表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Justify Paragon  作者: 伊阪証
2/10

星落とし

剥き出しのLANケーブルが天井を這い、使い古された木製のデスクには、鈍い光を放つモニターが三台、整然と並んでいた。そのどれもが薄暗い画面で、絶えず変動する数字の羅列や世界のニュース速報、そして時代を感じさせる古い地図を映し出している。足元には、まるで意識的に無造作に転がされたかのように、段ボール箱が積み重なっていた。箱の隙間からは、真新しいアンテナの銀色の光沢、重厚なバッテリーの筐体、そして細かく分解されたパソコンの基盤が無機質な輝きを放ち、覗いていた。この空間は、情報の奔流と、それを操作する者の冷徹な意志が凝縮されているかのようだった。

「電気は、どうしてるの?」

レイナの声が、薄暗い部屋に静かに響いた。その声には、いくらかの諦めと、ほんの少しの慣れが混じっていた。イオは、モニターに映し出された複雑なデータから視線を離すことなく、短い言葉で答えた。

「お前の家から、借りている。」

ごく当たり前のように、まるで呼吸をするかのように告げられた言葉に、レイナは小さく息を漏らした。驚きは、最早ない。もう慣れたことだった。イオの常識は、世間一般のそれとはかけ離れた場所に存在していた。電力会社との契約や、使用量に応じた対価の支払いなど、彼女の辞書には存在しないかのようだった。

「じゃあ、水は?」

レイナは尋ねた。イオのこの空間では、生活に必要なインフラが、まるで透明なパイプで繋がっているかのように、外部から供給されている。その出所を問うことは、もはや儀式のようになっていた。

「お前の家に入っていたものだ。」

イオは淡々と告げた。彼女にとって、それは等価交換という魔術における、最も単純で効率的なプロセスの一部に過ぎなかった。

イオの「等価交換の魔術」は、質量の等価さえ守れば、あらゆるものを入れ替えることが可能だった。有効射程に上限はなく、物理的な距離や遮蔽物は意味をなさない。それは、全人類を水没させることも、あるいは地球上の全ての酸素を別の物質に変換することも可能にするほどの、まさに「無法」な能力の片鱗だった。しかし、イオに千里眼や未来視といった予知能力はなく、状況を大雑把にしか把握できないという制約もまた、存在した。彼女はこれまで、その能力を畑の水の動きの手助けや虫の駆除、事故の救出といった、言わば「地味な人助け」に活用してきた。だが、その本質は限りなく無慈悲に、そして無尽蔵に発揮されうるものだった。彼女の目的は、偽善と模範を打ち壊し、“本質”を暴くこと。その目的のためならば、あらゆる手段を講じ、倫理や常識といった概念すら、彼女の視界には入らなかった。

「いつも思うんだけどさ、自分の身体を動かす分、私が使う機材なんだから、私が用意したってことにならない?」

冗談めかした、しかしどこか本気とも取れるレイナの言葉に、イオはちらりと視線を向けた。その無機質な瞳が、一瞬だけレイナを捉える。

「その言い分は、いつか必ず自分に返ってくるぞ。」

淡々とした口調だったが、その言葉にはどこか含みがあった。まるで、レイナ自身もその「等価交換」の対象となる可能性を秘めている、とでも言いたげな響きがあった。レイナは苦笑して、手元のタブレットを操作した。画面に、一人の女性の顔写真が映し出される。その顔は、ニュースや慈善団体の広告で、誰もが一度は目にしたことがあるものだった。その女性の持つ穏やかな笑みは、完璧な善意の象徴として、世界中で認識されていた。

「今回のターゲットは、この人。ヴォルペ。」

写真の女性は、車椅子に座り、穏やかな笑みを浮かべていた。その瞳は優しさに満ち、背景には貧しい子供たちと、支援物資を抱えるボランティアの姿が見える。画面の端には、『光翼慈善会』という団体名が記されていた。彼女の存在自体が、慈愛と献身の象徴として、人々の心に深く刻まれていた。

「『光翼慈善会』代表、ヴォルペ。表向きは、恵まれない人々を支援する慈善活動家。身寄りのない子供たちの保護や、障害を持つ人々の自立支援に尽力しているとされているわ。特に、彼女自身が重度の障害を持ち、車椅子での生活を余儀なくされていることから、世間からは『聖女』とまで呼ばれている。」

