語りかけた。その声には、怒りや諦めだけでなく、この不平等な現実を変えたいという、強い願いが込められていた。しかし、イオは、その言葉に対し、敢えて深い返答はしなかった。

「その言葉は、いつか、必要な時に使え。今、ここで全てを出す必要はない。」

イオの指示は、常に冷静で合理的だった。感情の「爆発」は、最も効果的なタイミングで引き起こされなければならない。その一言が、レイナの心に、さらに大きな決意を宿らせた。彼女の内に秘めた感情が、講演会場での「断罪」へと向けられる。舞台装置が整い、緊張感が徐々に高まっていく。

講演会開始の数分前。煌びやかな講演会場は、すでに多くの聴衆で埋め尽くされていた。最前列には、ミレイの父親である映画プロデューサーや、彼女を支援する政界の要人、そして芸能界の重鎮たちが顔を並べている。彼らは皆、ミレイの、その裏にある権力に酔いしれているかのようだった。

レイナは、会場の隅、照明係のブースの陰に身を潜めていた。その手元には、イオとの通信用の小型デバイスが握られている。心臓の音が、耳元で激しく脈打っていた。イオはレイナの肉体の中にいるが、細かな指示はデバイスを通じて伝達される。この緊迫した状況の中、レイナの集中力は極限まで高まっていた。

舞台中央には、光を浴びて輝く演台が置かれている。演台の脇には、ミレイが唯一の弱点としていた、小さな白いウサギのぬいぐるみが、まるで無邪気な子供の遊び道具のように鎮座していた。その存在が、この後の苛烈な「断罪」の引き金となることを、誰も知らない。

「間もなく開演だ。ミレイの動線を確認しろ。講演中の僅かな隙を狙う。」

イオの声が、デバイスからレイナの耳に直接響いた。その声は、冷静沈着で、一切の迷いがない。レイナは、イオの指示に従い、会場全体の様子を注意深く観察した。

スポットライトが舞台に落ち、華やかな拍手喝采の中、ミレイ・ヴァンクールが姿を現した。彼女は、完璧な笑顔を浮かべ、自信に満ちた足取りで演台へと向かう。その姿は、まさに芸能界の頂点に立つ「光り輝く存在」そのものだった。彼女の身につけたドレスは、スポットライトを反射し、眩いばかりの輝きを放っていた。

ミレイは、演台の前に立ち止まると、ゆっくりと聴衆を見渡した。その瞳には、傲慢なまでの余裕と、全てを掌握しているかのような慢心が宿っていた。彼女は、自分が絶対的な安全圏にいると、疑うことさえなかった。目の前の聴衆は、彼女の言葉に酔いしれ、彼女の美貌に魅了される。それが、彼女が長年築き上げてきた、揺るぎない「信仰」だった。

「本日は、お足元の悪い中、私のチャリティ講演会にお越しいただき、誠にありがとうございます。」

ミレイの澄んだ声が、会場全体に響き渡る。その声は、完璧に訓練されており、聴く者の心を惹きつける魅力を備えていた。彼女は、講演の冒頭で、自身の慈善活動や、若者への支援について語り始めた。その言葉は、優しさと慈愛に満ちているかのように聞こえる。しかし、レイナには、その言葉の裏に隠された欺瞞と、過去の悪行が透けて見えた。

「彼女は、講演中にぬいぐるみに触れる回数が多い。集中しろ。」

イオが指示した。ミレイは、言葉に詰まるたび、あるいは感情を強調するたびに、演台の脇に置かれたぬいぐるみに、無意識のうちに指先を触れさせていた。それは、彼女の精神的な不安定さを示す、唯一の兆候だった。会場の誰もが、その行為を単なる癖としか見ていない。しかし、イオにとっては、それは「弱点」の明確な指標だった。

レイナは、イオの指示に従い、照明の操作盤に手を置いた。講演の進行に合わせて、照明が調整される。それは、ミレイの顔に影を落とし、あるいは輝きを増すための、舞台演出の一部だった。しかし、レイナが操作しているのは、単なる照明ではない。イオの魔術によって、スピーカーや舞台装置に仕込まれた「重り」の起動タイミングを計るための、カウントダウンでもある。

「弱点は見つけた。使うのはお前だ、レイナ。」

イオの声が、レイナの耳に響き渡る。その言葉は、レイナに、今回の「断罪」が、彼女自身の意志と行動によって成し遂げられることを告げていた。レイナの心臓が、さらに激しく脈打った。恐怖と緊張、そして、長年の恨みを晴らすための、高揚感が入り混じる。