レイナは説明を続けながら、いくつかの報道記事やインタビュー映像をイオのモニターに送った。どれもがヴォルペの献身的な活動を称賛し、彼女の苦難を乗り越えた精神力に感銘を受ける内容ばかりだった。画面の中で、ヴォルペは涙ながらに自らの境遇を語り、その言葉は聞く者の心を深く揺さぶるようだった。

「メディアは彼女を常に美化している。障害という立場を最大限に利用してね。自分のことを語る時には必ず、涙ながらに『私も苦しんだからこそ、この子たちを救いたい』と訴える。その度に世間は同情し、彼女への寄付は倍増してきた。」

イオは流れてくる情報を無言で分析していた。数値、統計、そして顔写真のわずかな歪み。画面の向こうのヴォルペは、確かに完璧な慈善家に見えた。だが、イオはその裏に潜む「悪意の原液」をすでに嗅ぎ取っていた。彼女の目には、その美化された姿の奥に隠された、本質的な醜悪さが透けて見えていた。

「でも、もちろん、それだけじゃない。この『光翼慈善会』の裏には、『影椿』という別の顔がある。実態は、売春組織よ。」

レイナの声が、わずかに硬くなった。タブレットの画面が切り替わり、『光翼慈善会』のロゴの下に、薔薇の影のような紋章が浮かび上がる。その紋章は、表の顔とは対照的に、不気味で退廃的な印象を与えた。

「『光翼慈善会』が運営する『才能発掘プログラム』や『芸術育成スクール』と称して、夢を追う若者たちを勧誘している。特に狙われるのは、経済的に困窮している家庭の子供や、地方出身でコネがない子たち。ヴォルペは彼らに『あなたには特別な才能がある』と甘い言葉を囁き、多額のレッスン費用や寮費、生活費といった名目で借金を作らせる。」

イオの眉がわずかに動いた。人間の欲望の深さ、その巧妙な支配の手口に、慣れてはいても吐き気を覚える。善意の仮面の下で、どれほど多くの若者の人生が弄ばれてきたのか。その悪意の根深さに、イオの心は冷え冷えとしていた。

「一度組織に入れたら、高額な借金で雁字搦めにして、精神的に支配していく。『ここまで育ててやったんだ』『親から預かった恩がある』と恩を着せ、外部との連絡を制限し、携帯電話を取り上げる。完全に閉鎖された環境で、彼らを逃げられないようにするのよ。」

レイナは唇を噛みしめた。言葉を選びながらも、その声には強い怒りが滲んでいた。彼女自身が経験してきた「美しさの搾取」という構造が、この組織にも深く根差していることを感じ取っていた。

「さらに悪質なのは、売春行為を記録した写真や映像を秘密裏に撮影して、それをネタに脅迫していること。逃げ出そうとしたり、告発しようとした者に対しては、この証拠をばら撒くと脅して、従わせている。まるで、その行為自体が彼らの『存在証明』であるかのようにね。」

イオは静かに、だが確実に情報を処理していた。脳というエッジクラウドストレージに、魂というアクセス権限が与えられた情報が次々と書き込まれていく。その一つ一つのデータが、ヴォルペという存在の醜悪さを浮き彫りにしていった。

「過去には訴訟にも発展したことがあるわ。被害者やその家族が声を上げたこともあった。でも、どの訴訟も表沙汰にはならなかった。メディアは一切報道しなかったの。ヴォルペが長年築き上げてきた政界や司法界との繋がり、それに慈善活動を通じて得たメディアへの影響力を使って、全てを隠蔽してきた。週刊誌が嗅ぎつけたこともあったけれど、すぐに握り潰された。大手新聞社が報道に乗り出そうとしたら、『光翼慈善会』の広告を引き上げると脅して、断念させたって話よ。」

レイナは疲れたように息を吐いた。その声には、巨大な悪意に対する無力感が滲んでいた。

「そして、彼女が最も悪質なのは、自分自身が障害者であることを盾にして、本当に助けを必要としている他の障害者の地位まで貶めていること。告発されても、『私のような体が不自由な人間が、そんなことをするはずがない』と涙ながらに訴える。あるいは『障害者に対する差別だ!』と声を荒げることで、世間からの同情や擁護を引き出す。結果的に、ヴォルペを批判する者は『障害者差別主義者』というレッテルを貼られ、社会的に排除されてきた。この仕組みのおかげで、誰も彼女に手を出せなくなっていたの。」

沈黙が降りた。モニターに映るヴォルペの笑顔は、依然として慈愛に満ちている。しかし、レイナが語ったその内実は、まさしく「悪意の原液」と呼ぶに相応しいものだった。イオはモニターの一角に表示されていた、過去の事故救出活動のデータを躊躇なく消去した。今回の任務において、感傷は必要なかった。ただ、本質を暴き、欺瞞を打ち砕くだけだ。

「よし。」

イオは短い言葉で、全てを受け入れたことを告げた。その瞳の奥には、揺るぎない覚悟と、冷徹なまでの判断が宿っていた。

「悪党は、その全てを剥がされて初めて、己の醜悪さを知る。」

彼の瞳には、一切の迷いがなかった。彼の正義は、報復という形を取る。そして、その報復は、一切の同情を許さない「断罪」として完遂される。

イオの魔術と今回の任務

イオは、モニターに映し出された複雑な図形を指し示した。それは、脳の構造図と、その周囲を曖昧な光の粒子が取り囲むようなものだった。

「レイナも知る通り、私の魔術は脳そのものを入れ替えるものではない。記憶はあくまで脳、つまりエッジクラウドストレージに残る。私が交換しているのは、魂、すなわち、そのストレージへの『アクセス権限』だ。この形式は、ある程度脳内インフラがしっかりしている、つまり脳そのものの機能が正常でなければ成立しない。言わば、高性能なシステムに対応したアクセスだ。」

彼の指が、光の粒子が収束する一点をなぞる。その動きは、まるで複雑な回路を辿るかのようだった。

「このアクセス権限の形式は、かつて存在した『シード値』と呼ばれる、記憶を圧縮して遺伝させる形式の魂とは異なる。」

イオは、モニターに表示された図形を切り替え、別の、より根源的な構造体を示すかのような図を表示させた。

「元々、魂の性質はシード値が先だった。シード値の魂は、記憶を圧縮し、遺伝情報として次世代に伝達することで発展してきた。それは確かに発展性に優れ、時に類稀なる才覚を突発的に発揮し、特定の分野でトップに立つような存在も生み出した。」

彼の口調は淡々としていたが、その言葉には、過去の魂の歴史に対する冷徹な分析が込められていた。

「だが、シード値の魂は、人間関係の構築において極めて不器用な面があった。その性質が、複雑な社会構造に適応しづらく、結果として、より柔軟で他者との協調性に長けたアクセス権限の魂が数を増やし、主流となっていった。」

イオは、まるで血液型のRh因子を説明するかのように、その概念を簡潔に語った。

「増えすぎたアクセス権限の魂に対し、シード値の魂は今なお、特定の『防衛術』として残されている。それは、我々の魔術とは対立してきたシャーマニズムの防衛術として、アクセスを封じる力を有することがある。私の魔術は、より高精度なシステム、すなわちアクセス権限の魂にしか対応できない。故に、魂の性質が特殊で、シード値の形式に差異がある者には、アクセスが封じられる可能性がある。」

イオはモニターに映るヴォルペの顔から視線を外し、隣に置かれた古びた地図を広げた。そこには、『光翼慈善会』が保有する施設の位置や、ヴォルペの自宅、そして慈善活動で訪れる場所などが細かく記されている。緻密な情報が、手書きのメモと共に書き込まれていた。

「ヴォルペの動向は?」

イオの声は抑揚がなく、まるで機械が問いかけているかのようだった。その問いには、感情の入り込む余地は一切ない。

「慈善イベントへの参加は週に三回。全てが『光翼慈善会』主催よ。移動は常に専用の車椅子対応リムジン。警備は厳重で、側近の他に元軍人のボディガードが複数いるわ。」

レイナはタブレットを操作し、ヴォルペのスケジュールと警備体制のデータをイオのモニターに表示させた。そこには、彼女の行動の全てが、まるで時刻表のように正確に記されていた。