ミレイは、講演を続けていた。彼女の言葉は、巧みに「努力」や「内面の美しさ」といった概念を操り、聴衆を魅了していた。しかし、その言葉の裏側には、彼女自身がそれらの概念をいかに踏みにじってきたかという、醜悪な真実が隠されていた。彼女は、自分が完璧にコントロールしていると思い込んでいる。だが、その自信と慢心こそが、彼女を破滅へと導くことになる。

「準備はいいか、レイナ。舞台は整った。」

イオの声が、静かに告げた。レイナは、照明のスイッチに手をかけ、そして、心の中で深く息を吸い込んだ。ここからが、本当の戦いだ。

ミレイ・ヴァンクールの講演は、最高潮に達しようとしていた。彼女は、内面の美しさの重要性を熱弁し、聴衆は皆、その言葉に深く感動しているようだった。彼女の完璧な笑顔、そして揺るぎない自信が、会場全体を支配していた。彼女は、自身の人生が、そしてその言葉が、偽りのない「真実」であると、心の底から信じ込んでいるかのようだった。

その時だった。

レイナが、照明操作盤の特定の位置を、イオの指示通りに押した。会場の照明が、一瞬にして明滅した。完璧に調整されていたはずのスポットライトが、ミレイの顔を不規則に照らし、彼女の表情をまるで悪夢のように歪ませる。聴衆の間に、微かなざわめきが起こった。ミレイの完璧な講演に、初めての「不協和音」が生じたのだ。

「何、今の?」

ミレイは、わずかに眉をひそめた。しかし、すぐに笑顔を取り戻し、言葉を続けた。彼女の余裕は、まだ崩れていなかった。

「……申し訳ありません。少々、照明の不具合があったようです。ですが、皆様、真の美しさは、そのような些細なことでは揺るぎません。」

彼女はそう言いながら、無意識のうちに演台の脇に置かれた白いウサギのぬいぐるみに手を伸ばし、その毛並みを撫でた。その瞬間、イオの魔術が発動した。

「レイナ、話せ。」

イオの声が、レイナの脳裏に響いた。その声は、静かに、しかし有無を言わさぬ力を帯びていた。レイナは、ステージへと向かう通路に姿を現した。彼女の灰色の肌と髪は、舞台のスポットライトを受けて、どこか神秘的な輝きを放っていた。会場の視線が、一斉に彼女に集まる。ミレイは、レイナの姿を見て、一瞬、その笑顔を凍り付かせた。

「……レイナ?」

ミレイの声が、驚きに揺らいだ。彼女は、レイナの存在を、既に過去の遺物として記憶の奥底に封じ込めていたはずだった。

レイナは、舞台へとゆっくりと歩みを進めた。その足取りは、かつての依存的な少女のものではない。確固たる決意を秘めた、主体的な一歩だった。

「ミレイ・ヴァンクール。あなたは、私に『真の美しさは内面から生まれる』と教えたわね。そして、『努力こそが成功の鍵』だと。」

レイナの声が、会場に響き渡った。その声は、感情を抑えながらも、深い怒りと悲しみを内包していた。ミレイは、一瞬たじろいだが、すぐに女優の顔を取り戻した。

「レイナ……どうしてここに? 貴方は、私の大切な慈善活動を妨害するつもりですか?」

ミレイは、憐れむような目をレイナに向けた。まるで、レイナが世間知らずな子供であるかのように。しかし、レイナは、その欺瞞に満ちた視線に屈しなかった。

「妨害? いいえ。私は、あなたの『教え』を、ここで証明しに来ただけよ。」

レイナは、ミレイの演台の前に立ち止まった。そして、その美しい顔を、ミレイの目の前まで近づけた。会場全体が、息を呑んで二人のやり取りを見守っていた。

「あなたはいつも言っていたわね。『外見は飾り。大事なのは、心を磨くこと』だと。ならば、この美しい顔を持つ私と、醜悪な心を持つあなた。どちらが、真に美しいと、世間は判断するかしら?」

レイナの言葉は、鋭い刃となってミレイの虚栄心を抉った。レイナ自身の美貌を武器に、「外見と心の不一致」を突き刺したのだ。ミレイの顔から、完全に余裕が消え失せた。

「何を言うの、貴方は! 私を侮辱するつもりですか!?」

ミレイは声を荒げた。その瞬間、彼女は再びぬいぐるみに手を伸ばした。しかし、ぬいぐるみに触れた途端、彼女の体が痙攣した。イオが、ぬいぐるみに仕込んだ魔術の『重り』を起動したのだ。ぬいぐるみが、まるで生きているかのように震え、ミレイの手から滑り落ちた。