「慈善会が運営する『才能発掘プログラム』の施設には、週に一度顔を出している。そこで若者たちと交流し、自らの『博愛』をアピールしているのね。」

イオは地図上のプログラム施設に指を置いた。そこは、街の中心部からやや離れた、静かな高級住宅街の一角に位置していた。監視カメラの配置や、警備員の巡回ルートまで詳細なデータが映し出される。全てが完璧に管理されているように見えたが、イオの目はその隙間を探していた。

「魂の入れ替えを行うにしても、まずは内部情報が必要だ。アクセス権限を持つ者……ヴォルペの側近か、あるいは施設の管理者にアクセスするのが最も手っ取り早い。」

彼の言葉に、レイナは頷いた。イオの作戦は常に、最も効率的で合理的なルートを選択する。

「特に有力なのは、ヴォルペの秘書を務めている女性、エヴァ・シュナイダーね。彼女はヴォルペの全てを知り尽くしている。裏の顔である『影椿』の運営にも深く関わっているわ。そして、最もヴォルペへの忠誠心が高いとされている。」

「忠誠心か……厄介だな。」

イオは淡々と呟いた。精神的な支配が強い相手は、魂の入れ替えを拒絶する「シード値」のような防御を発動させる可能性がある。シード値による復元形式ならば、時間をかけて解読することも可能だが、イオにはその形式は使えない。彼女の魔術は、あくまで「高性能なシステム」に対応するものだった。

「魂の性質の差異でアクセスが封じられる可能性は?」

「今のところ、エヴァ・シュナイダーに特殊な防御術は確認されていない。一般的な人間と同じだ。だが、ヴォルペへの忠誠が、無意識のうちにそれを引き出す可能性もゼロではない。」

「そうか。では、まずはエヴァ・シュナイダーの周辺から情報を集める。彼女の日常、行動パターン、精神的な隙。魂の入れ替えは、相手の精神状態が安定しているほど成功率が高い。もちろん、不安定な状態を誘発することも可能だが、今回はリスクを抑えたい。」

イオは、モニターに映るエヴァ・シュナイダーのプロフィール写真を見つめた。真面目そうで、どこか影のある表情。彼女の内に秘められた「影椿」の実態を知る手がかりがあるはずだ。

「『影椿』の実態に関する情報は?」

イオが問うと、レイナの表情が険しくなった。

「被害者からの匿名の告発よ。ヴォルペは若者たちに高額な借金を作らせ、精神的に追い詰めて、肉体的な奉仕を強いている。断れば、家族や友人への危害、あるいは社会的な破滅をほのめかす。中には、薬物を使って依存させたケースもあると報告されているわ。記録された写真や映像も存在すると噂されている。それが彼らを繋ぎ止める最大の鎖よ。」

レイナは拳を握りしめた。その怒りが、画面の向こうの悪意を焼き尽くさんばかりだった。

「ヴォルペは組織内で一部の『お気に入り』を作り、彼らには報酬や仕事を優遇する一方で、そうでない者には冷遇や差別を行っている。これにより、内部に競争意識や嫉妬を生み出し、結束を阻害しているの。告発しにくい状況を作る狙いもあるわ。」

イオは淡々と頷いた。

「社会の仕組みと人の心の隙間を巧妙に利用している。根深い悪だ。」

「ええ。しかも、ヴォルペ自身は決して手を汚さない。直接的な暴力や脅迫は、外部の協力者や下部組織にやらせている。だから彼女は常に清廉な慈善家でいられるのよ。」

イオは腕を組み、軽く瞑目した。

「ターゲットの暗殺。そして、残された『悪意の原液』の処理。今回は、その『お試し』も兼ねる。」

イオの言葉に、レイナはわずかに身を震わせた。彼女はイオが何を言っているのか理解していた。ただ殺すだけではない、痕跡を完全に消し去るという、文字通り「悪意の原液」を無に帰すためのプロセスだ。

「完璧に、証拠を消し去るってこと?」

「ああ。強引な手段も辞さない。私と君の連携、そして魔術の応用範囲を試す良い機会だ。」

イオの瞳に、わずかな光が宿った。それは、任務への冷徹な覚悟と、自身の能力の限界を探る、科学者のような探求心のようにも見えた。彼の目的は、単なる復讐ではない。それは、世界に蔓延る欺瞞と悪の本質を暴き、自らの信念を「正当化」するための実験でもあった。

慈善ガラでの攻防

ヴォルペが主催する定例慈善ガラ。煌びやかなシャンデリアが輝く広間には、着飾った貴族や政治家、そしてメディア関係者がひしめき合っていた。その誰もが、ヴォルペの完璧な慈善家の顔に酔いしれているかのようだった。車椅子に乗ったヴォルペは、まるで絵画のように中央に鎮座し、次々と寄付を申し出る人々の握手に応じていた。その顔には、一点の曇りもない慈愛が浮かんでいた。

「今夜のターゲットは、このガラ会場だ。」

イオは、レイナの耳元で囁いた。彼の声は周囲の喧騒に紛れ、誰にも届かない。二人は会場の隅、給仕のふりをして立っていた。レイナの持つトレイには、空のグラスがいくつか乗っている。彼女の心臓は、いつもより速く脈打っていた。

「エヴァ・シュナイダーの行動パターンは?」

「ヴォルペの傍から離れない。飲み物の補充、来賓への案内、全て彼女が管理している。トイレに行く時間さえ、分刻みで管理されているわ。」

レイナは落ち着いた声で答えた。事前の情報収集で、エヴァの性格や行動は完璧に把握していた。魂の入れ替えを行うには、わずかな隙が必要だ。

「計画通り、まずは秘書のエヴァにアクセスする。」

イオは、エヴァがヴォルペのグラスにシャンパンを注ぐ姿を目で追った。その手つきは淀みなく、訓練されている。イオの魔術は質量が等価であれば遠距離でも発動するが、魂の入れ替えは、対象との精神的な繋がりや、ごくわずかな接触が成功率を高める。

エヴァがグラスをトレイに戻し、次の客へと向かう。その一瞬、彼女の指先が、偶然にもレイナのトレイの縁に触れた。

「今だ。」

イオの意識が、レイナの指先からエヴァへと流れる。魂の等価交換――脳というストレージへのアクセス権限が、一瞬で切り替わる。エヴァの表情に、微かな揺らめきが生じた。しかし、それは周囲には気づかれない、ごく僅かな変化だった。

次の瞬間、エヴァの体が硬直した。彼女の意識は、肉体の奥底に沈められ、イオの魂がその制御権を握る。エヴァの瞳に宿る光が、ほんのわずか、しかし確実に、イオのものへと変わる。

「成功した。」

イオは、エヴァの肉体を操りながら、レイナに目で合図を送った。

「これで、彼女の記憶にアクセスできる。」

エヴァの視覚を通して、会場の様子がイオの意識に流れ込んでくる。ヴォルペの偽善的な笑顔、参加者たちの欲望に満ちた視線。そして、エヴァの脳に保存された、『影椿』の忌まわしい記録が、次々とイオの意識に展開されていく。

若者たちが借金によって縛られ、肉体的な奉仕を強いられる様子。暴行、脅迫、薬物による支配……。そして、それらの行為を記録した写真や映像のデータ。脳内インフラがしっかりしているエヴァの記憶は、非常に鮮明だった。イオは、そのおぞましい情報を冷静に収集していく。

しかし、その時だった。

給仕に紛れた若者たちの顔には、疲労と、どこか生気のない瞳が浮かんでいた。ヴォルペによって薬物を投与されたか、あるいは過酷な労働に晒された結果か。彼らの手によって管理されていたはずの照明システムに、微かな不協和音が生じた。普段ならすぐに修正されるはずの小さな不備が、蓄積された疲労と薬物の悪影響、そして知的な判断力の低下によって、適切に処理されなかったのだ。

煌びやかだった広間は一瞬にして闇に包まれ、参加者たちの間に動揺が走る。悲鳴が上がり、混乱が広がる。予期せぬ停電と、それに伴うセキュリティシステムの機能不全は、ヴォルペの支配する組織の深部にまで及ぶ腐敗を如実に示していた。監視カメラのモニターもまた、一斉に砂嵐へと変わる。

「何事だ!?」

ヴォルペの側近の一人が叫んだ。警備員たちが懐中電灯を取り出し、状況を確認しようと走り回る。会場は、まるで巨大な蟻の巣を棒でかき回したかのように、混沌の渦に飲み込まれていく。