「あなたが、マドンナの人生を奪った日、あなたは言ったわね。『私には美貌とコネがある。努力なんて無駄。人類は平等じゃない』と。その言葉は、まるで今のあなたの教えとは真逆ね?」

レイナの言葉が、会場に響き渡る。聴衆の間で、ざわめきが大きくなった。マドンナの放火事件は、表面上は事故として処理されていたが、芸能界の人間であれば、その裏に何らかの不正があったことを薄々感づいていた者もいた。

「周囲が変われば人も変わる?人類は平等じゃない?あなたは、常に自分の都合の良い『正しさ』を振りかざしてきた。マドンナの努力を踏みにじり、若者たちの夢を食い物にしてきたくせに、今さら『内面の美しさ』を語るなんて、吐き気がするわ!」

レイナの感情が爆発した。彼女の声は、怒りに震えながらも、会場全体に響き渡り、ミレイの言葉の欺瞞を暴き出した。彼女の言葉は、マドンナへの憧れと、自身が経験してきた「美の搾取」という経験が凝縮されたものだった。

「私は、あなたのような偽善者を、決して許さない!」

その瞬間、レイナはイオの指示に従い、舞台袖に隠していた拳銃を構えた。会場全体が、恐怖と混乱に包まれた。警備員が駆け寄ろうとするが、イオの魔術が、スピーカーや照明に仕込まれた「重り」と会場の金属製品を等価交換し、周囲の通路に鉄柵を出現させた。警備員たちは、突然現れた障害物に阻まれ、舞台へと近づくことができない。

「何を、するつもり……!?」

ミレイは、恐怖に顔を歪ませた。彼女の目の前に突きつけられた銃口は、彼女がこれまで経験したことのない、本物の「暴力」だった。

「あなたの教えじゃ、自決は最大の罪だったわね。でも、今日、あなたは自らその罪を犯すことになるわ。」

レイナの声が、冷たく響いた。そして、イオの魔術が発動した。レイナの手にある拳銃の方向が、まるで意志を持ったかのように、ミレイ自身へと向けられた。それは、レイナがミレイに銃を突きつけたのではなく、ミレイ自身が、自らの手で自らを撃つかのような光景だった。イオの等価交換は、単なる物質の変換だけでなく、力の方向性すらも操作することができたのだ。

ミレイは、自分の意思に反して、震える指先が引き金にかかるのを感じた。顔面は蒼白になり、恐怖に引きつっていた。彼女の瞳は、絶望に満ちていた。自らの言葉と行動が、自らに返ってくる、皮肉なまでの「因果応報」。

「いやだ……! 誰か……助けて……!」

ミレイの絶叫が、会場に響き渡った。それは、かつてマドンナが炎の中で上げたであろう、絶望の叫びと重なるようだった。

乾いた銃声が、会場に響き渡った。ミレイ・ヴァンクールは、その場で崩れ落ちた。彼女の顔には、死の間際まで、醜悪な恐怖と絶望が貼り付いていた。彼女が信奉した「美」と「コネ」は、この瞬間、何の意味も持たなかった。

会場は、一瞬の静寂の後、再び大混乱に陥った。銃声と、ミレイの断末魔の叫びは、聴衆の心に深い衝撃を与えた。人々は悲鳴を上げ、出口へと殺到する。警備員たちは、未だ機能を回復しない照明と、突如現れた鉄柵に阻まれ、舞台上へと到達できずにいた。

イオは、レイナの体を操りながら、ミレイの倒れた場所へと無言で歩み寄った。彼女の顔には、一切の感情が読み取れない。ただ、任務を完遂したという、静かな達成感のようなものが漂っていた。

「よし。」

イオは短く告げると、ミレイの遺体に手をかざした。今回の遺体処理は「お試し」を兼ねる。より強引に、より完璧に、痕跡を消し去る。彼が魔術を行使すると、ミレイの肉体は、まるで最初から存在しなかったかのように、光の粒子となって消え失せた。地面に染みた血痕も、一瞬にして乾き、蒸発していく。質量が等価であれば、全てを無に帰すことも、別の物質に変換することも可能だ。イオは、ミレイという存在が、この世界に存在した痕跡を、完全に消し去った。

「これで、彼女の偽善と欺瞞は、この世から消え去ったわ。」

レイナは、イオの言葉に、かすかな安堵の息を漏らした。長年の恨み、マドンナの苦しみ。その全てが、今、報われたかのようだった。しかし、完全に心が晴れたわけではなかった。この行為が、果たして真の「正義」なのか。その問いは、彼女の心に常に付きまとっていた。