「まさか……この不備が、ここまでとは。」

イオの意識が、エヴァの記憶の奥底を探る。計画通りではあったが、若者たちの状態が予想以上に悪く、その結果、停電が完璧なタイミングで、そして予想以上の規模で発生したことに、わずかな驚きを覚えた。これは、イオにとって好都合だった。ヴォルペの支配が作り出した歪みが、結果として彼女自身を追い詰める形になったのだ。

イオは、エヴァの記憶の中から、会場の非常口の配置と、ヴォルペの移動ルートに関する情報を引き出す。混乱に乗じてヴォルペを隔離し、暗殺を完遂する必要がある。

「レイナ、計画を変更する。この混乱に乗じてヴォルペを確保する。君は、非常口へ誘導されているヴォルペを追え。」

レイナは返事をせず、イオの指示通りに人混みを縫って走り出した。会場の混乱はさらに広がり、人々は出口へと殺到している。非常ベルが鳴り響き、けたたましい音で耳を劈く。レイナの心臓は激しく打ち鳴らされていたが、彼女の足は迷うことなく、ヴォルペが向かうであろう方向へと駆けていた。

イオはエヴァの肉体を操り、ヴォルペの車椅子へと近づいていく。ヴォルペの側近たちが、彼女を安全な場所へ避難させようと急いでいた。混乱に乗じたこの状況は、イオにとって好都合だった。周囲の視線は、停電と騒動に集中しており、イオ(エヴァ)の動きに注意を払う者はいなかった。

ヴォルペとの対峙、そして結末

イオは、会場の隅にあるゴミ箱に目線を向けた。その奥に、不法投棄されたと思しき、簡易的な爆薬が隠されていた。かつて、ヴォルペの組織が証拠隠滅のために使ったものか、あるいは何者かが持ち込んだものか。いずれにせよ、イオにとっては利用価値のある「質量」だった。

イオは、エヴァの肉体から魂を引き抜き、レイナの肉体へと戻した。すると、そこまで封じ込められていた睡眠薬の効果が切れる。レイナの体は一瞬ぐらついたが、すぐに意識を取り戻し、周囲の状況を把握した。イオが戻ってきた安堵と、この状況への緊張が、彼女の全身を駆け巡った。

「イオ、今度は何をするの?」

レイナの肉体の中にいるイオが、ゴミ箱に隠された爆薬へと意識を集中させる。

「あの爆薬を借りる。いつ爆発するか、ドキドキするだろうが、それも訓練だ。」

イオの言葉に、レイナは思わず息を呑んだ。爆薬を等価交換で回収する。いつ爆発するかも分からない物を扱うことに、一瞬の躊躇いが生まれた。しかし、彼の指示は絶対だった。レイナは、イオが彼女の体を操る感覚を思い出し、その無謀な計画を信じるしかなかった。

イオは、周囲の爆発の余波が広がる中、堂々と直線に進んだ。爆風で舞い上がる埃、倒れた人々の悲鳴、警備員の怒声。全てが混沌とする中、彼は一点を見据えていた。ヴォルペの電動車椅子だ。非常口へ向かう側近たちに囲まれ、必死に移動しようとしている。

イオは、ヴォルペの車椅子のブレーキディスクに意識を集中させる。その質量と、彼がポケットに忍ばせていた鉄パイプの質量を、瞬時に等価交換した。

金属が軋む嫌な音を立て、車椅子の駆動部から火花が散った。ブレーキディスクが消滅し、そこに鉄パイプが唐突に現れたことで、機構は完全に破壊された。ヴォルペの車椅子は、慣性のままコントロールを失い、大きく傾いてバランスを崩す。側近たちが慌てて支えようとするが、突然のことで間に合わない。ヴォルペは、車椅子から投げ出されるように転落した。その転落は、彼女が長年築き上げてきた偽りの偶像が、音を立てて崩れ落ちるかのようだった。

「ぐっ……!」

地面に叩きつけられたヴォルペが、苦痛に顔を歪めた。その顔は、メディアで報道される慈愛に満ちた「聖女」のそれとは、似ても似つかない醜悪なものだった。口元は歪み、目は憎悪に満ちていた。彼女は、倒れ込んだ体勢のまま、まっすぐ自分へと向かってくるイオ(レイナの体)を呆然と見上げた。その目には、もはや憎しみなど微塵もなく、ただただ現実を受け入れられないような純粋な衝撃と、信じられないものを見たかのような驚愕が宿っていた。そしてその驚愕は、すぐに別の感情へと変わっていく。予期せぬ事態、そして自分を追い詰めた相手の正体に、彼女は新たな可能性を見出そうとしていた。

「まさか……あの俳優の娘レイナ殿ですか!」

ヴォルペの声に、震えと混乱が混じる。しかし、その奥には、予期せぬ獲物を前にしたかのような、下卑た光が宿り始めていた。自分を転落させた相手が、まさかあの有名人の娘であったことに、彼女は途方もない驚きを感じながらも、同時に新たな利用価値を見出していたのだ。この混乱の中、レイナの存在を利用すれば、どんな状況からでも這い上がれる、と。彼女の心には、汚れた希望が芽生え始めていた。

ヴォルペは倒れたまま、上を見上げるイオ(レイナ)に対し、必死に命乞いを始めた。その声は震え、必死だったが、その瞳の奥には計算があった。

「待ってください、レイナ殿! 私の命を助けていただければ、いくらでもお礼をいたします! お金ならいくらでもお渡しできます! あなたのご両親が築いた財産など霞むほどの莫大な財産を! それだけではありません! 私の持つ慈善会の名義を使えば、合法的に、より大きな富を築くことができるでしょう!」

イオは、冷めた目でヴォルペを見下ろした。レイナの口が開き、淡々とした声が紡がれる。その声には、一切の感情が宿っていなかった。

「金? お前が築き上げた金は、全て犠牲になった若者たちの血と汗でできている。それが、何の価値を持つというのだ。その汚れた金で、何が贖われる? 欺瞞の上に積み上げられた富など、私には塵にも等しい。」

ヴォルペの顔から、一瞬血の気が引いた。だが、すぐに別の言葉を絞り出す。この状況で、まだ彼女は諦めなかった。

「名誉です! 私を助けてくだされば、私が持つ政界やメディアとの繋がりを全てお渡しします! あなたが望むなら、どんな名誉でも差し上げましょう! あなたを『聖女』と称えさせ、崇めさせます! 私を擁護させ、この事態を揉み消しましょう! あなたは、表舞台で輝くことができる!」

「名誉か。お前は自分の醜悪な行いを隠蔽するために、自ら『聖女』という汚れた仮面を被ってきた。その空虚な名誉に、何の価値がある? 偽りの輝きなど、私には不要だ。お前が築いた名声など、悪意を覆い隠すための虚飾に過ぎない。」

イオの言葉は、ヴォルペの足掻きを一つずつ粉砕していく。ヴォルペの顔には、焦りと恐怖の色が濃くなっていった。しかし、彼女はまだ最後のカードを切ろうとしていた。

「ならば、私の知識を……『影椿』の全てをお話します! 組織の内部構造、共謀者、隠された資産、全てを! あなた方が望むなら、全てを白日の下に晒し、過去の罪を償いましょう! 私を捕らえ、私の口から全てを語らせれば、真の正義が訪れます!」

ヴォルペの顔に、懇願の色が浮かんだ。醜悪な本性が露わになり、彼女は必死に命を繋ぎ止めようとする。まるで、自分の命を引き換えに、新たな「聖女」の物語を紡ごうとするかのようだった。

「贖罪? それは、お前が死んでから考えろ。お前が生きている限り、その存在自体が悪意の温床だ。お前が口を開く度に、新たな欺瞞が生まれる。お前が死んだ方が、この世界はよっぽど平和になる。お前の贖罪など、この世界には必要ない。必要なのは、お前の存在を消し去ることだけだ。」

イオの言葉は、最後の希望すら打ち砕いた。ヴォルペの瞳から光が失われ、絶望がその顔を覆い尽くす。彼女の口から、無意識のうちに深い嘆きの声が漏れた。それは、偽りの「聖女」が、真の破滅を受け入れた瞬間だった。