会場の混乱が収まらない中、イオとレイナは、人目を避けながら静かに会場を後にした。警備員たちが舞台へと駆け上がってきた時には、既にそこにミレイの姿はなかった。ただ、焦げ付いた匂いと、一瞬の閃光の記憶だけが、そこに置き去りにされていた。

二人は、再びマドンナのアパートへと戻ってきた。部屋の中は、相変わらず静まり返っていた。マドンナは、車椅子に座ったまま、窓の外をぼんやりと眺めていた。彼女の瞳には、希望の光は宿っていなかった。

「マドンナの火傷の修復を始める。」

イオが淡々と告げた。レイナの心臓が、再び高鳴る。これが、この暗殺の真の目的の一つだった。マドンナを救い、彼女が再び舞台に立てるようにすること。

「等価交換の魔術による肉体修復には、膨大な質量が必要だ。前に言っただろう。一人分の命が必要になる。」

イオの言葉に、レイナは息を呑んだ。分かっていたことだが、改めて突きつけられると、その重さに押しつぶされそうになる。誰かの命を犠牲にして、マドンナを救う。それは、イオが言う「正当化」の道において、避けられない選択だった。

「……誰の命を使うの?」

レイナの声は、震えていた。彼女は、まだその選択を受け入れきれていないようだった。

「ミレイ・ヴァンクールの残骸だ。」

イオが答えた。レイナは、はっと息を吸い込んだ。ミレイの肉体は、イオの魔術によって完全に消滅させられたはずだった。

「心配するな。ミレイの肉体は完全に消滅させたが、魂の情報を『シード値』として保存してある。それを変換し、マドンナの肉体再構築の『質量』とする。」

イオは、ミレイの「シード値」の魂が持つ「発展性」と、それゆえの「重さ」を利用するつもりなのだ。ミレイという存在を、完全に別次元の「質量」として利用する。それは、イオの魔術の、まさに「無法」な片鱗だった。彼女の悪行が、図らずもマドンナの救済に利用される。皮肉なまでの「因果応報」だった。

「私は、もう『元の身体』に戻る気なんてないわ。」

レイナが、強く、はっきりと告げた。その瞳には、揺るぎない覚悟が宿っていた。イオの与えた「動ける身体」こそが、彼女がこの世界で戦い、自身の目的を達成するための、唯一無二の武器だった。彼女は、もはや過去の美貌に囚われ、搾取される存在ではない。自らの意志で立ち、進むことを選んだのだ。

イオは、レイナの言葉に小さく頷いた。彼の目的は、レイナを救済することではない。レイナが自らの意志で立ち上がり、自身の「正当化」の道を歩むことが、イオの「本質を暴く」という目的に合致するからだ。

イオは、マドンナの車椅子の横に立つと、その全身へと手をかざした。光が、イオの手からマドンナの全身へと流れ込んでいく。等価交換は無事に回る。

マドンナの顔に浮かんでいた火傷の痕が、まるで巻き戻されるかのように薄れていく。ひきつっていた皮膚は滑らかになり、枯れていた声帯が、再び息を吹き返す。車椅子に座り、絶望に満ちていた彼女の体に、生命の力が宿り始めた。

数分後、イオがゆっくりと手を下ろした。マドンナの全身から、火傷の痕は完全に消え去っていた。そして、彼女はゆっくりと、車椅子から立ち上がった。その足取りは、まだ覚束なかったが、確実に、彼女自身の足で立っていた。その瞳には、かつての輝きが宿り始めていた。

「私の、体が……」

マドンナの声が、震えながらも、はっきりと響いた。レイナは、その光景を見て、目頭が熱くなった。彼女の「動ける身体さえあれば十分だ」という覚悟が、報われた瞬間だった。

「これは、あなたの努力と、そしてある者の『対価』だ。この体を、再び舞台で輝かせろ。」

イオは、マドンナに淡々と告げた。マドンナは、イオの言葉の真意を完全に理解することはできなかっただろうが、その言葉に含まれた重みと、自身の体が回復した奇跡を前に、ただ深く頭を下げた。

レイナは、マドンナが自身の足で立ち上がった姿を見て、静かに、しかし確かな喜びを感じていた。これで、彼女の過去の因縁は、一つ清算された。しかし、イオの言葉を思い出す。「悪は常に、折り込み済みの設計だ」。この世界に存在する「悪意の原液」は、決して尽きることはない。彼らの「正当化」の道は、まだ始まったばかりだ。重さと決意を胸に、二人の少女は、次の舞台へと向かう。

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