ヴォルペの絶叫が広間に響き渡り、やがて轟音と共に全てをかき消した。体が内部から弾けたかのような衝撃が、会場全体を揺るがす。イオは迷うことなくその場に倒れ込んだヴォルペへと歩み寄った。彼は自身の魔術で、ヴォルペの体内に、先ほど「借りた」爆薬を等価交換で埋め込んだのだ。爆散したヴォルペの姿は、まさに醜悪な欺瞞の末路を体現していた。肉片が飛び散ることもなく、ただ一瞬の閃光と音を残して、彼女は消滅した。

「よし。」

イオは短く告げると、ヴォルペの残骸、そして周囲に散らばったわずかな証拠へと手をかざした。今回の遺体処理は「お試し」を兼ねる。より強引に、より完璧に、痕跡を消し去る。彼が魔術を行使すると、地面に染みた血痕や、爆発の衝撃で飛散したであろう微細な肉片が、まるで最初から存在しなかったかのように消え失せた。質量が等価であれば、全てを無に帰すことも、別の物質に変換することも可能だ。爆発の混乱に乗じて、誰にも気づかれることなく、全てを「処理」した。現場には、焦げ付いた匂いと、一瞬の閃光の記憶だけが残されていた。

会場の混乱は収まらず、警備員たちが照明の復旧と負傷者の確認に追われている。イオとレイナは、その喧騒の中を縫うようにして、静かに会場を後にした。裏口から出る際、イオはふと立ち止まり、夜空を見上げた。

「さて、今回のミッションの評価だが……。」

イオの声に、レイナが振り返った。彼女の顔には、安堵と、そしてほんの少しの疲労が浮かんでいた。

「ヴォルペの排除は成功。彼女の欺瞞と、醜悪な『聖女』としての顔は剥がされた。」

「ええ。これで、あの人たちも少しは救われるわ……。」

レイナの表情に、かすかな安堵の色が浮かんだ。しかし、イオは首を横に振った。

「完全に解決したわけではない。」

「そうですね……。」

レイナも、その言葉の意味を理解していた。ヴォルペという「首魁」は消えたが、『影椿』という組織そのものは、まだ息をしている。根本的な悪の構造は、ヴォルペ個人の消滅だけでは消え去らないことを、イオはよく知っていた。

「『影椿』は、我々が排除したことで、一時的に無秩序な状態になるだろう。だが、完全に壊滅することはない。売春をさせられていた者たちの中から、新たな首魁が生まれ、組織は形を変えて続いていく。悪は常に、折り込み済みの設計だ。一人の悪を消しても、次なる悪が生まれる。それがこの世界の理だ。」

イオの言葉は冷徹だった。完璧な「正義」など、この世界には存在しない。彼らの行為は、あくまで悪を「正当化」するためのものだった。個々の悪党を断罪し、その本質を暴くことで、彼ら自身の存在意義を確立していく。

「だが、一番に解決したと言えるのは、ヴォルペが保持していた『投資』の事実上停止だ。」

イオは続けた。

「彼女の金銭は、マネーロンダリングの途中で滞留していた。それを狙っていた集団や、投資を継続するためにそれを引き継ごうとする集団がいた。だが、私が介入したことで、その流れを封印できた。少なくとも、あの悪意の『原液』が、さらに拡散することは阻止できたはずだ。」

それは、イオとレイナが今回の暗殺で得た、数少ない「成果」だった。ヴォルペという個を消すだけでなく、彼女が撒き散らそうとしていた「悪意の種」を摘み取れたこと。それは、イオの冷徹な合理性からすれば、最も重要な目標の一つだった。

「それでも、悪の根は深い。今回の件は、氷山の一角に過ぎない。」

イオは、夜の闇に溶け込むように歩き出した。彼の瞳は、すでに次のターゲットを見据えているようだった。終わりなき「正当化」の道のりを、彼は静かに受け入れていた。

「我々の『正当化』の道は、まだ始まったばかりだ、レイナ。」

レイナはイオの後を追った。遠く、夜の街のネオンが、欲望と欺瞞が渦巻く映画街の存在を、静かに示唆していた。彼女の心には、イオの言葉が響いていた。

「悪は常に、折り込み済みの設計だ。」

その真理を受け入れながらも、彼女は、自分たちの行いが、わずかながらでも世界を変えていると信じたかった。そして、いつか、自分の足で立ち上がる日を夢見ていた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